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読書が好きや!!

1kn:2006/01/23(月) 01:04:45
本を読んだら報告するところ。積ん読はあかん!!

青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/

青空文庫携帯
http://novels.bookstudio.com/i/

47kn:2006/06/15(木) 01:04:28
マルチチュード 上 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 NHKブックス
アントニオ・ネグリ (著), マイケル・ハート (著), 幾島 幸子 (翻訳)
ttp://biblia.hp.infoseek.co.jp/g/gs44.htm
ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4140910410/503-7913815-4072733
とりあえず上巻読んだ。
前半はマルチチュードという概念の解説、戦争のスタイルの変化の構造など。
後半はマルクス(「主義」ではない)の思想を根幹に現代のグローバリズム権力に対する民主主義の形態を提唱している。
群知性とか分散型ネットワーク構造とか、ネットワーク科学的な言葉も出てくる哲学書といった感じ。
前作「帝国」も読んでないし陳腐な感想しか書けないが刺激的な内容だったので下巻も読んでみたい。

48kn:2006/06/20(火) 20:29:14
「芸術人類学」 中沢新一 みすず書房
ttp://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4622071894.html

ここ数年のいろいろな場所で発表された講演のオムニバス的構成となっている。
対象性人類学の延長線上として、レヴィ=ストロース等の構造主義を中心に、
バイロジック(対象性/非対称性の複論理)で動く現生人類の脳、それが生み出した思想の仕組みを説く。
一つのテーマで直線的に展開していくスタイルではなく重層的な思考の断面という印象を受けた。
文章は難解ではないが、自分の場合あらかじめ前知識が不十分で文脈を理解するのがしんどい部分もあり。
読みやすいと感じる他の本よりも生々しい興味深さはある。
タイトルに芸術と入ってるがこの本では芸術論的な具体的に突っ込んだ部分は少なく感じた。
今後展開していきますよという感じなのかな。

49kn:2006/06/21(水) 01:51:23
〜↑の続き〜
読み終えてしばらくして「これはメチャクチャ面白いゾ!」という感想が湧き上がって来る本ですなぁ。
特に面白いのは「公共とねじれ」カミロ・ジッテによるヨーロッパの広場の設計様式に関しての部分、
たいてい広場の中心は何も置かれずフリーな空間として残されていて、教会などの建物は他の建物に
接する形で広場から少し離れたところに置かれている。
公共建築としての教会ならば中心にあってもよさそうなものだが・・・というところから考察が始まっていて、
対称性の理念的トポロジーであるトーラス(ドーナツ型)と非対称性のトポロジー、メビウスの帯を連結した形が
広場の設計のモデルとしてあるのではないかといっている。
つまり教会は人間が生活する秩序空間である社会を構成するための非対称性思考が、それによって抑圧されている無意識=対象性思考とのゲートの役割を
になっており、教会を広場の中心に置くとあまりにも動きようのない権力化がはじまるのを避けて、あえて周辺に位置させ中央を空けておく「公共空間」としてノではないかという説。
続く「十字架と鯨」ではマシュー・バーニーの日本で撮影された映画について、彼の創作の一貫したテーマである「拘束」とは何か。
キリスト教圏では自然人キリストを人間たちが十字架に打ち付け拘束する、という図が象徴としてある。
西欧文化は多様に流動し形態を変え続ける自然に「拘束」を人間が加えることで構築されている。芸術もしかり。
逆に人間が拘束できない存在(人間と動物の合体したもの=本来ありえない、狼男とかドラキュラとか)が忌むべき悪魔として描かれ、十字架をかざす(拘束を加える)ことによって退治される。
(ここは俺の考え)庭園における水も西洋では噴水として重力に反する形で拘束されコントロールされる。
日本では下から上に水を噴き上げるなどの感覚を良しとせず、その自然な形態をどう見るかが趣きあることとされる。
日本文化の形態としては「形から入る拘束」はあるが、西洋の拘束の考え方とは違い、そこから生じる芸術も同じものではない。

あと最後の「友愛の歴史学のために」で、
(引用)「家には広島や長崎やビキニ環礁における原水爆の惨状を記録した、たくさんのスライドが保管してありました。
学校の講堂などでおこなわれる集会で、幻灯機にかけてみんなに見せるためのものでしたが、私はそれをこっそり一人で押入れに隠れて見続けたあげく、恐怖のあまり真っ青になって押入れから這い出してきました・・・」
ここは一人でそんなの見るなよwと。

50kn:2006/06/27(火) 07:03:29
「トポロジーの発想―まるとさんかくを同じと見ると何が見えるか」 川久保 勝夫 講談社ブルーバックス
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062570769/sr%3D8-1/qid%3D1151358018/ref%3Dsr%5F1%5F1/503-7913815-4072733

トポロジーというのは位相幾何学のことで、もののかたちの特定の部分に注目したとき、同じ構造を持つものを同相ととらえる。
例えば自由に引き伸ばして大きさを変えられるゴム膜であれば、○も△も同じように重ね合わせることが出来るが、
穴の開いたドーナツ状の図形は変形しても重ねられない。
そういった違った量を捨象して質に注目する考え方が、宇宙・異次元を頭の中でイメージするうえで重要。
CGではピクセルの数量=解像度というビットマップのデータではなく、点と線の曲がり具合によって図形を描くベクターデータはトポロジー的である。
映像のデジタル化は2次元→0次元(0/1の点)→2次元の変換がなされている。
データが軽く劣化しないという扱いやすさによって"量"の価値がどんどんなくなっているともいえる。
部分と全体(ローカル/グローバル)の相関を見る発想ということでいろいろな示唆に富んでいるように思う。
案内書ということでかなり平易に解説してあるが、この考え方を深く理解すれば物事の本質を見極めるのに役に立ちそう。

51hr:2006/07/04(火) 22:41:58
動く渋龍
http://www.youtube.com/watch?v=ziyXNddgyhE

52kn:2006/07/04(火) 23:55:21
走る取的

53kn:2006/07/07(金) 00:01:53
マルチチュード 下 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 NHKブックス
アントニオ・ネグリ (著), マイケル・ハート (著), 幾島 幸子 (翻訳)

下巻はグローバリズムに対抗する民主主義形態の実践編の導入部といった感じ。
現代の民主主義-代表制の欺瞞を説き、マルチチュード実現には「全員による全員の統治」が要諦であるという。
上巻の最初にこれは哲学書であるとあったけれどもなかなか一度読んでも理解しがたい部分が多い。
帝国-マルチチュードに続く次の書物で完結を見る三部構成らしい。次回はもっと解像度の上がった実践論になるのだろうか。

54kn:2006/07/13(木) 22:21:57
「サウンドスケープ その思想と実践」鳥越けい子 鹿島出版会
http://www.walkingtune.com/soundscape.html

カナダの音楽家マリー・シェーファーが提唱したサウンドスケープについての本。
人間が受け取る情報のほぼ9割以上を視覚に頼っている。文明化が進むほどこの傾向が高まっている。
本来「風景」という言葉には視覚情報のほかに音や気配、触覚で感じるものなど豊潤な感覚を含んでいたはずだが、
いまでは景観のみをイメージすることが多いのではないか。
騒音とはそこにあるにもかかわらず人間が注意を向けなくなった存在である。
聴くべき音はコンサートホール(今ではCDとかipod)の中にあり、コンサートホールの外にある音が聞くべき価値の低いノイズとして分離されてきている。
近所の川を汚染しておいて美術館に列をなすのと同じ傾向である。
いままで行き来自由だった領域に仕切りを設けることによって価値のあるものとないものを選別するのが西洋文化の発想。
サウンドスケープデザインとは空間に従来型のオブジェを設置するなどの行為ではない。
現代の都市のサウンドスケープは、その土地固有の標識音、記号音などはどんどんなくなり、グローバル化された均一な音風景になりつつある。
人々の意識を再びそこに向けようとする試みなのだ。

55kn:2006/07/13(木) 22:32:56
「身体感覚を取り戻す 腰・ハラ文化の再生」斉藤 孝 NHKブックス

斉藤孝、正直好きじゃないのだが内容だけ見て著者をよく確認せずに買って来てしまった。してやられた。
身体感覚、特に体の中心である臍下丹田の感覚が希薄になりつつあるというところから始まる。
昔の日本は「型」の文化だといわれていたが、戦後「型」というものに対するネガティブなイメージによってほとんど死に絶えつつある。
アメリカなどのファッションや音楽などカウンターカルチャーはメインカルチャーがあることを前提としてのカウンターであったが、
日本は伝統的な「型」を失った状態に自由という概念だけを輸入してきたため身体の中心的感覚が乏しい。
身体論の話から呼吸法や自己形成論などに展開していく。
なんか1日で読んだれ!と思って読めた。まぁ構成とかいろいろな文献からおいしい部分を引っ張ってきて展開していく巧さはある。
あまり好き嫌いで偏らず乱読したほうが良いのだろう。

56kn:2006/07/27(木) 04:19:22
「アースダイバー」 中沢新一 講談社

現在の東京の地図上に縄文海進期の地形(洪積世、沖積世)を重ね合わせてみると・・・
芝の東京タワーがタナトスの塔であるとか(TV局の電波等がある場所の共通点は?)、森ビルによる買収が進む六本木周辺の抗する力、
首都の中心である皇居の象徴天皇的空虚さ、どの部分も人類学的フィールドワークと精緻な分析が冴える。
歌舞伎町が歌舞伎座が無いのになぜそういう名前かとか、銀座の成り立ち等読んでるだけでワクワクするね。
豊富な写真とアースダイビングマップ付きなので観光もいいがいっぺんこれを読んで東京散策してみたいと思う。

57um:2006/08/12(土) 11:07:17
歌舞伎町にはコマ劇場がアリアス

58kn:2006/08/12(土) 17:27:35
「世界の調律」R.マリー・シェーファー/著 
鳥越けい子 小川博司 庄野泰子 田中直子 若尾裕 平凡社
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31708139

サウンドスケープとは音風景のことである。
風景をイメージしてくださいというと視覚的環境=景観がまず先に来ることが多いと思う。
聴覚、触覚、臭覚、味覚など視覚以外の感覚によって得られる豊穣な情報も風景の中に含まれているのだが
文明化というのはますます情報を視覚に依存するもので9割方は目から入ってきた情報による。
音楽で使われる音(=楽音)はノイズ(=非楽音)に含まれ、楽器というのは特定のピッチ・ボリューム・音色を
コントロールできるようにしたものに他ならない。
騒音とは人々が音に対して無関心になった結果生じてくるものであり、価値のある物とないものに切り分けて扱うようになったことにより
戸外に不要なものとして追いやられた音であるといえる。
コンサートホールやステレオ、ipodなどハイファイ化を叫んでいるが、実は音楽を聴くための器具や環境以外のところでは
全体としてはローファイ化している。様々な聴きたくもない音が混ざり合って不快な相互干渉をしていることに人々は無関心である。
著者は建築家やサウンドデザイナーの意識の低さを批判し、イヤークリーニングという聴能形成のプログラムを提唱している。
様々な国や地域でのフィールドワークで得たデータをもとに書かれているが、地域や民族によって同じ音でも快・不快の印象がかなり異なるところも興味深い。

59kn:2006/08/19(土) 01:12:04
「食」の課外授業 西江雅之 平凡社新書

人間にとって「食べる」とはどういうことか?
「食べ物=食べられるもの」ではない。たとえば飲食店で食べ残したものは、全く箸がつけられていない状態でも、
客が一度席を立った時点で残飯となり、物質的に変化していないにもかかわらず食べ物ではなくなる。
寿司にジャムを塗ったり、納豆を乗っけたフランスパンは食べない。
喉が渇いていなくても、空腹でなくても人間は「食べる」。
神戸コロッケなど地名をつけることによる付加価値。
場所や時間、同席する人によって適する食べ物と適さない食べ物が変化する。
文化人類学の視点から食というものを考えるきっかけになる本である。

60um:2006/08/21(月) 12:19:24
チャウ・シンチー「食神」

61kn:2006/08/21(月) 21:52:58
「「砂糖は太る」の誤解〜科学で見る砂糖の素顔」 高田明和 講談社ブルーバックス

砂糖を取ると太る、糖尿病の原因は砂糖、キレる脳の原因は砂糖など全部誤解というか嘘っぱち。
カロリーに関しては同量のそば粉やご飯と同じ程度しか含まれない。
脳の栄養素はブドウ糖が唯一のもので、切らすと脳は死ぬ。
糖分が補給されないと頭が悪くなる、食欲が抑制できないのでより食って太ることになる。
タンパク質をとっても糖分が補給されないと吸収されにくくなる(食後のデザートは理にかなっている)。
虫歯も歯垢が原因で砂糖は直接の悪さはしていない。
とにかく砂糖を減らせば減らすほど良いなどと考えるのはまったく愚かで、むしろ適正に採りなさいと。

昔、砂糖は貴重でなかなか庶民の口に入らなかったというのもあるが、儒教の精神「良薬口に苦し」等の
甘いものが体に良い影響与えるはずはない、といったショウもない考えに知らず知らずのうちに洗脳されてるのだ。
砂糖に限らず科学的、客観的な視点でちゃんと見極め自分の頭で判断することがいかに重要かということがあらためて分かる。

62kn:2006/08/23(水) 20:59:53
「ゾウの時間ネズミの時間-サイズの生物学」本川達雄 中公新書

動物の身体のサイズによって機敏さや呼吸の回数、食事の分量などが違う。
時間というものは万物に対して同じものさしで平等に適用されているというのが常識だが、
この本では生物それぞれに時間の流れがあり、基本的には一生に心臓が20億回鼓動して止まり、3億回呼吸して死ぬ、
ということに変わりはないという。
このことは対数というもので示される。音の世界でデシベルという単位があるが、これも対数で2倍、3倍と同じ間隔で増えていくわけではなく、
数字が増えるほど増え方が大きくなる。
幾何学的には巻貝の形も対数螺旋である。巻き数が大きくなるほどひと巻きの幅が増加していく。
生物の生息密度と個体の行動範囲もこれを当てはめるとほぼ似たような結果になるという。
ただし、人間、とくに日本人の場合はサイズから予測される生息密度のじつに230倍もの密度で生息している。
外国人が昔「ウサギ小屋」などと評したがこれでも褒めすぎで、ネズミくらいの大きさの生物並みと同等だという。
ウニやヒトデ、ナマコなどの生態について後半言及しているが、結局海の中ではああいった生物が一番良いところでゴロゴロしている。
他の生物は捕食者=敵を絶えず意識してビクビクしながらエサを探して汲々としてるわけだが、彼らは捕食者にとって一番うまい臓物などは内部に、外側は
骨のような硬い組織でなおかつしなやかな表面で外から食ってもマズイだけ。
硬く閉じた貝などにもまとわりついて消化液を出し1日くらい掛けてチューチューすする。
一般には噛み砕いて内臓でやるべき仕事を身体の外でやってるわけである(体外消化)。
ヒトデなどは敵が来ていざとなったらカンタンに組織を自切して逃げてまた再生。
人間サマが高い金払ってリゾートの海辺行ったら浜辺はナマコだらけ、みたいな状態で、
「なんであんな何も考えてなさそうなのが一番いい所でゴロゴロしてるんだ!ケシカラン!」
というような感覚があり、今まであまり好意的に見られてこなかったし他の生物より生態の研究もされてきてないという。
911テロ以降、人間同士でも頭が固いモンどうし信条とかお互いの時間間隔など全く理解できないが、ヒトデとかその辺に学ぶときが来ているのではあるまいか?

63kn:2006/09/02(土) 03:20:36
「食べる人類誌-火の発見からファーストフードの蔓延まで」フェリペ・フェルナンデス=アルメスト 早川書房
古今東西の食文化・食の世界史を分析した本。

TVなどで高級食材やグルメが消費するための情報は過剰に流される一方で
「食べる」ことの本質的な意味や、どういったしくみで食文化が成り立っているか、
というような事については食べる側はあまり考えなくて済むようにしてきたように思うのですよ。

R・マリーシェーファーが「世界の調律」という本で「騒音とは人々が音に無関心になった結果生じたもの」
であり、現代ではオーディオ装置など個別のHi-Fi化は進んでいるが、価値の選別が行われた結果、
全体の音環境としてはかなりLo-Fi化していると言っていましたが、食文化にも同じ傾向があるのかも。

拒食や不食といった現象は20世紀音楽におけるジョン・ケージのサイレンス、
あるいは映画における「ブレアウィッチ・プロジェクト」のようなものだとこの本の著者はいう。
確かにそういった「成熟病」は皆うすうす感じているのだろう。
おいしいもの、高級なもの、ドンドン欲望を煽られてアレも食べたいコレも食べたいという感情と、
ダイエットしていかにスリムで健康に(=いかに食べていない、欲のない人間ですよと演出するか)と言うノウハウ、
金持ちがこれ見よがしに成金趣味全開にするのは多少気が引けるが、他の人と同じにみられてはイヤ!
さりげなくリッチさを演出したい、というような、かなりねじれて相反する欲求が社会に渦巻いているように思う。
昔のブルジョア貴族は、太っている=おいしいものを過剰に食っている証拠、と言う事でブレーキは完全に機能していなかった、と言う事が
食文化の歴史を見ればよく見える。
毎日肉を27キロ、ワインひとツボ飲むとか、たらふく食った後、窓から下のコジキに残飯を投げてやる喜びよ!!とか。
あきれるの通り越してどちらかと言えば氏ねという感じだが、今は見えにくいだけで同じブルジョア・マインドを持つ層は多いんでしょうな。

64kn:2006/09/07(木) 22:23:14
「ブライアン・イーノ」エリック・タム著 小山景子訳

音楽学者によるブライアン・イーノの研究本。作品に込められた思想をイーノの発言を元に解明している。
いろいろと興味をひかれる言葉があるけど、ロマン主義的なもの(具体性のある歌詞や情緒的旋律など)
を嫌う傾向というのは音響派の人に結構共通している感覚だと思った。
物語的な大げさな(ベタな)構成とかあまりに感情に訴える方向に走ると、
聴く人はストーリーを追う事に気をとられ、いま起きている音の現象そのものは意識しなくなってしまうというような事が書いてあり、
とても共感できた。
あと、「ディスクリートミュージック」は製作中に電話がかかってきたり他の用事しながら録音されたものだというエピソードが面白かった。

65kn:2006/09/16(土) 22:29:11
「日本の歴史を読み直す(全)」網野善彦 ちくま学芸文庫

小学校からの教育で日本の歴史について結構な時間をかけて学習するが、
たいていは鵜呑みにしていて批判的見方で検証する事無しに正しい事だとイメージを作り上げている。
とくに明治維新以降〜の近代日本については興味を持って語られる事が多いが、
縄文時代から中世、戦国時代に入るまでにどのようにこの国が形作られたか、正しく検証されているのか?というところがこの本のテーマ。
そもそも日本という国号や天皇が出てきた流れなど意識を向けてみるとおもしろい。
「穢れ」というタブーの概念、それにかかわる人々(非人など)について、社会の中での女性の位置と意識の変化や、
「百姓」とはどういった人だったのか?(百姓=農民という一般的に広まっている公式は大きな間違いで商人や職人的な役割の百姓もむかしから多く居た)
中世は荘園を中心とした律令制、封建社会だったと習ったが、すべてがそれに当てはまるかといえば正しくない部分が多く、江戸時代頃に現代のような認識が作られたままきているものもある。
「士農工商」等といったことばも重商主義的な考えが農本主義に勝っていたから均衡をとろうといわれた言葉であるし、
バラつきがあった日本を、外国との戦争のため団結する必要が出たからこそ一元的な統治権力が現れたとの見方も出来る。
同じ史料を見ても結論ありきでのゆがんだ見方を修正し、逆の可能性を引き出すようすが見て取れて面白い。

66名無しさん:2006/09/18(月) 02:40:24
昨日一日で「わたしのグランパ」と「星の王子さま」

67:2006/09/18(月) 02:47:16
昨日一日で「わたしのグランパ」筒井康隆著と「星の王子さま」サン=テグジュペリ著を読みました。
まず星の王子さまは皆が感動する世界的に有名な書だか読んだ印象はこんなひと(王子さま)には関わりたくない。聞いたことに答えん。そのくせ聞きたがる。嫌な人間の典型やがな、て感じ

68:2006/09/18(月) 02:55:12
「わたしのグランパ」はありえない突拍子もない話だったが筒井康隆の人を引き込むセンス(筆力?)に見事にやられましたな。俺個人は星の王子さまよりよかったと思うが

69kn:2006/09/21(木) 03:45:22
逆に考えるんだ。「星の王子様は哲学的な問いを投げ掛けている」と考えるんだ。

70kn:2006/09/23(土) 02:28:51
「色彩楽のすすめ」尾登誠一 読了。

デザイナーによる色彩センスアップのための本。
色彩学の理論がわかりやすく解説されていて、インテリアや建築物、環境などの配色をする際にイメージに合った色にたどり着くためのノウハウが語られている。

色のセンスが鋭い人は、普段から習慣的に心に残った色を集め分類することで自然とボキャブラリーが増えているそうで、好き嫌いから一歩進んで観察する事が発見につながりそう。

絵の具をチューブから出したままの色ではなく白から黒への階調に沿った、グレイッシュな色を使いこなせ等というのは絵を描く時にも言われますが、白黒コピーしたときにバランスの善し悪しはわかりますな。

71um:2006/09/24(日) 09:27:10
この本はよさそうですね。
デジタルの話やけど、まず白黒で下塗りしてからオーバーレイで色塗り。

これってどうなんでしょうね。

72kn:2006/09/24(日) 15:53:38
デジタルでは混色で彩度落ちることないのでそれで良いと思う。
顔料の場合白を混ぜると眠くなるので、模型塗るときは蛍光色やクリアカラーを少量混ぜて色調の沈みを抑えるテクがある。

自然光と蛍光灯でも色の見え方かなり変わって自然光では明るい部分は黄、陰は青紫に若干寄って見える。
黄色寄りの色の明度を高く、青紫寄りの色の明度を低く設定すると自然な印象、逆にすると人工的な印象になります。

73kn:2006/09/29(金) 23:47:27
レヴィ=ストロース講義-現代世界と人類学 川田順造・渡辺公三 訳 平凡社ライブラリー
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582765432

1986年に東京で行われた講義と質疑応答。
専門的になりすぎず非常に分かりやすい内容。
ひとつの社会の構造を知ろうとしたり新しい問題に直面した際に、帰属する文化のみを土台に考えていたのでは
解決の糸口も見えず、自分たちが人類史上初めて直面した難題だなどと思い込みがちになる。
そうした時に西欧文明から見て野蛮で停滞的であると嘲りの対象もしくは軽蔑を含んだ好奇心の対象でしかなかった、
南半球の様々な文化に眼を向ければ、タブー、宗教、神話などがじつにうまく集団を秩序付けるしくみに出来ているかがわかる。
この講義では、西欧文明を完全に否定することでもなく未開社会の慣習に逆行する事を進める事でもなく、第三の人文主義を提唱している。
もう20年も前となるが21世紀においてもかなり示唆に富んだ発言が多く興味深い。

74kn:2006/10/03(火) 21:21:23
「人と人との快適距離―パーソナル・スペースとは何か」 渋谷 昌三 著 NHKブックス
ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4140016051

パーソナルスペースとは人が他人との間に無意識に取ろうとする見えない"なわばり"空間の事。
街中や電車、公共の場所などではこれ以上近づかれると不快だという一定の距離が存在する。
この空間はそのときの心理状態や相手、状況によって大きさやかたちが変化する。人の性格にも関係する。

学校の教室や職員室、上司の部屋などはそこに置かれる人間の心理をどう仕向けるか?ということを考慮されて設計されている。
なんとなく感じている上下関係や権威、相手が好意的であるか否か等という事はじつはその環境によって影響を受けた結果かもしれない。

面白いのは人は自分のボディ・イメージ(身体像)というものを観念として持っており、自分の境界範囲がどのくらいかという事を認識している。
たとえば車を運転していれば車体がそのときのボディ・イメージとなったりする。
衣服を身につけたり化粧をする事でもこのボディ・イメージは強化されるという。

外部からの境界浸透に対する障壁の堅牢さをバリア・スコアといい、このスコアが高い人ほど環境に対して意思的統制を行おうとする方向に強く動機づけられており、
ストレスや障害物の影響を受けにくいという結果が実験で出ているという。
音響映像てきにいうと「S/N比が高い」というやつですかね。

75kn:2006/10/11(水) 08:33:06
「戦場の精神史 ~武士道という幻影」佐伯 真一 NHKブックス
ttp://media.excite.co.jp/book/news/topics/092/p03.html

昔から日本の武士は高い美意識を持っており、高潔で徳が高いというステレオタイプのイメージが
あるが、それは果たして本当だったのかという疑問からはじまる。
これを読むとサムライに対してのファンタジーはまちがいなく粉々に砕かれる。

サムライの歴史を辿るとだまし討ち、ウソ、卑怯な計略、仲間の手柄を横取りなど基本中の基本で、
知力により敵を陥れる、相手を自分と同等とみなしていないところからはじまっている。
征夷大将軍などというが、「夷」とは自分たち人間の言葉や理屈が通用しない獣と同じようなもので、
いちいち話し合ったりする必要すらない。
効率的に敵を追い散らし領土を拡大するやり方は、むしろヤクザや盗人に近い。
しかし、集団が大きくなり個人の功名のためにバラバラに行動すると統制が取れなくなる、またあまりにもウソを普段から
つきすぎると誰も信用しないので「いざというとき」ウソが成功しなくなる、などということから身内や主人に対してウソつくなと厳しく指導され、
誠実であるのが美徳等という考え方になるが、決して倫理や道徳ありきではじまっている訳ではない。

ちなみに高潔な武士のイメージの原型になったのは新渡戸稲造の「武士道」だが、実際に新渡戸は武士の実態をあまり知らず書いていて
「武士道は自分が発明したンや!」などといってたそうである。
人を使う側が人心掌握しコントロールするのに便利なので、サラリーマン的な奉公人の心得などにうまく変容させて現代の「武士道」が出来上がっていった様子がよく分かる。

76kn:2006/10/11(水) 21:56:22
「プロダクトデザインの発想」田中克明 監修

武蔵野美術大学出版から出ている本。
プロダクトデザインの分析や歴史的変遷、環境や人に対応するデザインについて
多数のデザイナーの対話を収録。
図版やカラー写真を多く使って説明してあり、
身の回りの製品がどのようなことを考えて作られているかが理解できる。

77kn:2006/10/18(水) 22:34:54
「デザインの生態学」後藤武・佐々木正人・深澤直人 東京書籍

デザインの教科書。工業製品、建築、環境、デザインの生態学的アプローチとは。
ジェームス・J・ギブソンのアフォーダンスという概念をデザインの分野に敷衍してものの見えかた、
かたちのとらえ方など論理的に掘り下げていくところから始まっていく。
なぜか読んでいて脳にものすごく疲れを感じて頭痛がしてきたので寝ながら読んだ。
面白いので3日くらいで読んでしまったが。

78kn:2006/10/25(水) 04:59:32
「わたしの菜食生活-Cruelty Free Life」秋田昌美 太田出版
ttp://www.ohtabooks.com/view/newsInfo.cgi?index=401

メルツバウ-秋田昌美氏の本。
動物の権利を尊重するアニマルライツという考え方に基づき肉食を止めた経緯が、
自身の日常のようすを交えて語られている。
本の中で「知っている事と気付くこととは違う」という言葉が印象的で、
なにか行動のきっかけとなるのは知識ではなく自発的な「気付き」であるという。
「気付き」とは当事者意識がないと生まれないもので、自分の行動(食べる、商品を買う)ことで
どのような影響があるのか、誰が苦しむ事になるのかなど思いやることにつながると思う。

日本において肉食など食が欧米化した明治あたりに、都合の悪い事は「見なくてすむ」「考えなくてすむ」
ようにしようと意識的にブレーキを取っ払ったあげく自尊心も品もなくしたのはこないだの
「戦場の精神史 ~武士道という幻影」読んだときも思ったこと。

しかし食品表示のアミノ酸が動物性か植物性か分からないときは問い合わせるとか、機内食でのトラブル等
秋田さんなみに徹底するのは日本ではホントに大変だろうなぁと思う。

自分の場合はBSEや鳥インフルエンザ問題が報じられる一方でグルメ番組でタレントが高級肉食ってるのとか見ていて、
無駄な生産と消費の繰り返しに、「もう食わんでええ」ととりあえず肉食やめたけど体調などはむしろ良い。
タバコや酒などと同じく楽しみのために食ってるだけで、よく言われる肉食わないと栄養が偏る云々は単なる言い訳だと思う。

79kn:2006/10/28(土) 22:01:32
「だまされる脳 バーチャルリアリティと知覚心理学入門」
日本バーチャルリアリティ学会VR心理学研究委員会/編
講談社ブルーバックス 
ttp://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000031775571&Action_id=121&Sza_id=B0

タイトルどおりの本。
脳がだまされるのは確定できない要素の中から「こう捉えるのが妥当」と判断する働きを逆手に取られた場合。
なので現実感のある仮想とは知覚心理学の研究とイコールな部分がある。
VRは視覚的な分野のみならずバイノーラルサウンドとか音響や触覚などの分野にも技術が進化しているようでそのあたりのことも書いてある。

80kn:2006/10/29(日) 02:35:07
「何がおかしい―笑いの評論とコント・対談集」 中島らも 白夜書房
ttp://www.amazon.co.jp/gp/product/4861911869

「論座」コラムや対談、膨大なコント台本のダイジェストなど集めた最近編集されて刊行された本。
「笑いとは差別である」と言い切った上で「笑いは人が生きていくために必要」といっている。
しかしその2つは全く位相の違う問題であるという。
差別的な笑いとはTVのアホの坂田みたいな実はアホではない、ただの金に汚い芸人に代表されるもので、
いまのTVはどれも差別を人工的に作り出し笑わせる装置(昔は差別される人間に社会的な役割があったが今は隔離されているため
作り出す必要が生じた)なので観ていて笑うどころか腹が立つというような笑いに関しての分析がよく分かる内容。
エンタテイメントではなくドキュメントという感じかな。
藤山寛美とかウェットなのが大嫌いというのはこれまでの著作みればよく分かる。
「論座」で原稿書いたものの掲載されなかったという回のも掲載されているので読んだけど、正直複雑な感じだった。
東郷健とか奥崎謙三のNHK選挙広報ビデオの話持ち出して権力に対してうんぬんとか反感は覚えないまでも微妙。
こういった文章が完全にお蔵入りにならず読まれるのも、中島らもの名前がでかくなったせいという気もする。
そこらの名前のないやつが言ってもクビにされて代わりはナンボでも居るってことだし。
ただ自分の行為がどういう大きな動きに与しているか見ようとしないやつらが多すぎるというのもわかるけども。
世代のギャップを感じるのも自分がある程度の年齢なったからかも知れんね。
この本には未発表のラジオ番組が収録されたCDもついてるのでまた聴いてみたい。

81kn:2006/11/04(土) 22:07:15
聴講してきた。
ttp://www.kyoto-u.ac.jp/notice/05_event/2006/061104_2.htm
ミジミジミジ
ttp://www.ne.jp/asahi/ningenzen/gakunan/zuihitu/z7-konton.htm
ttp://www.geocities.jp/kumatomajp/sab-7.htm

82kn:2006/11/05(日) 17:04:26
「すばらしい新世界」 ハックスリー 講談社
ttp://www.amazon.co.jp/gp/product/4061370014/

工業化が極限まで推進され、皆が合理化された文明の恩恵を受け幸福に生活するユートピア。
誰ひとり不安や孤独を感じることなく死ぬまで若いままで暮らす事のできる世の中を描いている。
人工授精により知的、容姿、体格レベルなど厳密にコントロールされ、完全な階級社会が出来上がっているが、
階級の下のものたちは生まれたときから条件反射教育により自分に与えられた役割や仕事が好きで楽しく感じるよう
意識を作られているためストライキや革命は起きない。
人工授精によって子孫を増やす社会のため一部を除いて女性には妊娠の機能はなく完全な娯楽のためのフリーセックス化、
家族形態のような人間の深い結びつきはもっとも卑猥で唾棄すべきものとされている。
余暇には触感映画やソーマという薬にて陶酔し、全く悩む事など無しに生きられる。
そんな中、自分の階級と能力のアンバランスにコンプレックスを抱く男が蛮人保存地区(メキシコ?!)にて野蛮人と邂逅する・・・

1932年、第二次大戦前に書かれたSF小説だが20世紀の科学、工業文明がどのような動機によって進歩してきたのか、
人々の欲望の延長線上にあるユートピアを緻密に考証し、人が自らの尊厳を失っていく恐怖が描かれているため古さを感じるどころか
着々と現実のものになって行っているのではないかと思う。
おもしろいのはフォーディズムが小説の下敷きにされていて、自動車王フォードが神のアレゴリーになっているところ。
(十字を切るかわりに"T字"を切ったりする)
「皆が幸福になる、こんなに素晴らしく良いに決まっているのに!」というキチガイじみた文明の諧謔が秀逸。

「ザルドス」とモチーフは共通しているけど、あっちがユートピアの欺瞞を脆さを否定して人間性を回復させる役割として野蛮人が登場したファンタジーなのに対して、
「すばらしい新世界」はリアリズム追求というか、元から低い地位のものが不満や憤りを感じないよう設計されている(どんだけ尊厳を奪われてもニコニコ隷属)
ところがフィクションではない、現実とつながる地平を感じさせて戦慄する。

83kn:2006/11/12(日) 05:22:03
「異常心理の発見」クリフォード・アレン 小林 司 訳 ちくま学芸文庫

心理学の発展史を一般向けにまとめた本。
精神病はギリシャ時代から存在した記録が残っているが、ヨーロッパではルネサンスの頃まで悪魔の仕業であると魔女狩りが行われたり
長いあいだ患者が非人道的な扱われ方をされてきて、1815年頃にようやく精神病院のあり方が見直され始め精神医学が学問として
成立し始めたのはそれ以降ということになる。
この本では主に1900年代以降の催眠術、意識と無意識、自我、脳科学などの研究を取り扱っている。
メスマー、フロイト、アドラー、ユング、クレッチュマー、パブロフ等どのような仕事が現代の精神医学を作ってきたかをつかむ事が出来る。

84kn:2006/11/15(水) 21:05:40
「「待つ」ということ」鷲田清一 角川選書
現代社会は待つことがなくなった、待つということが出来なくなった。
なんにでもプロジェクト、プロモーション、プロダクションなど「プロ〜」接頭語がつき
長い見通しを立てられるほど良い、常に前傾姿勢であらねばならないという強迫観念。
とにかくせっかちな人間が気持ちいいように設計される。
携帯電話も電源切ってあろうが履歴は残り、内容の返事はともかく受け取ったという意思表示を
早めにしておかないとなんだと言うことになる。
待つこと待たせること自体がケシカランので向こうの都合で待たせたかたちになった場合でも、
とりあえず言い訳は考えておかなくてはいけない。
昔から意のままにならないもの、じっとしているしかないものはあったはずだが、すべてをコントロールできる、またはされるべき錯覚に陥り、
待たなくてはならないものに対する感受性や視点をなくしているのではないか?という考察。

85kn:2006/12/01(金) 19:46:00
「フラジャイル」松岡正剛 ちくま学芸文庫
ttp://www.amazon.co.jp/gp/product/4480089357/

これまであまり肯定的に評価されなかったフラジャイル=壊れ易いものについての論考。
様々な分野を横断しての松岡ワールドという感じで内容を簡単にまとめるのは難しい。
西欧のセントリズムのカウンターとなる弱いもののが持つ特有の多様性、柔軟性が掘り下げられていて、
網野善彦の中世日本のケガレ、キヨメ思想につながっていく辺りが個人的に面白かった。

86kn:2006/12/28(木) 07:27:19
「横山宏Ma.K.モデリングブック 」
ttp://www.amazon.co.jp/gp/product/4499229235/ref=pd_rvi_gw_1/503-7913815-4072733

3Dイラストレーター横山宏の模型本。よくあるハウツー本と違い、コテコテにカスタマイズされたツールや製作過程を伝授してくれる。
模型作る人に限らず色を使って何かする人向けと本人が書いているが、絵画の技法のおいしいところを転用して模型を作っているので
眺めているだけでも楽しいし新鮮に感じられる。
とくに補色残像といった視覚効果を利用した色彩の技法など勉強になるところが多い。
全頁フルカラー、説明用の模型製作や細かい(しょうもない)キャプションも全部本人がやっている。

87kn:2006/12/28(木) 07:54:09
「「食」は病んでいるか―揺らぐ生存の条件 」鷲田 清一 著
ttp://www.amazon.co.jp/gp/product/4900594636/

前半は「食う」「食べる」ということについて。
後半は三國シェフと松井孝典氏との三者対談。
現代思想とか読んでいてもなんか自分の問題として感じることはないと思う人も多いかもしれないが、
「食」に関してはこれほど身近なテーマもないのでわかり難い話ではないだろう。
現在、地球上の半分の人間は飽食により「食べ過ぎて死ぬ」問題を抱えており、もう半数の人間は食糧難により「食べないと死ぬ」危機に直面している。
そして、大量の食肉用の家畜を確保するために莫大な牧草を植える土地を必要としている(食肉用の家畜がいなければ概算で現在の2倍の人口の食料がまかなえる)。
レヴィ・ストロースは肉食は弱められたカニバリズムの一形態であると看破し、中沢新一は9・11テロとBSE問題は非対称性という同じ構造を内部に抱えているという。
江戸時代までの日本は肉を食うことに関してすらタブーの意識があったが、現在は世界でも有数の食べ残しを出す国となっている(不景気だ何だと言っているが)。
松井氏が言ってるが、現代において豊かさとは大雑把に言えば恩恵を先取りする(待っていれば回遊してくるマグロを取りに行く、旬の食物を一年中食べられる環境にする)ということ、手の届かなかったものをいつでも手中に収める可能性を得る事、
いったことである。結局環境より景気、効率性なのだ。
こうした豊かさの共同幻想を方向転換しない限り、行き着くところまで行き、たとえば牛肉もやがてフグのように死ぬリスク(毒)を了解した上で享受しなければならない珍味となるだろう。
テロの予備軍を皆殺し、BSE感染牛や鳥インフルエンザの鶏を殺処分することは一時しのぎにしかならない。
自分がその恩恵を拒否しない限り批判する事は出来ず、自分だけは非対称性の生産に与していないという視力喪失を増大させていくだけである。

88kn:2007/01/13(土) 14:20:28
「食塩と健康の科学 : 減塩だけがよいわけではない!」伊藤敬一著 講談社
ttp://shinshomap.info/book/4062573393.html

健康ブームでひたすら減塩が叫ばれているが、食塩は身体の細胞を維持していくために必要不可欠であって
なくなると生命に関わる重要な要素である。
人によって食塩の過剰摂取が即、高血圧に結びついたり、あるいはそうでない人がいるが
これはどのくらい体内に塩分を貯蔵するかという体質(食塩感受性という)によるという。
またストレスなど環境によっても食塩嗜好は影響を受ける。
生命は海から発生したので細胞は海水に非常に近い成分の細胞外液で満たされているが、その塩分濃度は海水よりも高い。
これは古代の海の塩分濃度が今よりも高かったのが原因ではないかといわれている。
人間はその祖先が陸上に上がって以来、絶えず深刻な食塩不足に悩まされてきたので(海から離れるほど食塩を見つけにくくなる)
摂れる時に摂取して貯蔵しておこうという事なのかもしれないが、自ら100%の純度の塩化ナトリウムを生成できるようになり、
もはや食塩不足とは無縁となっていながら食塩嗜好から離れられない。
その昔、人間を食うカニバリズムを含め、肉食をするようになった起源が塩分不足にある(人間や動物の肉や骨には多量の食塩が含まれている)という説は興味深い。
共食いのカニバリズムの慣習がもたらした恐るべき病気と、現在、共食いをさせて作った食肉を食べる我々が恐れているBSE問題は構造的に同じものであるということをもっと見るべきである。

89kn:2007/01/17(水) 23:02:23
「非対称の起源-偶然か、必然か」 C. マクマナス 著 大貫昌子 訳 講談社
ttp://www.amazon.co.jp/%E9%9D%9E%E5%AF%BE%E7%A7%B0%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90-C-%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%83%8A%E3%82%B9/dp/4062575329

利き手、心臓、右脳と左脳、DNAらせん構造、文字列、交通、右翼と左翼etc.
人体や身の回りの非対称について恐ろしく広い分野を横断して考察している。
一般的に左右対称であること(シンメトリ)こそが美、真理であると思われているが
実際には対称でないものも多い。
科学者、数学者が真実に近づこうと研究し、真理はやはり対称であったと思いたかったのに非対称でガッカリという例もある。
なぜ実際には非対称であるにもかかわらず対称であって欲しいなどと思うのかという疑問も興味深い。

右と左の意味として右はメジャー、保守、光、常識といったイメージに対して左はマイナー、革新、陰、創造というイメージが
深層心理に影響してフィールドが振り分けられているような気もする。
「GOD」という文字列を右向きに普通に読むと「神」だが逆に左向きに読むと「犬」である。
真っ暗な吹雪の夜には軍隊はほぼ円の軌跡を描いて進軍し、元の場所に戻ってくる。
黒から白へのグラデーションパターンで左側が黒→白と逆に左側が白→黒を比較すると、
左側が黒のほうが暗く見える。
睾丸は通常右側のほうが高い位置にある。
本には書いてないが、たとえばガッツ石松が「太陽の昇ってくる方角?右から昇るんだよ!」
「右から」と迷いなく言う自信は何処から来ているのか?
LEFTFIELDというバレアリックハウスのユニットが「レフティズム」ってアルバム出していたな。

90kn:2007/01/22(月) 20:00:43
「[可変思考]で創造しよう」 広中平祐 著 光文社
ttp://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0233474176

数学者の広中平祐による創造性開発の本で現在「可変思考」に改題されて再販されている。
物事の捉え方や考え方に役立つ数学的な発想をすすめている(数式などが出てくるわけではないが)。
「フリーダム」+「ウィズダム」が創造を生む、知恵を持たないものにとって自由は拷問であるっていうのは納得。
小人閑居して不善を成すというから閑居するならまず勉強と。
義務教育ではすでに出来上がった学問を取り入れていくので、途中で止めたとしてもそこまでで得た知識は残るのに対して、
創造活動においては段階の途中で停滞したとき、成果が出る前に止めてしまうとそこまでやった事は無駄になる。
頂上に近づくにつれ距離が分からなくなり、あと100メートルだったのに頂上を目前に下山してしまう人が多い。
創造はリスクを伴うものであり100メートル手前で決して引き返すなと。
相当しつこくやらないと認識されない。
最近になって、時には損か得か合理的に考えなくてはいけない理由がやっと分かってきた気がする。

91kn:2007/01/24(水) 20:09:50
「マンガでわかる色のおもしろ心理学」ポーポー・ポロダクション 著
ttp://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9981515388

色が心理的にどういった影響を与えるかといった知識を文章+マンガで解説してある。
一項目ごとに一ページといった構成になっているので読みやすく検索もしやすい。
各色ごとに好む人の心理分析があったりして納得する部分が多い。
色の記憶は漠然とした印象だけではかなり不正確だが、明度・色相・彩度と3つのパラメーターに分けて記憶すると結構再現度が高まるという。

92kn:2007/01/27(土) 13:08:25
「進化しすぎた脳」池谷裕二 著
ttp://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2575388

大脳生理学を中高生に分かりやすく講義。
脳の構造や記憶のしくみ、進化の過程などの解説から、
人間の脳はものを見たときにどういった捉え方をしているか(錯視は何のために起こるか)、
意識と無意識、不確実性、クオリア、アルツハイマー病など現在盛んに話題になっている分野まで一冊で分かる。
実際のこの講義を受けることを考えると安すぎる値段。
中高生の時期にこういった生の学問の面白さを伝えてくれる講義を一度受けられれば。
ブルーバックス版は巻末に最前線の研究成果を紹介する追加講義収録されてるが、
税金使って大学で研究している以上、人の役に立つ成果を上げないといけないことについて少し議論していて、
すぐ役に立つ(病気治す薬を作るとか)ほど良いと言い切ると、すぐ成果が出ない、金にならない研究はすべて無駄といわれてしまう。
でも自然のしくみを解明したり、知る事の喜びそのものにも大きな意味があるからバランス感覚が要ると結論付けていて、
クソみたいな教育制度改革叫んでいるオッサンは少しはこういう話に耳傾けろと思った。

93kn:2007/04/18(水) 01:17:08
「行人」夏目漱石

以前ちょっと読みかけて放置していたのでもういっぺん最初から読み直し。
漱石作品は最初は展開がかなりスローで、途中から後半にかけてぐんぐん加速して引き込まれるという展開が多い気がする。
この作品でも何か展開を予期させながら巧妙にはぐらかされていって、人間の心理面にえぐりこんでいく。

前半は自分(二郎)から兄の一郎を見る視点で描写されているが、兄のあまりの苦悩を受け止めるには主観としての強度が足りないということか後半、兄の友人Hからのレポートという形にモードが変わる。
物語的な読後感としては重いけど予定調和を排して描き切ってやるという意志の清々しさといったものが感じられた。

94kn:2007/04/18(水) 01:19:03
「巨船ベラス・レトラス」筒井康隆

おもしろくて一気に読んでしまった。
現代の日本文学の状況を批評的に書いているけど、これは芸術・娯楽など全般的に同じムードがあって、
先取りして消費するサイクルがものすごく早くなっているとか、誰もが知っていることの前提としての
基礎教養が少なくなった(情報過多でコレだけ押さえておけという定義も無意味になった)結果、文脈
の上での評価や実験・前衛といったことの価値も薄れ、ものすごく古い陳腐な手法に感心したり、
ベタな笑いややすい涙など感動する閾値が低いものが逆にワッと売れたりする。

音楽もアルバム単位でなくmp3の1曲ごとにデータベース式に管理されることで世代やムーブメントなどよりも
いかにキャッチーであるかとか、手軽に消費できるかという側面で並び替えが進んでいるようにも思う。

尺が長いとか、思想等のバックグラウンド、前衛的なアプローチなど、分からない人が出てくると疎外感を
与える部分は「弱さ」となってしまい、そういった部分を抜かして高密度に圧縮していきたいという現代の
流れもまたベラス・レトラスを揺り動かしている一つの波のように思った。

95kn:2007/04/18(水) 01:55:26
「ものぐさ精神分析」岸田 秀 中公文庫
ttp://www.amazon.co.jp/%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%90%E3%81%95%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E5%88%86%E6%9E%90-%E5%B2%B8%E7%94%B0-%E7%A7%80/dp/4122025184

何年も前に読み終えたと思っていたらなぜか中間の「心理学について」「自己について」あたりを読み飛ばしていたようなので読んだ。
日本の心理学は近代に西洋から輸入されたものだが、物理・科学などの他の学問よりもそのまま翻訳されて取り入れた度合いが
かなり高い、犯罪心理などを語っている心理学者の話がなぜつまらないか(日本の心理学ができるまでは大学から心理学を追放しろと
まで言っている)といった批判的な立場から見た刺激的な内容。

著者自身が10代の頃から長いこと神経症になやまされ、切実かつ慎重な自己の分析から日本人の特有の心理、さらに近代日本という
もの自体が第二次世界大戦で全能の共同幻想をへし折られて以後、いまだに自我が確立できずにいる精神分裂病であると分析している。
あと、日本独特とも思える性に関する意識やタブーについてはキレイごとのオブラートなどすべて引っぺがして、そもそも「人間の本能
は壊れている」ということを白日の下にさらす勢いで書いているのが痛快でもありゾッとする虚無感を覚えるところでもある。

96kn:2007/04/19(木) 02:46:02
「堕落論」坂口安吾 集英社文庫
ttp://www.amazon.co.jp/%E5%A0%95%E8%90%BD%E8%AB%96-%E5%9D%82%E5%8F%A3-%E5%AE%89%E5%90%BE/dp/4087520021/ref=pd_rhf_p_5/249-1596379-0003565

このタイトルにまつわるイメージが強烈なので坂口安吾はスルーしていたが、なんか呼ばれた気がして読んだ。
頽廃の美学みたいなのが一番嫌いなのでなんかビンボーくさい煮出したようなナルチシズムを勝手にイメージしてたが、
読んでみるとまったく違い、むしろ至極まっとうなことを普通に書いていたことが分かった。
当時来日したブルーノ・タウトが純粋な日本美を語ったことについて歓迎した日本人の様子を自己欺瞞だとして批判しているところで
『日本精神とは何ぞや、そういうことを我々自身が論じる必要はないのである。説明づけられた精神から日本人が生まれるはずもなく、
また日本精神というものが説明づけられるはずもない。日本人の生活が健康でありさえすれば、日本そのものが健康だ。』(「日本文化私観」)とある。
最近叫ばれている「美しい国」というフレーズになんとも説明しがたい不愉快さを感じていたが、まさにその不快感の正体を突いている言葉。
自分が創出したものでもなんでもない過去の遺産を持ち上げ目の前の歪みを見ないふりをする人間は戦後すぐから何も変わってないんだな。
坂口安吾は文章がものすごくうまいとかテクニカルな志向性はあまりないが、何事も取り繕わないポリシーを持ち、きちんとした骨格に肉付けされた身体的なタフさがあり、そのあたりに好感持つファンが多いのかもしれない。


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