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朝倉家が滅びたことは惜しい

1 : 名無しさん :2014/01/01(水) 19:28:59
我々は朝倉の歴史から学ぶべきである


2 : 穏健保守系無党派 :2014/01/09(木) 01:13:46
名著 朝倉の内科学は永久に不滅


3 : 穏健保守系無党派 :2014/01/09(木) 01:18:35
若狭国を武田家を傀儡とした朝倉家の間接的統治国から
1568年8月武田元明を越前に拉致する事によって
直接的武力支配国へと方向転換をした時点で詰み

そう遠く無い時期に来るであろう義昭を擁した対織田家への戦略方針として
足利幕府の直轄地である若狭の国人勢力を当主拉致という形でねじ伏せようとした点が間違いだった
時機を見て信長から義昭や若狭の国人衆が離反する方向に誘導し越前国外に対織田への折衝地域を設けるべきだった
若狭国が親朝倉ならばその後の金ヶ崎や姉川・志賀の陣へと続く一連の流れはもっと有利に運べていたはず


4 : 穏健保守系無党派 :2014/01/09(木) 01:20:02
当主が出陣しないのは朝倉家の家訓


5 : 穏健保守系無党派 :2014/01/09(木) 17:37:24
朝倉と言えば姉川の戦い

麻生首相(当時)の迷言

麻生首相「姉川の合戦で武田信玄の騎馬隊が敗走」(苦笑)

ソース
http://www.aso-taro.jp/lecture/kama/2005_6.html


6 : 穏健保守系無党派 :2014/01/09(木) 18:32:25
朝倉家はいつ詰んでいたか?

刀禰の敗戦で詰みor若狭国を武田家を傀儡とした朝倉家の間接的統治国から
直接的武力支配国へと方向転換をした時点で詰みor義昭の上洛意向を無視した時or信長
の上洛命令を無視した時or斯波家臣になった時点で詰み


7 : 穏健保守系無党派 :2014/01/09(木) 19:37:38

「金吾利口書・朝倉宗滴話記」から引用する、宗滴の考える名将の条件。

 ――巧者の大将と申は一度大事の負(おくれ)に合たるを可申哉
    吾々は一世の間勝合戦計にて終に負に不合候間年寄候へ共
    巧者にては有間敷事――

 (現代語訳:名将というのは一度でかい敗戦に遭って、それを乗り越えた奴を指して言うべきだ。
        そこ行くと、私はこれまでの生涯勝ち戦ばかりで、ついぞ大負けすることなく
        この年になってしまったから、とても名将なんて言えないな)

『大負けした事がないから名将じゃねえ』というのは自慢なのか謙遜なのか。
意外に口の悪い金吾宗滴殿であったw


8 : 穏健保守系無党派 :2014/01/09(木) 19:40:48
上記の「金吾利口書」の名将論の少し後、具体的な人物例

――当代日本に国持の無器用人使下手の手本と可申仁は土岐殿、大内殿、細川晴元三人
   又、日本に国持人使の上手よき手本と可申仁は今川殿、甲斐武田殿、三好修理太夫殿、
   長尾殿、安芸毛利、織田上総介方、関東正木大膳亮方、此等の事――

(現代語訳:今日び日本でダメな大名の例に挙げるなら、土岐頼芸殿、大内義隆殿、細川晴元の3人。
       逆に、いい大名の例としては今川義元殿、甲斐の武田晴信殿、三好修理太夫長慶殿、
       長尾景虎殿、安芸の毛利元就、織田上総介信長、関東の正木大膳亮時茂たちだ)

ちなみに、宗滴が直接関わっているのは土岐頼芸・細川晴元・三好長慶。
大永7(1527)年に足利義晴・細川高国を支援して細川晴元・三好長慶とやり合っているし、
土岐家は朝倉本家と縁戚ということもあって何度か内乱に介入している。

ダメ大名3人のうち細川晴元だけ呼び捨てしているのは含むところがあったのか。
信長に目をつけていたのは、親父の信秀と組んで斎藤道三と合戦した縁からかも。


9 : 穏健保守系無党派 :2014/01/09(木) 19:44:13
もうちっとだけ続けます「金吾利口書」、上記に一文挟んで(意味がよく分からんかったので割愛)主君評。

――義景様御器用は英林様已來有間敷候、其故は我等八十歳に及候を加州武者奉行に被遣候事
   大丈夫成御心中難計候、但自今以後御器用に候間如何可有旨常々被仰候事――

(現代語訳:義景様の手腕だが、親父(朝倉英林孝景)に比べたらまだまだダメだ。
       だいたい俺は八十も近いのに加賀方面の総大将に任命するなんて、何考えてんだか。
       まあ、『これから先上手にやって行くにはどうしたらいいか』ってよく聞いてくるから見込み無しではないな)

兄の曾孫とはいえ主君に堂々とダメ出しをする金吾入道殿、やはり口が悪い。


ちなみに朝倉家は、現代でいう背広組と制服組のトップを並立させている少し変わった体制を取っていた時期が長いです。
背広組としての当主が朝倉本家で、制服組の総大将は宗滴なんですが、
宗滴死後、この総司令官ポストが実質空席。

朝倉氏の一門衆って安居家(英林の次弟・経景流)・大野郡司家(義景の叔父・景高流)・
敦賀郡司家(宗滴の養子・景紀流)の3家が重臣格なんですが、この3家は仲が良くない。

序列争いが激しいので、出兵時の総大将なんかは3家の持ち回りになってる様子があります。
かの元亀元年の合戦の際は、最初の防衛指揮は敦賀郡司の朝倉景恒、
信長撤退後の追撃は大野郡司の朝倉景鏡、次の浅井救援(姉川の合戦)は安居家の朝倉景健という回し方。
……そりゃ、自分の当番は無難に済ませようとして中途半端な結果になりがちだよね。

そもそも、宗滴が自分のポストを若い世代に移譲していれば、80間際で総大将になる事も無かったわけで。
金吾宗滴殿は後継者人事の問題を考えていなかったらしいという、タチの悪い話でした。


10 : 穏健保守系無党派 :2014/01/11(土) 02:27:12
永禄10年(1567年)11月、足利義昭は越前朝倉氏の本拠地一乗谷へ下向した。

朝倉家の当主義景は、義昭の懇望する上洛には難色を示したものの、妻を通じて
親戚にもあたる(義輝の室と義景の継室が姉妹)義昭を粗略には扱わず、国を
あげて歓待した。翌年4月には未だ元服を済ませていなかった義昭の元服式を、
自らが加冠を務めて執り行い盛大な宴を催した。そして元服の一月後、代々の
足利将軍が三管四職の館に御成りする際の形式に則り、義昭の自邸への御成りを
実現した。この行事のためにわざわざ京都より公家の二条晴良も下向、義昭に従う
御伴の衆の数百余人、塗輿に乗った義昭は朝倉家臣が厳重に警固する中、義景の館
に入った。

三献の儀が執り行われ、義景より太刀・弓・鎧など様々な武具が義昭に献上される。
そして、庭に見事な鴾毛の馬がこれも献上品として引き出されてきた。

「おおっ!」

さすがは衰えたとはいえ武門の棟梁足利家の血を引く者である。義昭は立ち上がって
馬をよく見ようとする。座敷に控えていた御伴衆も皆、庭に下りて馬を眺め讃嘆の
声をあげる。彼らも都を追われた落魄の身とはいえ、やはり武士である。

この時、義景は座敷にはおらず、かといって庭までは下りず、縁の下に置いてある
石の上に立っていたという。


見事な駿馬  立ち上がって眺める将軍(候補)  讃嘆の声をあげる庭の御伴衆
そして  将軍(候補)と御伴衆の中間で満足げに佇む管領(代理)  時は五月

なんとも絵になる構図ではないか!

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

義景「いやあ、うちの庭じめじめしててさあ、足汚れるの嫌だったの
    だからどーしよーかなーと思ったけど庭に下りるのやめちゃったあ」


「朝倉義景亭御成記」にはここまで書いてござりまする…
なんか執筆者の悪意感じられるのですけれども…


11 : 穏健保守系無党派 :2014/01/13(月) 17:10:18
永禄8年、京で将軍足利義輝が三好・松永勢に襲われて落命する。いわゆる「永禄の変」である。
義輝の弟で奈良・興福寺一乗院門跡の覚慶は、近臣の活躍により奈良を脱出し、伊賀次いで近江へ
逃れ還俗して義秋と名乗る。この一連の動きに尽力したのが、義輝の相婿にあたる朝倉義景である。

その後、若狭から越前へ移った義秋は、義景の加冠で元服、名も義昭と改める。義景は義昭を盛大に
もてなしたが、義昭の悲願である朝倉氏の武力により上洛、そして征夷大将軍へ任官、という構想
には同調しなかった。

朝倉家の当時の状況を見れば無理もない。
外様の有力家臣である堀江景忠が本願寺に通じて謀反を起こし、鎮圧まで義昭は一乗谷へ迎えられず
敦賀に留まったままであった。義昭の斡旋により本願寺とは和睦したものの気を許せる状態ではない。
義景の代になってからは上杉謙信と連合して、それまでより積極的に加賀一向一揆を攻めていたので
ある。

一族内では大野郡司の景鏡(義景の従兄弟)と敦賀郡司の景紀(義景の叔父)が対立していた。両者は
数年前の加賀攻めの折、景紀の息子景?(景みつ)が景鏡と大将争いをして敗れて自害して以来、険悪な関係に
あったが、義昭の敦賀滞留がそれに火を点けてしまった。敦賀滞留の折、義昭は景紀の次男景恒を
中務大輔に任官して重んじたが、景鏡がその後巻き返し、義昭が一乗谷へ移る際にその出迎えを務め、
式部大輔に任官される。一乗谷での饗宴の際、景鏡と景紀は席順を争って、片方が出席すれば、もう
一方は欠席する有様であった。

三好・松永に同調する勢力との差もあり、京都制圧の自信は持てなかった。むしろこのまま駒である
義昭を手中に置いて、周辺勢力との外交交渉に使おうとしたのだろう。越前公方の設立を考えたのかも
知れない。

そうこうするうちに、義景の嫡男阿君丸が死亡する。真相は不明だが京都から毒が調達され毒殺された
ともいい、義昭周辺が下手人との噂も立ったという。

一乗谷滞在9ヶ月にして、義昭は織田信長の元へ去る。義景は反対したが止めることは出来なかった。

「最後まで義景を見捨てない」言い残して義昭は去った。


大事な跡継ぎを喪い、一族の結束は更に乱れ、あまり当てに出来ない本願寺との和議だけが残った。

この直後、義景はおのれの花押を変更している。「足利様」と称される武家様の花押を家督相続後
20年にわたって使用してきたが、全く別の公家様の花押に変えたのである。

「新しい花押に変えたのでよろしく願いたい」

薩摩島津氏に宛てた書状で義景はわざわざこう断りを入れている。義景の心境や如何に…


12 : 穏健保守系無党派 :2014/01/17(金) 01:32:10
朝倉景鏡

天正元年(1573年)8月、小谷城を囲んだ織田軍に対する北近江出兵に際し、軍事行動の連続による疲弊を理由に出陣を拒否した。義景は自ら浅井救援に出陣するが敗れ、反対に織田信長の越前侵攻を招く(一乗谷城の戦い)。景鏡は義景に一乗谷からの撤退と自領の大野郡における再起を進言。景鏡は撤退してきた義景一行に宿舎を提供した上で、これを軍勢により包囲し、義景を自害に追い込み、その妻子を捕縛した。景鏡は義景の首級と、捕縛した母親(高徳院)・妻子・近習を信長に差し出し、降伏を許される。

後に上洛し、本領を安堵され、信長から一字を貰って名乗りを土橋信鏡と改めた。しかし天正2年(1574年)、桂田長俊を滅ぼそうと富田長繁が起こした土一揆が越前一向一揆に進展すると、一揆軍の標的にされ平泉寺に籠もるが戦死。10歳と6歳の子も捕らえられ殺害された。討死に際しては、劣勢と己の運命を悟った上で、わずか3騎にて敵中へ突入して討ち死したと伝えられている。


13 : 名無しさん :2014/01/20(月) 06:48:49
見事である

見事であるぞ


14 : 名無しさん :2014/01/20(月) 06:54:53
現代日本は朝倉家に通じる
我々は彼らから世の成り行きを推し量るべきである


15 : とはずがたり :2014/01/20(月) 17:39:42

基本戦国時代は興味なしの俺だったんですがやっと細川専制政治と三好政権辺りには関心出てきました。
織豊政権迄辿り着くのはもう少しです♪
徳川時代は時代としては非常に高評価なんだけど興味関心という意味ではもう一段落ちるなぁ・・。


16 : 穏健保守系無党派 :2014/01/24(金) 08:41:55
朝倉ネタだけでスレを維持するのは不可能


17 : 穏健保守系無党派@なんクリ世代 :2014/02/09(日) 17:43:57
戦国時代総合スレならネタは膨大にあるのになぁ


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