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【ログ】黄昏のカデンツァ (※ラルフ×アルカード)
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※保存用ログです。
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「待て」
その声を聞いたとき、ラルフ・C・ベルモンドは背筋に氷のような緊張が走るのを覚えた。
彼ほどの手練れでなければ、それを戦慄とさえ呼んだかもしれない。感じた緊張は氷柱のように
うなじをかすめ、身体の深い場所へと音もなく落ちていった。
どこかで鳥、あるいは別の何物かが、鋭い叫び声をあげて飛び立っていった。深閑とした暗黒の
城に、不吉なはばたきがかすかに木霊していく。
身構えて、腰にまとめた鞭の握りに手をやる。使い慣れた革が手の中できしみ、一瞬の気遅れを
追いやった。うす闇にただよう霧のむこう、幻のようにたたずむ人影を、鋭い視線で射抜く。
「誰だ。そこにいるのは」
「──その鞭。〈ヴァンパイア・キラー〉か」
霧が揺れて、石畳を靴が打つ音が聞こえた。ゆっくりと近づいてくる。
低い声はさらに続いた。
「ベルモンド家の者。そうだな? 不死者殺しの聖鞭を手にする者は、ただあの家系にしか出ないと聞く。
その鞭を真に使いこなせる者も、また。お前はベルモンドの者か、人間の男」
「それを訊いて、どうする」
相手は応えなかった。
ただ影の中で何かが蠢き、重たげな金の刺繍のあるマントが、崩れかけた狭い通路の縁をかすめて
小さな衣擦れの音をたてた。
まばゆいばかりの銀髪がさらりと靡いた。
壁の松明の光が、相手の半面を照らし出した。
我にもあらず、その一瞬、ラルフは言葉を失った。
それほどまでに、現れた者は美しかった。凍る月光が、そのまま人のかたちをまとったかのような。
その者は背のなかばまでとどく銀髪を肩に流して、感情の伺えない目でこちらを見つめていた。
おそらく、ラルフとさほど変わらない年齢であるのだろう──もし、人であるとするなら。
二十歳そこらと見える、青年だった。白い顔は彫像のように整い、長い睫毛の下の瞳はさえざえと
した氷青色。すらりとした長身に黒衣をまとい、マントの裏地の緋があざやかに目を射た。
一見女性的とさえいえる秀麗なおもざしにあって、まなざしにこもる力と、強靱な意志の光が何よりも
印象的だった。腰につるした細剣の柄の金色がにぶく光る。
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ほんの半瞬の忘我からさめて、ラルフは腰から鞭を外して強く両手に張りわたした。
「おまえは妖魔か。それとも、人間か」
「答える必要があるのか?」
感情のない声が近づいてくる。
「それはそうだな」
ラルフは太い笑みを浮かべた。
「この城で出会う相手は二つに一つ。──俺の行く手を塞ぐ者か、それとも──そうでないか、だ!」
声とともに、魔を討つ鞭の一撃が宙を走った。
確かに相手をなぎ払ったと見えた鞭は、だが空を切り、マントの翻る音がはるか頭上でした。すばやく
鞭を引き戻し、上を仰いだラルフの目に、上空から落下してくる黒衣の男と白く燃える刃のひらめきが燦と
燃えた。
髪の毛一筋の差で剣を避け、さらなる追撃を鞭の柄で払いのける。二撃、三撃、相手の攻撃は
おそろしく迅く、その細腕からは予想もつかないほど重かった。
(近すぎる!)
ベルモンドの鞭術は、近接戦にはあまり向いていない。腰から聖別された十字架を抜き、力任せに
なぎ払う。妖魔であればこれだけでもひるむはずだったが、相手は紙一重の差で身を引き、顔色一つ
変えずに、懐に入って鋭い突きを放ってきた。剣風が頬をかすめる。
からくも避けきって、ひとまず飛びのいて距離をとった。長い銀髪がうす闇に弧を描き、敵は、
美しい顔にほとんど表情をあらわさないままラルフを見た。
「なるほど。それなりの腕前はあるようだな、ベルモンドの男」
低い声がいんいんと伝わってくる。
「では、こちらからも問わせて貰おう。──お前が、このドラキュラ城へ来た目的は?」
「城主、魔王ドラキュラの討伐!」
答えと同時に鞭を飛ばす。
相手の剣が一閃し、弾かれた鞭先が激しい音をたてて壁の燭台を打ち砕いた。手首の一ひねりで、
鞭は戻らず、そのままの勢いで銀髪の敵の背後に飛ぶ。
ほとんど見もせずに、相手はその攻撃も弾いた。剣の間合いの外からラルフが加える猛攻を、目にも
とまらぬ素早さではじき返していく。
敵手ながら、ラルフは内心感嘆した。あれだけの迅さと正確さで剣を操れる者など、これまで見たことも
なかった。しかも若く、かつ、あれだけ美しいとは。
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十何度めかに弾かれた鞭先が、天井のシャンデリアのを直撃した。
シャンデリアは不気味な音を立ててゆがみ、次の瞬間、ぐらりと傾いだ。錆びついた骨のような残骸
が、衝撃に耐えきれずきしみながら相手の頭上に落ちかかる。
銀髪の敵は、その場から動かなかった。飛びのく間も与えられないと知ると、落下してくる超重量の
真鍮と水晶のかたまりにむかって、気合いとともに剣をふるった。
ただひと太刀で、巨大なシャンデリアが真っ二つに寸断される。激しい破砕音とともにもうもうと埃が
舞い、崩れ落ちる金属と貴石の破片のただ中に、ゆらりと月影のごとき麗姿が立った。
蒼氷色の視線が敵の姿を求めてすばやく左右に走ったとたん、
「遅い!」
収まりかけた埃の膜を割って、鞭を構えたラルフが突進してきた。
払いのけようとしたが、近すぎた。束ねた鞭が生き物のように刃にからみつく。至近距離からのひと
打ちに、ねじり取られた細剣は高々と宙に飛んだ。
飛びすさり、剣を取りなおそうとした青年の胸に、ラルフの肩が全体重をのせてぶち当たる。
二つの身体はもつれ合うようにして後ろに倒れこんだ。
「動くな」
すばやく身を起こそうとした青年ののど元に、鞭の柄が突きつけられた。
「動くとこのまま喉を潰す。──さあ、もう一度訊くぞ。おまえは何者だ? 人間か、それとも妖魔か?
何のためにこの闇の城にいる?」
ぐいと柄を押しつける。「答えろ」
ことごとく攻撃を弾かれているように見せかけて、その間に周囲の壁や床を崩し、相手の逃げ場を
奪っていたのだった。そして最後にシャンデリアを落として、その時できるだろう相手の隙をつく。
計略が見事に功を奏したことに、ラルフは満足していた。
「そういう口は、もう一度自分の状況を確かめてからきくことだ」
静かに青年は言った。美しい顔には、この期に及んでもなんの感情も表れていなかった。
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「負け惜しみを!」
かっとして言いかけたラルフは胸にちくりとした痛みを感じ、思わず口をつぐんだ。
見おろすと、いつのまにか青年の手が脇の小剣を抜き放ち、こちらの胸につきつけていた。
切っ先はわずかに胸を突き、胸当てを通して肌に食い込んでいる。あと少し手を動かせば、針のような
刃が肋骨を通りぬけて心臓を貫き、ラルフを殺すだろう。
どっと冷や汗がわいた。
「武器を引け、ベルモンド」
無表情に青年は言った。
「これ以上、やりあう意味はない。私にも。おまえにも」
ラルフは声もなく腕を引き、立ち上がるしかなった。相手が身を起こして軽く埃を払い、衣服を整える
さまをなすすべもなくただ眺める。
乱れた長い銀髪をうるさげに後ろへかきやる。小剣を脇の革鞘に戻し、飛ばされた剣に歩み寄って、
刃こぼれの有無をざっと確かめてから鞘に納める。
そのようなちょっとした動作ひとつさえ、舞踏のように優雅だった。身仕舞いを終えて黙然と立つ青年
に、ラルフはもう一度、用心しながら歩み寄った。
「お前は、いったい……」
「先ほど、言っていたな。この城で出会う相手は二つに一つ。行く手を塞ぐ者か、それとも、そうでない
か、だと」
蒼い月光を映す双眸に射すくめられて、ラルフは思わず頷いた。
「では、私は前者ということになる。もはや、私はお前の行く手を塞ぐ気はない。生半可な力では、ここ
は入ることのならぬ場所だ。人ならばなおさらな。しかし、ベルモンドの男、お前ならば先へ進んで、目的
をとげることができるかもしれない」
「目的──」
「魔王、ドラキュラ討伐」
瞳に悽愴な光が走った。ラルフは稲妻に打たれたように心臓がはげしく拍つのを覚えた。
「深い理由は聞かぬがいい。だが、ベルモンドの男、私もまた、お前と目的を同じくする者だと言って
おこう。あの男の暴虐と邪悪を、これ以上座視するわけにはいかない。──殺戮を殺戮で、憎悪を
憎悪で返すことは、しょせん真の悪たる混沌を益する行為でしかないのだから」
青年はふと目を伏せた。白銀の髪に隠れた白い頬に、はじめてかすかな翳が走ったかに見えた。
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「お前、名は?」
考えるより先に、ラルフはそう口走っていた。
青年はいぶかしげに顔をあげた。細い眉根を寄せて、いくらか困惑しているように思えた。
「名など、訊いてどうする」
「協力しろなどと甘いことは言わない」
ラルフは言った。どのみち、一人で暗黒の魔王と退治する覚悟で城に入ったのだ。今さら道連れや同盟者
など欲しいとも思わないし、誰かに助けを求めるなどベルモンドの誇り高き血が許さない。
だが、なぜかこの青年には離れがたいものを感じた。姿形の美しさ、そのすさまじい剣技の冴えにも
増して、さえざえとした瞳にこもる強靱な光が、ラルフの男としての何かに反応していた。
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「だが、お前の目的が俺と同じだというなら、この先、またかち合うこともあるだろう。あるいは、
再度剣を交えることになるかもしれん。その時に、相手をなんと考えればいいか、わからないと困る
と思っただけだ。俺の名はラルフ。ラルフ・C・ベルモンド、お前は?」
青年は小さく唇をあけて、閉じた。ためらうような様子を見せて間をおいたが、やがてぽつりと、
「──alucard、」
「なに?」
「アルカード」
静かな声で、青年はきっぱりと言い切った。
「〈ドラキュラに反する者〉、それが私の名だ。呼びたければそう呼べ、ベルモンド。私はべつに構わない。
この先、会うことがあるとは限らないが」
「俺の名はラルフだ。『ベルモンド』じゃない」
むっとしてラルフが言いかけたときには、すでにアルカードと名乗る青年はきびすを返していた。
ブーツの踵がかつかつと石畳を踏み鳴らして遠ざかっていく。最期に一瞬、あざやかな銀髪が闇に
浮かび上がり、再び沈んだ。破壊された通廊には、すでにラルフしかいなかった。
「アルカード」
暗い魔城にひとり立ちつくし、ラルフは呟いた。自然に拳に力がこもった。
月輪にも似た白い顔が脳裏によぎり、理由もわからず胸がさわいだ。
再びどこかで鳥が鳴いた。
異形の気配が近づいていた。きしるような鳴き声が通廊の果てから聞こえてくる。また霧が濃くなり、
腐った肉の異臭が漂ってきた。月が翳った。
──今はとにかく、進むことだ。暗黒の城の城主。混沌の魔王。
ドラキュラ。
「……お前とは、また会う気がする。アルカード」
ラルフは大きく息を吸い、ふたたび、聖鞭ヴァンパイア・キラーを握りなおした。
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「外してくれ」
冷たい指先が額をかすめ、閉じた目にうすく光がさした。
半面を覆った布が除かれた。ゆっくりと瞼を開く。最初の眩しさが少しずつ薄れると、目の前にかがみ込ん
で、じっとこちらをのぞき込んでいる蒼氷色の瞳に出会った。
ラルフ・C・ベルモンドは微笑した。
褐色の男らしい顔の左半面をたてに一文字、額から目の上をよぎって頬のなかばにかけて、薄茶色の傷あとが
刻まれている。
「……痕になってしまったな」
「なに。箔がついたと思えばいいさ。目がやられなかっただけ儲けものだ」
細い指先で傷あとをたどる美しい道連れに、軽く言ってラルフは笑った。
相手の肩からわずかに力が抜けるのを確認して、安堵する。この、一見まったく無感動に見える青年のわずか
な感情表現を的確に見分けるすべを、ラルフはこの半月ばかりのうちに、急速に身につけつつあった。
◆
「わたしは一度、コンスタンティノ─プルへ戻らなくてはならないから」
と、そのときサイファは言った。
戦いは終わった。ワラキアを震撼させた魔王ドラキュラ、ヴラド・ツェペシュは、ベルモンド家の末裔ラルフ・C・ベルモンド、
東方正教会の修道女サイファ・ヴェルナンデス、たまたま城にまぎれ込んだがために怪物に変えられていた流れ者グラント・
ダナスティの三人によって倒された。
だが、その影に、魔王自身の血を分けた息子の存在があったことは、戦いに加わった三人の仲間たちしか知ら
ない事実だった。
アルカード。
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ドラキュラ公の実子でありながら、父の狂気を止めるために魔の城に潜入していた彼は、その探索の途上でラルフと
行きあい、目的を同じくする者として力をあわせることとなった。
ヴァンパイアとなった父と人である母との間に生まれて、父からは闇の魔力を、母からは月にも似た美貌を受
けついだ彼は、また人間離れした剣技と、細い身体には似合わぬ強靱な体力の持ち主でもあった。ラルフの鞭術、
サイファの魔法、グラントの体術にあわせて、彼の超絶的な剣がなければドラキュラ公の殲滅は果たせなかったろう。
自らの父が滅びていく様をアルカードがどんな顔で見ていたのか、ラルフは思い出せなかった。そのとき彼は、
断末魔の魔王の爪の一撃によって左目を傷つけられ、ほとんど視力を失っていたのだ。
血にくもる視界に、混沌におかされ、巨大な怪物に変身したドラキュラが咆哮とともに崩れおちていく姿がぼんや
りと映っていた。血色の光のあふれる魔城の中に、長身の黒い人影が立っているのが見えた。
漆黒のマントに輝く銀髪が、風にあおられてはげしく乱れていたのはよく覚えている。そのあとラルフは意識を
失い、気がつくと、崩壊したドラキュラ城の外で、サイファの手による治療を受けていたのだった。
ラルフの目の治療がある程度すむまで、すでに出発したグラントを除く三人は、かつてドラキュラ城がそびえていた岩山
の麓の、黒い森の縁に野営していた。ラルフの治療の目処がついたのを見きわめて、サイファはグラントに続いてひと足先
に出立すると言った。かなり気が急いているようすだった。
「総主教はわたしが戻らないのを、心配してはいないでしょうけれど、たぶん、怖れているでしょうからね。
ヴェルナンデスの者は、昔から魔法を操る家系として、教会からは敵視されているの。わたしと、数少ないわたしの
血族が存在を許されるのは、ただ教会のために働いている間だけ。そこから一歩でも踏み出せば、たちまち悪魔
として断罪されるわ、あのドラキュラと同じように」
「ドラキュラと同じってことはないだろう。あんたは人間だ、サイファ」
「誰でもあなたのように考えるわけじゃないのよ、ラルフ・C・ベルモンド」
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するどい目で彼女はラルフを射抜いた。
「特に、総主教庁の人間はね。彼らが私を見つけて送りこむことだって、かなりの冒険だったのよ。ローマ=カトリック
は東方正教会よりずっと魔法や魔術に対しては厳格だわ。わたしという〈魔女〉を抱えていることがわかれば、
ただでさえあの都市を支配下に置きたがっているカトリック勢力は、きっとそこを突いてくるはずだもの。それに」
コンスタンティノ─プルはワラキアを含む、スラヴ地方における東方正教会の本拠地である。ローマ=カトリック教会
では教皇庁にあたる総主教庁がおかれ、その首座は総主教と呼ばれて、西方ヨーロッパ地区におけるのと同じ
く、宗教的権力を握っている。
サイファはその総主教庁によって、女の身で最初にドラキュラ公への刺客として送りこまれた。魔法を受けつぐ家系で
あることを隠しながら修道女として各地を転々としていた彼女は、潜入には成功したものの、ドラキュラの魔力によ
って石に変えられ、ドラキュラ城の一隅でラルフが来るまで、ずっと幽閉されていたのだった。
「──それに、自分たちと少しでも違う者を人がどれだけ怖れるかは、あなただって、いいえ、あなたこそ、よ
くわかっていることでしょう」
うなずくしかなかった。ラルフの生まれたベルモンド家自体、魔狩人としての強大な力を伝える血筋でありながら、
まさしくその力のために人からは畏れられ、排斥されて、今にも断絶しかけているところだったのだ。
その若当主であるラルフが、ドラキュラ討伐の任を受け入れたのは、没落しつつある家名をもう一度表舞台に立たせ
るための最後の賭けだった。教会と世間から背を向けられているというなら、ヴェルナンデスもベルモンドも同じことだ。
ベルモンドの者は月夜になると、狼に変じて赤子を喰う、などと噂されたことさえある。そうした風評をはねの
け、もう一度ベルモンドの名が栄光を取りもどすには、どうしても魔王ドラキュラ討伐という、確かな証拠が必要だっ
た。
「グラントが羨ましいな」
ついため息が漏れた。城で出会った四人のうちで、なんのしがらみも持っていないのはもともと流れ者のグラン
ト・ダナスティ一人だけだ。
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自称『ワラキア一身の軽い男』は、ドラキュラ城脱出の際にちゃっかり詰めこんできた金貨や宝石でポケットを膨
らませ、三度とんぼを切ってから、手を振って陽気に別れていった。今ごろはどこの旅の空なのか、ラルフにも
サイファにもわからない。
「あいつはまた気楽に軽業や、こそ泥をやってぶらぶらと旅を続けるんだろうな」
「他人を羨んでも仕方がないわ」
そっけなくサイファは言った。
「彼は彼で、生きていくべき道があるのよ。ただそれは、わたしたちのものとは違うだけ。──それで、彼
は?」
「彼?」
「アルカードよ」
ラルフは思わず振り返った。
ラルフの視線の先に、銀髪の公子は焚き火の灯りに背を向けてじっと佇んでいた。
息すらしていないかのような静けさだった。糸のような月が浮かぶ空は暗い。星の光を浴びながら、樹の幹に
片手をついて空を仰ぎ、かつて、父の城がそびえ立っていた空間を、放心したように見つめている。
「彼はいったいこのあとどうするつもりでいるの? あなたはベルモンドの領地へ帰るんでしょうけど、彼は、
自分で自分の帰る場所を壊してしまったのよ」
「俺といっしょに、ベルモンド家へ来ないかと言ってある」とラルフは答えた。
サイファは眉をひそめた。
「──なんですって?」
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「なんだ、その顔は」
ややたじろぎながらラルフは言い返した。
サイファが反対するだろうことはある程度予想していた。だが、こうもあからさまに顔をしかめられるとは思って
いなかった。つい口調がきつくなった。
「何か間違ってるか? あいつだってドラキュラ討伐の功労者だ。連れて帰って悪いことはないだろう。あいつは俺
たちと一緒に、自分の実の父親と戦ってくれたんだ、そんな相手を、用がすんだからはい、さようならで行くと
ころもなしに放りだせるか」
「わかってるわよ。だけどね、ラルフ・C・ベルモンド」
「あんたまで俺をベルモンド呼ばわりするのか、サイファ」
「何を怒ってるのよ」
ラルフは黙りこんだ。
いまだにアルカードが自分のことをベルモンドと姓で呼び、徹底して名前を呼ぼうとしないことは、ラルフのひそかな苛
立ちのもととなっていた。姓で呼ぶのはサイファやグラントに対しても同じことだったので、ラルフだけが腹を立てる筋合
いはないのだが、なぜか腹が立ってたまらなかった。
だいたい、事情はともかく、今はもうともに肩を並べて戦った仲間なのだ。人を名前で呼ぶくらい当然ではな
いか。あの感情のない声でベルモンドと呼ばれるたびに、アルカードが自分を単なるベルモンドの鞭の遣い手としてしか見
ておらず、ラルフという一個人として感じていないという気にさせられて、ひどく苛つく。おそらくアルカード自身は
それを意識していないだろうこともなんとなく推察できて、それがまた腹立ちの種だった。
「あなたの考えてることはわかるわ。言いたいこともわかる」
むっつりと黙ってしまったラルフに、サイファは小さくため息をついた。
「わたしだって、アルカードをこのまま放っておきたくなんかないわよ。仲間だもの。できればちゃんとした身分
と、身の落ちつく先を捜してあげたい、でもね、ラルフ」
口を結んで横を向いているラルフに、さとすようにサイファは言った。
「忘れないで、彼は魔王の息子なのよ。彼の身体には、父親から受けついだ闇の血と、闇の魔力が眠ってる。そ
のことは、否定できない事実だわ」
「あいつは父親のようになったりはしない」
「それはそうよ。興奮しないで、聞こえるわ」
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鋭く注意されて、はっと後ろを振りかえる。アルカードはさっきとまったく同じ姿勢で微動だにせず、父の城のあ
った空虚を眺めつづけていた。話どころか、そこに二人の仲間がいることすら忘れ果てているようだった。ラルフ
は低く呻って、唇を噛んだ。
「わたしたちは彼を知ってる。でも、ほかの人たちは知らない」
サイファはふたたび声を落として続けた。
「ほかの、世間のほとんどの人たちはね。
たとえわたしたちがなんと言っても、彼らは、アルカードの中の闇の血しか見ないでしょう。自分たちを虐殺し
た、悪魔の落とし子としてしか。正教会だけじゃない、カトリックだって、いいえ、カトリックこそは彼を憎むわ。わたし
みたいな〈魔女〉の比じゃない、正真正銘の魔王の息子、反キリストそのものだといって」
「……あいつは」
「アルカードは父親のようにはならない、そうね、わたしもそう思うし、信じてる。だけど、いくらわたしたちがそ
んなことを言ってみても、誰も賛成してはくれないわ。人は自分の信じたいことをしか信じないのだもの。こと
にそれが、自分たちよりずっと美しくて、強くて、永遠の生命を持っているような相手だったら」
ラルフはなにも答えなかった。
サイファはまたため息をついて、寝るわ、と口にした。
「まあ、いくら言っても無駄なんでしょうね。あなたのことだもの。どうせ、わたしどころか誰に言われたっ
て、一度決めたことを変えたりしないのなんかわかってた」
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「だったらなんでいちいちわかりきったことばかり言うんだ」
「誰かが言っておいたほうがいい、と思っただけよ。たぶん、あなたがいっしょに行くのが今はいちばんいいん
でしょうね。ほかに方法もないし。わたしだって、アルカードをみすみすひとりで敵だらけの世界に投げだしたくな
んかないもの」
ラルフは苦い顔をした。
サイファはさっさと寝支度にかかり、出立のための荷物をまとめて頭の下におき、杖を手にとれるところにたてか
けた。
「……おかしいわね、ラルフ」
毛布を広げてくるまりながら、思い出したように、小さく彼女は呟いた。
「わたしたちみんな、人間のために魔王と戦ったはずなのに、──いつのまにか、人間のほうを敵みたいに考え
てる」
しばらく間をおいて、おやすみなさい、とサイファは言った。
やがて、静かな寝息が聞こえてきた。ラルフは苦い顔のまま焚き火を睨みつけ、枯れ枝を一本放りこんだ。熾火
が崩れて、火の粉が散った。
アルカードはまだ動かないまま、光に背を向けてじっと暗い虚空を見つめている。
-
◆
「とにかく、わたしは総主教にはすべてを話します」
別れ際に、サイファはそう言った。
「いいことも悪いことも、もちろんアルカードのことも、包み隠さず全部ね。下手に隠したって、あとから調べられ
るだけだもの。それなら最初から、きちんと事実を出しておいたほうがずっとまし。魔王の血族というだけで
はなから存在を許さないような相手から、アルカードのことが伝わるのは絶対に避けなきゃいけない」
「そうだな」
とラルフは答えて、サイファが荷物を背中にくくりつけるのに手を貸してやった。
「気をつけて行けよ、サイファ。道中無事でな」
「あなたこそね、ラルフ。神のご加護を。どこの神様だか知らないけど。あなた方には、わたしなんかよりずっと
たくさんの祝福が必要になるはずだから」
そうしてサイファは別れていき、その数日後に、ラルフとアルカードもまたドラキュラ城の廃墟をあとにして、ベルモンド家の荘
園のあるシュツットガルトの山岳地帯へ向けての旅路についた。
辺境のワラキアからは馬でひと月半ばかりかかる旅だ。最初はラルフの目のこともあってあまり距離ははかどらなか
ったが、傷がふさがり、包帯がとれると、めっきり進みも早くなった。黒い森を抜け、人家も多くなってくる
と、兎や鳥を狩るために足を止める必要もなくなってきた。
ただ、困ることがあった。アルカードである。
まず、目立つ。それもひどく。
やっと入った最初の村で、アルカードを一軒しかない酒場で待たせておき、ラルフは馬を手に入れるために馬飼いの
家を探しに行った。
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ごうつくばりの親爺からやっと買った馬二頭を牽いてむかむかしながら戻ってみたところ、酒場はいつのまに
か、がやがや騒ぎたてる物見高い村人たちで鈴なりになっていた。
仰天して中に入ってみると、座席はがら空きで、そのまん中にアルカードが、出ていくときに座らせておいたまま
の席にぽつねんと座っている。
酒場の亭主も娘も、壁に貼りついたまま目を丸くして銀髪の公子を見つめており、先にいたらしい客も外の村
人たちに混じりあって、ぽかんと口を開いていた。
「私はなにかおかしいだろうか、ベルモンド」
からっぽの席でワインの杯を前にしたまま、アルカードが言った。
「なに?」
「皆が私を見る」
ラルフは頭をかかえたくなった。
とにかくワインの代金を払って、引きずるようにしてそこから連れだす。馬といっしょに村はずれまでむりや
り引っぱっていって、やっと息をついた。アルカードはほとんど表情を変えないが、馬といっしょにされたことには
多少の不興の念を抱いたようだった。
「おかしいところがあるなら言ってほしい。黙っていられては、わからない」
「……あのな」
どう説明していいか困る。まさか、おまえがあまり綺麗だからいけない、と言うわけにもいかない。
なにしろ、こんな田舎に女でもそうはいないような美貌の、それも、どこの大貴族の子弟かと思わせる豪奢な
身なりの貴公子が、いきなり出現したのだ。見るな、というほうが無理だろう。
「とりあえず、おまえはここで馬と待ってろ。俺は村へもどって食料と、おまえ用のローブか何か買ってくる。
いいか。ここにいろよ。動くんじゃないぞ」
「私は馬ではない」
「やかましい。待ってろと言ったら待ってろ」
アルカードは黙った。
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ラルフは一人で村へとって返し、次の村までの食料と水、それに、アルカードに着せるフード付きの僧衣のような
長いローブを手に入れた。
途中でさんざん、あのお美しい若君はどこの誰か、何の用でこんなところを旅しているのかと訊かれたが、
いいかげんに生返事をするか、最後には面倒になってじろりと睨みつけるだけですませた。長身とがっしりした
体格に、半面に刻まれた深い傷あとが強烈な眼光を倍増しにしてくれたらしく、ひと睨みされた相手はたいてい
言葉もうやむやになって、そのまま口をつぐんでしまった。
村はずれへ戻ってアルカードにローブを着せると、「別に寒くはない」と抗議された。
「暑い寒いの問題じゃない。とにかく、人前ではそれを着てろ。頭も隠せ。そうだ。いいか、絶対に顔をさらす
なよ。人目の多いところでは特にだ」
「……私は、そんなにおかしいのか」
「なに?」
ラルフは思わず手を止めた。
フードをかぶせられながら、アルカードはわずかに俯き、長い睫毛を伏せていた。
「人前には顔を出せないほど、私は、どこかおかしいのか。ベルモンド」
「──アルカード」
「私は、醜いか」
「……アルカード。あのな」
あいかわらずのベルモンド呼ばわりにはかちんときたが、どうやら妙な方向に誤解しはじめているらしいのを
放っておくわけにもいかない。
ラルフはいったんおろしたフードをはねのけ、うつむいた顔を強引にあげさせた。
「おまえは別にどこもおかしくない、アルカード」
顎をつかまれて、驚いたように目を見開いているアルカードにきっぱりと言った。
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「あいつらがおまえをじろじろ見るのは、おまえがあんまり綺麗だからだ。ただの田舎者なんだよ。見たことも
ないほど綺麗な貴族の若君が来たってんで、ぞろぞろ見物に来てただけだ、何もおまえに問題があるわけじゃな
い。勝手に見させておけばいいんだ、あんな奴ら。おまえは何も、気にすることはないんだ」
「ではどうして、こんなもので顔を隠させる」
そう問い返されて、ラルフは返答に窮した。
こんなところで、無駄に人目に立つのは危険だからだ、というのがまっ先に浮かんだ理由だったが、何かが
ラルフにそう答えさせるのを躊躇させた。
確かに危険は危険なのだ。下手に目立って、サイファがコンスタンティノープルへ到着する前にアルカードの身の上が人に知られ
たら、たちまち手に手に杭や十字架を振りまわした聖職者や村人に追いかけられることになるだろう。このあた
りはまだ、魔王ドラキュラの恐怖がなまなましい土地なのだ。アルカードが魔王の息子だとわかれば、のんびりした旅な
どとうていしていられなくなる。
だが、それだけではない、形にならないある感情があった。まるで珍奇な獣か何かのように、指さしてひそひ
そ言う村人たちのまん中でぽつんと座っているアルカードを見たとき、どうにもならない怒りと苛立ちがラルフの中で
噴出したのだった。
こんな奴らがこいつに対してつべこべ言う権利はないはずだ、という思いと、それ以前に、だいたいこいつら
如きがアルカードを目にすること自体気にくわない、という、理屈も何もない感情が渦を巻いて、あやうく周囲の人
間を殴り飛ばすところだったのだ。
寸前で理性が勝利を収めはしたが、不快なことに変わりはなかった。ラルフは唸り声をあげた。
「……とにかく、他人の前ではそれをかぶってろ。おまえだって、用もないのにじろじろ見られるのは嫌だろ
う。俺と二人の時には取ればいい。いいか。わかったな」
「──わかった」
-
あまり納得はしていないようだったが、旅の間はラルフに言われたとおりにするようにと、サイファが前もって言い
聞かせておいたらしい。
また俯いてフードをかぶろうとするので、手を伸ばしてはね上げた。
「俺と二人の時は取ればいいと言っているだろう。取ってろ、うっとうしいから」
アルカードは逆らわなかった。
二頭の馬のうち、ほっそりした青毛の牝馬をアルカードに、栗毛の去勢馬を自分のものに決める。馬具をつけ、鞍
にまたがったアルカードの柔らかな銀髪が陽を浴びてきらめくのを見て、ラルフは満足した。
くつわを並べ、額に散りかかった髪をなにげなくかき上げてやる。
この顔を目にするのも、この髪に手を触れるのも自分だけだ、と考えると、押さえきれない嬉しさがこみ上げ
てきた。その日一日、馬上でラルフはしごく上機嫌だった。
人里にはいるときにはアルカードにはローブを着せ、フードを被せることで、目立ちすぎるという点はある程度解
消できた。
しかしここでまた、別の問題があきらかになった。
二つめの問題は、金銭的価値というものにアルカードがまったく無頓着、というよりほぼ無知に近い、ということ
だった。
街道沿いに店を広げていた物売りから馬用の塩や、その他の必需品をいくつか買った時から悪い予感はしてい
た。アルカードは品物を受け取ると、さっさと品物だけを持って馬のところに行ってしまったのだ。
道中の資金を管理しているのはラルフの方だったので、それを知っての行動だと思えなくもなかったが、それに
してはあっさりしていすぎる。
その場を離れてから、品物を買ったらその分の代金を支払うものだ、と教えると、そうなのか、とラルフ以外
にはわからないようなわずかな驚きをこめて答えた。ラルフはふたたび頭をかかえたくなった。
-
「そうだ。いいか、ものを買ったらちゃんと金を払え。これは鉄則だ。払わない奴は泥棒と言われて追いかけら
れることになる。追いかけられるのは困るだろう、アルカード」
「それは困る」
アルカードはしごく真面目だった。
「わかった。次からは、きちんと買ったものの代金は払うことにする」
本当にわかっているのかどうかはいくらか疑問だったが、とにかく、その場はそれで済んだものとラルフは
思っていた。
しかし、済んでなどいなかったのはその次の村に足を踏みいれたときにわかった。
ラルフがいつものように、アルカードを村の広場で待たせておいて(店や酒場に連れて入らない程度の自己防衛は
もう身についていた)一人で用を済ましにでている間に、ひどく腰の曲がった老婆が、しなびた林檎を五つ
六つ篭に入れて、広場で腰かけていたアルカードによろよろと近づいてきたのだ。
「ご立派な若君。林檎はいかがでございますか。あたしの農園でとれた、新鮮な林檎でございますよ」
入っていたのは新鮮どころか、十年前に実って以来ずっと木の上でさらされていたのではないかと思われるほ
ど、しわしわの林檎だった。
アルカードは黙ってその中からひとつ取り、かわりに、マントにつけていた繊細な造りの宝石入りの金鎖を、無造
作にちぎって渡そうとした。
そこでちょうどラルフが戻ってきて、あわてて止めたからよかったようなものの、しなびた林檎ひとつのため
に、鎖一本でこの村の地所がまるまる買えるような貴重な宝をぽんと手放すところだった。老婆には銅貨を
何枚かやって追いはらい、ラルフはあらためてアルカードに向きなおった。
「何をやってるんだ、おまえは。あんなとうてい喰えそうもないような林檎ひとつに、そんなものを渡そうとす
る奴がいるか」
-
アルカードは蒼い目でラルフを見あげた。
「買い物をしたら代金を払えと言ったのはおまえだ」
「それはそうだが、相場ってものがあるんだよ。おまえのは行きすぎだ。見ろ、婆さん腰抜かしかけてただろう
が。だいたいあんな婆さんが宝石入りの宝物持ってたって、盗んだと思われて始末に困るのが落ちだ」
このあたりは貧しい村が多い。アルカードの金鎖の石ひとつ、上着の袖の飾りボタンひとつで、家族をまる一年養
っていけるような家がほとんどなのだ。黄金の装飾品など目にする機会は一生ないだろう。老婆が腰をぬかしか
けたのも無理はない。
返事はない。ラルフはため息をついた。
「もういいから、おまえは買い物はするな。商人が声をかけてきても無視しろ。欲しいものがあれば、言えば俺
が買ってくる。おまえに任せておいたら、領地に帰りつくころには自分で自分を身ぐるみ剥いでいることになり
かねん」
「そうなのか。難しいな、いろいろと」
そう答えて平然としている。ラルフはまたため息が出そうになった。
しかし、考えてみれば当然かもしれない。どういう幼少期を過ごしたのかはまだ訊いたことがないが、魔王の
息子に生まれて、公子として魔の城で成長し、自分以外に人間は母親しかいないような環境で、魔術と魔物に囲
まれて暮らしていれば、世間なみの常識など身につかなくてあたりまえだろう。むしろ、そんな環境で育って、
他人への思いやりや気遣いをなくしていないことのほうが驚きだ。
おそらく、母親の薫陶のたまものなのだろう。アルカードが、ふだんの冷淡な態度からは想像できないほど、弱い
ものや小さいものに対して優しい、ということを、ラルフは早くから感じとっていた。とうてい食べられそうも
ない林檎を買おうとしたのも、その現れなのだろう。代金の点ではやりすぎたが。
他人の悪意にも、あまり気づかない。というより、悪意を向けられても、それが何故なのか理解できずにとま
どっていることのほうが多い。
-
害意や敵意には、さすがに敏感に反応する。しかし、街のちんぴらがアルカードの、いかにも良家の子弟風の物腰
にこれ見よがしに唾を吐いてみせたり、聞こえるような大声で嫌味を並べていても、不思議そうに相手を見つめ
るだけでなんの反応も示さない。ただ単純に、なぜ相手にそんなことを言われるのか理解できないようだ。
逆に、戻ってきたラルフがちんぴらどもを追い散らしたあとで、「やはり、私は何かおかしいのか」と、前の
疑問を蒸し返してくる。ラルフは苛ついた。
「だから言ってるだろう、おまえは何もおかしくないんだ。馬鹿なのはあいつらだ。あんな馬鹿どもは放っとき
ゃいい。悪口が言えりゃあ、相手なんか誰でもいいんだ。おまえが剣でも抜いてみろ、あいつら、たちまち尻に
帆かけて逃げ出すに決まってる」
「しかし、ああいうことを言われるということは、私に何か言われるべき点があるということではないのか」
「あるか、そんなもの」言下にラルフは否定した。
「あるとすれば、おまえが奴らより綺麗で、金持ちそうに見えて、身分だって高そうに見えるからだ。おまえ
じゃなくても、おまえと同じような相手にだったら連中、誰にでも喧嘩を売るのさ。馬鹿を相手にする必要は
ない。気にするな」
アルカードはまだ何か言おうとしたが、途中で思い直したらしく、口を閉ざして、またフードを深くおろした。
なるほど、サイファが心配するわけだ、とラルフは思った。
この、人間離れした美貌と超絶的な強さを持つ貴公子は、世間的なことに関してはほぼ赤子同然、ということ
らしい。ラルフがいっしょにいなければ、まさかすぐ殺されることはないだろうが、あちこちで衝突してたちまち
追われる身になったに決まっている。
人間がどういうものかに関しても、あまり分かっていないようだ。ちんぴらどもに対する態度がいい例だろ
う。剣のひとつもひらめかすか、ラルフのように眼光ひとつで黙らせることもこの青年ならたやすいだろうに、
ひたすら、人に悪く言われるのは自分に何か問題があるからだ、と思いこんでいる。
-
何にそれほど引け目を感じなければならないのか、ラルフには見当がつかなかった。体内に流れる闇の血か?
身体の半分は人間ではないという思いがそうさせるのか?
しかし、たいていの人間よりあいつはよほど上等だぞ、とラルフは腹立ちまぎれに思わずにはいられなかった。
街の馬鹿者どもは言うに及ばず、これまでベルモンド家や、サイファのヴェルナンデス一族をさんざん痛めつけてきたにも
かかわらず、いったん魔王ドラキュラが現れたとなれば手のひらを返したようにすり寄ってきた教会の聖職者どもな
どと比べたら、アルカードのほうがはるかに高潔で、純粋だ。
彼は自らの父と戦って、その狂気とともに息の根を止めたのだ、なぜ誰もその勇気と、おそらくは味わったで
あろう子としての深い悲しみを察してやらないのか。
むろん、アルカードの素性をさらすことになるのでその事実を天下に示すことはできないが、人々のこんな扱いは
あまりにも不当だ、という気がしてならない。
思ったところで世間はどうにもできなくとも、せめて自分くらいは、アルカードを正当に扱ってやりたいという思
いがますますつのった。
早くベルモンドの領地に入りたい。あそこなら、彼を匿う場所もあるし、世間や人間に慣れるまでゆっくりと
過ごさせる余裕もできる。
サイファはもうコンスタンティノープルに着いただろうか、とラルフは思った。まだもう少し時間がかかるに違いない。
どう説明するにせよ、彼女ならうまくやってくれるだろう。総主教がどう出てくるかはまだわからないが、
とにかく、教会内にも味方は一人いるわけだ。
少し後ろから馬を進めているアルカードをちらりと振りかえる。
二人の時は取れと言っているのに、また彼はフードをおろしていた。垂れた布の向こうの表情は、いつもより
いっそう読みにくかった。
「アルカード」ラルフは呼びかけた。
「少し休んで、食事にしよう。あっちに川がある。馬を休ませて、ついでに俺たちも、顔でも洗ってさっぱりし
ないか」
-
◆
その日、珍しく、アルカードは強情だった。
「なにも困ることはないだろう」
困っているのはこっちだ、とラルフは胸の中で思った。
「今度の街は今までのちっぽけな村とはわけが違う。このあたり一帯の交易の中心になっている大きな街だ。
おまえみたいな身なりをした者くらい大勢歩いている。かえって目立たなくてすむくらいだ。なぜ嫌なんだ?」
返事がない。
アルカードはうつむいたまま、自分の馬のふさふさしたたてがみを上の空のようすで撫でている。
いつもよりいっそう、その横顔が白いように見えるのは錯覚だろうか。最近習い性になってきたため息を、
ラルフはまたこっそりついた。
村落の多い山里を抜けて、大街道に合流する最初の都市だった。あと馬で半刻も行けば、このあたりではほぼ
最大と言えるカルンスタイン伯の城塞都市にたどり着く。
ワラキアが魔王ドラキュラの支配によって魔の跳梁する場所となってからは、この街がほぼ魔界と人界の境目のように
なっていた。
ここからワラキア側の少し大きな集落はほとんど全滅して、今は復興に必死だ。しかしカルンスタイン伯の都市は伯の
手勢による懸命の防衛もあって、かなりの程度までにぎわいを保っているらしい。魔王ドラキュラ打倒の噂が拡が
って、一時は逃げ出していた商人たちも戻ってきているそうだ。今夜は久しぶりにまともな宿を取って湯を使
い、食事もし、暖かい寝床で眠れると、ラルフは内心楽しみにしていたのである。
「おまえ、最近あまり寝ていないだろう」
アルカードの肩が小さくはねた。
-
「俺が気づいていないと思うなよ。ここ二、三日は特に、ほとんど朝まで一睡もしてないはずだ。どこか身体の
調子でも悪いのか?」
やはり返事は帰ってこなかった。アルカードは顔をそむけて、黒馬のつやつやした首に頬を埋めた。アルカードになつ
いている牝馬は、やわらかい鼻先を甘えるように主人の肩先にすりつけて、目をしばたたいた。
「調子が悪いならなおのこと、街へ行ってきちんとした食事をして、寝床をとったほうがいい。おまえはだいた
い食わなさすぎる。小鳥のほうがまだ食うくらいだ。いいから黙っていっしょに来い。サイファも俺の言うこと
は聞けと言ってたんだろうが」
「街へは……行かない」
細い声だった。だが、意志ははっきりしていた。
「私はここで待っている。街へは入らない。気に入らなければ、そのまま置いていってくれてかまわない。
ただ、街へは行かない。私は、ここにいる」
駄目だこれは、とラルフは思った。
理屈もなにもあったものではない。どんなに説得しても、街は嫌だ、行かない、の一点張りで、しまいには気
に入らなければ置いていけ、と来た。
そんなことはできないくらい分かれ、阿呆が、とむかむかしながら内心呟く。
置いて行けだと? 一人で放っておいたらたちまち自分で自分を身ぐるみ剥ぐような世間知らずが、よくまあ
偉そうに言えたものだ。
この数日、ただでさえ言葉の少ないアルカードが、日を追うごとにますます無口になっていくのを、ラルフはずっと
気にかけていた。普段でもあまり喋らない口が、ほとんど「ああ」と「いや」の二語しか発さなくなり、話し
かけても、つついて気づかせるまでぼうっと宙を仰いでいることのほうが多い。
-
抜けるような白い肌がだんだん血の気をなくしているようなのも気がかりだった。最近では白いのを通り越し
て、蒼白くさえ見えることがある。頬のあたりにわずかなやつれの影が出ているようなのは、気にするあまりの
錯覚だろうか。
それに加えて、ここ数日は夜もほとんど眠っていないようだ。体内の魔の血がそうさせるのかもしれないが、
いくらなんでも半分は人間で、生きている以上、いつかどこかで休んでおかなければ体力が保たないのは当然だ
ろう。ましてや、血のつながった父親との、あれだけの戦いをくぐり抜けてきた直後では。
「それならせめて理由を言え、理由を。なんで行きたくないんだ。今まで村に入るときは、そんなことは一度も
言ったことがないだろうに」
「……理由など、言う必要はない」
アルカードは完全にラルフに背を向けてしまっていた。
「おまえは行きたければ行けばいい、ベルモンド。──私は、行かない」
とどめの『ベルモンド』呼ばわりで、最後の我慢の糸が音をたてて切れた。
「ああ、そうかよ」
乱暴に吐き捨てて、ラルフは踵を返した。
「それじゃ勝手にしろ。俺は行く。おまえはここで気がすむまでいつまでも待っていればいい。好きにしろ。俺
はもう知らん」
アルカードは黙って立ちつくすばかりだった。
腹立ちまぎれに馬に飛び乗り、腹を蹴る。蹄を鳴らして街道へ出ていく自分の背中を、黙って追いかける蒼氷
色のまなざしをラルフはずっと意識していた。
振り返らないようにするには、相当の努力が必要だった。
-
夕暮れ近くなって、ようやく街の門が見えてきた。
ともすれば馬の向きを変えたがる自分の手を叱りとばしながら、荷車や徒歩の、または馬に乗った自分と同じ
ような旅行者、馬車を連ねた隊商などに混じって大門をくぐる。
魔王が滅した今でさえ、夜の外は安全な場所ではないのだ。まだ生き残っている魔物の残党が夜闇にまぎれて
人間を襲うのに加えて、盗賊や追いはぎも横行している。日没後は門はかたく閉ざされ、出るのはともかく、入
ることはまず許されない。もしアルカードが気を変えて追いかけてきたとしても、中には入れてもらえないことになる。
──まあ、あいつなら……
人間の追いはぎやそこらあたりの妖物にやられはしないだろう、と強いて思うことにした。なにしろすべての
魔の上に君臨する王を、その手で倒した腕前の持ち主なのだ。多少身体の調子が悪くとも、そんな小物に遅れを
とるような男ではない。
そこでまた自分が『心配』していることに気づき、ラルフはむかっ腹を立てた。
脳裏をちらちらする白い小さな顔をむりやり振り払って、広場に面した一軒の料理屋に入る。宿屋も兼業して
いるその店はけっこう繁盛しているらしく、一歩はいると、料理の温かな湯気とエールの匂いがふわりと顔を包んだ。
「へい、旦那、いらっしゃい」
店の亭主が前掛けで手を拭きながらやってきた。
「お食事で? それとも、お泊まりですかい?」
ひとまず食事をすることにして、料理とエールを一杯頼んだ。
注文を受けた亭主が厨房へ景気よく料理をと怒鳴る。ラルフはなんとなく手持ちぶさたな気分で、ぴかぴかの
テーブルに肘をつき、あたりを見回した。
-
席のほとんどは人で埋まっていた。ドラキュラが死んだという情報は、ラルフたちが思うよりも早く、遠くまで
拡がっていったらしい。今こそ稼ぎ時と見たのか、異国風の身なりの商人らしい男たちがいくつもテーブル
についてひそひそと商談をかわしている。大きく胸の開いた女を侍らせて、宵の口から真っ赤な顔をしている
ものもいる。陽気な笑い声や話し声、女の嬌声などがにぎやかに飛びかう。
妙な違和感があった。
あの闇の城、ドラキュラ城であったことを考えると、この喧噪はまるで嘘のようだ。魔物の襲撃があったころはこ
こも火の消えたようだったのかもしれないが、今では、それでさえいい稼ぎにしようとしている人間たちが
うじゃうじゃ集まっている。
こいつらは知らないんだ、とラルフは思った。
ドラキュラ城での戦い、サイファやラルフ、グラント、そしてアルカードが、あそこで何をし、どれだけ傷つき、
苦しみ、恐怖と悲しみに耐えて勝利したか。
知らせようとは思わないし、知ってほしいとも思わない。だが、何も知らずに赤い顔で馬鹿笑いしている
太った商人たちを見ていると、わけもなく気分が悪くなってきた。
こいつらは女を抱いて、酒を飲んで笑っていられるのに、なぜドラキュラを倒したあの美しい青年は、ひとりで
夜の闇に置き捨てられなければならないのか。父を殺した傷を胸にかかえ、戦いの疲れも癒えない身体で、
孤独と沈黙の中、俯いたまま。
食事が来た。この店の看板料理らしい、鶏肉を赤いパプリカで煮込んだものだ。
ひと匙すくって口に運ぶ。熱い肉汁と、スパイスの香りが口に広がった。
パンを割き、スープに浸して口に運ぶ。エールを飲む。肉を噛む。またパンを割く。
そんなことをしばらくくり返したあとで、ラルフは、目の前の皿の中身がまったく減っていないことに気が
ついた。エールのジョッキもいつのまにか泡が消えかけたまま放置され、ばらばらになったパンくずが手元に
散乱している。
-
そばを通りすぎた亭主が妙な顔をした。
「どうなさいました、旦那。うちの料理はお口に合いませんかい」
「いや……」
料理は確かに申し分のない味だった。エールも濃くて旨いし、パンも焼きたてだ。
それなのに、どうしても食べる気にならなかった。空腹なのに、喉を通らない。追いはらっても追いはらって
も、まぶたの裏に浮かびあがる白い美貌がある。
ずっと背中を追ってきた蒼氷色の視線が、今さらのようにずきりと胸を刺した。
もう大門は閉まっている。もし彼が思い直して追いかけてきていたとしても、門の外で立ち往生していること
だろう。
あの青年がそう簡単に気を変えるようなことがあるとは思えないが、やはり、引きずってでも無理やり連れて
くるのだったとラルフは悔やんだ。あたりの喧噪に無性に腹が立った。アルカードが外でひとりでいるのに、なぜ
おまえらはそんなに馬鹿みたいに愉しそうなんだと怒鳴りつけそうになる。
理屈も何もないのは俺の方だな、とラルフは苦い思いで考えた。
客たちに罪があるわけではない、彼らは何も知らないのだから。ただ、アルカードが払った犠牲のおかげでこう
していられることに、彼らがあまりに無関心でいることが──
いや、認めよう、とラルフは思った。
俺はあの白い、美しい顔が隣にないことが、物足りなくてたまらないのだ。
ほとんど喋らない、喋ってもたまに相槌をうつだけの相手だが、ちょっとしたことで氷の青の瞳がわずかに
和むのを見るとき、また形のいい唇の端がかすかに上がるのを見るとき、どれほど胸が躍るかラルフは今まで意識
していなかった。
-
彼がそばにいない今、それがどれだけ大きなことだったかわかる。手をつけられないまま冷めかけている料理
も、アルカードがいたなら、今ごろはあっという間にからになっていたろう。彼はいつものようにひとかけらのパン
とチーズと、少しばかりのワインしか欲しがらないかもしれないが、ラルフが気持ちよく大量の食事を片づけて
いくのはたいてい喜んだ。ほかの人間にはまずわからない程度の、わずかな声や瞳の変化で。
街へ行かない、とアルカードが言ったとき、なぜあれほど腹が立ったのかも今はわかった。この大きな街で、旨い
料理や目新しい品、たくさんの人や大きな建物を見せたとき、アルカードがどんな顔をするのか、それが見てみたか
った。最近、やつれた顔でうち沈んでいる様子の彼を、少しでも元気づけてやりたかったのだ。
それをすげなく断られたので、腹を立てた。
言うならばつまり、八つ当たりだ。
(子供か、俺は)
ラルフはパンくずだらけの食卓に目を落としてもうひとつため息をつき、心を決めた。
やはり、今からでもアルカードの所に戻ろう。
どうせ、こんな気分でひとりで宿をとっても、眠れるわけがない。それより、いつものように焚き火のそば
で、固い地面に毛布を敷いても、そばにあの銀髪がきらめくのを見ているほうがずっとゆっくり休めるはずだ。
「あれ、旦那、お宿はどうなさるんで」
食事代を置いて席を立とうとするラルフに、亭主がまつわりついた。てっきりこのまま泊まるものだと思って
いたらしく、あわてた顔ですっとんで来て、
「今ごろからお出かけで? なんでしたら、先にお部屋のほうをご用意させていただきますが」
「いや、部屋はいい。少し用を思い出した。食事は旨かった、代金はそこに置くからな」
「いやいやいや、旦那」
-
亭主は大げさに両手を振って、
「どんなご用か存じませんけどね、今夜お泊まりになるんでしたら、早い目にお部屋を取っとかれたほうがよう
がすぜ。なんせこのごろ、カルンスタインは新しい聖なる巡礼地になるかもしれねえってんで、そりゃあ大勢のお客が
来るようになってますんでね。夜遅くなってからまたお宿を探そうなんて、無理な相談で。今でしたらこちら
で、正面の広場を見渡せる最上のお部屋をご用意できるんですがね」
「巡礼地?」
ラルフは眉をひそめた。
「このへんで新しい聖人が出たか、それとも何か奇跡でもあったっていうのか」
「あれ、旦那はご存じなかったんですかい」
亭主の方が目を丸くした。
「それ、あれですよ。街の中心の広場で。新しい記念碑が建ってるでしょうが」
わざわざラルフを戸口まで引っぱっていって、指ししめした。人々が行き交う街の目抜き通りの中心に、まだ
できたばかりらしい、石の色も新しい十字架型の碑が建っている。
亭主は背伸びをしてラルフの耳に口を近づけ、声をひそめた。
「実はありゃあね、旦那、三年前、魔王ドラキュラの妃の魔女が退治されたあとなんで」
「……なんだと?」
ラルフは愕然とした。
魔王ドラキュラの妃。魔女。人間の、妻。
それはつまり、アルカードの──
「あ、もう何も害はねえ場所なんですよ」
ラルフの顔色が変わったのを、恐怖と勘違いしたらしい。亭主は意気揚々と胸を張り、
-
「なんたって、教会の方々が何度もお祈りと聖水でお清めなすったし、ああして聖なる十字架も立ててございま
すんでね。それに、あのドラキュラももう退治されたってこってすし、なんにも危険なことなんかございませんとも。
このごろじゃ、恐ろしい魔女が神の御力で打ち倒された場所だってんで、有り難がってお参りする方も増えて
まさ。悪魔のまどわしを打ち砕く力がいただけるって」
ちょっと十字を切って、いい気持ちそうに亭主は喋りまくった。
「なんせその魔女と来たら、やさしい顔して病人のいる家をあちこち回っちゃ、薬と騙して、毒を呑ませて殺し
たってことでね。もし告発されてなかったら、カルンスタインの人間全部が毒で死んでたかもしれねえって話ですぜ。
それでまた、恐ろしいじゃありませんか、なんと魔女めときたら、魔王の間に子供まで産んでたって噂で。
魔女自身はえらく別嬪だったそうですが、まあ悪魔の息子じゃどっちにしろ、二目と見られねえような化け物に
違いねえで──あ、旦那?」
喋りつづける亭主を無視して、ラルフは大股に祈念碑に近づいた。
大人の腰ほどの高さの石の台座に、真新しい青銅製の十字架が据えられて、道行く人々を高いところから見お
ろしている。台座には同じ青銅製の銘板がはめ込まれ、文字が刻まれていた。
『魔王ドラキュラの妻にして呪われし魔女、エリザベート・ファーレンハイツ
ここにて神の裁きを受け、浄化の火に灼かる』
つづけてラテン語で二行、
『イト高キ神ノ正義ハ
カクテスベテノモノノ上ニ働カン』
-
ラルフは無言で拳を振りあげ、銘板の上に叩きつけた。
すさまじい音がして、銅板が少しへこんだ。周囲の人々が驚いたように振り返った。店の亭主が悲鳴をあげ、
あたふたと走り寄ろうとした。
「だだ旦那、いったい何をなさるんで!?」
「どけ!」
怒鳴ったラルフの顔に何を見たのか、亭主はひっと喉を鳴らして一歩下がった。
ラルフはもうそれ以上かまわず、店の表に繋いであった馬の綱を解くのももどかしく飛び乗って、すっかり
暮れた街の通りを、まっしぐらに駆けだした。
大門の門番はラルフの形相を見るやいなや扉を開けた。止めでもしたら殺されると即座に悟ったのだろう。ほと
んど邪魔もされずにラルフはくぐったばかりの門を出て、夜の街道を、蹄の音を鳴らしながら疾走した。
(畜生)
なんで言わなかった、と胸の中でラルフは叫んだ。
あそこは母親が死んだ場所だ、殺された、人間の手で生きたまま火に投げ込まれた場所だ、だから行きたくな
いと、ただそう言ってくれていればすむことではないか。
それとも、口にすることすらできないほど辛い記憶なのか。そうかもしれない。この数日、アルカードが眠って
いなかったのも、顔色が悪くなる一方だったのも当然だ。彼にとってはカルンスタインへ近づく足の一歩一歩が、思い
出したくない過去の悪夢への旅路だったのだろうから。
母親が人間だというのは聞いていたが、それ以外のことはアルカードはまったく口にしていなかった。三年前に殺
された、魔王の妻。それはドラキュラが、それまでの沈黙を破って突然、人間たちへの攻撃を開始した時期と一致する。
-
あるいは、とラルフは雷光のように悟った。
最初にことを起こしたのは、人間のほうではなかったのか。
人間の女性を娶り、子供まで成すほどに魔王が妻を愛していたなら、それを奪われた怒りが、殺害者である
人間に向かなかったはずがない。
三年前、ドラキュラの手勢である魔物たちは、まったく突然に人間たちを殺しはじめたと考えられていた。だが、
理由はここにあったのだ。妻を殺されたことへの、復讐。
愛。魔王と呼ばれる者に、愛することができたのだろうか。おそらくできたのだ、配下の魔物たちにも人間へ
の攻撃を手控えさせ、ひっそりと城に引きこもったまま、ありきたりの父親と同じように、妻と子供と静かに暮
らすことを選ぶほどに。
だからこそその愛と、おそらくは幸福を奪われたとき、ドラキュラ、ヴラド・ツェペシュは狂ったのだ。心を失い、真の
魔王となって、混沌の中に呑みこまれていった。
そしてその息子は父にそむき、剣をとって、父を殺すための旅に出た。
「──畜生!」
今度は声に出してラルフは罵った。
なぜ言わなかった、アルカード。俺が信用できなかったか。母親を殺した人間の、その仲間である、俺が。
心臓がちぎれそうに痛んだ。それが激しい運動のためなのか、それとも、あの美しい青年と自分との間に横た
わる広く暗い深淵をあらためて思い知らされたためかは、ラルフにはわからなかった。
無性に怒り、苛立ち、誰かを殴りつけたくてたまらなかった。ことに、自分自身を。アルカードの苦しみの真の意
味に気づいてやれなかった、気づいてやれないまま八つ当たりをぶつけて勝手に置き去りにしたラルフ自身を、
こっぴどく痛めつけてやりたい。
遠くにちらりと炎が揺れた。
「アルカード!」
-
街道脇の草地に、ちらちらと炎が燃えている。昼間、アルカードと別れたあたりだ。焚き火が今にも消えそうに、
灰の奥で震えている。木に繋がれた馬の影が見えた。
「アルカード、俺だ。ラルフだ……」
馬を下りかけて、異様な雰囲気にラルフはぎくりと足を止めた。
消えかけた焚き火が、不安な黄色い光で木立を照らし出していた。黒い人影がひとつ、木にもたれるように
してぐったりと頭を垂れている。銀髪がかすかに光を反射した。
「……アルカード?」
垂れたままの銀の髪はぴくりともしない。
もやもやとした黒い煙のようなものが、その全身を覆って蠢いている。
ラルフは腰の鞭をつかんだ。
馬が怯えたように叫び声をあげた。
アルカードの肩のあたりにぼこりと盛り上がりができ、血のような赤い光が閃いた。節くれだった腕が伸び、蝙蝠
のようなよじれた翼がはためいた。
手のひらほどの小さな魔物が、醜い顔をゆがめ、耳まで裂けた口を開いて、ラルフに向かってしゅーっと牙を剥いた。
ラルフの鞭が一閃した。一撃で小魔は悲鳴をあげて飛び散り、同時に、アルカードの全身を覆っていた黒い煙が
どっと飛びたった。
羽虫か蝙蝠ほどの大きさしかない、小さな魔物の群体だった。雲霞のような群れはぴいぴいぎゃあぎゃあ鳴き
わめきながら夜の奥へと逃げ去っていった。アルカードは、そのままぐったりと地面にくずおれた。
「アルカード!」
鞭を戻して、抱き起こす。がくりと顔が仰向いた。青ざめた顔に、脂汗がびっしりと浮いている。呼吸は
浅く、早かった。乱れた銀髪が、ぬれた額に貼りついている。
-
「しっかりしろ、アルカード。俺だ、ラルフだ、もう心配ない。目を開けろ」
揺さぶりながら軽く頬を叩く。アルカードはうめき声を上げ、苦しげに眉間にしわを寄せた。手をあげ、何かを押
しのけるような仕草をする。
まぶたが開く。まだ焦点の合わない瞳が一瞬宙をさまよい、自分の上にひたと据えられた瞬間、ラルフは背筋に
冷たいものが走るのを覚えた。
(黄金の目)
──魔物の、眸。
瞬間、すさまじい力で手を払われた。
『私に触れるな、人間!』
鋭い声がほとばしった。
ラルフは本能的に鞭に手を伸ばしかけ、寸前で止めた。
目の前にいる青年を愕然と見つめる。それは昨日まで自分の連れだった蒼氷の目の青年と同じ顔をした、
何か、別の生き物だった。
爛々と燃える黄金の瞳は闇の中ですらまばゆいほどだ。白い顔は人のものではない憤怒と力で炎のように
輝き、開いた唇からは、真珠めいた細い牙が覗いている。
魔王の子、ドラキュラの息子、闇の公子。
まさにその名にふさわしい者が、そこにいた。
-
だが、それはほんのつかの間のことだった。荒い呼吸に揺れながらラルフを睨みつけていた黄金の目は、しだい
に光を消し、もとの蒼い瞳に戻っていった。全身からあふれ出す魔力の気配が潮の引くように薄れ、身体も
一回り小さくなったように思えた。
アルカードは茫然とラルフを見あげた。
「……ベルモンド」
「アルカード。大丈夫か」
ラルフは鞭から手をもぎ離して、もう一度アルカードに手を差しのべた。
「一人にして悪かった。魔物どもはもう逃げていったから、心配ない。こっちへ──」
アルカードは一瞬その手を見つめ、顔をそむけて身をひるがえした。
「アルカード? どこへ行く! アルカード!」
追いかけたラルフの手は空を切り、見るまに闇にその姿は溶けていった。ガサガサと鳴りひびく足音だけが、
彼の気持ちの乱れを伝えてくる。
「アルカード!」
顔をそむける瞬間に、ラルフは見たのだ。アルカードの、それまでずっと被っていた氷の仮面がひび割れて、彼の、
本当の顔が覗くのを。
暗い森の中で帰る道を見失ってしまった、幼い子供の顔。
「アルカード……!」
深まる夜の闇に、ラルフの呼び声がむなしく谺した。
-
「──おい」
茂みの奥で、何かがかすかに身じろぎする気配がした。
「いいか。選択肢は三つある」
と、ラルフは言葉を続けた。
「一つ。自分の足で立って、俺といっしょに歩いて火のそばに戻ること。二つ。俺にかつがれて火のそばへ戻る
こと。粉袋みたいにな。三つ。俺に襟首つかまれて引きずられて火のそばへ戻ること。言っておくが例外は認め
ん。十数えるだけ待ってやるから、その間に好きなのを選べ、わかったか。一つ。二つ。三つ」
「……放っておいてくれ」
細い声がした。
「例外は認めんと言ったぞ。ついでに言えば拒否もなしだ。今ので三つばかり数えそこなった。七つ。八つ。九つ」
十、と数えてラルフが茂みの向こうに手を伸ばしたとたん、がさっと音がして、長身の人影が立ちあがった。
木々の間から漏れる月光がきらきらと銀髪の上に踊る。
「よし。立ったな。あとは歩くだけだ。こっちへ来い。ほら」
立っただけで、あとは動こうとしないアルカードを、腕をつかんで無理に茂みから引っぱり出す。アルカードは少しよ
ろめいて、倒れそうになりながら出てきた。
そのまま腕をつかんで引っぱっていく。アルカードはまるで人形のようだった。あそこまで逃げて、隠れただけで
すべての力を使い果たしたとでも言うように、されるがままにぎくしゃくとあとをついてくる。
-
まさにその通りなんだろうな、とラルフは苦く思った。
普段通りのアルカードなら、夜の森でラルフを撒くことくらい児戯に等しいはずだ。本気でラルフから逃げるつもりな
ら、ラルフがむなしくあちらの木陰こちらの窪みと探しまわっているうちに、痕跡すら残さず姿を消してしまって
いただろう。
おそらく自分でも、どうして、どこへ、どうやって行くのかなどわかっていなかったに違いない。踏み荒らさ
れた茂みと折れた小枝、乱暴にかき分けられた灌木のあとは、夜でさえラルフが追いかけるには十分な足跡だった。
夢中で逃げるだけ逃げて、跡が残るどうかなどと思いすら及ばなかったのだろう。そして隠れた、狼に追われた
兎のように。茂みの奥に息をひそめて。
アルカードが遠くへ行っていなかったことを、ラルフは、まだ望みがある証拠だと思いたかった。彼はまだ、本当に
ラルフから、人間から逃げるつもりにはなっていない。
たとえ混乱してとりあえず近くの物影に隠れただけだとしても、乱れた足跡や、折れた枝を追って、誰かが探
しに来てくれることを、心のどこかで期待していてほしかった。暗闇に呑まれようとする背中に、自分がかけた
呼び声がしっかり耳に届いていたことを、ラルフは信じていたかった。
焚き火が見えてきた。馬が鼻を鳴らす音がする。
「座れ」
アルカードは座った。まるで糸を切られた人形のように、すとんと。
ラルフは馬の荷を探り、毛布を出してアルカードの上に放った。
「それを身体に巻け。冷え切ってるだろうが。熱でも出たら厄介だぞ」
動かない。
焦れて、ラルフは自分で毛布を取ってアルカードを頭からぐるぐる巻きにした。予備の毛布も取りだして、もう一枚
かぶせる。
されるがままに、アルカードは黙ってうなだれていた。
-
焚き火に枝を放りこみ、火をかき立てる。小さくなっていた炎が勢いを取りもどし、大きく立ちあがって燃え
はじめた。荷を探ってワインの革袋を取りだし、半分ほど残っているのを確かめて、突きだした。
「飲め。本当はもう少し強い奴が欲しいが、今はとにかくこれしかない」
やはり、アルカードは動かなかった。
ため息をついて、ラルフは手を下ろした。革袋を脇へ置く。
「──あの、街で」
低い声で言った。
「街で、広場に記念碑が建てられているのを見た」
アルカードの肩が、それとわかるほど大きくびくりと跳ねた。
「なんで言わなかった。あそこが……その、場所だと」
母親が人間の手で焼き殺された場所だと、なぜ言ってくれなかった。
やり場のない怒りと苦い思いを噛みしめながら、ラルフは続けた。
「俺が、信用できなかったか」
「違う!」
とつぜん、アルカードは声をあげた。
ラルフが驚くほどの激しい声だった。もう一度「違う」と小さく呟いてから、アルカードはゆっくりと手をあげて、
額を覆った。何重にも巻かれた毛布の下で、その身体はしだいに小さく、若く、幼くさえなっていくようだった。
「どう……していいのか、わからなかった」
言葉の使い方を忘れてしまったかのように、アルカードの声はか細かった。
唇が細かく震え、一つ言葉を形づくるにも苦労している。白い顔はまだ青ざめて、焚き火も、毛布も、彼を凍
らせる闇を追いはらう役にはたっていないようだった。
-
「ただ──恐ろしかった。だから、逃げた。どこへ行くつもりだったか、覚えていない──おそらく、何も考え
ていなかった、のだと思う」
ラルフは黙ってアルカードが先を続けるのを待った。
「──この数日、おまえの顔を見ることすら怖かった」
長い間をおいてから、ぽつりとアルカードは言った。
「眠れば、夢を見た。あの日の夢を。おまえと目を合わせたら、そのことを読み取られるのではと思って、恐ろ
しくて、顔すら上げられなかった」
むきになってラルフは言った。
「なぜ、そんなことが怖いんだ。あれはおまえが悪いんじゃない、あれは人間が」
人間がまずことを起こしたのだと、ラルフはほぼ確信していた。息子をこれほどまっすぐに育てた母親が、魔女
などであったはずがない。
店の亭主も、『魔女は薬だと称して毒を』と言っていた。おそらくアルカードの母親は、本当に貧しい人々に薬を
配って歩いていたのだろう。それを嫉んだ者か誰かが、当局に密告したのだ。薬草の知識を持っている昔ながら
の賢女が、高い金をとる医者から妬まれて魔女扱いされるのは、よく聞く話だ。
「……夢を、見る」
アルカードは小さくかぶりを振った。
「普段ならば、遠ざけておける。だが、あの場所に近づくにつれて、自分でも制御できなくなってきた。私の心
の揺れを感じて、小魔たちが集まってくる……森から……私のところに、夢を運びに」
「だから、それはおまえのせいじゃないと言っているだろう」
苛々とラルフは口をはさんだ。
「だいたい、あんな雑魚を振り払えないくらい弱っていたんだったら、なんでそこまで行く前に俺に言わないん
だ。あんな奴ら、おまえなら剣を抜くまでもなく消しとばして」
-
「あの者たちを責めないでやってくれ」
はじめてアルカードは目をあげてラルフを見た。必死の顔色だった。
「あれらはただ、私を慰めようとして集まってきていただけだ。ごく下級の、小さな者たちだ、子供のような理
解力しか持っていない。母を殺した者たちが罰せられるところを見せれば、私が喜ぶと単純に信じている」
ラルフは言葉を失った。
ではあれは、アルカードを襲っていたのではなく、慕ってそばにまつわりついていただけだというのか。妖魔たちが?
だが、それも当然のことかもしれない。アルカードは魔王の息子なのだ。魔を統べる者の子ならば、彼らにとって
は主も同然だろう。主が苦しんでいると知れば、忠実なしもべたちが心配して集まるのは当然のことではないか。
なんてこった、と胸の中でラルフは毒づいた。
結局、アルカードを心配してくれたのは妖魔たちのほうだったというわけか。人間が彼の母親を殺し、その事を誇
り顔に記念碑まで建てている間に、闇に置き捨てられた本当に気遣われるべき者のそばにいたのが、あんな羽虫
のような魔だったとは。
「一匹一匹はごく弱い、害のない者たちだ。人に夢を見せるのがせいぜいの力しか持たない。だが、あれらはし
ょせん妖魔なのだ、血を好む。
──少しでも眠れば、彼らが夢に忍び入ってくる」
額に手をあてて、アルカードは低く呻いた。
「手に手に、人間の首や、血まみれの手足や、眼球や内臓を捧げて。
『公子サマヨロコブ? ヨロコブ?』と口々にさえずりながら、嬉しげに、人間を引き裂いてみせる。あの日、
母を灼いた炎のまわりにいた人間たちを、一人ずつ。じっくりといたぶりながら、念入りに」
-
唇が震え、白くなるほど噛みしめられた。
何か言ってやりたい、言わなければと痛切にラルフは感じた。
だが、いくら頭を探っても、言うべき言葉は見つからなかった。もどかしさばかりが喉の奥で膨らんで暴れ
た。かたく膝を抱え、小さく丸くなったアルカードは、そのままそこで解けて消えてしまいそうに見えた。
「たまら、ないのは」
と、アルカードはようやく言った。
「私の中にも、確実に彼らと同じものが流れていることだ。血を好む、闇の血脈。母の子であると同じように、
私は、父の子でもある。
見ただろう。先刻の、私の顔を」
「あれは──」
「あれが、私だ」
消え入りそうな声で、だが、はっきりとアルカードは言った。
「父から受け継いだ、私の闇の顔だ。
彼らが夜ごと差し出すものに嫌悪を感じながら、確実にそれを悦んでいる者が、私の中にはいる。気がつけ
ば、彼らに混じって血をすすり、肉を引き裂く行為に酔いしれていることもある。目覚めれば夢にすぎないが、
それでも、感触は残る。あの感触と──匂いと──血の、味」
ひろげた手のひらにアルカードは目を落とした。夢の中の血が、まだその白い指を染めているのではないかと怖れ
るように。
「本当は、あれこそが真の私なのかもしれない」
もれたのは、もはやラルフに向けられた返答ではなかった。アルカードは死刑宣告のようにその言葉を、自分自身に
向かって告げていた。
-
「いつも怖かった。人が私の顔を見るたびに、あの顔が、闇の私の顔が覗いているのではないかと考えると、い
つも、恐ろしくてならなかった。
ドラキュラ城が崩壊したとき、私は、自分も死ぬものだと思っていた。私の命は父と同じように、あの闇の城に繋
がれていて、城が消えれば、私の命も消えるのだと。
だが、そうではなかった。理由もわからないまま、私は生き残ってしまった」
白い指が固く握りしめられた。細い爪が手のひらに、棘のように食い込んだ。
「呪われた血と父殺しの罪を負って、私にはもう成すべき事も、進むべき道もない。
私は、生きているべきではなかった。おまえの目を傷つけたその一撃で、父はおまえではなく、私を殺してく
れればよかったのだ。そうすれば今ごろは、きっと──」
その言葉をさえぎるように、ラルフが動いた。
アルカードの頭からかぶせていた毛布を有無を言わさずはぎとると、彼を腕にかかえ、抱きこむようにしてごろり
と寝転がった。
二人分の身体をくるみこむように、毛布を巻きつける。アルカードはラルフの胸に顔を埋めるような恰好になった。
「なんだ。何をする」
「やかましい」
歯をむいてラルフは唸った。
「寝ていないからそんなつまらんことをうだうだ考えるようになるんだ。しばらくこうしててやるから、今日は
もう黙っておとなしく寝ろ。見ろ、ちっとも暖まってないだろうが。氷柱(つらら)みたいな身体しやがって」
冷たさについても細さについても、とラルフはこっそり思った。
重ね着したマントや上着であまり気づかなかったが、腕の中のアルカードは予想外に細かった。ラルフは確かに大柄
な方だが、それでも、華奢な肩が両腕の輪にすっぽり収まってしまう。冷え切った身体は氷の塊のようで、ひっ
きりなしにこまかく震えている。
-
「……革の匂いがする」
胸の中からアルカードがくぐもった声を出した。
「悪かったな。鞭を扱うんで染みついてるんだ。臭けりゃ我慢しろ」
「いや。臭くはない。気が落ちつく」
長い睫毛がふと降りた。
「──温かい」
ラルフは黙って細い背にまわした腕に力をこめた。
言うべき言葉が見つからないなら、態度で示してやればいい。もともとラルフは口がうまくはない。
この世には、妖魔以外にもおまえを心配しているものがいること。
そばにいて、気にかけているものがいるということ、ただ、おまえが生きていてくれて嬉しいと感じるものが
いることを、示してやれればそれでいい。
「ベルモンド」
またベルモンドか、とラルフは思った。「なんだ」
「私は、人か」
アルカードは言った。
「それとも、魔か」
息がかかるほどの間近から、蒼い瞳が見つめていた。
焚き火の光を映しているのか、虹彩がわずかに金の輝きを帯びていた。
「そんなもの、どっちだっていい」
言って、ラルフは銀髪の小さな頭を強く胸に押しつけた。
「人でも魔でも、そんなことは俺には関係ない。おまえは、おまえだ。アルカードだ。
-
おまえがおまえでさえあれば、どっちだろうと俺はかまわない。俺は、おまえがドラキュラ城といっしょに消えな
くて良かったと思うし、今、ここにいてくれて嬉しいと、心底思っている。おまえの命の代わりなら、片目くら
いは安いものだ。それも、目はなくさずに傷あと一つですんだ。この際、ドラキュラには感謝してもいいくらいだ」
「……戯れ言を」
アルカードは少し笑ったようだった。
小さく身じろいで、ラルフの腕にもぐり込む。降ったばかりの雪のような銀髪が、さらりと動いて頬を撫でた。
腕枕をしてやって、ラルフは、焚き火の向こうの闇に目をやった。
ちかちかといくつかの赤い光が、まばたきするように光っている。
来てみろ、来られるものなら、と挑戦的にラルフは呟いた。
その夢とやらを俺にも見せてみろ。俺はその中へまっすぐ入っていって、このぼんやり者の腕をつかんで引っ
ぱり出してやる。
さっきのように、肩にかついでも、襟首をつかんでも、悪夢の中から連れだして、しっかりしろと頬を叩いてやる。
それでも、俺のそばからアルカードを連れ去ることができるというなら、やってみるがいい。容赦はしない。
赤い光は徐々に数を減らし、やがて見えなくなった。
アルカードはラルフの胸に頭をもたせかけて、いつの間にか、静かな寝息を立てていた。
◆
-
翌朝は晴れた空が広がった。
「ここから、西へ迂回しよう」
手際よく馬に荷物をくくりつけながら、ラルフは言った。
「少し遠回りになるが、道はそれほど悪くないし、人里もある。街から出てきた隊商もよく通る道だ。出会った
商人から食料と酒を買おう、それから馬の塩もまた少し要るな。こいつらだってよく頑張ってくれているから」
栗毛の首をなでてやると、馬は鼻を鳴らして頭をはね上げ、蹄を鳴らしてみせた。
「……私は、ここで待っていてもかまわないのだが」
昨夜ひと晩よく眠ったおかげか、アルカードはかなり顔色が良くなっていた。黒い牝馬のそばに立って、いささか
手持ちぶさたそうにしている。
「なに? 馬鹿げたことを言うな」
振り向いて、ラルフはぎろりと目を剥いた。
「今からまた俺にあそこへ行って、またここまで戻れっていうのか? お断りだな。だいたいそんなもの時間の
無駄だ。いざとなれば食料くらい、森に入って何日か狩りをすればどうにでもなる。これまでもそうしてきただ
ろうが」
「しかし、ベルモンド──」
「待て。それだ」
ラルフはぴたりとアルカードに指をつきつけた。
「俺の名はラルフだと、何度言ったら呑みこめるんだ? 次にベルモンドと言ったらひっぱたくぞ。いいか、俺の名は
ラルフだ。ラ-ル-フだ。言えないわけがないだろう、言ってみろ、ほら、ラルフ。ラ-ル-フ」
「……ラ、ルフ」
「もう一度」
-
「ラル、フ」
「もう一度だ」
「──ラルフ……」
「よし。見ろ、やればできるだろうが」
ラルフはさっさと馬を牽いて街道に上がっていった。
「もう一ぺんでも俺をベルモンド呼ばわりしてみろ、本当にぶん殴るぞ。手加減なしだ。金輪際返事もして
やらん。これからはずっとラルフと呼べ、わかったか」
「わかった」
「ラルフだ」
「ラルフ」
「よし」
満足して、ラルフは美しい連れに手を差しのべた。
「さ、行くぞ、アルカード。なにをぐずぐずしてる? ベルモンドの領地まではまだまだ距離があるんだからな」
アルカードは差し出された手に、ふと、まぶしげに目を細めた。
肩越しにちらりと振りかえる。焚き火のあとが残った草地のむこうで、森は、裡に闇を抱えて、ただひっそり
と静まりかえっている。
暖かな陽光がさんさんと降りそそいでいた。
「ああ、行こう。──ラルフ」
青空の色をほほえむ瞳に宿して、アルカードはラルフの手を取った。
どこかで羽ばたく音がした。
馬を並べて街道を去っていくふたりの旅人の背中を、森のもっとも深い闇から、赤い小さなひとつ眼が、きろ
りとまたたいて見送っていた。
-
「ほら、ここだ」
ラルフ・C・ベルモンドは重い扉を押し開けて客人を導き入れた。
「二、三代前の当主の未亡人が、息子に家督を譲るとき隠棲用に造らせた部屋だそうだ。狭いが、母屋からは離
れているし、あまり人と顔を合わせなくてすむ。寝具や調度はすぐ新しくさせるから、少し待っていてくれ」
「いや、かまわない。綺麗なところだ」
アルカードは大きく開け放たれた窓に歩み寄った。
外にはゆるやかに起伏する青々とした丘陵と、そのむこうの木立、牧草や麦の揺れる田園地帯が一目で見渡せ
る。半身を乗り出すようにして目を細めると、そよ風に銀髪がきらきらとなびいた。
ラルフは破顔した。
「今まで使うものもない部屋だったんだが、とにかく、眺めだけは一番だからな。気に入ってくれたなら、それ
でいい」
二間続きの部屋は女性のものらしく繊細な意匠に飾られ、東洋の敷物と優雅な椅子と卓がいくつか、寝室には
天蓋と彫刻に飾られた大きなベッドが据えられている。
場所としてはベルモンド家の屋敷の西側に位置する小塔のてっぺんにあり、多少出入りは不自由だったが、
むしろアルカードにはそのほうがいいだろうとラルフは思っていた。まさか、屋敷内でまでアルカードにフードを着せて
いるわけにはいかない。旅から戻ってきたここでは、ラルフ以外にも彼を目にするだろう使用人や小作人たちの目
は多々あり、それに関して毎日気にかけていてはきりがないというものだ。
冬がしぶしぶながら春に場所をゆずろうとするころ、ラルフとアルカードはようやく、目的地のベルモンド家の領地に
帰りついた。
屋敷にたどりつくはるか以前から、ベルモンドの代々家小作をつとめている集落の人々が、馬に乗ってやって
くる若当主の姿を見つけて、大声で叫びはじめた。
-
「みんな、御当主が帰ってきたぞ! 若当主がお帰りになった!」
たちまち、いくつもの小屋からどっと人があふれ出てきた。畑で働いていた者たちも、鍬や鋤を放りだして我
も我もと集まってきた。あっという間に人垣が周囲を取り囲む。ラルフは仕方なく馬をとどめ、片手を上げて
小作人たちの騒ぎを押しとどめた。
「皆、静かにしてくれ。馬が驚くだろう」
「すんません。で、あの、御当主」
小作人の一人が、轡にすがるようにして必死に声をあげた。
「あの、本当に、魔王はもういなくなったんで……?」
一瞬ラルフは口ごもった。後ろで黙然と立っているアルカードに自然に目がいく。
アルカードはフードの下で目を伏せたまま、石のように動かなかった。
「──ああ、魔王はもういない」
無理にアルカードから視線をそらして、ラルフはきっぱりと答えた。
「だからもう、皆なにも怯えることはない。魔物がやってくることも、これからはずっと減るはずだ。安心し
て、作業を続けてくれ。俺はいったん屋敷に戻る」
「若様、ばんざい!」
人垣の後ろでだれかが叫んだ。たちまちそれは全員に伝染し、何人もの男や女が帽子を放り上げたり、てんで
に抱き合ったりして歓声をあげた。
「御当主、ばんざい! ばんざい!」
「ベルモンドの名に、栄光あれ!」
それ以上我慢していられず、ラルフはもう一度片手を上げただけで、馬の腹を蹴って前へ進めた。アルカードは
黙ってついてくる。
-
陽気に騒ぎながら、興奮した様子で話し合っている村人たちは、アルカードのことはラルフが旅の途中で雇った従者
か何かだと思ったらしく、ほとんど注意を払わなかった。
「すまなかった」
声の届かない位置まで進んでから、ラルフはアルカードに詫びた。
「ただ、あそこでは、ああ言ってやるしかなかった。ドラキュラの脅威に怯えていたのはここでも同じだ。当主の
俺が魔王の討伐に出たと聞いて、不安もひとしおだったろう。きちんと保証してやらなければ、安心させて
やれなかったんだ。すまない」
「おまえが何も謝ることはない、ラルフ」
フードの下から、思ったよりもはっきりした声が帰ってきた。
「彼らが喜ぶのは当然だ。おまえは確かに魔王を倒し、人々の上から恐怖を取りのぞいた。だから、私に謝った
りするな。おまえは自分の成すべきことを、見事に成し遂げたのだから」
ラルフは唇をかんで前を向いた。カルンスタインで感じたあの持っていきどころのない苛立ちが、もやもやとまた胸にわ
だかまっていた。
すでに先に連絡が行っていたらしく、屋敷の門を入ると、使用人を従えた老齢の家令が、表で整列して主人の
到着を待っていた。
「よくぞご無事でお戻りくださいました、御当主」
「ああ。ご苦労だったな、エルンスト」
鞍から下りて、駆けてきた馬番に馬を渡しながらラルフは言った。
エルンストはラルフの父の代から仕えているベルモンド家の家令で、これもまた、代々ベルモンド家の家令をつとめている
家系の人間である。
-
ベルモンド家がまだ爵位と騎士の称号を得ていたころから従士を勤めていた血筋らしく、ことあるごとにラルフに
「誇りあるベルモンド家の者としてふさわしい態度」を要求する。幼いころのラルフには、愛着はあるが父の次に
うっとうしい人物であり、一昨年、父が病死して自分が当主になった今は、やはり愛着はあって信頼はして
いても、少々けむたい相手に変わりはない。
いかつい身体に、白髪をぴたりと撫でつけた頑健そのものの老人で、使用人と家小作の村人たちすべての上
に、常にするどい目を光らせている。どうかするとその目はラルフの上にもそそがれ、今もまた、当主の様子に
異常がないかをさりげなく確かめている。
「俺のいない間に、何も変わったことはなかったか?」
「いえ、これといって悪いことは何も。村で何人か赤ん坊が生まれたことと、あとは、樫の木のそばの小屋の
グリューネ婆さんが老衰で死にました。洗礼と葬儀も滞りなく終わっております。荘園のことに関しては、
あとでまた記録を持ってお伺いいたします」
「わかった、わかった」
早くも日常の雑事が身近に迫ってくるのを感じて、ラルフはうんざりした。
「それより早く、湯と着替えを用意させてくれないか。それと食事を。さすがに少し疲れた。しばらくは骨休め
がしたい」
「その前に、若」
反射的に、ラルフはぎくりとした。エルンストが自分を若と呼ぶのはちょっとした小言か、それとも聞きたくもない
諫言とやらの前兆に決まっているからだ。
しかし、エルンストは首をのばしてラルフの後ろを礼儀正しく示しただけだった。
「あちらの、黒い馬に乗られた方はどなたですかな」
「あ……、ああ」
-
少しほっとして、ラルフはアルカードを手招きした。
「こっちへ来て馬を下りろ、アルカード。皆にも紹介しておく、こいつはアルカードと言って、ドラキュラの討伐に協力して
くれた、俺の友人だ。
しばらくはこの屋敷で滞在してもらうことになる。俺の客人として、もてなしてやってくれ。フードを取れ
よ、アルカード」
アルカードは馬を下りてラルフの横に並ぶと、ゆっくりと、フードをすべり落とした。
誰からともなく、嘆声があがった。
エルンストでさえ、ものに動じない顔をわずかに動かして驚きを示した。内心、ラルフは大得意だった。
「──アルカード、だ」
言葉少なにアルカードは言った。
「ラルフの言葉に甘えさせてもらった。ここの人々には世話になる。よろしく頼む」
下女や女中のほとんどが、頬を赤らめて何事か囁きあっている。男の使用人の中にまで、ぽかんと口を開いて
見惚れている者が多かった。輝く銀髪と白い肌、蒼い瞳、女にもしたいような美貌に、豪奢と言うほかない
身なりの優雅な貴公子ぶりなのだ。初めて見た者が、一瞬魂を奪われるのは当然だろう。
「さあ、もういいだろう」
大勢の凝視を受けて、アルカードが落ちつかなくなりはじめているのを感じとって、すばやくラルフはまたアルカードの
フードを引き下ろしてやった。
「馬を連れていって、水と飼い葉をやってくれ。それから、俺たちにもパンと葡萄酒だ。アルカードの部屋の用意も
頼む。確か、使っていない部屋がいくつかあったはずだな」
-
しかしそれから一週間以上、ラルフはアルカードと顔を合わせなかった。
正確に言えば、合わせる暇もなかった。半年以上も留守にしていたあいだにたまった雑事の処理に連日追われ
たのに加えて、近在の村や街から早くも噂を聞きつけた商人や小領主たちが、祝宴と称して我も我もとラルフを
宴会に招きたがったのだ。
おかげで、ほとんど自分の家で食事をする機会すらなかったほどだ。一日部屋にこもって、エルンストが次々に
手渡す書類に仏頂面で目を通し、サインし、印を押したり仕分けたりと単調な仕事をこなしたあとは、腰を
落ちつける暇もなく家作の畑地や果樹園、森林や家畜の放牧地の見回りに出て、夜になっても休む間もなく、
宴会の招待に応えて相手の屋敷まで出かけなくてはならない。
宴会は盛大なもので、これまで名前を聞いたこともないような相手や、はっきりとベルモンド家に対して陰口を
たたいていたはずの相手まで顔を出して、見えすいたお追従顔でもみ手をしながら近づいてきた。ドラキュラを倒し
た英雄と近づきになっておけば教会の、ひいては、さらに上の方にも心覚えがよくなるとの下心が丸見えだ。
適当にあしらってやったが、内心、帰りたくてたまらなかった。
誰もがドラキュラ征伐と、それに関する冒険談を聞きたがった。中でも、ことに女たちが知りたがったのは、今、
ベルモンド家の屋敷に滞在中だという、謎めいた美貌の貴公子のことだった。
アルカードのことについては、ただ、旅先で知り合った遠国の大貴族の末子で、目的を聞いて力を貸してくれる気
になったのだと言うにとどめた。女たちは不満そうだったが、謎は謎でまた彼女たちの気持ちを刺激することに
なったらしい。それ以上ラルフから聞き出すことは不可能そうだと悟ると、仲間同士片隅により集まって、熱心に
こそこそ話し出してくれたのでラルフはほっとした。
男たちのほうは、もっとずっと厄介だった。彼らはラルフが耐え忍んできた苦痛と恐怖と悲しみの体験を、
まるで吟遊詩人が歌ってみせるバラッドのような、勇壮な物語に仕立てさせようとしたのだ。
ラルフが言葉少なに仲間たちのこと、ドラキュラとの邂逅と戦闘、そして勝利を語ると、彼らは興奮したように
うなずきあい、雇った芸人たちにコインを投げ与えて、おい、今のお話をさっそく叙事詩に仕立ててさしあげろ
と怒鳴った。
-
要求に応えて、さっそく芸人は古びた弦楽器を取り直し、即興で魔王を倒した英雄についての歌を歌い始め
た。その中ではラルフはまったく恐れを知らない鋼鉄の男で、ドラキュラの前に立っても臆しもせず、最後には、怪物
は神と英雄の前に許しを請いながら、惨めな死にざまをとげて地獄へと堕ちていく。
馬鹿げているとしかいいようがなかった。ラルフとしては、苛立つ段階をすでに通り越して、むかつきを押さえる
のに精いっぱいだった。
ここでもまた、とラルフは思った。
ここでもまた、カルンスタインと同じことがくり返されているのだ。アルカードの母親を殺しておいてそれを記念碑に
したあの街の人間と同じように、ここでも彼らは、「魔王を殺した英雄」というその一点だけ、自分たちに
とって正しいと思える物語だけを受け入れて、他のことはなにひとつ聞こうとしない。
当人であるラルフ自身でさえ、そのための話のタネにすぎないのだ。怒る以前に、情けなかった。俺は、こんな
奴らのために命をかけてドラキュラを倒しにいったのではない、と腹立ちまぎれに思った。
何の脈絡もなく、アルカードの顔がまぶたに浮かんだ。
私は人か、それとも魔か、と問うたときの彼の目の色が、傷痕をたどった冷たい指の感触とともに、とつぜん
痛いほどに蘇ってきた。抱きしめて眠った夜の、折れそうなほどに細かった身体が、たった今そばにあったらと
痛切に感じた。
「おや、もうお帰りで」
黙って杯を置き、席を立ったラルフに、当夜のもてなし役だった羊毛商の主人がちょこちょこと走ってきた。
「ああ。申し訳ないが、まだ旅の疲れが残っている。せっかくのもてなしを中座するのは失礼だとは思うが、
少し休みたい。他の方々には、これで楽しんで貰ってくれ」
ひとつかみほどの銀貨を詰めた袋を手渡す。重みをはかって、商人はにんまりした。
「これはどうも。さすが剛胆なお殿様は、太っ腹でいらっしゃる。皆も喜びますことでしょう。ところで、
ベルモンド様」
-
「何か」
「うちには実は、年頃の娘がひとりございましてな」
片手で銀貨の袋をじゃらつかせながら、上目遣いで商人はラルフを見た。
「この度のあなた様の偉業を耳にいたしまして、たいそうあなた様に思い焦がれておりますのですよ。親の
わたくしが申しあげるのもなんでございますが、これが実に器量のいい、素直な娘でして、よろしければ今度、
お屋敷のほうに伺わせても……」
黙れ! と怒鳴りつけそうになるのを、ラルフはあやうくこらえた。
「すまないが、今、そういうことを考えているほどの余裕はない」
ぶっきらぼうにラルフは答えた。「失礼する」
あとは誰が話しかけてこようと無視して、ラルフは夜道を馬をとばして屋敷に帰った。
ほとんど素面で、しかもずいぶんと早く帰ってきた主人を迎えるのに、使用人たちは右往左往している。ラルフ
は廊下を歩きながら、宴会に出るために着替えた窮屈な服を腹立ちまぎれに右へ左へと投げ散らしていった。
追いかける女中があわてて拾って回る。
階段を上がりきったところで、エルンストが待っていた。
「お早いお帰りでございますな、御当主」
「エルンスト」
厳しい声でラルフは言った。「あの、ぶくぶく太った気持ちの悪い商人は何者だ」
「ヒルシュ様はこのあたりの羊毛と布地交易を一手に引き受けておられるお方です」
冷静にエルンストは返した。
「ベルモンドの荘園から出る羊毛やフェルト地も、ほとんどはあの方とのお取引です」
「取引だろうがなんだろうが、今後、あいつからの宴会の誘いなど二度と持ってくるな。気分が悪い」
-
怒鳴りつけるように言って、ラルフは最後のシャツを放り捨て、廊下に立って謹厳な顔を崩さずに見ているエルンスト
の前を大股に通りすぎた。
「それから、明日以降の宴会の誘いはすべて断れ。俺が旅の疲れのために熱を出して倒れたとでも言ってな。
なんなら、ドラキュラの魔法のおかげでトカゲに変わって、そのままどこかへ行ってしまったと言ってもいいぞ。
とにかく、あんな奴らの酒の肴にされるのは、二度と御免こうむる」
エルンストは眉一つ動かさなかった。「おたわむれを」
「やかましい。なにがなんでも断れ、わかったか」
自分の寝室から首だけ出して、ラルフはまた大声を出した。
「たとえおまえにその鉄のブーツで戸口から蹴り出されたとしても、俺は絶対にもう、あんな場所には顔を出さ
んからな。いいか。絶対に、だ」
力任せにドアを閉めて、ラルフはやっと一人になった。
長いため息をついて、ベッドに身を投げ出す。
無性にアルカードの顔が見たかった。書類仕事に忙殺されている間はなんとか忘れていられたが、ドラキュラ城から
戻る旅の間、カルンスタインの一件を除けば、ほぼ半刻として顔を見なかったことはないのだ。一人で身の置き場の
ない思いをしていないか、黙って閉じこもって、またおかしな方向に誤解を成長させていないかと思うと、いて
もたってもいられない気分になる。
起き上がって、窓を開けた。月が出ている。ラルフの寝室は本館の中庭に面した二階の一室だが、この窓からだ
と、アルカードのいる西の小塔はやっと尖った屋根の先が屋敷の翼のむこうに見えるだけだ。
部屋を訪ねようかと思ったが、この酒と、女の脂粉の臭いの染みついた身体で、あの蒼氷の瞳の前に出るのは
耐えられない気がした。
とにかく眠ろう、と窓を閉めてベッドに戻り、枕に頭を乗せた。
-
疲れているはずなのに、目は冴えていた。思えば、旅の間は、ほとんどずっとアルカードを腕に抱いて眠って
いたのだ。
カルンスタイン以来、もう夢は見ないから大丈夫だ、というアルカードを、俺が寒いんだからいいから来い、と強引に
毛布に入れて眠った。
アルカードも強くは拒まなかった。華奢な身体の感触と頬にふれる銀髪、漏れてくる静かな寝息を聞いていると、
これまで感じたこともないほどあたたかいものが胸にあふれた。
明日は一番にアルカードに会いに行こう、と決めた。
エルンストがなんと言おうが構うものか。どちらにしろ、自分のいない半年の間は、彼が代理になって荘園を運営
していたのだ。一日もう一度同じことをやるくらい、あの頑固爺ならなんでもないだろう。
からっぽの腕が疼いた。寝返りをうって、誰もいない自分の隣を見つめる。糊のきいた新しいシーツが、
ひどく冷たいような気がした。
-
◆
翌朝、予定通りに、ラルフは朝食を呑みこむように片づけるが早いか、エルンストがやってくる前に席を蹴り、急ぎ足
で西の小塔に向かった。
ところが、案に相違して部屋の主はそこにいなかった。
一瞬ひやりとしたが、剣とマントはきちんと壁にかけられているので、屋敷からいなくなったわけではないら
しい。仕方なく本館に戻り、最初につかまえた女中にアルカードを見なかったか、と訊いてみると、ちょっと頬を染
めて、それでしたら、と答えた。
「あの方でしたらこのごろ、毎日のように東翼の蔵書室に出入りなさっているようです。何度かあそこにお飲み
物をお運びしました。あそこにあるなにか昔の記録や、ご本なんかを研究なさっていらっしゃるみたいで」
「蔵書室?」
反射的に、首の後ろがざわざわする。
蔵書室というのは、初代の鞭の遣い手だったレオン・ベルモンド以来、闇の狩人として生きてきた代々のベルモンド
たちの手による古記録や書物、日記、闇の住人に対する心覚えなどが大量にしまわれている場所だ。
幼いころのラルフは、父によって鞭術を叩きこまれるのと同時に、正確な知識を身につけるためにも蔵書室の
書物の一冊でも目を通せと毎日やいやい言われつづけた。
そんなもの読まなくても、自分が十二分に強くさえあれば負けることなどあり得ないというのがラルフの、今も
変わらぬ本音だった。父が死んでからは、エルンストが入れかわって、他のことと同じく口では言わないまでも、
無言の圧力で押しつけてくる。ラルフにとっては、できれば近づきたくない場所だった。
-
しかし、アルカードがいるというのなら行かないわけにもいかない。長いあいだ足をむけたこともない場所に
しぶしぶ足を運び、ドアを開ける。
「アルカード? そこにいるのか?」
黴と埃、そしてインクと古くなった羊皮紙の匂いがどっと流れ出してきた。
思わず鼻と口をおおって目をこらしたが、暗い書庫の中は床から天井まで本や紙束、丸めた文書で埋めつく
されていて、人っ子ひとりいない。
蔵書室の隣は書字と読書のための続き部屋になっていて、古い樫の大テーブルと椅子が並び、窓のそばには
大きな書見台が据えられている。
書見台の一つの前に、きらりと銀色の光がきらめくのが見えた。
「アルカード……?」
歩くたびに舞う埃に閉口しながら、ラルフは書庫を抜けて書字室に足を踏みいれた。
アルカードは書見台によりかるようにして、分厚い革装の書物にかがみこんでいた。
書見台のふちに肘をかけ、少し身をひねって真剣な顔をしている。くっきりとした横顔が、白い光に縁取られ
て見えた。開け放たれた窓から射しこむ陽光が、肩に流れる銀髪の上で楽しげに踊っている。
手にしたペンを口もとに当てて少し考え、頁の余白にいくつかさらさらと書き込みをしてから、初めて気づい
たように顔をあげて、ラルフを見た。
「ラルフ? どうかしたか」
「どうかしたか、じゃない」
ラルフは相当むっとしていた。
こちらがあれほど心配して朝食を丸のみにしてまで来てみれば、当の相手はしごく平穏なようすで、かび臭い
紙束を相手に一心になっている。足音荒くラルフは書字室に入っていった。
-
「こんなところで何をしてるんだ。そんなもの広げて」
「ベルモンド家の過去の記録に目を通していた」
さっきまで書き込みをしていた書物の頁にいつくしむように指を走らせる。
「すばらしい家系だな、おまえの家は。ここまで詳細に魔物やそれに関する知識を、偏見なく集めているとは驚
いた。しかもそれをほぼ四百年近く続けているとは、なまなかなことではない」
「世辞はいい。何をやってたかと聞いてるんだ、何を」
ラルフの機嫌は少しもよくはならなかった。
ほとんど身ひとつでやってきたアルカードのために、今ラルフは近在の仕立屋に、彼の身体にあわせた服を急いで
仕立てさせているところである。
だが、出来上がるまでのつなぎにと出したラルフの昔の服は、急いで裾と着丈は詰めさせたものの、肩幅と腰
まわりの差は詰めるくらいではどうにもならなかった。
結果、現在のアルカードは華奢な身体にラルフの大きすぎるシャツをまとわりつかせ、余ったところを折り返した
袖口から細い手首を覗かせている。同じく子供の頃のラルフのものだった短靴を履き、インクのしみのついたペン
を手にしたところは、まるで十二、三の少年のようだ。
それでいて、ふだんとあまりかわらない老成した口をきくのがいまいましい。怒っていいのか笑うべきなの
か、ラルフには見当がつかなかった。
「よく調べられた記録ではあるが、やはり残念ながら抜けや、勘違いがところどころ目につく」
アルカードはまたペンをインクにつけ、先ほどの続きにまた一言二言書き足した。
「私にわかる範囲でそのあたりの修正や、注釈を入れさせてもらっている。おそらく誰かが翻訳しかけたまま中
断したと思われる魔術書も見つけたから、それもひと月そこらあれば完成させられると思う。もはや古くなって
いる知識も多いから、そちらは私が新しく書き直しておく」
-
「書き直しておくって、おまえ、読み書きができるのか?」
「ラルフはできないのか?」
意外そうに問い返されて、ラルフは返答につまった。
むろん、できないことはない。荘園主として処理しなければならない書類や監督すべきことがらを考えれば、
ある程度の読み書きはできなければやっていけないし、キリスト教徒として育てられた人間として、聖書もそれ
なりに拾い読み程度はできる。
しかし、だからといって分厚い本を自由に読みこなしたり、それについて注釈を書いたり、外国語の本を翻訳
したりすることはまったく別次元の問題である。荘園関係の書類はある程度の定型があるから限られた単語さえ
覚えていればなんとかなるが、自分の考えを自由に文章で述べるというのは、ラルフにとってはまったく理解の外
の話だった。ましてや、見る気もしないようなぎっしり字の詰まった書物をらくらくと読み、さらにその翻訳
や、間違いまで指摘するに至っては。
「それは、まあ、一応できるが。翻訳って、おまえドイツ語以外にも何かできるのか」
「ラテン語とギリシャ語に関しては、とりあえず不自由ない」
あっさりと言って、アルカードは頁をめくった。
「あとは英語と、フランス語とイタリア語か。イタリアに関しては方言が多いので、全部というのは無理がある
が。ルーン文字を習ったときに、ゲール語とオック語も少し教わった。トルコ語も一応理解はできる。東洋の言
語は独特で興味深いが、文字が難しいのでなかなか覚えきれない。研究の余地があるな」
ラルフはあいた口がふさがらなかった。
「それだけ、全部、か……?」
「人間の言葉なら、だいたいこれだけだと思うが」
-
ということは、人間でないものの言語もあるのか、と訊こうかと一瞬思ったが、訊いたらもっと恐ろしい答え
が返ってきそうでやめた。
「本は、好きだ」
古びた羊皮紙の頁をたどりながら、アルカードは懐かしむように目を細めた。
「幼いころはたいてい、城の図書館が遊び場だった。手当たり次第に本を選んでは、図書館の主に読み方を教え
てもらった。『書物とは、すなわち知識。正しき知識とは、まさにこの世の何にも勝る宝でございますぞ、
若君』というのが爺の口癖だった」
「俺は理解できんな」
アルカードが昔のことを口にするのは珍しかったが、ラルフはやはり不機嫌だった。
あまりの世間知らずぶりに忘れていたが、アルカードは魔王の一人息子なのである。
魔王たるドラキュラ公は、人を攻撃しはじめる以前は魔道の研究者としても名を馳せ、噂ではあるが人間の学徒を
城に入れて禁断の知識を分け与えていたという。そういう父の息子が、それなりの教育を受けていないはずはな
いのだった。人間で言えば、皇帝の息子なのだ。皇帝の息子が皇子らしい学問を身につけているのは当然だろう。
しかし、ここまでずらずらと教養の差を、それもあたりまえのように並べられるといささらむかっとくる。
写本の、ずらりと並んだ文字に混じったアルカードの瀟洒な筆跡を横目で見て、ラルフは鼻を鳴らした。
「こんなもの黴くさいもの読まなくたって、毎日きちんと鍛錬をして技を磨いていればどんな相手にも負けは
しない。だいいちこんな埃だらけの場所、いるだけで息がつまるし肩が凝るだけだ。こんな蟻の行列みたいな
もの頭に仕込むより、外で型の一つも身体に覚えさせたほうがずっといい」
アルカードは目をあげてラルフを見た。
「な、なんだ」
-
蒼い瞳に凝視されて、心ならずもラルフはあわてた。
「なんなんだ一体。言いたいことがあるならさっさと言え」
長い沈黙のあと、アルカードは黙って横を向くと、使い古した羊皮紙の切れ端と、ペンをとってぐいとラルフに差しだした。
「な、なんだ? なんのつもりだ」
「座って、今から私が読む文章をそこへ書け」
有無を言わさぬ口調でアルカードは言った。
「『アルラウネは人間の女の上半身と植物の下半身を持つ魔物である』だ。さあ、座って、書いてみろ」
「ちょっと待て。なんで俺がそんなことを」
アルカードはふたたびじっとラルフを見つめた。
ラルフは身を引き、唸り声をあげ、何度も視線をそらそうと努力してから、罵りの言葉とともに紙とペンを受け
取って、樫の大テーブルに腰をおろした。
「どうした。手が動いていないが」
「……文章を忘れた。くそっ、もう一度言え、もう一度」
結局アルカードは同じ文章を三度くり返して読み、さらにもう一度、一語ずつ区切ってゆっくりと読み上げること
となった。
罵りと唸り声と呪いの言葉だらけでやっと完成した書き取りを手に取ってみて、アルカードはまたもやしばらく
沈黙していた。
「これは……なんというか、その」
ようやく、ぽつりと言った。
「非常に──個性的な、字だな」
-
「下手なら下手とはっきり言ったらどうなんだ、畜生め」
今やラルフは完全にかんかんだった。開き直って椅子にもたれかかり、腕組みしてふてくされたようにそっくり
かえる。
「下手で悪いか。どうせ字を書く機会なんざ、書類にサインする時くらいしかないんだ。意味さえわかりゃたく
さんだ。違うか、ええ」
「綴りと文法もきわめて独創的だ」
ラルフの開き直りは無視してアルカードはペンをとり、『独創的な』綴りと文法のあたりに印をつけて修正した。ラルフ
の断末魔の毛虫がのたくったような筆跡の下に、さらさらと正しい文章を書きつける。
「しかし、これでは書いた人間以外の者が読めない。それでは文字を書く意味がないだろう。次は、これを写し
てみろ」
と、別の紙を滑らせてよこした。
反射的に拾いあげてみて、ラルフは後悔した。アルカードが本から書き抜いたらしい文章が、何行かに渡って書き
つけられている。
「おい、なんだこれは一体。何のつもりだ」
「せっかくこれだけの宝があるのに、利用しないのはもったいないだろう」
かたわらに積みあげた分厚い本と、隣の蔵書庫を目で示してアルカードは言った。
「その調子では、どうやら一冊も読み通したことがないようだ。当主がそんなことでは、私も注釈を書く
はりあいがない」
「それで俺に今さら読み書きの練習をしろっていうのか? 餓鬼か俺は。エルンストみたいなこと言いやがって、
あのなアルカード──」
-
そこでまた、アルカードの視線にぶつかった。
とたんに抗議が喉につまる。さんざんぶつぶつ言い、目をそらそうとし、席を立つむなしい努力をつづけた
あと、ついにラルフは降参した。
「えい、くそっ」
ペンを折れんばかりに握りしめ、仇を見るような顔で羊皮紙を睨みつけて、ラルフは背中を丸めて課題に襲いかかった。
「畜生。見てろ、こんな蟻の行列、歩く鎧の集団に比べたら楽勝だ。俺がこんなものに臆すると思ったら大間違
いだ、後悔するな、くそっ、畜生」
「その意気だ」
平然とアルカードは言って、書見台に向きなおった。
「それから、できれば綴りと文法に関する独創性は控えめにしてくれると助かる。誰でもおまえと同じ発想が
できるわけではないからな」
「……おまえ。実は楽しんでるだろう」
歯を剥いてラルフは唸った。
「別に。ただ面白いとは思っているが」
「同じことだ、こん畜生」
──形のいい唇の端が、わずかに上がっていたかもしれない。
そのままアルカードは注釈の作業に没頭し、その涼しい横顔に恨みの視線を投げながら、ラルフは、鞭の一撃では
打ち倒せない生まれてはじめての敵に、必死の戦いをしかけていった。
-
──誰かを抱く夢を、見ていた。
闇に浮かぶ肢体は光を放つまでにあくまで白く、触れる肌は絹よりもまだなめらかだった。いつもは冷たい
その肌が自分の手の下で熱をおび、しっとりと濡れてとろけていくのをじっくりと味わった。
両手に余るほどのたっぷりとした銀髪をわしづかみにして床に這わせると、涙まじりの甘い喘ぎが、もう
許してほしいと哀願する。だがそれも、燃えあがった欲望をなだめる役にはたたず、むしろ、いっそう嗜虐心
と独占欲をあおる。
反らせた背中とうなじに口づけの雨をふらせて、そのたびにひくりと震える背筋と、あとに残した赤い刻印
に、満足する。
あげさせた細い腰をつかんで一息に貫きとおすと、かすれた悲鳴が響く。撃たれた鹿のように身をよじる彼を
ねじ伏せながら、その声が徐々に快楽の喘ぎに変わっていくのを勝利感と共に聞く。そしてまた口づけ、しなや
かな体を口づけと愛撫とで覆っていく。
充たされた征服欲と独占欲、尽きることのない、欲望。白い腕は救いを求めるようにいつのまにか自分の胸に
すがり、甘い息をもらしている。香り高い銀髪に頬を埋め、幾度も指を通し、閉じた瞼にたまった涙を唇で吸っ
てやる。
そうだ、これは俺のものだ、ほかの誰にも、何にも、けっして触れさせはしない──
異様な気配に、ラルフ・C・ベルモンドははっと目を見開いた。
深夜、自分の寝室。暗闇に沈んだ室内に、爛々と燃える赤い目がひとつ、あった。
-
「妖魔!」
ラルフが枕もとに置いた鞭に手を伸ばすより早く、赤いひとつ目を持つ小魔は笑い声のような鳴き声を残して、
闇に溶けた。
鞭に手を伸ばしかけたまま、ラルフは凍りついていた。たった今見ていた夢の内容が、まだ生々しく脳裏に
残っていた。
夢の中の相手は、──アルカードの顔を、していた。
◆
翌朝の目覚めは気が重かった。
身体もなんとなくだるく、二日酔いの朝のような吐き気と倦怠感がいつまでもつきまとった。朝食もあまり
進まず、あの御当主がと厨房の者を不思議がらせたほどだった。
いつものようにエルンストに見張られつつ書類仕事や見回りをすませたあと、ラルフは最近日課となっている、東翼
の読書室に足をむけた。
最初はさんざん文句を言った読み書きの時間だったが、よく考えてみれば、これはこれでアルカードと毎日、午後
の数時間を堂々と過ごせる口実になるのだ。エルンストが、理由は常ながら口にはしないが、どことなくアルカードを
遠ざけたがるような態度を取るとなれば、なおさらこの時間は貴重だった。
なのに、今日はその日課すらもラルフを楽しませなかった。読書室へ向かう足取りも、どことなく重い。
-
昨夜の夢は魔物のしわざだ、あの森で邪魔をされたやつらの一匹が意趣返しに来ただけだ、気にすることは
ない。そういくら自分に言い聞かせても、闇の中で光るようだった白い肌、しなやかにからみついてきた腕の
感触はいまだにひどく現実的だった。これから実際その相手に会うとなると、どんな顔をしていいのか正直
わからない。いくら相手が、ラルフの夢まで知っているわけはなかろうとも。
東翼へ続く廊下にはいると、かすかに弦をつま弾くような音が聞こえてきた。ぽつりぽつりと音程を追いなが
ら、間をおいてまた何度か同じ弦をはじいている。
「アルカード?」
「ああ。ラルフ」
読書室に入ると、アルカードはいつもの定位置である書見台の前ではなく、大きな窓のそばに長椅子と小卓を
運んでそこに座っていた。膝に首の長い古風なリュートをのせ、前に聖歌集らしい埃だらけのネウマ譜の束
を置いている。
「今日は本じゃないのか。そんなもの、どこで見つけてきたんだ」
「書庫の隅で弦が切れたまま埃をかぶっていたので、修理してみた」
こともなげに答えて、つぃん、とまた一音鳴らして耳をすましている。
「すまないが、もう少しそこで待っていてくれ。調弦を済ましてしまいたい。同じ時に全部の音を合わせて
しまわないと、また音程が狂ったりするからな」
「あ、ああ」
窓辺のアルカードの姿から目を離せないまま、ラルフはそろそろと椅子に腰をおろした。
すでにアルカード用の服はひとそろいできあがってきていて、西の塔のアルカードの部屋の衣装櫃いっぱいに詰められ
ているのだが、アルカードはいまだにラルフの古いシャツを脱ごうとしない。
-
埃だらけの蔵書室で新しい服を汚すのは忍びない、というのがアルカードの言い分だったが、ラルフは、自分の以前
身につけていたものがアルカードの身を包んでいるということに、内心満足感をおぼえていた。アルカードがそれを
脱ぎたがらないことも、ひそかな喜びと満足の種だった。
だが、今朝はそれが逆に働いていた。午後の明るい光に縁取られながらリュートの長いネックに指を走らせる
アルカードは、どうしても昨夜の夢の姿を思い出させた。
大きすぎる袖から出た細い手首や、襟もとの白い首筋に細い鎖骨の影が落ちるのを見ていると、わけもわから
ず叫びだしたい気分になってくる。
白い指先が弦をはじき、繊細な音の違いを聞きとろうと目を伏せている顔に、涙をためて目を閉じていた、
あの夢のなかの横顔がかさなった。
はっと気がつくと、痛いほど固く両拳を握りしめていた。ラルフは意識して全身の力を抜こうとして、大きく息
をついた。
だが、しばらくすると、また同じように全身をこわばらせていた。
腹の底に溶岩がたぎっているようだった。目を離そう、離さなければ、と思うのだが、視線はまるでのり付け
されたようにアルカードから離れなかった。
アルカードは調弦の作業に没頭してほとんどこちらを見ていない。朱い小さな唇がなにごとかを呟き、指先がいつ
くしむように細いネックをたどる。
つぃん、つぃん、と弦が澄んだ音をたてるたびに、かぼそいあの喘ぎ声が耳によみがえってきた。楽器にから
む腕と指先が、いやおうなしに、夢ですがりついてきたあの腕のなやましい動きを思い起こさせる。
たまらなくなって、ラルフは立ちあがった。
「ラルフ?」驚いたようにアルカードが顔をあげる。
「どうしたんだ? あと少しで終わるから、もうしばらく待っていてくれれば」
-
「ちょっと用事を思い出した」
絞り出すようにラルフは言った。喉を絞められているような声だ、と自分でも思った。
「すまんが、授業はまた明日、ということにしておいてくれ。悪いな」
「ラルフ、どうしたんだ」
様子がおかしいことは気がついたらしい。楽器をわきに置いて、あわてたようにアルカードは席を立ってきた。
「何かあったのか? 本当に、もうすぐ終わるから、あと少しだけ待っていてくれ。いや、途中でやめても、
別にまた、明日やりなおせばいいことだし──」
「さわるな!」
引き止めようと伸びてきた手を、ラルフは思わず振り払っていた。
一瞬後には後悔していたが、もう遅かった。振り払われた手を胸にかかえて、アルカードはまるで殴られたような
顔をしていた。唇をかすかに開き、血の気の引いた顔に、蒼氷色の瞳だけが大きく見開かれていた。
いたたまれなくなって、ラルフはそのまま逃げるように踵を返した。
理性は今すぐもどって、アルカードに謝るよう、きちんと理由を説明するようにわめきたてていたが、今、こんな
気持ちで、あの夢をかかえたままあの瞳に見つめられたら、自分がいったいどうなるのか、ラルフにはわからなか
った。
「若」
しばらく外に出て頭を冷やすつもりで厩へ行き、馬に鞍を置いていると、エルンストが姿を見せた。また気分が
重くなった。
-
「なんだ」
苦々しい口調でラルフは言った。
「小言なら、聞かんぞ。今日の分の書類なら、全部朝から片づけたはずだ」
「荘園のことではございません。少々、お訊きしたいことがございます」
いいかとも聞かずにエルンストは厩に入ってきて、ラルフのそばに立った。
「訊きたいこと? いったい何だ」
「あの、西の塔においでの若君のことでございます」
一気に背筋が冷たくなった。
エルンストは鷲のような瞳でこちらを見つめている。ラルフはなんとか平静を装った。
「アルカードがどうかしたのか。あいつは別に迷惑はかけていないはずだが」
「迷惑ということはございません。むしろ、お美しい上にたいへん丁寧でおやさしい方だと、使用人どもにも
評判でございます。しかし」
エルンストはぎらりと目を光らせた。
「あのお方の、ご家名をお聞かせ願えますか、若」
「それを聞いて、どうする」
「あるいは、遠国とおっしゃいましたが、どこの国のご出身でいらっしゃいますか」
ラルフの返事は無視して、エルンストはつづけた。
「たといどのような遠国といえども、ご子弟にあれだけの気品と教養を授けられるだけの名家となると数が限
られてまいりましょう。スペインのハプスブルク、ヴェニスのグリマーニ、あるいはコンタリーニ、フィレンツェのボルジア、ピエモンテのサヴォイ
ア、その他思いあたるようなどんな大貴族の中にすら、あのように目覚ましい若君がおられるとは聞いたことも
ございません。
-
しかも、そのような大貴族のお血筋の方ならば、なぜたった一人で、連れの者もなく旅をなさっておいでだ
ったのです。旅先で出会われたと若はおっしゃいましたが、それはどこで、どういういきさつで出会われたの
か、お話しください」
「エルンスト」
しだいに怒りがこみあげてくるのを押さえて、語気荒くラルフは言った。
「言いたいことがあるならさっさと言え。アルカードがどこの出身かとか、家名はなにかとか、そんなことに何か
意味でもあるのか。あいつは俺の友人で、ドラキュラを討伐した仲間だ、それだけでは納得できないか」
「“Alucard”という名前は、“Dracula”の逆綴りでございますな」
ラルフがもっとも怖れていた言葉を、エルンストはとうとう口にした。
「風のうわさに、ドラキュラには人間の妻がいて、その妻との間に息子を一人もうけていたと聞き及びます。アルカード
様は、見たところあれほどお若いにもかかわらず、剣の腕といい、魔道や魔物に関する深い知識といい、魂を奪
われるばかりの美しさといい、どれをとっても人間の域をかけはなれておられる。もしや、あの方こそ、魔王
ドラキュラの」
「エルンスト!」
押し殺した声でラルフはさえぎった。
怒鳴らなかったのは最後の瞬間に理性が働いて、この会話がほかの人間の耳に入ったらという危惧が頭を
かすめたためだった。鈎型にまがった指は、今にもエルンストの襟首を締めあげんばかりにこわばっていた。
「おまえ、その事をほかの者に喋ったか。あいつの、素性を」
「では、お認めになるのですな。あの方が魔王ドラキュラの子、闇の血を継いだ、実の息子だということを」
「ああ、認めるとも」
吐き捨てて、ラルフは乱暴に背を向けた。
-
「だが、それが何だというんだ。あいつは俺といっしょに、血のつながった自分の父親と戦って斃した、それは
あいつが魔王と同じような闇の眷属ではない証だ。アルカードは絶対に、ドラキュラのようにはならない。それは、この
一か月ほどでおまえも見ていれば納得できるだろう」
「わたくしがどう思うかではございません。世間と、教会がどう思うかと申しあげているのです」
エルンストは馬の轡をつかんで鋭く言った。
「今、ベルモンド家がどのような立場に置かれているかは若もご存じでございましょう。
狼に変身する魔の一族とさえ呼ばれたベルモンドが、ドラキュラ討伐の名のために、ようやく栄光を取りもどしかけ
ているところなのです。今、ドラキュラの血を継ぐ者を邸内に置いていると知れたら、世人の評判はともかく、教会
はあっという間にベルモンドを、異端者として排斥いたしますぞ」
「そんなことはわかっている。その手を放せ、エルンスト」
「あなた様のみならず、荘園で平穏に暮らしている家小作の者どもはどうなさいます」
身をもぎはなして馬に乗ろうとするラルフに、執拗にエルンストはすがりついた。
「あなた様はベルモンドの御当主なのですぞ、若。ご自分の意志のみで行動できる時期はもはや過ぎ去りました。
あなた様にはベルモンド家全体と、それによって生活しているすべての生命がかかっていることを、どうぞお忘れ
くださいますな。ベルモンド家が異端とされれば、村の者どもは土地も家もすべて教会に取りあげられ、飢え死に
するか、異端者の烙印を押されて火刑に処せられるしかないのです」
「うるさい、どけ!」
衝動的にラルフは乗馬鞭をふるった。
手の甲をかすめられて、エルンストはあっと小さな声をあげて手を引いた。
ラルフは馬に飛び乗り、厩の柵をひと飛びで乗りこえさせて門に向かった。口の中がひどく苦かったが、振り返
らなかった。後ろでエルンストが、打たれた手を押さえながら、黙って見送っているのはわかっていたからだった。
-
◆
その晩、ラルフは荒れた。
普段はほとんど足をむけない遠い街まで行き、最初に目についた酒場に入って、エールとワインを浴びるほど
に呑んだ。あまりの勢いに、店の者が「そろそろやめたほうが」と口出ししてくると、怒鳴りつけて店を出て、
別の店に入ってまた呑み続けた。
呑めば呑むほど、酔いの霧がかかってくる頭の中に、アルカードの顔だけがはっきりと思い出されてきた。夢の中
でしなやかに弧を描いた白い肢体、涙を浮かべて哀願する瞳、そして昼間の、まるで殴られたように手を胸に当
てて凍りついていた顔。
──魔王ドラキュラの子、闇の血を継いだ、実の息子。
──ご自分の意志のみで行動できる時期はもはや過ぎ去りました。
──ベルモンド家全体と、それによって生活しているすべての生命がかかっている……
「くそっ」
酒臭い息とともに吐き出して、もう一杯、と手をあげようとしたとき、派手なドレスを着た女がするりと向か
いの席に腰をおろしてきた。
「どうしたの、旦那。ずいぶんご機嫌ななめみたいじゃない。どう、あたしがご機嫌よくしてあげましょう
か?」
あっちへ行け、と怒鳴りかけて、ふと目がとまった。
-
女の髪は、おそらく脱色したものなのだろうが、うす暗い酒場の灯りでごく淡い金色に照り映えていた。アルカー
ドの、月光のような銀の髪にはとてもかなわなかったが、波打つ淡い髪の色は酒精に酔いしれたラルフの、どこか
深いところを刺激した。
「決まりみたいね」
客の微妙な変化をすばやく読んで、女は意気揚々と言った。
「それじゃ、とりあえず半銀貨。泊まりなら、銀一枚ってことになるけど」
ラルフは黙ってコインを滑らせた。女は慣れた手つきで金をドレスの開いた胸もとにしまいこむと、立ちあが
って、来て、と手招きした。
「二階に部屋があるの。今夜はあんたが最初だから、ゆっくりしてってちょうだい」
女を抱くことは、これまでラルフの日常ではあまり優先順位の高くないことだった。
今より若いころはそれよりも鞭術の腕を磨くほうに忙しかったし、父のあとをついでからはエルンストの鉄の踵の
もとで荘園主としての仕事に精を出さざるを得なかったので、自然、男女のどうこうからは遠ざからざるを
得なかった。
べつだん女が嫌いなわけでもなく、寝ればそれなりに楽しいしすっきりするが、それはそれだけのことだっ
た。あとから文を送ってきたり、使いを寄こしてまた来てくれと催促する女もままあったが、そんなことに気を
使うのは、正直いって面倒だった。それよりも一人で鍛錬し、強くなってゆく自分を確かめているだけで満足で
きる、自分はそういう人間だし、それ以外に本当の興味を持つことはない、とずっと思っていた。
「誰か、ほかの人のことを考えてたでしょ。あんた」
終わった後、髪を直しながら女がそう言ったときはいきなり頭を殴られたようだった。
-
「なぜ判る」
「そりゃ、わかるわよ。あんた、ずっと上の空だったもん、やってる最中」
女はあっけらかんと言って、けらけら笑った。
「別に気にしなくていいのよ。そういう人、わりと多いから。あんたはその中でもま、ましなほうだわ。まっ最
中に、別の女の名前呼んだりしなかったもんね。仕事とはいえ、あれって、けっこう女としてはむかっとくるも
んよ」
「……すまん」
「だから、謝ることないってば。それよりねえ、その人、きれいなの? 優しいの? あんたのその、想い人っ
て人」
興味深そうに身を乗りだしてくる。汗にぬれた乳房の谷間に、薄くそばかすがあった。
「ああ」
寝乱れた脱色の金髪を眺めながら、ラルフは呟いた。「とても、綺麗だ」
「そう、それじゃ、こんなところにいないで早くその人のところに戻ってあげなさいよ。それとも何? 喧嘩、
しちゃったとか? それとも、お家の事情でその人とはいっしょになれないとか? 見たとこ、あんたそれなり
の家の人みたいだし」
「両方、だろうな」
アルカードの傷ついた顔を思いうかべる。あれはどう考えても、自分が悪い。
それに、『お家の事情』などという言葉ではとても言い表せない溝が彼との間にあることも、エルンストによ
って否応なく思い出させられてしまった。
そして何より決定的なのは、あの淫夢によって呼びさまされてしまった、自分の奥にある醜いものだ。
これまで見ないように、気づかないようにと蓋をし続けてきたものを、あの小魔は一気に解きはなって笑いな
がら消えていった。意趣返しとしては最高だろう。
-
俺は、──アルカードが欲しいと思っている。
それもただ友人としてそばに置くのではなく、この腕に抱きしめ、なめらかな肌と朱い唇を思うさまむさぼっ
て、そのすべてを自分のものにしたいと願っている。
むろん、許されないことだ。キリスト教の道徳律においては、同性愛は重罪である。軽くて破門、重ければ異
端者扱いで火に投げ込まれてもおかしくない。ラルフにしても、相手がアルカードでなければ、ただ嫌悪と反発を
感じるだけだったろう。
だが、ひとたびあの美しい月のような姿を思い描いただけで、全身が熱く燃えあがるのをもうどうすることも
できない。
アルカードはどう思うだろう、とラルフは思った。これまで、そんなことを考えたことなど一度もなかった。
女との行為は楽しくはあったがただそれだけで、そこに欲望はあっても真剣な気持ちのやりとりはなかった。
だが、アルカードをシーツの上の女に置き換えてみただけで、また下腹に熱がこもってくる。
そういう自分をアルカードが知ったら、彼はどうするだろう。軽蔑するだろうか。怖れるだろうか。あの澄んだ
蒼氷の瞳が、嫌悪をもってそらされるところを思い描くと、果てしなく心が沈んだ。
「ずいぶん悩んでるみたいね」
ベッドに腰かけて脚をぶらぶらさせながら、女は言った。
「でも、あんたはとにかく好きなんでしょ、その人のこと? で、その人も、あんたのこと好きなんでしょ?」
「ああ。好きだ」
と即答して、いささか気弱くなり、
「……少なくとも、俺は、だが。相手のほうは、今ひとつわからん」
「じゃあ、とにかく確かめてみるしかないんじゃない?」
しごく当然だという顔で女は指を振ってみせた。
-
「それで、両思いだってわかったら、とりあえず攫っちゃえばいいのよ、男なんだから。誰も手のとどかないく
らい、うーんと遠くへね。だいたいロミオとジュリエットなんて今どき流行んないわよ、どう、あたしだって少しは学が
あるでしょ」
下の酒場で飲んだくれてる詩人崩れから聞いただけなんだけどね、と言って、また楽しそうに笑った。
「でもまあ、あんたもロミオって柄じゃないわよね、その面構えだと」
「放っとけ」
むくれた顔のラルフにくすくす笑いで返して、で、と女は言った。
「どうする? 泊まってくの? 戻ってあげなさいなんて言った口であれだけど、これも商売なのよね。お金は
さっきもらった分だけでいけるけど」
「いや、いい。帰る」
ラルフは立ちあがって、服を着た。
「金はそのまま取っておいてくれ。話を聞いてもらった代金だ。おかげで気が晴れた」
「そ。ありがと」
女は自分もドレスを着込むと、ラルフのそばに立って、そっと頬に唇をあてた。
「はい、これはおまけ。あんた、いい人みたいだから。その人とうまくいくように祈っといてあげるわ。あたし
のお祈りじゃ、ご利益ないかもしれないけど」
「そんなことはないだろう。感謝する」
扉を閉めるとき、女はベッドの上で小さく手を振った。まがいものの金髪が、弱い灯りの下で明るい色に
輝いてみえた。
-
屋敷に帰りついたときにはもう深夜になっていた。
門番をたたき起こして鍵を開けさせ、厩へ馬を連れていく。繋いでいる間もまだ酒が少し残っていて、頭が
ふらふらした。
明日は二日酔いだろうな、と思いながらぶらぶらと中庭を横切っていく。二日酔いなら、明日アルカードに会わ
ないですむ口実になるかもしれない。意気地がないと自分でも思うが、今日のことがあったすぐ次の日に、
アルカードと会って平静でいられる自信がまだラルフにはなかった。
(好きなんでしょ。その人のこと)
(ああ。好きだ)
何のためらいもなく、そう答えた。
迷いもなければ嘘もない。自分はアルカードが好きだ。
おそらくは、ドラキュラ城で初めて出会ったときから、彼の虜になっていた。
俺はアルカードが好きだ、愛している、これまでその言葉の意味を深く考えたことなど一度もなかった、だがいま
は判る。彼の目を見るたび、唇がほほえむたび、胸を充たした喜びの正体がそこにある。彼のことを考えるた
び、疼くようにわき上がってくる熱も。
アルカードに触れたい、と痛切に思った。
抱きしめ、その月光のような髪に指を通して、俺はおまえが好きだと伝えたい。そして昼間の仕打ちを謝りた
い。だが、その勇気が出ない。なにしろ彼が、その言葉をどう受けとめるかまったく予測がつかないのだ。
-
しかし、同じ屋敷にいるかぎり、いつまでもアルカードと会わずにすますわけにはいかないのも確かだ。何より、
会わずにいれば、数日保たずに自分のほうが我慢できなくなるのはわかりきっている。
とはいえ、今の気分のままで何日も何週間も過ごせというのは、拷問だ。
(……やれやれ)
熱を持った頭を冷やすために、庭の一隅にある井戸に立ち寄った。庭園の水やりや、馬の世話に使う井戸だ。
水をくみ上げて、ざっと頭から被る。
初夏とはいえ、水は冷たい。大型犬のようにぶるっと身震いして水を払ったラルフは、もう一杯汲み上げてまた
被り、さらにもう一杯汲んで、熱い額を水に浸した。ひやりと耳を撫でる水の感触が、冷たい細い指先を思い出
させてぞくりとする。
「──ラルフ……?」
幻聴かと思った。
ラルフはざっと水から頭をあげてあたりを見回した。
夜闇に沈む屋敷のほうから、幻のように白い姿が走ってくる。あわてて立ちあがると同時に、氷のように冷え
切った細いからだが、ぶつかるような勢いで胸に飛びこんできた。
「アルカード」
しゃにむにしがみついてくるアルカードに、昼間のことは一瞬忘れてラルフは困惑した声を出した。
「いったいどうしたんだ、こんなところで。遅いのに、まだ寝ていなかったのか? おい、そんなにしたらおま
えまで濡れるぞ、聞いてるか、アルカード」
「私は、何かしたか、ラルフ」
ようやく顔をあげたアルカードの顔には必死の色があった。
-
ラルフは言葉を失った。
「私が何か怒らせるようなことをしたなら、謝る。謝るから、怒らないでくれ、ラルフ」
自分まで濡れるのを気にする様子もなく、アルカードは懸命に両手でラルフの腕をつかんでゆさぶった。
ラルフはそこに、暗い森で迷いつづける子供の顔がふたたび覗いているのを見た。たった一筋見つけた光をまた
見失ってしまうのかと、絶望しかけている幼い子供。
「私には世間並みのことは何もわからない。私が悪かったなら叱ってくれていい、だが、どうか怒らないでくれ、謝るから、どうか、ラルフ」
言葉をとぎらせて、肩を震わせながらアルカードはうなだれた。
とぎれがちなかぼそい声が、かすかに、ラルフの耳朶に届いた。
「……どうか、私から、顔を背けないでくれ……」
ラルフはふいに、ありったけの力をこめてアルカードを抱きしめた。
「ラ、ラルフ?」
いきなり抱きしめられたアルカードが驚いた声を出す。
「おまえは何も悪くない、アルカード」
絞り出すような声でラルフは言った。
「悪いのは、俺だ。昼間は、悪かった。謝らなければならないのは、俺のほうだ。すまなかった、アルカード。酷い
ことをしたな」
「──ラルフ……」
「悪いのは、俺だよ」
もう一度言って、ラルフはじっとやわらかな銀髪に頬をあてて目を閉じた。
-
欠けていたものが、静かに充たされていくようだった。たった半日ほど離れていただけで、どれだけ自分が
餓えていたかをラルフはあらためて思い知った。
彼が欲しい、と痛切に感じた。アルカードが欲しい。腕の中で震えているこの華奢な身体、その身体も、心も、
アルカードのものであるすべてを手に入れたい。
その代償になら、あらゆるものを投げだしてもいいと思った。ベルモンドの名も、鞭の遣い手という称号も、身
も、心も、魂の最後のひとかけらまで、全部。
「明日かあさってあたり、しばらく二人で遠乗りに行かないか、アルカード」
ようやく腕をゆるめて、ラルフは胸の中のアルカードに笑いかけた。
「遠乗り?」
やっと震えのおさまったアルカードは、眩しげな顔でラルフを見あげた。
「そうだ。おまえだって、たまには外の空気が吸いたいだろう。仕事はまとめて片づけるか、エルンストにやらせて
おくから、四、五日、いっしょに遠出しよう。いい場所を知っているから、そこでしばらく、二人でゆっくり
羽根を伸ばそう、いいか?」
大きく目を見開いて聞いていたアルカードの唇に、やがて安堵したような微笑みが朝日のようにさしてきた。
「いい考えだと思う」
そっとアルカードは答えた。
「ぜひ行きたい、ラルフ。楽しみにしている」
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