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聖典引用 板
2713
:
エマソンの光明思想と生長の家④
:2013/12/22(日) 14:54:51 ID:bAijypnk
理想世界誌昭和四十七年十月号
【輪読のための青 年法語】
■エマソンの光明思想と生長の家
谷口雅春先生
■四日のことば**
超越的自己を自覚するために
わたし達は「本当の自分」ではないところの単なる仮装の存在である肉体にばかり気をとられ、肉体が生活している「物質と見えている環境」の有様にのみ心を集中して生活している時には、この内在の「本当の自分」――――Soul(魂)なる自分には気がつかないのである。
しかし或る瞬間―――それは座禅や鎮魂や神想観や瞑想や―――兎も角、外界に心を振り向けずに自分の内的生命にのみひたすら心を振り向けた機会に、自己の内的生命の自覚が顕在になって来る。そのとき、イ エスが「われはアブラハムの生まれぬ前 (さき)より在るものなり」と自覚され た時のような、肉体の年齢や時間を超越 して実在するところの自分を自覚するの であるーー諸君もそれを自覚するときが 来るのだーーそのためには毎日怠らずに 神想観を実修するがよい。
【参考資料】
自分の超越的自己を見出だそうとする必要はない。どちらにしてもそんなことは不可能である。自分の眼は、眼自体を見ることができるだろうか?
必要とされているのは、自分の記憶、心、身体、感情、思考との偽りの同一化を、執拗に脱落させていくことだけである。
この脱落には超人的な努力や理論的理解は不要である。
第一に必要とされているのは―――見ることができるものは見る者ではありえない、という―――ただひとつの理解だけである。
自分自身について知っていることは、すべて自分自身でも、知る者でもない。
内なる自己性は知覚することも定義することもできず、いかなる種類の対象にもなりえないものである。
束縛とは見る者とその対象となるあらゆる物事のまちがった同一化にすぎない。
解放は、このまちがいの単純な逆転からはじまるのである
・・・・・・・・
これは単純ではあるが、骨の折れる作業である。だが、その結果は、人生における解放意外の何ものでもない。
超越的自己はあらゆる伝統では聖なる耀きとされているからである。
原則的には自分の超越的自己は神(あなたが神をどう認識しようと)と同一の性質のものである。
究極的にはただ神のみが、われわれの眼をとおしてながめ、耳で聞き、口で話をするからである。
これこそがユングのメッセージであり、アメリカ原住民、タオイスト、ヒンドゥー教、イスラム教、仏教、キリスト教の聖者のメッセージでもある―――自分の魂の根底には人類自体の魂がある。
それは束縛から解放へ、恍惚から目覚めへ、時から永遠へ、死から不死へと導いてくれる聖なる超越的魂である。
ケンウィルバー著「無境界」より
>>2711
エマソンの光明思想と生長の家③
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