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この人を弁護する!

5紋章官:2020/05/22(金) 19:01:22
東京圏はまだ緊急事態宣言のまま。なんとか近所を散歩するときくらい、マスク無しで済ませたいところです。肌が弱いのでかみそり負けで荒れや腫れるのは
ざらで、こんなにマスクをしていたことがなかったので、ちーと、頬あたりで擦れて毛穴が少し赤くなっていたりする。困ったもんです。

さて唐突書き込み、この人を弁護する!「麒麟がくる」編。だーれを取り上げるかといえば、朝倉義景。せっかく今川義元さんはしかるべき雰囲気と扱いで安堵して
いたら、かわりに朝倉義景さんがあの扱いとは。不憫です。なるほど、激動の時期に不向きな人物だったことは確かでしょう。しかしながら、戦国の最中、堅実に
越前一国を堅守していた人です。もちろん、初期には朝倉宗滴という傑出した長老が重きをなした事での安定だったにしても、その後、それこそ本当に最後の時期に
なるまで内部抗争もなく、他国に深く攻め入られる事もなく、出兵を控えて領民に重税や動員の負担をかけなかったとみれば、誠に名君。
それこそ領国拡大や派兵で一見、華やかな戦果を誇っても、一方で領民が負担で喘げば、何をいわんやとなります。この辺り武田信虎や一時期、武田信玄も陥った
失敗であり、小田原北条氏でも領内農村へ軍役負担軽減の例など見ればわかるところ。それこそ紹介されていませんが織田領内でもどうだったのでしょうか?
おそらく朝倉義景はよく言えば慎重な専守防衛主義者。悪く言えば優柔不断、おそらく自分が戦乱の時代に向いていない事を認識していた故に考えすぎて機を失う
方だったのでしょう。あとは今川氏真同様、相手が悪かった。まあ、私が同じ立場なら、同じだったかもしれません。自分が向いていない事を認識して、出兵は控え
領内安定と専守防衛に努める。一方で逃げ込んでくる足利義昭や公家たちの生活は困らないようにしかるべき扱いをする。そして領内安定により城下町一乗谷は、
公家や宣教師の記録と発掘調査から、大変な繁栄をしていたことが判ります。
優柔不断、文弱というよりも、変に領国改題の戦費負担などに苦労するよりも専守防衛に徹して領内経営にあたり、その豊かさを守ることを中心に置くほうが
賢明と考えるでしょう。昨今の研究で北近江浅井氏との関係は、どうも同盟というよりも主従関係に近かったとの説が出ており、その事で南部国境は安定、若狭武田家
は弱体内紛で優位。琵琶湖西岸の六角氏は浅井氏が牽制して、朽木氏などをクッションに距離を置き、あとは手ごわい加賀一向一揆との国境紛争に専念。
この加賀との抗争はかなり負担で朝倉宗滴も死の直前まで、この方面に出陣していたほどですから足利義昭を擁しての上洛が出来なかったのも、この一揆対策に
追われていたから、と言われます。それでも、国境紛争で抑え込んでいたのですから、越前全体の安定は担保されていたわけです。
何かと滅亡者、敗者を暗君、愚君と扱いますが、そろそろそういう見方を捨てて描けませんかねえ。それでは


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