【1:487】雑談
- 1 名前:名無しさん :2016/02/21(日) 22:16:28
- 自由に雑談
- 481 名前:本当にあった怖い名無し@転載は禁止 :2016/05/26(木) 02:18:20 ID:HITexA3s0
- そのような自我に、縛られてしまって良いのだろうか。
物に執着する今の貴方、我の欲や感情に執着する今の貴方は、明日はまた変わっているのだ。
【堅い岩が風に揺るがないように、賢い人はそしられてもほめられても心を動かさない。おのれに勝つのは、戦場で千万の敵に勝つよりもすぐれた勝利である。】
【思いわずらうな。なるようにしかならんから、今をせつに生きよ。】
【沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、少し語る者も非難される。 つまり、世に非難されない者はいないのである。】
今あなたが考えて出した結論と感じ方は、明日のあなたが出した結論と感じ方と、まったく同じであるだろうか
我に執着してはならない。 気付かなければ、人は我に執着し過ぎ、偏り、中道を失う事となり、常に我からの視点しか見えず 外からの客観的な視点を失い、即ち己の視界の半分を失う事になるだろう (省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
- 482 名前:本当にあった怖い名無し@転載は禁止 :2016/05/26(木) 02:26:56 ID:HITexA3s0
- 他者という空に乱されてはならない
他者からの評価というのも、永遠と固定化されて存続し続ける事などは無い、即ち、生じては変遷し消え行く空である。
自我という空に乱されてはならない 物も人も空である。あらゆる欲も、苦や恐怖や喜びといったあらゆる感覚も、移ろい消え行く諸行無常の空である。
他者や自我ともに偏ってはいけない。共にうつろい行く空であるから、中道を行って真理に到達せよ。 偏っては真理は見えないのだ。過剰に勇を持っても、過剰に恐怖を持っても、相手の真実を見る事ができない。真理を見る事ができない。
- 483 名前:本当にあった怖い名無し@転載は禁止 :2016/05/26(木) 02:34:26 ID:HITexA3s0
- 偏った価値観を持つこともなく、偏った視点をも、偏った快楽も苦も、偏って近くからも遠くからも見る事がなく
常に気をつけて中道を行けば、偏った感覚も無くし、多角的に、均等に見て、感じて、考える事ができるようになり、真理を見る事に近付き、平静さを保っていられる事になるのだ。
この世のあらゆる空に乱される事が無くなれば、苦は自然と消えて行き、心の平静は保たれて、涅槃寂静(ニルヴァーナ)に近づくのだ。
頭で理解したら、次は精神と肉体を以っても理解するのだ。 人は心も体も、思い通りにはならないのだから。
五蘊盛苦 自分自身が生きている(心身の活動をしている)だけで苦しみが次から次へと湧き上がってくることであり、五蘊とは以下の五つを指す。 色(しき) =すべての物質を指し示す。この場合、「身体」機能が活発であるために起こる苦しみ 受(しゅ) =物事を見る、外界からの刺激を受ける「心」の機能 想(そう) =見たものについて何事かをイメージする「心」の機能 行(ぎょう)=イメージしたものについて、何らかの意志判断を下す「心」の機能 識(しき) =外的作用(刺激とイメージ)、内的作用(意志判断)を総合して状況判断を下す「心」の機能 (省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
- 484 名前:本当にあった怖い名無し@転載は禁止 :2016/05/26(木) 02:39:39 ID:HITexA3s0
- それが叶っても、叶わなくても、悟りにも涅槃にも執着し過ぎる事がなく、偏り過ぎる事が無く、中道を行き
修行でこれに近づいた時、その修行者(菩薩)は知的にも精神的にも肉体的にも悟り、より一層心の乱れる事のない、涅槃寂静といった、澱みもなく、波もなく、静かな精神状態に入る。
苦行ばかりに偏っては悟る事ができないと理解した釈迦の教え。
というお話ですね。
また、イスラム教ではラマダンといった習慣があります。 これは習慣というよりも、修行に近いと考えた方がよろしいと思われます。
断食をして、食べ物や飲み物の有り難味を知り、貧しい者の気持ちを理解しましょう。忘れないようにしましょう。こんなに苦しいね?だから貧しい人を助けましょうという、コーランを主体とした教えです。そういう定期的な習慣です。
キリストも断食をしてその最中に、悪魔に誘惑されて打ち勝った記録が新約に記載されていますが キリスト教の信者にはそのような教えはあまり反映されいません。この古事がクリスチャンに習慣付いて居れば、いろいろと歴史は変わっていたかもしれません。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
- 485 名前:本当にあった怖い名無し@転載は禁止 :2016/05/26(木) 02:47:12 ID:HITexA3s0
- 仏教にも瞑想から中国道教に影響されて、瞑想が座禅という形になりましたが
同じように、穀断ちや水断ちをして行う習慣があります。
そして、そこから考えられる事を知能を働かせて、そして体と精神を持って知るという修行を、お釈迦様もしてきました。 お釈迦様の場合は、結局はそういった苦行ばかりに捉われていると、逆に真理を得る妨げになる。という事で、餓死寸前になってから、これはよろしくない。苦行ばかりでは真理に到達できないと、中道の道を選びました。
苦しいばかりでは、苦しい苦しいという事ばかりしか、人は悟れないと、理解したのかもしれません。
私自身は、入院した時、一定期間流動食で、まったく食べ物が食べられませんでしたが そこから開放された時のおかゆが、本当に感激するほどおいしかった事を、よく覚えています。
それも、自我が常に変化している事から感じ方が変わっている証拠なのです。 悟りを得るには、知識を頭に入れるだけでなく、こういった体感も必要なのです。
- 486 名前:本当にあった怖い名無し@転載は禁止 :2016/05/26(木) 02:52:28 ID:HITexA3s0
- 諸法無我
バラモン教では自我の説明をこうしています。
「梵我一如です」 梵とは梵天の事でブラフマンとも言い、宇宙を指します。または大きな我、大我とも言います。 我とは自我の事でアートマンとも言い、小さい我、小我とも言います。
これは同一(一如)である。という考え方がバラモン教の教えでした。 そして自我は永続し、転生を繰り返すという教えです。 その自我にはあらやしき&まなやしきというデータベースが付いており、そこに自分のカルマ(業)が蓄積されていくという考え方です。
釈迦は固定され永続する自我などは無いと説明し、それを諸法無我と言います。 人は生まれて自我を持ち始めてから、その自我さえも諸行無常で常に変化し続け、喜怒哀楽を感じる感覚さえも変化していきます。喜怒哀楽を感じるのは自我なので、自我が常にわかっていくから感じ方も変わっていく、固定された自我など存在し得ない、自我も生じては変化しつづけ、変化を遂げ終わったら消滅する諸行無常であるという教えです。
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- 487 名前:本当にあった怖い名無し@転載は禁止 :2019/06/16(日) 18:23:00 ID:Zz/SaLBQ0
- てす
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