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記録庫2
681
:
考える名無しさん
:2019/05/23(木) 03:52:52 ID:t6ctEEfw0
もうひとつ同じ記事から引用。
画像引用元
news.yahoo.co.jp/byline/endohom…
ブラック企業マインドと合致か否か。
これからの世紀は東洋文明、ということはわかってきていることであるが、
このCEOの返答の「論理展開」にある、「ブラックではない」と醸す「文字に現れない何か」
「勢い」ではない「それ」
ビジネスの話題すらも、意識とクオリアの範疇としてしまう見方なので、
ビジネスだけのビジネスマンとかは、話に着いてこれない領域。
そういうビジネス「ゲーム」に収まる人々のことを、俺は普段「人類」と、まるで下等動物を観察するかのような眼差しで語っているのだが、
非「人類」になることは「人類」には無理なので、
(選民思想として蔑むのとは逆の方向で)
頑張っても変身しないのだから、今世は「人類」として頑張れ、という、
塀の上を歩く犬猫を「応援」するような眼差しでいる。
それら「人類」は、現代という「時」の「空気」。
人生ゲームで競い合ってる猿。
一方、非「人類」にとって、
「人類」とは時代ごとにその定義が異なることは初めから理解している。
即ち、その時代と切り離せない関数によって定義された存在であることを知っている。
その上で、
「如何に己がそれら『人類』ではないことを確定させるか」
この問題が「無意識」の中に発生する。
どの辺りから「霊視」となるのか、「霊視」ではなくなるのか、よくわからない感じなのだが、
人の「自己愛バリア」というのは結構よく見える。
人は自己に都合良く見聞きしたことを解釈する。見聞きすることも都合良く選別する。
その状態を「自己愛バリアに包まれている」と俺は言う。
「現世の人生ゲーム」という、集合意識の「自己愛バリア」がある。
その外が見えているかどうかで、「人類」か非「人類」かが区別できる。
人生ゲームのバリアに包まれた「人類」には、どんな言葉も、人生ゲームに関することとして翻訳されてバリアを通過して中の人間の耳に入る。
こんな感じだから俺は普段、一般人をNPCと呼んだりしている。
NPCをプレイヤーにすることは、無理なのだろうと思う。
もしかすると可能なのかもしれない。
しかし、単純に言葉で説得できたりなど、そういう風ではないようだ。
こういう話をするのは、他にもプレイヤーがこの世に存在しているということを知っているからだ。
もし、自分以外全員がNPCだったら、こんなことは書きもしない。
つまり、独我論ではない。
自己愛バリアが剥がれると、もの凄い情報量が頭に入ってくる。
そんな人は、ちらほらいるだろう。
視野の広さか情報量か。
視野の広さは、多大な情報量故に必要とされるものだと思う。
視野が狭い人が多大な情報量を得ていない、という風には言える。
永続的に多大な情報量を得る様になった場合、常に視野が広くないと、自己という存在が破綻する。
ということはそういう状態にならないと知れない。
即席の思考実験で解説すると、
独房の中に閉じ込められたままで文明を築けるか?
というものに対して、
「人類」ならば築けない。
非「人類」ならば築ける。
Q. 四方コンクリしかない環境で、どうやって?
A. その要素だけで充分な情報量がある。
言い換えると、「環境の解像度」が違う。
ここまでを融合すると、
自己愛というのは、情報を記号化しているのだと思う。
ゲーム化された人生とは、各要素が記号に置き換えられた上で己を認識し直す人生だろう。
その「ゲームの檻」から抜けるには、記号を分解しないといけない。
ただ、その己の記憶と認識は、記号で構築されている。
なんとなく、釈迦が「悟りを開いた後に、また戻ってくる」というのと似ている。
けれども、現実描写の精度においては、釈迦の気付きは不十分だ、と俺は思う。
まず、誰もが「悟る」べきとも思わない。
「人類」として生まれた人は、頑張って「人類」として生きるべきと思う。無理しても救われない。
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