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Fate/Over The Horizon Part8
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わたしの命をあげよう
wiki:ttps://w.atwiki.jp/hshorizonl/
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聖杯戦争のルール
【舞台・設定】
・数多の並行世界の因果が収束して発生した多世界宇宙現象、『界聖杯(ユグドラシル)』が本企画における聖杯となります。
・マスターたちは各世界から界聖杯内界に装填され、令呪とサーヴァント、そして聖杯戦争及び界聖杯に関する知識を与えられます。
・黒幕や界聖杯を作った人物などは存在しません。
・界聖杯内界は、東京二十三区を模倣する形で創造された世界です。
舞台の外に世界は存在しませんし、外に出ることもできません。
・界聖杯内界の住人は、マスターたちの住んでいた世界の人間を模している場合もありますが、異能の力などについては一切持っておらず、"可能性の器"にはなれません。
サーヴァントを失ってもマスターは消滅しません。
・聖杯戦争終了後、界聖杯内界は消滅します。
・それに伴い、願いを叶えられなかったマスターも全員消滅します。
書き手向けルール
【基本】
・予約はトリップを付けてこのスレッドで行ってください。
期限は延長なしの二週間とします。
・約はOP登場話を含めて本編に三作以上の作品投下を行っている書き手のみ可能とします。
登場話候補作はカウント致しませんので、ご注意くださいませ。
・過度な性的描写については、当企画では原則禁止とさせていただきます。
・マップはwikiに載せておきましたので、ご確認ください。
【時間表記】
未明(0〜4時)/早朝(4〜8時)/午前(8〜12時)/午後(12〜16時)/夕方(16〜19時)/日没(19時〜20時)/夜間(20〜24時)
【状態表】
以下のものを使用してください。
【エリア名・施設名/○日目・時間帯】
【名前@作品名】
[状態]:
[令呪]:残り◯画
[装備]:
[道具]:
[所持金]:
[思考・状況]
基本方針:
1:
2:
[備考]
【クラス(真名)@作品名】
[状態]:
[令呪]:残り◯画
[装備]:
[道具]:
[所持金]:
[思考・状況]
基本方針:
1:
2:
[備考]
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新スレになります。
これからも当企画をよろしくお願いします。
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田中一
七草にちか
田中摩美々&アーチャー(メロウリンク・アリティー)
予約します
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予約分その1を投下します
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◆
昭和58年の初夏は終わりを迎えた。
繰り返す惨劇、血のカケラの巡礼は演者の退場で幕を閉じた。
雛見沢にうつろう祟神は任を降りた。
懐かしい未来の約束を礎に、あるべき時間へ飛び去った。
煤けた宮。
蒼に逆巻く風。
夏の虫の声は、もう聞こえない。
腕にかき抱く躰の重さを感じながら。
それでも私は、まだここにいる。
「終わったかしら?」
「……ええ、終わったわ」
入れ替わりに耳に入るのは、花の声。目に入る桜の色。
「そっちも済んだの?」
「ええ、バッチリ。こんな身の上になる前からの粘ったい因縁をようやく解消できた気持ちです。
心なしか肩も軽くなった気がするわ。御坊だもの。呪詛のひとつでも仕込んでいてもおかしくないしね」
セイバーはいつも通りの明るさで。
自身の血に濡れ艶やかな衣を汚し、至る箇所が裂き折れたても、くたびれる事なく凛と咲いている。
「私は……また背負ったわ」
天衣無縫の花の煌めきほど、この身はそうはなれない。
一度は終えた螺旋の旅路。隣人の死を無限に見届かながら自分も死んでいく出口の見えない迷宮。
終わった運命を、砕けた欠片を拾い上げる巡礼に、またひとつ重みが増えた。
嵩む罪悪の念。
繰り返される繰り返しの因縁の糸を手繰る者だった沙都子は死んだ。
雛見沢の外の環境をどうしても受け入れられなかった孤独を知った。
身の毛のよだつ平穏に耐えられず、心地よい地獄を選んだ心の軋みを聞いた。
輝かしくて先の見えない未来に目を奪われて、隣りにいた親友と道がすれ違っていた事に気づけなかった。
「もう、立てない? 駄目そう?」
武蔵が尋ねる。
恐らく、精神の話じゃなく、もっと根本的な、肉体面での意味合いを訊かれている。
言ってしまうと、もう駄目だ。
夜桜の呪いは末期症状に至った。体中の細胞が限界に達している。
秒単位で肉が崩壊して、元通りの形を忘れているので滅茶苦茶な形状で再生して周りの肉を傷つけて、また壊れていく。その繰り返し。
百年のループ、そこで味わった死の記録を追体験している。なのに死ねないでいる気分は率直に言って地獄だ。
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夜桜を通して、セイバーにも状態は伝わっているのだろう。
痛みこそ共有しないが、契約の繋がりと夜桜の繋がりで、今自分のマスターがどんな状態であるのかは精確に把握してる。
どこか据えた目線。つ、と指が一本、腰の柄に伸びてるのはそういう理由だ。
もうこれ以上、どうしても耐えられないのなら───この場で介錯を務めようと。
そうして欲しいのは山々だった。
何だかんだ言って、やることはもうやったと思う。
直感というか、死に覚えの要領で掴んだ〝運命を打破する条件〟。
リンボを討ち、沙都子を止めた時点で、たぶん、この世界で自分がやるべき事というのは終わったのだ。
だからもう、無理をして息を嗣ぐこともないと。
痛みを堪えるまでもなく、思考を保つまでもなく、すべて手放して逝けばいいと。
あまりに甘い誘惑の香りに、惹きつけられる気持ちは否定できない。
「いいえ。まだよ。
今度こそ、ちゃんとあの子に向き合うって決めたんだから」
例え『この先』があったとして、どれだけの事を憶えているのだろう。
梨花の全身が味わった、沙都子が浴びせ倒した致死の罠の数々と、埋もれていた小さな本音。
輪から外れた魂が死に、また雛見沢に戻ったちすて、そこではまた惨劇を繰り返されている時間になってるのではないか。
沙都子は───きっと羽入に似た何者かに担ぎ上げられたオヤシロ様のままで。
梨花も、小箱に閉じ込められ翻弄される黒猫になる。
卒業は無かった事に、業だけが永遠に満ちていく。
「約束したのよ。また会いましょうって」
全ては徒労かもしれない。
無意味なのかもしれない。
だとしても───ここで交わした誓いは本物だ。
それを憶えている私が、今もここにいる。
───まだ、ここにはあの子がいる。
武器を持たなくても、勇ましくなくても、决められた運命に抗おうとしている人達がいる。
友達だから、なんて烏滸がましい名乗りを上げたりはしない。
まだあの子について多くを知らない。自分のことを教えていない。
彼女にとっても、自分にとっても、勝手な肩書きは失礼に当たる。
外の世界を知ったばかりの自分と違って。
あの子達はこんな都市を、当たり前に生きてきたのだろう。
時代も違う。場所も違う。すべてが未知の場所で出会う人々。
それは私が村の外で見たいと思った景色であり。
沙都子が私に見せたくないと願った景色だ。
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だったら───その未来を取った私が、見捨てて先に逃げるなんて真似をしたら、沙都子の気持ちさえ陳腐なものになってしまう。
行いが許されないにしても。然るべき報いがあるにしても。
友達が泣いてたのを、見なかった事にしたくはない。
「あの子の願いを否定した私は、最期まで恥じない私で在りたいのよ」
使命も、責務からも解放された。
だったらどうする。決まってる、やりたいことを、やりたいようにやればいいのだ。
「……本当、姿だけじゃなく見違えちゃって」
腕はもう、下ろされていた。
介錯人の面持ちは影も残さず、このサーヴァントにぴったりの爛漫顔に戻る。
「ごめんなさいね。やっと貴方のマスターらしく振る舞えるようになれた気がしたけど……時間切れで負けさせちゃうかもなんて、剣士には口惜しいでしょう?」
「気にしないで。時間がないのはお互い様よ。
───どうやら、私もそろそろ限界っぽいし」
言葉の意味を判じかねる。
自分と同じ変化をした体は、まだこちらほど崩れてるようには見えないが。
「それは……体が保たないという意味?」
「あーいや、私は他のサーヴァントと少し事情が違うのよ。……最初に会った時のこと、憶えてる?」
「……出会うなりお持ち帰りモードで抱き寄せて頬ずりしてきたこと?」
「それは無かったことにして頂きたく! ええとね……私のサーヴァントとしての特性、というか生まれ備えた体質とでもいいましょうか。
時期が来ると、私の体は別の世界に跳んじゃうのよ」
「跳ぶ……」
万華鏡から落ちたひとカケラ。
映し出された先で見た、虚空を斬った事で無に入り込んでしまった顛末。
梨花と同じく、武蔵もまた時間の軛を受けない、特異な出自であるのだ。
「そ。自分でも行き先不明の世界旅行。
梨花ちゃんは死ぬ度に同じ時間をぐるぐるループしてるそうだけど……私の場合は色んな時間、世界にランダムで移動する感じね。
斬るべきものを斬る───私がその世界でやる役目が終わったら、次の世界に行く準備ができる。
今回は……やっぱりあの外道だったのかしらね。この儀の終わりを迎えるより先に遠からず、私はいなくなるのでしょう。
いっかい既にこの先は無いっていう、旅の終着に辿り着いたんだけど……今回の召喚でまた新しいところに繋がっちゃったみたいね」
曰く、数多の世界を大きな海原で表すとするならば。
自分はその中を揺蕩う漂流した小舟のようなもの。
あてもなく彷徨い、流れ着いた先で何かを斬ればまた流される永遠のストレンジャー。
鬼と呼ばれる存在が夜に紛れ人を襲う時代に迷うのか。
権力の暴走と無法の暴力で溢れ、人の夢が止まらぬ大海原に落ちるのか。
ほんの戯れで否定の理に縛られ翻弄される、神の遊技台に乗り込むのか。
星の至天を巡る戦争を止め、全てをゲームで取り決める盟約を敷いた、異種族の世界に転移するのか。
つまりそれが、宮本武蔵の運命。
本願果たした先に待つのは、編纂事象とも剪定事象ともいえぬ異世界への片道切符。
世界の消滅と共に弾き出された剣士は、とうとう宇宙の垣根すらからもはみ出し者になったのだ。
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「じゃあ……私が貴方を巻き込んでしまったから……?」
「そんな顔をしないで。驚きはしたけど、この召喚を余計な蛇足だったなんて思ってません。
得難い出会いにも、斬るべき相手にも恵まれた。またおいしいうどんを食べることもできました。
梨花ちゃんもそれはもうたいへん可愛らしかったです。神を斬ったところでこの性根は変わらないみたいねー」
てへへ、と。
煩悩まみれの、喜ばしいものを語るような顔で笑ってみせる。
芽生えるのは悲嘆ではなく、未知なるものへ期待する胸の膨らみ。
全てをやり切ったと思っても、生きてる限り喜びがあり、願いが生まれる。出会いは起こる。
『次』はやってくるのだ。例えそれが無の後でも。
「だから私が伝えたいのは、もうこれしかないの。
───ありがとう、私を召喚してくれて。あなたは確かに、剣を握るに足るマスターでした!」
前に伸ばされる空の手。
もう、言葉を交わす機会はない。これより先、彼女とはそれぞれ別の戦場で別れる。
次の再会は、二度と来ない。
でもそれは、悲しい別れなんかじゃない。
出会った時からの記憶。駆け抜けた戦い。痛みと傷。清算に悔い。
そのどれもがキラキラと輝いていた。
役目を終えても消えない残骸なんかじゃない、この先も紡がれる人生のページに相応しい、あなたとの思い出だった。
「私も────」
だから涙や謝罪じゃなくて、もっと明るく別れましょう。
無言でそう告げる花の笑顔に釣られて、こちらも破顔しながら万感の思いを伝えた。
「私のサーヴァントが……あなたでよかった。
ありがとう、これはとても素敵な運命だったわ」
結ばれる手と手。
桜舞う空の下、終わりを迎える少女たちは、まるで友人のように声を上げて笑い合った。
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◆
巨獣の進撃が続いている。
刀一つ、侍一人、月の分け身なにするものぞと押し破り、折り砕き、粉砕した。
次に来るはやはり刀一つ、侍一人。なれど背負うのは月ではなく桜花。
夜にこそ映える二つの彩は、降り注ぐ陽光と猛暑も塗り潰すほど印象が強い。
夏に桜。昼に月。常軌に囚われない無二の景色は幻想郷に相応しく豪華絢爛な肴だ。
「ウォロロロロロロロロッッ!」
そう、肴だ。
この世全ての人、物、概念はカイドウという怪物の酒を進ませる肴に過ぎない。
戦とは名ばかりの茶番にしかならないと項垂れていた彼に、〝敵〟として認めうる相手が現れたのだ。
悦に入りたくもなる。愉しくならない筈がない。もっと酔いを回したくなる。
身を震わす躍動で尾がのたうつ。足踏みが深まる。筋肉が破裂寸前に膨張する。
女剣士一人を屠って余りあるパワーの充溢が炸裂する。
「……! 相っ変わらず……インチキじみた動きを!」
吹雪いた桜の花弁が、風に流されるより前に燃え尽きる。
空振った八斎戒に纏わりつく覇気が周囲の大気に伝播し、得物以上の広範囲に衝撃が生まれた証だ。
そんな規格外の攻撃を向けられながらも武蔵は無傷。しかし顔色に安堵が乗る筈もなし。
奥義でも異能でもない、ただのフルスイングがこちらが死ねる威力なのだ。
通常攻撃なのだから、簡単に連発してくる。乱打が止まらず押し寄せる。
以前、東京タワーで一度だけ武器を重ねた時点で分かっていたが。
武蔵が戦ってきたどの剣士、魔性、機神よりも、肉弾での破壊に関してはこの怪物が随一だ。
あの、死闘を演じたベルゼバブと同種の類。
生物的に最強の存在が、素質にかまけず実戦と鍛錬を生涯かけて続け、幾多の敗北を知ってなお生き延びて前進を止めなかった者だけが体得できる極限。
清廉と雅さを欠いた、武蔵が惚れ込んだ武芸者の至った道とは一線を画す、暴の一字。
そも比較対象が山脈と見紛う象と融合した王や、星の海を越えた機動戦艦の時点で、武だの道だのを超越してる。怪物と言わずして何と言おう。
「どの道よ、お前とはやり合う事になると思ってたぜ」
金棒を回転させ遠心力を味方につけたカイドウが跳ぶ。
武蔵の5倍はあろうかという巨体が、まるで翼を得たかのようにしなやかに飛翔する悪夢。
「〝咆雷八卦〟!!!」
否。悪夢はここからだ。
垂直に稲妻が落ちたと言っても信じるだろう、角質化した現象による殴打。
これを───武蔵は回避。足運び。視線の誘導。剣筋の軌道。あらゆる兵法を一点に投じた捨身が命を拾う。
「タワーで顔を見た時からすぐに分かってた。お前は誰かの下に就けるタイプじゃねえ。まして令呪なんぞで屈伏できる性根でもねえ。
皮下は体よく使い潰せたつもりでいやがるが……どうせ最後には難癖つけてでも俺に刃向かってくるだろうってな」
「お褒めに預かり恐悦至極!」
大技の直後に生じる硬直。逃さず駆け抜けすれ違いざまに脇腹に一閃。
鋼の肌が斬り裂かれ出血する。無敵であるカイドウの鋼皮が容易く傷つく武蔵の剣。
だが浅い。この怪物を沈めるにはまったく足りない。
内蔵を持っていく気の横薙ぎは、肉を開いても骨に阻まれた。
相手が尋常の剣士であれば技ありの一本も、今度ばかりは相手が悪い。
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「今のが称賛に聞こえたのかよ。 案の定イカれてやがるなッ!」
傷のペナルティを忘れてしまった暴君の俊足。
光月おでんが与えた傷は消えず、直前に黒死牟からの内側への斬撃を置かれて痛めた内臓は完治してない。
少なくともこの戦いの中で癒えることはないだろう。カイドウは不死身でも無敵でもない。歴とした生物の英霊でしかない。
ただし、『最強の生物』だ。
たつ おとしご
「〝龍の……落 刺 弧〟ォ!!」
真空の刃が天地より挟み込まれる。龍の顎の再現が武蔵という小魚を噛み殺す。
泳ぎ逃げ惑う武蔵を追う刃は練武による精細が生んでいる。正確に狙って、刺してくる。
迎撃しなくてはかわせず、波の外に出なければ飲み込まれる。
ならばと打ち返しながら足を止めない武蔵、彼女もまた天にも届く剣腕の持ち主だ。
「この戦争もそろそろ宴もたけなわだ。最後の祭り、お互い存分に楽しもうぜ!」
脱出した武蔵を、待っていたとばかりに目前に迫る金棒。
肝が凍る。牽制から本命を当てる位置に誘導された。やはり戦巧者だ。腕力に物を言わせた力自慢とは格が違う。
刀で止めながら両腕が飛ばされた未来を幻視。必死に防御したのに衝撃だけがすり抜けて体に向かっている。
物理の要素と違う、気合いの裂帛による透かしと読んだ武蔵は、侵掠する殺気に剣気を当てる事で相殺を狙う。
一秒を何十にも刻んだ間隔の内に練り上げた策は、五体の粉砕でなく吹き飛ぶ現象の置換という形で成功した。
「……やたらと絡むわね。私、そんなに琴線に触れた?」
もんどり打ってビルの壁に激突。これだけでも叫びたい激痛だが無視する。痛いだけで敗北をかわせるならなんと安い代償か。
「生憎と……お酒も宴も好きだけど、絡み酒はご勘弁……!」
戦法を変更する。
二刀を十字に重ね、振り下ろすと共に吹き上がる虹の斬撃。
混じった夜桜の成分による余剰作用で、花弁の波を生みながら追撃に接近していたカイドウに直進する。
覇気を乗せた金棒の手応えの重さに、逆流しようとしてくる桜の気勢に、初めて進撃が止められる。
次瞬───胸板に刻まれる一文字。
流桜纒いし山斬の剣が、遂にカイドウの芯を捉える。
鬼神でも無視できず足を止めざるをえない、生命に走り抜ける『痛み』の感覚。
「ハ……そりゃそうさ。分かるって言ったろう。
俺とお前は同類だ。戦いの中でしか生きていけねえし行きたくもねえ、同じ穴の狢よ」
決死の黒死牟に続く、確かに与えられた痛打。
敗北に追いやる一歩をまた歩まされたところで、焦りも揺るぎもない。
むしろ例え一瞬でも死を感じれば感じるほどに生への乾きが癒やされ、覇気のボルテージが増していく。
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「お前だけじゃねえ。そこの侍も……チェンソーのバケモンも……機械仕掛けと雷の能力者のアーチャーも……!
リンリンも! 鋼翼も! 陽の刀の侍も! リンボも!
戦う為に俺達はここに来た!! 戦いこそが俺達の存在意義だ!!
変わりはしないんだよッ! 平和主義の腰抜け共も! のぼせ上がったガキ共も! 結局は殺すしかない鬼の群れ!
"社会"も"政府"も"存在しない、"暴力"のみが世界を支配する! そのルールの下にしかいられねえのがサーヴァントだ!!」
万能の願望器を巡り殺し合う───そんな大前提を今更ながらに叩きつける。
戦う為に招かれたのだ。殺す為に応じたのだ。英霊の意義がどうだろうと、結局は『それ』をしに来たのが我らではないか。
退屈な治世、腐敗した世襲、汚濁の権益。
幼少から望まぬ隷下を強いてきた概念の存在しない聖杯戦争こそ、カイドウが望んだ桃源郷だ。
上等だ。結構な事じゃないか。そうであってくれれば実に素晴らしい。
奪うだけ奪い、殺すだけ殺せる。何にも縛られず、何にも邪魔されない。あるのは敵か、それ以外かのみ。
牢獄から解放された自由な世界でこそ、己は何に憚られる事なく暴虐に生きて─────────。
「そう─────あなた、運命を掴まえられなかったのね」
針のひと刺しにも等しい刃が、ズグ、と、吸い込まれるように鬼の空洞に沈み行った。
「…………………………オイ、酔いが冷めるような事を言うんじゃねえよ。この期に及んで下らねえ同情なんざ見せるな」
「同情なんかじゃないから安心なさい。今のはそう……我が身の比べてみての感想みたいなもの」
哀れみは本当に覚えていない。
他人がどう捉えようとも武蔵はそう言う。
自らの運命を察し、掴み取れた己だからこその納得。
ああ、なんだ私───すごい恵まれてたんじゃない。
「我が運命は既に果されり。斬りたいものを斬り、斬るべきものを斬った。
もう残響でしかない今生なれど……やりたい事は、好きなだけやらせてもらうわ」
「わけ分かんねェ講釈垂れてんじゃ……ねェよ!!」
青筋を立てて踏んだ地面は怒りに耐えかねたように爆発。そのまま推進に転化され、ただでさえ巨躯の凶器を破城槌に変える。
無遠慮に虚無を障られたカイドウの覇気は一切の手加減なく、かつ手抜かりなく武蔵に鏖殺の武を振り落とさんとす。
金棒の覇気と刀の剣気が触れる、着弾の寸前───別方向から来た波濤が、炸裂を鎮火させた。
「!!!!」
夥しい数の鯱の群れ、斬撃の海はカイドウのみを巻き込み、その軌道を大きく狂わせる。
迎え撃つ姿勢だった武蔵の横を通り過ぎ、不発に終わった技の勢いを殺せず横臥する羽目となった。
「ハア……性懲りもねえ……」
さしたる損害もなくむくりと起き上がるカイドウだが、言動と裏腹に口の端は上を向いている。
よく立った。まだまだ愉しませろと、遊具に目を輝かせる怪童のように。
「いいぜ。俺を倒そうっていうなら……二度や三度負けたくらいで死ぬようじゃいけねえからなあ…………ッ!」
起こした視線の先に立つのは、鋼の武者。
錆が抜かれて陽光(ひかり)を照り返す、常世の剣。夜を超えた鬼。
「……待たせたな……」
再起する月剣。
完膚なき敗北を味わい、地を這いずりながら、黒死牟は確かな意志で戦場に舞い戻った。
「おかえり!」
「貴様に言ったわけでは……ない……」
夏空に揃いし月と花。
鋼翼落としの偉業をなした刃のうち二振りが今一度揃う。
人外魔境、更に加速。
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◆
区一つ分を隔てた先からの振動を全身の枝で浴びながら、皮下真は考える。
カイドウは戦っている。遠くからの咆哮を聞くだけでも、楽しんでる姿がまざまざと見える。
搾り取られるこちらの魔力を考えもせず。自分が負ける可能性を恐れずに。
余裕がある訳では、ない。
組織も配下もみな潰えた。同盟相手も死に絶えた。
生き残った死に損ないである自分は所詮出涸らしで、手元にはもう何も残ってない。
それが不思議と、心地よい。
なるようになれと、自棄になったわけでもなく自然に笑ってしまえる。
自由など、言葉の上でしか知らなかった。
雁字搦めの軍の規律。
ベルトコンベアで運ばれては棄てられる生死の塊。
籍を焼いても、懐いた残響を叶えてやろうと組織の運営に囚われた。
皮下真の人生は死人だ。
植え付けられた呪いで動く、残骸を敷き詰めただけの死体だった。
呪いが解ける日が来れば元に戻る、ゼンマイを回されたブリキの人形だ。
でも、もう、もはや駄目だ。
川下真は生き返った。
夢に見た光景が、夢を見た情動が、呪われた心臓に鼓動を送ってしまった。
止まらない。止められない。止める気がジャンクされた。
彷徨って、失って、余分な資源を根こそぎ奪われた今この時だからこそ───何のしがらみもなく、好きに生きていける。
余計な荷物を放り捨てて身軽になった体は、空も飛べる筈という夢想に疑いなく羽撃ける。
「逃げないって決めた以上、手は抜けないからな」
垂らした血の一滴で地面に新芽が萌える。
芽は瞬きする間もなく枝になり葉を宿し樹木に育つ。
尋常でない速度の樹木が次々と現れる。都市は森に変わった。
「なわけで、雑にいくぜ」
一斉に、足りない栄養を求めるように枝を伸ばす。
獰猛に、執拗に、それがなければ生きていけないから奪うという、切実なまでに。
森全体が動いて標的に殺到する様は、ひとつの巨大な怪物への擬態だ。
夜桜から生まれた妖樹(トレント)。
『再生』の性質の皮下のソメイニンが、万花繚乱によって満開の如く活性化し狂い咲く。
質量保存の法則も忘れてしまった祝福の種子は、人の命脈を吸い尽くす事で埋め合わせにする。
「───やろうぜって決め台詞言った割に」
押し退けられる。
刺し貫く枝槍が、転がり潰す桜坊が、幼い少女の片手で止められる。
触れる事さえ許されまい、分をわきまえよと払い除けられ、次の瞬間には握られた神剣で断ち切られる。
夜桜を制するは夜桜。
時限式・短期間でも、溶け込んだ血を呪いごとものにした古手梨花こそは当主の系譜を継ぎし次代。
能力の基準、開花の発動の数値だけなら本家筋に見劣りしない。
恩寵に預かり寄生するだけの枝葉では、侵す事など出来やしない。
「随分と無粋じゃない、これは……!」
「そう言うなよ。あいつの手前もあるし、お前一人ならタイマンも吝かじゃないんだ」
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因縁深い宿敵は、距離を取ったまま動こうとはしない。
皮下は夜桜を知っている。古手梨花を知らずとも、夜桜つぼみとその一族の性能を理解している。
死なずの体だけならばどれほどよかったか。その細胞は寿命を除く妙薬だけでなく、人の位階を押し上げる魔法の薬(クーポン)だった。
適合(あた)る確率は万分の一。外せば無一文になるまでもなくそこで人生が終了する。
ごく僅かな間とはいえ、それに耐えたアレは自分と同種……つぼみにも近い。
殴る蹴るでは埒が明かない。首や心臓ですら場合によっては巻き戻される。死の否定。不死の恩寵。
完全に屠るには、幾つかの手順が必要だ。今はそれまで、周りの削りに終始すればいい。物量で攻め立てている現状は極めて順調だ。
「……ただなにぶん敵は多いんでね」
横から飛び出してきた電動ノコギリを、真上から伸びた枝がはたき落とす。
墜落したデンジはすぐさましおのところへ戻り、マスターである彼女を種子の化け物から守る。
この通り、あの姿のライダーは何の問題もない。
鬼札となる令呪の変身には気をつける必要があるが、マスター相手に切れる判断は下せまい。仮にそうなっても同じように令呪でカイドウを呼び戻せばいい。
神戸しおとそのサーヴァントは確実に潰せる相手だ。故に、そのタイミングを選ぶ。
「梨花ちゃん……」
「心配しないでいいですよ霧子。あんなお花のおばけ、僕にかかればちょちょいのちょい、なのです」
憂い顔で戦いを見守るしかない霧子に童女の態度で余裕を見せるも、内心は焦りで澱み始めている。
皮下の狙いは明らかに霧子にある。
戦う手段を持たないマスターなのだから狙うのは当然だ。サーヴァントを労せず消す常套手として無駄がない。
傍についてるアイがいる為、最低限の自衛はしてもらえているが、この物量の壁では逃がす事も叶わない。
梨花とて夜桜の適合がいつ保たなくなるかも分からないのだ。膠着しているようで実際は酷い綱渡りだ。
「梨花さんっ、アイさん霧子さんのこと、ぜったい守るよ! だから……!」
肥大化した腕で霧子を抱えて跳び跳ねて、触手をかわすアイの訴えが耳に入る。
夜桜を守護する番犬の性質を発現したアイの瞬発力と運動量は、野生の狩猟動物を凌駕する。
アイの言う通り、勝負を決めるには攻めに転じるしかない。アイに霧子を任せ皮下に肉薄し、時間をかけず決着をつける。
手段は、ある。
あの魔人を滅ぼす方法、必殺の手筈は整えている。
距離を詰めてこの剣の間合いに入った時があいつの最期だ。
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そこまで算段がついてるのに二の足を踏んでしまうのは───にやけ面を絶やさない皮下の顔のせい。
まるで、お前の手の内は読めている、撃ってみろと誘うかのような無防備な立ち姿。
梨花が自分の懐に飛ぶのを今か今かと待ち受けているのではという疑念が、剣の矛先をぶれさせる。
なにせ皮下は夜桜の研究者だ。この身を流れる血に関する知識では圧倒的な開きがある。
『つぼみ』
『皮下先生なら、用意してるでしょうね。あなたを捕獲する術を。滅ぼす手段を。
散々調べてくれたんだもの』
被験者から直々のお墨付きだ。ますます手を出し辛い。
『けど、あなたがやろうとしている事は、思いついてないかもしれない。
前段階までは考えついていても……その先を、彼はきっと知らないから』
策が有効であるのも同時に推されてしまい、作戦の修正も引っ込みがつかない。
主導権は、皮下が握っている。
打って出たいが罠と分かってむざむざ突っ込みたくはなく、消耗戦はこちらが不利。
いつ起動するかも分からない時限爆弾を抱えての根比べ。体力でも肉体でもない、精神の削り合いが梨花の気を揉ませる。
「ところで『しお』ちゃん、ちょっと聞きたいんだけどさ」
素のライダーは相手にならず、梨花も封殺している。自身が優勢なこの隙に乗じて、皮下は逃げ続ける砂糖菓子の少女に軽々しく問いかけた。
「おたくらのボスって今どこにいる?
また空から落ちてこられたら堪らねえんだよな。ビクビクして気持ちよく殺せねえ。教えてくれりゃあ、ちょっとは手を抜いてやってもいいぜ?」
今この場に死柄木弔がいないのは分かっている。
そうでなければ堂々姿を現したりしない。カイドウとビッグ・マムとの交戦記録を洗っても、触れた物質を余さず崩壊させる能力は自分の開花と相性最悪だ。
指先が掠めるだけでも致命的になりかねない、花を枯らし土壌すら穢す除草剤。サーヴァントと比較してもなお危険な規格外だ。
背後か頭上か、奇襲される可能性は常に思考を割かなくてはならない。
露骨になってでも情報を引き出したい。期待はしないが挑発も交えて話を持ちかけてみて反応を窺いたかったが……。
「とむら君は来ないよ。あっちで方舟を壊すんだって言ってたから」
───疑うには余りに純粋すぎて無雑な瞳の返答に、皮下はこれを虚偽と判断する事が出来なかった。
は、と声が漏れる。撹乱や陽動ではない。しおはこの内容を、言っても構わないと本気で思って言ったのだ。
-
「おいおい、まさか戦力分けたまま俺らに勝てる気でいるのか?」
最終局面にあたって皮下が最も懸念していたのは、残存戦力のすべてのサーヴァントとマスターがカイドウを狙う展開だった。
ビッグ・マムにベルゼバブが落ちた今、サーヴァント単体での戦闘力は間違いなくカイドウが突き抜けている。これは確信だ。
従って生き残りの方舟、連合、その他にとっての勝利には、カイドウの攻略が必須。
逐次投入では効果の薄い削りだけ。それならば共通の障害の排除に足並みを揃えて一斉に雪崩込むのが、合理的かつ最適解となる。
これをやられると正直、皮下にとっては辛い話になる。
どれだけ最強でもカイドウは孤軍。数の利は性能を容易に覆す。有象無象ならばともかく、あの戦線をくぐり抜けた精鋭揃い。能力も精神も練磨されている。
どう考えても一筋縄でいくわけがない。出目が悪くなるのは目に見えている。
ましてサーヴァントにはマスターという、生前にはない弱みがついて回る。
万花繚乱に開花した皮下は自身の性能を把握している。木端相手やマスターならいざ知らず、死柄木のような規格外や本流の英霊とでは防戦が精々だ。
そうさせない為リップを引き込み、梨花を鉄砲玉に仕立て上げて、方方の連携を断った。それでも削りきれなかった分は一丸となって攻めに来るだろう、そう踏んでいた。
なのに連合最高戦力は現地におらず、チェンソーの悪魔を差し向けるのみ。
それでその死柄木が何をするかといえば……遠からずカイドウ対策を練って挑みに来るだろう方舟勢力を分断させ、ひとり殲滅しているというではないか。
界聖杯から脱出し聖杯戦争そのものを瓦解させる───戦力とは異なるベクトルで方舟は驚異にすべき勢力だ。違いない。
梨花が忠告したように、マスターの願いを聞き入れる善意で留まっているだけで、いよいよとなれば脱兎と高跳びする───霧子の反応を見る限りその線は薄いが、主導権は件の宝具を持つライダーなのだから状況次第では強行もあり得る。
だからその阻止に動くのは正しい判断だ。皮下もいずれやらねばならなかったのを代わりにやってくれるというなら大助かりだ。
……失笑する理由の焦点は、今このタイミング、この配置でやるということで。
「だったら俺らを足止めしてる場合じゃないだろ。少ない戦力をわざわざ振り分けてさ。
二兎追う者は一兎も得ずって言葉、教えてもらってないのか?」
死柄木だけでは方舟を討ち漏らす可能性がある。
チェンソーマンだけではカイドウに討たれる可能性がある。
そして片方だけ達成してももう片方を取り逃がせば、利は連合には来ない。
この作戦の両立は、双方が完全完了を果たしてこそという、高すぎるハードルを設けなければ成り立たない。実利とリスクの釣り合いが完全に破綻してる。
-
「私はわかるよ」
課題(クエスト)の体をなしてない無理難題にも、地獄の戦地の只中にいる少女はもう納得を得てると迷わず答えた。
「人にまかせてちゃ、自分の願い(あい)は叶わないから」
ああ、と皮下は無意識に頷く。
つまりはソレか。成功率とか算段とか、そんな高度な話、このガキ達は何一つ喋っちゃいないのだ。
先々のことを見ていない……いいや、思い描く最高の到達点を見据えていて、中途にはびこる障害を気に留めてない、子供特有の全能感で物事に当たっている。
「効率より気持ちか。それは舐め過ぎだろ……人のことは言えないがな」
足元を見ていない未熟千万の幼稚さも、今の皮下には笑えなかった。何せ自分がそうだ。
空の蒼さだけを見上げて、海の広さに踊る。
人生をしたたかに立ち回っていく社交性、自分を律するスーツという装飾を剥ぎ取った自由を謳歌している。
自分もそんな夢を追い求める身空になってしまった以上、笑うだけでは済まされなかった。
ああ、子供とはこれだから──────。
「さっきからうっせーぞ! ジジイのチン毛みてえな髪しやがってよ〜〜!」
「ぶはっ……!?」
枝葉を伐採するチェンソーが吹かす爆音を、更に上回る大声で響いた発言に思わず吹き出した。
「あ、ありえねえ……過去最悪の暴言だぞ今の……隣のガキが真似したらどうしてくれんだ……? あーもー霧子ちゃん顔真っ赤じゃん」
マスターが召喚するサーヴァントはどこか似た性質の場合があるというが、なるほどこっちの小僧も極めて子供だ。
矜持やら信義やら、高潔にせよ悪辣にせよ勲を立てた英雄ならば持つ「格」を胸に抱かない無頼漢。そういう意味でもマスターと共有する背景がある。
「ったく、シリアスにさせてくれねえな……っと」
心理に負荷をかける雰囲気を組み上げた空気が今ので台無しだ。綿密に作戦を練っていたのが馬鹿らしくなる。
そのせいだろう。最短で本体に近づく道に張り巡らせた樹壁に穴が穿たれ、枝分かれの神剣が首筋に向かってくるのに気づくのが遅れたのは。
「流石小学生、下ネタに耐性あるもんな」
「馬鹿言わないでちょうだい。私達部活メンバーなら、あんな台詞暴言のうちにも入らないわよ!」
「嫌な部活だな、普段なんの活動してるんだ?」
-
鋭利な刃に変えてから硬化した腕と鬼狩柳桜が鍔迫り合い、双身に火花を散らす。
皮下と梨花、どちらも白兵戦の経験はあっても実践的な訓練、心得はない。
剣筋は立たず踏み込みも出鱈目、手で持った凶器を目の前にぶつけるだけの、剣客戦士から見れば稚拙そのもののままごと剣法だ。
始めから不要だ。彼らは人外、固定の人体に囚われているのを前提にした技術は、余りある性能を損なわせるだけ。
求められるのは、敵を倒す為に自分の何を使えばいいかのみ。自由な発想、敵を葬るインスピレーションの差が明暗を分ける。
直の斬り合いにもつれ込んだ事で条件は五分五分。
意図してはいないだろうライダーの言葉攻めに皮下が見せた、偽りない動揺を見逃さずに近づいた。
勢いを得た。行ける。このまま行く。
一度足を前に出せば蟠る憂慮は背中で置き去りにされた。どれだけ罠を仕込んでいようとも薙ぎ倒す気概に切り替わる。
アイの護衛が保たなくなる前に、梨花の肉体が耐えられなくなる前に、皮下の胸に柳桜を突き立てる。
「なら、ギャグの入る余地のないくらいに粉微塵にしてやるよ」
光明の見えた勝ち筋を愚直に進み続ける梨花を……足元からの異様な地響きが阻んだ。
「っなに……!?」
皮下の背後の地面が隆起する。
地割れを起こし、地層を割って、巨大な何かが出現する。
始め梨花は、それを怪獣だと疑った。
空に伸びる全長と砂埃から覗く威容は、古いアニメーションに出てくるおどろおどろしいモンスターそのものだった。
体を構成する蔦、鳴動する光の色が明るみに出る事でその想像は外れてないと分かり……大幅に補正される。
細胞自体が震える衝撃。訴えるつぼみの声。目にした梨花はそれの正体を悟る。
「まさか……!」
「おうよ。ここまで生きた諸君なら一度は目にしてるよな? その威力も、範囲も」
界聖杯に招かれたマスターとサーヴァント。予選で敗退した者、本戦で脱落した者、今も生存している者。
その全てが共通して抱く、絶対のイメージ。覆せない脅威。
とぐろを巻く玉体はどんな刃も魔術も通さず、裂けた大口からの雷、風、炎の具象はどんな護りも意味をなさず。
其れこそが、青龍。四神を原型(モデル)として荒御魂。
界聖杯においてカイドウと字されるその龍の切り離された頭部が、悪夢の再現と言って憚りなく存在していた。
「こんな大きさ、いったいどうやって……!?」
超巨大なソメイニン集合体。しかも形状は獣形態のカイドウを模した夜桜。
ソメイニンに共鳴する梨花の感覚が、凄まじい量の反応で破裂してしまいそうになるほど過剰集束している。
なのに今の今まで気づかなかった。これだけ埋没してれば確実に察知できる筈の反応を、如何に隠蔽したのか。
「作ったんだよ。ここでコツコツ、一からな。細かいパーツに分けて各所に保存して、地下道を使って運び込んだのさ
設計だけは頭の中で組んでた。俺がイメージ出来る中で最強の砲台だよ」
-
絶望的な失態に皮膚が粟立つ。
東京を覆い尽くしている桜並木。 街中にバラ撒いたソメイニンはチャフ代わりだ。
あれは無意識下の影響でもなければ単なるパフォーマンスでもない、この砲台を隠すカモフラージュなのだ。
タイミングとはこれだった。時間が必要なのはこの為だった。
皮下はただ余裕綽々の態度を崩さず、野次のひとつでも飛ばして神経を逆撫でさせ、相手を焦らす程度の攻撃で充分だった。
歴代の夜桜の戦法を紐解いても、こんな用法は記されていない。発想としてすら浮かばないだろう。
新たに知った魔術の概念。
数百に登る界聖杯の住人に試した人体実験。
カイドウがサーヴァントを落とし無力化したマスターを、生きたまま解剖した結果発見した疑似神経……魔術回路と呼ばれる器官。
それらの臨床データを基に、カイドウへの魔力供給に用いられてる自身の回路を、人為的に複製・増幅させ。
凝縮したソメイニンを純粋なエネルギー───魔力にして放出する。
この世界だからこそ編み出せた、聖杯戦争のマスターである皮下だけの技。
開口される龍の顎。
外見を似せただけの木人形さながらの木偶であるが、頭部から胴の二割程まで再現された躯体は虚仮威しではない。内包されてる魔力に反感されるソメイニンの量を測るなら、嘲笑すら浮かばない。
「アイ、すぐにここから離れなさいっ!」
希いにも似た叫びを上げて指示を下すも、どれだけの意味がある行為か。
木龍が出てきた後も周囲の大樹は健在で、蟻の子一匹抜け出せる隙間もない。
仮に脱出できたところで、あの砲台から放出されるのがカイドウの熱息(それ)を模しているなら、距離や遮蔽物の概念は役に立たなくなる。
「他は確実に消し炭だが、君はギリギリ持ち堪えるかもな。焼却処分で死ねる程つぼみの祝福(のろい)は安くない。
タイマンはその時、改めてやろうか」
煮え滾る怒りで猛然と斬りかかる。
唯一止める手段があるとすれば、司令塔でありソメイニンの供給源である皮下の命を絶つしかない。
生物の姿は見せかけで、他の樹木のように自律機能は持ってない。いわば機械と同じだ。
命令さえ潰せば文字通りの木偶の坊になり、そのまま崩壊する筈……。
一縷の望みをかけての梨花の吶喊は、それを見越して現れる罠に強制的に足止めさせられた。
「───皮下ぁっ!」
火炎、鋼鉄、毒素、筋肉……多種多様な個性を発揮する葉桜の開花。
無論これだけの攻撃で梨花を死には至らしめる事は不可能だ。肌も肉も肺も、渦巻く災難にすぐ適合する。
十数秒あれば強引に突破できる包囲網が……梨花をさらなる絶望に突き落とす。
-
策は成った。
霧子とアイは逃げられず、梨花は止めきれない。しおは腕を掲げて捻じる動作をするが全ては遅い。
砲塔の出力は臨界点を突破しなお安定。球も射角も準備よし。ぶっつけ本番の試験だが、まず成功する試算だ。
後は皮下が指を鳴らす簡単な動作で再現体は〝熱息〟を吐き出し、集ったマスター全員を灰燼に帰す。
回避、防御、反撃、そんな奇跡は介在しない。芥のように燃え尽きる可能性しか残されていない。
方舟と連合の戦力は半減し、カイドウと戦うサーヴァントも退去する。両陣営は健在のまま一切の抵抗の手段を喪失する。
この一発で決まるのだ。皮下の勝利が。カイドウの優勝が。長々と待たせてしまった患者の最期を漸く看取ってやれるのだ。
願望成就の祝砲が上がる。この指を弾けばゲームオーバー。
そう、撃てば終わる。
放たれれば。
使えれば。
指が鳴れ ば。
動 か せ れ 。
───ひた。
足音が、した。
-
……大樹が暴れ回り、山脈が胎動する戦地でありながら、誰もがその音を耳に聞いた。
柔らかい素足でタイルを踏み、近づいてくる。
「まあ、危ないわ」
───ひた。
足音と、声。
──────の背後から、する。
……誰も動かない。
梨花も、霧子も、アイも、しおも、デンジも。誰一人。
走り回って乱れた息遣いすら、無音の闇に溶けてしまった。
動く事も、逃げる事もできない。権限を握る手は取られてしまった。
「そんなに大きな火を持ち出して、いけない人」
───ひた。
音が止まった。
指を鳴らす姿勢のまま硬直した───皮下真の真後ろで。
……異常だと理解しているのに、行動が起こせない。
指二本を擦り合わせて音を出すだけで、大質量の魔力を貯蔵した龍は光を吐き出すというのに。
一秒にも満たない時間が、一向に進まない。
「マスターや、あの子に当たってしまったら───どうするつもり?」
───ずるり。
歩く音でない、音がした。
時間を凍らせて、空間を閉じて、この場を支配しているモノ。
それは誰にも見えない角度から、誰にも気づかれない角度から。
海の中でもないのに、蛸のような野太い足が、割れた空の虚から伸びて───
這い 寄 っ て 来 る。
───ぞぶり。
-
闇が晴れる。
音が戻って、明るさが戻って、時間が巻き戻る。
誰も彼も、無事だった。
梨花も、霧子も、アイも、しおも、デンジも、そこにいた時と変わらないまま立ち止まっている。
周りには夜桜を養分にした妖樹の森。しかし停止して動かない。
「良かった、間に合って───お怪我はない、霧子さん?」
停止していた場所に、いつの間にか新しい人物が加わっていた。
サーヴァント、フォーリナー。アビゲイル・ウィリアムズ。
宇宙に出来た裂け目から覗き込む『何か』を降ろそうと臨む者。
「……アビーちゃん……?」
異様な変容を遂げたアビゲイルとの再会に、名を呼ばれた霧子はそれ以上何も言えない。
喜びと当惑が入り混じり、感情が渋滞して固まってしまっている。
「皮下は……どこ?」
梨花がそう言って、驚いて全員が辺りを見回した。
皮下がここにいない事に、誰も疑問が湧かなかった。始めからここにいないのが当たり前だと認識していた。
その通りだった。
皮下真と彼が操る樹木の巨龍は、この宇宙に存在した記憶ごと削られてしまったかのように、全身を消滅させられていた。
.
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その1の投下を終了します。
期限まで粉骨砕身致しますが次の投下には遅れが生じるかもしれないことを恥を承知でご報告します。
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すみません、余所でも言及があったので確認させて頂きます。
既に予約超過している◆HOMU.DM5Ns氏の予約は無効扱いという形で宜しいのでしょうか?
氏に関してはこれまでも同様のケースがありましたが、キャラも減って予約パートが限られてきた現状だと
流石にリレー的にもマナー的にも超過拘束による悪影響が大きいのではないかなと思いました。
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◆HOMU.DM5Ns氏の現行の予約について、企画主として裁定させていただきます。
◆A3H952TnBk氏も仰られていますように当企画は既に終盤に差し掛かっており、予約超過によるキャラ拘束の影響も大きくなっております。
これまで氏の予約超過に関しましてはある程度多目に見て参りましたが、複数回同様の状況が起こっていること、そして期限を現時点で24時間以上と長く超過していることを踏まえまして、普段から期限を守っていただいている書き手諸氏との公平さを期すためにも、今回は企画主として◆HOMU.DM5Ns氏の現予約を無効化・破棄処分とさせていただくことを決定いたしました。
氏もご多忙なことと存じ、その中で当企画のために力作を仕上げていただいていることには感謝の念が尽きません。
しかしながら今回に関しましては、恐れ入りますが前述の理由を踏まえましてこのような処分を決定させていただきます。何卒ご理解、ご了承いただけますと幸いでございます。
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>>25 確認しました。通達に従います。企画の進行を妨げてしまい申し訳ありませんでした。
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古手梨花&セイバー(宮本武蔵)、皮下真&ライダー(カイドウ)、幽谷霧子&セイバー(黒死牟)、神戸しお&ライダー(デンジ)、紙越空魚&フォーリナー(アビゲイル・ウィリアムズ)予約します
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前半を投下させていただきます
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負け札ばかりを、続けて引いてたね
しまいも、車輪の下さ
◆◆◆◆◆◆◆◆
「――いちおう仲間だろ。俺達」
敵連合の偶像と、敵連合の一般人(ファン)が、本質的な交流をかわしていた傍らで。
鏖殺の鋼翼に追いつかれて、あと一歩で八方ふさがりだった昨晩の窮地。
その遭遇の時と、大差ない顔色をしたメロウリンクが戻ってきた時。
田中摩美々の心臓は、悪寒でわし掴みにされていた。
(にちかの具合……悪かったんだ)
顔色だけで、判断したわけではない。
もしにちかが幸運にも大事なかったようであれば、メロウリンクはすぐにそう念話してくれただろう。
その悪寒は、仲良くなった七草にちかの安否の心配もまずあった上で。
彼女の命か、令呪かが脅かされるなら、全員の未来が閉ざされるという恐怖でもあった。
それは、終末へのカウントダウンがぐっと早まったことを意味する。
だが、それでもまずはと、メロウの念話は摩美々を労った。
『時間稼ぎに感謝する。君を信頼してよかった』
『どーも。……でも、謝らないといけないかも、ですね。
敵の歌を、強くした、のかな?
私が言ったことが、余計なことだったかもしれないので』
二人の男女になった襲撃者が、こちらを殺そうと遣り取りしているのを聴きながら、詫びる。
新たに姿を見せた男に対して、星野アイの姿を象った少女は、表情をはっきりと変えていた。
ほっとしたような、でも、とても嬉しそうな。
まるで、初コンサートに会場入りしてくれるファンの姿を見つけた、新人アイドルみたいな顔。
プロデューサーがかつて言っていた『誰かのための笑顔』のように。
『それは、心境の変化があって歌の威力にまで響くかも、ってことか?』
『想像入ってますケド。攻撃の時にアイドルらしく歌うことに意味があるなら、今の方がそれらしいので』
仮に、彼女が実在するアイドルの歌を再現することで力の底上げを果たしているのだとすれば。
ただ攻撃のために歌うのではなく、『誰かのために歌う』ほうが、本来のアイドルとしての歌には近づく。
大事なのは技術的な歌の上手さだけでなく、心をこめて歌うかどうかだから、とまで言い切ってしまうと陳腐だけれど。
アイドルの歌は、『お手本の模倣(カラオケ)』ではなく、『誰かに見せる為の表現』として歌われるものだから。
彼女にも歌を届けるべき誰か(ファン)がいる自覚は、その歌声がより研がれることを意味するのではないか。
と、戦闘が再開するきざはしを見せている中で、念話とはいえそこまで言葉にすることはできなかったが。
-
『さっきより強くなった可能性。考慮しておく』
『それで私は、何をした方がいいですか?』
メロウリンクもまた、摩美々の予感が意味することのすべては分からない。
しかし、アイドルという分野では彼女たちの方が玄人(プロ)だと自覚はあるため、考慮すべき忠告だと受け止める。
藪蛇だったかは考えるだけ時間の無駄だ。
そもそも摩美々が声をあげなければ、にちかの応急手当ても令呪の確認もできなかった。
『――――』
摩美々に対し、なるべく短い言葉で現状について告げる。
その間も会話を終えた男女に対して臨戦態勢を取ったところ、それをどう受け取ったか。
「殺してくる」とこちらを向き直った女の後ろで、男が口の端をゆがめた。
「ヒ」という笑い声の出そうな、そんな笑みの形だった。
「なんだよ、その眼は。
お前らを追い詰めてるのが俺みたいな屑で、ショックだったか?」
こいつは凡人だと、初見でそう見抜かれることなど分かっていたと言わんばかりに。
その上で、もはやそれは劣等感ではない。繕ったりしないとばかりに無造作な口ぶりで。
「まぁ、俺だって連れが強かったから優位に立ってるのを、自分の戦果みたいにひけらかすほど恥知らずじゃない。
あんたらはともかく、もう一人のアイドルは俺の撃ったライフルで今ごろ死んでるかもしれないけどな」
今まさに破滅をカウントダウンする凶弾を放ったのは己だと、暴露した。
「――っ!!」
七草にちかの、そのアイドル生命の危機を嘲弄する言葉に対して摩美々が鼻白んだ瞬間。
まさに、相手の感情が驚きから憤怒へと移り変わる、その間隙を縫うように。
心を抉る言葉と、驚愕とを同時に撃ちこんで、こちらのペースだとダンスに巻き込む、『彼ら』のやり口を模倣するように。
その男は、サイリウムを振る仕草のように腕をさっとかざし、アイはすぅ、と発声前のひと呼吸を終えていた。
「摩美々っ!!」
メロウリンクがその機を読めたのは、事前に忠告があったからこそだった。
心機一転、にあたることが彼らの間で生じたのだとすれば、再戦の初撃では誰しもが勢いに乗りたくなる。
ならば、明らかに挑発らしきことを口にし始めた男が、それを言い終わる時こそが攻撃のきざしだと。
逆に彼らの虚を突き返すようなタイミングでアスファルトを蹴り、摩美々を庇うようにして後方へと後ずさった。
気を反らすフェイクのためだけに火炎瓶を投げつけ、『強くなっているかも』という忠告を受けて射程の延長も視野に入れて。
だが。
-
――ここではないどこか知らない世界に
歌いだし、その歌詞が告げられる始まりの一音の時点で、劇的に変わっていた。
傍聴。認識。既視感。色彩。
圧倒的情報量。非実在と理解。本能は理解否定。
『一緒に帰りますよ』
先刻の呼びかけが、蘇る。
メロウリンクの、足が止まった。
正確には、その場に、脚を縫い止められた。
まるで、疲労極大の時に戦友から、お前はよく頑張ったから休めと優しく言われたような抗いがたさを、加重されたように。
かろうじて、メロウリンク自身はともかく、摩美々は逃がさねばと体は動き、突き飛ばす。
先刻、七草にちかが、『もう自分を燃やさなくて、無理をしなくていいんだよ』と、ある男に伝えるために歌った曲。
その場にいたメロウリンクもまた、何曲も聴くことになった『櫻木真乃から受け取った輝き』と、類似した色彩。
プロデューサーがそれを聴かされて脳を揺らし、色彩を取り戻した『アイドルの表現』が、そのまま標的を射止める為に使われていた。
そして。
一撃で仕留める毒をもった蛇が、鎌首をもたげるように。
歌いながらのアイドルは、あごのラインを引いて、メロウリンクという観客ひとりに視線を追いつかせて、ウインクをひとつ。
歌声の有する『衝撃波』の破壊槌が、機銃掃射のように地面を抉って標的を追いかけ、メロウリンクの座標に追いつき。
「ガッ――――!!」
ゲリラライブに巻き込まれた機甲猟兵の身体を、正面から存分に蹂躙した。
◆◆◆◆◆◆◆◆
極道技巧(スキル)の中には、『歌』や『踊り』のような芸術分野への表現力を開花させたものも複数存在する。
踊り――バレエの持つ表現力によって、本物だと思わずにはいられない幻覚を見せる極道技巧、『夢幻燦顕視(むげんさんけんし)』。
あるいは、歌を聴かせることで人間の大脳を直接的に破壊せしめる”殺戮歌(ころしうた)”という八極道の極道技巧。
ホーミーズであるアイは、そういった技巧(スキル)を、英霊にさえも通用する幻覚や催眠として昇華する薬物の服用者ではない。
しかし、薬物による身体能力の拡張はなくとも、『創造主の魂を多く注がれたホーミーズ』としての、人間の枠を超えた身体性能はある。
そして。
瓦礫に隠れたNPCたちを相手に歌った時は、『恐怖の喚起』ぐらいにしか揺さぶれなかったそれは。
歌の学習(ボーカルレッスン)を繰り返し、何より『推してくれる誰かを元気づけたい』という心の一端を理解した、今となっては。
彼女を推しながら見つめる田中にとっては、『怯えなくとも、アイを信頼して構えればいい』という落ち着きを喚起して響き渡り。
彼女が覚えたてのアイの為に殺そうとする者にとっては、歌声に胸を打たれる間に、衝撃波に晒されるという劇毒(アピール)を刃物(オト)に宿す。
-
敵技巧(ヴィランスキル)。崩壊歌(こわしうた)。
詞(ウタ)を聴かせて動きを封じ、音波(オト)で抉る。
あくまで彼女の素体は『国民的アイドルを目指せるトップアイドル』ではあっても、『世界的な歌姫』というほどの水準ではなく。
また、歌によって聴衆を魅了するために不可欠である『感情』も掴みはじめであった故に、『強制力』とまで呼べるほどの力はなかったが。
近似値によって音波破壊の透き間をくぐるよう回避していたメロウリンクの、その足にステップが遅れるほどの重りをぶら提げるには十二分となった。
「…………っ。アーチャー、さん……!」
とっさの退避手段としてサーヴァントの膂力によって押し出され、地面を転がることになり。
折れた右腕をかろうじて左腕で覆ってかばいながらも。
ふしぶしの打撲をどうにか無視して顔をあげた摩美々が目の当たりにしたのは。
かろうじて身を起こしただけで、地面にマンホールほどの血だまりを作り。
たくさんの車に轢かれたようにズタズタになったマントの背中を見せて膝をつく、瀕死のメロウリンクだった。
絶望のあまり発狂して塹壕からとびだし、機銃掃射に撃たれて血みどろになった兵士。
そのような光景だとしても大差ないほどの姿だった。
全身強打、血管破裂が多数で、傷口を広げた既存の負傷も併せれば満身創痍。
懐から取り落とした工具が、致命打の衝撃を代わりに受けたかのようにひしゃげて血だまりに浮いている。
霊核に直結する部位だけは守れたことが奇跡。逆に言えば、それ以外はすべて相応の機能低下と痛みをともなう。
何より筋繊維の破壊による敏捷性の喪失は、かろうじて成立していた回避が効かなくなったことを意味する。
この場を打破するには致命的だった。
「むなしいもんだろ? どんな夢を見てアイドルになったか知らないけど、こうなっちゃお前らもモブと同じだ」
バカにするというよりは、むしろ。
どこかの誰かが味わった絶望を、お前らも平等に味わうべきだと言うような、そんな冷淡な声で。
これでは、この先はとても……と。
仲間の安否を案じるどころか、己の命を刈り取る鎌が喉元まできた恐怖が、改めて摩美々の心臓をつかんだ。
-
「楽しかっただろ?
さっきまで、仲間たちがそこにいてさ。
さっきまで、笑いながら希望を語ってさ。
でも、残念だったなぁ。お前らみんな、キレイには死ねないよ」
メロウリンクは重傷を負い。
七草にちかは命に関わる怪我をしたまま地面に転がされ。
アシュレイ・ホライゾンはここに駆け付けられないほどの強敵――おそらくは敵連合の首魁に猛攻を受けている。
受け身として銃弾や歌声の奇襲に晒されてばかりだった摩美々にも。
その絶望的な包囲は、じわじわと数歩の距離まで来ているのが見えた。
「死ぬ時はあっけなく、そのへんの暗くて汚いとこで死ぬんだ。
トイレの床とか、死体だらけの道路とか、そんな所でさ」
語られる具体的なイメージに、去来する違和感と、実感。
感情で言い返してはいけない。
もし声が震えているのを聴かれたら、精神的窮地を見抜かれるから。
そんな、狼狽を隠すような、とっさの知恵は浮かぶのに、『声は震える』という恐怖を打開するすべがない。
囲まれた現実は、今度こそ行き止まりだと、確かに予感させるもので――
――手で掴めるほど近くに、壊れた金色の懐中時計が転がっていた。
『敢えてこう呼ぶぞ。マスター、走れるか?』
続けて、『久しぶりに』その呼び方で呼ぶ声がある。
身体はずたぼろで、「ぜぇはぁ」と喘鳴が止まらない有り様なのに、念話はふてぶてしい矛盾。
なぜ懐中時計を落っことしたのかと言えば、ずっと持ち歩いてくれていたからだろう。
リンボへの逆襲(リベンジ)に使った後も、回収してくれたから。
懐中時計を拾う。ひんやりと冷たかった。
-
『走れますケド。あと、気付いた事が一つ――』
しかし、相手の言葉から思ったことを伝えようとする、説明の時間も遮るように。
「だんまりかよ。アイドルなのにMCの一つもできないのか。
それとも念話で作戦会議中か? だったら、もうマスターを狙うか」
「りょーかい。摩美々ちゃんをだんだんお肉にしていけばいいんだね?」
彼らが盟主と仰ぐ王は、敵をなるべく苦しませず殺すような恩情など決してかけない。
殺す時は決定的な敗北感を相手に刻んでからだろうと彼らはその手並みを信頼しており。
ならば、彼の代行として敵を敗北させるために赴いた自分たちは、それをなぞるべきだろう。
彼らを動かしている芯の軸はその忠誠心であり、悪口も慢心からではなく模倣からくる言葉だ。
優位にたって踏みにじる台詞を口にする一方で、念話で相談されることも、令呪の使用も警戒する。
「狙うのは両手からな。手の甲に令呪は見えないけど、隠し方を心得てるだけかも――」
この状況を打破するためにこうしよう、などという念話を交わしきるだけの猶予は与えない。
標的を絞るだけの精密性がある歌声の矛先を田中摩美々へと向けて、まず両手に激痛を与えることで思考を奪う。
偶像のホーミーズが、先ほどその言葉に撃ち抜かれた少女を、逆に撃ち抜こうと視線を向けた時だった。
「アイドルに、詳しいんだな。本物の星野アイもそうだったのか?」
まったく面識のないアイドルの名前を口にした。
青息吐息のサーヴァントがかろうじて喋れるまで息を整えて。言うことがそれ。
敵からすれば滑稽だと見下げ果ててもおかしくないその混ぜ返しに、しかし男は眉をひそめた。
しかし、それだけだ。崩壊をもたらす星の声を、それを撃たせる指令を止めさせるものではない。
「揺さぶりは無駄だぞ。今推してるアイドルがいるのに、他のアイドルの名前に引っ掛かる奴がどこにいるんだよ」
もはや、星野アイと、今ここにいる新たな偶像を重ねて見ることはしない。
そして己は弱者で周りは強者だという一線を、もう間違えることもしない。
ゆえに、『こいつはどこまで知っているんだ』という動揺も、『サーヴァントなら俺より察しが良くてもおかしくない』と乗り越える。
-
「その手で殺したアイドルのことは吹っ切ったのか。敵(ヴィラン)としちゃ立派だな」
だが、続く言葉は『察しが良かった』どころではなかった。
「星野アイは、子どもの所に帰る為にお前らを裏切って、殺そうとしたんだな。
そんな星野アイを、トイレで殺し返したのがお前だろう」
なぜ、そんなことまで分かる。
あまりに具体的な言葉の羅列に、田中一という男の思考が硬直した。
たとえカマかけなのだとしても、なんで『星野アイの方から殺そうとしてきた』なんてことまで。
星野アイを殺したことに、もう後悔はなかった。
それだけなら、指摘されてもああその通りだと開き直れた。
だが、『敵連合から裏切りが出ることは分かっていた』なんて言われたら、えぐられるものがある。
「あれ? なんで知ってるの?」とホーミーズのアイは首をかしげる。
攻撃に発声を必要とする彼女は、疑いを声に出している時は、攻撃を停止させる。
そして、すぐそばに控える相棒(ファン)である田中の動揺は、それ以上であるとアイは気付いた。
「俺たちの……何を知ってんだよ……」
まさか、あの時俺たちの誰もが、死柄木さえ予想できなかった、星野の裏切りを。
敵連合の絆なんて知らないこいつらは、『どうせ星野アイは裏切る』と想定内だったとでも言うのか?
『マスターが同じアイドル同士だから』とか、そんな理由で?
馬鹿にするな。
敵連合は最後には殺し合う関係でも、それでも仲間なんだ。
「知った風な探偵ごっこをしやがって! アイ、こいつを――」
相手を激昂させて隙をつくり、動揺のまま奇襲を打ち込む。
田中自身も行おうとしたその手口を、弱ったサーヴァントは行使した。
襤褸になって半ばアスファルトに広がるマントの下から、黄色の噴煙が吹き上がる。
「ガス……!?」
それまでは使わなかった細工にアイは眼を丸くし、田中を顧みる。
同時に、示し合わせたように遠ざかっていく少女の足音も聴こえた。
視界が悪くなったことも、摩美々が逃げようとしていることも、どちらもアイには些事でしかない。
反響音(ソナー)を持っている彼女にとって、景色が煙で染まったことはちっとも支障にならないから。
「ひっ……」
「田中! 大丈夫、たぶんこれ発煙筒……」
アイの判断を迷わせたのは、田中がマスターからサーヴァントに矛先を変えろと言いかけたこと。
そしてアイはまだしも、田中は眼前で色付きの煙が炸裂すれば動揺して後退せずにはいられなかったこと。
いくら覚悟を決めていても、動揺した時に不測の事態が起こればショックは生まれる。
――ガキン!
地に取り落とした工具――歪んだペンチがサーヴァントの身体能力で剛速球として田中の頭部に投擲された。
アイはこれまでの攻撃でもそうしたように腕をはらってそれを阻止する。
「……べつに悪いとは言わないさ」
-
膝立ちから立ち上がる気配がある。
満身創痍にも関わらず、その兵士はライフルに弾込めをしている証のスライド音を聴かせてきた。
戦場の蛭(リーチャーズ・アーミー)は、全滅の包囲網が出来上がったことを知った上で、極細の活路にしがみつく。
「生き残る為に仲間の死体だって利用する最低野郎(ボトムス)以下は、俺だって同じだ」
◆◆◆◆◆◆◆◆
偶像・星野アイの裏切りが絶対的な必然だと予見できた者は少ない。
なぜなら、その言葉を聴いた者は限られていたからだ。
――分かんないんだよねー。帰った先に、私の席があるのかどうか
――私ね、死んでるの。元の世界だと
田中もホーミーズのアイから『元の世界ではナイフで死んだ』と聴いたが、あくまで死後になってから。
『星野アイは、優勝しなければ生還できるか分からない』ことを、櫻木真乃とひかる、殺島だけがあらかじめ知っていた。
だから真乃は戦線後の学校で、東京タワーの『崩壊』を聞いて、仲間たちの前でもアイを案じていた。
アイさん、ああいう力を持った人にも、最後には戦うのかな……と。
優勝のみを狙わなければ、生きて帰れないという言葉をそのまま受け止めて。
ならば彼女はこれからのどこかで、同じ陣営にいる人達とも戦うのだろうかと。
そこに田中の発言によって、『どうせトイレの床で死ぬ』という具体的な指定と。
明らかに星野アイを由来とする存在を田中が従えている、という様子があれば。
そして『連合(おれたち)のアイドルだ』と、本物の星野アイはもういないことを示唆されてしまえば。
半ばハッタリではあれど、とっさの連想、そして想像はできる。
彼女は敵連合に戦いを挑み、そしてトイレの床で敗れたのかもしれないと。
ただ、それだけのことだった。
懐中時計を握りしめて、走っていた。
折れてる右腕はずっと痛むけど、握りしめればマシになる気がするから。
打合せもなしに走り出せたのは、あらかじめ指示を受けていたからだ。
『それで私は、何をした方がいいですか?』
『なるべく早いうちに隙を作る。それで、すぐにちかの元に向かってくれ』
メロウリンクと入れ替わりで、裏路地に向かうこと。そこでやってほしい事があること。
そして摩美々もまた、『もしかして本物の星野アイは……』という仮説を相談している猶予はもらえなかった。
だから、思いついた言葉をそのまま念話した。メロウリンクは、それを復唱してハッタリにしただけだ。
『戦いのどこかで、最後の令呪を切る必要がある。
効果を最大限に引き出すには、具体的な目的を絞らなきゃいけない』
塗りなおしたファンデーションで隠された下には、プロデューサーから返却された最後の令呪がある。
-
大通りを走らずすぐ別の路地に入って、遮蔽物に身を隠しながら向かった。
リカバリーソーダを調達した自販機に寄り道して、スポーツドリンクを拾う。
霧子の趣味に付き合う形でふたり献血に行った時に、聞いたことがある。
たくさんの血を失った時に、すぐできることは水分の補給。
失血した上ですぐに輸血ができないなら、せめて体液、水分だけでも補っていた方がいい。
献血所に無料のハンバーガーやドリンクが置いてあるのは、血を抜いた後は飲食した方がいいからだと。
『七草にちかを……無理は承知だが起こしてほしい。
ライダーとの念話が繋がるかどうか、繋がるならその戦況しだいだ。
重傷者を抱えて撤退戦をするか、意地でも迎撃戦をする令呪になるかが変わる』
たぷたぷと水音がするボトルを揺らし、息を切らして。
事前に提示された、そんな教えのことを反芻しながら。
――大丈夫、すぐにちかの所に着く。霧子から教わったことも全部思い出して、手当するから。
ここに至るまで、ずっとやせ我慢をしている自覚はあった。
寮を出た時に、サーヴァントたちもすぐに気付いた上で、眼をつぶってくれただけだ。
――にちかのライダーさんは、きっと大丈夫。だって世田谷でも東京タワーでも、にちかの為に帰ってきた。
相手が『あの』死柄木弔なんじゃないかという予感はあった。
それが意味するのは、割れた子ども達や海賊を殲滅して、光月おでんを食らい、話をするだけで魔王だと悟らせた者が。
いよいよ、この人が失われたら後がないという、最後の希望にさえも追いついたということも。
――もう、紫色を曇らせたりしない。できることは全部やる。余計なことは考えない。
取返しのつかない、カウントダウンが進んでいる。
ふたたびの銃声からずっと予感はあったし、心もまた折れる寸前だと分かっていた。
形見の時計ひとつ握ったところで、プラシーボなんてたかが知れていることも分かっていた。
でも、いくら先は無いと言われたって、今になって足をとめられない。
だって、もういないあの人は、私たちを生かすために、あんなに頑張ってくれたんだから。
彼が自らを棄て札にし、全てを捧げるように遺してくれた成果を、摩美々が無駄にするなんて、
絶対に、そんなこと、摩美々がやってはいけないことで――
「にちか! ただいま――」
声をかけなきゃいけないから、呼吸はちゃんと整えて。
血の海と、重体のにちかを目にすることはできるだけ覚悟して、その路地裏に駆け込んだ。
『ただいま』という挨拶になったのは、それが摩美々にとって一番安心する呼びかけだから。
-
そこにあったのは、絶望とでも題するほかない光景だった。
日の当たらない真っ黒な舗装が、血溜まりと混ざり合った茶色い汚れで視界を刺した。
それは覚悟していた。覚悟していても、『その意味を見たくない』という拒絶が心を占めたけど。
右手が、茶色く変色した鉄錆の匂いの真ん中にあった。
正確には、右手『だけ』が、そこにあった。
にちかの、これからステージで、ハンドマイクを持つための手が。
絶句して、そう思う。
それ以外……令呪の使用不可が意味することまで考慮したら、思考が破裂するから。
右手をなくしたアイドル・七草はすぐ近くにいた。
路地の壁に背を預けるようにして、横になっていた。
路地から路地へと逃げ延びて、そして右手と腕を繋いでいた皮一枚が切れたらしい。
右肩の少し先、右腕上腕部には、きつく巻かれた白布が目についた。
保健体育の教科書で図解だけは見たことがある。
止血帯止血法とか書かれていた方法だ。
五センチぐらいの太さにまで畳まれたタオルが、もう一枚の当て布ごしに結び付けられる。
更にその上から、リレーバトンほどの棒が布を締め上げるハンドルのように絡んで巻き付けられ固定されていた。
さすがは本職の人というべきか、あの短時間で手際よくしっかりと縛られている。
そして、何より大事なことに、生きていた。
意識が、あった。
細められた眼は、小刻みなまばたきを繰り返していて。
たった今、目覚めたばかりという様子に見えた。
それはとても、本来であれば、それだけでも破顔するほどに嬉しいことのはずで。
けれど、それは希望ではなく絶望と破滅なのだと、そう思わせる有り様だった。
にちかからは、生気が失われていた。
生命として虫の息、というわけではない。
『――あなた、誰?』と問いたくなるような、そんな顔をしていた。
さっき、にちか自身が『うわ、ひっっっどい顔』と形容した時のプロデューサーと、そう違わないぐらいに憔悴していた。
-
「にちか……?」
歩み寄り、摩美々の靴がにちかの血だまりを踏む。
正面から向き合えば、細い筋となった泪が眦から糸を引いていた。
それは苦痛による泪ではなく、孤独の泪だ。
虚ろな空っぽの瞳と目を合わせた摩美々は、そう直観する。
これは絶対に、手を失った激痛とショックだけのせいではない。
そして、七草にちか自身以外のことで、彼女がここまで弱弱しくなる心当たりなんて。
彼女をここまで揺さぶってしまう人の心当たりなんて、摩美々は一人しかしらない。
「ライダーさん……いなくなっちゃった……」
アシュレイ・ホライゾンは、死柄木弔に敗死した。
にちかを慰めるために道中で用意してきた、数十はあろうかという励ましと軽口。
走りながらも考えてきた言葉が、バベルの塔みたいにがらがらと崩れて消えていった。
「わたし……幸せになる、約束もしたのに……」
ああ。
私も……プロデューサーと、ウィリアムさんに、約束したのに。
あなたたちの想いも、乗せていくって。
そんな共感の言葉さえ、今は遠い。
言葉が、霞んでいく。
世界の空気が、またたく間に澱んでいく。
宇宙船は、もう飛べない。
-
◆◆◆◆◆◆◆◆
田中摩美々が狙われるリスクが消えたことは、焼石に水ほどしか結果を違えなかった。
端的に言ってしまえば、戦況は早いか遅いかの違いでメロウリンクが消える。
その一択でしかない。
――ワクワクする方へと、勝手に動き出すよ。言うこと聴いてくれないハート
衝撃波(オト)によって身体を削られ、皮膚を裂かれながら、じわりじわりと後退する。
まるで噴煙がたちのぼる、銃撃戦の荒野だった。
塹壕から塹壕へと。後退を繰り返しながら、前線を押し上げられる。
それはすべてが比喩ではなかった。
渋谷区のその通りは、文字通りの意味で噴煙の壁ができあがっていた。
「なぁ……この火事って、なんかアイツにメリットあるのか?」
「わたしがあの男の子の相手をしてる間に、田中に突破されたら困るからじゃないの?
拳銃で摩美々ちゃんを追っかけて撃ち殺されたら、逃がした意味がなくなっちゃうから」
「そりゃお前ならともかく、俺ならただの火事でも怖いけどさ……」
その噴煙は、先刻に使用した改造スモーク花火の噴煙だけではない。
スモーク花火による隙をついて、工具を投げつけた直後に。
ライフルを背負い直したメロウリンクが投げつけたのは火炎瓶だった。
アイたちを狙ってではなく、圧力鍋などの他の火器燃料とも併せて地面に投下し、散らばるような火の手をあげる。
「あと、歌声の射程と威力がびみょーに鈍ってた。煙のせいだと思う」
火炎瓶は、もともと爆発よりも焼夷を目的として作り出された兵器だ。
アイへの武器としては通用せずとも、機甲猟兵スキルによる改造補正もついて、発火すれば相応の火力でしばらく燃え続ける。
手持ちのそれをありったけ消費し、メロウリンクが苦肉の策として作り出した『噴煙によって酸素濃度が薄くなった壁』だった。
『歌う』ということは『空気を利用している』ということになるのだから。
同じ場所にいる者から一人を狙えるほどの精密性があるなら、大気状態が変わることによってもその条件は左右される。
――はやる心、焦らさないで。輝きのたもとに
と、そこまでやって、手持ちの武装をほぼ使い切って。
これでも、正面からの蹂躙をさけるための一時しのぎ。
小刻みに刻まれる歌声の、その歌詞がもつ魅了の凶悪さは変わらず。脳を攪拌し意識を持って行きかける。
総重量30キログラムのATライフルを顔の前に差し出し、かろうじて致命となる音波を弾く。
弾き切れなかった音波は、両腕や胴にさらなる裂傷を刻み付けた。
-
「ぐっ……!」
もう何度目になろうかといううめき声。
まったく、ろくな戦い方ができない。
勝ち筋など、とっくにコンマ1パーセントさえも割りこんで久しい。
そのむなしい抵抗は、敵の側にしても、首をかしげるところではあり。
焼夷瓶の燃焼がやがておさまれば、そのサーヴァントは万策尽きる。
そんな中で、少しでも歌唱力の低減をはかるようにじりじりと後退するアーチャーの意図はアイたちにも分からなかった。
マスターを少しでも遠くに逃がすための時間稼ぎが目的……と考えるのは、かえって良くない気がする。
ホーミーズのアイは田中ほど考えを煮詰めることはできなくとも、素体である星野アイのしたたかさは受け継いでいる。
聖杯戦争の終盤でひたすら戦地から隔離しても、死期はそう変わらないと分かっていた。
――見失わないで 夢がある限り
『崩壊歌』のもたらす負荷によって、破壊音をかいくぐるやり方は潰された。
勝ち筋は途絶えた。
ならば、あのサーヴァントにとっての最後の希望は、別の戦地で戦っている仲間が、勝って加勢に加わることか。
仲間の勝利を信じて、『その後の反撃を見越した』上での、時間稼ぎ。
そして、そうだったとしても問題ない。
死柄木が負けることは有り得ないと田中は信じているし、アイも無いだろうなぁと思っているから、考慮しなくていい。
だから――火の手が自然鎮火に向かいつつあるのを観察して、トドメに移るだけの余裕がある。
一方で相手は、気が気ではないだろう。
火の手が小さくなり、破壊音が正常の威力を取り戻すまでに戦況が変化しなければ、詰みが確定するのだから。
そしてメロウリンクは、たしかに読みどおりに期待をしていた。
摩美々との念話が繋がり、ライダー側の戦況が確定し、それが朗報であるという、一縷の望みに。
-
そして。
火の手がゆらぎ、田中にさえもメロウの立ち姿が見えるほどになった瀬戸際で。
その通信は届いた。
期待は叶わなかったと、摩美々の暗く沈んだ念話が。
それは、『方舟の出航は叶わない』と言う、大局的な敗北宣言であると同時に。
『――――』
七草にちかのサーヴァントにして、方舟陣営の小隊指揮官――ライダー、アシュレイ・ホライゾン。
その、戦死を告げる通信だった。
もはや、塹壕代わりだった火の手はわずか。
どっと身体が重くなるような喪失感が、メロウリンクへと圧し掛かった。
『畜生』と『くそったれ』という絶叫で肺が膨らむ。
しかしその言葉さえも今は吐き出せない。
勝機を見つけたとばかりに、偶像のホーミーズがひらりと突撃して。
上方からの歌声を撃ちこむべく、跳躍していたから。
「ついていく相手を間違えたみたいだね、兵隊さん」
どこまでも軽やかに、終焉を告げる。
念話の内容は悟られずとも、『助勢が来なくて残念だったな』と嗤われているのは分かる。
火の手が弱くなったと見て構えていたライフルを撃つも、その狙いは上方へと逸れる。アイには当たらない。
「いや、立派なやつだよ」
負け惜しみだと、そうとしか聞こえないことはアイの表情から分かった。
敵連合が磨きぬいた宝石(アイドル)が、ひときわ大きな発声のために息を吸う。
ひかりのdestination(行き先)。その詞(コトバ)を、奈落の底への導きとするために――。
-
アイの背後から、それも頭上から。
ぎしぎしと、金属が軋み合うような音がした。
「それに、俺の戦いは」
不穏で、いやな音。
何故かそう感じた軋みの音を、アイの鋭敏な聴覚がわずかに拾う。
振り向かずには、いられなかった。
最後の一撃を不用意に中断すると分かっていながら。
「まだ終わっちゃいない」
田中がいる。アイのことを推して見守っている。
それはいい。だが、問題は田中の頭上にあった。
「上っっっ!!」
叫ばれて、どうしたと田中は見上げる。
ほぼ同時に、その周囲に『大きな長方形の』影が落ちた。
それは、渋谷区市街の大通りの横幅を、占領しそうな大きさの影だった。
「自己満足にしか見えない、むなしい抵抗も」
たとえ設定(ロール)に殉じた作り物で、もうすぐ無くなる世界だとしても。
そこが『東京都渋谷区』である限りは、そこかしこに設置されているもの。
ぎぎぎ、と。
ぎしぎし、と。
【建物の最上階部に据え付けられた屋外広告】が、十数メートル四方の液晶を田中へと傾けていた。
何が起こった。
そう思ったのはアイと田中とで、同時。
正解を閃いたのは、アイの方。
直前に発射された、メロウリンクの流れ弾。
あれが、ハズレではなかったとしたら。
-
「泥に塗れた名誉も」
元からそこにあったビルや広告看板は、トラップではない。
だが度重なる渋谷区を襲う震災、とくに鬼ヶ島という『城』一つが墜落したことによる、大地震。
それによって脆くなった建物や広告塔を、把握するぐらいのことはしていたなら。
たった一発のライフル弾が、それを支える決定的な接合部を撃ったのだとしたら。
密かに後退していたのは、『ライフルで撃ち抜くための最適な位置』につくためだとしたら。
「死が横たわる地獄も」
間に合え、と走る。
田中を落下地点から、逃がすために。
峰津院大和と相手にして、田中が殺されそうになった時のように。
感情は、あの時と違っていた。
あの時にアイを動かしていたのは、仕事をしなきゃという焦りのみだった。
今は、失ってはならないものを、失ったら『推しの子』じゃなくなると、守ろうとしている。
「踏み躙られる戦いも――――」
間に合っ――――――轟音――――――った。
田中を回収するように抱きかかえ、跳躍する。
その足元をほとんど霞めるように、勢いをつけた金属塊がアスファルトへとめり込んだ。
地面がたわむ。アスファルトの振動が眼に見えて、田中がひゅっと息をのむ。
追撃のようにライフル弾が放たれたけれど、これも致命にならず。
田中が拳銃と逆の手に握りしめていた連絡用携帯が手からこぼれ、それが撃ち抜かれたのみ。
「俺は、とうに知っている」
砕かれたアスファルトで、粉塵が立ち込める。
田中を降ろした足元が心なしかおぼつかないのは、余震か、驚愕の余波か。
ともあれ追撃を警戒して田中を庇い、視線をアーチャーのサーヴァントに向ければ。
男は何をしていたのか、その形相をまったく別のものへと塗り替えていた。
血の筋が、フェイスペイントとして描かれていた。
右頬から鼻梁をまたいで左頬へと、四本の大きな爪痕が走っていた。
「機甲猟兵(おれたち)の、戦場(いつもどおり)だ」
-
アイも、田中も。
その視線に想起したのは……錆びついたナイフだ。
いつ欠けてもおかしくないほどボロボロなのに、旧式の時代遅れなのに。
新品のきれいなナイフよりもギザギザして、触れることが恐ろしいと、思わせるもの。
お前は何を言っているんだ。
渾身の奇襲は不発に終わった。
お前にとって絶望的な戦いであることに変わりないんだぞ、と。
田中が、そう言い返そうとした時だった。
奇襲は、終わっていなかったと悟る。
何故なら――座り込んだ田中の、腰から下で。
重力が、消失したのだから。
「え――?」
がくんと。
田中の眼線が、激しくぶれた。
認識できたことは、一つだった。
揺れていた地面に、液晶看板の落下を起点として、たくさんの地割れ(ヒビ)が走っている。
いや、確かに大地震の後って、液状化とか、道路の地盤が崩れたりとか、あるらしいけど。
でも、いくら何でも、重量物の弾丸が直撃しらからって、こんなこと狙えるわけが。
そんな常識がぐるぐると頭を回る頃には、身体が落下に呑まれる。
しかし、しっかりと受け止めるものがあった。
例によってアイの身体と腕が、田中の視界と安全を固定する。
田中が認識できたのは、二つ。
一つは、アイに守られる直前、粉塵の向こうに魔力光が見えたこと。
土埃に遮られた上でなお鮮やかに判別できるそれは、令呪が使われた証だった。
満身創痍であったメロウリンクの傷跡を、出血を、塞いで立て直すための光。
いま一つは、回復をはかる仇敵に対して、アイが退けるための音波を放ったこと。
「――――――!!」
歌をうたう暇もないと、圧縮して放たれた衝撃音。
田中は、たまらず耳を塞いだ。
認識できたのがその二つで終わったのは、脳震盪を起こしたため。
アイが攻撃を放ったそこは、地下だったから。
音波は色々な箇所に反響し、その跳弾を起こした余波が田中にも響いた。
くわんと意識が遠くなり――そしてもうろうとしている間に、地上戦は、終わっていた。
-
いい奴だったぜ、お前。
◆◆◆◆◆◆◆◆
メロウリンク・アリティにとって、惨めな死を目の当たりにするのは既知のものだ。
己より優れた者が、先に死んでいくのも。
お前はついていく者を間違えた、と言われるのも。
お前には世界をどうにもできない、大局的にはお前の敗けしかない行き止まりに着くのも。
――メロウリンク自身はその仲間たちに、誇りと敬意を抱いていたことも。
あぶれでた雑魚。
彼をそう評価するのは、実力のことを言うなら間違っている。
そも英霊(サーヴァント)として認められた時点で『雑魚』を名乗るなど烏滸がましい……という見解もある。
生前に成し遂げたことが、世界に爪痕を残すに足りるものだったからこそ、英霊として登録される。
それが下手な自己卑下をすれば、『本当は強くて凄い人が、自分の事を凄くないだとか言うな!!』と怒鳴り返されても仕方のないことだ。
しかし、生きざまのことを言うならそれは正しい。
メロウリンク自身にも自覚はある。
旧式のライフル銃のみを抱えた生身の人間が。
数々の殺傷兵器で武装した歴戦のAT乗りを、八騎も立て続けに討ち落とした。
そういう事ができる者は、雑魚どころか『コンマ1パーセントをものにする男』と呼ばれる。
時に、メルキア方面軍で屈指の実力を持ったAT操縦士の将校にして標的からでさえも。
『判断力、行動力、その他どれをとっても良い兵士』であり、『部下に欲しかった』という掛け値なしの評価を受けている。
間違いなく兵士としてのメロウリンク・アリティは突出した個の性能を持っていた。
異能の因子は持たない。
神の後継者、あるいは神殺しにはなれない。
遺伝確率250億分の1の星の元に生まれたわけではない。
けれど、憧れていた『立派な軍人』になれる可能性がなき者でも、決してなかった。
ただ、その憧れを目指すには、彼はあまりにも挫折を知りすぎた。多くを失い過ぎていた。
『お前は優秀な兵士であっても、性質が軍の中で生きるには向かない』と、ある情報将校から指摘された時に。
ああ、俺はそういう者にはなれない負け犬なんだなと、挫折者である自分を肯定した。
そして、最後にはたった一人、親身に寄り添ってくれた女性と連れ添い、凡俗に身を落とし、ただ生き延びることを選んだ。
俺とマスターの彼女は、そこが似ていたのかもしれないと思う。
『アイドル』になりきれなかった普通の女の子。
『軍人』になりきれなかったお人好しの青年。
『憧れていたもの』に対して、二人は『なれない』という結論を出した。
-
懲罰部隊に落とされるのも必然のような生き方しかできない、『軍』という社会からのはみだし者。
仲間の仇だと吠えながら、復讐のためにただそこにいた兵士を殺して自らも『仲間の仇』になった自己満足野郎。
生前から、メロウリンクの戦いに『誰かのためになる』という大義などなかった。
失われた仲間たちは、誰一人『仇をうってくれ』などと願っていたわけではなかったのだから。
まして巻きぞえになった兵卒たちからすれば、その動機が拗らせた病理だろうと仲間の復讐だろうと、大きな違いはあるまい。
けれど。
その自己満足に、とことん懸けた生き方をしたことは、後悔していない。
憎しみを晴らしたところで、むなしかったけれど。
憎しみによって復讐を企てたわけではなかったと、気付かせてくれる善意が旅路にはあった。
ろくに与えられず、しまいには女に引っ叩かれるような生き方だったけれど。
誰かから愛や信頼といったものを与えられるのは、失う前も、失った後も、好ましく思っていたのだと。
結局のところ、メロウリンクは。
大切だった者達がいなくなり、独り生き残ってしまったことに何かを果たしたかった。
その名誉が踏み躙られ、生きた証がなくなってしまうことに耐えられず、逆襲者になった。
覚えている。
シュエップス少尉。
スタルコス軍曹。
スカルベス准尉。
ブリエル上級兵。
セプレス一級兵。
コビニーチン上級兵。
ヤペスティン伍長。
カットレー曹長。
その戦友たちの名前と同じように。
-
マスターの、七草にちか。
たった一人の少女だった。ふたたび相棒を持つのは、悪くなかった。
櫻木真乃の、アーチャー。
鋼翼から救われた。幼い姿で現界した身で、立派だった。
田中摩美々の、アサシン。
約束の同盟相手だった。当人は認めないだろうが、守護者で、英雄だった。
偶像・櫻木真乃。
アイドルたちの真ん中にいた。誰にも優しく接して、誰をも優しい顔にさせていた。
偶像・七草にちかのライダー。
戦友だった。同年代とは思えないほど、人間のできた、いい奴だった。
星のような連中だった。
死にざまを見れなかった者もいたが、壮烈な最期だった。
だから、ここから先の戦いは、仲間の未来を切り開く戦いではない。
消えていった仲間たちに手向ける、昔も今も、自己満足の弔い。
『仲間の返り血を浴びたこと』を表わす四本の血の爪痕にかけて。
走ることで、生きた証を。
爪痕を刻むことで、彼らがいたことの重みを。
◆◆◆◆◆◆◆◆
田中が、意識を取り戻したのは。
真の意味で、これまでを振り返って冷静になれたのは。
そして、ふらつかずに歩けるようになったのは。
「なぁ……アイ」
「どしたの? 『死んだかと思った』以外のこと、言えるようになった?」
「ほっとけよ。真下が『地下鉄駅構内』だなんて思わなかったんだよ」
-
悠長ではあったが、そこから数分後。
彼女に問いかけたくなった時点でのことだった。
何が起こったのか、タネそのものは単純だった。
崩落がたやすく起こったのは、もともと局所的に地盤が薄いところだったから。
真下で、渋谷区を網の目のように走るもう一つの交通路。
地下鉄に直通する地下街が走っていたから。
「もしかしてさっきの大音響、まだ怒ってる?
あれは本当にごめん。地下で使うことを考えてなかった」
「いや、とっさだったし……あれでアイツを遠ざけなかったら、撃ち殺されてだろ。
おかげで、潜伏するアイツとの鬼ごっこに、変わっちまったけど」
どこまでが狙ってのことだったのか、田中たちには見通せない。
落ちてきた天井は、瓦礫や屋外広告の蓋によって、塞がれた。
携帯端末は破壊され、手近な地上改札口もまた崩れている。
それだけで、死柄木と隔離されたことに歯がゆさはある。
アイの力があれば、瓦礫の撤去ぐらいはできたのかもしれないが。
瓦礫と向き合っている間は田中が無防備になり、ならば先に敵を倒さねばとなる。
「じゃあ、何を言おうとしたの?」
「あの人に、子どもがいたって、本当か?」
「ああ……さっきのサーヴァントが言ってたことね」
ホーミーズ・アイの探査方法は反響音だった。
音波が物体にぶつかることで、背景に埋没しない何かがそこにあると特定する。
裏を返せば、反響音の届かない場所、壁に囲まれた空間、『屋内』は、探査範囲に含まれない。
彼らはこの場所に、地の利が無い。
本来なら、それで問題無かった。
仮に『屋内も含めて』渋谷区を総ざらいしていたとしたら、到底数分では足りなかっただろう。
既にして倒壊した物件も数多いとはいえ、屋内面積は屋外面積の何倍も何十倍にもおよぶ。
もし主要なビルディングや地下通路を一つ一つ検めでもしていれば、その間に標的はたちまち別地点に移動していただろう。
そもそも地下街の入り口など、渋谷の近辺では先んじて目に留まりにくく潰されていた。
そこはとっくの朝方に百獣海賊団が破壊の限りを尽くした跡地だ。
大看板が一般人の『逃げ場』塞ぎに専念したことで、地下鉄へと降りる地上改札口の多くは倒壊している。
元より、そこを蹂躙した集団の目的は一般人の『魂食い』だった。
他の区へと幾本も張り巡らされた地下鉄道など、獲物の数を減らす邪魔な死角でしかない。
「本当だよ。私は偶像のホーミーズだから、お仕事に関係ない記憶はそこそこぼんやりだけど」
「その子ども……もしかして、アクアとルビーって、名前か?」
「うん。双子の男の子と、女の子。……記憶では、そうなってる」
「そっか」
-
名前は、星野アイの最期の独白で耳にしていた。
友達か、恋人か、親族兄弟か、もしかすると我が子か。
だが、ホーミーズのアイと対面した田中は、これまでその答え合わせをしてこなかった。
彼女は――生前の知識記憶だけはあると、知っていたのに。
「どうしたの? また、元の私への未練?
はいはいあの子は特別です。私はお星さまの生まれ変わりAです」
「違うって。むしろ俺の方の問題だ。
もっと早くお前に聞いときゃ、簡単だったってだけさ」
おそらく、これまでは無意識にでも避けていたのだろうと思う。
なぜって、本当なら『星野アイ殺し』を吹っ切るための、最短手はそれだったのだ。
もともとの星野アイの記憶を引っ張り出してもらい『アクアとルビーって誰だ』と真実に対面し。
『つまるところ星野アイとはそういうヤツだった』と納得して、『もう終わったこと』として過去にしていく。
それができなかったのは、しばらく『偶像のホーミーズ』の笑顔を正視できなかったのと同じ。
一時は仲間であり、そして確かに惹かれていた、『推し』という感情を持ちかけていたアイドルと、向き合う覚悟がなかった。
死柄木弔のために、彼女を殺したことは、もはや後悔していないけれど。
『仲間との離別』にあたっては、もっとマシな別れ方があったんじゃないかと。
少なくとも『推していたアイドルにだまされた』なんて、相手のことを分かってない逆ギレをしなかったら。
彼女には彼女の行きたい道があるんだと、向き合った上で訣別をしていたなら。
あの現場にいたしおとデンジのように、その後も引きずることなく進んでいけたはずなのだから。
「俺はたぶん、あの人に対しては、最後はただの『厄介ファン』に成り下がってた。
お前の言ってた、ナイフを刺してアイドルを襲うようなストーカーと同じにな。
だから、お前の推し方は、もう間違えない。あの人の代わりって意味じゃないぞ。
仲間に、推しに、同じ間違いはしでかさないってことだよ」
単純な話だ。
誰かに認められたかったというなら。
じゃあお前は誰かを認めたり、興味を持ったことはあるのかよ、って話だった。
-
こいつとなら、仲良くやっていけるかもしれないと。
都合の良い信奉者としてではなく、生身の人間に愛着を覚えられるかもしれないと。
たったそれだけに気付く為だけに、ずいぶん遠回りした。
全財産を課金に捧げて、拳銃を手に入れ、人を殺して、思えばはるか遠く、魔王軍の仲間入りまでして。
その幸せを手に入れるために、田中一という男はそこまでかかった。
もう、一方的な信奉者として『完璧じゃない君以外は許せない』なんて逆上することはしない。
田中一は、推しのアイドルと対等に戦場に立って、この戦場を勝ち残るのだ。
死柄木だってきっと、今頃は壊したいものを壊し、前に進んでいると信じながら。
「……なんか、やっぱり田中って真面目だよね。
内省とか鬱屈とかしながら生きてきたんだろうなって感じがする」
「どうせ相談したり発散するような友達なんてろくにいなかったよ。悪かったな」
「そこまでは言ってないんだけどなー。
まぁ、この戦いに勝って、そんな田中をまた元気にさせてあげるよ、見てて」
「お前も、変わって来てないか?」
「そう……?」
「前は、アイドルは仕事じゃなくて役目だ、とか。俺より死柄木の優先順位の方が上だ、とか言ってただろ」
「まぁ、それはあれだ…………前の私も、言ってたみたいじゃん。アイドルは、欲張りだって」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ライダーが、いなくなった。
にちかの独白を、機械的にアーチャーに伝えて。
指示された言葉で、ぼそぼそと令呪を切った時だった。
「わたし……考えないように、して……違う……」
近くで、ライフルの発砲音が、聴こえてきたことにも。
続けて、ものすごい地響きが聴こえてきたことにも。
にちかは、聴こえないみたいに上の空だったけれど。
-
その言葉はまるで懺悔みたいに、小さくも心は宿っていた。
「考えなおすように、してました。
宝具を使えば、ライダーさんは消えるって……そっちの話題になるたびに」
必ず、私のところに帰ってきてください。
世田谷区を熱と光の暴風雨が吹き荒れる中で、彼があさっての宇宙に行ってしまった時も。
港区のめちゃくちゃな戦いの一番ぐちゃぐちゃになってしまう所に、交渉しに行ってしまった時も。
それだけは守ってほしいと訴え続けてきたにちかが、それにも関わらず受け入れていた話。
ライダーが使おうとしていた≪界奏≫が発動する時に、ライダーとは別離するのだという話題。
「でもそれは、みんなが帰れるハッピーエンドなんだからって……考えなおして。
その時は、きっと嬉しくて『おめでとう』を言ってもらう時なんだから、わたしも喜べるって。
バカだったから……ハッピーエンドの想像とセットにしないと、お別れが怖くて、怖くて……」
この七草にちかは、喪失を受け止めることに耐えられない。
審査の直前にどのアイドルよりも緊張してきたのは、自信の無さだけではない。
負けた時のこと、人気の低下や周囲の失望といった喪失を恐れるあまりのことだ。
幼い頃、にちかを囲んで愛してくれた大家族(ファン)の皆は、一人また一人と帰って来なくなった。
いつのまにか大切な人が取り戻せないところに行ってしまうことは、またいつ訪れるか分からない恐怖だった。
悪癖の八つ当たりだって『見放されたかもと怯えて過ごすぐらいなら自ら見放されよう』というやけっぱちの裏返し。
だから、彼との別離はハッピーエンドに至るための出来事なんだからと、もの分かりよく塗装してきた。
にちかが望み、ライダーも望んでくれた夢を叶える為の航海なんだから、悲しむことではないんだと。
ハッピーエンドは無いんだと夢を剥がされるのとセットで、怖れていたことが訪れた。
-
「もう……なにもしたくない……」
だから、七草にちかはそれを結論にしてしまった。
もう宝石と、石ころどころの話じゃない。
風吹けば飛ばされる、崩壊が起これば呑まれる、その程度の存在でしかないなら。
それはもはや石ころですらない、塵や埃と呼ばれるものと同じ。
「令呪あったのに……倒れたから援護しませんでしたって、どのみちマスター失格でしょ……」
想いの力は、弱い。
摩美々はそれを痛感して、何も言葉を返せない。
『そんなこと言わないで』と口にしても、絶望に隔てられて届かないと分かってしまう。
「ファンができても、すぐに取り零してく」
にちかの未来を守るための手段を、摩美々は持たない。
それを覆す手段を持っていた英雄は、力で上回る相手に敗れ去った。
最後の手段、界聖杯の願いの利用だって、彼が敗れた相手に勝つことが前提のもの。
だから、七草にちかが聖杯戦争を生き残れる手段は、存在しない。
「プロデューサーさんも……わたし(アイツ)も……」
七草にちかは、もうすぐ吹き飛ぶ名も無き人達(NPC)の一人でしかない。
この無力さも、性格の悪さも、愚かさも、全部嫌い。
でも、嫌いと思うことにすら、もう疲れた。
「家族だって……」
どころか、心の底から疲れたと顔に表れているにちかを見て。
同じように倒れてしまおうかとさえ思う、動けない摩美々がいる。
現相棒(アーチャー)がまだ戦ってくれていることも、分かっていて。
それでも摩美々自身が、行き止まりに来たことを痛感しているのに。
どうしてにちかに、『それでも』なんて言える?
-
「お父さん……お母さん……」
もう何もかも放棄して、還りたい場所。
それを呼ばざるをえないくらいに、彼女は戦えなくなっている。
手をとってくれる意思さえ持てないほど疲れた女の子を、摩美々は救うことができない。
「おじいちゃん、おばあちゃん………」
航界の旅へと出航できなくなってしまえば。
宇宙(ソラ)は遠くて。
そこに居るのは、ただ虚ろな太陽。
澱んだ空気の中で。
心が、言葉が、隔てられて霞んで見えない。
双眼鏡を覗いても。
「お姉ちゃん……ライダーさん……」
でも、ひとつだけ。
会いたい人、家族のことを呼んでいく中で。
最後に、ライダーの名前を呼んだ。
本当にそれだけだった。
それだけのことで。
心が揺れた。
はっとした。
……いや。
だめだよ。
ずるいって。
その呼び方は。
その呼び順は…………ずるい。
まるで、家族のことを思い出す中に、ライダーさんも入ってるみたいに。
家族の次に身近な人が、ライダーさんであるかのように。
そんなのは、まるで……。
-
――アサシンさんだって、私の家族ですから
名前を挙げた中に入っていた、という偶然でしかないけど。
にちかとライダーの関係の本当のところ、心の繊細なところまでは分からないけど。
この子は、『あの人とちゃんとお別れできなかった摩美々』なのかもしれない。
283プロ解散で、アイドルじゃなくなって。あの人のおかげで、またアイドルになれて。
かつては摩美々も、一緒にいた人達がいなくなるなんて、考えたくもなかったけど。
今は、なくしてしまったら無意味になるなんて、思いたくなかった。
――勝手にいなくなるのは、もうなしですからね
にちかとライダーの、二人でいたときのことを思い出す。
本当に、航界船が飛べなくなって、誰よりも無念だったのは。
にちかがこうなることが、きっと摩美々よりも悲しくて、でも悲しむことさえできないのは。
ここにはいない、にちかの為だけの味方だった彼だ。
だって、ウィリアムだってアイドル皆に優しかったけど、まず一番に摩美々の味方だった。
最後の最後まで、マスターのことをよろしく頼むと、アーチャーやライダーに頭を下げていた。
いつも取り繕って気丈そうにしていたのに、摩美々を置いて逝くことには泣いていた。
――あなたのせいだなんて、絶対に考えないで
もしライダーがここにいたなら、戦う力がまるで全然なかったとしても。
大切な人の泪ぐらいは止められる英雄(ヒーロー)に、なっていた。
そんな風に、自分を嫌いになって泣くことは無いんだって、伝えてみせた。
このままじゃ、ライダーさんが、あの青年が、報われない。
心の蒸気機関(スチーム)が、点火する。
胸のコアが、なけなしの稼働をする。
「にちか」
-
これは、余計なお節介だけど。
心の弱っている子をかえって傷つけるかもしれない、悪い子で、エゴだけど。
それでもアンティーカの田中摩美々は、かつての自分を、絶対に見捨てられない。
自分を救うすべを知らない、孤独な泪をほうっておけない。
「とりあえず、こっちの建物の中、入って。あと、水分とって。
せっかくアーチャーさんが、大通りで大きな音を出してくれたんだし」
それに、この一か月で答えは出ていた。
たとえ行き先が奈落の底で、二人そろって落ちることになるのだとしても。
誰かが手を掴んであげなきゃいけないなら、それは絶対に離さない。
どんな犯罪の仕掛けよりも、摩美々があの教授から学んだことはそれなのだから。
◆◆◆◆◆◆◆◆
そして。
『最後の令呪を使って、お願いします。アーチャーさん』
『帰らない人達を胸に刻んで、敵連合の偶像(アイドル)を倒して』
その令呪が行使されてから、しばらくのことだった。
メロウリンクの元に、ふたたびの念話が繋がった。
『アーチャーさん、わたし、そっちに行けますか? ……地下でゲリラ戦真っ最中?』
『防衛線を作ってる時に、使える改札が一個だけあるって言ってましたよね。
渋谷原宿はもう庭みたいなものなんで。裏路地経由でそっから降ります』
……にちかなら、路地の横のカラオケハウスですよ。力尽きて寝てます』
『まぁ、死柄木さんの勘がよかったら即バレかもですが。
……私から、言えるだけの事は言いました。
にちかは取り零したんじゃなくて、プロデューサーを救ったんだよ、とか』
『……いや、令呪を使い切った一般人マスターの脆さは分かってますケド。
でもそっちは二対一ですよね。私にも考えはあるし……それに、二対二にするぐらいはさせてほしいんで』
『その人達、放っといたら皆を、にちかも含めて、うんと絶望させるって言ってたでしょ。
だったら、それは止めます。アイドルとして、やられっぱなしも口惜しいので』
こうして。
アイドルたちと、あぶれ者の雑魚と呼ばれた者たちは、ラストステージに集う。
-
前半の投下を終了します
-
最後まで投下します
-
照準なら煙の向こう、躊躇いなく機を穿て
◆◆◆◆◆◆◆◆
聖杯戦争の人為的な震災によって、照明灯の半数は機能不全となった薄暗い通路だった。
災害の名を筆頭にした海賊たちによって蹂躙されたNPCが、そこかしこに屍を晒していた。
追う者も追われる者も、もはや誰もそれらの無惨さを屍臭を顧みることなく駆けていた。
戦場の血吸い蛭(ひとでなし)のやり方で、その火蓋は切られていたから。
そこに、本来のサーヴァント同士の戦闘に伴うような開放的かつ圧倒的な激突はなかった。
常人の眼にはとまらない流星の軌道や、鮮やかに飛び散る火花と魔力光、といったものは無縁だった。
むしろ、余震のたびに降ってきた埃がたちこめ、血液の水たまりが時たま靴に跳ねるような戦地だった。
それこそ戦場を駆ける三者の足音は、常人でも追い駆け続けられるほどの速度で進行していた。
その消耗戦のごとき慎重な遅さは、三者ともが望んだ状況だった。
田中一は、戦場をともにするという決意をとっくに定めているから。
ホーミーズ・アイは、ひとたび落盤を経験したフィールドで、田中を孤立させられなかったから。
メロウリンクは、身体性能がものを言う機動性の勝負になればかえって不利だと承知しているから。
そして、いま一つの理由は。
――ア・ナ・タのアイドル サインはB
聞き慣れによって耐性がつくことを警戒してか、その時々で曲を替えながら。
メロウリンクの背後から、詞(ウタ)が脳を揺らし、気力と足を引っ張り続けているから。
本来、メロウリンクには大量の自白剤投与を受けても無言を貫いた生前の実績がある。
まったく精神防護の備えがなかった初撃ならまだしも、『それは脳に響く』と覚悟していれば止まらずには済んだ。
それでもなお、走行中に殴られたような動きのぶれがメロウを鈍らせ、そこで衝撃音(オト)が同時に撃ちこまれる。
「がっ…………ぁ……!!」
メロウリンクの右脇腹を、槍が抉った――と感じられる痛みが駆けた。
音圧が肉を抉り、内臓をしたたかに打った感触を覚えながらも、倒れるのを堪える。
ふらついた動きのまま強引に身を捻じって、各種の小売店が並んだ十字路を左折。
追っ手から見て、死角へと入るように曲がる。
「やった、当たった☆」
追っ手の方は変わらず、無邪気な声をあげる。
しかし『やった』と喜ぶという事実から、田中は『当たらない可能性もあった』のではと察する。
「当たりにくくはなってるんだろ? 俺の脳震盪があったせいだよな……」
「屋内で戦う予定なかったから、それは仕方なくない? それより――」
地上戦の時のような抉り取る槌ではなく、引き絞られ、直線的な槍として音圧が届いたこと。
それは特定人物だけを向いたモニタースピーカーのように音の方向を絞り、射程、範囲を小振りにしたということでもあった。
理由は単純で、音を絞らなければ、どこからも反響する狭い地下通路でのライブは田中さえも巻き込んでしまうから。
であれば、地下において展開されるのは『圧殺』ではなく『撃ち合い』となった。
-
「ワイヤーあるけど、そのまま走ってね」
「ああ……ってか。これ、トラップじゃないのか?」
メロウリンクが姿を消した曲がり角を追尾し、田中へと指示して曲がる。
ぷつん、と。
先行するアイが、そこに張り渡されていた極細の糸を『敢えて』踏んだ。
まるでゴールテープでも引きちぎるように通過して、鋼線を断ち切る。
「フェイクだよ。さっきから合間にエコロケーション? して何本か切ったけど、糸を張った見せかけ」
「なんだ……地上に比べて、だいぶ雑だな」
「さすがに仕掛ける側だって、普通なら地上戦をやると思ってたんじゃないの?」
これまで、仕掛けられていたワイヤーの大半はフェイクだった。
鋼線こそ張られているが、その先をたどっても銃火器や爆発物らしき固形物の反射音は無い。
おそらく地上のトラップを突破した上で襲ってきた相手に、『罠がある』と先入観を持たせ、慎重にさせる方が狙いなのだろう
また、反響音を利用すれば曲がり際の待ち伏せがないことなども予測できる。
なので角を曲がった途端に銃口がこっちを……というのも無し、という余裕をもって田中を後に続かせた。
本来の地下戦であればワイヤーを見るたびにさては地雷でもと怯え、敵の姿が見え無くなれば待ち伏せに怯えるものなのだろう。
だが、音を使った探知を完全にわが物としているアイは、どんな迷路でも死角はないのと同義だった。
しかし。
(事前に反響音は出さなきゃいけない……ってのが、腹立つなぁ)
そこに関しては、苛立ちを覚えていた。
口を開けて、しかし常人には不可聴の音を放つ。
初めて往来する通路である以上、またワイヤーの全てがダミーとは断言できない以上。
その確認作業は、行わなければならない。逆に言えば、【確認している間は他の音が出せない】。
そのタイミングで。
アイが『相手に撃たせない為でもある音波攻撃』を放てない頃合いを見て、メロウリンクは振り向きざま、撃ってくる。
(また、これ――何回も続くと、さすがに)
ひらりと。銃口を見て。引き金を絞る音も聴きとって。
ぎりぎりまで狙いを見て交わさなければ、直前で狙いを田中に変えられたら焦るからこそ。
撃てば当たる、と思わせた上で引き金を引かせる。
そうやって何度かかわしてきたから、幾本もの血の筋はアイの身体にもあった。
ここまでの落盤やら戦闘で汚れてしまった衣装とも併せて、そういうコンセプトのカラーペイントのように。
-
スローからクイックへ。
ジルバのようにテンポを切り替えて回避し、二発目が撃たれそうなのを感知。
後ろ手に田中を掴み、銃弾の射線上から動かす。
アイ自身は、知っているステップを踏んだ。
ペンシルターン。
身体の中心軸をまったく動かさずに一回転する技術。
その場からほとんど動かないことで敵の狙いは引き付けたまま。
一回転したことで、左胸を狙って放たれた弾丸は肩口をかすめるにとどまった。
(いたっ――)
血の筋が、これまでよりも深く刻まれた。
勝てる戦闘を何度も引き延ばされ、負荷(ストレス)が蓄積した微細な乱れ。
一回転が終わったその瞬間に衝撃弾(オト)を放つ算段だったのに、ぶれる。
良くない。このままでは、相手に三発目を撃たれる方が早い――
――――タン!
地上で聴こえたライフルの銃声とは、まったく異なる銃声。
しかし、擬音としてはそう表せる銃声。
田中がふらつきながら撃った、拳銃の音だった。
撃ったのはサーヴァントではない。
ただの拳銃で、サーヴァントに攻撃は届かない。
承知の上で、必死の自己判断を働かせて撃ったのは天井。
そこに据え付けられた蛍光色の案内標識。横に長いため、大雑把な狙いでも当たる。
東口に行くにはあちら、どこそこ線に行くにはこちらという現状では意味のない矢印だったが、撃たれて破片は飛び散る。
サーヴァントに細かく降りかかり、銃声と併せて意識と、狙いを散らす。
わずかに、コンマ一ミリほど細い揺らぎでも、意識の間隙をついた。
その一押しで、早撃ちに打ち勝った。
――ようやく会えたね、嬉しいね。待ち遠しくて足をバッタバタしながら――
それまでの地下戦よりもやや威力と射程を効かせた、空気密度の詰まった杭のような一撃。
それが敵サーヴァントの腹部に、深々と突き刺ささりった。その身を押し出し、吹き飛ばす。
呼吸を詰まらせる痙攣の音とともに、蹴られた人形のように敵が転がっていく。
威力を上げられたのは、吹き飛ばした方向に壁がなかったから。
敵が次に曲がろうとした方向と逆――切符売り場、自動改札、そういう者がある広い一角へと狙ってとばしたから。
-
「やった……!」
吹き飛ばされながら相手が散らしたもの――内臓出血を示す黒く粘性のある血液に対して。
田中一は、歓喜の声をあげた。
まじりけなしの喜色だった。
己が動いたことがはっきり成果として現れたのを、心底喜ぶように。
「ありがとー田中。愛してるよ」
「アイドルならその言い方で間違いないんだと思うけど、さすがに語弊あるからやめろ」
言いつつも、そこにある顔はまんざらでもなく。
愛の言葉に一喜一憂するより、感謝されたことに照れているという様子だった。
「それに、喜ぶのぐらいいいだろ……さすがに俺もここまで来て油断はしないけどさ。『あと一息』ではあるんだから」
いったん落盤に呑まれて醜態を見せた上で、なお慢心する愚は犯さないまでも。
そう言ったのは、二人ともの確信あってのことだった。
地下プラットホームホームへと降りる階段を左右に伸ばした。自動改札ゲートを中央に配置する広場。
改札口や職員窓口などの障害物はあるとはいえ、銃撃戦を行う人間が駆けまわるには十分な広さがある。
広場状になっているが故に、トラップワイヤーを張り詰めさせるための適度な狭さもない。
反響音を響かせてみても、それらしい鋼線の反射はない。
つまり、エコロケーションのために発声を割く必要がないく、『歌』のみによる轢き潰しが可能となる。
「そうだね。ダンスが審査基準の流行一位だった周期はもう終わり。
ここからはVo力(ぼうりょく)がものを言う時間だね」
反響を恐れて声量が限られること自体は変わらず、歌声の射程や火力は制限されているとはいえ。
アーチャーに火器や小細工の在庫はもう無く、素の身体性能でもアイに大きく劣っている現状で、今度こそ逆襲の余地は無い。
追いかけっこの局面で田中が介入して仕留める機会を逸し、広場に追い込まれたことは今度こそ勝ち筋の消失を意味していた。
このまま、二対一のままだったのであれば。
「そーですね。決勝戦で流行がVocalになってる時は鬼門だ、なんてジンクスもあるらしいですから」
何とものらりくらりとした声と人影が、アイのほかにもう一つ。
広場に繋がる通路を、アイたちとは逆方向から、メロウリンクの背後に立つように現れた。
-
――タン!
――カン!
田中はすかさず新たな影に発砲したが、しかしその弾丸は甲高い反射音によって弾かれる。
なぜなら、彼女が持っていたのはこれまでの手荷物を提げた鞄だけではなかったから。
その片手には、公共施設で犯罪者やテロリストの制圧に使うような透明な盾がある。
通販サイトでも、『防弾盾』なんていう名称で売っていそうな代物。
首元には、職員の備品から拝借でもしてきたようなインカムマイクまで。
さすがに彼女のサーヴァントも一言、物申した。
「それ、どっから持ってきた……」
「さすまたとかが置いてある所から」
確かに公共の駅なら、いざという時の鎮圧用装備を職員が持っていてもおかしくない。
だが、とっさに場所のあたりをつけて持ってこられるのは、日ごろから知識を吹き込まれるのもそうだが、施設構造をよく把握していなければ無理だ。
「ずいぶん用意がいいんだね。でも拳銃ならともかく、私の歌の前にそんな軽装で飛び出してくるなんて、危ないよ?」
「そちらの後ろにいるファンの人も、かなり大胆に動いてると思いますケド」
「それもそうか」
「あと、さっき言えなかった事。ファンがいない人呼ばわりしたことは謝ります。ごめんなさい」
盾を持ったまま、紫髪を揺らしてぺこりと謝罪。
「あ、そこあっさり認めるんだ……本物のアイドルを殺して、そっくりな人形を愛でるとか引くわぁとか、そんなのファンじゃないって言われるかと思った」
「お前、俺のことそんな風に思ってたのかよ」
「違う違う、こういうときに出てきそうなツッコミとしてね」
「いや……倫理的には議論の余地ありかもしれませんけど、事情までは知りませんし」
「私が死柄木弔に作られた人工アイドルで、さっきも歌でたくさんのNPCを殺してきましたーって言っても?」
「いやそれはフツーに引きますし、止めますが。私たちが届かないファン層にあなたが届いてたのは、ほんとのことですから」
アイのファンを名乗る人間が彼女のそばに付いているというなら、彼女と敵連合だけに救えた者がいたということ。
真乃の歌声で殺戮をすることは肯定できなくとも、その救いまでは否定するわけにいかない。
「悪いことに惹かれるのはおかしい、まで言い出したら。髪を染めるのもパンクファッションも全否定ですから」
「それがお前にとっての『悪いこと』の上限かよ。ずいぶんと雅(みやび)な悪党だな」
陣営としてのスタンスの話なら己が話すと思ったのか、アイのファン――田中一がMCを替わった。
-
「今さらおもねるようなことを言ったって、こっちは手心を加えたりしないぞ?
もっとも、お前らだってもう手心どころじゃないって分かってんじゃねぇのか? 眼をそらしてるだけでさ」
「何のことです?」
ずばり突き付けるように、田中一は間を置いた。
「【陣営】を名乗ってるのに、いつまでも加勢が来ないなんておかしいだろ。
地下にだってマスター一人だけで降りてきた。普通は加勢の当てがあるなら待つよな?
もう、お前ら以外は全員殺されちまったんじゃねぇの? 死柄木も近くまで来てるだろうしな」
摩美々の顔に苦みがはしった。
ややあって、気合を持ち直すようにシールドを構えなおす。
「……実は死柄木さんを倒してるって、言ったらどうします?
自分のマスターが右手を撃ち落とされて、治療真っ最中なだけかもしれませんよ?」
「へぇ? 俺が撃ったアイドルは、死柄木と戦ってた奴のマスターだったのか。いい事を聴いたな」
しかし、死柄木の勝利を信じきっている男に、その言葉は朗報にしかならなかった。
滅びの星をも宿した破壊者の眷属は、主君から模倣した形の嗤いを浮かべる。
「だったら俺が令呪を撃ったのは、死柄木の勝利に貢献した大手柄だったわけだ。
もし、さっきの戦いで令呪を使われたら死柄木が負けてた……なんて展開だったりしたら飛び上がるね。
どのみち、そこまでマスターが重傷なら願ったりだろ。マスターが死んだらサーヴァントも消えるんだから」
「あなた……めちゃくちゃに痛いとこを突いてきますねぇ……」
どこまでも事実から推定される現状でしかないことを説かれて、メロウリンクが不安そうに摩美々を見る。
ちょっと数時間前を思い出しました、と呟いて摩美々はそれに答えた。
「お前らは主力らしいサーヴァントがやられて、こっちは死柄木っていう鬼札が残ってる。
こういうのを何て言うのか教えてやろうか。お前ら、【詰み】だよ」
本来ならば、死柄木弔が告げていた死刑宣告を代弁するかのように。
「……否定はしないし、悔しくないって言っても、負け惜しみですねー……。
死柄木さんにも、詰まった質問に答えられないままでしたし。
にちかのライダーさんに相手をさせることになったのも含めて、未練はありますよ」
ただ、その言葉に対して田中を不愉快にさせたのは、摩美々が思いのほか淡々と受け入れたように見えたこと。
せめて、子どもの名前を呼びながら死んでいった星野アイのような、そんな顔をしてくれなければ。
でなければ、連合の仲間を切り捨ててまで進んできた甲斐がないじゃないかと。
いや、そもそもそれ以前に。
-
「分かってんなら、なんでお前ここまで来たんだよ。もう戦う意味ないだろ。
俺たちを倒したって目的が叶わないなら、俺らは倒され損じゃねぇか」
「止めたい理由は、ちゃんと別にあるんでご心配なく。
ファンの為に戦いたいところまでは、けっこう共感できますけど。
だからって、283(ウチ)の歌でまだ人を殺すのは気に入らないし。
にちかのライダーさんには色々と借りもできたので、死ぬ前に少しは返そうかなって」
最後には決して成すことが相容れないなら、せめてその願いに全力で向き合い、打ち返すこと。
たとえ最後には敗れたのだとしても、にちかのライダーはそれを全力で為そうとしたんじゃないかと思っている。
それは摩美々が言葉では成し遂げられなかったことだし、摩美々の家族(アサシン)の願いを継いでくれた結果だ。
だったら、こちらもライダーの家族(にちか)には、できるだけ報いたい。
せめて『よく頑張った』と自分を肯定できるように、絶望を押し付けられる形の死に方からは守りたい。
「……とまぁ、ご要望に沿うためにMCを用意してみました。さすがにもういいです?」
「さっき俺が言ったこと覚えてたのかよ。けど、これ以上長々話しても仕方ないのはそうだな」
決着の開始を告げる為、アイにも見えるように田中は合図の手を動かした。
「負けて死ね」
――走り出すよ キミの未来が今
その少女のやわらかくも輝かしい声が、表現として蘇る。
同時に、唱和による音の斉射が、メロウリンクへと殺到した。
引き絞られた歌声は直線的に連弾されるマシンガンのように、ダダダダと床にも跳ねながら標的へと集中砲火される。
田中摩美々は地下街を構成する太さ1メートルはあろうかという支柱に隠れて身を隠し、サーヴァントは真横に跳んだ。
ぎりぎりでメロウリンクが転がるように回避する。
その応酬になるかと思われたのは、地上の戦いと同じで。
-
――「「翼を手に入れたから」」
違ったのは、アイの歌声にぴたりと重なる声があったことだった。
おや、とアイは驚くも、歌うことは使命とばかりに己のそれは中断しない。
田中摩美々が、支柱から顔だけを盾で守るように覗かせて。
アイの歌っているテンポを見取り、インカムマイクで声を重ねるように歌い始めた。
何をやってるんだろうと、アイは首をかしげる。
マイクを使ったとして、彼女の歌にアイのような異能が宿る余地はない。
アイドルとしては光もの、特別性があったところで、彼女は『個性』や『技巧』が生じる余地のない『普通の女の子』だ。
――「「きらめく虹になれ」」
ライフルの発砲音が鳴り響き、とっさに身を捻ったアイの脇腹が避けきれず血に濡れた。
え……?
とっさに手で押さえ、そこに手ににじむほどの出血があることを確かめてアイは驚く。
何も、摩美々の歌声に気を取られて注意をおろそかにしたわけではない。矜持ある者としてそんな真似はしない。
だというのに、歌声による反撃が効かないタイミングで銃撃がきた。
歌声による精神感応、動きを重くする作用だって、多少なりとも働いているはず。
ならば、なぜアイの反応こそが遅れたのか。
――「「ガンバルキミのこと ずっと見てた 見守ってたよ」」
サーヴァントの動きを注視する。
地上戦の時と同じように、アーチャーのサーヴァントはアイの口元を注視していた。
けれど、摩美々が狙われるようであれば即座に割り込んで接射にかかるような警戒は維持して。
そこまでは、これまでと変わりない。
歌声に対して断続的に殴られるような顔のしかめ方をしているのは崩壊歌の影響だとしても。
――「「私も負けないと ぎゅっと誓った」」
にも関わらず、動きの効率がよくなり、反応が鋭くなっている。
装填や、狙いをつけるタイミングが、アイの『意識の間隙をつくような』ものになっている。
(そっか……ブレスだ)
-
ブレス。
歌には必ずある、『ここで息を吐きださなければならない』というタイミング。
朗読で言うところの句読点。どんなに隙を見せまいとテンポアップしても、『歌』である限り尊重しなければならないもの。
しかし、息を吐きだす最中である以上、絶対に反撃ができないタイミング。
それをアーチャーは、先刻に『反響音』のタイミングで攻撃してきた時と同様に『反撃を整えるタイミング』に利用している。
一体どうやって。英霊としてはひとかどの人物だろうと、音楽に関しては素人であるはず。
そんな疑問については、悩むまでもなかった。
――「「息を切らしたから 見える景色がある」」
まるで、音楽を聴きながらタイミングを合わせて目押しをするリズムゲームみたい……なんて、摩美々は思う。
もっとも、全てのアピールにperfectを出せなければ相棒が致命傷を負うかもしれないものはゲームと呼んではならない。
偶像のホーミーズの動きを、その口元を注視して観察することでテンポを見取り。
アイドルとして有名曲や同じ事務所の曲は記憶していることを頼りに、ブレスのタイミングを把握し。
アイに合わせて唱和することで、体感によって正確なタイミングを一致させた上で。念話で『来る!』と並行して指示。
そんなからくりは、やはりアイドルである彼女にはすぐに見抜かれたらしい。
すごいと面白がるように笑みが向けられ、歌が少しの間だけ止まる。
「田中……これって対バンってやつだよね。私、初めてだよ」
「いや違うと思うぞ。プロ野球で、バット振ってる選手にバットで打ちかかって『俺は今、プロと打ち合ってる!』とか言うぐらい違うと思うぞ」
「それはどーも。ステージが初めてなら、野外フェスだって初めてですよね。すぐそばで他のアイドルが歌ってるの、こっちもそれなりに燃えるんで」
同時に、それはメロウリンクへの精神的な戦闘支援でもあった。
衝撃波(オト)はともかく、詞(ウタ)のデバフについては、歌声に魅了されるかどうかの問題なのだから。
誰だって、どんな有名歌手の歌声がそばにあったところで、『推し』のステージが近くで上演されていればそっちに意識は割かれる。
本当に、観察眼と、歌唱力と、反射神経のフル動員だ。
ダンスもビジュアルのアピールもないけど、集中が途切れたら終わるのだからメンタルはどんどん削れていく。
タイミング指示に必要な心のパーフェクトゾーンは、どんどん狭くなっていくこと必至だ。プレッシャーはものすごい。
でも、この歌をアテにして、戦いの支えにしてくれる人がいる。
-
(だったら、手を抜けないじゃん……)
――「「強い気持ち 厚い雲を切り開いて」」
アピール、再開。
やる気のまみみスイッチ、オン。
二人の偶像が、敵(ヴィラン)をも魅了する天使の歌声と、英雄を導く小悪魔の歌声を再開した。
摩美々がメロウリンクの致命傷を撃ちこむ機会を与えるか。
アイがメロウリンクを仕留める歌声を放つのが先か。
戦いのステージは、完全にそちらに移行した。
一曲が終わればまた次の曲と、二人は同じ課題曲を競い合う。
どこまでもどこまでも、『Show must go on』に則るように。
――「「難しいこと考えるよりも もっとスゥィートな愛を感じてたいの」」
そもそも、摩美々の方は声が枯れるか、気力が尽きるかすれば終わりではあるし。
アイの方も、脇腹の出血が、蓄積された血の筋が、消耗の閾値を超えれば『負け』を出してしまう。
つまりは、泥沼の消耗戦であるはず。
時間の限られ、互いの相棒の命だって背負った、決して楽しむことに重きを置いていいものではない。
――「「そうこれは STAR☆T☆RAIN、乗っていこうよ! きっと ずっと 止まらないから」」
それでも互いに、歌によって活路を開けることに関しては心地よい。
泥の中で輝きを散らす。それは崩壊の黒閃であれ、紫色の淡い蜃気楼であれ輝きたいという意思として等しい。
そしてまた、摩美々は思うのだった。
メロウリンク(だれか)が戦うのをステージ袖で見守りながら。
お祈りみたいにタイミングを見て『ここだ!』って唱えるのは、こんなにハラハラすることだったんだ、と。
摩美々たちのプロデューサーは、いや、全国のプロデューサーやアイドルを送り出す仕事の人々は。
いつもステージ袖から、こんな風に想っていてくれたのだとしたら。
それはやっぱり、悪くない営みだと。
-
そして。
そんなアイドルを見守るファンは、この世界にもう一人いた。
その対決を終わらせるべく、その戦場にただ一人参加していない者として知恵を絞り、奔走していた。
たとえアイドルとアイドルの、歌の戦いに対する横やりになり得るのだとしても。
推しのアイドルに傷ついてほしくないと願うのも、またファンとしては間違っていないことだから。
◆◆◆◆◆◆◆◆
急ごしらえのライブ会場には、なってしまったけれど。
そもそも、ここは公共の駅だ。
その思い付きが、田中一に一時の離席をさせて、駅構内を探し回らせていた。
近辺にある遺体は、海賊の略奪やら地震やらで避難真っ最中のところを殺された奴らばかり。
なら、『それ』を持ったまま死んでいる駅員はどっかにいるだろう。
ここにいた職員が、全員で職務放棄でもしない限り。
駆けながら、迷いもあった。
アイの勝利を信じて見守りに徹することも、一つの選択肢ではあったから。
このままじゃ、どっちが二対一だかわかりゃしない。
戦場をした田中を動かしたのは、その使命感がかなりを占めていたし。
死柄木弔の眷属として、彼女の一ファンとしての『長期戦になること』への危惧でもあった。
戦況は、今のところ再び綱渡りに引き戻されたように見えていた。
敵は再び勝ち筋の細い線を握りなおしたが、敵連合の偶像を仰ぐ者としては、まだまだアイの勝ちを信じられる。
田中摩美々に人間である故のスタミナの限界があることも併せれば、時間をかけてアイの粘り勝ちを待つ場面かもしれない。
-
だが、極めて変則的な対バンが白熱している間も、聖杯戦争は続いている。
それは、方舟が陣営として滅びたところで、死柄木弔の敵はまだ地上にいることを意味する。
その戦いに、ホーミーズでも指折りの力を持った彼女をずっと欠員させることは、絶対に死柄木の為になるとは言えない。
まして、方舟との大勢に決着がついたというなら、死柄木はさっさと七草にちかにトドメを刺して、その上で。
『神戸しおの戦場』の方に向かうという選択肢だってあるのだ。
そちらには、消去法で考えるに目下最大の脅威であるカイドウがいるらしのだから。
仮に向こうの戦場もこちらと同じく決着がついていたところで。
『その戦場の勝者』が、死柄木にとって最後のライバルになることは疑いないから。
ならば、田中一が死柄木弔に対してできる最大の貢献とは。
アイの消耗をなるべく抑えたままこの戦いを勝たせて。
来るべき魔王の最後の戦いで、その力になってもらうことだ。
最後の戦い。
その言葉を当たり前のように思い浮かべた自分自身に、田中は驚く。
だって、最後の戦いをするというのなら。
その時、敵連合は終わるということだから。
だってそうだろう。
その最後の戦いの時、あの二人はどこにいると思っているんだ。
神戸しおと、そのライダー。
あの時、一緒にゲームをして遊んだもう二人。
その二人は、その時点でもう退場しているか、死柄木の対戦相手になるかの、どちらかだ。
『最後の戦いに挑む死柄木のために』というのは、彼女たちを退場させることを前提にした発想だ。
(こんなに……目の前に迫ってる、ものだったのか……)
いや、いくらなんでも切り替えが現金すぎるだろうと奇妙な苦笑がにじむ。
今朝がた星野アイが神戸しおを殺そうとしたことを、あれだけ仲間の裏切りだと逆上したというのに。
そこから数時間も経っていないうちに、神戸しお達の切り捨てを視野に入れ始めている。
こんなにもあっさりと、自分が迫れられる選択として訪れるものだったのかと。
そして、その時が来れば、間違いなく自分自身で選ばなければいけない事だったんだと。
-
場合によっては、いつまでもカイドウが倒せずに同盟継続、は有り得るのかもしれないが。
それでも、『死柄木の優勝』を見据えての行動である以上、『あの二人のためでもある』とは絶対に言えない。
この決断は、そのまま『敵連合』への別れにつながる道だ。
そう自覚した時に、去来したのは痛みだった。
『敵連合なんて、今だけの』と聴いた時の痛みとは、まったく違う。
もっとも近い記憶は、寿命をまっとうしたオカメインコの『まる』を、埋めていた時の痛みと虚無感だった。
インコのおかげで、そうかこの感情は未練なんだと分かった。
敵連合は、未練になった。思い出になった。
星野アイも、同じ未練を抱いて裏切ったのかは分からないけど。
田中が未練を予期できなかったあのタイミングで裏切った彼女は、確かに賢かった。
お前ら、楽しかったよ。これは絶対にウソじゃない。
ありがとう。
そしてこれからは、さよならだ。
そして田中一は、探していたものを見つけた。
駅員の遺体が握りしめていた指を引き剥がし、強奪する。
ずっしりとした大きな重みが、そのまま『使うのか』と問いかけてくるようだった。
これを戦場で使う事には、間違いなくリスクがある。
死にたくはないし、使った結果を予想できる田中は、ある程度の受け身を取るつもりだけれど。
それでも、失聴したり、余波で何かの破片が飛んでくる危険はあるだろう。
もっと言えば、アイの戦いに水を差すことにならないとは言えない。
彼女はあれで、戦いを愉しんでいたようにも見えたし。
この戦場を、どこか成長の機会のようにとらえていた風だったから。
――それでこそ、『私』かあ
――そこで、私を推しててよ。田中
ただ、田中もまた約束してしまったのだ。
今度は推し方を、間違えずに向き合うと。
そして彼女は、『この先』を見たがっている。
一番星の生まれ変わりではない、彼女だけの偶像として。
本物の偶像が体感する幸せを、その上で死柄木弔の偶像としての喝采を浴びられるかもしれないと、期待している。
-
そんな彼女には『この先』を、万全で迎えてほしいと願うのがあるべき推し方なんじゃないか。
彼女(アイドル)にも、自分の心と人生があるんだと、忘れない事。
望む空に羽ばたけるように祝福すること。
正しい推し方があるなら、きっとそれだと思うから。
今のアイなら、以前よりも戦力としての力になれるし、きっと死柄木の元の世界の『敵連合』の偶像としても輝ける。
もしも田中がリスクを負うとしても、どう考えたってこの先の魔王に必要なものは、凡夫ではなく彼女の方だ。
その憧憬は、絶対に揺るぎがなかったから。
死柄木は戦場へと駆け戻り、距離を確認し、己の耳に詰め物をして。
拾ってきたそれを、アイの足元へとすべらせるように投擲した。
アイの歌声を集音することも可能である、その位置に。
もしもアイが本気の全開で声を解放したとすれば。
地下の天井や壁に反響音が乱反射して、彼女以外の全員が被害を受けることは疑いない、そのステージに。
――メガホン式の、拡声器を。
-
ARE YOU READY!!
I'M LADY!!
歌を歌おう
ひとつひとつ
笑顔と涙は夢になるENTERTAINMENT
◆◆◆◆◆◆◆◆
すべて血でできた疑似的な生き物に、アドレナリンというものが分泌されるのかは分からないけれど。
3人だけのライブステージは、全員の集中が最大限にまで研がれていた。
2人のアイドルは、歌い続けることによるゾーンの突入によって。
サーヴァント・メロウリンクは、最後の令呪が未だに適用されている結果の、コンディションの高まりによって。
メロウリンク・アリティの霊基質量はサーヴァントとしては下の下も良いところ。
しかしそれは同時に、燃費が恐ろしく良いことも意味していた。
数多有る手傷の回復に魔力を割いても、存在するために要する魔力そのものが軽ければ、その分は釣りがくる。
その分の魔力はすべて、令呪の字義通りであるところの『敵連合の偶像を倒す』ための好機の確保に費やされていた。
ライフルにより大小さまざまな出血は流させたが、やはり決定打には心もとないというのが交戦を続けての実感。
ならば、摩美々の協力によりもたらされた消耗から『隙』を抉じ開けての一撃必殺に踏み切るしかない。
そう腹を括り、念話で『遺品』を持ち出すことを、摩美々に依頼しかけた時だった。
――「「さぁ Wow oh oh」」
――『「次の革命」』
――「「目撃しなよ」」
いまひとたび、曲のサビを迎えようとしていた会場に。
アイの姿をした偶像に差し出されるように、拡声器が滑り込んだのは。
「しまっ――――!!」
真っ先に何が起こるか察したのは。
先刻も、空気密度を利用した音波の調整を図ろうとしていたメロウリンクだった。
摩美々に耳を塞ぎ蹲れと訴えかける。
しかし、その『大反響』は、念話で空気を介さずに声を届けるよりもなお速かった。
大量の粉塵を散布された火種たらけの場所に、火の一滴を落としたように。
鉄筋コンクリート造りの地下通路をドームの天井のように揺るがす、音波の大爆発が響き渡った。
-
手始めに起こったのは、ぼんと小火でも爆発させるような拡声器そのものの崩壊。
全力で発声すればサーヴァントの肉体でさえずたずたにして四方を音波破壊する衝撃波が、拡声器によって『絶妙の手加減』を抜かれたのだ。
まず最大限の発生が全方位を蹂躙すると同時に、その反響音が終わらない跳弾のように無限に繰り返された。
アイドルを送り届けるための狂弾舞踏会ならぬ、アイドルを送り出すための歌声流星群舞踏会(イルミネーションスターズ・ディスコ)。
全員の悲鳴でさえ、死の歌声の暴風雨はかき消した。
自動改札はなぎ倒された。
垂れ下がっていた吊り看板はことごとく落ちた。
壁の掲示物は、その額ごと日々が入って崩れた。
天井の照明は全て破裂し、光源は離れた廊下から届く微光のみとなった。
しん、と反響が効くまでに、たっぷり数秒はかかった。
広場の中央に変わらず呆然と立っていたのは、偶像のホーミーズだった。
それはある意味で当然。
どんなに音響爆発が絶大であろうとも、『自分が拡声器を使って叫んだ声』によって失聴する偶像はいない。
「ぐぅ……」
そのアイと向き合い対峙していたメロウリンク・アリティは、音波に鎌鼬のごとく全身を裂かれていた。
令呪の回復を受ける直前の襤褸のような状態と、大きく変わらないような多数の裂傷。
ひとつだけ、悪い意味で大きく変わっていたのは、その両眼だった。
正面から衝撃波を浴びてしまった結果、眼球ごと何回も斬りつけられたように潰れている。
四つん這いのような姿勢で、顔が真紅に染まった状態で、摩美々の安否を問う念話を送りながら呻いていた。
「………………」
田中摩美々は、そのうめき声でさえもあげる余裕さえなかった。
音響爆発にさえも耐えきった太い支柱に隠れていたおかげで、直接的な衝撃波や飛散物は当たらずに済んだけれど。
地下通路を何重にも反響した音波の余波は、障害物の陰に隠れていた彼女でさえも打ち据えるものだったから。
全身打撲の痛みに腹部をおさえて転がり、常人には耐えきれない膨大なデジベルの音波を受けて失聴状態。
意識はあれども、かろうじてメロウリンクの姿は見えども、もう世界から声と歌は聴こえない。
-
その惨状にも関わらず、アイがとどめを刺すことを優先しなかったのは。
その惨状を作った者を見つめていたからだった。
「田中……」
田中一は。
運の引きが、もっとも悪かった――ように受け取れる有り様だった。
よりによって付近にある掲示物でもっとも重かったものを。
地下鉄の時刻と行き先を表示する電光掲示板を、腹に抱えるよう受けていた。
腹部からは周囲一帯が水たまりと化すほどの血液を流し、良くて失神、悪くて意識不明となっている。
大丈夫かと駆け寄ろうにも、その耳からこぼれでたできあいの耳栓が、覚悟してのことだったと雄弁に伝えてきて。
ただ、田中の意図を読み解くこと。
それだけの為に、十秒弱もの時間が費やされた。
「……色々言いたいことはあるけど、どうしてなのかは今は聞かないよ。
私もさすがに、創造主(パパ)のために時間をかけてられないことは分かるから」
しかし、ようやくその時間も終わる。
くるりと、己のすべきことを理解した敵連合の偶像が、メロウリンクに向き直る。
「楽しくなかったって言ったらウソだけど、私も『殺せ』って言われたことは忘れてないからね」
それは、いよいよ逃げ回ることができなくなった機甲猟兵へと。
とどめの崩壊音波がこれから炸裂することを意味していた。
その上でなお、メロウリンクは足掻くことを選んでいた。
がこんと鈍い音を立てて、手探りでライフル弾をパイルバンカー用の炸薬弾へと換装。
狙わなければ打てないライフルから、突撃して拙者の乾坤一滴を穿つ最後の武装へと。
「無駄だと思うよ。その眼で私の居場所を割り出せても、歌があなたを吹き飛ばす方が早いから」
当たらなければ意味がない以前に、当たる攻撃だとしても音速の早撃ちには敵わない。
ずいぶん粘りに粘った傭兵の戦場も、だから今度こそ万策は尽きる。
あなたの偶像(アイドル)は糧になったけど、さようなら。
ファンの覚悟に応えるために今すぐ殺す。
-
「そうだな……」
内臓から黒い粘性のある体内出血を吐き出しながら。
メロウリンクは踏み潰されて肺がどうにかなった後のように、濁った声を出した。
マスターも、サーヴァントも瀕死の様相を呈した上でもう令呪は尽きた。
助けの手などあるはずもなく、光明を見出す余地などありはしない。
「お前たちが、あの子に手をださなけれ、アイツの死因に関わらなければ、そうなっていたよ」
帰って来ない者達を、胸に刻んでさえいなければ。
帰らぬ者を胸に刻んだ上で彼女を倒せという、絶対の後押しさえなければ。
「あの子?」
敵連合という陣営として殺した者であれば数多いが、果たして誰のことを言っているやらと。
アイがおうむ返しに問うている間に、田中摩美々はうずくまったまま、手荷物の鞄を開けていた。
念話で合図されたように、蒼白な顔ながらも、そこからタオルにくるまれた包みを取り出す。
なぜか、申し訳なさそうに顔をゆがめた上で、包みをメロウリンクへとすべらせた。
タオルの真札で地下通路のタイルを滑った包みは、メロウリンクの手元に届く。
すぐさま彼は、その包みを解いた。
「え――――?」
残酷なものなどに心動かされないホーミーズではあったが。
そこから出てきたものには、言葉を失った。
あまりに予想外が過ぎて。
-
切り落とされた、少女の右手だった。
右手首から先を、極めて荒々しい武器によって切断した痕跡がまだ新しい。
そして手の甲には、血液とは異なる赤色をした紋様が刻まれていた。
数十分前まではたしかに切り札になり得た、令呪の残骸。
これは。
『田中が撃ったマスター』の、『死柄木(パパ)が殺したサーヴァントの』令呪だろうかと、アイは惑う。
その、理解こそが。
その令呪は『敵連合が倒した主従の遺産である』という認識ひとつが。
最後の因果が廻るためのトリガーとなったことにも気付かずに。
【条件:復讐対象に、犠牲者の遺品を見せるなどして復讐の対象であることを知らしめること】
◆◆◆◆◆◆◆◆
田中摩美々は、七草にちかの身体の一部だったものを、その場に放置するのがしのびなかった。
だから、恋鐘からもらった着替えと手荷物の中から、もっとも清潔な布でそれをくるんで、持ち運ぶことを選択した。
その時点では、摩美々がそれを持ち運んだ理由はただそれだけだった。
地下通路に駆け付ける道中の念話で、【七草にちかの右手はどうなった】と問われた時には、首をかしげていた。
もしも、その右手の狙撃がなかったとしたら。
死柄木弔は、界奏の発動を滅することが間に合わず、すでにして敗北を喫していたことだろう。
七草にちかはいざとなれば、方舟の長期的な展望よりも、アシュレイ・ホライゾンの安否を優先しただろうから。
方舟陣営の計画の安否は別としても、まず死柄木の敗北は避けられず、ある意味で田中一は、身命を捧げた魔王に勝利をもたらした。
しかし、その右手が撃ち落とされなければ。
アシュレイ・ホライゾンの唯一の遺品たりえる【令呪の残骸】は、この世界には生じなかった。
田中一とアイには、ライダー・アシュレイとの面識も、それどころか事前情報の一切も、知識の何もかも無かった。
これはアイツの持ち物だと何かを差し出されたところで、【ああ、仇の遺品だな】と認識することは困難だった。
-
そして、にちかの令呪がついた手を持ち運んでいるか、と。
そんな奇妙な、確認の念話を向けられた時点で。
リンボに復讐を果たしたことを経て宝具の強化条件を知っていた摩美々も、直感するところはあったのだろう。
メロウリンクは、にちかの右手をそっとしておくよりも、にちかの無念を晴らすことを優先し。
そして、にちかの右手の扱いよりも、にちか自身が安らかであることの方が今この時は重要だと、二人は認識を共有した。
だからなのだろう。
摩美々は自然な会話の流れで、ここに至る道程を舗装してくれた。
『……実は死柄木さんを倒してるって、言ったらどうします?
自分のマスターが右手を撃ち落とされて、治療真っ最中なだけかもしれませんよ?』
『へぇ? 俺が撃ったアイドルは、死柄木と戦ってた奴のマスターだったのか。いい事を聴いたな』
アイの前でその会話を聴かせたことで。
アイは『田中が右手を撃ったマスターのサーヴァントは、死柄木が倒している』という事実関係を認識した。
それは、とりもなおさず。
彼らが、その牙(パイルバンカー)の射程に入ったことを意味していた。
両眼は血に濡れ、眼球があったところとそうでない所の区別もつかなくなってしまったが。
顔の下半分に刻まれた『仲間の返り血を浴びたこと』を示す死化粧は、未だ顕在。
これは、『敵連合』という集団に対する、彼らの命は無価値ではなかったという証明である。
その機会を得たことで、メロウリンク・アリティの身体は瀕死のそれではない執念を獲得する。
アイの動揺は目撃できずとも、疑問の声と絶句により、メロウリンクは『条件の達成』を理解し。
その牙を突き立てるために、一陣の風となった。
だが、音の早さは風よりも速い。
それを理解した偶像のホーミーズが、颶風と化した叛逆の砂粒を、一声によって吹き飛ばそうとした時だった。
二つの条件を全て満たした事により、宝具『復讐者の死化粧』のランクがCに上昇。
『偶像のホーミーズを魂ごと貫く』ために、これまでの戦闘推移の全てが『因果』として舗装される。
-
「――――――!?」
アイの声が、突如として。
枯れたように、男のそれのように野太くなったように、変質した。
それまでの完璧な歌唱力が、天性の声帯が、歌を知らぬ人間のそれに替わったように。
まるで、不可逆の変身によって別人の声帯に置き換わったかのように。
それはそうだ、
アイが地下戦に移行した当初より削られてきた弾丸には、いくつも『メロウリンクの返り血』が付着している。
偶像のホーミーズである前に『血のホーミーズ』を原型としていた少女は、『星野アイのそれではない血液』を取り込んでしまった。
本来、死柄木弔が再現しようとしていた『血の個性』は、スポイト数滴ほどの量でもしばし変身してしまうほどに凶悪なのだから。
別人の遺伝子情報が混入することが、『星野アイの歌の再現』に不調をきたす。
だから今までに刻んだ銃創のすべてが、この一撃のための布石として機能する。
この牙は確実に、『死柄木弔の写し身』たる存在を屠る。
その為の、疾走の道程において。
一瞬が無限に引きのばされる、走馬灯の最中において。
アイドルとそのマスターの仇を討つために、たしかにアイドルを殺す。
その事実を、メロウリンクは噛み締めて。
たとえ相手が敵連合の一員なのだとしても。
これはたしかに、ただの自己満足のための敵討ちだなと、実感を持った。
聖杯戦争において、逆襲のために、強者を引きずり落とす狼として牙を奮ったのは初めてではなかった。
炸裂弾の噴煙と、落下する薬莢を置き去りに、パイルバンカーを放つのは二度目でもあった。
しかし、ここまで己の自己満足に全てを振り絞ったのは今が初めてでもあった。
聖杯戦争のメロウリンクは、居場所を得た者であり、頼られる側だったから。
――手を。握ってもらっても……いいですか
一か月のあいだ、居場所を与えてくれた少女との別れにおいても、彼は涙を見せなかった。
なぜならメロウリンクはもう、置いて行かないでくれと訴える子どもでも、『命令してくれ』と上官にすがる新兵でもなかったから。
自分が遺言を託される側であり、甘えて頼られる側なのだと自覚ができていた。
であれば、誓うのはリベンジであり、余計な感傷ではないのだと。
-
今だけは、方舟の守護者(サーヴァント)の一翼としての戦いではなかった。
余計な感傷を抱くことが、己に許される戦いだった。
家族同胞に次々と先立たれた、全盛期(あのころ)のメロウリンクに戻ることができた。
ただ一人この戦いを見守っている摩美々はこの感傷の理解者であり、もっと言えば耳も聴こえない状態だ。
ならば、その想いを放つすべは決まっていた。
メロウリンクは、吠えた。
勝利の雄たけびではなく。
ただ切なさを振り絞るために。
八つの盛り土に、ライフルの墓標。
それらを前に、八つの認識票を握りしめた時のように。
はぐれ者になったことに、どしゃぶりの涙を解き放って。
やり場のない重いをただ咆哮した、あの日のように。
今は、祈るよりただ声をあげるべきだと思ったから。
己はここにいると証明するために、あらんかぎりの声で叫んだ。
◆◆◆◆◆◆◆◆
この一撃だけは、避けられない。
全てが示し合わせたように己の反撃を妨害し、偶像から≪声≫を奪った時。
ホーミーズのうちにある魂が感じ取ったのは、存在の危機と、意地のような『熱』だった。
ああ、これはやられたな、と思った。
そして、跳ねのけられないそれを、重いなと思った。
アイドルが、推されていた誰かのために歌い、積み上げた重み。
アイドルに照らされた者が戦い、その戦いにまた誰かが応えようと繋げられた重み。
出会ったばかりの頃は、何を言っているんだとしか思えなかったその温度と圧に。
いつしか、それに張り合い、挑もうとしていた偶像(アイ)である己を自覚した。
その熱が、まだ訴えていた。
破滅は避けられなくとも、このままでは終われない。
田中が無茶をして勝機を作ってくれたことが、無駄になってしまう。
彼が成した意図の全ては分からないけど、アイを応援しようとした事は確信できる。
田中(ファン)が、アイドルのためにがんばってくれたことを、無駄にはしたくなかった。
-
血のホーミーズは、既に偶像のホーミーズへと在り方を変えた。
しかし、『血のホーミーズ』としての力がまったく消えたわけではない。
ゼロ距離で瞬間的に命を刈り取られようとも、カウンターは生み出せる。
もともとの個性である血の操作を、偶像決戦の彼女はこれまで一切使わなかった。
初めは、血を固形化して殴るよりも、歌によって破壊する方が効率が良くなったから。
そして、途中からは、ホーミーズとしての性質が変わった事と、矜持にも似たこだわりで。
だからメロウリンクは、彼女が声を出せなくとも、なお『武装』を生やせることを、知らなかった。
熱に目覚める前の彼女であれば、発想として湧いてこなかった。
むしろ属性としての偶像らしく、『死に際に衣装が汚れるのは嫌だなぁ』ぐらいは思ったかもしれない。
しかし、『推しているファンが勝てよと言った』という事実が、それらの思考を押し流していく。
(アイドルは、ファンを『愛してる』ものだよね)
愛している人の為なら、汚れることだって許容できるものじゃないかと、思うから。
それは、仕事ではなく、ホーミーズの属性が有する役割、ロールのようなものだと思っていたけれど。
――私達は……みんな、誰かに推されて生きてるんです。
演じているうちに偽物(ウソ)が本当になるなら。
それは何だか、とても悪くないことのように思えたから。
だから、アイは手のひらに血流を巡らせ、しかし悟られまいと、パイルバンカーそのものは受け入れた。
敵の攻撃をぎりぎりまで引き付けて、命と引き換えにしてでも確実に命を狩る、負けまいと食らいつくことを望んだ。¥。・¥
こうして。
メロウリンクが、想いと力の全てを乗せた一撃によって偶像の傑作(マスターピース)の魂を打ち砕くと同時に。
彼女もまたメロウリンクの霊核を真紅の杭打ちによって、穿たれながらでの執念を燃やし、貫いていた。
激突し、重なった双方の影から、銀色と緋色の牙が一振りずつ背から生えるように伸びる。
機甲猟兵の逆襲劇と、たった一人の凡夫が巻き込んだ逆襲劇に、いずれも幕が降ろされた。
◆◆◆◆◆◆◆◆
ホーミーズを構成する魂の核が貫かれたことで
『星野アイの血液』だったものの結合が脆くくなった。
ずるりと身体が崩れ、もとの血液に戻ろうとしているのをそのホーミーズは感じ取る。
『ねえ』
田中は大丈夫だろうかと思うも、そちらに首を向けることはできない。
胴体は脆くなり、パイルバンカーの軛からずるりと外れる。
死を体感するのは、他のすべての体験がそうであるように未知だった。
ナイフで刺されたことはあったけれど、星野アイのそれであるが故に感情を伴わない記憶だ。
-
『ねえ……みんな……』
そして、この世界で【星野アイ】が死んだ時の知識記憶もある。
どんな死の経過だったのか、最後に何をしゃべったのかは知っている。
ただ、何を想ってその言葉をしゃべったのかは分からないままだった。
でも、今なら分かる。
何故なら、同じ言葉が口から出かかっているからだ。
誰か、誰でもいいから、どうか私の手を、と……。
けれど田中がやってこないということは、できる者はいないということなのだろう。
たった今復讐を果たしたばかりの、同じく血だまりから消失の粒子を輝かせる弓兵については言うまでもない。
『誰でも、いいから……』
あの時誰も手を取らなかったことも、あの場にいた人達の優しさだったと思う。
私達はあなたを殺して夢を終わらせるけど、子どもの代わりに手を取るぐらいはしてあげよう、なんてそっちの方が残酷だ。
敵連合は名前の通り、いずれ決着をつけることが決まっていた、敵(ヴィラン)の寄り合いだったのだから。
あれは、きっと彼女たちなりの正しいお別れだったと、星野アイではない彼女もそう思う。
だから、仕方ないなと諦めるつもりだった。
「なんで……?」
殺そうとしたけど思いは受け取ってほしいなんて、ムシのいい事なのだからと、諦めていたのに。
田中摩美々が、血だまりに服が濡れるのもいとわずに。
傷ついたからだを引きずってきたことのみならず。
サーヴァントだけでなく、もう片方の手で。
偶像の少女の手を、掴んでいた。
「許したわけじゃ………ないです」
その言葉どおり、苦しそうな顔をしていたのに。
それでも、口の端だけで、笑おうとしていた。
「でも、手を取ってほしそうな……顔、してた。それだけです」
歌唱力もダンスも、私の方が上だと対バンを通して思っていたけれど。
その笑顔は、私には決して作れない笑顔だと思った。
偶像に矜持を持つ少女は、崩れそうな瞳に笑顔を焼き付けた。
生きざま。どう見えるか。装い(メイク)。表情。笑顔。
ダンスと、ボーカルに続いてアイドルが審査されるもう一つのレッスン科目……ビジュアル。
いいなぁ、と思った。
べつに敵連合よりも彼女たちの方がいい、という意味では無くて。
これができるアイドルになれていたなら、もっと敵連合(みんな)のアイドルとして究極になれただろうかと、そう思った。
-
地平線に、海は無い。
それは、アイ自身にも例外なく向けられた言葉だった。
どのみち偶像のホーミーズとしてのアイの寿命は、きっと長くないと思っていた。
ホーミーズは憑依先を変えてもこれまでの自我は残るけれど、ホーミーズとしての属性は変わる。
『星野アイの血液』という、この世界が消される時にまず一緒に消えそうなものを素体にした偶像のホーミーズは。
おそらく聖杯戦争が終われば、再現不可能の概念になるだろう、と。田中がそれを知っていたかは分からないけど。
でも、きらきら輝くアイドルに、その先があると分かったことで。
少しだけ、とても眩しい夢が最後にできた。
誰かが想いを継ぐのがこの世界なら。
『星野アイ』の気持ちを、彼女とかかわりのないアイが最後に共感したように。
いつかどこかの誰かが飛び立つための、羽根になるかもしれない。
地平線に海は無いけど……飛び立つ宙(ソラ)はある。
もともと、地平線と水平線に区別はない。
英語ではどちらもホライゾン(境界線)。空と地球との境界線という意味だから区別しない。
転じて人が挑める視野ぎりぎりとか、限界とか、前向きな意味だから曲名やバンド名に使う人も多い。
きっとこの世界には、私の知らない輝きがまだある。
それを夢想する。
始まる今日のステージ。
マイク。メイク。衣装。
ショータイム。トライ、チャレンジ!
スターダム。光り光るスポットライト。
まぶしい輝き。まっすぐデビュー。
夢は叶うものだと、その私は信じてる。
さぁ、位置についてレッツゴー。
そう、私は女の子。私はアイドル。
いつかきっと全部手に入れる、私はそう欲張りなアイドル。
等身大で仲間(みんな)のこと、ちゃんと愛したいから。
この笑顔で、『愛してる』で、誰も彼も虜にしていく。
この瞳が。この言葉が。
偽物(ウソ)でもこれは、完全なアイ。
――そう、行けばなれる。絶対に私がナンバーワン。
――本物(カンペキ)かは分からないけど、究極のアイドル(アイドルマスター)に。
星(かがやき)の無い瞳に創られたunkwounだった少女は。
最期に、輝きの向こう側をその瞳に映したまま。
その瞳を、その姿を、血だまりへと還した。
【偶像のホーミーズ 退場】
◆◆◆◆◆◆◆◆
-
『令呪二画分の支援、助かった』
最後になるだろう挨拶は。
あまりにも事務的な言葉選びで何だか湿っぽさを抜かれた。
それなりに付き合いがなかったら、素っ気ないとさえ思ってしまうほどに。
――君は令呪二画を未だ保持している。
再契約の決め手に、メロウリンクは摩美々の持っていた令呪を挙げた。
あの時の、友人を差し置いて再契約相手として選ばれたことを気にしていた摩美々に。
メロウリンクは、彼なりに『君をマスターに選んだことは間違っていなかった』と言いたいんだろうな、と。
そこまで会話相手に補完を要求してくる不器用さに、あっちのにちかも、予選の一か月大変だったんだろうなと想像してしまう。
『こちらこそ。アサシンさんたちの為に令呪を使わせてもらえて、嬉しかったので』
その使い方は、摩美々としても悔いのないものだった。
残り二画のうちの一画は、東京タワーの地下で、杉並区の戦いのリベンジに。
彼のマスターと、彼女のサーヴァント、たがいにたった一人の相棒が失われる戦いになった戦場で、嘲弄していた獣を貫くために。
もう一画は、方舟の代表者たる英雄、アシュレイ・ホライゾンを筆頭名として。
散って言った仲間たちのすべてに、不器用な返報を果たすために。
敵討ちという行為の全てを、今の摩美々は肯定しないけれど。
それを楔として、彼と言うサーヴァントと繋がれたことを悪いとは思わない。
思い返せば、二人目の相棒になった彼とのつながりは。
互いに、替えのきかないただ一人のパートナーをなくした出来事に、共鳴するところから始まったのだから。
摩美々は、半日ほど彼にとってのにちかとともに過ごして、『なんだかアーチャーさんとは兄妹みたいだな』と思っていた。
きっと彼も、半日ほど摩美々とアサシンの関係を見て、同じような感想を抱いた上で、再契約したんじゃないかと思う。
『あなたマスターの方のにちかも、きっとよくやったって胸を張ってるんじゃないですかね?』
『あいつはアイドルのにちかを見てると言ったが、俺のことを見てるかは、どうだろうな……』
『今までにちかをずっと見守ってたなら、アーチャーさんのことだって一緒に見てたことになりますよね』
『あぁ、そういう考え方もあるのか……なんかそういう理屈ぽさは、君のサーヴァントに似てきてないか?』
『アーチャーさんも……兄貴分っぽくしてますけど、けっこう根は弟妹っていうか、若くて青い人ですよね』
周りが女の子のマスターばっかりになった時も照れてたし、と。
お互いに血まみれの会話で、和やかさも何もなかったけど。
最後に彼の『色』を見られたことは悪くなかった。
『これでも……何かを返せてたんなら、それだけは良しとするさ』
どうも昔から、女には怒られて世話を焼かれることの方が多かったんだよな、と。
最後の最後に摩美々とそう変わらない年頃の、小生意気さめいたものを見せて。
その青さは力尽きたというように俯き、できたばかりの血だまりへと影をかざしたのだった。
【メロウリンク・アリティ@機甲猟兵メロウリンク 消滅】
-
でも1つだけ 残されてる
ボクらを繋ぐモノ
◆◆◆◆◆◆◆◆
田中摩美々は、緋色(アカ)に続いて、ソルジャー・ブルー(アオ)が溶けていくのを見送った。
緋色(アカ)の炎みたいな熱さはなく。
ブルー(アオ)の少年みたいな暑苦しさはなく。
しかし、冷たいこともない、中間色の紫色。
その人肌を与えることだけは、最後までできただろうかと、振り返る。
「さて、紫色だけ……残っちゃいましたね」
寂しい。
見届けた後の本音は、直球でそれだった。
さすがに目の前にいる人達を放っておけない想いが優先したけれど。
お別れした後に痛みがないかと言われたら、あるみ決まっている。
……なら、私の手は緑色の女の子にでも取ってもらおうかな。
すでにボロボロだけど、にちかの方もやばいかもしれないけど。
生き残ったなら、帰る努力ぐらいはすべきだろう。
そう、同じく残された心残りに、思いをはせて。
何とか、立ち上がろうとしていた時だった。
――――タン!
「…………え?」
立ち上がろうとしていたところで、左胸の下あたりに真っ赤な穴があいた。
同時に、灼熱みたいなアカの熱さが全身を揺さぶり、ぐらりと身体が傾く。
倒れかかる視界のなかで、音のした方に首を向ければ。
落下して壊れた電光掲示板の近くで。
その男が、拳銃を持ち上げ、銃口から白煙をのぼらせていた。
服を緋色に汚しているとは思えないぐらい、半身をぬるっと健常そうに起こしていた。
拳銃と反対の手にあるのは、ビニール袋の残骸みたいなもの。
つまり、懐からこぼれたのは……血糊。
そっか。
納得と同時に、やらかしたという渾身の口惜しさに襲われる。
星野アイの姿をした女の子は、最後に、血だまりに溶けて行った。
もし、『血』に関する何かの力を持っているのだとしたら。
いざという時に死んだふりでもできるようにと、血液を分け与えて懐に持たせていたのだとしたら。
メロウリンク達を見送らなければと思った。
全身が痛いのを押し殺して這った。
その二つに意識を向け過ぎていた。
そんな失敗を、悔いている時間も許されず。
再び全身を、がんがんと、色んなところが打ち付けられていった。
自動改札をくぐったところを、撃たれたのだ。
倒れた先にあるのは、階段。
-
落ちていく。
落ちていく。
奈落へと。
暗闇へと。
死の底へ。
そして…………。
「ごめんな……」
たった今アイドルを死なせたことに対してではなく。
その直前に偶像のホーミーズを失わせてしまい、今まで気絶していたことに田中一は謝罪した。
死柄木の敵だから、うんと絶望させてから、殺す。
ホーミーズのアイに言い聞かせたその言葉を、実行するために撃ったつもりだった。
撃った後も、湧き上がってくる想いは、愉悦ではなく、虚しさだった。
アイに対して、嘘をついたつもりはなかった。
けれど別の本音もあったことに、やっと田中は気付く。
田中一は、死柄木弔の為であれば仲間をも殺すと、もう決めてしまったから。
星野アイをあんな風に、絶望させて孤独に殺してしまった以上、他の者もそうしなければ犠牲が報われない。
そして今、ホーミーズのアイを失わせてしまったという罪悪感から。
せめて犠牲には報いたいと撃たずにいられなかった。
破滅するまでのめりこむのは昔からだったけれど、仲間の破滅をそこに巻き込むのは初めてだったから。
そして、仲間が破滅したら、そんな風に背負わずにはいられないぐらいには。
俺はちゃんと、他人に興味を持ったり、推したりができる人間だったのかと、やっと自覚を持ったから。
失った後になってから分かるという陳腐さまで付いてくるあたり、我ながら本当につまらない凡人だとは思うけど。
ならば、追いかけてさらにありったけの弾丸を撃ちこまねばならない。
死柄木の勝利に貢献することはできたけれど、己のせいで敵連合の偶像を失った。
せめて他の者達も同じぐらいかそれ以上に絶望してもらわなければ、犠牲に申し訳が立たない。
そう思い、電光掲示板がかすめて怪我したことには変わりない脚を引きずり、急いで階段を下りていく。
ぷつんと、ひざ下のあたりで鋼線を引っ掛けたような切断音がした。
そう、ひざ下あたりの高さにあるものだった。
鋼線……思い出したのは、道中で何本もみつかったトラップもどきのことだ。
-
田中摩美々は、階段を転がったがゆえにそのワイヤーをひっかけなかった。
田中一は、既に追っていた手傷と、喪失の痛みから埋め合わせをすることに夢中になり、引っ掛けた。
たしかに前進したことで、己が仲間のために動く人間だと気付いたところで、引っ掛かった。
とっさに仕掛けがありそうな壁の方を見れば、また別の拳銃の銃口が田中を向いている。
なるほど。フェイクのトラップで精神的に削った後に、いよいよ最後に逃げ込む場所に本命を置く。
合理的だ。過去にプレイしたゲームでも、トラップはそういう風に配置されていた。
そうか、と田中は己の失念に気付く。
今、自分は階段を下りたのだ。
つまり、アイが反響音を使った探査を、まだ行っていないフロアに。
そして。
――――タン!
また一つの銃声が、この世界で新たに『可能性の器』の未来を終わらせた。
【田中一@オッドタクシー 退場】
◆◆◆◆◆◆◆◆
七草にちかは。
会ったことも無い怖そうな男の人と、長い話をする夢をみた。
-
太陽の擬人化みたいな人に、宇宙みたいな場所でガンを付けられてると思ったのが最初だ。
それも、幽谷霧子さんを例える時に使われる太陽ではなく。
物理の教科書で『ほらこんなに超高温なんですよー』と書かれる断面図や写真のイメージだ。
これは間違いなく、頑固で気難しくて厳しくて、頭が硬くて暑苦しくて話の長そうな人だとすぐ察した。
いやむしろ会ったことあると、だんだん気付いた。
世田谷区とかで。真夜中の世田谷区とかで。
世田谷区と言えない場所になっていく真っ最中の世田谷区とかで。
ヘリオスさん、と呼べば肯定が返ってきた。
最初で最後の会話は、お互いに最低の中の最低みたいなテンションから始まった。
それはそうだ。
この人のいる『向こう側』は界聖杯内界ではないから、無形を飲み込む崩壊であっても影響は及ばない、とか。
彼の片翼は、極晃へと接続の手を伸ばし、それが滅びによって切断される営みと同時並行で、
契約者である七草にちか、引いてはその先にある『界聖杯』と繋がるために契約パスの存在情報(ログ)に手を伸ばしており。
結果的に、いざという時の予備燃料(コスト)として同じく接続先に指定されていた彼と彼女が、彼の精神世界を介して何とかかんとか、と。
そういう理屈の上で、『なぜ』を説かれるうちに、気付いてしまった。
にちかは僅かにでも『彼は完全に消えてはいなかった』という証を期待していて。
そして、理屈を説かれたことで、『やはり彼はここにいない』と悟ったことを。
そこからは過程はともかく、結果は予定調和だ。
話がすんなり通じたかは別として、話題がどうなるかは決まっていたから。
その人(ヒト?)が知っている、ライダーさんの話をたくさん聞いた。
その人に対して、私が知っているライダーさんの話をそれなりにした。
にちかとその人が出会ったら、そうなることは自明であったし。
そして実際にそういうことになった。
ライダーが、どんな最期を迎えたのかを、聴いた。
実際に見ていたヒトが語ったのだから、間違いないことを。
最初から、最後まで。
………………。
痛。
痛い。
いたい。
いきてる。
目を開けると、視界がそうなっていたせいで横向きになったテーブルがあった。
情報量に比して、現実の時間経過はそんなでもなかったらしい。
なぜ分かるのかと言えば、スポドリのボトルがまだひんやりとテーブルにあったから。
摩美々からとにかく飲めと押し付けられ、まだ半分ほど残った、その時の冷たさのままだった。
-
脱力感も、止血された腕がしびれているのも、なくなった右手も、そのままだった。
真夏だというのに全身に肌寒さがあるし、全身が『もう動きたくない。動いたところでやばい』と訴えている。
摩美々の姿がないのだけが、違っていた。
代わりのように彼女のスマートフォンが、ペットボトルの隣に残されている。
なぜ摩美々のものだと分かるのかと言えば、たびたび使う所を見ていた、というだけでなく。
こんな、迷彩色に紫をまぶしたような模様の、ガスマスクをしたパンダみたいな絵を飾る人なんてそうそういない。
万一、幽谷霧子が連絡をしてきた時の為に置いていったのだろうか。
だったら、どこに行ったと書置きでも残してくれたらよかったのに。
『飲みきらないとミイラになる呪いをかけた』なんて速筆のメモだけはボトルの下にはさんであった。
なんでこれを思いつくのに連絡事項は書かないんだろう。
ぼんやりとそう思い、でも頭はいい人だったのにな、と発想が違う方を向く。
もしかして、行き先を書いたら『帰って来るのかどうか』を意識するから、わざと書かなかったのだろうか。
摩美々が帰って来ないかもと意識すれば、にちかは『今度こそ一人になった』と思うかもしれないから。
彼女は自分の安否を曖昧にすることで、『喪失』ではなく『姿が見えなくなっただけ』と嘯こうとしたのではないか。
まだ死んだと決まったわけではないと現実逃避してほしいわけではなく、ただ気にしないでほしいのだと。
どこかで無惨に死んだと思ってほしいのではなく、曖昧な蜃気楼に溶けていったんじゃないか。
『私はこういうアイドルです』と言わんばかりに主張の強い紫色のスマートフォンを手に取ると、そんな気がした。
彼女は、紫色の蜃気楼を名乗っていたアイドルだから。
そして、気付いたことが、もう一つ。
観客の七草にちかは、どこからでもアイドルの七草にちかを見ていると言った。
プロデューサーは、ぜいたくにもワンマンライブを見届けた。
けれど。
アイドルとプロデューサーに話をさせる為に、彼だけがその場にいなかったせいだけれど。
「わたし……まだ一度も【あなたの為のアイドル】を、やってなかった……」
【渋谷区・路地裏横の屋内(アシュレイ達との戦場跡とさほど離れてない)/二日目・午後】
-
【七草にちか(騎)@アイドルマスターシャイニーカラーズ】
[状態]:精神的負担(大/ちょっとずつ持ち直してる)、決意、全身に軽度の打撲と擦過傷、『ありったけの輝きで』
片腕欠損(簡易だが止血済み)、出血(大)、サーヴァント喪失
[令呪]:全損
[装備]:
[道具]:スポーツドリンク、田中摩美々の携帯電話
[所持金]:高校生程度
[思考・状況]
基本方針:283プロに帰ってアイドルの夢の続きを追う。
0:?????
1:アイドルに、なります。
2:殺したり戦ったりは、したくないなぁ……
3:ライダーの案は良いと思う。
4:梨花ちゃん達、無事……って思っていいのかな。
[備考]
聖杯戦争におけるロールは七草はづきの妹であり、彼女とは同居している設定となります。
WING決勝を敗退し失踪した世界の七草にちかである可能性があります。
当人の記憶はWING準決勝敗退世界のものですどちらの腕を撃たれたかはお任せします。
※こちらは田中摩美々が退室してから、さほど時間は経過していません
◆◆◆◆◆◆◆◆
――どちらまで?
とっさに乗り込んだタクシーのドライバーからそう問われたような、『どうしよう』が眼前にあった。
いや、これからどこに行くのかは分かる。
あの世。お彼岸。あっち側。死後。冥界。幽世。お星さま。界聖杯の魔力源。そういうのだ。
だが、いきなり階段の踊り場に立たされていては、『ここはどこだ?』という顔になりもする。
……っていうか、あからさまな扉の前とかじゃなくて、踊り場なのかよ。
半端な所にいるから、のぼる階段と降りる階段の二択になってるじゃないか。どっち行きゃいいんだよ。
不親切なことに、その分岐には階下が何階、階上が何階でそれぞれ何があるといった掲示が一切ないのだった。
階上へと果てが見えぬ風に伸びる階段。こちらは上方が眩しげな光に満たされていて先が分からない。
階下へと同様の不確かさで伸びる階段。こちらは下方を一面の闇に満たされていて、同じく分からない。
-
しかし、指針となるものは残されていた。
階下へと直近で降りて行ったらしい、返り血と埃で汚れ切った靴音が数多く残されていたのだ。
土埃はともかく明らかに返り血らしきものをその足で踏んだような赤茶色は、持ち主の属性を察するに余りある。
さらに階下への壁の、まだ見える範囲には『暴走族神永久不滅』だの、『愛羅武愛』だのと。
そういう連中の一部が童心に返って書き残したようなスプレー文字がある。
前者についてはさっぱりだが、後者はもしや『アイラブアイ』か?
この階段は、同担のファンを篩い分ける心理テストだとでもいうのか。
だが、知りたいことについては分かった。
階段の上がどういうところで、階段の下がどういうところなのかは、これで察せる。
だったら、どちらに進むのかは決まっていた。すぐに決められた。
だって、もしここで階段をのぼることを選んだりしたら。
まるで俺が敵連合に入ったことを後悔して、抜けたがっているみたいじゃないか。
俺がそんなことを表明するはずがないだろう。
正直言って、こんな足跡を残す属性違いの連中が集まっている場所に降りるのかと思うと心底憂鬱になるし。
ろくな目に遭わないだろうことを思えば、できるなら行きたく無いなぁというのも本音だったのだが。
まぁ、階段をのぼるのは、はさすがに無いよな。
俺はあの魔王の下で悪の手先をやると、自分で選んだのだから。
その為に罪のない者たちを、果ては仲間まで殺したことを、否定しないから。
それでも後悔してない社会の敵なんだと胸を張って、虚勢だろうと格好つけながら階段を下りてやろう。
そう思って見上げた光の先からは、とぎれとぎれに、鳥の鳴き声が聴こえた。
-
「あ……」と間抜けな声を出した。
しばらく、口をぽかんと開けっ放しにしていた。
とても懐かしい、忘れようもない声だったから。
――チ……チチッ……キュ……キュイッ……
鳥の鳴き声の種類なんて、数えきれないほどあるというのに。
小さなさえずりの音だけで、俺はすぐに悟っていた。
あれは、『まる』だ。
小学生の時分からそばにいた愛鳥。
この世界に来るまでの、俺の唯一の友達。
この世界に来なければ、『最初で最後の』友達という枕詞さえついたかもしれない。
罪のない、寿命をたしかにまっとうしたオカメインコがそちら側にいるのはとても納得がいくことだった。
まぁ、この世界で逝くことになったあの世にまるがいるというのはおかしな話なのかもしれないが。
俺の設定(ロール)を界聖杯が作り出したというなら、まるの情報がどこかにまぎれこんでてもおかしくは無さそうだし。
他にもうっすら、幾つか動物の鳴き声唸り声や、くぐもった『ドードー』という声も混ざってきた。
そう、あの鳥は記録によれば名前のとおり『ドードー』と鳴いていたらしい。あのゲームでもそういうことになっていた。
まさかソーシャルゲームの紛失データまで、この世界では『死者』の判定がされているわけじゃあるまいな。
そんな呼び声を懐かしい、と思う事すこし。
吹っ切れた笑いが顔に浮かぶことに、そうそう苦労は要しなかった。
声を聴かせてくれてありがとな。
そんで、ここからはお別れだ。
もう大丈夫だよ。
俺は、きっと好きに生きた。
そして、この先は一人でも行ける。
一人だとしても、俺は独りではないことが分かったのだから。
旧友に別れの言葉を終え、階段から背を向けようとして。
その次に聴いた音は、今度は幻聴だったのだろうと思う。
カンカンカン、と靴音が鳴っていた。
たった今、進む事を放棄したばかりの段差を駆け上がって遠ざかるように。
足早に、長い黒髪の艶やかな影が、階段をのぼっていく。
そんな姿が見えるような、軽快な音だった。
一秒でも一瞬でも早く、階段をのぼった先にたどり着きたいかのように。
その先に、帰りたくてたまらないスイートホームが待っているかのように。
-
どうやら彼女を殺害した俺にも、そんな夢想をするだけの図々しさは残っていたらしい。
もちろん、彼女の会いたい人が階段を上がった先で待っているなんて不謹慎だと言われたらそうだが。
それでもアイツは。
愛する子どもの為に一連のことをやったのだとすれば。
階段を下りた先ではなく、上った先にいてほしいと、俺が思っただけだ。
それで、今度こそ何も聴こえなくなった。
感傷の時間も、いよいよ終わりだ。
あとは、胸を張って階段を下りるのみ。
脚は震えちゃいるけど、これぐらいは矯正しようがないだろう。
まぁ、究極的に言えば上っても下りても界聖杯の杯の中に落ちることに変わりないのだろうし。
ここまで来てどっちの階段を行こうとも、その先は『無』でした、なんてことになるのは怖いから。
まぁ、それはそれで、死柄木の願いを叶える燃料にはなるのか。
俺のことも喰らって先に進めなんて捨身飼虎の精神は持ち合わせちゃいないが、そうでなきゃやってられない。
そんなことを思いながら足を動かすうちに、段上からの灯りはもう届かなくなっていた。
俺は淡々と階段を下りて、自分の姿を階下の闇へと沈めていく。
『……ぽちゃん』と、最後に水音が聴こえた気がした。
まるで、スマホを側溝の中へ水没させるがごとくに。
まるで、暴走車両が車線を外れて墜落し、海底に沈むみたいに。
まるで、愛に満ちた杯の中に何かを滴らせて、もうひと味を加えるように。
◆◆◆◆◆◆◆◆
あなた一人のせいだなんて思わないで、と偉そうなことは言ったけれど。
目の前のやるべきことが終わってしまうと、皆がいなくなってしまうと。
ちゃんとできなかった、という痛みを感じないのは無理だった。
帰りたかったな、という本音(わがまま)がそこに追従する。
-
死ぬ時は、独りだった。
独りぼっちになった。
必然と言えばそうなのかもしれないけど。
だって、相棒は二人とも見送った。
摩美々に見送れる限りの人は、見送ってきた。
つまり、摩美々を見送ってくれる側の人は、もういない。
誰かさんが、真っ暗で冷たくて誰もいない場所に突き落としたせいでもあるけれど。
救いの余地など許さないという痛みだけが、身体じゅうを這いまわっている。
身体から熱がなくなって、摩美々が摩美々ではなくなっていく。
蜃気楼みたいな熱が、胡散霧消して消えていく。
いなくなる。死ぬ。聖杯に落ちる。
今ここにいる、私さえも。
落下する、真っ黒に。
落ちていく。
そう、あの時と同じ暗闇だった。
心が死んだ、と思った時に見えた心象風景。
落下していく風切り音は無いけれど。
鼓膜がどうにかなったおかげで、音のない現実感の無さが身を包んでいる。
そう、誰の音もないし、誰もいない。
あの夢から醒めた後に救ってくれた太陽も、ここの場所は知らない。
彼女が願ってくれた『元の家に帰れるといい』という祈りにも、応えられなかった。
霧子だって、このままだと一人にしてしまうかもしれない。
あの時と違うのは、彼ではなく自分の身にふりかかったことであること。
生きてほしいという祈りに応えられなかった悲しみが、摩美々の背負ったそれであること。
ああ。
いなくなりたく、ないなぁ。
そんな願いのことを、誰か聞いてくださいと。
祈ったつもりなんて、なかったけれど。
-
誰だろう、と思った。
音も、姿も分からないけれど。
気配は確かに、近づいてそばに立ったから。
ふわりと降りてきたものに、しっかりとつかまれた。
私の手は掴まれていた。
あ……って思った。
この手は、知っている。
たしかに一度、この手に握ってもらったことがある。
いや、人の手の感触なんて、一人一人覚えてられないけど。
この既視感だけは、ごまかしようがない。
なぜって『過去夢』のことだから。
その人は、この世界に来られないものだと思っていた。
にちかのライダーが遠い星と繋がり、その上で【助力を請い】【応える】という手順を踏む。
一度話してみたいなぁ、という思いはあったけれど、どんな英霊だってそれは必要。
ライダーも言われるまでもなく頑張ってくれたことは分かるから、そのきざはしには至っていたのかもしれないけれど。
それが叶えば死柄木弔にも勝てていた以上、ライダーはそれが叶わなかったのだとは思う。
ただ、その人に関することは、【もう一人のその人】の記憶を見たという話も含めて、よく知っていた。
その人たちの宝具は、部分的に因果を逆転させ得るのだという。
たとえば鍵の失われた宝箱があったとしても、鍵は「失われていない」ことになる。事件解決の為なら。
だから、英霊の座に繋がるための糸が中途で切れてしまったとしても、糸は繋がったことにする。
一番肝心な【助けを求めて】【応える】手順がないなら、星の一部にはなれないとしても。
でも、そこにいてくれた証なら、たしかに心当たりがあった。
目と鼻の先にいる死柄木弔に見つかってもおかしくなかったのに、渋谷区駅地下まで隠密行動できたりだとか。
マイクや盾をすぐに見つけられた利だとか。そういう、追跡や探索に成功したこと。
実行能力さえそろっていれば、犯罪を犯せる能力と対になる。
実行能力さえあれば、探偵になることができる解明の力。
それがほんのちょっとだけ、導いてくれたのだとしたら。
――指先に力を込めると握り返される。寒さを和らげてくれる暖かさと一緒に。
夢と同じだと思ったことが、確信になる。
なぜ可能だったかは疑問にならない。尋ねない。
-
初歩的で、明白で、明らか。
そのお星さまは、みんなよりも、たった一人を照らしてあげたかったのだから。
そんな人に会いに来ることには、理由は要らない。
熱が抜け落ちていく身体に許された、最後の動作で。
口元を『ふふ』という形にゆがめた。
摩美々だけが知っている渋谷幻霊事件。
ただ、手を取ってくれる人が摩美々にもいたかもしれない、というだけで。
パートナーで、教師で、友達で、お兄さんみたいだった人から。
こんな冷たい最期でも、灯りがひとつ。
ご褒美をもらえた、という気がした。
じゃあ、一緒に会いに行きましょうか。
それとも、捕まえに行くと言った方がいいのかな。
予定調和はない。
あったのは揃いの気持ちだけ。
見渡せば、紫の蝶が舞ってた。
【田中摩美々@アイドルマスターシャイニーカラーズ 退場】
◆◆◆◆◆◆◆◆
緋色の薔薇が愛した紫の蝶は、蜃気楼の中に溶けることを選んだ。
社会の敵になった無敵のピューマは、爪痕を刻むことを望んだ。
少女は口元に人差し指をあててニッと微笑し、輝きの向こう側に隠れる。
男は胸を張って、地獄への階段を下りる。
ランディング・ポイントへと向かって。
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投下終了です
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投下お疲れ様です!!
七草にちか(騎)、死柄木弔 予約します。
また、◆EjiuDHH6qo氏の予約が投下された後、企画主から一つ大切なお知らせをさせていただく予定です。
つきましては氏の投下後の予約については一旦ストップということでお願いできますと幸いです。
氏の作品の内容によっては何もお伝えすることがなくなってしまうかもしれないのですが、その時は改めてご連絡いたします。
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前編投下します
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――ずっと、それだけを探していた。
◆ ◆ ◆
-
「沙都子ちゃんはなんて言って死んだんだ?」
咲き誇る桜の樹海。
それは最早、"開花"により実現可能な範疇を半ば飛び越えていた。
遍く可能性を開花させると宣う界聖杯の地。
そこで得た数多の戦いとこれまでの自己からの解脱。
元々始祖の血に耐え得る素養を持っていた事と皮下自身の意思の強さ。
そして未だ明かされぬままのもう一つ。
要因が絡み合い彼の中に立つ三相合一(トリニティ)。
その結果として今彼は開花のその先に手を掛けている。
宛ら、長い冬が終わり春が訪れるように。
雪の下で踏み締められて来た花が春来と共に花開くように。
「多少なりとも付き合いのあった間柄でね。聞く権利ぐらいはあると思うんだが」
「生憎と、宝物は大事に仕舞っておくタイプなの。教えてやらないわ」
「そりゃ残念だ。只その顔を見るに、あの子なりに満足して逝けたみたいだな」
北条沙都子は死んだ。
古手梨花の熱が彼女の心を覆っていた氷を溶かし、神に歪められた魂を救済した。
だからこそ梨花に後悔の念はない。
敗者への同情は情けに非ず。
精一杯手を尽くして戦い合った末の結末を誇りこそすれど、目を伏せて悔やみ涙する等魅音の部活にはそぐわないノリだ。
離別は済ませた。
魔女の物語は終わり、後はさしずめ後日談。
夜桜の魔女との契約の履行。
その為だけに、古手梨花は今魔人の前へと立っている。
『想像以上ね。此処まで至っているなんて、正直思いもしなかった』
脳裏に響く初代(つぼみ)の声。
彼女の言葉は一切の幸いを保証していなかった。
寧ろその真逆だ。
つぼみは、梨花の目前に立つ桜花の到達点に驚嘆さえしている。
『"開花"の先…"開花春来"にまで至っている。この領域を彼は知らない物だと思っていたけれど――いえ、事実知らないのでしょうね。
力を極め、効率を極め、合理を徹底した末に……皮下さんは自動的に其処まで辿り着いた。ということかしら』
“ごちゃごちゃした話はこの際いいわ。率直に言いなさい、つぼみ”
神剣の贋作。
繰り返す者を屠る剣、その柄を強く握り締めながら梨花は問うた。
“ざっとでいいわ。どの程度出来るの、アイツは”
『先刻の沙都子ちゃんを凌駕している事は間違いないわね』
“…オッケー、了解。つまり状況は最悪って事ね。よく理解したわ”
妄執の果てに異界法則まで掌握するに至った絶対の魔女。
それさえ凌駕するとなれば、最早その戦力はサーヴァント基準で見ても一級に違いない。
ましてやそんな男が最強のサーヴァント…海賊カイドウを従えていると言うのはまさしく鬼に金棒。最悪の悪夢だった。
そんな梨花の表情を察してか、皮下が口を開く。
「つぼみと話してるのか。ズルいな、俺は君の手札を殆ど知らないってのに」
「どの口で言うのよ。あんたこそイカサマの権化みたいな存在じゃないの」
「そう言われると俺も弱い。じゃあバケモノ同士潔く殺し合おうか――と行きたい所なんだけどな。折角だ、これだけ答えてくれないか」
皮下真は紛うことなき怪物である。
彼は夜桜の使徒として、既に一つの極致に至っていると言ってもいい。
初代か。それとも彼女をこの世に産み落とした狂人か。
もしくは最強の名を背負う現世代夜桜の長兄か。
そうでもなければ影さえ踏めない域に達した徒花の化身である。
そして今。彼は、真の怪物に変貌する上で排すべき最後のパーツの切り捨てに掛かった。
「アイツは…つぼみはなんて言ってる?」
-
「…気になるの?」
「おいおい、それ聞くかぁ? 俺は一応つぼみの為に戦ってるんだぜ。当人の意思を聞くのは大事な事だろ。な、霧子ちゃん!」
「えっ――は、はい…。えと、同意無しで手術をしたりすると……最近は、すっごくたいへんな事になったり……します……!」
「……み、みー。霧子の素直さも時には悪癖なのです…」
調子を崩された様子で眉間に皺を寄せ、嘆息する梨花。
とはいえ求められたからには応えようという気持ちもあった。
因縁のある相手とはいえ、元を辿ればこれは依頼された戦だ。
その結果事態がどう転換するにせよ、伝えておくに越した事はないだろう。
そう判断して梨花は精神世界で繋がっている"彼女"へと問いを投げる。
そうして返ってきた答えを、梨花は率直に皮下へ告げた。
「『もう十分です』だって」
「そっか」
皮下はまた笑った。
今度のは不敵でも嘲笑でもない。
困ったような、人間臭い笑顔だった。
街一つを覆うような魔樹の海を繁茂させた魔人が浮かべるには不似合いな、そんな表情であった。
「残念だよ」
落胆の言葉は一つ。
それで以って切り捨ての工程は終わる。
次の瞬間巻き起こったのは、視界中に生い茂った桜の木の更なる異常成長だった。
只でさえ数年数十年を懸けて育つべきサイズだったそれらが倍に、いや更にそのまた倍にと成長を加速させていく。
更にそれらが撒き散らした種子がまた次の桜を生い茂らせ、ものの十秒足らずの内に渋谷を更なる異界へと変じさせていった。
「ッ、これは…!」
単なる桜の海だったならどれ程幸いだったか解らない。
これはそんな可愛げのある物ではなかった。
何しろ全長数百メートルを超える大木から今芽吹いたばかりの幼木まで全てが"夜桜"だ。
接触が死に直結する事は最早言うに及ばず。
降り頻る花弁の一枚に触れただけでもソメイニンの過剰摂取に繋がり得る死の樹海。
「聞いておいて何だが、最初からやる事は変わらない。変わるのは俺の心の持ちようだな」
「あんた…この東京全体を、死の土地に変えるつもりッ!?」
「当然だろ。そろそろこの戦争も潮時だ。総取りしようと考える発想はそう的外れな物でもないと思うが?」
皮下の標的は何も古手梨花だけに留まらない。
この場に居合わせた彼女の友軍の少女二人。
呉越同舟を地で行く境遇の、砂糖菓子の少女とその近侍。
命を燃やして竜王に挑む女武蔵と月の剣鬼。
更には渋谷の街に存在する全生命。
行く行くは東京都全域…界聖杯内界に息づく全ての魂を。
那由多の樹海はこの世界の全てを吸い上げる。
其処に在る"可能性"を、一滴残らず枯らし尽くすまで。
「この戦争は今、終わる」
夜桜事変――最終演目。
夜桜樹海決戦。
人外魔境と化した渋谷は遂に、終局の地へとその姿を変貌させ始めた。
「さあ終わろうぜ古手梨花。亡霊に呪われた哀れな人柱よ。俺がお前のラストステージに付き合ってやるよ」
死が満ちる。
全ての可能性を閉ざす、最大の夢が具現する。
悪夢の病名(みな)は安楽死。
只安らかに、眠るように終わってくれと願う優しい殺意(あい)。
事実この樹海に身を委ねれば。
抵抗を止め、苦しむ事を放棄して蠢く桜に身を沈めれば。
その先にはきっと夢見るように安らかな眠りが待っているに違いない。
二度と覚めない、痛みも喪失も味わう事のない恒久の眠りが。
-
「…そうね。きっともう私は終わるだけ」
霧子とアイには未だ言えていない事だ。
だがきっと、彼女達にも伝わっているだろう。
今の梨花の体は只生きているだけだ。
命を繋ぎ続けているだけ。
嚥下機能を失った老人が胃に穴を開けて栄養を流し込まれ生かされているのに似ている。
そしてそれも――数刻としない内に限界を迎えるのは明らかだった。
未練がないと言えば、嘘になる。
何せ百年もかけて勝ち取った未来だったのだ。
それをこんな所で失ってしまうだなんて冗談じゃない。
本当は泣き叫んででも異を唱えたい。
生に縋り付いてみっともなく暴れたい。
なのに心がこんなに凪いでいるのは、嗚呼きっと。
『"また"ね、梨花』
これで終わりではないと解っているからなのだろう。
終わりは来る。
だが、それは本当の終わりではない。
自分達に限ってはそうなのだと今の梨花は信じている。
だから剣を握れる。
だから――最後までこうして立っていられる。
「けど、此処で終わるのは私とあんただけよ」
親のようで姉妹のようで、そして親友のようでもあった神から託された神剣の写しを力強く握り締めて樹海の主と向き合う。
その体に震えはない。
握り締めた刃に迷いはない。
神剣は今、悲劇を繰り返す者の妄執を断ち切る為に輝きを放っている。
「地獄の底にだって力強く咲き誇る…そんな花を見せてあげるわ。皮下真」
「やってみろよ。出来るものなら」
木々の海が爆裂した。
そう見紛う程の加速的成長は死の津波に等しい。
そんな中に、梨花が立って剣を振るう。
皮下の力はつぼみ曰く北条沙都子の数倍。
沙都子相手にさえ命からがら、奇跡のような幸運で勝利を掴むのが精一杯だった梨花が戦える相手では決してない。
――本来ならば。
「最後よ。つぼみ」
彼女の体に流れる"夜桜"が、皮下真の夢と反目する存在でさえなければ。
古手梨花は一瞬の拮抗すら叶わず押し潰され桜の苗床に変えられていた事だろう。
「後先なんて考えなくていいわ。ありったけ、全部、私に寄越しなさい――!」
モーゼの神話を再現するが如く、梨花の一刀が桜の海を割る。
それと同時に閃いた一閃は皮下本体にまで到達し彼に袈裟の傷を刻み込んだ。
一瞬の瞠目はしかしすぐに納得に変わる。
口端を伝う血を花弁に変えながら笑う皮下。
皮肉なもんだな、と肩を竦めた。
「夜桜の血を此処まで引き出した俺が…今は誰より夜桜に否定されてるって訳か」
-
つぼみの意思は皮下の眠りを望んでいる。
それを血を通じ受け取った梨花は今や、夜桜でありながら夜桜を殺す者と化していた。
彼女の振るう力は夜桜が繁茂する事そのものの否定。
夜桜の否定者(UNBLOSSOM)。
今の梨花を形容するならばそんな所だろうか。
そしてそれは言わずもがな、夜桜を愛する故に立ちはだかる皮下にとって最大の皮肉だった。
――もう。
声がする。
――もう、終わりにしましょう。
下らない幻聴だ。
――もう十分です。ありがとうございました。
だから切り捨てる。
――川下さん。
その余白は、弱さになるから。
「いいさ。アンタすら否定するのなら…俺が代わりに夜桜(アンタ)になってやるよ」
立ちはだかるのは夜桜の否定者。
しかし皮下は流石だった。
反粒子にも等しい天敵を純粋な出力差だけでねじ伏せて桜の版図を拡大させていく。
つまりこれだけの天敵が相手でも戦況は十分すぎる程に互角以上。
皮下の圧倒的優勢という構図は小揺るぎもしていない。
「行くぜ。つぼみ」
「来なさい。バカ医者」
桜花絢爛にして奈落満開。
樹海の戦端は、神話の一頁そのものの劇的さで幕を開けた。
◆ ◆ ◆
-
「轟おおおおおおォォッ!!」
カイドウの咆哮が響く。
それは音圧だけで大地を抉る天災だ。
この男に限って言えば最初から万人の悪夢そのものだった。
皮下のように機を得て化けた訳ではない。
ベルゼバブのように大海を知り異形化した訳でもない。
カイドウはこの聖杯戦争に召喚されたその時から今に至るまでずっと元の形を保ち続けている。
にも関わらず彼が最強の座を譲った試しはなく。
そして今も、彼はその身一つだけを究極の武器として不条理を成し続けていた。
「は…はあッ!?」
武蔵の口から思わず驚愕が飛び出たのも無理はない。
天元の花へ向けて吶喊していた彼は今、空中でその軌道をジグザグに歪めたのだ。
一体どれ程の負荷が生じているか想像も付かない、あらゆる常識を無視した超次元的挙動。
音を置き去りにしながらそんな芸当を成し遂げて来るのだから形容の文句は"最悪"以外にはなかった。
「ウォロロロロロロ!!」
「づ、ッ…!」
カイドウの巨体は二十尺に達している。
その上筋骨隆々と来ているのだから重量も尋常ではない。
そんな生物がデフォルトで音速並の速度を叩き出してくるのは何の冗談か。
速さは重さ。従って音を超える豪打の一撃は、いずれも余さず致死の威力を含む。
「当たり前みたいに反応しやがって。おれの攻撃に初回から付いて来れる奴なんて、あの海にさえそうは居なかったぜ」
「そこはそれ、年の功って奴で一つ。こっちも大概の人外魔境を渡り歩いて来てるのよッ」
武蔵はアルターエゴ・リンボとの戦闘で手持ちの刀剣の大半を失っている。
しかしそれは彼女のコンディションが不完全である事を意味はしない。
寧ろ逆だった。
文字通り後先のない状況で抱えた不具の縛りが武蔵の意識を過去最高の領域にまで研ぎ澄ましている。
だからこそカイドウの息吐くように行う無茶にも体が付いて行く。
目で追える。反応ができる。
梨花から流れ込んで霊基ごと変質させて来る夜桜の魔力も合わさって、間違いなく今この瞬間の真打柳桜は最高の切れ味を発揮していた。
雷切伝説さえ苦もなく成し遂げるだろう桜の一太刀が音を置き去りにする。
カイドウもそれを追って八斎戒を振るい、両者の間に鈍い火花が散る。
傍から見ればさぞや信じ難い光景だろう。
誰の目にも明らかな怪物の巨体から繰り出される剛撃を女の細腕で捌き、あまつさえ拮抗しているのだから。
「ふッ――!」
「…! 速ェな!」
更に太刀の速度だけに限定するならば、武蔵は確実にカイドウの上を行っていた。
最強の名に恥じぬ武芸者であるカイドウだが、彼に刀を持たせたとして此処までの速度と技の冴えは見込めまい。
鮮やかなり天元の花。その刃、異界の皇帝に届く。
八斎戒を伝って走った剣筋が鬼の右腕に一条の傷を刻み込む。
「愉快愉快! こりゃ良い気付け薬になるぜ…!」
然し四皇――豪笑。
羅刹の蹂躙が突き進む。
それは単なる力押しの正面突破、されど彼が行うならば覇者の進軍に他ならぬ。
実際武蔵は至極当然の結果として跳ね飛ばされた。
一瞬の拮抗も許さぬ世界最強の力押しだ。
如何なる技も研鑽も、カイドウは只持って生まれた力だけで踏破する。
そしてその先にこそ、彼が極めた技の数々は存在しているのだ。
-
「"威国"ゥ!」
「づッ――」
空間そのものが爆裂したと見紛う程の衝撃に貫かれて武蔵が喀血する。
咄嗟に剣捌きで受け流したから内臓の二個三個の犠牲で済んだが、直撃ならば胴体が抉れ飛んでいてもおかしくなかった。
しかし武蔵も怯まない、譲らない。
奥歯が罅割れる程強く歯を噛み締めながら、受けた衝撃が引くより速く桜の花弁を吹き荒ばせた。
「――おおおおおッ!」
「蛮勇だな…! だが受けてやるよ、うおおおおおおッ!」
夜桜一閃、相対するは雷鳴八卦。
衝突と共に桃と紫の稲妻が空を裂いた。
純粋な身体能力に限ればベルゼバブの水準さえ超えていると改めてそう確信する。
だからこそ鬼退治、竜殺しとは難業なのだ。
身の丈も力も、何もかも格が違う敵を討ち取るからこその英雄譚。
武蔵は生憎とその手の肩書に興味はなかったが…朋友にそう望まれたならば是非も無い。
「…何!?」
カイドウの一撃が弾かれ、両者の均衡が崩れる。
瞠目する鬼神を前に武蔵は止まらない。
したり顔で戦果を誇るでもなく次を用立てる。
二天一流、限界駆動――十重に二十重に咲き乱れる斬撃の桜吹雪。
要求される剣勢(スペック)は最低水準でも神速。
斬鉄どころか斬神の領域になければ話にならない。
せめてその次元はなければこの鬼は斬れない、この龍は墜とせない…!
「ズ、ぐ…! チィイイイ……!」
刻む、刻む。
カイドウの体から血桜が咲いていた。
完全に翻弄し圧倒している。
新免武蔵が最強生物の命運にその手を届かせている!
鬼が浮かべる苦渋の表情からもその事は明らかで、そしてだからこそ――
「――洒落臭ェぞオオオオオオオオオ!!」
咆哮の炸裂と共に武蔵は轟雷の炸裂を見た。
覇王色の覇気、最高峰まで高められた王者の素養のその爆発。
武蔵の剣も体も震動と共に宙を舞う。
単なる"威圧"でこのレベル。
こんな生き物が曲がりなりにも人に分類され生きて来た事実を彼女が知れば、目玉が飛び出る程に驚いたろうが…
「癪に障ったか、鬼神!」
「応とも! ムカついた――だから雷を落としてやるよォ!」
彼は雷神(ゼウス)等遣わない。
雷雲を手繰る指揮棒にも頼らない。
気候現象としての雷なぞ単なる虚仮威し。
見よ、真の雷霆とは――
「味わえよ"天罰"! "咆雷八卦"ェッ!」
「ッ、…――!?」
――得物を両手で握り振るうもの!
轟いた天罰(それ)の名は咆雷八卦、新免武蔵は其処に確かに天の稲妻を見た。
遥か異聞の全能神が下す雷霆をも知る武蔵をしてその僭称に異議を唱える事の出来ない圧倒的武力の具現。
剣で受け止めただけで視界が白く染まって声が飛んだ。
霊核にまで届く衝撃の震撼に体内を撹拌されながら、唇を噛み潰して意識を保ち武蔵が持ち堪える!
「これしきで天罰とはよく吼えた。見なさいカイドウ、人斬り一人殺せてないわよ…!」
「口の減らねェ女だ。お前モテねェだろ」
「興奮すると龍に化けるデカブツにだけは言われたくないわねッ!」
カイドウの龍化に合わせて鱗を刻む。
だが浅い、此処までなら時を超えた赤鞘の侍達でも叶った戦果。
空へ昇った青龍が熱息を吐き出す。
但し一発や二発では最早ない。
矢継ぎ早、否そもそも矢を継ぐ事さえしない大火球の大乱舞。
恐竜(ディノ)の時代を終わらせた隕石の到来をさえ彷彿とさせる災禍はまさに龍の特権だ。
カイドウの龍鱗から桜が散っているのを武蔵は見た。
やはりと思う。
夜桜の血の恩恵に預かるのは何も、自分だけの特権ではなかったのだ。
「ウォロロロロ! 悪くない気分だ…! 初めて青龍(このちから)を手に入れた時を思い出すぜ……!」
上空に漂いながら哄笑するカイドウ。
その姿から伝わって来るのは漲る欲望。
この界に存在する全てを貪る、海賊の象徴たる感情。
-
――悪竜現象(ファヴニール)という言葉が存在する。
閾値を超えた欲望は生き物を竜へと変生させる。
英雄の仇敵たる邪竜。
愛に狂った巨人の王。
欲するを知った太祖の竜。
いずれの前例も比類なき脅威性を約束している。
カイドウは天性の竜ではない。
神々の地で悪魔の実に巡り合い、それを食らって手に入れた後付けの力。
動物系"ウオウオの実"幻獣種・モデル"青竜"。
それがカイドウの持つ竜化の法の正体だ。
だが。今、再起した孤軍の王は確かに真実の竜王へと変容していた。
ビッグ・マム、ベルゼバブ――並び立つ者達が次々と進化を遂げていったこの地平聖杯戦争にて。
不変のまま最強の座を維持し続けてきた怪物が事此処に至って可能性の開花へ辿り着く。
悪竜現象、発生。
対象者、海賊(ライダー)のサーヴァント。真名をカイドウ。
個体名――"真打竜王"。
柳桜を喰らって世界の全てを我が物にせんと猛る竜王が確かなる顕現を果たした。
-
“…一発一発が重すぎる! まともに相手をしてたらゆっくり消し炭にされるだけね…!”
火球の流星群から逃げる武蔵はそう判断する。
今のカイドウは、差し詰め武蔵がかつて鬼ヶ島で見えた械翼のアーチャーの上位互換だった。
同じ空からの絨毯爆撃でも一撃一撃の威力があまりに異なる。
冗談抜きに今の彼ならば、東京という都市をものの数十分とかけずに一面の焦土へ変えられるだろう。
以前武蔵は空からの制圧にやり込められて敗走した。
だが空に届かなかった訳ではない――やるべきはあの時と同じ芸当だ。
火球で巻き上げられた岩を足場に空へと駆ける。
青龍の玉体に突き立てた刃は錨の代わりだ。
これで体を固定したならば、その上で地の代わりに巨体を蹴って駆け進むのみ。
「思い出すぜ…」
カイドウは苦悶どころか感慨深げに呟いた。
脳裏を去来しているのは光月おでんとの初戦。
完膚無きまでの敗北と失意を味わされた、トラウマの討ち入り。
だがそれも今やカイドウを唆らせる美酒と成り果てて久しい。
決着を果たせず終わったこの世界に値打ち等ないと思っていたが、まさかあのような異形の鬼に真理を示されるとは思っても見なかった。
“ありがとよ黒死牟。お前のお陰で錆が取れた!”
開口するや否や収束していく熱量。
真の魔竜と化したカイドウのそれはもう単なる余技の域にはない。
正真正銘、比類なき破壊力を秘めたドラゴンブレス――竜種の特権だ。
火力ならば既に先刻討った蘆屋道満、その宝具解放をも凌駕している。
これぞ錆を落とし、桜花爛漫に至りし真打竜王。
その真価の発揮を前にして真打柳桜もまた退かず。
「南無、天満大自在天神」
浮かび上がる仁王像は闘志の象徴。
そして武蔵の天眼は、今も変わらず冴え渡っている。
つまりこの戦い方で間違いはないのだ。
愚直に、向こう見ずに…そして無謀に。
生き汚くあってこその新免武蔵だが今だけはそれを捨て去る。
只この一戦の為に一花を咲かす――それこそが此度天眼の示した収斂なれば。
「征くぞ――剣轟抜刀ッ!」
「来い――夜桜の侍ッ!」
-
…無空の斬撃。
竜王の吐息。
二つの力が激突する。
迸る衝撃波は理をねじ伏せ、世界を無辺の白で覆った。
焼き尽くされた地表が露わになったその時、地に立っていたのは二つの影。
片や新免武蔵。
全身を血塗れにしながら、息を乱してそれでも立っている。
片やカイドウ。
胸に袈裟懸けの巨大な刀傷を追加され、鮮血を撒き散らしながらそれでも立っている。
彼らは共に怪物なのだとこの光景を見れば誰もが理解しよう。
人でなし、人で無し。
ましてや刻まれた傷が花に覆われ緩やかながら回復していく光景は何の冗談か。
「鬱陶しい血だな」
「其処については同感です。味方にしても敵にしても厄介具合がとんでもないもの。良薬と呼ぶにもちょっと苦すぎるわね」
まさにこれぞ人外魔境。
最終決戦と呼ぶに相応しい地獄絵図だった。
地獄が只悍ましいだけのものと誰が決めたか。
此処に絢爛と咲き誇る地獄は途方もなく美しい。
焼け爛れた大地から芽吹いては瞬時に地上を満たす夜桜の樹海。
此処もまた、夜桜樹海決戦――ある男と女の因縁の帰結の一形態なのだ。
だが。
「てめえも流石のタフさだな。立ち上がるだけでも地獄の激痛の筈だぞ」
その因縁に並び立たんとする月輪を、先の一瞬にカイドウも武蔵も見ていた。
無空一閃と竜王の吐息が激突して世界が消し飛ぶ刹那の一瞬。
桜舞う真昼の白夜に瞬く月が確かにあった。
相殺にまで持ち込めたのは彼の横槍もとい援護あってこそ。
そうでなければ武蔵は押し負けて、今より遥かに多大な痛手を被っていた事だろう。
――割り込んだ月の号は上弦の壱。
かつて確かにそう呼ばれていた、人喰いの剣鬼であった。
「粘り強さも親譲りか? ウォロロロロ…!」
「――『其奴』の事等…どうでも良かろう……」
正々堂々の正面対決で敗れた男が再び未練がましく立ち上がる等侍としては間違いなく恥であるに違いない。
然し恥じぬ。
然し、悔いぬ。
そして省みぬ彼の佇まいは無慙無愧。
「無粋は無用…等とは、この期に及んで言うまいな……二天一流………」
「勿論。但し首級は早い物勝ちよ」
それは再演のようでもあった。
朝日が昇る以前の死闘。
猛る混沌を前にして、確かに彼らは轡を並べ戦った筈だ。
あの時は三人だった。
けれど今は二人だ。
神に愛された最上の剣士は夜明けと共に消え。
今は昼に咲く夜桜と、陽融に至った剣鬼があるだけ。
然し敵は毛程もかの混沌に劣らない。
絶望を煮詰めた鍋の中と見紛うような地獄を前に、二人の剣士は堂々立っていた。
「火祭りがてらの討ち入りか。死ぬぜ、てめえら」
「「上等」」
二つの鋒を向けられながらカイドウは笑う。
破顔一笑、歓喜の極み。
取り出された酒瓶の中身を一息に傾け取り込みながら…最後の皇帝はとうとう全ての力を解放する事を宣言する。
「ウォロロロロロ! ならば良し――来いよガキ共ォ! 生煮えの肴で終わんじゃねェぞ…!? 煮えてなんぼの、だからなァ!!」
此処は火祭り。
美しき地獄。
強者達の踊る――魔境なり。
◆ ◆ ◆
-
「クッソがア〜! どうなってんだこりゃあよオ!」
夜桜の樹海の中を駆けるのは古手梨花だけではなかった。
ライダーのサーヴァント、デンジもまたエンジンを吹かしてその電刃を嘶かせている。
彼個人の火力ではこの樹海を全て伐採する等気の遠くなる話だ。
彼の中に眠る"悪魔"を引き出したとて正面突破は不可能だろう。
恐るべしは皮下真。春来に至りし夜桜の魔人。
個人の努力と準備の二つだけで、彼は今サーヴァントさえ容易には抜け出せない運命の袋小路を現出させている。
この樹海の厄介な点は、生えている全てが夜桜…即ち皮下の手足のような物である事だった。
己の体内に蔓延る敵性分子を静観などしてくれない。
白血球の役割を果たすが如く、枝葉を伸ばして蔓を張りその命を絡め取らんとして来る。
デンジはその対処に追われていた。
サーヴァントならば仮に桜に捕まっても抜け出す目は有るだろうが、マスターのしおやその他少女達はそうも行かない。
良くて即死。
そうでなくとも忽ち全ての精気を吸い尽くされ、永遠に桜と同化させられるのが落ちだ。
「きれいだね。お花がふわふわひらひらしてる」
「お花見気分たぁいいご身分だなクソガキ! …色気出さないで下がってろよ、霧子さんも動かないよーに!」
「は、はいっ…!」
だからこそ梨花だけでなく外野のデンジもこの通りの獅子奮迅。
阿修羅もかくやの勢いで手近な木々を伐り倒し、奇しくもチェンソー本来の使い方を披露していく。
そんな彼の事を霧子は不思議な物を見るような眼で見つめていた。
相棒への視線に気が付いたのか、しおがおもむろに口を開く。
「らいだーくん、ああいうひとだから」
「…そうなんだ……。優しい人なんだね、しおちゃんのらいだーくんさんは……」
下心の塊のような男だが、この切羽詰まった状況ではそうした諸々を抱えている暇はないだろう。
それでも彼はごく自然に幽谷霧子という少女の事を守るべき対象に含めていた。
一時の休戦を結んでいるとはいえ、皮下とカイドウが消えればすぐにでも殺害対象に変わる筈の少女の事を。
「ホントはね。らいだーくん、人なんて殺したくないんだよ」
しおはそうやって知った口を利く。
けれど彼女はもう十分にデンジという男の人となりを知っている身だ。
一ヶ月間同じ釜の飯を食い、遊び、死線を共にした相棒。
だから分かる。どんなにぶっきらぼうで滅茶苦茶でも、デンジの根底にある物はきっと善性だ。
彼はヴィランなどではない。
彼はきっと、ヒーローの方が向いている男なのだと。
「こうやって誰かのことをたすけて…まもって。それでちやほやされた事を寝る前にベッドの中でおもいだして、ニヤニヤして」
「……」
「おいしいものを食べて、ゲームで遊んでまんがを読んで。たまにえっちな女の人のことを考えられればそれでいいの。たぶんね」
デンジがヴィランをやっている理由。
無限大の不幸を振り撒く魔王と背中を並べて戦っているその理由。
それは、神戸しおが彼にそうある事を望んでいるというそれだけでしかない。
霧子にしてみれば今のデンジは"らしくない"風に見えるだろうが本来の彼の気風はこれなのだ。
誰かの為に立ち上がって血を流す人界のヒーロー。チェンソーマン。
堕天使の呪いさえ無ければ彼はきっとこの世界でも多くの命を救った事だろう。
「しおちゃんは…らいだーくんの事、だいすきなんだね……」
-
「…わたしが? らいだーくんのことを?」
「うん…。だってあの人のことを話してる時のしおちゃん、なんだか……とっても、楽しそうだから……」
「…たのしそう…」
そう言われて次に困惑するのはしおの方だった。
彼女は敵連合の片翼だ。
今や残っているヴィランは彼女一人。
けれど驚いたように口元に手を当てて、自分の表情を確かめる姿はとてもじゃないがそんな剣呑な人物には見えなくて。
「らいだーくんは友達だから、間違ってはないのかもだけど」
「だけど…?」
「私がすきなのはさとちゃんだけだよ。だかららいだーくんのことは、すきじゃないとおもう」
「ふふ…」
何故笑うのか。
むっと眉を顰めるしおに、霧子は。
「友達でも…大切な人でも……"すき"は"すき"で、いいと思う………」
「――そういうものなの?」
「うん、きっと…。だって……友達なのに嫌いって、好きじゃないって……ちょっと、不思議じゃないかな……?」
「…うぅん。言われてみたら、そうかも」
そうしている姿はまるで、患者の女の子と看護婦が交流しているようだった。
諭されてしおは奮戦するデンジの方を見る。
思えば色んな事をして過ごしてきた。
さとちゃんの部屋にはなかったゲーム。
味のやたらと濃い手料理。
言葉遣いも下品なのに何故かそれが嫌じゃなかった。
デンジは、自分をずっと守ってくれた。
本当は誰かを殺したりなんてしたくないのに自分のわがままに付き合ってくれた。
そっか、としおは思う。
「らいだーくんは友達で」
愛は大切な誰かに捧ぐもの。
何を犠牲にしても愛の前では全てが許される。
愛しているのならやっちゃいけない事なんてこの世にはない。
だけど――
「そんならいだーくんのことが、私はすきなのか」
愛しているのと好きなのは似ているようで違う。
その二つは両立してもいい。
敵の少女にそう教えられて、しおは何だか自分の中にずっとあった気持ちに名前が付いた気がした。
松坂さとうへの恋情とは間違いなく違う形の好意。
それを定義するならばきっと友情とか信頼とかそういう言葉になるのだろう。
唯一無二の愛を抱えながら、付き合いの長い相棒への"好き"を自覚して。
神戸しおという少女の持つ可能性がまた一つ拡張を迎えたその刹那、彼女と霧子の傍を黒い影が一つ跳んだ。
「…! アイさん……!?」
「ごめんなさい、霧子…! でもっ、アイさんも……! 皆の為に何かしてあげたいからっ」
アイ。虹花の生き残り。
負けて死ぬ筈だった皮下に可能性を与えてしまった少女。
アイは優しい娘だ。
今もう一度あの時に戻れるとしても、彼女は結局悩んだ末に皮下へ手を差し伸べてしまうだろう。
そんな彼女の心にあるのは負い目だった。
自分があんな事をしなければ、霧子も梨花もこんな戦いをせずに済んだのにという罪悪感。
-
そしてもう一つは――所業はどうあれ。
その本心はどうあれ、かつて自分を救ってくれた男に対する温情であった。
アイの言う"皆"の中には皮下真も含まれている。
今や手の届かない所にまで行ってしまった恩人。
化物のように成りさらばえてアイには理解の及ばない何かを成し遂げようとする彼のその姿があんまり哀しく見えたから。
だから止めたいと願い、拳を握って大地を蹴ったのだ。
デンジの切り残した桜、今まさに枝を伸ばさんとしていたそれを飛び蹴りで力任せに蹴り倒す。
それからアイはデンジと背中合わせの形で並び立った。
「…オイ、霧子さんが困ってんだろうが。ガキは戻ってろよ」
「アイさんガキじゃない。アイさんはアイさんだもん。ガキって言う方がガキなんだもん」
最後の虹花が徒花となって咲き誇る。
全ては方舟を――自分に明日を見せてくれた大好きな人達を助ける為に。
ちっぽけな善性と漲る力を胸に、アイは今こそ立ち上がったのだ。
「アイさん、しおは怖いから苦手。でも今は仲間だから、霧子もしおも二人とも助ける」
「…、まあ其処は同情するけどよ。アイツちょっとサイコ入ってるからな、正直俺もたまに怖ぇもん」
お前はああはなんなよ。
そう言ってまた桜の木を切り倒すデンジ。
何言ってんだ俺は、と自嘲するが吐いた言葉は戻せない。
“近々殺すガキに未来の話かよ。我ながら最悪の趣味だな”
その感情に名を与える事はしおへの裏切りになる。
だからデンジは湧いて出た自嘲をかき消すように刃を振るった。
そんな彼を援護するべくアイも身を躍らせる。
適合率では他の虹花に劣るがそれでも貴重な成功例の一つだ。
単なる力押しでどうにかなる局面に限って言うならば、夜桜への反逆者として十分に成立し得る。
「このままやってても埒が明かねえ。隙見て皮下の野郎ブッ倒そうぜ」
「うん! やっつけよう、ぶんぶんさん!」
「…一応聞いとくけどそれ俺の事か?」
「? そうだよ?」
「…………」
「イヤそう!?」
共同戦線は此処に成立。
桜の木々をチェンソーと人狼が伐採する。
その光景を遠目に見ながら、魔人は迫る否定の桜と相対していた。
-
「アイの奴が此処まで生き残るってのは予想外だったな。真っ先に死ぬと思ってたが」
桜花は常に満開を保ちながら梨花へ向けて咲き乱れる。
万一にでも貫かれれば内側から侵される暴食の魔桜。
それを梨花は臆せず正面切って切り祓う。
宛ら巫女が魔を祓うため鍬を振るうが如く。
綿流しの奉納演武を再現するように梨花は踊り舞って魔人の調伏に臨んでいた。
「俺の造った虹花ははぐれ者の集団でな。ある者は人格、ある者は境遇。兎にも角にも人とは最早足並みを揃えられない連中の集まりだった」
「胸糞悪い話なら御免被るわよ。あんたがアイの大切な人に何をしたのかはこの眼で見てるんだから」
「まぁ聞けよ。年寄りの自分語りには黙って耳を傾けるもんだぜ?」
一歩踏み込んだ梨花を出迎えたのは炎の渦だった。
「アイは死んだ連中に比べれば落ちこぼれだった。悪くもないが良くもない。抜きん出た物は持たない、凡庸な成功例の一つでしかなかった」
亡き虹花の一人。
炎に灼かれ全てを失った少女の花が再生される。
燃える海(フィルル)。
炎を噴く桜という常識外れの開花が古手梨花を呑み込みその体を焼き焦がしていく。
「だがどうだ。アイツは只一人生き残り…この俺の運命をさえ変えてみせた。
そして今は電ノコ頭と並んで立派に俺の敵をやってる。
命を救われた事に俺が感謝した所で薄ら寒いだけだが、正直かなり感銘を受けたよ。
そして確信した。この界聖杯はこと誰かの可能性を培養する土壌としては間違いなく唯一無二だ」
それでも不動の梨花に「それでこそ」と皮下は笑う。
何しろ彼女が宿すのは経年と共に薄れた血等ではない。
自分の身に流れるのと同じ、正真正銘初代の血だ。
たかだか紛い物の夜桜に――あの美しい桜(つぼみ)を枯らせるものか。
「俺に言わせりゃ千載一遇の好機だ。此処で本懐を果たす。つぼみを終わらせて俺も歩みを止める」
「勝手に浸ってんじゃないわよ、女々しい男ね…!」
「ちょっとは浸らせてくれよ。旅の終わりの清々しさは解って貰えるもんだと思ったが」
出力は臨界点を突破。
再生の開花を持っていなければ純正の夜桜でさえ自壊するだろう出力の炎海が地上の太陽となって膨張する。
生半な炎なら力任せに突破されてしまうのは承知の上。
ならば焼死でさえない最高火力で蒸発、融解させてしまえばどうか。
そんな皮下の一手は事実梨花にとっても致命的なもの。
まともに呑まれればまず間違いなく血ごと死滅する…その認識があったからこそ梨花は尚更臆さなかった。
「逃げてみるか? それでもいいぜ。その時は後ろのあの子達に向けて思い切りこれをぶん投げるだけだ」
「でしょうね。あんたがそういう事平気で出来る男なのは私もよく知ってるわ」
「あぁそう。なら見せて呉れよ、此奴は復讐鬼の炎だ――血肉の一滴まで憎悪し呪う業火をどう凌ぐ?」
梨花は答えなかった。
窮したからではない。
形にしてそれを示す為だ。
前へ踏み出し、柳桜を振り上げる。
この期に及んで古手梨花が至ったのは奇しくも皮下のと同じ発想。
即ち、血の濃さに物を言わせた強引な事この上ない力押しだった。
-
血管を漲り巡るソメイニン。
心臓が弾けそうな程に痛み、脳の血管がブチブチと断裂しては片っ端から再生を繰り返していくのが解る。
如何に夜桜と言えど此処まで無茶をして無事で済む筈もない。
直にツケを払う時は来るだろう。だがそれは、今じゃない。
「憎悪だの呪いだの…そういう意思(モノ)の相手はね、もういい加減慣れてんのよッ!」
梨花の振るう鬼狩柳桜は贋作だ。
夜桜の血を基に構築し現出させた偽りの神剣。
その実態は超高濃度のソメイニン集合体である。
討つべき皮下との直接対決と言う状況も手伝って、つぼみとの同調は後先を顧みない最高状態。
ましてやつぼみは彼の"夜桜"を許容していない。
従って今、柳桜は絶対の魔女の前日譚と激突した時のそれとは比較にならない威力を含有しており――
斬(ザン)、と音を響かせた。
両断される大火球。
復讐鬼の炎を再生した小型太陽が切断されて空に還っていく。
本来ならば有り得ぬ威力だがしかし両者共に驚かない。
彼らは互いに夜桜の使徒。
この血が引き起こした事象に対していちいち驚いていては身が保たないと知っているからだ。
梨花の追撃が空を滑る。
皮下は右腕を硬質化させ、金属に変えて応戦した。
結果は大方の予想通り。
夜桜殺しの神剣は一瞬の拮抗も許さずに殺人鬼の開花を粉砕する。
行ける。
殺せる――梨花はそれを確信した。
だが。
「焦るなよ。勝負は始まったばかりだぜ」
その足が文字通りの意味で凍る。
いやそれどころか脛へ、膝へ、腿へと伝わっていく凍結。
今の梨花にとってそれは決して破れない拘束ではなかったが、一瞬足を止められてしまうのは避けられない。
この次元の戦闘では、その一瞬が十分過ぎる致命傷になる。
奇しくも先の梨花がしたのをなぞるように踏み込んだ皮下の手が――再生した有機合金の腕が少女の頸動脈を切り裂いた。
「ッ…!」
噴き出す鮮血がすぐさま桜に変わっていく。
次いで炸裂したのはシンプルな前蹴りだった。
しかしそれも夜桜の力で放てばダンプカーの衝突にも等しい衝撃になる。
骨と内臓が砕ける感触に悶える梨花へ次に襲い掛かったのはまたしても炎。
但し今度のは猛る炎海ではなく…殺人鬼の凶刃を覆う膜(ヴェール)という形で。
「大した剣だ。其奴の前じゃクロサワの刃もナマクラだな」
実際、直接戦闘に限って言うなら不利を被っているのは寧ろ皮下の方だ。
梨花につぼみが憑いている以上、大源(オリジナル)である彼女と夜桜の力で張り合うのは無理難題にも程がある。
皮下の得意の戦術である体内にソメイニンを流し込む手も通じず、しかし相手の神剣は夜桜への特効として覿面に利く。
「なら力競べはやめにしよう。こっちは"速さ"だ」
-
数合の攻防で出た結論。
真っ向勝負に固執するのは消耗するだけだ。
なるべく激突を避けながら一方的に削っていくのが望ましい。
皮下の腕が消える。
葉桜等とは訳が違う本物の夜桜によって再生された殺人鬼の開花、それによる腕の伸長の速度は今の梨花でも捉えられる物ではなかった。
「く、がッ…!?」
刺す。
只管に刺す。
樽に海賊を入れて突き刺す玩具宛らに梨花の全身を穿っていく。
刺傷と、その度に肉骨内臓身体の全てを等しく焦がす炎熱。
只でさえ残り少ない余命を削り取るに足るだけの破壊が梨花を苛むが、皮下は一切手抜かりをしない。
「な、めんじゃ…ないわよ、ッ……」
柳桜を千切れかけの腕で振り上げて皮下の凶刃を砕いた梨花。
いざ反撃に転じようとした刹那、しかし。
「――ごッッ!?」
彼女の細身が拉げながら線になって真横へ吹き飛んだ。
梨花の眼球が一瞬完全に白目を剥く。
夜桜でなければ確実に即死。
体の原型すら失って然るべきだろう超質量の直撃だった。
「カイドウに学んでみたんだが…こりゃ良いな。道理であんなアル中が強ェ訳だ」
その正体は彼が零した通り、カイドウに学んだ速さ×重さの相乗効果の賜物である。
ソメイニンの過剰生成で体の質量を尋常ならざる域まで膨張させ、それを出来る限りの最高速度で梨花にぶつけた。
質量増加の過程を除けばやっている事はカイドウの"雷鳴八卦"とそっくりそのまま同じだ。
なるだけ強い威力を、なるだけ速く相手にぶつける。これだけ。
しかしほんのこれだけで、なんて事のない通常攻撃が必中必殺の大火力に化ける。
「が、ッ…! はぁ、はぁ、はぁ……!」
「おっ。やるじゃんか、今のを受けてまだ立てんのは流石だな」
火葬だ氷葬だと生易しい手段に訴えるつもりはない。
フラつきながら立ち上がった梨花を、皮下は真上から叩き潰した。
「ならもう一回だ。死ぬまで同じ事をさせて貰う」
常にトップスピード。
常に最高重量。
名付けるならば夜桜八卦。
これが、彼の編み出した夜桜殺しの殺し方であった。
梨花は皮下の速度に対応出来ない。
反応が追い付かなければ、流石の柳桜も単なる棒切れだ。
「役者が足りないんだよ。つぼみの本気を扱いこなせる人間なんて居る訳がない。
たとえ君じゃなくたって…本家の夜桜どもだってその筈だ。
親友との決着の為に契約する悪魔としてはなかなか良いチョイスだったが……」
次はもう立ち上がるのを待ちすらしない。
宣言通り死ぬまで叩き続ける。
それで終わりだ。
「俺にまで勝てると思い上がったのは早計だったな」
古手梨花は北条沙都子と戦って死ぬべきだったのだ。
友と共に、眠る。
つぼみの誓いなど喧嘩が終わった時点で反故にしてしまえば良かった。
そうすればきっと…こんな蛇足のような無様な死を遂げる事もなかったというのに。
「さよならだ、最後の夜桜。君を最後にして…この呪われた血は終わる」
訣別の言葉と共に皮下は異形に歪んだ半身を振り上げる。
其処に籠もっていた感情は不思議と嘲笑ではなかった。
自分の眠りを望んだつぼみの良心、それを背負って現れた最後の桜花。
彼女に対して向けた感情の意味はきっと皮下にしか解らない。
解らないまま、全てが終わる。
安楽死の夢が奇跡の花を潰す。
今、その時は無情にやって来て――
-
「梨、っ――」
確定されようとした結末。
それに否を唱えるが如く、小さな黒い影が跳んだ。
それは本当にちっぽけな影だった。
大局を変える筈もない、皮下に届く筈もない…紛い物の桜。
「――花ああああああっ!!」
だが今、またしても少女の勇気が未来を変える。
皮下をして予想外の介入は跳び蹴りという形で炸裂した。
振り上げていた半身を真横から蹴り付けた少女の名前は――
「…アイ……!?」
――アイ。
虹花の最後の生き残り。
皮下を助け、そして今は彼の敵を助けた葉桜の少女だった。
彼女はNPC…ノンプレイヤーキャラクターである。
可能性等一つも持たずに生まれた少女は今、自らの意思でこの可能性の怪物へと反撃を果たしたのだ。
「バカだな、本当に。折角見逃してやったのによ」
「かわした、さん――」
「今更お前なんかが出て来てどうにかなると思ってんのか?
黙って霧子ちゃんの護衛でもしてるんだったら、もう少し長生き出来たろうに」
攻撃は予定通り続行された。
壮絶な轟音が響き渡り、梨花の居た座標は見るも無残な有様だ。
小蝿でも振り払うように振るわれた炎刃は避けられたがだからと言って何も変わらない。
葉桜適合者の残りが今更顔を出した所で皮下には何の問題でもないのだ。
しかし。
「ゴチャゴチャゴチャゴチャ言ってっけどよォ〜〜…」
ぶうん、と。
その考えを切って捨てる音が響いた。
白塵の中からシルエットが浮かび上がる。
其処に居たのは神戸しおのライダーと。
そして…彼によって腕にチェーンを結ばれ引きずられ、間一髪の所で圧死を免れた古手梨花の二人だった。
「どうにかなってんじゃねぇかよ。それとも眼に花咲いてっから見えねぇのか? あ〜〜?」
「…マジか」
アイに限らず葉桜適合者の戦力はたかが知れている。
少なくとも開花した夜桜の敵ではないし、そんな程度の雑兵が今更人外魔境の決戦に一枚噛める訳もない。
現にアイは完全な不意打ちを果たしたにも関わらず皮下の攻撃を止められなかった。
攻撃自体は止められず――微かに軌道を逸らすだけが精一杯だったのだ。
「ぶんぶんさんすごい! 梨花を助けてくれてありがと!!」
「おう。アイさんもナイスだったぜ、見ろよあのバカ医者の顔! 鳩が豆鉄砲食ったみてぇな顔してんぜ、ギャハハハ!!」
しかしその僅かな逸れがデンジの救援を間に合わせた。
彼は古手梨花の救出を果たし、皮下の攻撃は空振りに終わり。
一方的に締め括られる筈だった戦端は予期せぬ延長を喰らった。
花咲く事のない葉桜が、満開の夜桜に一泡吹かせたのだ。
「しおを守ってなくていいのか? この樹海は俺の支配下にある、その気になればすぐにでも殺せるぞ」
「テメェを先に殺しちまえばいいだけだろ。態度のでけえ命乞いだな」
ぶっきらぼうな物言いだが彼の人となりは既に割れている。
いざとなれば死ぬ気で助けるのだろうし、その算段がある上で前線に出て来たのだろう。
後先考えず令呪の使用を考えているのだとすれば愚かだが、はてさて。
-
「不器用な奴だな。同情するぜ、ヴィランの似合う質じゃないだろお前」
「…いいか。俺ぁな、二度とあのクソデカバケモンと戦いたくねーんだよ。テメェブチ殺せばあのデカジジイも消えんだろ?」
「奇遇だな、俺もお前ん所のボスとは死んでも関わりたくないと思ってるよ」
皮下真が最も警戒している事。
それは言わずもがな、死柄木弔の介入だった。
死柄木の能力は恐らく夜桜と最悪レベルに相性が悪い。
細胞分裂も変化も再生も、恐らく崩壊の直撃一つで塗り潰される。
出来るならあの魔王の相手はカイドウに任せたい。皮下はそう考えていた。
何せ死柄木が適当に放った力の余波でさえ最重要の警戒対象だ。
魔王の異能は都市一つ等容易に呑み込み破壊する。
万一それに巻き込まれでもすればさしもの皮下も再起の手立ては無い。
彼がこの場に来ないという事は、つまり今この決戦の裏で連合と方舟の最終決戦が行われているのだろう。
“とはいえ僥倖だ。死柄木はカイドウと方舟を天秤に掛けて、方舟を選んでくれた”
その判断は理解出来る。
皮下が彼でも同じ判断をしていた。
カイドウは確かに強力無比だが、彼が聖杯戦争を終わらせる為にはあくまでも交戦という物理的なプロセスが必要だ。
しかし方舟にはそれがない。
聖杯戦争を破綻させる手段の具体的な曰くが解らない以上断言は出来ないが、彼らは恐らくそうした段階を踏まずに事を実行出来るのだろう。
断言しよう。
彼らは立派な脅威だ。
対話を踏むという発言は根拠保証のない妄言であって信じるに値しない。
戦場において性善説ありきの考えをする程愚かな事はあるまい。
よしんば本気で言っていたとしても、彼らが何らかの理由で心変わりを起こしたなら最悪その時点で全てが破滅するのだ。
聖杯を狙う考えがあるならば、方舟は間違いなく最悪のパブリックエネミーだった。
故に死柄木には感謝せねばならない。
少なくともこれで、決戦の傍らで出港されて卓袱台返しを喰らう事だけはなくなったのだから。
「クソガキ共の王様がやって来る前に片付けなくちゃな。因縁も、障害も…全部」
嘆息と共に皮下の瞳が妖しく光る。
アイは兎も角デンジの乱入は皮下にとっても多少厄介だ。
てっきりしおの護衛に徹する物と思っていたが、こうなった以上は手立てを隠す意味もない。
巻きで行こう。
全てを終わらせる力は既にこの手中に収まっているのだから。
-
『――いけない』
最初にそれに気が付いたのはやはりと言うべきか梨花の中に眠るつぼみだった。
次いで梨花が怖気に全身の毛穴を粒立たせる。
肌を刺すような感覚の正体は殺気ではない。
致死量のソメイニンと適合し、生身でソメイニンの波長を感じ取れる程に深く夜桜化しているからこそ感じ取れる破滅そのものだ。
「何よ、これ――桜が…夜桜が、哭いてる……?」
世界そのものがソメイニンに包まれたのかと錯覚する程の、噎せ返りそうな桜の兆しだった。
渋谷一帯を…ともすればその外にまでも版図を広げているかもしれない夜桜の樹海。
それを構成する桜の一本一本が含有するソメイニンの濃度が天井知らずの上昇を始めている。
“つぼみ! これは――”
『…そう。結局あなたは其処に立ち返っていくのね、川下先生』
“ッ、解るように説明して! アイツ、この期に及んで一体何をやらかすつもりなの…!?”
そしてそれは皮下本体も同じだった。
人の形をした桜がよりその純度を増していく。
彼と似通った肉体の組成に変生した梨花だからこそ解る事だが、あれ程夜桜に過剰適合して只で済む筈がない。
いや…そもそもこれまでだっておかしかったのだ。
幾ら何でもやっている事が無茶苦茶過ぎる。
都市一つを覆う樹海の形成なんて明らかに夜桜一人で成せる所業の範疇を超えている。
これだけの無茶をすれば肉体が血に耐え切れず崩壊し、梨花と同じく――いやともすればそれよりも早く力尽きるだろう事は自明であった。
にも関わらず此処で更なる無茶苦茶に打って出るその理由。
梨花は何度目か、雛見沢分校の部活を思い出していた。
人が後先を棄てた大勝負に出る時、其処にある狙いは大抵一つだ。
――後も先も必要ない程明確な勝利を狙うからこその、有り金全賭け(オールイン)。
皮下は此処で全てを決めるつもりだ。
今から彼の正真正銘、本命の策が花開くのだと梨花には解った。
『――種まき計画』
皮下真の願いは変遷している。
死に瀕して真の願いを自覚し、彼は愛を抱いて花開いたが。
何の因果か彼は全ての大詰めに、踏み越えたかつての悲願へ立ち返った。
『この街を満たした全ての夜桜を破裂させて…超高濃度のソメイニンを世界全域に拡散させる』
「…は?」
渋谷に形成された樹海。
それを構成する桜の数は現在数十万本にも達している。
皮下が鬼ヶ島計画の過程で生成して来たソメイニン、葉桜、その全てを取り込んで創生した異界が今の渋谷区だ。
そんな数十万の夜桜を一斉が炸裂したならどうなるか?
皮下によって生み出され土地そのものを糧に培養されて増殖した妖花が、これまでこの界聖杯内界に存在していた総量を数十・数百倍上回るソメイニンを大気中に解き放つ事になる。
ほんの僅か取り込むだけでも体に重篤な異常を来たす"夜桜の血"が。
無差別に見境なく、大気という人間にとって必要不可欠な要素を介して万人を超人に変えるのだ。
適合出来なかった場合の拒絶反応や予後の全てを顧みず、桜の種子は東京都内に存在する全ての人間を強制的に進化させる。
『川下先生は――全てのマスターを夜桜(わたし)にするつもりよ』
万有、残らず夜桜(カミ)と成り。
そして世界は速やかに滅亡する。
-
以上で前編は終了となります。
残りも期限までには間に合わせます
-
続きを投下します
-
異様な光景が広がっていた。
立ち並ぶ二人の人斬り、剣の極み。
それと相対する巨鬼が酒瓶を傾けているのだ。
ごきゅごきゅと喉を鳴らしながら酒を呑み干す姿は宛ら大江山伝説の再現か。
やがて鬼が瓶から口を離し、酒臭いおくびを漏らして口元を拭う。
「死合の最中に…宴に興じるとは……。挑発のつもりか……それは……?」
「あ、そういうの気にするタイプなんだ。お侍様って感じねお兄ちゃん」
放り投げられた空の酒瓶がからからと宙を舞う。
「心配すんなよ。弱くなりゃしねェ…見てろ、見てろ。来るぞ、来るぞ来るぞ来るぞ――」
酒瓶が地に落ちて。
からんと音を立てて割れた時。
カイドウが蕩けるように笑った。
「――来た」
…その瞬間に起こった出来事を、黒死牟も武蔵も説明出来なかった。
カイドウの姿が刹那にして消失。
それを認識した瞬間には、新免武蔵の五体が遥か後方に消し飛んでいた。
血の気等失せて久しい鬼の体に戦慄が走る。
咄嗟に構えた刀が虚哭神去ではなくワノ国生まれの大業物だった事は彼にとって幸運だった。
「が………!?」
そうでなければ此処で炸裂した大衝撃。
先刻味わった物より更に上の怪力が、刃を粉々に砕いていたに違いない。
目視不能の速度から繰り出された一撃は当然のように威力を跳ね上げていて。
剣豪達が今しがた炸裂した理不尽への理解を漸く追い付かせた所で、カイドウは咆哮した。
「――ウィ〜〜〜〜〜! 久々に気持ちの良い酔いが来たぜ…こりゃ良い宴になりそうだ! ウォロロロロロロ〜〜!」
それは場末の酒場で悪酔いする遊び人のような、風情もへったくれもない歓喜の叫びであったが。
「ふざけた…男め……」
「えぇ、全く同意見。何が一番ふざけてるって、アレで――」
武蔵には解る。
黒死牟も同様だった。
「バカみたいに強くなってる。先刻よりもずっと」
視界に映るその巨体。
肌で感じる、その覇気。
カイドウという怪物が放つありとあらゆる強さが、根拠も理屈もなく増大している。
「強くもなるさ。おれァ…お前らみたいな気骨のある敵を待ってたんだ」
敵の攻撃をわざと受け入れ推し量る悪癖。
己を討てる器でないと解れば途端に冷めて叩き潰す二面性。
図体と強さに見合わぬ繊細さ、興が乗った時に見せる加減なしの強さ。
その全てを乗り越えた先にこそ、カイドウが真に怪物と呼ばれる所以がある。
神の写し身とさえ互角に戦い、あまつさえ討ち果たしかけた剛力の化身。
「付いて来いそして魅せてみろォ! 振り落とされたら殺しちまうぜ、ウォロロロロロロロロロ――!」
酒龍八卦。
真の竜は酒で眠らず寧ろ猛り狂う。
突撃するなり走る覇王色の稲妻――剛撃が討ち入りの主役達を襲う。
「上等だと、言った筈よ…!」
武蔵、黒死牟それぞれが竜の哄笑に剣で応じた。
放たれた衝撃をいなしつつ感覚を研ぎ澄ましてその速度に適応を試みる。
簡単な話ではないが出来なければ死ぬだけだ。
-
これは竜王主催の盛大な火祭り。
主役を喜ばせられない役者は蹴落とされるのみと相場が決まっている。
「…、……!」
月の呼吸・弐ノ型――珠華ノ弄月。
三つの連なる斬撃が竜を囲む檻を創る。
が、無論この怪物は弄月等と風流な趣向に付き合ってくれる見世物ではない。
「フヒャッ、フッヒャッヒャッヒャ! 何だそりゃ爪楊枝かよォ!? おれを笑い死にさせる気か六つ目野郎! ヒョホホホホホ!!」
笑い上戸。
ケタケタと巨体を揺らして笑いながら月の斬撃をバキボキと破壊していく姿は異様な事この上ない。
挑発を聞き流す黒死牟ではなかった。
いや、これは挑発ですらない。
本当に腹が千切れそうな程愉快だから笑っているのだ。
己の剣が物笑いの種に堕ちている事実が黒死牟の剣を更に鋭く研ぎ澄ます。
怒りではなく、寧ろそうかと呼応するように。
「ならば…腹を抱えながら……死ぬがいい……」
次いでは拾ノ型、穿面斬・蘿月を繰り出した。
陽融と継承、そして誓いを経て黒死牟は剣士として格段に強さを増している。
その剣の冴えは、ベルゼバブと戦った時の事が遠い過去に思える程。
数百年越しに動き出した時計の針は止まる事なく高速の回転を続けている。今もだ。
だからこそ此処で開帳した拾ノ型も以前のとは比にならない威力を孕んでいた。
カイドウと一騎討ちを演じた時よりも更に上。
人の一生のように、学びながら強くなっていく黒死牟の剣才は今やカイドウをして侮れない域にまで達していたが――
「おい」
そんな急速の研鑽を以ってしても竜の背は未だに遠く彼方であった。
上機嫌な笑い声から一転して氷点下にまで冷めた声が響く。
八斎戒を振り被る予備動作の風圧だけで剣戟の到達を阻み。
そして金棒を一閃すると共に、カイドウは先とはまた別の感情を爆発させた。
「本気でェ…! 笑い死にさせようとして来る奴があるかァ――!!」
笑いは怒りへ、賽の目を転がしたみたいに変化する。
赫怒と共に振るわれた全力の一撃が哀れな月の斬撃を忽ち調伏。
確実に攻撃を避けた筈だった黒死牟の全身を、然しそれでも風圧と衝撃で撹拌した。
「興が醒める真似をしてんじゃねェぞ黒死牟ォ! 侍の名が泣いてるぜ…!? ウィ〜〜〜……!」
「知った風な口を、叩くものだな……」
「知ってるさ。よ〜〜く、な! おれァアイツらのファンなんだ! 昔からなァ!」
これでも足りない。
これでもこの怪物には児戯の範疇でしかない。
そうか、ならば――更に磨くまで。
黒死牟の魂が屈辱に灼かれる事は最早なかった。
突いた膝を上げ、埃を落とす事もせず再度地を蹴る。
今の己は侍に非ず。
然し名が泣くぞと謗られては黙ってもいられまい。
矜持を魅せながら放つ拾肆ノ型、兇変・天満繊月。
果敢なる剣鬼の奮戦を横目に見ながら、笑みを浮かべて女武蔵が駆けた。
「楽しそうじゃない。私も混ぜなさいな、お二人さん!」
「ウィ〜…! 女の癖して一丁前に猛りやがって……身内のじゃじゃ馬を思い出すぜ」
武蔵の剣を受け止めながら黒死牟の剣をも捌く。
酩酊し泥酔している状態とは思えない身のこなし。
体の芯にまで戦闘の技巧が染み付いているからこその完全無欠。
それでも負わせた傷の数は決して零じゃない。
戦況が劣悪なのは間違いなかったが、同時に"戦えている"のも間違いなかった。
-
この最強生物を前にして戦線が成立している。
その事実の重さは、一度でもカイドウの戦を見た者ならば等しく理解出来る筈だ。
「おれは育児が下手でなァ…。息子と呼べと言い出すわ、おれの言う事は聞かねェわ、挙句の果てには親の敵と仲良く肩並べ出す始末でよォ……」
変則故に柔軟。
然し剣の作法を決して蔑ろにしてはおらず、寧ろ積極的に攻性を高める材料として使っている剣戟。
それが武蔵の二天一流だ。
この性質は無茶苦茶の体現者であるカイドウと打ち合うに当たって少なからず功を奏していた。
逆に黒死牟は手数と範囲でカイドウの逃げ場を奪い、ジリジリと削る。
刃が通る以上最早それを豆鉄砲の乱射と侮るのは愚の骨頂だ。
その証拠にカイドウは先の一騎討ちとは異なり、体で斬撃を受けながら進む類の戦法をめっきり用いなくなっていた。
彼もまた立派に竜王の敵対者なのだ。
どちらも侮れる敵ではないと、カイドウはそう判断している。
のだ、が。
「おれはアイツを国の将軍にしてやるつもりだった。そりゃ多少手荒に育てはしたけどよ、だからってあんな狂犬になるなんて聞いてねェ」
「…、えっと。あの……」
「大体よォ…! おれァまともに教育を受けた試しなんてねェんだぞ? そんなおれに誰か一人くらいガキとの向き合い方ってのを教えてくれても良かったんじゃねェか?
あんなに仲間が居たのによ……そしたらヤマトのバカもちょっとはおれに従順な息子に育ってたんじゃねェのかな……」
「…………カイドウさん? 大丈夫? 話聞こっか?」
もう一度言おう。
あくまで祭りの主役はこの男なのである。
「――うおおおおおおおん! おれは父親失格だ! おれにはガキを育てる才能がないんだァ〜〜!!」
「ほぐ、ぶッ……!」
「…………、……ッ!」
泣き上戸――支離滅裂な言動と共に巻き起こる感情の再爆発。
武蔵の横っ面を八斎戒で張り飛ばし、そのまま得物を地面に叩き付けて隕石の着弾にも等しい衝撃を生成。
剣戟の構えに入っていた黒死牟の呼吸を断絶させて吹き飛ばした。
月の呼吸による範囲攻撃の手が途切れる。
それを良いことにカイドウは武蔵の頭上へと跳躍。
「なァお前…おれの悲しみが解ってくれるか……?」
「げほッ…! は、ッ。生憎、だけど…私も、大概の人でなしなのよね……!」
「……解ってくれねェなら死ねよォ! アアアアアアアア〜〜!!」
泣き→怒りへのスイッチ。
回転する感情の中でもその覇気は微塵たりとも衰えていない。
いやそれどころか、感情の高まりに比例してどんどん強くなって――
「――"怒り上戸引奈落"ゥゥウウウウウ!!」
「――――――ッッ!」
激情の一撃は武蔵ごと大地を大きく抉った。
その最下部に鎮められた武蔵の様はまさに奈落に落ちた罪人のよう。
拮抗に宝具の解放が要求されるのが当たり前の火力の乱舞は、最早剣一本で相手出来る領域をとうに過ぎている。
「が、ぁ、あ…」
肺が破壊されて呼吸が追い付かない。
桜の血を流していなければこれで終わっていた可能性さえある。
武蔵の再起を待たずしてカイドウは八斎戒を再び振り上げたが。
そんな彼に迫るのは、月の斬波の暴風域だった。
「情けのない…姿だ……。巻き込まれた所で……責任なぞ持たぬ………」
武蔵を一瞥して漏らし、黒死牟が因縁の刀をワノ国の悪竜に振るう。
八斎戒と閻魔。
大業物二振りの激突が火花と言うには烈しすぎる極彩色の光を演出していく。
当然ながら技の速度はカイドウの方が二段は上を行く。
よって黒死牟は常に全力で追い縋らねばならず、鬼となり強化された肉体さえもがその反動で絶叫しているのを感じていた。
-
「黒死牟ォ…。てめえ相当な人殺しだろう。見りゃ解るぜ、腥くて敵わねえ」
「……驚いたな…。よもや貴様に……そんな言葉を掛けられるとは………」
「別に責めやしねェよ。だが手緩いな。いい機会だ、おれがお前に殺戮(ころし)の何たるかを教えてやる」
ゾクリ。
何度目かの悪寒が黒死牟を貫く。
カイドウの眼に宿る光が絶対零度の暗黒を帯びた。
「"殺戮上戸"だ」
攻撃の意識を全て防御に切り替える。
鬼は首を刈られねば死なない生き物だ。
その事を黒死牟は無論誰より知っている。
だが生物としての本能が、そんな理屈の一切を無視させた。
そしてその判断は正解だったと言える。
「…ッぐ、お、オ……!」
振るわれる乱舞乱舞また乱舞。
撓った肘から先が黒い線としてしか目視出来ない。
全てに対応する為に意識を限界まで研がねばならず七孔噴血に至るまではすぐだった。
息を吐くだけで百の人間を殺せる竜が見せる本気の殺戮。
生きる為に殺すのではなく、極める為に殺すのでもない。
只殺す。存在するだけで命を奪う。
そういう在り方の全てが地獄絵のように浮かび上がった酔いどれの暴威が、ものの数秒で黒死牟の肉体を血袋に生まれ変わらせた。
「――カイドウッ!」
奈落から浮上した武蔵が刀を振り上げなければ、どうなっていたかは想像に難くない。
自身の至らなさに歯噛みしながらも、武蔵の介入を好機に黒死牟は殺戮の雨に一石を投じた。
鎧装構築。一度は砕かれた号哭鎧装を…血鬼術と呼吸法の真なる融合技を用い、壊れゆく体を補って逆に反撃の材料にする。
「ウォロロロロ! 性懲りもねェ…! またおれに砕かれてェか!?」
「異な事を言う…砕かれる為に鎧を纏う者が、この世の何処に居る……?」
「――だろうなァ! ギラついた眼ェしやがって…似合わねェぜ化物!」
自動反撃の斬撃がカイドウの血を吹き荒ばせた。
更に武蔵の剣が、彼の肩口に新たな傷を追加する。
決して小さくない痛手であろうに笑みは消えない。
楽しくて仕方ないとばかりに嗤う姿は、鬼のようであり同時に童にも似ていた。
「おい見ろよ。気付いてるか? 随分と街の様相が変わって来た事によ」
体を翻らせながら、回転するように八斎戒を振るって纏わり付く両者を振り払う。
号哭鎧装の斬撃さえ純粋な力押しで跳ね除け、武蔵程の剣豪でさえ鍔迫り合いを避けたがる圧倒的な力は未だ以って比類のないそれだ。
そんなカイドウが言った通り…只でさえ見る影を失っていた渋谷の街並みはより顕著な異界化を始めていた。
桜の繁茂する速度と密度が常軌を逸している。
青空が包み隠される程に桜が犇めき合って地上を照らす光を桃色の淡光に変えている。
無論武蔵達もその事には気が付いていた。
何が原因でそう成っているのかにも、察しは付いていた。
「皮下が動いた。あの野郎、此処で勝負を決めるつもりだ」
自分を脇に置いて勝手に勝負を決める等、この怪物は怒りそうな物だが…しかし彼の浮かべる笑みは愉快げなものであった。
カイドウは皮下から全てを聞いている訳ではない。
そもそも暗躍肌の皮下と戦闘狂のカイドウとでは根本の部分は合わないのだ。
仮に全てのプランを打ち明けられていたならば、カイドウは不興を示していただろう。
――界聖杯内界から人間の生存出来る余地を奪い去って聖杯戦争を終結させる等、怪物好みの幕引きでは間違いなく無いからだ。
「お前らがおれを倒そうが、倒すまいが…もう何もかも手遅れだ。言わなくても解るよな? お前らは負けたんだよ、ウォロロロロ」
-
彼の言う通りもう全ては手遅れだ。
少なくとも武蔵と黒死牟にとっては。
この戦闘を放棄して皮下の討伐に向かえば或いはという話ではあるが、その場合決戦を反故にされたカイドウは怒り狂いながら其処へ向かう。
そうでなくとも皮下が令呪を用いてこの怪物を召喚し、種まき計画をより強固な物へと変えてしまう。
彼らはカイドウを止めるしかない。
戦いの以前に、作戦で負けている。
「大した早合点ね。まだ目の前の敵を一人も斃せていない身で勝った負けたと語るのはどうかと思うわよ?」
だが、彼らの眼に悲観の色はなかった。
彼らは微塵も戦意を落とす事なくカイドウを睥睨し、彼と見えている。
「それに――私は心配なんて全くしてないわ。だって今、あっちでは私のとびきりのマスターが世界を終わらせない為に頑張ってるんだから」
「古手梨花…夜桜の力を継いだ死にかけの要石か。か細い希望だな。人間如きが皮下の野郎を倒せると思ってんのか?」
「倒すわよ」
カイドウの問いに武蔵は断言を返した。
「勝つわ。梨花は、必ずね」
不遜。
それでいて不可解。
正しいのはカイドウの方だ。
借り物の夜桜と繚乱の夜桜では格が違う。
この地を覆う樹海が散華を迎える時までに皮下を殺せる確率は砂粒程に低い。
武蔵もそれは承知だ。
承知の上で、こう言っている。
「そうと解ったら構えなさいカイドウ。貴方はまだ勝ってなんかいない。
必死こいて私と其処の鬼さんを倒さないと――後で後悔しても知らないわよ?」
「ウォロロロロ…! 口の減らねえガキ共だ……!」
武蔵が笑い。
カイドウも笑った。
黒死牟は微笑みこそしないが、何も否定する事なく剣を構えた。
世界は滅亡の瀬戸際に立たされている。
滅ぶにしろ続くにしろ、直に一つの結論が出るだろう。
これはその傍らで繰り広げられる殺し合い。
桜舞う――世界の終わりの剣豪舞台。
花が咲く。
雷が轟く。
月が出る。
三者三様の粋を織り交ぜながら、終末のボルテージは頂点に達そうとしていた。
◆ ◆ ◆
-
体温の抜けた亡骸をそっと地面に横たえた。
既に結界は消えている。
領域の展開は解けている。
辺獄のアルターエゴは死んだ。
そして、彼を使役していた少女も息絶えた。
もう二度と彼らの悪意がこの地に降り注ぐ事はない。
その事実を、古手梨花は他の誰よりも強く噛み締めていた。
「…沙都子。ボクはそろそろ行くのです」
何の誇張も抜きに百年間ずっと見てきた顔だ。
だというのに飽きは来ないし、辟易した事もない。
やっとの思いで勝ち取った未来を穢されてもそれは変わらなかった。
すれ違いの果て、惨劇の担い手となってまで自分を追い掛けて来た親友。
彼女との対話はきっとこの世界が無ければ成し得なかったのだろうなと梨花は理解していた。
この界聖杯と言う願望器、ひいてはそれが生み出した世界については言いたい事が山程ある。
誰彼構わず盤面へ招来して殺し合わせるそのやり方を肯定出来る日は未来永劫来ないだろうと思うその一方で。
少なくとも北条沙都子との決着を着けられたという一点に関してだけ言うならば、梨花は界聖杯へ感謝している
「もう寂しがる必要はないのですよ。まったく、沙都子が其処までボクの事を好きだとは思わなかったのです」
にぱー、と敢えて表向きの顔で笑って。
安らかに眼を閉じたまま息絶えている親友に語り掛ける。
後悔はある。
やり直したいという気持ちの丈は計り知れない。
もしもほんの少しでも歯車を掛け違えていたなら、古手梨花は自分達のあるべき未来を求めて戦う選択を下していたかもしれない。
「また会いましょう、沙都子。また何かのなく頃に」
けれど沙都子との最後の対話が梨花のそうした迷いを断ち切ってくれた。
自分達は互いに互いの全てを曝け出して戦い、そして結末を定めたのだ。
伝えるべき想いも晒すべき地金も全て見せ合った。
許される限り殺し合って語り合った。
幕切れは不本意な物だったが、それでもあの時間が無意味だったなんて事は思わない。
寧ろその逆だ。
あの時間があったからこそ、自分達は救われたのだと梨花は心の底からそう思っている。
これにて、自分達の業を巡る物語はお終い。
互いに業を卒して次の物語に向け眠りに就く。
祭囃子の音色を聞きながら、いつ覚めるとも解らない眠りに墜ちるだけ。
沙都子は先に其処へと旅立った。
自分も後一つ残っているやるべき事を果たしたならば其処へ向かう。
いつか何処かの、何かがなく頃を目指して。
「――梨花ちゃん」
「…お疲れ様なのです、セイバー。勝ってくれたみたいで何よりなのですよ」
「結構苦戦したけどね。でもちゃんと宿業両断成し遂げました。色々あって取り逃しちゃった因縁だから、晴らせて個人的にも気分が良いわ」
それで、と武蔵。
「間に合った?」
「はい。勝ち負けは尻切れ蜻蛉になってしまいましたが、ちゃんとお互い言いたい事は伝え合えました」
「そっか。ごめんね、あの生臭坊主ったら解ってた事だけど手強くて。
本当なら貴方達二人には、何の邪魔も入る事なく語り合わせてあげたかったんだけど」
「みー。気にしないで欲しいのです。…ボクと沙都子の仲はとっても深いのですよ。あれだけの時間があれば十分伝え合って、解り合えますのです」
-
黙して眠る少女の金髪を優しく撫でながら梨花は言う。
何度となく見て来た屍だったが、これが最後だと思うと気分も違う。
只後悔していないのは本当だった。
語るべき事は全て語れた。
伝えるべき事は全て伝えられたし、受け取れた。
おまけに友の最期をこの眼で看取る事まで出来たのだ。
自分達の幕切れとしては十分過ぎる。
もう悔いは何一つとしてない。
古手梨花の戦いは、北条沙都子が息を引き取ったあの瞬間に終わりを迎えた。
だが。
「…でも、もう一つだけ。私にはやらなきゃいけない事がある」
「解ってるわ。皮下真との決着、でしょう」
「ええ。どうせ死ぬならツケはきちんと払って逝きたいし…私個人としても戦う理由はあるもの。
あの男を退ける事で、私の仲間…霧子やにちか達が一歩でも明日へ近付けるのならそれ以上の事はないわ」
古手梨花は恐らく直に死ぬ。
無理の代償は既に体の随所を蝕んでいる。
仮にこのまま大人しくしていたとして、それでももう命は数時間と保つまい。
それこそは夜桜の力を借り受けた事の代価。
人間である事をやめたその代償。
しかしどうせ死ぬのなら、それまでの時間はなるだけ有意義な物であるといい。
例えば、そう。
少なからず親交のあった仲間の為に身を粉にして戦うだとか。
残り僅かな命を、恩人との誓いの為に燃やすだとか――。
「セイバー…いいえ、武蔵。少し早いけど、貴女に一つ言っておきたい事があるの」
梨花はそう前置きして武蔵へ微笑みかけた。
波瀾万丈、艱難辛苦にばかり見舞われて来たこの世界。
過ごした時間は一月弱。長いとも短いとも言い難い時間だったが。
その中で恐らく一番であろう笑顔を浮かべて梨花は武蔵に言った。
「今までありがとう。私は、ボクは――貴女が来てくれて本当に幸せだった。
私の為に戦ってくれてありがとう。ボクの事を支えてくれて、ありがとう。
…改まってごめんなさいなのです。でも最後の前にこれだけは、直接ボクの口から伝えておきたかったのですよ」
「…、……何よ、もう。そんな健気な事言われたら、お姉さんきゅんきゅん来ちゃうじゃない」
彼女達の旅は直に終わる。
梨花は皮下の許へ向かうだろう。
そうなれば武蔵は、彼のサーヴァントの方へ向かう事になる筈だ。
海賊カイドウ。かの怪物と皮下が足並みを揃えて世界の破壊に臨めば最早梨花には止められないから。
北条沙都子及び蘆屋道満との決着。
この時点で、古手梨花とセイバー…新免武蔵の二人による旅路は一つの終着を迎えていたのだ。
「今生の別れみたいな会話だけれど、私はまだ諦める気なんてさらさらないわよ。
私がカイドウを斬って貴方の所に戻るから、貴方は皮下に勝ってそれを出迎えて欲しいな。
そしたら方舟の他の子達も交えてお疲れ様会の一つでもしましょ。散々駆け回って来たんだもの、そのくらいは期待してもいいと思わない?」
「…みー。確かにそうなのです。お互いに死んだり消えたりするのを前提にお話するだなんて、思えば縁起悪い事この上ありません」
「そうそう。蓋開けてみたら、案外梨花ちゃんも私も全然無事のまままた会えるかも知れないし。その時に備えて約束でもしときましょ」
武蔵が手を差し出す。
梨花も、迷う事なくその手を取った。
互いにもう解っている。
この約束が果たされる日はきっと来ない。
そう解った上で――手を取り未来を誓うのだ。
「"またね"、梨花ちゃん。次会った時には梨花ちゃんの入ってた…なんだっけ。部活? の話ももっと沢山聞かせて欲しいな」
「お安い御用なのですよ。朝日が登って日が暮れるまでお話しても足りないと思うので、覚悟しておいて下さいなのです。にぱー☆」
これは古手梨花が皮下真と。
そして新免武蔵がカイドウと接敵する数十分前の話。
各々の正念場を前にして、彼女達が追憶している最後の会話だった。
「だから"またね"、武蔵。私の最高のサーヴァント。私の大好きな仲間の事、もっといっぱい紹介したいんだから――死んだら嫌よ。約束」
◆ ◆ ◆
-
古手梨花は確信していた。
自分が生きている事の意味。
親友を看取って、尚も枯れる事なく立ち続けているその意味を。
夜桜つぼみとの誓い。
皮下真との因縁。
どちらも彼女が立つ理由である事に違いはなかったが、本質では無かったのだと今此処に至って理解する。
“ああ、そう。私は”
咲き誇る夜桜の樹海。
一秒毎に臨界へ近付いていく終末装置。
全ての希望も絶望も塗り潰してしまうだろう終わりの景色が此処にある。
世界が、終わろうとしている。
“この光景を止める為に、生かされていたのね”
力を込めた途端、体の中から"ぐじゅり"と異音がした。
どうやら既に内臓が溶解し始めているらしい。
生きながらにして体が腐っていく。
重度の放射線被曝を受けたのと状態としては似通っている。
どの道、自分の寿命はもう数分も無いだろう。
借り物の力を身の丈に合わないやり方で振り回し続けたせいか、もう騙し騙しやって行くのも厳しいようだった。
「――アイ。ライダー。この際…危ないとか敵同士だとかそういう話は抜きにさせて」
柳桜を握り締めて前に踏み出る。
皮下が放って来た超高速の質量攻撃は先刻梨花を無慈悲に叩き潰したのと同じそれだが。
今回、梨花は同じ手を食わなかった。
殆ど直感に任せた一閃で迫る八卦を両断する。
今は体を蝕む激痛さえ有り難かった。
これだけ喧しく喚き散らしてくれていれば、意識を失う暇も無さそうだったから。
「皮下を止めましょう。私達がやれなきゃ全部終わってしまう」
「そりゃ言われるまでもねぇけどよ。アイツ相当強いだろ。アテはあんのか?」
「あるわ」
デンジの問いに梨花は即答する。
瞳に輝く桜の紋様、その発光が強まった気がした。
「皮下は私が持って行く。だから力を貸して」
「……」
マスターが何を言ってんだよ。
お前、俺らが助けなかったらやられてたじゃねえか。
そんな軽口は不思議とデンジの口から出て来なかった。
只の人間の分際で、自分よりも前に立って宣言したその小さな背中に…理屈ではない大きな何かを感じ取ったからだった。
それは宛ら魔法のように。
「梨花…」
「…みー。ごめんなさいなのです、アイ。ボクだって本当はもっと……アイの事を知りたかったのですよ。
一緒に居た時間は短かったけど…鬼ヶ島でボクを助けようとしてくれた時、本当に凄く嬉しかった。
せめてもう少しボクに時間があれば、ボクの仲間達直伝の色んな遊びを教えてあげたかったのですけど」
「アイさん、やだよ…梨花も、霧子も、皆も――誰も、死んで欲しくないよ……」
「ボクだって死にたくはないのです。それにまだ決まった訳じゃありませんよ。
案外すっごく素敵な奇跡が起きて、笑顔でアイの所に帰れるかもなのですよ。こうやって、にぱー☆って」
愛がなければ魔法は視えない。
その点、梨花が唱えた言葉は間違いなく魔法だった。
アイが唇を噛み締める。
それからわがままを言うのを止めて拳を構えた。
梨花を止める為ではなく。
彼女と共に、世界の終わりと戦う為に。
「行きましょう、二人共。ボクを、私を――助けて下さい」
-
「演説は終わったか?」
「ええ。待たせて悪かったわね」
「気にするな。俺にしてみりゃ時間は稼げる程良いんでね」
「そうでしょうね。時間が欲しいのは私もあんたも同じだもの」
皮下の全身は神々しい淡光を帯び始めていた。
渋谷を満たす夜桜のみならず、彼の体もまた臨界に達そうとしている。
恐らく梨花と同等かそれ以上の自壊に苛まれている筈だ。
つまり皮下もまた直に死ぬ。
然し彼はそれを承知で、それよりも早く全てを終わらせるつもりだった。
最終決戦なのは互いに同じ。
二つの夜桜が対峙する。
「終わらせましょう。夜桜を」
「ああ、終わらせよう。俺達は少々長生きし過ぎた」
言葉と共に放たれたのは文字通りの天変地異だった。
炎、冷気、有機合金、異常に伸長する毛髪、そして猛毒。
この世界で生きそして散っていった花の残影が同時並行して再生される。
そうして繰り出されるのはそれぞれがそれぞれを潰す事なく共存する混沌だった。
燃えながら凍り、靭やかなまま硬く、構成する要素の全部が強毒を帯びる。
皮下真が積み上げて来た計画の結集とでも呼ぶべき光景が具現した。
その中を、古手梨花は臆さず走る。
身を焦がされ、溶かされ、貫かれ切り刻まれ。
それでも走るのだ――目前にて咲き誇る"奈落の花"へ捧ぐ終焉を謳う為に。
「雑草にだって花は咲くもんだ。寄せ集めてみればこの通り、多少は綺麗な花になる」
「そういう台詞の出て来る根性が、最悪だって言ってんのよ…!」
「悪いな、性分なんだ。何かを使い潰して生きるのが一番ラクだからな――君にも覚えはあるんじゃないか? お互い長生きだもんなぁ」
柳桜は夜桜を…悲劇を繰り返す花(モノ)を殺す性質を持つ。
だが万能ではない。
その陥穽は此処までの交戦で既に見えている。
其処を突く為の混沌。手数重視の虹花乱舞(コズミックダスト)だ。
「えぇ…ッ、勿論あるわよ。そうやってやさぐれてる内は、何も上手くなんて行かなかったけどね!」
「現実を見ろよ百年の魔女。善良に生きた結果がその惨死だろう? 一難去ってまた一難、禍福は糾える縄の如し。
与えられた安息を当たり前みたいな顔である日突然取り上げられる、そんな君の人生が成功だったと言えるのか?」
炎海に織り交ぜられた桜の枝が梨花を串刺しにする。
足が物理的に止められた。
槍衾に変わっていく幼い肢体を嘲笑と共に見つめる瞳は酷く儚い。
「その点俺のはイージーだ。殺すだけで終われるんだからな、後先もクソもない」
「人の幸福を、上から目線で勝手に語ってんじゃないわよ…ッ」
全身が瞬く間に絡め取られていく。
後は圧潰も滅多打ちも自由自在だ。
手数の暴力という身も蓋もない殺し手で詰みに向かう梨花を、然し断崖から救う音が響いた。
「何の話してるか解んねぇけどよお…その気持ち、すっっげぇよく解るぜ〜!」
ぶうん――
刃音一つ。電刃一閃。
桜の枝と蔓を断ち切りながら、チェンソーマンが出現した。
彼もまた虹花の毒に冒されていたが気にしている様子はない。
-
「偉そうに小難しいことくっちゃべって来る野郎はよ、クセえ老害って相場が決まってんだ!」
「えぇ、全く同意見――あんたが連合でさえ無ければ完璧だったんだけどね!」
「差別主義者がアアアアアアア!」
チェーンを梨花の細足に結んで上空へ放り投げる。
夜桜化していなければ足の骨が確実にお釈迦になる無茶だが、今更その程度負傷の内にも入りはしない。
空へ昇る古手の巫女。
桜花の一太刀を地に向けて振るうや否や、皮下の右半身が消し飛んだ。
「流石だな。こと俺を殺す上でなら、まさに君が適任者って訳だ」
紛れもない致命傷。
然しそれも一瞬の内に再生する。
無限に等しい再生力は、まさしく夜桜の奇跡の体現者。
「なら俺も君に倣おう。元々こういうのは男の子の領分だしな」
再生した皮下の半身。
その形状は異形だった。
腕というよりも筒状の肉塊と言うべき造形。
それは嗚呼まるで、巨大な銃身(バレル)のようでもあって。
「…ッ! なんて出鱈目を考え付くのよ、あんたは――!」
その内側で再生される開花の数々。
これまでに見せてきた虹花の技は勿論、奈落を上がる事なく死んでいった失敗作達の物まで無作法に結集させていく。
「絆の力だ。俺なりの奇跡も見てくれよ、梨花(つぼみ)」
限界まで圧縮させた混沌の桜吹雪。
最大の収束性で撃ち放たれたそれは、夜桜の使徒は愚かサーヴァントでも容易に消滅させる皮下の最高火力だった。
アレに直撃してはならない。
もしもしくじればその時点で全てが終わる。
確信して細胞を駆動させる、梨花。
「逃げるか。利口だな」
されど笑うのは皮下だった。
「逃さねえけどさ」
光が空中で折れ曲がる――屈折する。
理外の追尾性能。
ホーミングする確殺攻撃という悪夢が現出する。
咄嗟に柳桜で打つ判断を下せた梨花は立派だろう。
反応が一瞬でも遅れていれば、彼女の体は原子レベルで消し炭にされていたに違いない。
「ぎぃッ…!」
柳桜ごと半身が消し飛んだ。
まるで先刻の意趣返し。
梨花の再生は皮下程の万能ではない。
だからこそ半身を欠いた状態で、柳桜まで失った状態で為す術もなく落ちて行くしか出来ず。
“まず、い…!”
そしてそんな梨花を喰らうべく、地中から巨大な"桜坊"が出現した。
恐るべきは皮下の思考の速さと広さ。
夜桜を殺す者、チェンソーのライダー、虹花の生き残り――樹海の臨界を維持しながらこの三人を同時に相手取り、その上でこんな策まで用意しているなんて言うまでもなく馬鹿げている。
川下医院の崩壊と共に落命した『チャチャ』という葉桜適合者が居た。
皮下は戦いの傍ら、彼の開花を再生。
生まれ乍らに異常な頭脳を持っていた彼の性能を擬似的に再現し、本家本元にも迫る分割思考を実現していたのだ。
地中にてのソメイニン培養。
消耗を考えずに加速化させる事で歴代最高の暴威を秘めた桜坊を完成させた。
手負いの梨花を喰い殺す、奈落上がりの荒神だ。
-
「――梨花っ!」
駆けたのはアイだった。
デンジへの警戒は皮下とて怠っていない。
二度と邪魔立てされないように開花の釣瓶撃ちで動きを封じ、梨花との連携を阻害し続けている。
となれば動けるのはこの場で圧倒的に力不足…然し皮下に二度も可能性の躍如を魅せた大神犬の少女だけになるのは自明だったが。
「だよな。お前ならそうすると思ったよ」
「駄目、アイッ!」
皮下がそれを読んでいない筈はなかった。
アイの行動はまさに飛んで火に入る夏の虫。
え、とアイの口が動いた時。
皮下は跳躍を終え、彼女の前に浮いていた。
「助けてくれてありがとな。でもいい加減邪魔だ、親(ミズキ)の所に逝ってくれ」
「――ぁ"、ッ」
有機合金の刃を一閃する。
アイの細い腹を引き裂いて鮮血を吹き飛沫かせた。
その上で地面に蹴り落とす。
地上は夜桜の犇めく地獄だ。
そうでなくても虹花開花の残影が埋め尽くしている。
手負いの葉桜一人が生き残れる領域ではない。
「…っ!」
皮下真はこうして最後の虹花の殺処分を完了した。
アイの行動に意味があったとすれば、焦燥と怒りが梨花の出力を一段引き上げた事だろう。
蘇る夜桜殺しの神剣・鬼狩柳桜。
未だ体は再生途中の不格好だったが、手を拱いている時間はない。
ありったけの激情を込めて桜坊の頭蓋へ柳桜を突き立て、梨花は桜の暴風雪を巻き起こした。
「アイも可哀想に。希望なんて知らなければ、もっと未練なく逝けたかもしれないのにな」
「黙りなさい――明日を生きたいと思う気持ちに、善も悪もある訳ないでしょうッ」
特大桜坊が一撃の下に消し飛ぶ。
目を瞠る戦果だったが、それが評価される局面では当然無い。
アイの処分を終えた皮下が満を持して梨花への攻撃に臨もうとしているからだ。
「善悪がないからこそ残酷なんだろう。生きたいも何も、最初から明日なんて無いんだから」
つぼみの力を最大まで引き出せば無論、皮下に届く域の再生速度を叩き出す事も理論上は可能だろう。
だがそれをすればタイムリミットを待たずに梨花の体が崩壊するのは間違いない。
こればかりは足に合わない靴を履く者――天を目指して飛ぶ蝋翼の宿命だった。
そしてその脆弱性故の限界が、此処で致命的な格差となって浮上する。
「清々しい程の偽善だな"方舟"。だからお前らは負けるんだ。始まりからして失敗してんだよ」
受け入れられない全否定の言葉に然し反論の隙は存在せず。
古手梨花を散華させる為の一撃が放たれようとしたその瞬間。
「だ、か、ら、よぉ……!」
彼女の代わりに皮下真を否定する、英雄(ヴィラン)の嘶きが響き渡った。
「先刻から聞いてもいねぇ事をベラベラと五月蝿えんだよッ!」
「…!」
チェーンで皮下を絡め取り力づくで引く。
無論、さしものデンジでもこれだけの質量を千切っては投げとは行かない。
彼に可能だったのはほんの十数センチその巨体を動かす事までだった。
然しその僅かな干渉が梨花への攻撃から致命の二文字を取り除き、未来を繋げる事に成功させる。
「格好良いなぁチェンソーマン。無辜の少女を殺されてキレるなんて、まるで正義のヒーローみたいじゃないか」
-
「あぁ? …ンな訳ねぇだろ。会って一日も経ってねぇガキの生き死になんざ今更いちいち響くかよ」
だから脳裏を走るこの感情はきっと単なる気の所為で、錯覚だ。
デンジは自分をそう納得させながら皮下の体を切り刻んでいた。
――砂糖菓子の少女ともう一人。
霊基の問題でか上手く思い出す事が出来ないが、脳裏に浮かぶ顔があった。
デンジは其処まで義に厚い人間ではない。
本人の言う通り、会ってすぐの見知らぬ子供が殺されたとして義憤に燃えるような性格はしていない。
にも関わらず多少なり心に響く物があるのはきっと、"黒髪の幼い少女"という情報を自分の知る誰かに重ねているからなのだとデンジは理解した。
「今回俺ぁ悪役だぜ。てめえが後生大事に抱いてる願い事、グチャグチャになるまで踏み躙ってやるよ」
支配の悪魔を殺したデビルハンター。
地獄にて恐れられたとある悪魔の騎乗物。
そう定められて召喚された霊基の水面に波紋が立つ。
その意味は今は彼にすら解っていない。
解っているとすればそれは、彼を駆る心臓(あくま)だけなのだろう。
そしてそんな意味有りげな注釈も、此処で皮下を討てなければ全てが無駄打ちに終わる。
「それは結構だけどな。まさかそんなチャチな刃物でこの俺を削り切れると思ってる訳じゃないよな?」
デンジには不死殺しならぬ永遠殺しの経験がある。
あちらが死にたくなるまで殺し続ける激痛の永久機関。
それは皮下に対しても適用可能だと思われたが、違うのは敵がデンジよりも格上であるという点。
デンジの唱えた永久機関の大前提、無限に殺し続けられるという一文が崩れ――皮下の体内から出現した無数の刃が彼を針千本に変えた。
「へ、へへ…バカがよぉ。まんまと引っ掛かりやがったな、マヌケェ……!」
「…お」
が、デンジとてそれは想定の上。
彼は阿呆かもしれないが馬鹿ではない。
脳を心臓を肺を肝臓を、余さず串刺しにされながら少年は獰猛に笑っていた。
瞬間。彼の体からチェーンが伸びて、皮下と自分とを繋ぐ刃へ勢いよく絡み付いていく。
「運命共同体だぜ。一緒に戦おうや皮下先生よォォ!」
「はは。マジで無茶苦茶だな…まあ良いぜ? 望み通りそうしてやるよ」
「あ?」
デンジお得意の自傷戦法。
不死身を良いことに、自己の損傷を考えずに相手を切り刻み続ける十八番。
見事に皮下へ決まった形だったが、皮下は嵌められた構図とは裏腹に事も無く笑った。
そして次の瞬間…彼の体が爆発的に肥大化する。
粘菌の類が殖える様を早送りで見ているような肥大と増殖。
彼と密着していたデンジもまた皮下の体積増大に併せてその体内に呑み込まれていく。
「ウゲ! 気持ち悪ィ! 最悪だなオマエ!」
「逃げんなよ、お前が持ち掛けてきた二人三脚だろ。袖にされたら流石に傷付く」
堪らず離脱を図るデンジだったがそれを許す皮下ではない。
チェーンと有機合金を繋ぐソメイニン漬けの体細胞が接着剤の役目を果たしてチェーンの駆動を妨害する。
そうしている内に哀れなデビルハンターの体はズブズブと皮下の体内に呑まれていった。
「! ……、――――!!」
「無駄だ、出られやしない。流石に英霊相手ともなれば夜桜で殺すのは難しいだろうが、閉じ込め続けるだけなら余裕だ」
異形の怪物の体に人間の上半身が生えているような構図は、視認するだけでも精神を削られるような酷く冒涜的な代物だった。
その内に収められたデンジは何やら喚いていたがそれもすぐに聞こえなくなる。
後はこのまま種まき計画の成就まで閉じ込められ続けるだけだ。
しおが令呪を切って彼に"交代"を命じれば話も変わるだろうが…それは彼女の望む勝利を大きく遠ざける結果を招く。
文字通りの八方塞がりにチェンソーマンを幽閉し終えた皮下は、こうして再び一対一の状況へと帰って来た。
-
「さてと。これで邪魔者は消えたな」
再生を終了させた古手梨花が皮下を睨み付けている。
「種まき計画の実行まで後三分って所だ。俺を止めたきゃそれ以内に何とかするんだな」
わざわざ自分のリミットを明かした理由は言わずもがな勝利を確信しているからに他ならない。
アイは死んだ。デンジは無力化された。
残っているのは梨花一人。
そして彼女が一人では皮下に及べない事は此処までの戦いで散々示されている。
力はある。
相性だって抜群に良い。
だが経験が足りない。
準備してきた物が足りない。
夜桜としての年季が足りなすぎる。
「お友達の侍を呼ぶか? それとも仲間だけでも一か八か逃してみるか。どっちでもいいぜ、どうにもならないからな」
「…正直、甘く見てたわ。あんたの願いの強さを」
古手梨花は人間の意思が持つ力の大きさを知っている。
強い意思を以って実行された行動は、未来を知っていようが簡単には覆せない。
絶対の意思は常に望みの未来を描き上げ続ける。
何度繰り返そうとも、必ず。
それを阻む事の難易度は破格と呼んでもまだ生易しい。
だからこそ梨花は此処に来て皮下真という男の本質を理解した。
かつて鬼ヶ島にふんぞり返っていた頃の彼ならば付け入る隙は山程あったろう。
だが今の彼は違う。
今の皮下は――"彼女達"の同類だ。
神の座を奪い取ろうとした百年の黒幕。
愛憎の果てに魔道へ入った絶対の魔女。
「そうまでして、救いたいのね。夜桜つぼみを」
「別に救世主を気取って酔っ払ってる訳じゃない。俺は只殺すだけだ」
鷹野三四や北条沙都子と同じ、絶対の意思の持ち主に他ならないのだと確信する。
「アイツも、この血も…もう全部終わって、眠るべきなんだ。
知らない仲でもないからな。何もしてやれなかった無能な主治医として、それくらいの責任は果たそうと思ってよ」
「素直じゃないのはあんたも大概ね。ライダーの事を笑えた義理じゃないわ」
「男ってのはそういう生き物さ」
「馬鹿な奴ね」
「それで結構。で、君はその馬鹿にこれから全てを奪われる。そういう運命だ」
語らいに興じている暇はない。
「…男、ね」
柳桜を握り締め、梨花は前に出た。
選択肢なんて最初からこれ一つだ。
運命への挑み方は色々あるが、背を向けて逃げ出す事が打開を生んだ試しは一度もなかった。
「知ってる、皮下? 男にとって宿命だとか運命だとかそういう言葉は、凄く尊くて熱い意味がこもってるそうよ」
「何の話だ。無駄話に花を咲かせてる時間があるのか?」
「さぁ、何の話なんでしょうね。いつか何処かでこんな言葉を…誰かに言われた気がするってだけ」
なんて言いながらも誰が言ったのかは見当が付いている。
こんな熱くて、冷静になったら気恥ずかしくなってくるような台詞が言える人間を梨花は一人しか知らない。
他人の褌で相撲を取るようだが、これも仲間の特権って奴だろう。
「此処であんたに全てを奪われるのが私の運命だと、あんたはそう言ったわね」
これはもう部活ではない。
祭囃しの音を数刻後に控えさせた"あの時"の再演だ。
すなわち。
「いいわ。ならその運命とやらを――私がブチ壊してあげる」
――運命に挑め。
◆ ◆ ◆
-
サイコロの目を決めるのは、天でも、神でも、ましてや偶然でもない。
それは全てを打ち破り貫こうとする、誰にも負けない意志の力。
信じる力が運命を打ち破る。
奇跡を起こす。
◆ ◆ ◆
-
神剣の初太刀から皮下は瞠目の憂き目に遭った。
振り上げられたその刀身。
其処に理屈ではない本能的な破滅のビジョンを見たからだ。
抱いていた余裕と勝利への確信が刹那にして覆る。
時間切れを待つなんて悠長な事を言ってはもういられない。
一刻も早くこの子供を…つぼみの器を殺さなければならないと彼の本能が警鐘を鳴らしていた。
「…は。敗北寸前の雑魚の強がりじゃないって事か」
皮下の肥大した総体から無数の桜が生え始める。
数は千に達し、その全てが純度百パーセントの夜桜だ。
迫る梨花を迎え撃つ木々の波。
養分を求めてうねり撓る桜達を――悲劇を"繰り返す"その花を――
「どけえッ!」
偽りの柳桜が一撃で切り祓う!
この神剣は確かに贋作。
古手梨花の記憶を参照して鍛造された張りぼての剣。
この剣で北条沙都子は殺せまい。
彼女に力を与えた大いなる者を貫く事も叶うまい。
然し!
『最後よ。梨花ちゃん』
「解ってる!」
『私達に付き合ってくれてありがとう。貴女の優しさに感謝します、遠い世界のあなた』
古手梨花には夜桜の神が憑いている。
ならばこの時、夜桜に対してだけは彼女の剣は紛うことなき神剣となる!
臨終の刻限を間近に迫らせて、限界(最高)のその先まで同調を深めたからこその破壊力。
徒花と咲いて散る最後の桜がひた走る。
一人きりの夜桜前線。
運命への、疾走――!
『助けてあげて』
迫るは混沌。
再生の開花を最大まで極めたからこその疾風怒濤、桜吹雪。
『こんな私に…悍ましく恐ろしいこの花に……手を差し伸べてくれた人。
本当はとても優しくて、だけど不器用なひと。川下先生を――』
梨花の寄る辺は神剣一振り。
信じるものは己と彼女と歩んだ道程のその全て。
末端から形を失い始める肉体はもう泥の人形にも等しいけれど。
それでも――それでも――
『赦してあげて』
応と答えの代わりに振るった剣が吹雪の夜を終わらせた。
春のその先、ひぐらしのなく夏からやって来た巫女が夜魔を祓う。
足元が凍った。
無視する。
炎の渦に囚われた。
無視する。
千もの刃に貫かれた。
無視する。
数百トンにもなるような巨体が腕の形を取って、音を超える速度で殺到した。
此処で初めて梨花が攻撃(それ)を見る。
だけどそれもほんの一瞬の事。
「…何よ皮下。これが、こんなものがあんたの言う"運命"なの?」
梨花が笑う。
そして柳桜を、振り上げて――
「金魚すくいの網よりも薄いわね。出直して来なさいッ!」
今度は斬りすらしない。
太陽の輝きが夜の闇を掻き消すように、神剣を翳した途端に皮下の攻撃が兆枚もの花弁に分解されて消滅した。
-
接触する前に壊してしまえば超質量も超高速も一切無意味だ。
何を生み出して来ようとその根本にあるのはソメイニン、つまり夜桜ならば。
神憑りの夜桜にそれを否定出来ない道理はない。
「…運命になるのは君の方だったってオチか。笑えねぇな」
あまりに劇的、そして理不尽。
皮下真は自分の誤ちを確認する。
それは運命だなどと驕った事。
蓋を開けてみればこの通りだ。
運命は己に非ず。
己の前に立つ原点(つぼみ)こそが、自分を試す最後の運命だったのだ…!
「――あぁ、全く笑えねぇよ」
皮下の顔から笑みが消えた時。
梨花を覆ったのは桜で構成された巨大な球体だった。
それが一重、二重、三重四重十重二十重…マトリョーシカのように重なって構築されていく。
「侮りを詫びよう。俺も必死こいて勝ちを狙う事にする。あまり格好の良いやり方じゃないけどな」
この檻に殺傷能力はない。
これはあくまでも只の檻だ。
そも、皮下は必ずしも梨花を殺さなくても良いのである。
時間さえ稼げれば。
渋谷を満たした夜桜樹海が起爆するまで耐えられれば――もしくは古手梨花の消滅まで持ち堪えられればそれでいい。
だからこそ彼が此処で打って来た勝利への一手は時間稼ぎだった。
柳桜の力があればすぐにでも破れるか細い檻。
然し梨花が一枚壊す間に、檻は二枚三枚と増えていく。
現に今の時点でさえ層の数は千を超えており、皮下が常に最大の労力を割いて生成し続けているから増殖が止まる事もない。
“先刻の時点で形を失い始めていた。更にそれは、俺の"腕"を消した所で余計進行の速度を上げたように見えた”
アレだけの力に代償が伴わない訳はない。
梨花は力を使えば使う程、自己の崩壊を加速させてしまうと皮下は既に理解していた。
であれば尚更この桜の檻は最上の切り札として機能する。
一枚一枚は薄っぺらな檻、されど立派な障害物だ。
ましてや増殖していく入れ子構造から抜け出そうと思えば余計に莫大な出力を要求されるのは必然。
よしんば策を超えて梨花がこの檻を抜けられたとしても…
“その時、古手梨花の肉体は殆どが崩壊している筈。其処まで弱っているのなら…やりようは幾らでもある”
――古手梨花は皮下真に勝てない。
こうしている間も種まき計画完遂へのカウントダウンは、梨花の寿命を数えるそれと並行して進行を続けている。
追い詰められたように見えたのも束の間、再び皮下の勝利は盤石の物と化した。
十秒、二十秒、三十秒と追加で六秒。
時がそれだけ経った頃、梨花は皮下の想定を"予想通り"に超えてきた。
「はは――随分見窄らしい姿になったじゃねえか」
数万層に及ぶ桜の檻を引き裂いて現れた流星。
皮下が科した運命をまた一つ打ち破った梨花の姿は然し、見る影もなく変わり果てていた。
左腕が肩口から途切れているのはまだ可愛い方だ。
問題は彼女の胴体、心臓のある地点から下。
其処には既に人の肉体は存在していなかった。
桜の花弁…ソメイニンを"つなぎ"にして崩れた体を繋ぎ止めているだけ。
更に頭部の左半分も既に消失して桜の花弁が満たすだけと化している。
体の七割にも及ぶ部位が崩壊し、苦し紛れの補繕も追い付かず化物としても文字通り片手落ち。
柳桜を握る右手が残っている事を除いて、其処に希望らしい物は何一つ見て取れない。
「来いよ。最後くらいは…まともに相手をしてやる」
-
ソメイニンを練り上げる炉心に自らの体を作り変える。
再生、再生、再生、再生…あらん限りの開花を再生させて混ぜ合わせるその技はもう梨花に対して一度見せている物だ。
夜桜を統べる者だけが放てる混沌の桜旋風。
それを、神剣担う巫女を討つ最後の一手として皮下は此処に再び開帳した。
「――眠りなさい、皮下真。彼女はそれを望んでる!」
「諦めろ。俺は俺の願いを叶えるまで止まらない」
放たれる極光。
夜桜の史上を塗り替える最大の一撃に、梨花の神剣が触れる。
今この瞬間だけは何の小細工も存在しない。
純粋な、二種の夜桜による力の比べ合いだ。
決戦は既に佳境。
どちらの桜が勝るのか、その結末は此処で定められる。
-
…閃光が爆ぜて。
皮下と梨花の周囲を覆っていた樹海が、草の根一本残らず消し飛んだ。
皮下は空を見上げていた。
その眼には驚愕が宿っている。
空。あらゆる雲が晴れた、真昼の青空。
其処で太陽を背にしながら落ちて来る小さな影が一つあった。
「――馬鹿な。アレを、破ったってのか」
体の殆どを花弁で補いながら。
折れた神剣を確りと握って、桜花は其処に居た。
「は」
皮下の喉から乾いた声が漏れる。
それは完全なる根負けの声音だった。
今の一撃は正真正銘の全力であった。誓って嘘ではない。
それさえもこの少女は乗り越えてのけた。
文字通り金魚すくいの網を破るように、凌駕してのけたのだ。
「はは、はははは――こりゃ無理だ。お手上げだな」
よって皮下は此処に万策尽きる。
彼は古手梨花と戦う手段の全てを失った。
「やっぱ歳なんて…取るもんじゃねえわ。どれだけ見かけを誤魔化したって、若者(ほんもの)の熱には勝てないもんなんだなぁ……」
さらば。
愛に出会い、愛に狂した者。
幾千の犠牲を積み上げながら、最後まで悲劇の女に尽くした男。
世界に怖気立つ程優しい死を吹かせようとした怪物。
半ばで欠けた神剣の刀身が空からその頭蓋へと振り下ろされて――
「つーわけで認めるよ、勝負は俺の負けでいい。但し本懐は遂げさせて貰う」
-
「…ッ!?」
いざや散華と言ったその瞬間。
皮下真は、自らの山脈のような巨体を当然のように切り捨てた。
「どうした? もしかして本気で真っ向勝負してくれるとか期待してたか? 駄目だぜ梨花ちゃん、大人の言う事簡単に信じちゃ」
上半身だけの状態で離脱した皮下。
その真下で、今まで猛威を奮っていた巨体が嘘のように沈黙する。
理屈としては蜥蜴の尻尾切りと同じだ。
皮下は梨花への敗北を認めながら、肉体の死を避ける為に此処で古い体を捨てたのである。
「色々格好良い事言わせて貰ったけどな。俺は結局…最後に勝てれば後はどうでもいいんだわ」
皮下の勝利条件は種まき計画の成就。
そして、梨花が制限時間に到達する事。
梨花の想定外の奮戦により前者は破綻した。
だが後者ならば今からでも掴み取れる。
皮下は彼女への敗北を認めながら、然し勝利だけは逃すまいと逃げの一手を打ったのだ。
「待ち、なさい…! 皮下ぁ……!」
「楽しかったよ。そしてありがとな」
梨花にもう時間はない。
間に合わない――逃げられる。
失意の梨花へ皮下が向けるのは感謝だった。
「こんな形で終わりはしたが…アイツの言葉を届けてくれた事には素直に感謝してる。最後の敵が君で良かったよ」
…斯くして終焉。
夜桜対決は少女が制したが。
勝負の真髄の部分は魔人が掻っ攫う。
それが意味するのは世界の滅び。
あらゆる人間の死と、皮下真の願望の成就だ。
-
「――まだ」
そう。
「――まだ、おわってない…!」
この対決が本当に一対一だったならば。
皮下真は、間違いなく勝っていた。
-
「――何」
肉体を捨てて翔び立った皮下の側頭部に衝撃が走った。
殴られた。それは解る、だが誰に?
答えは明らかだった。
今響いた終わりを拒む幼き声を、皮下真は知っている。
「どうして、お前がまだ…」
結末に否を唱えたのは一番最初に散った虹花の少女だ。
大神犬の遺伝子を宿した成功作の一体、アイ。
彼女が皮下の虚を突いて打撃を加え、彼の逃走経路を破壊した。
アイは皮下に腹を裂かれた。
その上で桜生い茂る地表に叩き落されたのだ。
生きている筈がない。
疑問と共に少女の姿を見れば、其処には凄惨な姿があった。
「アイさん、約束したもん…」
幼い体には桜が生えていた。
桜の苗木が患部から突き出て体の形を大きく歪めている。
顔の半分が溶けて原型を失っており、誰が見ても永くないと解る――生きている事が不思議な程の容態で。
それでもアイは梨花を助けに来た。
その拳で、逃げる夜桜を殴り飛ばした。
「梨花の事、助けるって…約束した、もん……!」
皮下の脳裏に走った動揺。
全くの予想外。
アイに驚かされるのはこれで三度目だ。
二度ある事は三度あるとはよく言った物だが、すぐに脳を冷静へ引き戻す。
“まだ回避は間に合う。俺の開花を使えばどうとでも……”
所詮アイは可能性なき者。
大局は揺らがず結末は変わらない。
重篤な損傷を被った体に鞭打ち桜の蔦を生み出す。
これをワイヤー代わりにして動けば距離を稼げる。
今の梨花が相手ならそれでも十分事足りる筈――そう思った所で。
皮下は、音を聞いた。
ぶうん。
-
「残、念…!」
それと同時。
真下で物言わぬ廃棄物と化していた、皮下のかつての総体から何かが飛び出た。
「だったなァァアアアアアアアア!!!」
チェーンだ。
その主が誰かなど最早言うまでもあるまい。
肉と桜の山が内側から切り崩されて破砕。
そして、内側から血塗れの少年が飛び出した。
神戸しおのライダー、デンジ。
皮下が封じ込め無力化した筈の雑兵が、伏兵に生まれ変わって彼の命運を絡め取ったのだ。
「…アイめ……! やってくれたな、このクソガキ………!」
デンジへの警戒はずっとしていた。
彼が逃げる己へ何かしてくる可能性は想定していた。
それだけならば対処出来る筈だったのだ。
然しその状況に陥る前に起こった不測の事態が全ての想定を覆した。
アイ。この場で最も無力で無価値だった少女の意地。
運命の車輪に紛れ込んだ小さな小さな一個の砂粒が、目前に迫った勝利を破壊する。
「やれ!」
「やっちゃえ…!」
拳を振り抜いた格好のままのアイ。
チェーンで皮下を繋ぎ止めたデンジ。
二人の言葉が、重なった。
「「梨花ァ!」」
彼らの境遇は呉越同舟。
されど今この時だけは一つの目的の為に。
皮下は動けない。
彼もまた満身創痍――そして凶悪なる巨体は切り捨ててしまった。
そんな男に目掛けて。
古手神社の巫女、桜花の血脈の末子が神剣を突き出す。
「――――――――!」
最後に響いたのは誰の叫びだったか。
定かではないが、一つだけ確かな事がある。
折れた神剣は過つ事なく振り下ろされた。
その上で皮下真の――春来に至りし夜桜の魔人の心臓を、確りと貫いていた。
◆ ◆ ◆
-
桜の雨が降るのを見た。
梨花は一瞬それが何だか解らなかったが、すぐに気付く。
“ああ――”
これは自分の体だ。
崩れ形を失った自分の体が桜に変わって散っているのだ。
“終わったのね、全部…”
死を目前にして、然し梨花は冷静だった。
死なんて百年の魔女にしてみれば幾度も超えてきた丘でしかない。
それに今回のが終わっても、また何処かで新たな物語が始まるのだと解っているから怖くはなかった。
また何かのなく頃に、自分は物語の門出を見る。
悔やむ事があるとすれば方舟の彼女達の行く末を見届けられなかった事。
後は全てやり切った。
皮下を斃してつぼみとの誓いも果たせた。
このまま風に身を任せて散るだけだ。
何とも気楽で、そして安らかなものだった。
「梨花」
崩壊していく右手を握る感触があった。
一度は閉じた眼を開いてみれば、目前には虹花の少女の顔がある。
「…アイ。ごめんね、あんたを巻き込んじゃった。
あんただけならもしかしたら……霧子達と一緒に新しい世界で生きていけたかもしれないのに」
「えへへ…気にしないで、アイさんこーかいしてない……。
梨花を助けれてよかった……アイさん、生きてて、生まれてきて…………よかったぁ……」
彼女の体もどうやら限界のようだった。
元々生きているのが不思議なくらいの状態だったのだ。
目的を遂げて、張り詰めていた命の糸が切れてしまったのだろう。
もう痛覚も働いていないのか面影を残している半面は安らかだ。
「あのね…でもね……アイさん、死ぬのは………まだちょっと、こわいの…………」
可能性なき者でも明日に辿り着ける。
その可能性は確かに示された。
けれど、叶いはしなかった。
方舟の崩壊が無かったとしてもアイは生き残れなかった。
それでも、誰の眼にも止まる事なく無価値なまま塵芥のように消えてなくなる事だけはなかった。
-
彼女は一矢を報いたのだ。
皮下に対しても、そして傲慢な聖杯(かみ)に対しても。
未来の事だって思っていいのだと示す事が出来た。
少女はそうして生きて、こうして死んでいく。
「だから、ね…梨花……」
「うん」
「手を、握ってても………いい…………?」
「…勿論」
桜の雨が降り頻る中で少女達の命は尽きる。
アイに抱かれて墜ちていく中でも梨花は微笑んでいた。
隻腕で彼女の手を握りながら、寄り添っていた。
「よくできました。偉いわ、"アイさん"」
「……………えへへ………………」
そうだ。
とってもよくできた。
自分もアイも。
この世界に生きた誰も彼も。
みんな、よく生きた。
“あぁ…疲れた。流石にちょっと眠たくなってきたわ”
落ちて行く。
只何処までも落ちて行く。
でもその先はもう奈落ではない。
井戸の底なんかじゃ断じてない。
百年を生きた魔女は物語を終えて、新たな旅立ちを迎えるのだ。
これはその前の、ほんのちょっとした仮眠に過ぎない。
“一眠りしたらすぐに行くから…今度は、不貞腐れたりしないで……大人しく待ってなさいよね………”
先に旅立った親友の顔を思い浮かべながら梨花は再び眼を閉じた。
それきりだ。二度と瞼を開ける事はなく、古手梨花はこの世界から永劫に消失する。
軽い音がひとつして。
地には人獣の少女が一人眠っているだけ。
桜の花を胸いっぱいに抱き締めながら、少女は静かに眠っていた。
【古手梨花@ひぐらしのなく頃に業 脱落】
◆ ◆ ◆
-
花びらが一枚、少女の額に触れた。
『ごめんなさいね。悪いようにはしないから』
響いたのは女の声。
それと同時に意識がぷつんと落ちる。
『少しだけ、貴女の体を貸してください』
◆ ◆ ◆
-
…立ち上がる。
そして敗北を噛み締めた。
現実逃避など許されない程明確にその光景は広がっていた。
夜桜の樹海が枯れていく。
世界を満たす滅びの花が。
もう二十秒もあれば種を撒けていた筈の夜桜が、生まれた時と同様に急速に朽ちていく。
その光景を前に皮下は「は」と小さく笑った。
彼の体は五体満足の状態にまで再生していたが、先刻までの煮え滾るように暴力的な生命力は何処にも見られなかった。
――敗けたのか、俺は。
ソメイニンの躍動が感じられない。
鬼ヶ島ごと地に落とされた時も確かに危なかった。
然し今のこれはあの時のとはまるで違う。
体の全てが限界を迎えている感覚があった。
細胞、臓器、筋肉、骨、神経まで全てだ。
どうも今しがたの再生で全ての余力を使い果たしてしまったらしい。
「…梨花ちゃんは先に逝った、か」
それでもこの有様ではどうにもならない。
全てを失う破滅からさえ立ち上がった皮下でも、これは流石にお手上げだった。
そも、最後の再生だって申し訳程度のものでしかなかった。
体の中で正常に機能している部分は推定で一割を遥かに下回る。
恐らく自分はものの数分で"枯れる"だろうと皮下はそう理解していた。
つまり、これは負け犬が敗北を噛み締める為に与えられた意地の悪いロスタイムという事だ。
-
幽鬼のように一歩を踏み出す。
一歩が重い。
歩くだけで存在が霧散する錯覚を覚える。
あの紙麻薬、一応抱えておくべきだったか。
そんな益体もない事を考えながら歩く事数メートル。
其処で皮下は霞む視界の先に一人の少女を見付けた。
覚えのある少女だった。
付き合いで言えば全ての聖杯戦争関係者の中で最も古い。
けれど違うと一目で解った。
何が違うのかと聞かれれば上手く説明出来る自信はない。
それでも、違うと思ったのだ。
そんな男に。もう死ぬのを待つだけの敗者に。
少女は、幽谷霧子は――
霧子の姿をした"誰か"は柔和な笑みで口を開いて。
「お久しぶりです、川下さん」
そんな事を…お日さまの少女が言う筈もない事を、言った。
「私の為に…大変な苦労を掛けてしまいましたね」
皮下の眼が見開かれる。
古手梨花の予想だにしない強さを目の当たりにした時。
アイの乱入を受けて命運を断たれた時。
そのどちらよりも強い…忘我の境に立たされる程の驚きが見て取れた。
「でも、もう十分です。私はもう大丈夫だから」
これは霧子ではない。
霧子の体を借りて喋っている何かだ。
その名については敢えて語らない。
語らずとも、解るからだ。
少なくとも皮下には。
「共に足を止めましょう。私は、先生(あなた)と出会えて幸せでした」
――男は笑みを浮かべた。
前髪が双眸を隠している。
「苦痛に満ちた、呪いのような人生でした。それでも…貴方が私に語ってくれる未来にはいつも心が踊ったものです。
幼い日に…まだ幸せだった頃に聞かされた寝物語のように、貴方の言葉には希望が溢れていました。
先生と話している時だけは、ふふ――只の少女のように夢を見られた」
…夜桜は呪いの花だ。
その血は人を不幸にする。
悲劇と争いを生み続ける。
その事を男はよく知っていた。
だというのに片時もそれに背を向ける事は出来なかった。
それは何故なのだろう。
答えは、もう出ている。
「だから」
女はそう言って、少女のように笑った。
「もう、どうか休んで下さい。ね?」
…情けのない話だ。
皮下は自嘲する。
悟ったような面で決意を吐いておいて、言葉一つでこの体たらくとは。
そう思いながら男は漸く言葉を紡いだ。
「…ホント、最悪の女だよ。お前は」
でもお前がそう言うのなら。
もう、いいか。
体から力が抜ける。
保っていた命がかくんと折れたのを聞いた。
「おやすみなさい、川下さん。ありがとうございました」
灯火が消える直前、鼓膜に触れたのは忘れるべくもない女の声で。
「…あ、れ……?」
少女の体を借りていた"彼女"が離れ、元のお日さまが帰ってきて。
「皮下、先生………っ」
少女が自分の名を呼んだのと丁度同じタイミングで。
ぱぁん、という軽い音が響いて。
其処で咄嗟に右手を突き出して。
短い悲鳴を漏らしながら吹き飛ぶ少女の姿を視界に収めながら――背中に強い衝撃を感じて。
其処で皮下真という愚かな男の意識は永遠に途切れた。
【皮下真@夜桜さんちの大作戦 脱落】
◆ ◆ ◆
-
時は僅かに遡る。
未だ夜桜の樹海が覆う渋谷の大地を、三人の猛者が躍動していた。
「は――…!」
月の呼吸 拾陸ノ型――月虹・片割れ月。
間断なき斬撃の連打にて斬り込むのは黒死牟。
そして彼の作り出す機に乗じて新免武蔵が跳ぶ。
殺到する鎌鼬の悉くを切り捨てながら、たかがいち剣士とは思えない駆動で距離を詰めていく二天一流。
身を回転させながら放つ斬撃は牽制でありながら確かに血飛沫を散らしている。
それは黒死牟にも同じ事が言えた。
武蔵も黒死牟もこの戦に列席する資格は当たり前に持ち合わせており、そして…
「ウォロロロロロ! キくぜ…!」
「そんな嬉しそうな顔で言われても、説得力無いのよね…!」
「阿呆が、おれァ今楽しんでんだぜ!? 楽しい宴にゃ笑顔は付き物だろうに。まぁ尤も」
そんな二者の猛攻を単独で喜悦を浮かべながら捌き。
「アレだけ大見得切りやがったんだ…もっと魅せてくれなきゃ困るがなァ!」
まだ足りん。
もっと魅せろと吐き捨てながら暴れ狂う存在こそが、剣豪二人が挑む最強生物。
悪竜現象へと到達した桜花舞台の真打竜王――カイドウである。
「"夜桜八卦"ェ!」
桜が吹き上がる。
それと同時に打ち据えられたのは武蔵だった。
刀越しに伝わる衝撃だけで五臓六腑が悲鳴をあげる。
マスターである皮下の増長に合わせて高まっていく夜桜の力。
その影響を貪り食って放たれた一撃は、威力速度共に両手打ちの"砲雷八卦"をさえ超えていた。
「づ、ッ…まだ、まだあッ!」
とはいえ剛撃も神速も最早見慣れている。
武蔵もまた凄絶な笑みを浮かべながら、すぐに復帰して刃を振るった。
銀閃の白と覇王色の黒が混ざり合いながら混沌を奏でる。
その激突の中で咲き誇るのは花に非ず、月を象った斬撃の大河だった。
「…! まるで曲芸だなァ!」
それは奇しくもベルゼバブ戦で、彼の弟が見せた芸当。
月を踏み締めながら足場として敵へ肉薄する掟破りの歩法。
判断を謝れば一瞬で足が膾切りになる事請け合いだが、黒死牟はそんな事一瞬だって憂慮してはいない。
彼は天眼の持ち主に非ず。
然し今、黒死牟は只目前の竜を斬る手段の模索のみに神経を注いでいた。
六つ目――ついぞ弟を超すには至らなかった強さへの希求の名残を神経が千切れる程強く集中させる。
一刀一刀に意味を持たせる。
無意味な剣等この期に及んで放たない。
全ての刀捌きに必殺の気合を込める。
そんな黒死牟の意気を買ったように、閻魔の刀身は此処に来て黒死牟が振るった中で最大の冴えを見せつつあった。
「ち…!」
月の呼吸・拾伍ノ型――虧月・牙天衝。
黒き閻魔の縦振りがカイドウの肉を裂いた。
-
ベルゼバブの時には自分だけが明確に及んでいない自覚があった。
それに劣等感を覚えもした。
だが今は違う。
牛歩ながら確実に、敵の命に迫れていると感じる。
“これが…”
黒死牟が抱くのは感嘆にも似た感情だった。
昔は知っていた、然しいつしか忘れてしまっていた感情。
“これが……剣を振るうという事か………”
それを呼び覚ましたのが誰であるか追及するのは無粋が過ぎよう。
彼がその魂を背負った弟だったかもしれないし、異国の傾奇者だったかもしれない。
そうでなければ二天一流の女剣士か、はたまた眩い銀光の娘か。
誰であろうと黒死牟が今、数百年振りに生を実感しながら剣を振るえている事は動かぬ事実であった。
一閃刻んだ返す刀に八斎戒で顔面を叩き潰される。
その痛みさえまるで気にならなかった。
疾く刀を振るおう。
次の剣を試し、竜殺しに挑まねば。
そんな思いのままに立ち上がる黒死牟を余所に新免武蔵が覇を吐いた。
「おおおおおおおおッ!」
「ぜやああああああッ!」
激突――逃げも隠れも小手先も無し。
唾を吐き砂を掛け相手を翻弄するのも武蔵にとっては立派な正道。
だがこれ程の怪物が相手となっては斯様な小技に意味は皆無。
猪口才に策を弄する暇があるなら斬り込んだ方が遥かに有益。
結局、あまりに規格を外れ過ぎている相手に対しては正攻法こそが最も適した攻略法となる。
「"軍荼利龍盛軍"――!」
「ッ、く…お、おおおおおッ!」
まさに流星群が如し連撃。
全て捌くのは無理難題だ。
一撃二撃と漏れた分が武蔵の体を打ち据え破壊する。
人獣化を果たしているが故の速度を前に、日ノ本にその人ありと畏れられた天元の花でさえ付いて行けない。
そして流星群が降り止めば次に訪れるのは単純無比な薙ぎ払い。
辛うじて身を屈め掻い潜りつつ、斬り上げて得物を弾く。
腕の軋む激痛を無視しながら斬り込んだ武蔵に、カイドウが大地を踏み鳴らした。
震脚。まさに地面へ縫い止める為の技巧。
カイドウ程の巨体の持ち主が行えば、それは当然気休めの域には収まらない。
武蔵の歩みを強制的に止め。
その上で、特上大業物の打擲を確実に叩き込む。
「ッ」
溢れ出す吐血を拭っている暇も惜しい。
刀を楔代わりに地へ突き立てて吹き飛ぶ体を抑制する。
狂笑と共に向かって来る怪物を阻んだのは黒死牟だった。
地を這う無数の月閃が矛と盾の役を両立しながら悪竜を阻む。
「恩に着るわお兄ちゃん!」
「…その呼び名は……やめろ………」
阻めた時間は一秒弱だが武蔵の復帰までには十分。
月が砕けるなり、剣豪二人が共に閃撃を放つ。
十字に交差した二刀の剣戟。
そして玖ノ型、降り月・連面。
カイドウはこれに対して逃げも隠れもしない。
振り上げた八斎戒を振り落とす"引奈落"の一撃で対処する。
武蔵の二刀を力で無力化しながら連面の月をねじ伏せる。
その上で間近の二人を撃滅すべく居合めいた構えを取った。
大仰な動作から繰り出されるそれが破壊的な威力を秘めている事は見えていたが、此処で剣豪達は退かずに前へ出る。
-
「「――――!」」
負傷は愚か即死も恐れない突撃は成果をあげた。
それぞれの剣戟が直撃して、カイドウの形相が苦悶に歪む。
「ぐおおおぉッ…!」
カイドウの肉体は頑強の極みにある。
だが決して不変ではない。
刺せれば、斬れれば、ちゃんと血を流すし痛いのだ。
ならば討てる。
勝てない相手では決してない。
その事を改めて確認しながら、次に技を弄したのは黒死牟。
この好機を無為にしない為にも間断なく剣を繰り出し竜を刻みに掛かる。
参ノ型――厭忌月・銷り。
「ウグ…!」
X字に重なった斬撃がカイドウへ直撃。
これに続けと武蔵が剣の軌道へ飛び込むように踏み込んだ。
「往生なさい――竜王!」
「ぐあああああああッ!?」
黒死牟が付けた傷を押し広げるように叩き込む斬波。
誇張なき乾坤一擲は事実、カイドウに相当の痛手を与えていた。
二十尺を超える巨体がたたらを踏む。
火祭りの宴は確実にこの怪物を削っている。
「ハァ…ハァ……! 効いたぜ………」
だが何故だろう。
どれだけ斬っても、まるで終わりが見えて来ないのは。
攻撃は確かに通るのだ。
肉体はちゃんと削れるのだ。
では具体的にその耐久値を零にする為にどれだけの値が要求されるのか、その答えがいつになっても浮かんで来ない。
まるで雲海の向こうまで聳え立った霊峰の岸壁を相手に鶴嘴を振るっているような。
そんな絶望的な徒労感が、劇的な筈の戦果の裏に常に付き纏ってくるのを感じずにはいられなかった。
「侮り過ぎたな、悪かったよ…此処からは多少避けるようにする」
「は…何よそれ。今まではわざと避けてなかったって言いたい訳?」
挑発とは取らない。
負け惜しみ等では断じてないと解る。
この男はそういう生き物だ。
戦いを楽しむが故に出し惜しむ。
全ての武力を解放しながらも、此処までカイドウは回避というカードだけは切らずにいた。
然し事此処に来てその封さえもが解かれた。
その意味する所は言わずもがな――
「必要ならちゃんと避けるさ。馬鹿じゃねェんだから」
更なる絶望の具現だ。
試すように放った武蔵の剣が空を切る。
それどころか黒死牟の広範囲斬撃さえ一発も当たらない。
すり抜けるように月海を抜け、気付いた時には雷鳴と共に黒死牟は吹き飛んでいた。
“…馬鹿、な……”
視えなかった、全く。
六対の朱眼をして感知不能。
達人の動体視力を六倍に跳ね上げてそれでも視えない。
それ程の速度を回避に回す事も可能だと言うのだ、この竜王は。
-
戦慄していたのは何も彼だけではない。
新免武蔵もまた、漸く影を踏めた相手の姿が遥か彼方へ遠ざかっていく錯覚を覚えずにはいられなかった。
「何処まで出鱈目なのよ、貴方――!」
追い縋る剣がひらりと躱される。
重ねた二の手は受け止められた。
剣と金棒の応酬が繰り広げられ、カイドウの勝利で幕が引かれる。
天空へ武蔵の体をかち上げ、更に今度はカイドウがそれを追った。
跳躍力のみで浮かぶ武蔵へ追い付き追い越し…奈落行きの片道切符を押し付ける。
「そう何回も…! 同じ手、食うかっての……!」
然し武蔵も只やられるだけではない。
放たれた一打に向け剣を振るうのは勿論として、そのまま自らの足で剣身を蹴りつけて離脱を図る。
無茶の代償に手足は砕けたが夜桜の血がその尻拭いをしてくれる。
新免武蔵は勝つ為に手段を選ばない。
その場で使える全てを使って勝利する、そういう剣士だ。
呪わしき夜桜の血さえ彼女にとっては勝ちへの布石。
無茶で道理を抉じ開けた武蔵を俯瞰しながら、カイドウはそれでこそだとでも言うように笑い。
「ウォロロロロロロロロ…! またしても宿願に逃げられた時はどうしてやろうかと思ったが、悪くねェ!
楽しいじゃねェかよ聖杯戦争! 見てるかキング! クイーン! ジャック! 飛び六胞その他バカども!
お前らも精々おれの霊基(なか)で踊って騒げ! 今日は火祭り、無礼講の宴の日だ!!」
再び竜へと化ける。
悪竜は空へ。
桜の天蓋を背に、哄笑と共にあぎとを開く。
「魔力を回せ皮下ァ! 今のおれは上機嫌だ! 見た事のねェもんを見せてやる!」
その宣言に偽りはなかった。
構えは十八番の熱息とまるで同じ。
だが其処に集まっていく魔力の桁が違う。
桜の花弁が渦巻き、炎に混ざって彩るという科学法則を完全に無視した現象が発生する。
花弁は燃焼するどころか更に炎の熱と純度を高めていく。
武蔵、黒死牟。両者の頭の中にある単語が過ぎった。
対城宝具、という単語が。
「――――"花嵐竜王"!」
純粋な熱量は言わずもがな。
其処に悪竜化を果たした事で沸き上がった魔力が加算。
その上で皮下経由で流れ込ませた莫大なソメイニンを用いブレスそのものを加工する。
そうして完成したのは花嵐。
春に吹く、桜の災禍。
それがカイドウの口腔から解き放たれた瞬間。
火祭りの会場たる桜花爛漫の死合舞台が、逃げ場なき炎の波に覆われた。
-
「…生きてる、鬼さん?」
「…………、……見て……解れ………」
嵐の過ぎ去ったその後に。
辿々しい声が二つ響く。
黒死牟の姿は惨憺たるものだった。
胴体がごっそりと抉れて消し飛び、残る体も大部分が炭化している。
それに比べれば武蔵はまだ見れる姿を保っていた。
たかだか右の脇腹を焼き切られ、内臓が三つ程熱で完全に消失した程度だ。
“リンボの御坊に感謝する日が来るとはね”
遡る事数刻前。
龍脈の力を取り込んだアルターエゴ・リンボが繰り出した極大の炎(メギドラオン)を武蔵は見ている。
あの時に炎の斬り方という物の核心を掴んでいなければ、恐らく今の一撃は凌げなかったに違いない。
夜桜の血を窶しているとはいえ武蔵が受けているのは所詮梨花経由でのお零れ。
つぼみと直で接続されている梨花程の再生力を武蔵は持たない。
手足の破損や内臓の単純損傷ならいざ知らず、全身を広範囲に渡り消し飛ばされでもすればお手上げだった。
事再生力において武蔵は梨花は愚か黒死牟にさえ遠く及んでいないのだ。
だからこそ技が必要だった。
技のお陰で助けられた。
花嵐の到来を受けても生を保ち立ち続ける好敵手を前にして、人獣に戻ったカイドウは満足気だ。
「素晴らしい。これだから侍は好きなんだ」
冗談だろうと言いたくなる。
天に名高き二天一流。
上弦の壱、その宿命を乗り越えた鬼剣士。
極上の手練と呼んで差し支えないだろうこの二人が並んで連携まで繰り出し戦っているのだ。
なのにカイドウの体には未だに致命傷一つない。
彼の"果て"は相変わらず雲海の彼方。
「お前らは良い。その生き様も死に様も…見る者の心を躍らせる。
さぁどうした。もっと魅せろよ、覇を吐いたのはてめえらだろうが。
おれを殺しに来い剣士ども。悪竜(おれ)は此処に居るぞ。此処で生きているぞ」
「…ほんっと……好き勝手言ってくれるわ………」
認めるしかない。
結局、何度でも其処に立ち返ってしまう。
この男は本物の怪物だ。
生物としての格が違う。
存在としての次元が違う。
神とも悪魔とも、何なら竜とさえ違うだろうこの世の何よりも闘争に特化した生命体。
それがカイドウ。
この世における最強生物。
海賊、四皇。
時代の番人。
「生憎だけど、"侍"じゃあないのよ」
それを前にやれる事は決まっていた。
斬るべき者が目前に居て、生きているというのなら是非も無し。
体は動く。剣は残っている。
譲れぬものが胸にはある。
であれば、すべきは一つ。
為すべきを見据えて天眼が駆動する。
-
「私達は一人の剣士として此処に立ってる。
生き様でならいざ知らず、死に様で貴方の心を躍らせる気なんてさらさら無いわ」
黒死牟も無言のままで剣を構え直した。
肉体の再生はまだ完了していないが、それは手を止める理由にはならない。
口に出して同意する事はなくとも、彼の心中もまた武蔵と同様である事を物語っていた。
そんな黒死牟へ武蔵が言う。
「ねえお兄ちゃん。首級は早い者勝ちなんて言っておいて本当に悪いんだけど、一つ勝手を聞いてくれるかしら」
「貴様が……勝手でなかった時が、あったか……?」
「あの怪物(ひと)と、一騎討ちをさせて欲しいの」
「――何…?」
黒死牟が眉間に皺を寄せる。
無理もない。
共闘しているとはいえ、黒死牟もまたカイドウの首の為に剣を振るっていたのだ。
そんな中でのこの提案は侮辱を通り越して愚弄にも等しい。
無言のまま剣を突き付けられても文句は言えない、まさに酷く勝手な発言だった。
然し武蔵はおどけた様子もなくそれでいて笑みを浮かべた。
「…もう時間が無いみたいでね。それらしく約束はしてみたけれど、やっぱりどうにもならない事ってあるもんですなぁ」
…新免武蔵の限界については黒死牟も察知していた。
霊基の急激な変質は不安定さと表裏一体だ。
今にも消えそうな陽炎のような不確かさが今の武蔵にはあった。
「多分…もって後数分。そのくらいでまず私のマスターに限界が来る」
梨花に残されている時間は確かに少なかったが、それでももう少しは持ち堪えられるだろうと踏んでいた。
にも関わらず明らかに刻限が早まっている。
それだけあちらの戦いが熾烈だと言う事なのだろう。
只でさえ無理を押して動かしていた幼い体。
もう直に、古手梨花は己が寿命に追い付かれる。
そしてそうなれば要石を失った武蔵も終わりだ。
ましてや彼女は放浪者。
吹かれて飛んで世界を渡る特異点。
楔を失った布が風に曝されたらどうなるかなんて解り切った事だ。
「因縁に決着を着けると息巻いてやって来たのに、尻切れ蜻蛉だなんてこれ程格好付かない事もないでしょう?
だからね。もしもあなたが赦してくれるなら、ちょっとだけあの竜王さまを独り占めしたいなーなんて」
「…、………お前は……本当に、虫の好かない女だ………」
聞き入れてやる理由はない。
知るかと突っ撥ね、斬りたければ励めばいいだろうと正論を叩き付けて終わればいいだけの話だ。
だと言うのにわざわざ嘆息と共に剣を下ろした理由は錆が取れたからか、陽光の少女の好影響か。
それとも――己が不変の運命と据えていた男に先立たれた境遇が彼にそうさせたのか。
本当の所は解らないし黒死牟も決して語らないだろう。
確かな事は、一騎討ちの申し出は聞き入れられたという事。
「好きに、しろ…死に損ないめ……」
「ありがと。でも重ね重ねごめんね、貴方の分はきっと残らないわ」
「戯けが……そうなれば、消える前に貴様を斬り捨てるだけの事………」
「あははっ、おっかない! でもそうね、最後にリベンジのお誘いくらいは受けてあげようかしら!」
「……待て………私がいつ……貴様に敗けた…………?」
これより新免武蔵。
幾度目かの死地に入る。
思い出すのは神々の土地。
全てを賭して原初神と相対した記憶。
踏み出す――前へ。
相対するのは最強の竜王。
此度己が捕らえるべき極上の蝉。
「話は済んだか?」
「えぇ。聞いてたなら説明は要らないわね」
「ウォロロロロ…生意気な上に強欲か。救いようのねェ女だ」
「あら。鉄火場に生き甲斐を求める人でなしなんて、大なり小なり皆そうだと思うけど?」
「違いねェ。だがこのおれを喰らえると信じてるんなら残念だったな」
覇王色の覇気が轟き渡る。
「感じるだろ? 皮下の野郎が拵えた樹海がもうじき弾ける。誰にも止められねェ。それに、何よりもだ――」
神霊の威圧にも劣らない暴性の発露。
骨身にまで染み入る痺れが不思議と今は心地良い。
「おれは強ェぞ!? 二天一流……!」
「結構結構! 竜殺し承りましょう、今こそ!」
さあ、いざ――尋常に。
「「――勝負だァッ!」」
-
先手は武蔵だった。
最後と解っているから出し惜しみは一切ない。
初撃から全ての打算心算を解き放つ。
剣戟を重ねて十重二十重、縦横無尽そのものの乱舞を見舞って魅せる!
「多少は速くなったか」
然しそれに平然と適応するカイドウ。
金棒を振り回すだけに見えるが武蔵には解る。
其処に一体どれ程の研鑽が介在しているかが見える。
改めて凄まじい――こうも強く生まれた生物が此処まで自己を鍛え上げる等並大抵の所業ではない。
闘争の為に生まれたような男が、闘争の為に鍛錬を重ねた末の完成形。
その一撃を受け止める度に感じる戦の真髄。
不謹慎は承知で胸が躍るのを禁じ得ない。
この男を斬り伏せる事が出来たなら、嗚呼一体どれ程勝利の美酒は旨いだろうか。
「"夜桜八卦"!」
一撃・一閃。
武蔵は受け止める。
いや、只受けたのではない。
流しているのだ――衝撃を。
「――! ほォ…!」
その両腕は黒く染まっていた。
見慣れた色だ。
武装色の覇気……否、敢えてこう呼ぼう。
竜王に仇成す者の黒腕を指すならばこの言葉こそが相応しい筈だから。
「てめえも其処に達して来たか!」
「なりふり構ってられないので、ね!」
"流桜"と。
カイドウの打撃を流しながら、身の丈の小ささを活かして舞い踊る。
袈裟懸け一閃。
放った斬撃が竜の体を斬り裂く。
「浅ェなァ!」
だが最早悲鳴すらあげてはくれない。
今のカイドウに一切の遊びはなかった。
武蔵もそれを承知しているからこそ驚かない。
この竜を真に斬るには、もっとずっと深くへ届く一太刀が必要だ。
「ウォロロロロロロ!!」
「が、ッ――!」
お返しだとばかりに振るわれる猛撃。
だがそれは武蔵を打ち、動きを止める為の前座でしかない。
カイドウが得物を握る力を数倍にまで強めて力む。
特上大業物の八斎戒ですら悲鳴をあげる"溜め"は特大の不吉さを武蔵に覚えさせた。
竜王の巌の如き肉体が万遍なく黒雷を帯びていく。
その上で遂に出力させた"本命"、それは不撓不屈の風来坊をさえ一度は地に沈めた一撃。
「"大威徳雷鳴八卦"ェ――!」
全力の膂力が振り抜かれ、武蔵は死を幻視した。
いや、実際に僅かな間だが肉体は死んでいた。
心臓は脈動を止め脳はあらゆる信号を鎖す。
-
体が…本能が死を誤認する程の破壊。
武蔵は頬の内側の肉を噛み潰して辛うじて、本当に辛うじて意識を復活させる。
恐るべしは剣豪の生存ならぬ戦闘本能。
本気の剣鬼は死さえ跳ね除けて剣を振るい続けるのか。
「…天晴! とうに極限ね、その技!」
「敵を褒めるたぁ奇特な事だ。切った啖呵を悔やんでいるのか?」
「まさか」
武蔵が白い歯を覗かせた。
悔やんでいる顔ではない。
臆している顔ではない!
「これから乗り越えるから、褒めてやったのよ――!」
新免武蔵、堂々の復活!
放つ剣の冴えにカイドウでさえ眼を瞠った。
回避が間に合わなかった。
神の写し身の全力さえ視認してからの回避を可能とする彼が、だ。
“速ェ…! この女、つくづく……!”
唆るじゃねェか、と。
歓喜の中でカイドウは斬られた。
知らず自分が歯を食い縛っていた事に気付く。
重い。そして痛い。
一撃浴びる毎に命が削られていく感覚が確かにある。
この感覚はそれこそあの時以来。
皇帝の座を追われた、あの戦い以来か。
「お、おおおお、おォ――」
忘れもしない宿敵の風来坊の顔が過ぎり。
そして自身へ引導を渡した、白い青年の顔が浮かぶ。
喜びのままにカイドウは叫んでいた。
この世界を見限っていたなんて我ながら節穴も良い所だった。
此処は至高の戦場だ。
あらゆる孤独を満たす可能性がこの世界には満ちている!
「――"桜流し龍盛軍"ゥゥン!」
軍荼利龍盛軍。
カイドウの手の中でも最高レベルの連撃だったそれが当然のような顔をして進化した。
桜を散らす雨の名を冠した暴力の流星群が武蔵の全てを蹂躙すべく迸る。
速度、威力、手数全てにおいて先刻見せた物の上位互換。
臨界を超えようとしている夜桜達の高まりに合わせたような怒涛の桜吹雪。
此処まで来ると最早全撃に即死の可能性が宿っている。
恐ろしい――だがあまりに楽しい。
武蔵は子供のように心を弾ませ流星斬りに挑み掛かった。
「イカれた野郎だ! この数と威力を斬り尽くせると思うのか!?」
「そりゃ、全部は無理でしょうけどね。でも――ッ」
捌き損ねただけ体が壊れる。
迫る刻限が早まっていく。
然し武蔵は挑んだ。
挑み、少ないながらも星を斬っていく。
-
四つ、五つ――六つ。
其処まで斬った所で武蔵は遂に狙いを遂げた。
「わざわざ全部斬らなくたって、殺し方は幾らでもあるのよッ!」
「…! そう来るかッ、悪戯娘が!」
流星斬りによって生み出した"連撃の空白"。
其処に滑り込んで力ずくで抉じ開ける。
そうして桜流しの雨霰を超える事に成功した。
まさに発想の妙。
カイドウやビッグ・マムのような絶対強者には思い付かず、またその必要性もない美しき小手先。
取るに足らぬ弱者の工夫でしかない筈のそれが今はこうまで心を打つ。
己の命に迫られているその実感がカイドウを何より充足させていく!
「斬り返せるかッ、カイドウ!」
「阿呆が――誰に物を言ってやがる!」
今度は此方の番だとばかりに武蔵が動く。
あらゆる技術を込めた斬撃が降り注ぐ中でカイドウは吼えた。
そう、目前の剣鬼に出来る事が自分に出来ない筈はないと。
吼えながら武を奮い、そして実際にそれ以上の芸当を成し遂げてのける。
武蔵の全撃を八斎戒の巧みな捌き方のみを頼りに防いだのだ。
その上で剣戟が絶えた一瞬未満の時間を見逃さない。
鋭く尖った衝撃波が走り、武蔵の腹を貫いた。
「く、ッ――…!」
「"金剛鏑"…!」
何でもありは今更だ。
カイドウに出来ない事の方が少ない。
壁を一つ越えたらまた次が出て来る。
キリがない――どれだけ歩めばこの大山に登頂出来るのか未だに見当が付かない。
化物め。
なんて理不尽。
ああ腹が立つ!
必ず斬らなきゃ気が済まない…!
「はああぁあああァ――!」
欲望を前に武蔵は慎まない。
腹を穿たれた痛みも忘れて次を放つ。
カイドウが避けるが想定内だ。
回避先を事前に予測して、一撃目を放つと同時に振るっていた二振り目の刀が彼を逃さない。
「ぐはッ…!? ……ウォロロロロ! 呆れた奴だ――見聞も無しにこのおれの未来を見やがったのか!」
武蔵は流桜――武装色の覇気――に開眼している。
だがそれだけだ。
彼女は覇気使いとしては赤子も同然であり、従って未来を読む見聞色の覇気なんて代物は遣えない。
武蔵は純粋な剣士としての経験と勝負勘に基づいた先読みでカイドウの上を行ってみせたのだ。
言葉にするのはあまりに簡単。
然し実際にそれを成し遂げるのがどれ程の難業か。
皆が皆そんな真似が出来るなら、彼は最強生物等と仰々しい呼び名をされてはいない。
「"徒桜八卦"!」
「上等――来いッ!」
速度重視、史上最速の雷鳴八卦。
それを武蔵は真っ向勝負で破りに掛かる。
あまりに無謀で無策な挑戦の代償は大きい。
当てたのはカイドウの方。
全身を粉砕する衝撃の前に武蔵が打ちのめされて拉げ飛ぶ。
だと言うのに彼女はやはり笑っていた。
カイドウもすぐにその意味を悟る。
何という女。
迎撃は囮に過ぎず。
武蔵は肉を切って骨を断つ、まさにそのままの行為を実行せんと目論んでいたのだ!
「捕まえ、た…!」
直撃、後方へ吹き飛ぶ衝撃に逆らって八斎戒を足場にする。
全身を抵抗に蹂躙されるが構いやしない。
そのまま躍り出た武蔵の二刀に、カイドウはもう居ない宿敵の影を見た。
桃源十拳――忘れるべくもないあの技を武蔵は偶然にもなぞっていた。
偶然なれど使い手が違えど、カイドウに対してかの奥義が響かない訳がない。
結果、武蔵がこれまで与えて来たどの剣よりも確かな痛手となってカイドウの体に消えない傷が深く刻まれる!
「ぉ"…おおぉお、ォ"……!!」
「――あは。漸くいい顔してくれた」
「ッ、は…! 高くつくぜ、この傷は……!」
「こっちの台詞よ、散々タコ殴りにしてくれちゃって。耳揃えて支払って貰うから覚悟しなさい!」
血を流すカイドウ。
血塗れの武蔵。
どちらも息は荒く乱れている。
互いに満身創痍なのは明らかだった。
それでも強いのはカイドウだ。
然し武蔵も譲る気はない。
――嘘みたいな静寂が、二人の間を吹き抜けた。
-
「時間だ。皮下が勝つ」
「時間って部分だけはその通りね。名残惜しいけど、そろそろ終わりにしないと」
夜桜の高まりが頂点に達しようとしている。
臨界点を過ぎた時点で皮下の勝ちだ。
彼の計画は成就し、聖杯戦争は終幕を迎える。
其処の部分は武蔵には今更どうする事も出来ない。
彼方で奮闘する梨花を信じる事だけしか出来ない。
武蔵に出来るのは、いま目の前に居る敵に勝つ事。
カイドウを斬り、少しでも梨花の勝利と世界のその後に貢献する事だけだ。
「行くわよ、カイドウ。泣いても笑ってもこれが最後」
「やってみろよ、セイバー。叩き潰して座に送り返してやるよ」
最後の啖呵が互いに切られる。
語るのはこれでもう十分。
後は直接、力と技で語るのみ。
戻って来た静寂の寿命は然し短かった。
武蔵が、足を浮かせる。
カイドウが、得物を握る。
その次の瞬間――二人の益荒男が風になった。
疾駆する武蔵。
それに倣うカイドウ。
もう技の応酬も一進一退の攻防もない。
この激突の果てに決着は着く。
どんな形であれ、戦いが終わる。
その事を共に理解しているからこそ、余力を残そうとする無粋は互いにしなかった。
「"大威徳雷鳴八卦"――!!!」
カイドウの咆哮。
覇気を極めた者の究極が再び解き放たれる。
「この一刀こそ我が空道、我が生涯! しかと見よ、カイドウ!」
武蔵もそれに呼応する。
謳うは空洞、零の剣。
唯一無二の更にその先。
天元の花が至った極奥の座が体現される。
概念としての強さならば圧倒的に武蔵。
だがカイドウは力のみでそれを埋め得る存在だ。
彼は怪物。闘争の権化たる戦神竜王。
故に彼は武蔵の零に驚嘆こそすれど、己の敗北等微塵も怖れない。
勝利の二文字を胸に抱きながら、筋肉から噴血さえさせて全力を込めたその瞬間――
-
「…!」
「何だと…!?」
二人の下に、もう一つの戦場の結末が届いた。
それと同時に枯れ落ち始める夜桜の樹海。
炸裂を待たずして枯死し始めたその光景こそが、どちらが戦いに勝ったのかを雄弁に物語っている。
“有り得ねェ…! 負けたのか、皮下……!”
カイドウは驚愕していた。
どう考えても有り得ない結末だったからだ。
皮下は怪物だった――化物だった。
アレを倒すとなれば連合の王やチェンソーの怪人で最低ラインだ。
よもや単なる小娘が夜桜狩りを成し遂げたなど、到底信じられる話ではなかった。
“…そう。走り切ったのね、梨花”
一方で武蔵は見送っていた。
悲しみはない。
寂しさはあるが、何処か心持ちは清々しかった。
梨花は勝ったのだ。
勝って、一足先に旅立って逝ったのだ。
それを涙に暮れて見送るなんて無粋と言う物だろう。
武蔵は梨花の生き様を知っている。きっとこの先も忘れる事はない。
だから――只見送る。
心優しくそしてとても強い、"あの子"みたいな女の子。
束の間の泡沫と言っていい短い時間の付き合いだったが、確かに自分には二人目のマスターが居たのだという事実をしっかり魂に刻み付けて。
そうして力を込め直し気合を入れ直した。
負けられない――カイドウにもそして梨花にも。
あの子の生き様に恥じないような勝利が必要だから武蔵は吼えた。
片や驚愕と動揺。
片や理解と奮起。
両者の間に生じた感情の異なりはそのまま差となって拮抗を崩す要因になり。
更に其処で、夜桜決戦の結果が及ぼす即時的な影響までもが二人の間に降り注いだ。
「…これは――」
夜桜の力の消失。
そしてマスターの喪失。
二つの理由が双方を弱体化させる。
だが、然しより大きくその存在を揺らがせたのはどういう訳かカイドウの方だった。
“――何故だ!? 何故おれだけが弱くなる…!?”
カイドウは新免武蔵の境遇を知らない。
彼女が抱える背景(バックボーン)を知らない。
武蔵は放浪者。
世界を渡り歩き、何か為しては何処かへまた流れていく流浪の者。
本来であればこうしてサーヴァントとして現界する事自体がイレギュラーと言っていい存在。
彼女はそれ故に、要石の無い状態という物に対して耐性があった。
単独行動とまで呼んでは大袈裟だ。
あくまでも僅かな耐性、されどそれはこの状況においては――
「伊舎那――――大天象ォォオオオオオオオオ――――――!!!」
「ぐ、お――――オオオオオオオオオオォオオッ――――――!!?」
両者の間に優劣を付けるこれ以上ない点として作用する!
カイドウの一撃が押し返されていく。
あまりの威力に武蔵の体は砕け散るが力は一切緩めない。
霊核崩壊。存在の強度の急激な低下――だからどうした。
“梨花! 漸く肩の荷下りた所かもしれないけど、それでも…! それでも、これだけ見ててくれると嬉しいなぁ!”
天眼は目的を果たす力。
そんな眼が、これでいいと言っている。
ならば恐れる事など何処にもない!
この先に――武蔵(わたし)の求む結末(こたえ)はある!
“これが、私の…!”
拮抗が、崩れて。
八斎戒が宙を舞う。
そして…
“貴女のサーヴァントの、剣よ――!”
新免武蔵の一撃が。
長い旅の果てに至った極限の剣が。
天地神明をも凌駕する最強の生物、悪竜現象"真打竜王"――
真名カイドウの霊核を、一刀の下に両断した。
-
「…あは。流石に、疲れたぁ……しんどぉ……」
やり遂げて地に大の字で倒れる。
疲労感は凄まじくて今にも眠ってしまいそう。
なのにそれが途轍もなく心地良くて清々しい。
さて、次に目覚めたら自分は何処へ出るのか。
サーヴァントらしく英霊の座とやらに送られるのか。
それとも…また見知らぬ世界に漂着しているのか。
定かではないが、それにしたっていい旅だった。
出来ればもう少し――あの小さなマスターと一緒に過ごしていたかったけれど。
「はあああああああ……」
笑って空へ手を突き出す。
桜吹雪の晴れた青空へ。
「……勝ったぞぉーーーっ!」
【セイバー(宮本武蔵)@Fate/Grand Order 消滅】
◆ ◆ ◆
-
二天一流の去った地平で。
皇帝は丸腰のまま佇んでいた。
八斎戒は無事を保ったまま地面に転がっている。
然し皇帝カイドウの胸には…明確な致命傷の斬痕が走っていた。
「……そうか」
新免武蔵は消滅した。
カイドウの一撃が彼女を死に至らしめた。
だがあの決闘の勝者が彼女だった事に疑いの余地はないだろう。
カイドウの霊核は完全に両断され、退去の刻限は間近に迫っている。
最強生物と言えども今はサーヴァントの身。
要石を失っただけならば未だしも、その上で霊核まで失ってはもう先はない。
もしも古手梨花の勝利が無ければ。
黒死牟が彼の体内に打ち込んでいた絶大な損傷が無ければ。
新免武蔵が放浪者という異常な性質を有していなければ。
勝ったのはきっとカイドウの方だったろう。
全ての要素と皆の奮戦が複雑に絡み合って、少しずつカイドウの可能性を削っての勝利だった。
「負けたのか、おれは」
不思議と敗者は静かだった。
無念はある。
界聖杯という巨大な財宝を手に入れる野望は果たせず仕舞い。
何とも不甲斐ない幕切れではないかと自分に憤る気持ちも勿論ある。
然しそれ以上にカイドウは満足していた。
漸く再会した宿敵を取り逃し、全てに絶望していた自分が巡り会えた至高の戦。
「おい。首を取るなら今だぞ」
「……捨て置いても……貴様は、直に死ぬだろう……」
「そうだな。だが今でもその気になりゃ暴れられる。
消滅するまでにてめえ一人くらいなら道連れに出来るかもしれねェぞ。ウォロロロロ…」
「…あまり……侮って、くれるな………。
お零れの首を取って、得意気に誇る等………情けがないにも、程があろう……」
「真面目だな。なら精々、次会うまでに強くなっとけ」
落ち武者狩りもかくやの所業で最強の首を手にしても意味はない。
最早黒死牟はカイドウに対する興味を失っていた。
刀を鞘に収め、臨戦態勢を解く。
先はああ言ったカイドウだが、その油断を突いて仕掛けて来るような事は結局無かった。
「なァ六つ目よ。お前、負けた事はあるか」
黒死牟は答えない。
つれない奴だ、とカイドウは唇を尖らせた。
それから空を仰ぐ。
奇しくも自身を負かした新免武蔵が最期にそうしたように。
-
「おれはある。何度も負けてきた。だが、まぁ何だ」
カイドウは敗北を知っている。
彼は海賊としても生物としても何度となく負けてきた。
敗北で終わらずに再起するからこそ彼の危険度は他の追随を許さないのだ。
世界最強の海賊ならぬ、世界最強の生物。
それがカイドウ。百獣のカイドウ。
そんな彼だが、ああ然し。
「負けるってのは悔しいもんだな。幾つになってもよ」
「当然だろう…」
新たに刻まれた敗北の味は爽やかながらもやはり苦かった。
この敗北は尾を引くなとそう感じる。
因縁ばかりが増えていく事に我ながら辟易した。
「敗北を善しと受け入れて、どうする……それは最早、戦士の姿ではあるまい………」
「まァ、な」
カイドウが八斎戒を拾い上げる。
体の端々は既に粒子化が始まっていた。
最強生物カイドウが落ちる。
聖杯戦争において常に最大の影響力を発揮して来た最後の皇帝が消える。
皮下真は死に、聖杯戦争の終幕は僅かながら引き伸ばされたがそれも所詮僅かな猶予だ。
じき、この戦いは終わる。
結末の定まる時が近付いている。
「で、だ。黒死牟」
「…何だ……敗者は、疾く去れ……」
戦の終わり。
桜散った爽やかな凪の中で。
「お前の方こそとっとと消えろ。最悪な事になる前にな」
-
カイドウがそう言って覇気を放った。
黒死牟が遅れて彼の見据える方向を見る。
その時、彼は確かに――ごく、という音を聞いた。
“……、…………――”
それが自分の喉に唾液が流れ落ちていく音だと気付くまでに一瞬。
“――――何だ、アレは”
自分がどうやら戦慄しているらしいと気付くまでに、一秒を要した。
視界の先に何かが立っている。
少女の姿をした何かだ。
黒死牟の眼は。
透き通る世界を視認する六眼はその内側に至るまでもを詳らかに視認する事に成功――してしまったからこそ彼は絶句した。
そのあまりの悍ましさに。
脳までもを侵す冒涜的な内面図を視認して、彼は鬼になってから初めての吐き気を覚えた。
「待て、カイドウ…貴様……!」
「バカ野郎。人が折角気持ちよく満足して死のうって所に水差しに来やがったんだぞ? ブチのめさない理由はねェだろうが」
アレをサーヴァントと呼んでいいのかどうかも黒死牟には判断が付かない。
目前のカイドウと比べて、一体どちらの脅威度が上で有るかもだ。
ましてや今の黒死牟はカイドウ戦を終えて満身創痍。
骨の髄にまで覇気のダメージが染み渡っている状態。
この体で相手取れる敵でない事は考えるまでもなく明らかだった。
そんな彼を余所に、カイドウは消えゆく体で異形の少女へと向かう。
「別に恩を着せるつもりはねェ。そんな義理もねえからな」
「……………」
「これはおれの私闘だ。それに――」
黒死牟へは背を向けたまま。
最後の皇帝はニヤリと笑った。
「――悪くねェ"死"だ。今回はこれで完成としてやる」
言葉はなかった。
黒死牟は一瞬の静止の後、霊体化して戦場を後にし霧子の許へと向かう。
何か予想を超える事態が起こっている。
その認識と焦燥を抱きながら――駆けた。
-
「さて」
カイドウが言う。
少女が微笑んでいる。
「リンボの野郎、とんでもねェ置き土産をして行きやがって」
「あら。御坊さまの事を知っているの?」
「ブンブン耳障りに飛び回りやがるクソ野郎だ。この手で殺しておけば良かった」
少女の正体に察しは付いていた。
ベルゼバブ亡き今でこれだけの力となると、もう候補は一人しか居ない。
アルターエゴ・リンボが何やら得意気に語っていた怪しい計画。
窮極の地獄界曼荼羅なる絵空事がどうも成就してしまったらしい。
実に胡散臭い話だと思っていたが…確かにこれは凄まじい。
カイドウをしてそう思わせるだけの力が、少女からは抑え切れず溢れ出していた。
「あなた…もうすぐ消えてしまうのね。だったら私も、別な人の所に行った方がいいかしら」
「行けると思ってんのか? ガキが。喧嘩売る前に相手をよく見るべきだったな」
「あら。喧嘩なんて売っていないわ…私は只、あの人の為に頑張っているだけ。
もう居ない大切な人と、願いを叶えてあげたいあの人の為に、一生懸命なだけなのよ?」
「知るか」
カイドウの全身が覇気を纏う。
いや、覇気等というレベルではない。
青龍へと変わった巨体が炎に包まれていく。
それを外殻にして竜王は膨張と肥大化を繰り返す。
平時の青龍形態の十倍はあろうかという巨躯の炎竜が顕現するまで、僅か数秒の出来事だった。
「"火龍大炬"…………!」
武蔵達との戦いでは使わなかった奥の手。
カイドウ最大の威力を誇る魔技が今際の際の現在になって初めて開帳される。
その災厄を前にしても少女は淡く微笑んだままだった。
微笑みながら、異形の鍵剣を片手に握る。
「ごめんなさい、海賊さん。私ね、やらなきゃいけない事がまだ沢山あるのよ」
額に会いた孔は鍵穴か。
其処が妖しく、瞬いて。
彼女の背からうぞうぞと、この世にあってはならない法則が界聖杯内界に流出を開始する。
「だから…少し痛くさせて貰うわね?」
「そりゃ楽しみだ。来いよ、この最強(おれ)が試してやる……!」
動き出した時計の針。
カイドウが空から地に降る。
「――イグナ・イグナ・トゥフルトゥクンガ――」
少女――アビゲイルが神を放つ。
最強と最凶、紛れもない最大存在二つが激突して。
それと同時に…界聖杯で"何か"が起きた。
◆ ◆ ◆
-
意識を取り戻した幽谷霧子が最初に抱いたのは困惑だった。
桜の花びらに触れた途端、頭の中に知らない女の人の声が響いて。
次の瞬間急に意識が途切れた。
何だかとても気持ちのいい眠りだったような気がする。
そして突然、ぱちりと眼が覚めた。
すると目前には"梨花ちゃん"と戦っていた筈の"皮下先生"の姿があって。
まるで別人みたいに弱った彼が放って置けず声を掛けようとした所で、他でもない彼の手で突き飛ばされた。
「きゃっ」と短い悲鳴をあげてから尻餅をつくまでの時間の中で。
霧子は確かに「ぱぁん」という軽い音を聞いた。
「……皮下、先生……?」
何が、何を、と言おうとして気付いた。
俯せに倒れた皮下の背中には孔が空いている。
どうしてか血は流れておらず、ぽっかりと風穴が空いているのみだった。
まるで人間の形をした空っぽの器に孔を空けたみたいだと霧子は思った。
理解が状況に追い付こうとしたまさにその瞬間。
顔を上げて――霧子は、その人物を見た。
-
眼鏡を掛けた黒髪の女だった。
年頃は大学生くらいだろうか。
女はその手に拳銃を持っていて。
その銃口からは、白い煙がぽうと昇っていた。
「いいよ」
女が何か呟く。
霧子が状況を理解する。
銃を恐れる前に皮下へ身を屈めた。
撃たれた。容態を確認しないと。
恐怖と危機感が目の前で命が消える重大さの前に敗北する。
彼女にとって幸いだったのは…皮下を撃った女には霧子の殺害よりも優先して実行"させる"べき行動があった事。
「撃て、アビー」
言葉が響いた途端。
その手に刻まれた令呪が、光って――
-
◆ ◆ ◆
世界に、孔が空いた。
◆ ◆ ◆
-
フォーリナー、アビゲイル・ウィリアムズの宝具『光殻湛えし虚樹(クリフォー・ライゾォム)』。
人類と相容れる事のない異界へ続く門を開くかの宝具は、無限に通ずる性質を持つ。
その気になれば界に対する事も可能な銀鍵の権能。
これが対人扱いの宝具になっている理由はひとえにアビゲイルの認識に縛られているからであり、逆に言えばそれを取り払えればこの前提は崩れる。
紙越空魚は令呪二画を用いてこれを破棄させた。
そしてアビゲイルが相対していたのは死を前にしても未だ限りなく最強に近い存在である竜王カイドウ。
互いの全力同士が激突したその刹那。
空魚の目論見通りに、暴れ狂う地下茎は世界を破壊した。
正しくはその"層"を砕いたのだ。
界聖杯内界と界聖杯の深層部とを繋ぐ壁が粉砕され。
結果、人外魔境の犇めく大戦場と化していた渋谷区そのものが――世界の"深奥"に消失する。
聖杯戦争は最終局面。
残る主従は、僅かに三組。
既に相棒を失った者達を含めても生存している器と英霊は合計八体。
世界は終わる。
戦が終わる。
これより終幕へと向かう。
「…始めるよ、アビー」
言葉は淡白。
然し込めた想いはあまりに、あまりに――
「私達の願いは……漸く叶う」
【ライダー(カイドウ)@ONE PIECE 消滅】
【渋谷区 消失】
【幽谷霧子@アイドルマスターシャイニーカラーズ 消失】
【セイバー(黒死牟)@鬼滅の刃 消失】
【神戸しお@ハッピーシュガーライフ 消失】
【ライダー(デンジ@チェンソーマン) 消失】
【紙越空魚@裏世界ピクニック 消失】
【フォーリナー(アビゲイル・ウィリアムズ)@Fate/Grand Order 消失】
◆ ◆ ◆
-
【二日目・午後/渋谷区→界聖杯 深層】
【幽谷霧子@アイドルマスターシャイニーカラーズ】
[状態]:健康、お日さま、『バベルシティ・グレイス』
[令呪]:残り二画
[装備]:包帯
[道具]:咲耶の遺書、携帯(破損)、包帯・医薬品(おでん縁壱から分けて貰った)、手作りの笛、恋鐘印のおにぎりとお茶(方舟メンバー分、二杯分消費)
[所持金]:アイドルとしての蓄えあり。TVにも出る機会の多い売れっ子なのでそこそこある。
[思考・状況]
基本方針:もういない人と、まだ生きている人と、『生きたい人』の願いに向き合いながら、生き残る。
0:???
1:セイバーさん、大丈夫かな……
2:プロデューサーさんの、お祈りを……聞きたい……
3:セイバーさんのこと……見ています……。
4:一緒に歩けない願いは、せめて受け止めたい……
5:界聖杯さんの……願いは……。
[備考]※皮下医院の病院寮で暮らしています。
※"SHHisがW.I.N.G.に優勝した世界"からの参戦です。いわゆる公式に近い。
はづきさんは健在ですし、プロデューサーも現役です。
※メロウリンクが把握している限りの本戦一日目から二日目朝までの話を聞きました。
【セイバー(黒死牟)@鬼滅の刃】
[状態]:武装色習得、融陽、陽光克服、誓い、疲労(大)、全身にダメージ(大)、覇気の残留ダメージ(大)
[装備]:虚哭神去、『閻魔』@ONE PIECE
[道具]:
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:勝利を、見せる。
0:???
1:お前達が嫌いだ。それは変わらぬ。
2:死んだ後になって……余計な世話を……。
3:刀とともに、因縁までも遺して逝ったか……
[備考]※鬼同士の情報共有の要領でマスターと感覚を共有できます。交感には互いの同意が必要です。
記憶・精神の共有は黒死牟の方から拒否しています。
※武装色の覇気を習得しました。
※陽光を克服しました。感覚器が常態より鋭敏になっています。他にも変化が現れている可能性があります。
※宝具『月蝕日焦』が使用不可能になりました。
-
【神戸しお@ハッピーシュガーライフ】
[状態]:疲労(小)、決意
[令呪]:残り一画
[装備]:なし
[道具]:なし
[所持金]:数千円程度
[思考・状況]
基本方針:さとちゃんと、永遠のハッピーシュガーライフを。
0:???
1:とむらくんについても今は着いていく。
2:最後に戦うのは。とむらくんたちがいいな。
3:ばいばい、お兄ちゃん。おつかれさま、えむさん。
[備考]
【ライダー(デンジ)@チェンソーマン】
[状態]:全身にダメージ(大)
[装備]:なし
[道具]:なし
[所持金]:数万円(しおよりも多い)
[思考・状況]
基本方針:しおと共に往く。聖杯が手に入ったら女と美味い食い物に囲まれて幸せになりたい。
0:???
1:今は敵連合に身を置くけど、死柄木はいけ好かない。
2:コブ付き……いや、違うよな。頭から眼を六つ生やした奴と付き合いたい女なんているわけねぇよな……
[備考]※令呪一画で命令することで霊基を変質させ、チェンソーマンに代わることが可能です。
※元のデンジに戻るタイミングはしおの一存ですが、一度の令呪で一時間程の変身が可能なようです。
【紙越空魚@裏世界ピクニック】
[状態]:疲労(小)、覚悟
[令呪]:残り三画
[装備]:なし
[道具]:マカロフ、地獄への回数券
[所持金]:一般的な大学生程度。裏世界絡みの収入が無いせいでややひもじい。
[思考・状況]基本方針:鳥子を取り戻すため、聖杯戦争に勝利する。
0:???
1:マスター達を全員殺す。誰一人として例外はない。
[備考]
※フォーリナー(アビゲイル・ウィリアムズ)と再契約しました。
【フォーリナー(アビゲイル・ウィリアムズ)@Fate/Grand Order】
[状態]:霊基第三再臨、狂気、令呪『空魚を。私の好きな人を、助けてあげて』、疲労(大)
[装備]:なし
[道具]:なし
[所持金]:なし
[思考・状況]基本方針:マスターを守り、元の世界に帰す
0:???
1:さあ、おしまいを始めましょう。
2:空魚さんを助ける。それはマスターの遺命(ことば)で、マスターのため。
[備考]※紙越空魚と再契約しました。
-
以上で投下終了となります。
今回の話(主にラストの引き)を執筆するにあたり事前に企画主様にはご相談をさせていただきましたが、氏の現在されている予約分の投下内容に応じて適宜修正・ないしは該当部分の破棄を行う用意があることを此処に明記しておきます。
-
投下します。
-
飲みきらないとミイラになる呪いがかかっているらしいスポドリの、最後の一滴が七草にちかの喉奥に消えていった。
「……ぷは」
体調は依然として絶不調の状態が続いている。
意識は朦朧としているし、身体は倒れた拍子に痛めたのかすごく疼く。
なくなった腕は黙っている分にはそこまででもないが、不用意に動かすと思わず声が出るくらい激しく痛むから参った。
そんな体調だから、水なんて果たして飲めるんだろうかと不安だったものの、一口飲み込んでしまったら後はもう止まらなかった。
どうやらにちかの身体は、彼女が思っている以上に水分を欲していたらしい。
レッスン上がりにトレーナーが手渡してくれる、きんきんに冷えたミネラルウォーターの美味しさをにちかは思い出していた。
あの五臓六腑に染み渡るような爽快感を何倍にもしたようなおいしさは何物にも代えがたいと今でもそう思う。
こんな手で、また同じようにアイドルがやれるかどうかは分からなかったけれど。
「はふぅ……」
カラオケルームのソファに身体を凭れかけて、嘆息しながらふと思う。
――摩美々さん、大丈夫かな。
やっぱり冷静になると、どうしてもそこは気になってしまう。
気にしないでほしいなんて言われたって、無理なものは無理だった。
七草にちかの生きてきた十余年の人生の中で、間違いなく最も密度が高かっただろうこの二日間。
それをずっと共に歩んできた、いわば戦友のようなもの。
蜃気楼だろうが何だろうが、心配はするし追いかけたくもなるのだ。
……後者の方は、きっとすごい迷惑をかけてしまうだろうから実行に移す気はなかったが。
「まあ、何にせよ……もうちょっと休んでないとだめ、ですよね。
ちょっとはマシになってきましたけど……やっぱりフラフラ、するし。あー、もう……しんっどぉ……」
肺の底から息を吐いて、また吸って、目を閉じたくなって、流石にそれはやめて。
その繰り返しだった。水分を摂ったおかげか意識はだいぶはっきりしてきた。
そこで、思う。どうしようか、と。
残してくれたスマホでも見て情報収集でもしておいた方がいいだろうか。
それとも、こっちから霧子さんに連絡でもしてみようか――
連絡。
して、どうなるんだろう。
「全部、終わっちゃったのに」
方舟の夢は、終わった。
それは奇跡のように細い線を辿る旅路だった。
もしこれがアイドルを主役にした物語だったなら、きっとそのか細い希望は報われて皆が笑顔でカーテンコールを迎えられたのだろう。
けれどこれは、主役に優しい物語なんかじゃなくただの冷たい現実で。
或いは、にちか達アイドル以外の誰かを主役にした物語だった。
希望は奪われ。航路は、永久に見失われて。
七草にちかは――独り残された。
-
もう、どうあってもハッピーエンドは訪れない。
少なくとも、"彼"が見せてくれた夢のような終わり方は絶対にあり得ないのだとにちかは実感していた。
じゃあ、自分はこれからどうすればいいのだろう。
サーヴァントもいない、おまけに片腕もない、一発逆転の切り札なんて持っているわけもない偶像一匹で、何を。
――どうして、私は生き残ったんだろう。
そんな想いが、鎌首をもたげる。
死んでもおかしくない状況だったのは間違いない。
射撃の命中位置があとほんの少しずれていたら。
メロウリンクの助けが、あとほんの少し遅れていたら。
七草にちかは、きっとあの場で死んでいた。
にちかは生き残った。
生き残って、しまった。
何もできない、何にもなれない、晴れてどこにでもある石ころとして。
この世の誰にとってもどうでもいい、可能性の抜け殻として。
ざ、ざ、ざ。
足音が、して。
にちかの居る部屋の扉が開いた。
(あ……帰って、きたのかな……)
思ったより早かったな、という感想だった。
飲んだボトルを見せるついでに、思わせぶりなことしないで下さいくらいは言わせてもらおう。
あんな、まるで今生の別れみたいな出て行き方をするなんていたずらにしても度が過ぎている。
そういうタイプの悪い子はほんとに良くないですよって、後輩だけど教えてあげなくちゃ。
そんなことを想いながら、音の方をぼんやりと見つめるにちかの前に――
「よ。直接会うのは初めてかな」
見知らぬ男が、現れた。
白い青年だった。
髪も、肌も。
顔には見てて痒くなってくるような肌荒れの痕が残っていて、何とも言えず痛々しい。
貧乏臭くてみすぼらしい身なりの筈なのに、どうしてか見ていると心の底から不安になってくる。そんな男だった。
その青年は七草にちかにとって、初めて会う人に他ならなかったけれど。
自分でも驚くくらい冷静に、にちかは彼が誰なのかを理解していた。
「……なんで、此処、分かったんですか。もしかして、ストーカーも兼ねてのヴィランだったり……?」
「近くに血痕があった。途中で途切れてたが、手負いなら近くの建物にでも潜んでんじゃねえかと思ってね。
龍脈の力を手に入れたからかな、なんだか妙に感覚が鋭敏になってるんだ。"サーチ"とまでは、流石にいかないが」
「は……。そりゃ、また。ご苦労なことです」
会ったことは、ない。
話したことも、多分ない。
けれど声を聞いたことはあるし。
この人がどういう人間なのかは、嫌ってくらいよく知っている。
「私みたいな石ころのこと、わざわざ殺しにきてくれたんですね――連合の、大魔王様」
――――死柄木弔。
敵連合の王にして、方舟の敵。
そして、ついさっき方舟を終わらせた男。
"あの人"の仇である不倶戴天の大魔王が、満身創痍の敗者を冷たく見下ろしていた。
-
◆◆
アシュレイ・ホライゾンを討ち、方舟の可能性を途切れさせた死柄木弔には二つの選択肢があった。
ひとつは、このまま先に進んで方舟の残滓を皆殺しにし、後顧の憂いを完全に断ち切ること。
そしてもうひとつは、方舟の核を落とした戦果を引っ提げてカイドウらを始めとする残存勢力の一掃に臨むこと。
思案は数秒。それでも自分なりによく考えて、死柄木はまず方舟にとどめを刺すことを選んだ。
合理的に言うならば、方舟が今しがた殺したライダーとは別口の切り札を保持している可能性を恐れて。
感情的に言うならば、此処までずっと連合の向かう先にのさばり続けてきた方舟勢力を完膚なきまでに滅ぼして笑うために。
カイドウを殺せる戦力がまだこの地平線上に残っているとは思えない。
であれば、あの皇帝は後回しにしたって構わない――どうせ残っている目ぼしい敵はあれくらいのものだ。
多少の寄り道はきっと許される。その腹積もりがじきに崩れるなんて露知らぬまま、死柄木は諧謔を優先した。
正確に言えば理由はもう一つあったが、それは一旦置くとして。
――そして二人は、とうとう巡り合う。
片や連合の王。片や、方舟の核たる要石。
魔王・死柄木弔。偶像・七草にちか。
すべてが終わったその後に、男と女は遂に初めての邂逅を果たした。
「まず、一個言わせてください」
死柄木は、都市を滅ぼす能力をその手に宿している。
やろうと思えば軽く地面をひと撫でするだけで、その目的は達成可能だった。
にも関わらずわざわざ直接の対面を望んだのは、彼なりに方舟のクルー達を重く捉えていたからなのだろう。
言わずもがな――"敵"として。
彼女達は、魔王の見据える地平線に蔓延る"敵(ヒーロー)"と認識されていた。
だからそれを踏み躙るために、真の意味で終わらせるために、死柄木は直接出向いて殺すことを選ばねばならなかったのだ。
「私、あなたのことがだいっっっきらいです」
敵連合にとって、方舟は間違いなく最大の敵だった。
すべてを壊すと願う魔王にとって、すべてを救うと願う方舟が目障りだったことは言うまでもない。
彼女達は、確かにこの地平聖杯戦争において強者だったのだ。
力ではなく存在することそのものの意味で、強者達の盤面を狂わせていた。
それはこうして魔王が手ずから殺しにやってきたことからも、あまりにも明らかであった。
「馬鹿の一つ覚えみたいに、殺すとか壊すとか、そういう極端なことしか言わないし。
おまけに被害者意識だけはいっちょ前で、まるで自分が孤独な弱者だみたいな顔してる」
「おいおい辛辣だな。自分の状況分かってんのか?」
「分かってますよ。どうせ殺すんでしょ」
「よく分かってんじゃん」
彼らは――いや彼は、どこまでも方舟の対極だった。
崩壊の能力。望む地平線(みらい)の形。
何もかもが、方舟に対してのカウンターであった。
方舟にとっての死神になったのが彼であった事実に因果すら感じてしまうほど。
死柄木弔は、優しい未来の否定者としてこれ以上ない人材だったと言う他ない。
-
「誰かを傷付けて、誰かの夢を壊すことでしか、生きられない」
もしも此処にいるのが摩美々だったなら。
真乃や、霧子だったなら。
きっとこんな言葉を吐きはしなかっただろう。
けれどにちかに言わせれば、相手の事情だなんて知ったこっちゃない。
にちかにとって連合は、眼前に立つこの魔王はずっとただただむかつくだけのヴィランだった。
なんで、みんながこんなに頑張っているのに。
それを、正面切って声高に否定できるのか。
見たこともないライブをこき下ろして、差し伸べてやった手を悪意まみれの皮肉で腐して。
理解できないししたくもない。本当に、心底――嫌いだ。そんな気持ちを、ようやく会えたのをいいことにぶち撒ける。
「なんであなたみたいな人間が生きて、私の好きな人達が死んでいくのか……理解できません」
「弱いからだろ。生存競争って言葉知ってるか?」
「弱いのは、あなたの方でしょ。私には……私の知るアイドルの皆さんの方が、あなたなんかよりずっとずっと強く見えます」
七草にちかは死柄木弔を知らない。
彼の過去も、こうなるまでの経緯も、辿ってきた彼なりの戦いも、何も知らない。
知る由もないし――知ったことではない。
何がどうなったって、にちかにとって死柄木は"身勝手な加害者"だ。
自分はこんなに不幸だから何をしても許されるだなんて、そんな幼稚なことを声高に述べるような生き様に嫌悪以外の感情はない。
言いたかったすべてを堰を切ったようにぶつけていく。
どうせ、たぶん、これが最後なんだからと。
不思議と涙は出てこなかった。死ぬほどやるせない気持ちなのに、流れてほしい時に限って涙は出ない。
アイドルとして売れても、役者にはなれないなあって、にちかはそう思った。
「私の知るみんなは、あなたよりずっと強かった。……あなたたちより、ずっと強かった」
もうひとりの私(にちか)も。
真乃さんも。
霧子さんも。
摩美々さんも、アーチャーさんも。
……"あの人"も。
自分の知る限り、お前より弱い人間なんてひとりもいなかったとにちかは断言する。
みんな必死に生きていた。狂いそうなほど辛い時間の中で、それでも優しく強くあることを貫いていた。
断じて誰も、被害者の顔なんてしていなかった。人を傷付けて悦に浸ることなんてしていなかった。
「私に言わせれば……はは、あなたなんて、ただの負け犬ですよ。
あなたになんて、私達みんな勝負以前のところで勝ってたんだから。
なのに必死に噛み付いて、それで全部ぶち壊して、勝ったみたいな顔してるだけ。
あなたなんかに、私の大事な人たちを――あの人たちを、笑う資格なんてない」
だからこそ、七草にちかは否定する。
連合の王の、その覇道を否定する。
堕ちた天使が最後の壁と見据えた片翼を否定する。
革命の徒が垣間見た救いを否定する。
その言葉を受けて、魔王は一瞬だけ沈黙して。
そして――
-
「そうかもな」
一言だけ、そう言った。
激昂ではない。かと言って自虐でもない。
王は王としてただ、そこにあった。
「身の上話なんてする気はねえがな。まあ、俺の生まれは想像の通りだよ。
不幸自慢のひとつもしなきゃやってられないくらいには地獄を見てきたし、そうやって自我を保つのが俺の生き方だった」
今、彼はすべてを思い出している。
師に見出された後のこともそうだし、その前のこともそうだ。
死柄木弔は志村転弧を認識している。
そうでなければ、この言葉は絞り出せない。
「俺のやってることは徹頭徹尾ただの八つ当たりだ。
社会からこぼれ落ちたガキが、幸せに暮らしてる奴らに不公平だってほざいてるだけ。
何があっても腐らず憎まず、真面目にひたむきに生きてるお前らの方が遥かに立派な人間だろうさ」
別に、救ってほしくてやっているわけではないのだ。
誰かに"辛かったね"と言ってほしくてやっているわけではない。
そんな段階は、もうとっくのとうに過ぎている。
この世界での彼で言うならそれはきっと、もうひとりの犯罪卿が散った瞬間だったろう。
皇帝越えを成し遂げて、その身に余る力を手に入れたその時から――彼はもう燻る屑ではなくなった。
あの瞬間、死柄木弔はオール・フォー・ワンの傀儡を脱し。
他には決して代えの利かない、三千世界の地平線上において唯一無二の"魔王"となったのだ。
「だが、それでも貫くのが俺の生き方だ。実感しろ。お前らは、そんな弱者(おれ)に負けたんだよ。
生き方は知らねえ。ひとりひとりの人生(かお)なんて知る由もねえが――
そんな社会のゴミ一匹にお前らの夢は頓挫させられたってこと、ちゃんと覚えてあの世に行きな」
「……はっ。この期に及んで、出てくる台詞がそれですか。ほんっと、終わってますね」
「終わってるからこその敵(ヴィラン)だ。別に理解しなくてもいいよ。理解できたらお前もこっち側さ。そうなった時は歓迎するぜ」
にちかが、嗤い。
それに死柄木も、嗤った。
魔王が、手を差し伸べる。
慈悲ゆえの手でないことは、もう語るまでもないだろう。
魔王の手は万物万象を崩し、壊す。
恐るべき海の皇帝であろうが、未来へ繋ぐ宙の方舟であろうが、そこに一切の見境はない。
「最後に言い残す言葉はあるか?」
「あは。聞いてくれるんですか?」
「いいよ。負け犬の遠吠えとして聞き届けてやる」
「そうですか。じゃあ、まずは」
七草にちかを殺すための手が、伸びる。
にちかに抵抗する手段はない。
瞬く暇ひとつで、彼女のすべては幕を閉じるだろう。
そんな状況だというのに――やっぱり不思議と、涙も怯えも出てこなかった。
「私のライダーさん。強かったですか?」
-
「……あれお前のサーヴァントだったのかよ。まあ、そうだな」
やっぱりまず、何を置いても聞きたいのは彼のことだった。
ライダー。アシュレイ・ホライゾン。
いつまでも一緒にいてくれるものだと思っていた――そう信じたかった、もういない人。
ついぞ、彼のためにアイドルをやることはできなかったけれど。
ならばせめて、自分を今までずっと守ってくれた人の生き様くらいは知っておきたかった。
口にしてから、「果たしてこの男がまともな答えなんて返してくれるんだろうか」とは思ったが――もう既に遅い。
ぜったいに悪意にまみれた言葉が返ってくるだろうし、今から耳でも塞いでおこうか。
いや、最後の最後がそんな一発ギャグみたいな終わり方でいいものか。
葛藤するにちかをよそに、死柄木弔は。
「強かったよ」
ごく端的に、そんな感想を零した。
「俺が戦ってきた中じゃ一番だったかもな。
ほんのひとつでもボタンをかけ違えてたら、案外結果も変わってたんじゃねえか?」
アシュレイ・ホライゾンは、無為に散ったわけではない。
彼はそもそも、死柄木弔よりも圧倒的に弱者だった。
生存の代償に覚醒という唯一の強みを奪われ、残ったのは火力に乏しい癒やしの銀炎。
それは彼にとって尊い力には違いなかったろうが、聖杯戦争の佳境で運用するには些か頼りない力であったことは間違いない。
それでも彼は、一歩も退かずに戦った。
持っていた力と継承した力。
そして――最後に掴み取った希望の光(スフィア)。
全てが死柄木に通じていた。
彼は、戦えていたのだ。
死柄木が星を掴めなければ、その領域への覚醒がほんのわずかでも遅れていたら――勝ったのは方舟だった筈だ。
「けど俺が勝った。勝って、お前らのすべてを総取りだ」
「……、……」
「泣けよ、アイドル。お前らにはもう何もないんだぜ」
アシュレイ・ホライゾンは強かった。
彼は紛れもなく、魔王の闇を祓える勇者だった。
その事実は、変わらない。
そしてその上で彼が敗れ、闇が光を喰らい尽くしたこともまた確かであった。
「優しい世界は実現しない。
お前らに未来はない。
お前らの歌が誰かに希望を与える日は、もう二度と来やしない」
夢は破れた。
ラストステージは、消灯した。
きらびやかな少女たちも、舞台が終われば奈落に還る。
そしてただの人間に戻って、端役のように消えていくのだ。
いつか時が流れて、衣装を脱いで、ステージを降りるように。
普通の女の子に戻って、普通の人生に戻っていくように。
夢の時間は終わりを告げ、後は現実に溶けていくだけ。
「お前らの全部が――俺達の踏み台で、俺達の犠牲だ。そのことしっかり噛み締めながら、俺に殺されて消えてくれ。方舟の砂粒」
-
それは、これ以上ない"勝利宣言"で。
方舟にとっての、完膚なきまでの"チェックメイト"だった。
は、とにちかの口から乾いた笑いが漏れる。
根負けしたような、或いは諦めたような……そんな声。
「……ほんと、嫌いです。あなたのこと」
――嫌いだ。
本当に嫌いだ、こんなやつ。
厭味ったらしくて、人を傷付けることでしかコミュニケーションを取れない人でなし。
こんなやつに自分の大切な人達が苦しめられ、あまつさえ未来を奪われたのだと考えるだけで腸が煮え滾りそうになる。
あの人も、なんだってこんなのに負けやがったのか。
せめてもっとまともな奴に負けてくれればよかったのに。
そしたらこんな、最悪な気持ちで負けを噛み締めることにはならなかったかもしれない。
もしも英霊の座にまで声を届かせる手段があったなら、ありったけの八つ当たりをお見舞いしてあげたい気分だった。
そして何より、何より腹が立つのは……
「なんであなたが、私の知らない……あの人の強いところを、知ってるんですか……」
こんなに方舟(わたしたち)のことを馬鹿にしているのに、あの人の強さだけは認めてくれたことだ。
死柄木弔は、方舟を認めない。
けれど、厄介な敵だったとだけは認めてくれる。
彼は方舟の否定者であると同時に、方舟の生き様を誰より肯定してもいた。
それがにちかによりいっそうのやり切れなさと敗北感を与えてくるのだ。
いっそ弱かった、愚かだったと声をあげて嘲笑でもされていたなら――まだ抵抗(わるあがき)のしようだってあったろうに。
「あなたなんかに、認めてほしくなかった」
最後まで、失った彼の光(アイドル)になれなかった少女は。
彼が見せようとしていた、その胸に秘めた光の実像を知らない。
けれど死柄木弔は、勇者の敵たる青年はそれを知っている。
悔しい。今まで味わったどの敗北よりも、そのことがただただ悔しくてならなかった。
「あなたなんかが、あの人を……っ」
七草にちかは偶像である。
でも、もうこの地平に彼女達の出番はない。
生き残っている偶像はお日さまの少女がひとりだけ。
七草にちかは、そこに数えられない。
彼女はもう――終わってしまった存在だから。
「あの人を、すごい奴だって、言わないでほしかった……!」
ぶち撒けた気持ちは、ただの負け惜しみ。
いや、きっとそれ以下の醜いだけの感情。
無様だなあ。滑稽だなあ。みっともないなあ。
にちかはそう思いながらも溢れ出す言葉を止められなかった。
アシュレイは消えていった。
誰も知らないところで、誰も知らない彼だけの英雄譚を生きた。
でもその姿を、七草にちかは知らない。
アシュレイが戦っている間、自分は血まみれで無様に伸びていた。
あんなに一緒だったのに、いろんなことを助けてもらったのに。
蓋を開けてみれば、「さよなら」も言えずに彼は逝ってしまった。
眼前の魔王の方が自分よりよっぽど、アシュレイの強さを知っているという事実に、にちかは、泣いた。
泣いて、泣いて、泣いて、泣いて。
泣いて――
『かわいいぞ、にちか』
そんな言葉を、皮切りに。
七草にちかの脳内に、たくさんの"言葉"が溢れてきた。
-
『…だから頑張れ、"七草にちか"。私じゃない私(あなた)』
『必ず帰ってくるのよね。嘘だったら――怒るからね』
『そして君はその先、君の人生で夢を叶えるんだ。
俺というサーヴァントへの報酬は、それだけでいい』
ああ――なあ、七草にちか。
『――君の結末が、アイドルであろう事を常に祈るよ』
おまえ、何諦めてるんだよ。
「――あの。もう一つだけいいですか」
「あ? 長え遺言だな」
何を悟った顔で諦めようとしているんだと、にちかはこんなことになっても直らない自分のいじけ虫っぷりに赫怒した。
ライダーさんは消えてしまった。方舟の夢は、どうやったって叶わなくなった。
そして目の前には最強の敵、嫌いで嫌いで仕方ない悪の大魔王が手を翳している。
何がどうあっても詰み。此処から入れる保険はない。
でも――それでも。
膝を折ったままじゃいられない理由が、おまえにはあったんじゃないのか。
「殺さないでほしいです」
「はあ?」
にちかは今、丸腰だ。
武器のひとつも持っていない。
ペットボトルの中身は飲み干してしまったし、摩美々の携帯電話を武器に殴りかかるくらいしか抵抗の手段はない。
そしてもちろん、サーヴァントさえ殺してしまえるような化け物を相手にそんな悪あがきが通じるわけもないとにちかは分かっていた。
だからにちかは、精一杯のやり方で生にしがみついた。
魔王の目を見上げて、見つめて、言葉を紡いで乞い願う。
要するに――命乞いである。
「死にたくない。こんなところで、終われないんです。私は、まだ……!」
交わしてきた約束がいくつもある。
アイドルになるとか、無事に帰ってくるとか。
此処で運命を、このくそったれな現実を受け入れてしまったらそれをすべて破ることになる。
もう、残っているものは何もない。
未来はすべて、瓦礫の残骸の中に消えてしまった。
――でも、にちかは声をあげるのだ。
まだだ、と。
-
まだ終われない、生きていたい、と。
無様も滑稽も百も承知で、声を張り上げる。
必要なら額を擦りつけたって、靴を舐めたって構わないと思っていた。
「……自分の言ってること、理解してるか?」
魔王の声が響いてくる。
ひどく冷め切った、背筋まで凍りつくような声だった。
そこに宿る感情は呆れ。当然だろうな、とにちかは思う。にちか自身、彼の立場だったら同じ気持ちになったろう。
「生きてどうする。この世界は、もうすぐ終わるってのに」
方舟が事実上の壊滅を喫したことにより、聖杯戦争はとうとう最終局面に入ったと言っていい。
残っているのはカイドウと多少の有象無象。
やもすれば、自分のように何らかの手段で力を手に入れたジョーカーが紛れているかもしれないが……何にせよ、後は数名の強者とたまたま生き残ってしまった者だけしかこの地平線上には残っていない。死柄木はそう考えている。
「此処で死んだ方がまだ楽だぜ。生き残ればお前は、ゆっくり、じっくりと死の実感に浸る羽目になる」
「……、……」
「一人ずつ減っていく。世界が、少しずつ終わっていくんだ。
でもお前の未来はどうあっても変わらない。戦争が終われば、この世界と一緒に溶けて消える泡さ」
マスターの資格は確かにまだ残っている。
だが、令呪はない。資格があったからって、契約する相手がいなければそれも無用の長物だ。
七草にちかに、生きている価値はない。
生きていたって、どうにもならない。
彼女にできることは、死にゆく世界をただ見届けることくらいのもの。
「……まだ、私達は終わってない」
「終わったんだよ。ライダーは死んだ。俺が殺した」
「――まだ、あの舟のクルーは残ってる!」
だとしても。
それでも、途中で降りることはしたくなかった。
まだ続いている命を投げ捨てたくなかった。
もう二度と、にちかはシューズを捨てたくなかったのだ。
「私は……こんなところじゃ、死ねない。死んでなんかられないんです、それじゃ本当にただの石ころって終わっちゃう」
死んでもいいなんて思えない。
負けたって悔いがないなんて、口が裂けても言えない。
にちかは弱い。弱いから、生きたいし勝ちたいし、何ひとつ失いたくないと当たり前にそう言い続ける。
でも今は何よりも、自分が吐いた言葉と、それを信じてくれた人達の心を無為にしてしまいたくなかった。
-
ファンになってくれた子がいる。
応援してくれた仲間がいる。
帰りを待ってくれている、家族がいる。
こんな自分を見初めて、送り出してくれた人がいる。
――こんな私に、翔び方を教えてくれた人がいる。
「人質でもなんでもいい。連れて行ってください、あなたの決戦に……いや」
だからにちかは、全身全霊、一番の気合を込めて命乞いをした。
それは、何かを乞うにしてはふてぶてしい態度と物言いだったけれど。
「私達の、世界の終わり(ラストステージ)に」
それでも、にちかにできる精一杯だった。
土下座したって響くとは思えない。
靴を舐めて機嫌が取れるとも思えない。
なら後はもう、死ぬほど頑張って死にたくないって心を伝えて。
敵(ヴィラン)の王様の嗜虐の琴線にちょっとでも触れてくれることを祈るしかなかった。
魔王・死柄木弔が――沈黙する。
その顔に笑みは浮かんでいなかった。
やがて、彼のかさかさに乾いた唇がゆっくりと開いて。
そして――
「いいよ」
そんな言葉が、にちかの死神の口からこぼれ出た。
「どうせお前が生きてたって何にもならない。最後に残ったひとりを俺が踏み潰す光景が見たいってんなら、席をやるよ」
ただ、と死柄木は続ける。
気まぐれに偶像の余命を伸ばした死神は、こんなことを言った。
「その前にひとつ寄り道だ。顔を見ときたい奴がいる」
-
◆◆
命運を握る死神に連れられた先は、地下道だった。
にちかにとっても馴染みの深い場所で、土地勘は問題なくある。
しかし今や、地下は見る影もない荒れ果てぶりを見せていた。
地上ほどではないにしろ、此処で何か大きな戦いがあったことは誰の目にも明らかな――そんな惨状。
そこをしばらく、目の前を歩く死柄木に付いて行って。
荒れ果てた景色の先にあった階段の途中で、にちかは田中摩美々を見付けた。
声は、出なかった。
ただ、奇妙な納得だけがあった。
やっぱりあの時既に、摩美々は覚悟を決めていたのだろう。
自分はこれから死ぬかもしれない。生きて帰れない可能性の方が、きっと高い。
そう分かった上で、それでもこの人は戦うことを決めたんだなあと、にちかは思った。
「此処で待ってろ。逃げたら殺すからな」
「心配しなくても逃げませんよ。この身体で走ったりとかできないって、ちょっと考えたら分かるでしょ。
第一あなたさっき、私が生きててもなんにもなんないとか好き勝手言ってたくせに」
「追いかけるのが面倒臭いから言ってんだよ。石ころは雑踏に紛れんのが得意だろ?」
「あーはいはい。相手にしてたら疲れそうなのでそのへんで。ムキムキにちかを自由にして暴れ回られるのが怖いってことにしときます」
溜息をつきつつ、更に下まで降りていく背中を見送って。
にちかは、倒れ伏したまま動かない彼女の横へ腰を下ろした。
「……なんであんななんでしょうね、あの人。ほんっと嫌いです。ライダーさんも、あんなクソ野郎に負けんなって感じですよね」
そう語りかけても、そこにある"紫色"はちっとも動かなくて。
ああ、本当に死んじゃったんだ、と今更の実感をにちかに抱かせた。
「摩美々さんも摩美々さんですよ。アイドルが、こんな場所で死んでちゃダメでしょ。まったく……」
けれど、それも無理はない。
摩美々は、死人と呼ぶにはあまりに穏やかな顔で事切れていた。
口元に薄い笑顔を浮かべて、満足して眠っているみたいな顔だった。
服に滲んだ血と、全身のそこかしこにある傷がひどくアンバランスに映る。
「――すっごく、すっごく迷いました。ほんとはちょっぴり、もう十分頑張ったでしょって気持ちもあったんです。
私だけ生き残ったって、あの人が言う通りなんにもなんないですし。
霧子さん達ががんばってどうにかしてくれたって、もうライダーさんはいないから、方舟(わたしたち)の夢は叶わないし」
自分が生き残れる余地が少しずつなくなっていく過程を、じっと見つめながら生きる。
霧子が勝ったとしても、そこにもう自分の席はないのに。
それでも生きる。それは、死柄木の言う通りもっとも過酷な余生だった。
痛みも感じる間もなく一撃で、塵に変えられて消えてしまう方がずっとマシだろう。
-
「でも、もうちょっとがんばります。だって私、まだぜんぜんなみちゃんみたいになれてない。
プロデューサーさんにあんな偉そうな口叩いといて、自分はあっさり諦めておしまいだなんて格好悪すぎるでしょ」
それでもにちかは、生きることにした。
もう少しだけ、自分のステージで踊ることにした。
あの子が、あの人が、みんなが生きたこの世界(ステージ)で、羽ばたくことを選んだ。
もう、八つ当たりを聞いてくれるあの人はいないけれど。
「……まあ、あっさり死んじゃうかもしれませんけどね。
その時はあっちで、プロデューサーさんや真乃さんと一緒に迎えてくれたら嬉しいです。
もうひとりの私は、またぶーぶー文句言ってくるでしょうけど」
亡骸の傍に、空っぽのペットボトルを置く。
ちゃんと飲みましたよ、ミイラにしないでくださいね、と言葉を添えて。
「もし死んじゃったら、文句のひとつは言いますから。
私みたいなのをひとり置いて逝っちゃった摩美々さんの責任も、当然あるんですからね」
死柄木は何をしにこんなところに来たんだろうと、ふと思った。
もしかしたらこの下に、何かとんでもない力でも眠ってたりするんだろうか。
それとも、思わず笑っちゃうくらい下らない目的があったりするのかもしれない。
何にせよ、きっと摩美々と一緒にいられる時間は――彼女を想える時間はこれが最後だろう。
もう何も言ってくれない、からかいもいたずらもしてくれない先輩アイドルの傍に、にちかは寄り添って。
「……ほんと、なんで死んじゃうかなあ」
――もう少し、あなたの歌(こえ)を聞いていたかったと。
そんなことを、ふと想うのだった。
-
◆◆
ホーミーズとは、ソルソルの実の能力によって生み出される使い魔である。
とはいえ、能力者が生み出したホーミーズに対して使える権限は実のところそう多くはない。
現に先代であるビッグ・マムはホーミーズに裏切られたし、それは死柄木にも起こり得る事象だった。
ただ、死柄木はマムほど多数の魂を持っておらず、よって使役している数も限られている。
故にホーミーズの生存状況はリアルタイムで把握できており、だからこそ彼は"それ"を見逃さなかった。
田中にサーヴァント代わりに付けていた、偶像のホーミーズ。
星野アイの血を媒介に生み出した『アイ』が、消えたことを。
端末の類は戦闘の中で壊れてしまったため、正確に状況を把握することはできなかった。
だから死柄木はこうして、『アイ』が最後の戦闘を行ったであろう地下通路を訪れることにしたのだ。
階段の近くには、彼女の――元を辿れば自分自身の魔力の残滓が残っていた。
此処が最後の決戦場になったのだろうと察しつつ、点々と続く血痕を追って階段を下った。
階段の途中で、初めて会う気がしないアイドルの死体を見つけた。
にちかをそこに置いて、死柄木はまだ階段を下る。
因縁のある相手だったが、死んだというならもう興味もない。
方舟はやはり終わったのだと、改めてその認識を強める要因くらいにしかならなかった。
階段をもう少し下りたところに、死柄木の探していたモノはあった。
「は。最後の最後まで、格好のつかねえ奴だな」
田中一は、額から血の花を咲かせて死んでいた。
アイドルにやられたのかと思ったが、どうもそうではないらしい。
近くにはワイヤーと、彼のものではないだろう拳銃が一丁落ちている。
ブービートラップに引っかかって死んだらしいと悟り、死柄木は思わず笑った。
どうせ死んでいるだろうとは思っていたが、それにしたって格好のつかない、何とも"らしい"死に様ではないか。
「面倒ばかりかけやがって。思えば俺は、なんでお前なんかにわざわざ気を回してやってたんだか」
田中一という男は、決して有用な駒ではなかった。
メンタリティの脆さもそうだし、スペックも人間の域をまるで出ていない。
連合に対する忠誠心くらいしか評価できるところはなかったと、今振り返るならそういう結論になる。
「……これで、とうとう残りはあいつだけか。敵連合も終わりだな」
流石に二人で連合を名乗るのは間抜けというものだろう。
それに、もはや聖杯戦争は最終局面。
初めて会って間もなく"彼女"と交わした約束が、果たされる時が近付いている。
――敵連合は、終わるのだ。
もうすぐ彼らは"仲間"から、望む未来のために殺し合う"敵"同士になる。
「田中」
……田中一という男は、決して死柄木にとって価値のある駒ではなかった。
だが、彼は恐らく誰よりも敵連合という集団を愛していた。
だからこそ彼は、死柄木の敵を排除することに努め続けた。
裏切り者のアイドルを殺し、方舟の最後の希望を断ち切り、紫色と傭兵を道連れにした。
死柄木はその功績を買って、死に顔くらいは拝んでやろうと思い此処まで来たのだ。
「じゃあな」
世界の壁が壊れ、渋谷が界聖杯の"深層"へと墜ちる、その直前の一幕であった。
-
【渋谷区・地下(階段)/二日目・午後】
【七草にちか(騎)@アイドルマスターシャイニーカラーズ】
[状態]:精神的負担(大/ちょっとずつ持ち直してる)、決意、全身に軽度の打撲と擦過傷、『ありったけの輝きで』
片腕欠損(簡易だが止血済み)、出血(大)、サーヴァント喪失
[令呪]:全損
[装備]:
[道具]:スポーツドリンク、田中摩美々の携帯電話
[所持金]:高校生程度
[思考・状況]
基本方針:283プロに帰ってアイドルの夢の続きを追う。
0:最後まで、ありったけの輝きで。
1:アイドルに、なります。
2:殺したり戦ったりは、したくないなぁ……
3:梨花ちゃん達、無事……って思っていいのかな。
[備考]
聖杯戦争におけるロールは七草はづきの妹であり、彼女とは同居している設定となります。
WING決勝を敗退し失踪した世界の七草にちかである可能性があります。
当人の記憶はWING準決勝敗退世界のものですどちらの腕を撃たれたかはお任せします。
【死柄木弔@僕のヒーローアカデミア】
[状態]:継承、全身にダメージ(大/回復中)、龍脈の槍による残存ダメージ(中)、サーヴァント消滅、肉体の齟齬解消
[令呪]:全損
[装備]:なし
[道具]:なし
[所持金]:数万円程度
[思考・状況]基本方針:界聖杯を手に入れ、全てをブッ壊す力を得る。
0:勝つ
1:全て殺す
[備考]※個性の出力が大きく上昇しました。
※ライダー(シャーロット・リンリン)の心臓を喰らい、龍脈の力を継承しました。
全能力値が格段に上昇し、更に本来所持していない異能を複数使用可能となっています。
イメージとしてはヒロアカ原作におけるマスターピース状態、AFOとの融合形態が近いです。
それ以外の能力について継承が行われているかどうかは後の話の扱いに準拠します。
※ソルソルの実の能力を継承しました。
炎のホーミーズを使役しています。見た目は荼毘@僕のヒーローアカデミアをモデルに形成されています。
血(偶像)のホーミーズを造りました。見た目と人格は星野アイ@推しの子をモデルに形成されています。今は田中に預けています
風のホーミーズを使役しています。見た目は殺島飛露鬼@忍者と極道をモデルに形成されています。
光のホーミーズが消滅し、合神ホーミーズは作れなくなりました。衝撃のホーミーズは残っています。
※細胞の急激な変化に肉体が追いつかず不具合が出ています。ほぼ完治しました。
※峰津院財閥の主要な拠点を複数壊滅させました。
※偵察、伝令役の小型ホーミーズを数体作成しました。
※個性が進化しました。魔力や星辰体などに対しても崩壊を適用できるようになりました
-
◆◆
世界の終わり(ラストステージ)の、幕が上がる。
◆◆
-
以上で投下終了です。
そして、先日お伝えしていた大切なお知らせの方をさせていただきます。
当企画『Fate/Over The Horizon』は、次に投下する連作で最終回となる予定です。
最終回に関しましては、私◆0pIloi6gg.の個人執筆となります。
これまで二年間以上に渡り当企画にお付き合いしてくださった書き手の皆様には、此処で改めてお礼申し上げます。
最終回は文量が非常に膨大になる見込みで、従って既存の予約期限は撤廃し、何度かに分けて投下していく形を取ろうと思います。
ただ、期限がないと読者の皆様にもご不安を与えてしまうかと思いますので、
・これまでの予約期限である「二週間」ごとに、必ず何かしらの投下か進捗の報告をする
というルールを設定しておきます。
年内完結は少々厳しいかもしれませんが、一月中の完結を目指して鋭意執筆していきます。
それでは改めてになりますが、書き手の皆様も読者の皆様も此処まで当企画を応援していただき、誠にありがとうございました。
リレー小説の体は此処で一旦の幕引きですが、もう少しだけ『Fate/Over The Horizon』の物語にお付き合いいただけたら幸いです。
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進捗のご連絡になります。
初っ端からで申し訳ないのですが、今週はちょっと私事で時間がなかなか取れなかったこともあって更新が難しそうです。
つきましては来週の木曜までにはキリのいいところまで投下出来るようにしたいと思いますので、もう少しお待ち下さい……。
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その1、投下します。
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――――最後ひとつの"可能性"を占うべくして、この聖杯戦争は幕を開けた。
器の数は二十三。招来に応えた英霊の数もまた二十三。
裁定者の威光はなく、いかなる所業も可能性の下に肯定される想いの地獄。
それ故に戦況は無軌道と、無秩序。あらゆる倫理を、巨大な感情が駆逐する地平線の戦い。
光月の侍は、始まりの剣士と共に使命に殉じて生き様を遺した。
古手の巫女は、天元の花を抱いて咲き誇り、ある男の妄執に引導を渡した。
犯罪の王はその命さえもを犯罪計画の中に含め、結果として最大の悪を完成させた。
癒しの否定者は大願を果たせず、しかし械翼の少女と紡いだ絆を信じて殉じた。
光失った少女は羽ばたく偶像を肯定し、その忘れ形見は最後の最後に復讐の唄を刻んだ。
輝きの子は傷付き迷い、されど己を見失うことなく歌い続け、星の少女の愛した優しさを貫いた。
棄てられた小鳥は友の手を引き、誓いは果てまで受け継がれ、蒼き雷霆はひとつの愛をこの世に残した。
愚かな男は旅の末にあるべき仕事へ還り、狛犬は役目を終えて眠りに就いた。
神の子は敗北を以って新たな生き様を知り、混沌なき聖杯戦争を歩み抜いて天に歩み出した。
呪われた男は愛のままに狂い咲き、龍王と共に戦争の佳境を担い、そしてひとつだけ医者らしいことをして枯れた。
心の割れた王子は神すら屠り、屍を背負って女王の覇道を吼え、孤独の朝に溶けていった。
ある母親は流浪の父親と巡り合い、階段をのぼってあるべき部屋へと戻っていった。
天地宇宙の境界線は滅亡の手に敗れ去り、しかし彼の繋いだ希望は傷付きながらもまだ生きている。
砂糖菓子の少女は友と共にもしもを紡ぎ、無感の鬼の嘲りと決別して桜の木の下で笑って逝った。
天与の子は仕事を果たして地獄に帰り、彼の呪いは今もとある女を動かす燃料として生き続けている。
美しい紫色は愛した古代に帰ることはなく、けれどその奮闘は緋色の蜘蛛と共に色褪せず。
最弱の凡夫はひとつの答えに辿り着き、殺人鬼を失ってなお可能性の輝きを示して散った。
愛に狂った女は少女に愛を教えて散り、彼女の感情を理解できなかった始まりの鬼は慟哭しながら悪魔の腹に消え去った。
神に見初められて生まれた魔女は対話の末に原初の祈りを思い出し、曼荼羅の崩壊を待たずして次のカケラへ走っていった。
透き通る手の女の心に後悔はなく、やるべきことを成し遂げて旅立ち、巫女の魂は彼女が守った透眼と共に。
家族を愛した少年はようやく妹との対話を果たし、ヒーローの背中を焼き付けて憩いに眠った。
残る器は、あと五つ。
銀の太陽。
白の魔王。
月の落子。
灰の偶像。
透の語部。
残る英霊は、あと三体。
凶剣の鬼。
悪魔の器。
神の巫女。
――残る願いは、あと三つ。
愛。
崩壊。
そして、愛。
聖杯戦争は、これから終わる。
世界の終わりが、すぐそこにまで迫っている。
渋谷区の消失と世界に空いた"孔"は、その合図に過ぎない。
終末の音(アポカリプティックサウンド)を響かせながら。
二つの愛と、一つの滅びと――そして臨終を控えた優しい願いごとを載せて。
界聖杯はじきに、滅び去ろうとしていた。
願いの成就。可能性の開花という本懐を、果たして。
地平線の彼方に誰かを運ぶ"方舟"として、その生まれた意味を果たそうとしていた。
◆◆
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世界の崩壊、深層への墜落――
その現実を理解するよりも、霧子達を"彼女"の魔の手が襲う方が遥かに早かった。
落ちていく、表層(テクスチャ)の残骸。
星空を思わせる蒼い世界の中で、銀の髪の少女が笑っている。
霧子ではない。霧子の笑みは、こんなにも獰猛なものでは決してない筈だ。
銀の髪と、白磁の肌。そして尖った、悪魔を連想させる白い牙。
額に鍵穴を開けた異界の巫女が、狂気のままに降り注がせた触手の波濤が手始めに幽谷霧子を呑み込み、粉砕しようとした。
だが――
「退け…………」
「っ――セイバーさんっ……!」
そんな霧子の前に躍り出た影がある。
上弦の壱。かつてはそう呼ばれていた、剣の鬼。
光月の侍から受け継いだ妖刀を振るい、彼は虚空に月を描きあげた。
無数の月が、霧子を押し潰す筈だった触手の波をことごとく細切れにしていく。
そのまま更に前へと踏み込んで、少女に向けて切り込んだ。
【月の呼吸 捌ノ型 月龍輪尾】。
抉り斬る研鑽の結晶を前に、しかし少女は不動のまま。
右手に握った鍵剣を振り抜いて、ただそれだけの動作で――
「……ッ!」
黒死牟が展開したすべての月輪を、文字通り力づくで圧し砕いた。
嫌でも脳裏に思い浮かべてしまうのは、つい先ほどまでその猛威を目の当たりにしていた龍の王だ。
あのカイドウでもなければまず不可能だろう、無茶苦茶の一言に尽きる力技。
それを涼しい顔でやってのける彼女が尋常な相手である筈はなく、黒死牟は警戒の水準を瞬時に引き上げたが。
しかしそれでも遅いとばかりに、無数の蝙蝠がどこからか現れて彼の身体を貪り始めた。
「お久しぶりね、お侍さま」
その呼称を受けてようやく、黒死牟――そして霧子の中で、目の前にいる少女が既知の人物であると結び付いた。
黒死牟だけならばいざ知らず。
霧子でさえ、目の前の彼女が自分が知るのと同一人物だと此処まで理解できていなかったのだ。
それほどまでに、今の彼女は彼らが知るのとかけ離れていた。
見た目以上に、その中身が。放つ気配の剣呑さが、かつてホテルで穏やかな時間を共にした彼女のものとはあまりに違いすぎていたからだ。
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これは、何だ。
一体、何だというのだ。
一体何があれば、たったこれだけの時間で一体の英霊がこうも変質を遂げられるのか。
数百年の時を殺戮に費やした、剣の鬼でさえもが戦慄する迂遠なる深淵の巫女。
振り翳した鍵剣と閻魔の刀身が激突し、極彩色の火花を散らす。
先のはやはり偶然ではなかった。打ち合っただけで腕が千切れそうになる、それほどの威力が一挙一動に伴っている。
彼方のものと繋がれたことで、アビゲイルという英霊のあらゆる出力が段違いに上昇していた。
黒死牟はカイドウに感謝せねばならない。
敵ではあったが、もしもあの時"世界を穿つ"ための攻撃が彼に向けて放たれていたなら、彼はもうこの世界に影も形も残っていなかったろう。
今際の際に龍王が起こした小さな気まぐれ。それが、お日さまの少女と契りを交わした一体の鬼の命運を辛うじて繋ぎ止めていた。
どことも知れない地点へと墜落していく最中に、巫女と切り結ぶ血塗れの剣鬼。
【月の呼吸 壱ノ型 闇月宵ノ宮】で鍵剣を握る細腕を断ち切ろうと試みたが、その刀身は触手によって絡め取られた。
「………………!」
黒死牟の剣は、若輩殺しの老練である。
どれほど抜きん出た才があっても、才能だけで彼の剣は凌げない。
だからこそ、本来であればアビゲイルのような強大な力"だけ"に支えられた手合いは格好の餌食となる筈だった。
事実、彼の前にかつて立ったある天才剣士は為す術もなくその利き腕を切断されている――その二の舞になる筈だった。普通ならば。
だがアビゲイル・ウィリアムズは天才だとか凡才だとか、老練だとか若輩だとか、そういう次元にはそもそもいない。
「きれいな剣。まるで星空みたい。私達のセイレムから見上げた、ほうき星の瞬く――」
うっとりとした様子で夢見るように呟くアビゲイルの危険度が、黒死牟の中でどこまでも際限なく高まっていく。
宮本武蔵。光月おでん。ベルゼバブ。カイドウ……様々な強者がいたし、中にはついぞ超えられなかった者もいる。
だがその中で、縁壱を除くならばこの少女が最も理解の及ばない存在に見えた。
まるで、そう。どこまで続いているかも分からない、深い井戸を見下ろしているような。
そんな、無限とも呼ぶべき暗闇を相手に剣を振っているような心地が襲ってくるのだ。
【月の呼吸 拾肆ノ型 兇変・天満繊月】。
斬撃の渦を創成して触手を切り裂き、剣の自由を取り戻す。
アビゲイルの身体にも少なからず斬撃が及んだかに思われたが、しかし傷がない。
少女一人程度、瞬く間に挽き肉に変えられるだろう斬撃の海。
その渦中で一人立ち、微笑みながら無傷を維持している姿はある種幻想的でさえあった。
黒死牟の月と斬撃が、内側から巨大な力にへし折られて崩壊する。
溢れ出したのは羽虫の群れだ。たかが羽虫、それでも一匹一匹が英霊の骨身さえ噛み潰す異界の虫だ。
「開け――――門よ」
だがこれすら、黒死牟の逃げ場を封じるための檻でしかない。
アビゲイルの目が、その鍵穴が妖しい光を帯びる。
そこに集約されていく力の大きさは、単なる通常攻撃の枠に収まるものでは完全になかった。
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「【月の呼吸――」
怯まず次の剣を用立てて窮地を脱しようとする黒死牟だが、残酷なまでに遅い。
というよりも、手数が足りていない。
彼の放った手はすべて粉砕され、今はアビゲイルが場を完全に掌握してしまっている。
その状況で降り注ぐ光の束は、遠き処からの神託は容易く回避出来るものでは断じてなく。
かつて悪鬼だった男の罪を祓い清めるように、虚空の中から這い出て轟いた――が。
そんな因果応報に痰を吐きかけるように、チェーンが伸びて彼の刀に巻き付いた。
そのまま強引に真下へと引くことで、放たれた聖光からの回避を辛うじて成立させる。
「おいバケモン! どういう状況なんだこりゃあよォ!?」
「知らぬ……私が、聞きたい思いだ……」
彼らはまさに呉越同舟。
ライダー・デンジの介入が黒死牟を助けた。
未だに墜落は続いている。
彼はその最中で唯一、自由落下特有の不安定さとそれに伴う散開の危険性に逆らう力を持っていた。
チェーンを用いてしお、霧子の両名を助けながら同時に黒死牟を援護してアビゲイルとの戦闘に参加する。
此処までの芸当が可能なのは、この場において彼一人。
だからこそアビゲイルも、彼の存在を厄介と看做したのだろう。
目と目が合った。
明確に。
その瞬間――デンジが思い出したのは、かつてある悪魔の力によって地獄に落とされた時の記憶だった。
地獄の果て、無数の扉の中から現れた根源的恐怖の名を持つ悪魔。
今目の前にいるこれは、あの時為す術もなかった闇の悪魔に近い存在だと理解する。
即ち、根源。即ち、深淵。本当なら戦おうとすること自体が間違いの、掛け値なしに距離の開いた存在……!
「ああクソ――なんだってさっきからろくでもねえ化け物の相手ばっかりさせられてんだあ俺は!?」
デンジは自分の脳を切り刻んで、闇の悪魔の影を排除した。
恐怖は刃を鈍らせる。精神攻撃への対策なら、痛みを覚える箇所そのものを刻んでしまうのが一番早い。
「ガキ殺すのは多少寝覚めが悪いけどよ、タコ女なら話は別だぜ!!」
「下品な人ね。でも実は嫌いじゃないの、あなたみたいな人のこと」
「あぁ? ったく、もう十年……いや五年……、……やっぱ三年歳取ってから出直して来いやマセガキがア!」
そのまま突撃するデンジ。
いつも通りの猪突猛進、それだけで触手や羽虫を一気に刻んで紫の血飛沫を散らすが、だがそこから先に進めない。
斬った分を超える量が毎秒毎瞬追加されているから、結果的に一寸たりとも前進を許して貰えないのだ。
彼がそれを理解した時には既に、嗤うアビゲイルの姿がその懐に入ってきた後だった。
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「あなたみたいな人に、悪いこと……本当はたくさん教えてほしいけれど。
だけどごめんなさい。今はね、他にやらなくちゃいけないことがあるの」
爆発するように轟いた神域、禁足地、隠世、外宇宙、領域外の神威がデンジの身体から伸びているチェーンのすべてを粉砕した。
途端に伝う冷や汗。デンジは咄嗟に振り向く、彼はそうしなければならない。
そうでなければ、マスターであるしおのことさえ守れなくなってしまうからだ。
しかしその一瞬は、強敵を前にして晒すにはあまりにも大きすぎる隙だった。
「だから、さようなら」
「ガ……!?」
鍵剣が心臓を貫き、デンジの口からバケツを引っくり返したように吐血が溢れる。
更に次の瞬間には、彼の手足を触手が四本同時に引きちぎっていた。
「お人形さんみたいね」
心臓を潰され、手足を引きちぎられて奈落に叩き落されたデンジ。
その時動いたのは、さっきは彼に助けられた黒死牟だった。
閻魔の切っ先を胸元のエンジンスターターに引っ掛け、そのまま上にかち上げることで再起動させる。
黒死牟は、デンジの体質について何も知らない。
だが、元々彼は鬼狩り。鬼殺隊の剣士である。
刀一本で異能の鬼を相手取るならば、純粋な技や力だけでなく頭脳を回さなければ追い付けない。
そうでなくとも敵を殺せるのは、継国縁壱のような怪物だけだ。
胸元から伸びた謎の紐。その先端についた不可思議な取っ手。
咄嗟の機転でそれを使った。それを見て、しおが落下の風圧の中で声をあげる。
「せいばーさん! らいだーくんに血をあげて!!」
「何…………?」
「血を飲んだら、らいだーくんは生き返れるから……!」
「…………、…………」
黒死牟とデンジ、更に神戸しおは敵同士である。
アビゲイルを排除したとして、その時は彼らが改めて敵になるだけだ。
そう考えれば今この状況は、未来の敵が一体むざむざと死んでくれた格好と呼んでも差し支えない。
だが、黒死牟の決断に迷いはなかった。
「起きろ………手間を取らせるな、ライダー……」
かつて。
上弦の鬼であった頃の彼ならば、また別の意味で迷いはしなかっただろう。
己は己一人で事足りている。他の誰か/何かを頼るなど軟弱千万。
侍たる者、上弦の壱たる者、この剣一つで敵を討ってこその黒死牟。
そう信じてアビゲイルのみを見据えていたに違いない――だが、今の彼は違った。
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彼は、あまりにも多くのことを知りすぎた。
それは燦然と咲き誇る天元の花であり。
果てしなく高みへ羽ばたく混沌の王であり。
そして――豪放磊落、あるがままに突っ走る光月の侍であった。
井の外へと放り投げられ、大海を見て自分を知った黒死牟は今、目の前にある現実を正しく認識している。
アビゲイル・ウィリアムズ……このサーヴァントは明確に格上だ。
此処で矜持を優先すれば、自分は何も果たせぬままこの幼子に磨り潰される。
その事実を確かに認識していたからこそ、黒死牟は自分の頸動脈を閻魔の切っ先で断ち切り血を悪魔憑きの少年へと注いだのだ。
無論――屈辱はある。
この自分が、縁壱を越すと誓った己が、身の程を弁えて他者を頼っているという事実に心が焦げる。
にも関わらず彼はそうした。彼の中の天秤は、悲鳴をあげる自我と彼方にて待つひとつの誓いを天秤にかけて、後者を優先した。
即ち、幽谷霧子との誓い。
それを果たせぬ方が自分にとって余程屈辱、尊厳を凌辱される失態であるとそう認識して行動したのである。
その進歩は言わずもがなあまりに大きく。
結果として、彼の血を受けた少年は四肢を失った死体から……五体満足、万全な状態の英霊一体として再起を果たした。
「マッズ!!? てめえ侍野郎、どんだけマズい血してんだお前! オエエエエエエ!!」
「切り刻むぞ……貴様………」
鬼の血。
それを飲み干した少年は、不快を隠そうともせずに立ち上がった。
引きちぎられた四肢は既に再生を果たしている。
これこそが武器人間の特性。通常の死は、彼らにとって永劫を意味しない。
いや、それどころか――
(なんだこりゃ。何か、自分が自分でなくなったみてえな……)
悪魔の身体に対して注ぎ込まれた、鬼種の血。
それは通常の人間の血よりも遥かに強くデンジの霊基に適合していた。
支配の悪魔を殺す偉業を果たし、チェンソーの悪魔の器として英霊の座に記録された――
言い換えれば"その時点"で停滞していた、彼の霊基。
事此処に至ってその根底部分が変動する兆しを感じながら、デンジは自分を救った鬼面を背後から襲う触手の波を引き裂いて鍵剣と打ち合った。
「おい不快男(キモメン)! ……味方でいいんだな!?」
「寝言を、言うな……目の前の状況も、分からぬのか……」
「あーそうかよ。そうだな、俺もムサい男と肩組んで二人三脚とかゴメンだぜ。
霧子さんには悪いけど、これが終わったらてめえをブッ殺して聖杯戦争を終わらせてやるよ!」
言わずもがなアビゲイルは圧倒的に格上。
ともすればカイドウとさえ並び得る出力は、デンジで相手が出来るものでは依然としてないままだ。
しかし――
「……あら」
此処でデンジは、持ち堪える。
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全身の筋肉を砕かれながら、それでも狂気のままに立ち続けていた。
なんという力技。なんという、無茶苦茶。
アビゲイルの顔に浮かぶわずかな驚き。
それが消えるよりも早く、彼の鎖が鍵剣を握る彼女の細腕を戒めた。
「ガキがよぉ……! 大人の怖さってもんを教えてやるぜェエエエエ!!」
――アビゲイルとデンジの筋力ステータスは本来同格。
だが霊基が最終に達した今、神の後押しを受けている彼女のそれはもはや額面通りの位階ではない。
よって拮抗などし得る筈もない、本来なら。
だというのにデンジがその不可能を可能としている理由は二つあった。
黒死牟の血という、人間の血とは比べ物にならないほど悪魔のそれに似通った血を取り込んで霊基強化に成功していたこと。
そしてその上で、不死者という無二のアドバンテージを活かし、死すら恐れない何も顧みることのない無茶で無理やり持ち堪えていたこと。
敵の数字が額面通りでないのなら、此方もどうにかその段階まで押し上げてしまえばいいとばかりのゴリ押しでデンジはアビゲイルを止めた。
となれば動くのは当然、彼と今だけは肩を並べて戦う月の剣士に他ならない。
「まあ……」
【月の呼吸・玖ノ型 降り月・連面】。
降り注ぐ月輪の刃が、此処で初めてアビゲイルに驚きを抱かせた。
彼女が美しき星空と称した黒死牟の御業が、巫女の使命を終わらせる凶刃として像を結ぶ。
デンジとの競り合いに用いていた鍵剣を離して、ステップを踏みながら後退。
するなり神の魔力を帯びさせた燐光の鍵閃で以ってアビゲイルは降り月を粉砕するが、これを読めない黒死牟ではない。
彼はこれを見越して、前へと踏み込んでいた。
そうして繰り出すのは参ノ型。即ち――
「仲が良いのね、ふたりとも」
【月の呼吸・参ノ型 厭忌月・銷り】。
放たれた二連の斬撃が、此処で初めてアビゲイルに血を流させる。
そしてその隙を逃さぬと、デンジが凶相を浮かべながらチェンソーを振り被った。
「でも、私だって負けてないのよ。あの人がもしここにいてくれたなら、きっと笑顔で頷いてくれるはず」
同時にアビゲイルを囲むのは黒死牟の月輪だ。
足の踏み場もないとは、まさにこのこと。
それどころか身じろぎ一つした時点で、たちまち配置された刃が少女の身体を膾切りにする死の結界が構築されている。
その上で、月の邪魔立てなど物ともせずに不死の電鋸男が襲ってくるのだ。
これを詰みと言わずしてなんというのか。
並の英霊であれば確実に詰んでいる、宝具の解放もままならず唐竹割りにされること請け合いの状況がここに完成していた。
だが――
「あ……!?」
アビゲイル・ウィリアムズは、断じて並の英霊などではない。
-
街角に潜む殺人鬼を、微塵に砕き。
地獄界の申し子を、一撫でで破壊し。
手負いとはいえ最強の龍王を、この世から消し去った神の御遣い。
その力の真髄を、これでもまだデンジと黒死牟は甘く見ていたと言う他なかった。
「んなっ――」
まさに鎧袖一触。
アビゲイルが、その鍵を虚空に突き立てる。
それだけで、彼女の周囲に宇宙現象と見紛うほどのエネルギーが炸裂した。
カイドウが駆使した月輪破りと理屈は同じ。より上の破壊力をもってしての力押し。
デンジの全身がその圧倒的な破壊力に耐えきれず、一秒ごとにひしゃげていく。
「痛いでしょう。ごめんなさいね」
「――ぎ、あっ!?」
「でも、あの人も痛かったと思うの。すごく頑張ったのよ」
アビゲイルの言っていることは意味が取れない。
というより、整合性の線が通っていないように聞こえる。
発狂――そんな言葉がこの上なく似合うような、聞いていると魂が揺らいできそうな浮遊感を含んでいた。
そんな妄言を漏らしながら、アビゲイルはその右手をデンジの体内に潜り込ませた。
少年の身体が痙攣し、補充したばかりの血が致死的な速度で体外に流出していく。
同時に走るのは、細胞のひとつひとつが得体の知れない何かに置換されていくような感覚。
チェンソーの刃を動かしてなんとか抵抗しようとはしているが、まったく意味を成していない。
「う゛ぇえええ゛ェエエエ……! き、気持ち悪ィ……! 何しやがん、だ、この、クソガキがァアアア……!?」
「とても楽しい時間だったの。夢見るような一ヶ月だった……」
「イカれてんのか、てめ、クソッ、なんでオレの周りのガキ、どいつも、こいつも、こんな、何言ってんのか、ガッ……!!」
「私も、空魚さんも、あの人のことを愛しているの。なら」
宛らそれは、生きたまま早贄にされた昆虫が死を目前にして暴れているような。
末期の痙攣のような悲惨さと、ある種の滑稽さを帯びた動きだった。
「やっちゃいけないことなんて、ないと思わない?」
ここね。
アビゲイルが呟く。
その小さな手には、デンジの心臓が――
彼の霊核の中心たる、チェンソーの悪魔の心臓が握られていた。
-
デンジが不死なことは分かった。
だがサーヴァントである以上、完全な不死などあり得ない。
アビゲイルは狂乱の中にありながらも、そのことを理解している。
永遠に再生するというのなら、それを可能にする炉心を壊してしまえばいいだけのこと。
そして今の彼女には、それを可能にするだけの力があった。
当然このあからさまな隙を、黒死牟は突こうとしてくる。
月の呼吸。久遠の時を費やして鍛え上げた技術と異能の混合を発現させ、この"巫女"を三枚に卸そうとして――
「めっ、よ」
「…………ッ……!」
瞬間、全身を串刺しにされた。
アビゲイルを中心に飛び回っていた異界の虫たち。
それらが突如として、魔女を貫く槍のように変じて黒死牟へ襲いかかったのだ。
一瞬にして槍衾と化した黒死牟の肺、喉、気道全般は徹底的に潰されていた。
黒死牟は鬼であり、彼の技は呼吸よりも血鬼術に比重を置いてはいる。
だがそれでも、全集中の呼吸を戦闘技術の根幹に置いている以上"呼吸封じ"は変わらず有効。
アビゲイルは終始圧倒的な戦況を築きながらも、その一方で黒死牟の泣き所を看破していたのである。
「あなたとは後で遊んであげるから。今はそこで、いい子で見ていて?」
「貴、様…………」
「お話したいこともあるの。あなたにはお礼を言わなくちゃいけないから。
あの時、あの人を助けてくれたこと――あの人はいなくなってしまったし、私はこんなになってしまったけれど、それでも覚えているのよ?」
封殺。封殺。封殺に次いで更に封殺。
槍衾の次は触手の肉檻による圧殺が、黒死牟の全身を圧潰させた上で囚われの身に落としていく。
成長した上弦の壱と、不死のデビルハンター。
どちらも怪物狩りという一点においては年季を持つふたりでありながら、彼らの強さは児戯のように貶められて砕かれた。
「だから、最後にありがとうを言いたいの。
そうじゃないと、ちゃんとさよならできないでしょう?」
――もはや。
かつて、透き通る手の女の隣で愛らしく微笑んでいたアビゲイル・ウィリアムズはこの地上のどこにも存在しない。
ここにいるのは銀の鍵の巫女、邪神の眷属だ。
女王。混沌。九頭竜新皇。夜桜の龍王。そして白の魔王。
そうしたごく一部の例外と肩を並べる、"災害"と化したのだと見る者すべてにそう理解させた。
だが。
それでも。
彼女だけはこのあまりにも絶望的な墜落の中で、それでもアビゲイルに言葉を投げかける。
-
「アビーちゃん……!」
幽谷霧子。世界が談笑の余裕を持てるくらいには平和だった頃、わずかな間だがアビゲイル達と確かな絆を紡いだアイドルの少女だった。
最初、霧子も例外でなくアビゲイルの変貌を理解できなかった。
あまりに破滅的な変容を果たした彼女を、既知の人物だと認識できずにいた。
だが今は違う。実際にアビゲイルの言葉を聞いた今、霧子は記憶の中の彼女と目の前の巫女とを同じ存在として結び付けられていた。
「霧子さん」
その手から血飛沫を散らしながら、巫女は偶像に視線を向けた。
無邪気とは程遠い残虐な所業と、霧子の記憶にあるそれとはかけ離れた異常性。
けれど霧子の名を呼ぶその声と、どこか不器用な幼さは紛れもなく霧子の覚えている彼女のそれと同じだ。
「こんなこと言っても、信じてもらえないかもしれないけど……私、霧子さん達のことは本当に好きだったわ。
マスターを助けてくれた、優しい人達。まるで春の日のお日さまみたいに心がぽかぽかして、幸せな気持ちになったこと――こんなになっても忘れられないの。叶うならずっとあの場にいたかった。
私と、マスターと、皆さんで……ずっと、幸せに、楽しく……」
その言葉に、何を返せばいいのか分からず霧子は唇を噛むしかなかった。
彼女がその小さな身体で背負っている、背負わねばならなかった現実があまりにも重すぎたからだ。
仁科鳥子の不在。アビゲイル・ウィリアムズの変貌。ここでこうして、彼女が立ちはだかっているその理由。
あの時――皮下真を射殺し、令呪を使ってアビゲイルの名を呼んだ黒髪の女。
すべての要素が、これ以上ないほど都合よく噛み合って真実を描きあげていた。
時は戻らない。喪った人は帰らない。少女の祈りは、届かない。
「でもそれは叶わないから、私は"悪い子"になったの。
だって私は本当に……本当に、あの人のことが好きだったから。
鳥子さんが大好きな人と一緒にあれるように、私が尽くさなくちゃいけなかったんだから――」
「…………っ」
アビゲイルにとってあの日々は夢のようだった。
はじめて見る現代の町並みと、歳上のちょっと大人なお姉さん。
朝から晩まで家族みたいに過ごす、夢のような一ヶ月だった。
夢など見ている場合じゃなかったのだと気付いたのは、すべてをなくしたあの時。
自分は、サーヴァントとして果たすべきことを何も果たせなかった。
その失意は、彼女を敬虔という蛹から羽化させるのに最適な栄養素となった。
斯くして、完成された銀の鍵の巫女はここに立っている。
聖杯戦争を終わらせるための一手を穿ち、今まさに幕引きの神意を振り翳している。
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霧子は、失う痛みを知らないわけではない。
大勢が死んできた。知っている人も、知らない人も。
そのたびに痛みがあった。その痛さを知っているからこそ、霧子はアビゲイルへと知った口を利くことができなかった。
恐ろしげな姿と巨大すぎる力、その陰に隠れた彼女の悲しみと無念が分かってしまったから。
「お友達として、誓って嘘のない善意で忠告するわ。霧子さん、あなたはどうかそこで見ていて。
あなたには必ず、せめて必ず、苦しみのない――誰よりも救われた死を約束してあげるから」
アビゲイルの背後で、門が開く。
デンジの心臓を握り、黒死牟を術中に納めた巫女の真髄が今開帳される。
お日さまの善意を無視して、かつての恩人の対話を拒否して。
殺人鬼と龍王を消し去り、美しき肉食獣の命運を零に帰した邪悪の樹(クリフォト)がここに再びその鎌首をもたげる。
「いぐな・いぐな・とぅるふとぅくんが」
「……! 待って……待って、アビーちゃん……! 私、あなたと――!」
話をしたい、と。
未だかけるべき言葉の浮かばない脳裏で、それでもと声を張り上げた霧子。
しかしアビゲイルは、もうそれに応えてはくれなかった。
咲き誇る夜桜ならぬ死桜、光り輝く地上の遥か下に生い茂る冒涜の樹。
世界すら冒す、あらゆる"正常"を穢す、際限を知らない邪神の神威。
この状況でそれを防ぐ手段は、考えられる限り存在しない。
二体のサーヴァントはもちろん、霧子もしおも生き延びることは百パーセント不可能だった。
「光殻(クリフォー)――――」
よって、此処に聖杯戦争はまたその終末の針を早めることになる。
界聖杯の深層、墜ちるべきところにまで墜ちることもなく。
霧子が知りたがっていた、界聖杯そのものの意思(ねがい)に辿り着くこともなく。
物語は終わり、すべてが眠りにつく時が来た。
神聖なる冒涜の光の中で、霧子はそれでも目を閉じず、穢れた少女に手を伸ばし続けて――
「おねがい、■■■くん」
その一瞬の中で、途切れ途切れに声が響いた。
もうひとつの願い。無法の愛に対抗するものは、同じく無法の愛以外にはあり得ない。
――神戸しお。
彼女がデンジを最上の形で使うには、都度令呪一画の消費が必要不可欠となる。
だからこそ彼女は、先の皮下戦でデンジを最大限活用することができなかった。
死線だと分かっていてもだ。ここでそれを使えば、本当の意味で後がなくなってしまうから。
だがここで、彼女は覚悟を決める。
霧子が対話に臨もうとするその裏で、腹を括って最後の一画を輝かせた。
握られた心臓、誰がどう見たって分かる"詰み"の状況がその行動ひとつで変転する。
アビゲイルの細腕が弾き飛ばされ、それと同時に初めて巫女の身体から血が迸った。
驚きに開かれる目。わずかに遅延する、宝具の真名解放。
その一瞬が――破滅の回避をもたらす、最後の役者の到着を間に合わせる。
-
「いいいいい――――やあああああああああああ――――――――っっっっ――――――――――――!!!???
ちょ、ちょちょちょちょ――――!!!! 死――――ぬうううううううううううううううう――――――っ!!????」
まず響いたのは、気の毒なほど切羽詰まった少女の悲鳴だった。
「にちかちゃん………!?」と、空を見上げて霧子が叫ぶ。
だがそれに応じる暇はない。
白い、怖気立つほど白い男に荷物みたいに担がれた少女はいつの間にか隻腕になっていて、顔色すら悪いにも関わらず、彼女はめちゃくちゃに絶叫しながら涙を流していた。
それもその筈。壊れゆく世界への特攻、墜落への爆速割り込み、超人どもにとっては大したことないだろう行動もまごうことなき一般人である彼女にとっては絶叫マシンのざっと数倍程度のスリルでお届けされる。
方舟の生き残りと、方舟を滅ぼした者の呉越同舟という事情を知らない者にしてみればまったくもって意味不明な状況。
されど、何に憚ることもなく男は嗤っていた。
彼の到着と共に振るわれる、腕――無形の空すら掴む次元に進化を遂げた滅奏の星の擬造超新星(Imitation)がアビゲイルから溢れようとしていた神威に触れ、それと同時に彼女を殺す崩壊の毒素として逆流する。
「よう。楽しんでんなァ」
「無粋ね。はじめましてだけれど、よく分かるわ。あなたはとっても怖い人。とっても怖くて、おぞましい、悪魔のようなかた」
「ははは。悪魔、悪魔ね……悪くねえが、ちっとばかし陳腐だろそりゃ」
それは、神と繋がれたアビゲイルでも易々受け入れられるものではない。
よくて瀕死。最悪ならば、この場で粉々に崩れ落ちる。
だからこそ彼女は宝具開帳の中断を余儀なくされた。
そして弱みがあれば、少しでも日和りがあれば……そこに付け込むのが彼ら(ヴィラン)だ。
「――俺は魔王だ。お前は何だ?」
「さあ」
「名前もねえのか。シケたガキだ」
世界のすべてを置き去りにしながら、魔王と巫女、聖杯戦争の行方を占う雌雄が邂逅した。
天から落ちてくるのは破壊の五指。犯罪王がその命でもって完成させた、究極の罪(カタストロフ・クライム)。
地から見上げるのは邪神の鍵剣。地獄界を飲み干して輝く、白銀の鍵(アビゲイル・ウィリアムズ)。
「すべては一人の魔王のために(オール・フォー・ワン)ってなァ――つーわけだからてめえのも全部貰ってくぜ。有り金全部吐き出しな」
「『三銃士』? ふふ、引用するにしてもひどい野蛮ね。なら私は、こう返さなくちゃ」
崩壊と、神威。
二つの力が今、墜落する世界の中で最凶の激突を果たす。
「一人は愛し合う二人のために(ワン・フォー・オール)よ。恐ろしい魔王は、愛のために退治しなくちゃね」
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以上で投下終了です。
また二週間以内には更新できるようにがんばります!
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申し訳ないです、今回も遅れる見込みです。
年内には何とか二本目を投下しようと思っておりますが、毎度お待たせしてしまい申し訳ありません。
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投下します
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魔王の乱入。
魔王の名は死柄木弔――この地平聖杯戦争の行く末を握る怪物共の代表格。
最後の皇帝が地平を去った今、彼が結末の如何を握る最有力優勝候補であることに疑いの余地はない。
空間に緊張が走る。だが、今や戦いを終わらせる力を持った存在は彼だけではなかった。
その証拠に。七草にちかを連れて燦然たる登場を果たした死柄木を前に、微塵も退くことなく迎え撃つ少女の影がある。
青白い少女だ。額に鍵穴を携えた、異界の巫女。
アルターエゴ・リンボが北条沙都子を用いて造ろうとした存在の、その完成形。
空から振り下ろされる崩壊の腕へ――アビゲイルが鍵剣を振り上げる。
二つの、世界を終わらせるほどに圧倒的な力と力の激突。
破壊者達の浮かべる表情は、共に笑顔。
意味は違えど、どちらも狂気を湛えてこの"最大の敵"と相対していた。
深層への墜落道中の中で弾けた二つの力が、界聖杯の深層へ続く孔の中で更なる崩壊(カタストロフ)を生む。
「ははははははははは――!」
「ふふ、ふふふ、ふふ――!」
死柄木の片腕が波打つようにひしゃげて、関節の数が物理的に増える。
出力では間違いなくアビゲイルの方が上を行っているのは明らかだったが、それで怖気づく死柄木ではない。
いや、そもそも怖気づく理由がないのだ。
今の彼の肉体は龍脈の力謹製のマスターピース……肉体の自動再生くらいの機能は前提として搭載されている。
だから、片手が潰されたのならもう片方を使えばいい。
治っている間に右腕を向けて、炎のホーミーズの力を引き出す。
荼毘を象らせている余裕はないが、この閉所ならばそれでも十分だった。
持ち出すのはフレイムヒーローの必殺技、それを模倣した男のそのまた模倣。
「――赫灼熱拳」
轟炎の暴風が吹き荒ぶ。
その気になれば、今の死柄木は残りの面子も全員攻撃に巻き込むことさえ可能である。
熱波による気道やけどと一酸化炭素中毒による即死狙い。
それだけでも十分に、二人のアイドルと砂糖菓子の少女、そして未だ舞台に上がらずにいるアビゲイルのマスターを殺すことは可能だった。
なのにそれをしない理由は、火力を分散させていては勝てないと判断したからに他ならない。
用立てるべきは突破力と貫通力。一箇所に火力を集中させて押し破る、崩壊の伝播で攻められないこの"落下"の中ではそれこそが最適解だ。
「おい、邪魔だ」
「はあ!?」
「あっちの六つ目男は方舟(おまえら)サイドだろ? 子守りの続きはそっちに頼め」
「んなっ……ひゃあああああっ――!?」
ひょい、と死柄木が偶像の少女を放り投げた。
咄嗟に霧子が「セイバーさん!」と慌てた様子で叫ぶ。
となると黒死牟も動かないわけにはいかない。
億劫げに舌打ちしながらにちかを受け取り、アビゲイルが飛ばしていた羽虫の残滓を月の呼吸で駆除する。
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「これで身軽になった」
死柄木は笑う。
血塗れの姿で、それでも笑う。
ヒーローはよく怒る。ヴィランはよく笑う。
その点、彼と彼女はまさにヴィランの形を体現していた。
どちらも整った顔立ちに狂気/凶気の笑みを浮かべ。
世界を滅ぼして願いを叶える為に、相対しているのだから。
後ろで抗議するにちかの声も。
何がなんだか分からずひたすらあわあわしている霧子の声も――聞こえない。
死柄木が歯を剥いて凶相を浮かべ突撃する。
アビゲイルがそれを――鍵剣の一閃で迎え撃った。
触れれば崩す。
触ったら壊す。
それが、死柄木弔の力のすべてだ。
単純にしてそして明快。だが、単純が故に最悪の力だ。
死をも呑み込む力に曝されながら、それでもなお少女は笑っていた。
分かっている。この一撃を受ければ、自分であろうとただでは済まないと。
「すごいわ。宙(ソラ)に触れられるのね、あなた」
宙に触れる。
空を、掴む。
かつては形あるものに触れて崩壊を伝播させるのが精々だった死柄木だが、今や彼は実体の有無にさえ囚われない。
死柄木弔にとって、あらゆるものは"そこにある"というだけの意味しか持たないのだ。
つまり、今の彼はシンプルに――攻性において無敵に等しい。
だが、アビゲイルも一歩として後退しない。
死柄木を見つめ、彼の一撃へ真っ向勝負でぶつかり合う。
あらゆるものが"そこにある"だけになると言うのなら、その上で打ち砕けばいい。
元を辿れば彼が先に口にした言葉だ。触れる前に壊せばどうということはない――それは他ならぬ死柄木に関しても適用できる話だった。
「でも、いけないわ。イカロスの神話をご存知ないの?」
アビゲイルの額が、光を放つ。
水面に張った油膜の七色の光。まるで鏡のように輝く、そこは宛ら第三の瞳のように。
――刹那にして、死柄木の伸ばした右手が骨になるまで焼き焦がされた。
破滅の光はより強く輝きを増していく。「は」と、死柄木が小さく声をあげた。
「手の届かない光に触れようとしたお方が、目指した処に辿り着けないまま光に焼かれて死んでしまうお話。
駄目よ、手なんて伸ばしたら。駄目よ、触れようとなんてしたら。お父様はとても怖い方だから。子どもの手じゃ、届かないのよ」
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「イカロスは落ちただろうが、俺は落ちない。精々上から見てればいいさ、その内足元を掬ってやる」
右手の再生が追い付くなり、死柄木はすぐさま動いた。
創造(つく)ったのは風だ。竜巻のように渦巻く風は自然現象をそのまま操るような荒業だが、今の死柄木にはそれが容易く叶えられる。
真上から振り下ろす風王の鉄槌。アビゲイルはこれを鍵剣の一刺しで内側から崩壊させ、霧散させるが、その矢先に彼女は虚空を切り裂いて殺到した鉄騎馬の乗り手に衝突される憂き目に遭った。
「ほら、早速俺の手番だ」
風のホーミーズ。死柄木が知る、今はもう亡いとある現人神の姿形を象った騎馬の駆り手。
暴走族(ライダー)……偶像を運ぶ運転手にして、一つの街を己の軍勢でもって滅ぼした男。
だが、今はもういない。ただ姿形が似通っているだけの張りぼてだ。
しかし敵連合の王が生み出したとなれば、それはもはや単なる張りぼてに留まらない。
空間上に存在する些末な位相の変化を壁に見立てての跳弾舞踏会。
個性のみならず、受け継いだ悪魔の実の力さえコントロールの精度が一段上がっていた。
空を掴む感覚への到達は、ただでさえ超人的だった破壊のセンスをより異次元の方へと開花させたらしい。
萬の個性を持つ大欲の魔王、かつて師と仰いだ男をすら上回って余りある超常の才覚。
全方位から襲ってくる風の魔弾は、少女の肢体を蜂の巣にするのに十分すぎる火力と密度であったし。
事実――アビゲイルの身体は、一秒と保たずに文字通り"穴だらけ"になった。
頭の上から足の先まで風穴で埋め尽くされた、見るも無残な惨殺死体が完成する。
蓮の種を思わせる、同サイズの穴の集合体と化した少女の肉体。
だが、だが。
その有様でありながら、輪郭の途切れた口が弧を描いて引き裂かれたのはどういう理屈か。
「は。マジかよ」
刹那、死柄木の腹が触手に食い破られた。
溢れ出す吐血と、内臓だったものの残骸。
剥いた歯が全て血で赤く染まり、狂おしさに拍車をかける。
貫かれながら放つ、偏執の蒼炎。
拳の形に歪めたそれを、百二百と重ねて穿つ。
炎は、巫女の全身をあっという間に焼き尽くした。
嵐の過ぎた後に立つのは、人の形に焼け残った炭だけだ。
――――だが。
その炭が一箇所、ぽろりと剥げ落ちて。
黒い鍍金の下から、紅い瞳が死柄木(こちら)を覗いた。
それと全く同時のことだ。
連合の王の全身が、生身で宇宙に放逐されたようにひしゃげて砕けたのは。
-
「がッ……! は、ァ……!?」
「はじめまして、ならず者の王さま」
再生が追い付いていない。
再生した端から、復元した端から砕かれている。
次元の飛んだ戦いに介入する余地のない者達は、誰もがそれを見て理解した。
上弦の壱と悪魔狩りの少年。彼ら二人を相手取っていた時、アビゲイルは本気の断片すら出していなかったのだと。
子犬と戯れるように、あどけなく遊んでいただけだったのだと。
「すごく、怖い人だと思っていたけれど。――思っていたより、かわいいのね」
「は、ッ」
当代の魔王でさえ、彼女を前にしては後塵を拝するしかない。
与えた傷は炭の殻が剥がれると共に、衣服まで含めて傷一つない姿で現れたアビゲイルという形で完全に否定された。
天地神明を屈服させる、恐るべきマムの力が通じていない。
従って、巫女の処断を成し遂げるとなれば死柄木が縋れる力は最早一つだけだった。
不明な、この世の外側の理で魔王を圧し潰すアビゲイル。
だが死柄木は、それを無視して虚空の内を前進する。
無茶の代償に全身が隈なく砕け散っているが、そう大したことではない。
少なくとも彼にとっては、たかだか数回死ぬほどの苦痛など問題ではなかった。
心臓など止まった端から動かし直せばいいだけのことなのだから。
それよりも、自分の描く未来を曇らせる眼前の障害を破壊したいという衝動の方が遥かに勝っている。
だから進むのだ。そして遂にはひしゃげた右手を翳し――
「邪魔だ」
自分を苛む力の万力、それそのものを破壊するという絶技を成し遂げた。
死柄木弔にとっての最大の死線は、間違いなく先刻、アシュレイ・ホライゾンと演じた死闘であったと言っていい。
文字通り紙一重の攻防の末にもぎ取った勝利は、その事実以上の価値を死柄木にもたらしていた。
アビゲイル・ウィリアムズが規格外ならば、死柄木弔もまた規格外。
世界の主役。自らの存在で、自らの意思で、運命さえもをねじ曲げて進める存在。
この世界にて誕生した――"特異点"なのである。
「なあ。おまえ、何のために戦ってんだ?」
死柄木は、問いかけていた。
単純な興味から出た質問だ。
今まで、いろんな敵がいた。
いろんな理由で、戦っている奴らがいた。
「そんなキモい形(なり)にまでなってよ。何を求めてる?」
「私が弱いせいで亡くしてしまった、大好きな人を取り戻すため」
その瞳は未だ底知れない神性を宿しながら、しかしどこか遠くを見つめている風にも見えた。
物理的な距離では測れない、大きな大きな彼岸を超えた彼方のどこかを。
「そして――ある人の愛を守るため。よ」
-
死柄木はそれを聞いて、思わず噴き出した。
悪意でもってアビゲイルの動機を笑い飛ばしたわけではない。
笑わずにはいられなかったから、つい噴き出してしまったというだけだ。
「……愛、ね」
よりにもよって、それか。
此処でお前まで、それを口にするのか。
運命論者になったつもりはなかったが、しかしこうも重なると因果というものを感じずにはいられない。
すべてを壊す、愛。世界をさえ冒す、愛。
その甘さで道理を溶かす、猛毒のような、愛。
そういうものを、死柄木弔はずっと身近に置いていた。
ジェームズ・モリアーティが彼のために用立てた相棒にして宿敵。
人選が彼女だったことの意味が此処で活きてくるとは、あの蜘蛛の悪巧みの冴えにはいい加減辟易さえ覚えてくる。
「ビビってたわけじゃないんだが、正直だいぶ面食らってたんだ。
方舟は壊した。カイドウのジジイも死んだらしい。となるともう目ぼしい敵も因縁も一つだけだとばかり思ってたからな。
まったく知らねえぽっと出のバケモンに初っ端からボコられるって展開は、流石に予想外だったよ」
でも安心した。
死柄木はそう言って、屈託のない笑みを浮かべた。
アビゲイルの戦う理由は"愛"だという。
誰かの"愛"を守るため、貫くためにこれは怪物をやっている。
であれば――
「愛(それ)なら殺せる。そいつは俺がずっと見据えてきたターゲットだぜ」
殺す覚悟は、もうずっと前から決まっている。
悪の教授に師事した弟子が、真にその教室を卒業するために必要な最終課題がそれだ。
ならこの戦いは、所詮その前の予行演習に過ぎない。
殺せる。殺せなきゃ、何一つ始まりゃしない。
死柄木は笑いながら、右手で空を握った。
凝縮されていく崩壊の力。
星殺しさえ成し遂げた滅びの力が、魔王の掌で極限まで圧縮されていく。
本来であれば解き放ち、伝播させてこその力を何故集めるのか。
一見非効率的に見えるその用法はしかし、アビゲイルの表情を消させた。
空間が、無尽蔵に等しい超常の流入と即時の圧縮によって軋み、詠うように絶叫する。
増幅、激震、共振――界奏を滅ぼした崩壊の御業、新次元の星殺しが、悪夢のような偶然で先人をなぞった。
理屈は違えどそこから生み出される結果は同一。
対消滅という性質が崩壊にすげ替えられている分、こと殺傷能力という点では勝っていると言ってもいい。
「凌げよお前ら。最後の最後なんだ、退屈させるな」
それがアビゲイルのみならず、方舟の生き残りや彼にとっての宿敵にまで向けられた言葉であるのは明らかだった。
場合によっては、この場で全員を殺してしまう可能性さえある"最凶"が解き放たれる。
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「ブッッッッ――――
壊れろォォォォ――――
オオオオオオオオオ――――――――!!!!!」
その現象の名、『闇黒星震・全力発動(ダークネビュラ・フルドライブ)』。
あらゆる命を堕天の崩落で呑み込む、極小規模の大崩壊(カタストロフ)。
深層へ続くディープホールの道筋そのものを破壊するような、サーヴァントの宝具解放にさえ容易に届く死の炸裂。
死柄木の崩壊に区別はない。そして、温情もない。
呑まれれば、触れれば、誰もが等しく死に絶える――そしてそれは、霊基の深淵に至ったアビゲイルでさえ例外ではなかった。
「綺麗な黒色。だけどとても寂しくて、悲しいくらやみ……それがあなたの星空なのね」
彼方に坐す全知全能の神性ならば、いざ知らず。
覚醒を果たしたとはいえサーヴァントの身でしかないアビゲイルでは、彼の崩壊に堪えられない。
彼女にとってもこの大崩壊は致命的な事象の筈だったが、しかし彼女は逃げを選ばなかった。
静かにその手を伸ばし、それと同時に額の穴に神の光を灯す。
「愛を知らない、悲しいひと。いいわ、受け止めてあげる。私が……」
死柄木弔は、愛を知らない男だ。
かつてそれを浴びていたことは確かにある。
だが彼は、その事実を認識していない。
背を向け、血と汚泥に塗れながら此処まで歩んできた。
アビゲイルは、ある愛の守り人たる巫女は、果たして彼の狂気の中にそれを垣間見たのか。
慈母のように微笑みながら、彼女もまた更なる力の真髄を開帳した。
迫る崩落の中で、巫女が言う。
「救ってあげるわ、あなたのことを」
「虫酸が走るぜ。消えてなくなれよ」
神と、人が――巫女と魔王が、再度激突を果たして。
それと同時に人々は、二度目の世界の崩壊を見た。
硝子が割れるような音を立てて砕け散る、世界。
悲鳴、怒号、轟音、哄笑。
あらゆる音で満たされたどこでもないどこかを、無音になるまで吹き飛ばされていき。
そして器達は、再び漂流する。
今度こそ、界聖杯の内側――この世界の"深層"へと。
-
◆◆
墜ちる――
落ちる――
堕ちる――
――おちていく。
どこへ?
どこだろう。
その答えが出せる人間は一人もおらず。
おちる時間は一瞬だったかもしれないし、一日だったかもしれない。
刹那とも永遠ともつかない墜落の果て。
少女が目を開けたそこは見慣れた街並みの上だった。
そう、上だ。
彼女は、都市を見下ろしていた。
世界有数の大都市。眠らぬ街、摩天楼。
一面の焦土から復興を果たした不滅の不夜城。
日の昇る国を体現するかの如き東京都に楔さながら聳え立つ、白き塔の最上階。
東京スカイツリーは天望回廊・フロア445。
墜落から目覚めた幽谷霧子はそこで、涙の滲む目を擦りながら周囲を見渡す。
「……ここ、は……?」
此処がどこなのか。
それは、分かる。
スカイツリーは今や、東京タワーに代わって都内一の名所となって久しい。
霧子も何度か訪れたことがあったし、それにこの眺めを見れば都民でなくても察しは付く筈だ。
分からないのは、自分が何故、どうしてこんな場所にいるのかということ。
周囲に人の姿はない。にちか、しお、死柄木もアビゲイルもいない。
「セイバーさん…………?」
それだけならば、まだいい。
だが、今の霧子の傍には影法師すら不在だった。
三対六目の侍。
すべての眼が彼岸花の赫色を湛えた、上弦の月。
幽谷霧子がこの地で巡り会い、絆を共にしてきた剣鬼がいない。
気配も感じ取れない辺り、霊体ですら近くに存在しないらしい。
これが異常事態であることを察せないほど、霧子は愚鈍ではなかった。
何が起きたのかは分からない。だけど、とにかくこの状況は危険だ。
令呪を使ってでも、あの人と合流しないと――そう思い、今まさに行動しようとしたその瞬間。
-
「それには及ばない。俺の方から呼んだんだ、君を危険にさらすような無粋はしないさ」
とても、懐かしい人の声が、したから。
霧子はすべての思考を忘れて、声の方を振り向いていた。
幽谷霧子はまだ、彼との永訣を知らない。
声の主がもうこの世界のどこにもいない、残っていないことを知らない。
だがそれでも、あの場で現れたのが七草にちかだけだったのを見た時。
なんとなく、分かってしまうものはあった。
あ、と。どこか本能的な、とても寂しい悟りがお日さまの偶像の中を通り抜けていった。
七草にちかと、死柄木弔。
そこには、会いたかった"彼"も。
"宇宙一"だと頷きあった仲間の姿も、なくて。
それはつまりそういうことなのだろうと、思ってしまった。
現実は、いつでも物語でいてくれるわけじゃない。
だから約束は時々、信じられないほど無慈悲に破られる。
宇宙一の輝きがあっても。"またね"と誓い合っても。
それが叶わないときは、往々にしてやってくるものなのだ。
もう何度も味わったそれが、またしても霧子の大切なものを掻っ攫っていった。
その筈なのに――今視線の先で笑っているのは、ああ確かに。
「プロデューサー、さん…………?」
283プロダクションの『プロデューサー』。
もういないのだとばかり思っていた人が、椅子に座って微笑んでいた。
一瞬、表情がぱっと明るくなる。
気付けば霧子は駆け出していた。
しかしその足は、距離が近付くにつれて遅くなり。
やがて完全に止まってしまう。表情に浮かぶのは、戸惑いだった。
「…………あの………えっと………………」
霧子の目は、脳は、椅子に座って微笑みかけるその男を『プロデューサー』だと認識している。
実際、記憶の中にある彼の姿と今そこにいる彼との間に違いらしいものはまったく見て取れない。
髪型、人相。背格好、服装。すべてが霧子の知るままの『プロデューサー』だ。
なのに霧子が足を止めた理由は、それでも分かってしまったから。
理屈ではない、もっと深くてぼんやりとした部分が視覚から伝わってくる"彼"の存在に否を唱えたからだ。
「…………どなた、ですか…………?」
似ている。
とてもよく、似ている。
でも、違うのだ。何かが違う。絶対に違うと断言できる。
だから霧子は足を止め、問いかけた。
すると男は「ははっ」と聞き慣れた笑い方で微笑み、言う。
-
「霧子はすごいな。俺の中に記録されたデータを参照して、外見も内面も寸分違わず再現している筈なんだけどな」
「……えっと……。うまく、言えないんですけど……何か、違う気がして………」
「そうか。まあ、悪く思わないでくれ。何しろ俺には形がない。だから、君の記憶を参照して"通じる"姿で喋っているんだよ」
……言っている意味がわからない。
そんな感情が、きっと顔にも出てしまっていたのだろう。
困惑する霧子に対し、プロデューサーは……その姿を模倣(まね)た誰かは肩を竦め。
次の瞬間、その場から消えた。
比喩ではなく、本当に消えてなくなったのだ。
そして彼の代わりとばかりに、椅子の上には新たな人間が座る。
「例えば、こんな感じでな」
タンポポの綿毛のような、独特な髪型をした男だった。
顔に貼り付けた笑みは若々しく爽やかなのに、しかしどこか老練さを含んでいる。
霧子は、この人物を知っていた。忘れることなど出来るわけもない、ついさっき別れたばかりの男。
最後までとうとう手は取り合えず、けれどどうしてか、最後の最後に自分を助けてくれた人。
「既存の器の形を再現して、霧子さんに接触してるんですよ」
次は、ほわほわとした笑顔の似合う少女だった。
「紙越空魚には驚かされたねー。まさか世界をぶっ壊して、私に直接近付いてくるとか思わないしー」
その次は、紫色だった。
「でも、せっかくの機会だもの。儀式が終わってしまう前に、あなたの声を拾ってあげようと思ったの」
蒼い黒髪の少女。
「ていうか、そんな鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔しないでくださいよ。願ったのはあなたじゃないですか、霧子さん」
緑髪の後輩。ついさっき会った彼女よりも、心なしかやさぐれて見える。
その間延びした口調と、独特なペースから勘違いされることも多い。
だが、霧子は馬鹿ではないのだ。医者の道を本気で志せる学力もあれば、それを身に着けられるだけの地頭も持ち合わせている。
この異常な状況と、そして目の前で今まさに起こっている異常な現象。
それをひけらかすでもなく淡々と語りかけてくる、彼/彼女の言葉の中身。
それらを踏まえれば、"これ"が一体誰であるのかは自ずと見えてきた。
"そんなことがあり得るのか"という根本的な疑問をさえ除けば、だったが。
-
「私が、望んだ…………」
「そうだ。君が願った。
その言葉に、俺は興味を抱いた。
何せそんなことを考える器は、霧子以外には一人だっていなかったからな」
「あ――」
最初、霧子は目の前の"これ"が放つ言葉の意味が分からなかった。
君が願った。だから呼び寄せた。
最初こそ面食らったが、確かにそうだと頷ける。
そっか。
そうだ。
そう願った/問いかけたのは、私だ。
『あなたの願いは……なんですか……。あなたの物語は……そこにありますか……』
「この戦争は、じきに終わる。その前に、霧子の言葉を聞いてみたかったんだ」
「……そっか…………。あなたは…………」
「鋼翼は墜ちた。皇帝は潰えた。曼荼羅は引き裂かれ方舟は敗れた。
君がどれだけ優しくても、戦いの終わりは止められない。
幽谷霧子。君の可能性は、もうどこにも向かうことはないだろう」
霧子はこの世界に、方舟という思想を持ち込んだ功労者の一人である。
結果的に死柄木弔という敵に滅ぼされ、その理想は叶うことなく藻屑と化したが、彼女達の存在は間違いなく大きかった。
願いを叶えるための戦いで、願いを叶えることなくより多くの命を救うことを目指したアイドル達。
ともすれば願望器そのものの存在意義を脅かしていても不思議ではなかった、いや事実脅かしていたイレギュラー。
その中でも霧子は間違いなく、最も非凡な"想い"を抱いて戦っていた器だった。
お日さまと称された少女の、あまりに無垢すぎる輝き。
虚空に消えるばかりと思われたその輝きはしかし、地平線の彼方にまでも光と熱を届かせていたらしい。
「だから。すべてが無に帰すその前に、少しだけ話をしようか」
これは、プロデューサーにあらず。
皮下真にあらず。櫻木真乃にも、田中摩美々にも、古手梨花にも、もちろん七草にちかにもあらず。
これはなんでもなれる、なんでもできる、そういう万華鏡(kaleidoscope)のような存在だ。
強いてその命に名を与えるならば、それは、そう、きっと。
「はじめまして、霧子。君達の方舟には正直参ったよ」
「こちらこそ……はじめまして、"界聖杯"さん…………」
――界聖杯(セカイ)と、そう呼称するべきに違いない。
方舟は敗れ、優しい未来は永久に失われた。
聖杯戦争はじきに終わる。アイドル達はもう、その可能性を示せない。
それでも。それでも、もしも彼女が変わらず"お日さま"であるのなら。
誰もいない、誰も知らない、少女と神だけのおわす世界塔の内側で。
いつかの願いが叶い、霧子の言葉が聖杯(かみ)へと届いた。
-
◆◆
――目を開ける。
手を動かす。
自分が生きていることを確認する。
そうして、私はようやく肺の奥に溜まってた酸素を溜息に変えて吐き出すことができた。
「死ぬかと思った」
賭けなことは自覚してた。
アビーに宝具を使わせて、世界そのものに孔を開ける。
この発想に至れた一番の理由は、やっぱり<裏世界>絡みの事件で揉まれていたことだと思う。
あの世界と繋がって分かったこと。世界は、人間が思ってるよりもずっと簡単に狂う(バグる)。
実話怪談の世界でも実際、そういう話はよく見かける。
恐怖に息を呑むよりも、思わず首を傾げてしまうような話。
つまり? と聞きたくなるような、ただただ不思議な話。
世界は狂うのだ。私達の暮らしている領域は、意外と全然完璧じゃない。
そしてバグの頻度は、世界に異物が混ざり込めば込むほど多くなる。
例えばそれは、<裏社会>から干渉してくる<かれら>の影響であり。
この世界で言うならば、界聖杯が自ら取り込んだ器と英霊達の織りなす物語だ。
私は魔術師じゃないし、実のところ未だに聖杯戦争という儀式について本質的に理解してるわけじゃない。
そんな私でも分かる。此処までの戦況の中に、界聖杯が予想していなかっただろう展開はきっとごまんとあった筈だ。
例えばその筆頭が、あの憎たらしいリンボの跳梁だろう。
聖杯戦争のセオリーを無視して荒唐無稽な未来予想図を描き、実現させるために行動したあいつの存在が界聖杯の想定通りだったとは思えない。
そこまで不安定で、たったの二日で傾いでしまうような脆い世界ならば。
更なる負荷を与えることで未知のバグを引き出し、構造そのものを壊してしまうことは決して不可能じゃないと考えた。
だから行動した。博打は承知で、世界を壊した。
この期に及んで長期戦なんて冗談じゃない。
逃げ場のない袋小路に引きずり込んで、全員を殺して戦いを終わらせる。そのつもりで、私は行動した。
結果から言うと、作戦は成功だったと言っていい。
戦況的に見て、あの場に居合わせてた以上のマスターが生き残ってるとは思えなかったからだ。
最大の障害だったカイドウはアビーが殺した。
……漁夫の利を得た形だったけど、そこに拘るつもりはもちろんない。
というかなんだよあのクソ化け物。あれが万全で生き残ってたら、こう上手くはいかなかったはずだ。
その点、生き残り諸君はよくやってくれたと思う。
カイドウを消滅寸前まで追い込んでくれた働きは間違いなく、"私達"にとって最大の追い風だったから。
-
「……死柄木があそこまで強くなってたのは、ちょっと計算外だったけど」
実際、さっきのはかなり惜しかったのだ。
死柄木弔の介入がなければ、アビーはあの場の全生命を皆殺しにできていただろう。
死柄木はアサシンから聞いていたのよりも数段、もしかしたらそれ以上に成長していた。
素人目にも分かった。あれはもう、サーヴァントすら超越している。
逆に言えば死柄木さえ排除できれば、もう私達を阻むものは何もない。
そして障害は障害でも――相性と実力、どっちを勘案してもそれはカイドウほどのレベルじゃない。
アビゲイル・ウィリアムズにとって一番相性が悪いのは、きっと死ぬほど真面目に強い存在だ。
搦め手だの奇策だの小難しい手段を用いることなく純粋に強い、アビーの繰り出すデタラメに振り回されてくれない絶対強者。
そういう意味でもカイドウは最悪の相手だった。だってあれ、宝具の解放で簡単に流れてくれるようにはぜんぜん見えなかったし。
その点、死柄木は強敵ではあっても最悪じゃない。
現にさっきの戦いでは、終始こっちが奴の上を行っていた。
勝てる。殺せる。そして死柄木を殺すことが叶ったなら、それは私達の勝利と同じだ。
――勝てる。取り戻さなきゃいけない何もかもが、もうすぐそこで輝いている。
仁科鳥子。私の、私だけの、共犯者。
初めて出会ったその日から、私の世界を変えてくれた女。変えやがった、女。
そこまでしていったくせに、自分だけ一人で勝手に消えやがったあんちくしょう。
鳥子のいない世界に生きる価値はない。少なくとも私は、もうそれを見出だせない。
だから殺すのだ。だから、勝つのだ。何を犠牲にしても。たとえ私がそうすることを、あの女が喜ばなかったとしても。
私は私のために、私が笑って生きていく未来のために、願いを叶えてみせるのだと誓った。
「大丈夫、空魚さん」
「……うん、問題ない。ちょっとヒヤッとはしたけどね」
「ごめんなさい。本当なら、すぐにでも決めてしまうつもりだったのだけど……」
「いいよ、下手に全力出して死柄木に漁夫られるのも癪だったし。それに分かったこともある。ここに、私達を阻める奴らはもう残ってない」
まさか界聖杯の中に、もうひとつ東京があるとは思わなかったけれど。
それでも、ここならもう逃げ場はない。
猪口才な社会戦や、水面下での攻防を要求されることもない。
NPCを使った頭脳戦だって起こることはない。目障りな蜘蛛たちの置き土産が活きる余地も、どこにもない。
「私達が<最後の敵(ラスボス)>なんだ。もう、挑む側でも振り回される側でもない」
やるべきことはあとひとつ。
最後の最後に、負けないこと。
誰かの"最後"を、阻むこと。
界聖杯の前に伸びる最後の直線に陣取って、最後の"可能性"を摘み取ること。
それだけが、私とこいつの行く手に存在する唯一のミッションだ。
-
「じゃあ、私達から手を伸ばすことはもうしないのね」
「付け入る隙を作りたくない。こっちから動けば、どうしても大なり小なり隙ができる」
「さっきみたいに、横槍を入れられるかもしれないってこと?」
「そう。でもあっちから挑んでくる分にはその可能性は排除できる。
一番強い私達は、残ってる連中がどう動くのかを上から見つめてゆっくりしてればいいんだよ。それに」
「……それに?」
こっちから打って出たとしても、そうそう負けることはないだろう。
だけど最後なのだから、万全を期したい気持ちの方が強かった。
余計なリスクを抱える必要はもうないのだ。だって、何しろ。
「あいつらはきっと、どんな理由でも協力なんてできないでしょ」
偶像(ヒーロー)と敵(ヴィラン)は、決して手を取れない。
死柄木弔という人間に対して私が知っていることは多くない。
でも分かる。あれは、誰かと手を取り合うことができない人間だ。
生粋の破綻者。人間として大切などこかが、致命的に破綻してしまっているたぐいの人種。
相互理解を求めることは徒労にしかならないし、人というよりも獣として見た方がいい相手。
もしかすると、最初からそうではなかったのかもしれないけど――でもたぶん、そこの隙間はもう埋まってしまっているんだと思う。
『死柄木自体はそう厄介でもない。いや、"でもなかった"って言うべきだな』
戦いの合間に、アサシンは私にそう言った。
連合との利害関係は既に破綻も同然の状況。
そうでなくても、死柄木弔という巨大な敵をどう殺すかは考えておかなければいけない。
死ぬほど強い死柄木を殺すなら、それこそアサシンの得意とするところの権謀術数に頼るのが一番だろうと私は思ったし、今でも思っている。
でもプロの見立ては、そう簡単なものではなかったようで。
『アレ自体はただの人間だ。ありふれた悲劇にたまたま出くわして、その結果として壊れたフリをしてるガキだ。
だからどれだけの力を持ってても本質的には容易い。思考にも行動にもガキならではの隙が必ずできる。何より、精神にだな』
『傷口が見えた瞬間にそれを抉じ開ける。もしくは幼稚の逆鱗をなぞって、急所を晒させればそれでいい』
『本来なら大した相手じゃなかった。その前提を変えたのは、連合お抱えの蜘蛛野郎だ』
"蜘蛛"。
それが、死柄木弔を大きく変えた。
『今の死柄木は化け物だ。手段がどうあれ簡単には殺せない。蜘蛛(M)は、究極の悪(マスターピース)をしたためて死にやがった』
『もしも俺が先に死んで……お前とフォーリナーの二人であれと戦う時が来たなら、そん時はこれだけ肝に銘じとけ』
力のあるだけの子ども。
幼児的な全能感を振り回すだけの、ただの人間。
確かにその筈だった器に、知恵と成長を授けてしまった。
『あれは獣(ヴィラン)だ。鼻が利くし、隙はないし、どうやったって人間(こっち)には帰ってこない。ヒーローの手はもう届かない』
『そこを見誤れば確実に殺される。何せケダモノだからな。敵の喉笛食いちぎるのはお手の物ってわけだ』
-
――でもそれは、私達にとって必ずしも悪いことばかりってわけじゃない。
死柄木は獣になった。
であれば、今度こそ誰かと手を取り合う余地はない。
徒党を組んでラスボスの攻略に臨んでくる世界線は、蜘蛛の手によって丁寧に否定された。
「私達の最後の敵は――死柄木か、それ以外か。どっちにしたって私達の勝てる相手しか残らない」
だからこそ、動く必要はないのだ。
動かないことこそが、むしろ私達の戦況を良くする。
投げられたサイコロがどんな目を出そうとも。
もう、私達にとって悪い目は絶対に出やしないのが確定している。
聖杯戦争は、終わる。
じきに、すべてが終わる。
狂ってしまったものは私だけでいい。
私の周りの世界は、何ひとつとして狂わせない。
私が勝って、私だけが狂う。
たとえその結果、もう戻れないところにまで堕ちてしまっても臨むところだ。
その時は狂った女ひとりと、死に戻りした女ひとりで持ちつ持たれつ怪異をやろう。
私達が――――空鳥(ぬえ)になろう。
「鳥子に会うぞ、アビー」
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投下終了です。
年明けまでにもう少し進めたかったのですが、通院や身辺のごたごたでなかなか思うように進められず申し訳ありません。
来年はもっとがしがし進めて完結まで駆け抜けたいと想いますので、来年もどうぞ当企画を宜しくお願いいたします。
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あけましておめでとうございます。
投下させていただきます。
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……なんだか、とても長い間眠っていた気がする。
幽谷霧子が目を覚ました時、そこはベッドの上だった。
真っ白なシーツが敷かれ、微かに薬のにおいが漂う部屋。
部屋を照らす蛍光灯の無機質な明かりは確かに覚えのあるもので。
傍らの棚に収められたお行儀のいい本の数々を見て、霧子はここが学校の保健室なのだと理解した。
でははて、どうして私はこんなところにいるんだろう――
そう思ったところで保健室の扉が開き、入ってきた少女と目が合った。
「あ……」
七草にちかが、そこにいた。
曇っていたその顔が、ぱっと明るくなる。
彼女にそんな顔をさせてしまっていたことを申し訳なく思うと共に、どこかで"やっぱり"と納得してしまう自分もいた。
いつも大勢の仲間に囲まれていた、にちか。
彼女がこの部屋にひとりで来たこと。自分の覚醒を知る前に浮かべていた、寂寥を抱えた表情。
それらを踏まえれば、嫌でも気付いてしまう。ああ、やっぱりそうなのだな、と。
「目、覚めたんですね。よかったあ……。このまま起きなかったらどうしようかと思ってたんですよ、もう……」
「心配かけちゃって、ごめんね……にちかちゃん」
自分が目を覚ましたことを知っても、"彼女たち"を呼ぼうとしないにちか。
ドアの向こうに広がる廊下から一向に聞こえてこない足音と話し声。
その事実が冷たく、霧子に自分が想像してしまった現状(こと)が正しいのだと教えていた。
「こんな時にねぼすけしないでくださいよ、まったく……胃に穴空いちゃいますって。責めるわけじゃないですけど」
「うん……本当にごめんなさい。いろいろあって……、……後でちゃんと話すから、その…………一個、聞いてもいい……?」
「はい。……って言っても、何を聞きたいのかはだいたい分かりますけど」
『――うちらが宇宙一ばーい!』
『『『『『■■■■■■■―――!!』』』』』
「摩美々ちゃん、たちは…………?」
「死にました」
霧子の問いかけに対して、にちかは静かにそう答えた。
情緒も何もあったものではない即答だったが、それがかえって今の霧子にはありがたかった。
その淡白さが、余計な可能性を抱かせないでいてくれる。
受け入れたくない、でも受け入れなきゃいけない事実を、心にダイレクトに流し込んでくれる。
数秒あって、二人のアイドルは痛いほどに沈黙していて……やがて霧子の方からそれを破った。
-
「………………そっか」
ちゃんと声になっていたかどうか自信がない。
でも、自分なりに現実を受け入れることは出来ていた。
あの墜落戦の場に彼女たちがいなかった時点で予想は出来ていたことだった、というのも大きいかもしれない。
「そっかあ…………」
噛みしめる、その事実を。
舞台上にはいなかった仲間の家で交わし合った誓い。
宇宙一な五人は、きっと未来だって宇宙一だとそう信じていたけれど。
約束は果たされず、もういない彼女に加えてあの紫色までステージを去ってしまった。
まだ緞帳は降りていないというのに、いったいどこへ行ってしまったんだろう。
問いたくても、もう問いかけられる相手はいない。もう二度と会えることもない。
それが死に別れるということなのだと、幽谷霧子はよく知っていた。
「うちのライダーさんが全部悪いんですよ、あの人ったら連合の大魔王さんに負けちゃうんですもん。
いざとなったら多少の無茶には付き合ってあげるつもりだったのに、あっちで勝手に死なれたら私だってどうしようもないです。
摩美々さんも、私を置いて勝手に死地に出て行っちゃうし。もうほんと、残された側のことも考えてくれって感じですよね」
方舟は破壊され、二度と夢みたいな出港を成し遂げられる日は来ない。
死んでいったのは紫色の彼女だけではないのだ。
方舟の核である境界線は塗り潰された。紫色を守る任務に就いていた傭兵も消えた。
桜を宿した少女は、自分を守るために戦って散っていった。
残っている乗務員(クルー)は、今や自分とにちかの二人だけ。
そしてもう一人のクルーは、やけに饒舌だった。
「界奏だか海藻だか知りませんけどとんだ期待はずれですよ本当に。
全員で生き残れるっていうから信じてたのに、こんなことなら最初からそんな可能性、知らないままでいさせてほしかったです。
人でなしの魔王様は生きてる。頭のぶっ飛んだ女の子も、おでこに鍵穴空いてる化物も健在。
こんな状況で私たちだけ生き残らせて、いったいどうしろってんだよってキレたくなります。本当にもう、どいつもこいつも……」
「……にちかちゃん」
その悪態は本来、不謹慎だと叱咤されるべきものなのだろう。
彼女自身、そうされたくてわざと露悪的に振る舞っているように見えてならなかった。
そんなにちかのされたい風には、残念ながらしてあげられない。
霧子はベッドから半身を起こして、泣きたいのを堪えながら両手を広げた。
「ごめんね」
「――なんで、あなたが謝るんですか」
にちかは一瞬驚いたような顔をして、それから顔を伏せた。
ぽたぽたと、その目元から床に滴り落ちていく雫がある。
ずび、ぐす、と鼻を啜る音を響かせて、にちかは震えていた。
-
「泣きたいのは、霧子さんの方でしょ。私、何もできなかったんですよ。
摩美々さんの力にもなれなかったし、ライダーさんのために頑張ることもできなかった。
そんな私なんかに、謝んないでくださいよ……ねえ……っ」
「ううん……。にちかちゃんは……がんばったよ…………」
「――――っ」
もたれかかってくるにちかの身体を抱きしめて、頭を撫でる。
胸に顔を埋めさせたのはわざとだ。そうしていれば、彼女から自分の顔は見えないから。
こんなに傷付いて疲れ果てて、泣きじゃくっている女の子の前でとても"そんな顔"はできないと思った。
だから顔が見えないように抱きしめて、よしよしって撫でてあげながら、自分も"その顔"をするのだ。
「ありがとう…………」
方舟の夢は、叶わなかった。
優しい終わりは、この物語には訪れない。
砕かれたアンティーカが、もう一度戻ることもない。
消えていった命たちも、二度と蘇らない。
あの世界で"生きたい"と願っている人たちを救うことも、もう出来はしないだろう。
でも。それでも。嵐を乗り越えて生き残り、ここまで生き延びてきた彼女に伝える言葉は"ありがとう"以外にはなかった。
「摩美々ちゃんの……みんなの、生きた道のりを…………」
薄雲の瞳から、雨が降る。
鼻を啜らないように努めるのが大変だった。
「助けてくれて、ありがとう…………」
「ひっ、う……う、ぅうぅううう、うぅううう……!」
堰を切ったように泣きじゃくるにちかを抱きしめながら。
お日さまの少女もまた、別れの痛みに涙を流す。
最期には立ち会えなかったけれど、きっとこの瞬間がそれに代える価値あるものなのだとそう信じて。
「ごめんなさい、ごめんなさい……! 私、わたし……!」
「うん、うん……。怖かったよね……辛かったよね…………、悲しいよね……大切な人たちと、お別れするのは…………」
「私、もっと……! あの人たちと、みんなと、一緒にいたかった……!
もっとみんなで、下らないこと、おしゃべりして……生きて、いたかった……! いたかったよう、ぅうぅう……!!」
「……私も…………私も、そうだなあ…………」
なくした命(もの)は戻らない。
でも、私たちはまだ生きている。
未来がどんなに不確かでも、それでもここに生きているのだ。
だから――
「もっと、みんなと……いたかったなあ…………」
涙の時間は、きっとここまで。
なくした痛みを胸の奥、大事なものを詰めた引き出しにしまって歩き出そう。
カーテン・コールがすぐそこだとしても。
それでも、この命がここにある内は。
頑張って、がんばって……生きていこう。
二人だけの保健室で。
少女たちの涙の音が、静かに滴り落ちていた。
-
◆◆
生きるぞ、それでも。
きっと全員で。
◆◆
-
涙の時間が終われば、現実と向き合う時間がやってくる。
みんなみんな死んでしまった。それでも、にちかと霧子は生きている。
彼女たちは、あの夢のような方舟の、蜃気楼に終わってしまった希望の生き残り。
船がなくとも、航路が消えてしまっても、彼女たちはこの聖杯戦争(ステージ)で踊っている。
嘆きも悲しみも乗り越えて、最後の時がやってくるそれまで諦めないこと。
死んでいった皆の人生とその存在が、無駄なんかじゃなかったのだと生きて証明すること。
その指針を共有するのに言葉は無用だった。
そんなものなくたって、方舟のクルー同士考えていることは伝わる。
奈落へ下がるにはまだ早い。
今はただ、緞帳が降りるまで精一杯やろう。
その第一歩としてまず、にちかは霧子へ今の状況を伝えることにした。
あの"墜落戦"の後、正式に界聖杯の深層へと落ちた自分たちが今どういう状況にあるのか。
生き残りの中で最も長く眠っていた霧子にそれを伝えるのはにちかの役目だった。
「霧子さんは、どこまで覚えてます?」
「えぇ、と……。死柄木さんが、何かすごい力をぶわーって出して……アビーちゃんが、ぱーって光ったところまで……かな」
「よかった、なら最初からは説明しなくても大丈夫そうですね。じゃ、霧子さんが寝てる間に起こったことをざっと説明します」
って言っても、別に何も起こってないんですけどね。
そう言ってにちかは頭を掻いた。
何も起こってないとはどういうことだろうと、霧子は首を傾げる。
そりゃ平穏無事であるに越したことはないだろうが、聖杯戦争も終盤だというのにここで膠着が起きることなんてあるのだろうか。
アビゲイル・ウィリアムズか、死柄木弔か。
どちらが切り出すにせよ、もうとっくにこの"深層"も地獄に変わっているとばかり思っていた。
しかしにちかの言うところによれば、そうはなっていないのだという。
思えば、保健室の窓から見える外の景色も戦争の終局にしてはのどかな静謐を保っている。
そこに人はおろか生き物の一匹もいないことを除けば、本当に平和な風景だ。
「鍵穴の子……あ、霧子さんは知り合いなんでしたっけ」
「うん……。途中で別れて、それきりになってたけど……マスターさんも、変わってたな…………」
「まあ詳しくは後で聞くとして、ざっくり言いますね。あれきり、あのヤバいサーヴァントは一回も私たちの前に姿を見せてません」
にちかによると、霧子が眠っていたのはざっと五時間ほど。
にちかたちがこの深層の街に落ちてきたのが午後一時。そして今、時刻は午後六時を回っている。
界聖杯を巡る戦争は、本戦に切り替わってからというもの常に熾烈を極めた。
毎時どこかで戦いが起こっていたし、二日目に入ってからは特にそれが顕著だった。
それを踏まえて考えると、五時間という停滞は今回の聖杯戦争にしては異様な長さだ。
ましてや最終局面。誰もが勝負を決めようとしたがる筈の状況で、目下最強のサーヴァントであるところのアビゲイル・ウィリアムズらが全く行動を起こしていないというのは実に不自然である。
にちかの話を聞いた霧子はここで、ふとある人物の名を思い浮かべて口を開いた。
「じゃあ……死柄木さんは…………?」
人間の身でありながらアビゲイルに並ぶ力を持った、敵連合が擁する崩壊の魔王。
方舟を終わらせた人物という点では、霧子たちにとっても限りなく因縁の深い相手だ。
アビゲイルが動いていないのは分かったが、では彼はどうしているのだろう。
彼こそ、真っ先にこの虚構の街並みを更地にしようと動き出しそうなものだったが……霧子の疑問に、にちかは深く溜息を吐いて答える。
「あの人なら、今はこの学校にいますよ」
-
「…………、……えっ……?」
「明日までは事を起こすつもりがないそうです。本当に勝手なヤツですよね、あれ。
一から十まで自分本位で自分勝手で傍若無人で、ああもう思い出すだけでムカついてきます。
はあああああ、"あの人"もなんだってあんな俺様野郎に負けるかなあ……!!」
「……私たちのことを、わかってくれたってこと……?」
霧子の漏らした言葉には、希望が多分に含まれていた。
死柄木弔が、あの恐るべき魔王が、自分たちに共感を示してくれたのか。
しかしそれはあり得ないこと。彼は霧子たちとは根本的に違うステージで踊る役者なのだ。
霧子の希望を、にちかは肩を竦めながらかぶりを振って否定した。
では何故。いやそもそも、どうしてアシュレイの仇であるにちかがあの墜落戦に彼と共にやってきたのだろう。
渦巻く疑問の答えはすべて、にちかが先程口にした死柄木評を引用することで解決できる。
「先にやることがあるんだとかで」
――自分本位、自分勝手、傍若無人。
完成した彼の歩みと振る舞いは、まさに魔王の二つ名に相応しいものだった。
「神戸しおちゃんってちっちゃい子知ってます? なんかチンピラみたいなサーヴァント連れてる子。連合の構成員らしいんですけど」
「しおちゃん……うん、知ってる……。アビーちゃんが、私たちを"ここ"に落とす前に……いろいろあって、いっしょにいたんだ」
「あの子と決着をつけるそうですよ。だから今日は一晩回復に使って、明日の朝からおっ始めるんだとか言ってました」
そも、敵連合という組織は一人の巨悪によって創られたものである。
聖杯戦争本戦、その黎明期。
死柄木弔という悪の器を完成させるため、老蜘蛛(オールド・スパイダー)は一計を案じた。
彼に同胞を与え、荒削りな玉体を研磨してより強く大きな魔王へと研ぎ澄ましていくことを考えたのだ。
ただのイエスマンなら無限にだって用意できる。
王のために文字通りの粉骨砕身で尽くす臣下だって、やろうと思えば千人単位で拵えられた。
しかしそれでは意味がないと、犯罪の王(クライム・コンサルタント)は安易な戦力の増強を否定した。
重要なのは目先の優位ではなく未来の利益。悪政を敷く傲慢な王を育てたところで、面白くもなければ生産性もない。
老蜘蛛が望んだのは至高の魔王。究極の犯罪。自分の抱いた夢を委ねるに足る、終局的犯罪だった。
だからこそ方針は少数精鋭。馴れ合いではなく、背筋のヒリつくような削り合いに満ち、その中にほんの一滴仲間意識があるような。
そんな"連合"を組むために、蜘蛛は糸を張り巡らせた。
その糸に触れた第一の構成員。蜘蛛が彼女に与えた役割は、他の誰に対するものよりも大きかったと言っていい。
「死んだ先生の遺言なんですって。あーやだやだ、野蛮人の発想にはぞっとします」
即ち、死柄木弔が最後に雌雄を決するべき存在。
相棒にして好敵手。友人にして、宿敵。
最後に残った彼女を殺し、喰らうことで死柄木弔は真の完成を迎える。
願わくばその時を迎えるのは、互い以外のすべてが滅んだ"最後"が最善だったのだろう。
しかし現実とは、企てとはそうそう上手くはいかないもの。
蜘蛛は死に、群雄割拠は崩れ、殊の外早く聖杯戦争は詰まりを見せた。
アビゲイル・ウィリアムズは強大だ。彼女と事を構えれば、翼の片方がもげてしまう可能性は大いにある。
もう蜘蛛はいないが。それでも、魔王はそれを嫌ったらしい。
残された宿題をゴミ箱に放って"なかったこと"にしてしまうことを、彼は善しとはしなかった。
-
「…………そっか」
霧子は、しおと交わした会話を思い出していた。
『私たちは初めから、二人の未来のために戦ってた』。
『これからは、愛するために生きるの』。
あの言葉の中にはきっと、いつか袂を分かつ友人の存在も含まれていたのだと理解する。
霧子は神戸しおという少女について、そこまで深く知っているわけではない。
彼女と死柄木弔の間にどんな関係性があったのかは、推測することしかできない。
けれどそれを推測する上でのヒントならあった。
しおが己のサーヴァントに対して向けた、幼いが故に言語化できていなかった感情。
きっと彼女が死柄木に対して持っている感情は、彼に対するのと似たものなのではないか。
殺し合う二人を止めたくないと言ったら嘘になる。
でもそれよりも、霧子は微かな嬉しさを抱いてしまった。
このことは、流石ににちかに言うわけにはいかないけれど。
愛以外のすべてを切り捨てることを選んだ彼女にも、たくさんの"大切なもの"があったのだと。
そう思うと、まるで親戚の子の成長を目の当たりにしたみたいな優しい気持ちが湧いてくる。
彼女のような生き様の中にだって、世界の優しさは佇んでいるのだと分かったから。
霧子は、なんだかもう一度あの子と話をしてみたい気持ちになっていた。
「それで、霧子さん。あの鍵穴っ子とはどういう関係だったんですか」
「えっと、ね……前は、仁科鳥子さんって女の人が、あの子――アビーちゃんのマスターだったんだ……」
「でも変わってた、と。……まあそれだけでも、アビーちゃんとやらの周りで何があったのかはだいたい想像できますね」
離別と、引き継ぎ。
にちかにだって覚えはある。
というか、彼女は目の前でそれを見てきた。
皮肉屋なあんちくしょうが死んで、看取った傭兵が紫色の悪い子に受け継がれた。
方舟にとってそれは"痛みの伴う前進"だったが。
きっとあのアビゲイルにとっては、そうではなかったのだろう。
「私……アビーちゃんと、今のあの子のマスターさんと……お話が、したいな………」
「危なすぎますって。どう考えたって話の通じる相手じゃなかったでしょ」
「でも……、アビーちゃんも、鳥子さんも……私にとって、大事なお友たちだったから……。
それに……アビーちゃんがどうして、私たちを襲ってこないのかも、気になるし……」
「だから本人に直接聞きたいってんですか。は〜〜……なんか私、霧子さんのセイバーさんの気持ちが分かった気がします」
うへえ、って顔をするにちか。
そんな彼女の背後で、おもむろにドアが開いた。
びく!!!! と飛び跳ねたにちかが後ろを振り返れば、そこには霧子にとって馴染み深い六つ目の剣士が立っている。
「誰の気持ちが……分かったと……?」
「わひゃあ! び、びっくりしたぁ! もう、顔怖いんだからいきなり入ってこないでください! 生徒指導の先生ですかあなたは!!」
「知ったことでは、ない……第一、お前もマスターならば……有事に備え、気くらいは張っておけ……気配遮断も持たぬ私の気配に気付けぬようでは………いずれ貴様の首と胴は、泣き別れだ…………」
「ウザい親戚のおじさんみたいなお節介いらないんですよーだ!」
……自分が眠っている間に、多少話でもしたのだろうか。
互いにぶっきらぼうのつっけんどんだが、なんだか間合いを分かり合ったやり取りだった。
-
「ふふ…………」
さっきから、笑っている場合ではないのに笑いが込み上げてばかりだ。
また怒られてしまうかも、と思いながら、霧子は黒死牟にちょんと頭を下げた。
「ご心配を……おかけしました………」
「………お前に振り回されるのは、もはや慣れた……懲りてもいない頭を下げるな、鬱陶しい………」
そういえば、確かに"あのスカイツリー"に黒死牟の姿はなかった。
流石は界聖杯というべきか。その気になれば、マスターとサーヴァントのつながりだって簡単に切り離してしまえるらしい。
霧子としても久方振りの再会に、自然と心が軽くなる。
もはやこの鬼剣士の存在は、霧子にとって日常の欠かせない一部となって久しかった。
そんな霧子の内心が伝わっているのかいないのか、黒死牟は小さく呼気を吐く。
そして牧歌的な雰囲気を断ち切るように、霧子が先程口にした疑問に対する答えを告げた。
「"鍵穴の娘"は、沈黙しているのではない……恐らく、静観しているのだ……」
「……静観……ですか……?」
「然り……。奴は圧倒的な力を持つが……奴の手綱を引いている主は、あのように狂しているわけではないのだろう…………」
アビゲイル・ウィリアムズの持つ力は、怪物と化した死柄木弔をさえ圧倒できるほどに強い。
黒死牟は神戸しおのライダーと共に戦ってなお、歯牙にも掛けられずに蹂躙されてしまった。
アビゲイルとそのマスターは今、皇帝殺しの死柄木以上に聖杯に近い位置にいる。
だがその上で万全に万全を期させているのがアビゲイルの"現"マスターなのだろうと、黒死牟は言う。
「戦うべき敵の頭数を減らせるのならば、それに越したことはない……そう考えて、我々の内輪揉めを待っている……。
己と、そのサーヴァントを……この戦いの弥終にて待つ、地平線の番人と据えたのだ………」
「……え゛。あ、えっと……それならあの二人に、今からその旨伝えてきた方がいいんじゃ」
「異なことを言う……。膝を突き合わせて語らったとして……それで己を曲げる肚か、あの奴原どもが…………」
――ラスボス気取ってるってわけですか。
にちかの言葉が、静まった保健室の中に大きく響いた。
黒死牟の言う通り、死柄木としおは何を言おうが自分たちの決定を曲げないだろう。
彼らは同盟相手などではない。見逃されているのは、霧子たちの方なのだ。
それでもと我を通そうとすれば、あの二人はそっくりそのまま敵方に反転する。
今のこの状況はどこまで行っても呉越同舟、薄氷の上に成り立つ停戦状態なのだと改めて理解させられた。
そしてアビゲイルとそのマスターは、頭数が減ろうが減るまいが、こちらから仕掛けるまで頭角を現すことなく見に徹している。
つまり明日の朝……敵連合の両翼が決着(ケリ)をつけるまで、どうあがいても盤面は動かないということだ。
「……はあ、となると待つしかないですよねこれ。あの王様野郎はともかく、しおちゃんの方は一時の同盟くらいなら受けてくれそうですし」
死柄木は災害のようなものだ。
彼に限っては、しおを殺すなりあらゆる提案をすべて無視して霧子たちに襲いかかってくる可能性が捨て切れない。
黒死牟以外すべての戦力を奪われた方舟のクルーたちにできるのは、神戸しおが死柄木弔に勝利するのを祈るのみだった。
-
少なくとも現状、それ以外に彼女たちにできることはない。
無力感と、焦燥感が――まとわり付く熱気のようにじわりじわりと広がっていく。
「……方舟の主は………本当に、何も教えなかったらしいな…………」
「は? ……なんですかそれ。喧嘩売ってんですか?」
「八方塞がりの鉄火場など……乱世では、そこかしこに存在している………。
いちいち膝を折って嘆いていては、何も始まらぬ……軟弱千万というものだ…………」
「……、……」
「剣も持てず……鉄砲も握れぬ、小娘が……いっぱしに戦の趨勢など、憂わずともよい…………」
一瞬青筋を立てたにちかだったが、続く言葉には閉口を余儀なくされた。
目の前の鬼剣士の言葉が、単なる八つ当たりじみた悪態ではないと分かったからだ。
「どの道……もはや、斬らずに済む敵なぞ残っておらぬのだ……」
方舟は多くを失ったが、しかしすべてを失くしたというわけではない。
彼女たちにはまだ剣が残っている。混沌を斬り、皇帝を識り、そして深淵にさえ挑んだ一振りの魔剣が。
「事がどう転ぼうと………私が、すべて斬り捨てて幕を引く……。それだけで、それまでだ………」
本物の戦国を知り、本物の魔境を知る鬼がそう言うのだ。
もはやにちかは、何も言えなかった。
それと同時に、今まで胸の奥に詰まっていた不安の血栓がいつの間にか消えているらしいことを自覚する。
は、とにちかは笑った。見た目も性格も、何から何までこの鬼は"あの人"とは違うが。
それでも、やはり英霊は英霊らしい。
首の皮一枚つながった、ってとこですかね――。にちかは、気が抜けたみたいに手足をだらんと投げ出した。
そんな彼女をよそに、黒死牟が霧子に視線を向ける。
三対の眼差しを受け止めて、霧子は続く言葉を待った。
「して……よもや、ただ眠りこけていたというわけではあるまいな……?」
「……はい……。話すと少し長くなるんですけど………いいですか…………?」
「構わぬ……。話せ……お前の知る、すべてを…………」
言ったきり沈黙する黒死牟。
「え? なんかあったんですか?」ときょろきょろするにちか。
そんな二人を交互に見つめて、霧子は目を閉じた。
自分の見聞きしたすべてを改めて反芻するように、整理するようにそうして。
もう一度目を開くと同時に、霧子が口を開く。
そして紡がれた言葉は、眼前の二人の度肝を抜くのに十分すぎるそれであった。
「私…………界聖杯さんと、お話をしてきました…………」
「は?」
「何……?」
-
◆◆
「ずっと、聞いてみたかったんです……。この世界をつくったあなた……。きっとこの世界そのものな、あなたに……」
「いろんな願いごとが、ありました……。全員じゃ、ありませんけど……私はたくさん、それを見てきたつもりです……」
「ただ願いをかけている人もいれば……誰かに願いを託して、いなくなってしまった人もいて……。
ここで、新しい願いごとを見つけた人もいる……。今もそれを叶えるために、がんばってる人もいる……」
「この聖杯戦争は……とても、悲しいことがいっぱいで……だけど、憎いとまでは思えないんです…………。
聖杯戦争のことも……それを催した、界聖杯さんのことも……私の大事な人たちを、殺してしまった人たちのことも……」
「……セイバーさんが聞いたら、また……難しい顔をしちゃうかもだけど……」
「私の周りのみんなが、素敵な……あったかくて優しい願いを抱いているように……私たちの反対側にいる人たちも、すごく真摯な気持ちで願っていたんだって、そう思うから……」
「だから、聞きたいと思いました……。みんなの願いを、認めてくれたあなたは……この世界の神様な、界聖杯さんは……」
「どんな願いを抱いて……この物語を、始めたんですか…………?」
「聞かせて、ください……あなたの、願いを……あなたの、物語を………」
「私は、それが知りたくて………あなたを、探していたんです…………」
『……ははっ』
『やっぱり霧子は変わった子だな。異彩づくめの方舟勢力の中でも、君ほど"わからない"子はいない』
『でも、そうだな。こっちから招いたんだ。それが望みなら、一足先に叶えてあげよう。幸い、願望器(おれ)を使う必要はなさそうだ』
『その前に一つ質問をしよう。霧子は、自分が何のために生まれたか答えろと問われたらどう答える?』
『すぐには答えられないよな、分かるよ。でも、考えてみれば単純なことだ』
『自分の存在した意義を果たすため。生物(きみたち)で言うならば、その辺が模範解答になるだろう』
『そして俺の場合は、今ここにあるこの状況だ。俺に願いらしいものがあるとすれば、今この瞬間それは叶っている』
『"誰かの願いを叶えること"。より正しくは、"この存在すべてをリソースとして、可能な限り最大の形で願いを叶えること"』
『それが、俺の願いだ』
『俺という、願望器(せいはい)の物語だよ。幽谷霧子』
-
◆◆
学校は無人なだけで、ご丁寧にも給食を作るための材料まで揃っていた。
もういい時間だ。そろそろ食事にしようという話になったのだったが、ここで霧子が名案を閃いたとばかりに手を叩いた。
嫌な予感を感じながらにちかが何を思いついたのかと聞けば、その予感は的中することになる。
七草にちかは基本、この世界では他人を振り回す側だったが。
幽谷霧子という"お日さま"があの田中摩美々にも決して負けない強烈なキャラクターの持ち主なのだということを、半ば成り行き上で彼女の手伝いをしながらしみじみと実感する羽目になった。
体育館に、たくさんのテーブルが並べられている。
その上には、何種類かの食事が置かれていた。
オレンジの大きなかごに入ったコッペパン。ピーナッツクリーム、いちごジャム、マーマレードをお好みで。
野菜はレタスやきゅうり、ミニトマトを和えたサラダ。アクセントにカニカマを細かく刻んで入れてある。
メインディッシュは出来たてのあったかいナポリタン。粉チーズはたくさんかけるとうれしいので、ありったけの本数が備えてある。
スープはポトフ。夏に出すには時期外れかなと少し思ったが、不安な時はあったかくなった方が落ち着くものだ。
そしてデザートはにちかがぶつぶつ言いながらせっせと拵えたバニラアイスクリーム。バニラアイスはやろうと思えば割と簡単に作れてしかもそこそこおいしいのでおすすめだ。
――以上で完成。出来あいから手作りまで混合の、283プロ特製聖杯戦争給食。
出来上がった時にはもう時刻は午後十時を過ぎていて、夕飯というより夜食になってしまっていたけれど。
「はあ〜……。沁みる……疲れた身体においしい料理がめちゃくちゃ沁みるぅ……」
ずじじ……と静かにポトフを啜りながら、にちかはひと仕事終えた余韻に浸っていた。
これだけあれば明日の朝も食べられるかな、とか。
いや明日そんな暇あるわけないだろ、とか。
あれこれ考えながら、もむもむと口を動かしてごろごろ野菜を咀嚼する。
急ごしらえにしてはなかなかのものができた自信がある。こんな状況なことも相俟って、美味しさは数割増しだ。
見れば対面の霧子は、にこ……と微笑みながらにちかのことを見つめている。
なんだか気恥ずかしくなるにちかだったが、霧子の方から見ると頬を膨らませて夕飯に舌鼓を打っている今の自分にはハムスターかリスを思わせる小動物的な可愛らしさがあったことは知る由もない。
霧子は霧子で、いちごジャムを塗ったコッペパンをはむ……はむ……と小さく啄んでいる。
にちかもにちかでそれを見て、かわいいなこの人……と率直にそう思うのだった。
「おいしいね………」
「おいしいです。まあ、死ぬほど疲れましたけど」
「ふふ……手伝ってくれてありがとう……。摩美々ちゃんたちの話もいろいろできて、嬉しかったよ……」
「……そりゃどういたしまして。霧子さんが元気出せたんだったら、私もちょっとは冥利に尽きます」
明日になれば、こんな平穏な時間も崩れていくのだろう。
何せ今この学校には、それを崩そうとしている原因が少なく見積もっても二人いる。
彼らがそうする理由は分かったが、納得はまるでできない。
せめてアビゲイルをどうにかするまででも協力し合えないもんですかね、とにちかが肩を竦めた時。
がらら……。と音を立てて、体育館の扉が開いた。
-
「――わ。本当に来たんですか」
「あ? オレは霧子さんに呼ばれてきたんだぜ」
「その霧子さんと一蓮托生の七草にちかでーす。どうもー」
「相変わらず口の減らない女。かわいくねーぜ。モテねえだろ」
入ってきたのは、金髪の少年。
そして彼の腰丈ほどの背丈しかない、小さな黒髪の少女だった。
出合い頭にさっそく火花を軽く散らす、少年――デンジとにちか。
そんな二人をよそに、霧子がぱっと表情を明るくして立ち上がる。
するとどうだ。あんなにも渋皮だったデンジの顔も負けじとぱっと明るくなる。
心なしか頬も赤いし、デレデレ……というオノマトペが頭の上に見えそうな顔だ。
「来てくれたんですね……しおちゃんのらいだーくん……」
「へへへ、そりゃもちろん。霧子さんがオレのために手料理作ってくれたとあらあ、来ないわけにはいかないっスよぉ〜……!」
「らいだーくんだけのためじゃないと思うけどなあ」
もちろん、この"給食"は霧子とにちかが二人で食べるために作ったわけではない。
そこのところが、にちかとしてはどうにも気乗りしないところだったのだ。
霧子は"みんな"のために料理をし、こうしてこの席を用意している。
つまり――自分たち以外の生存者。連合の二人のことも含めてだ。
そして今、その片方がここにいる。
神戸しおと、そのサーヴァント。
にちかは「呼びに行ったところで来るわけないでしょ」と内心そう思っていたのだが、思いの外この少女は面の皮が厚かったらしい。
「しおちゃん、セロリとか食べれる……? にんじんも入ってるけど……」
「だいじょうぶ。すききらいはあんまりないんだ」
「そうなんだ……。ふふ、えらいね……」
しおが給食の並ぶテーブルの前に立って、デンジの方を見る。
「これどうするの?」と問いかけるしおに、デンジが「俺中学通ってねえんだよな」と難しい顔。
すると霧子がたたたた、と駆けていって、ふたりぶんの御盆を差し出して「これの上に……お料理を載せたお皿を、こう……」とレクチャーしてやっている。
小学一年生の教室か。心の中でそう突っ込みながら、にちかはたっぷり巻いたナポリタンを口に運んでもむもむ食べた。
「お、ナポリタンじゃん。俺これ好きなんスよね〜……あ、粉チーズはこれ、もしかして……?」
「うん……かけ放題、です……!」
「は〜ッ……。テンション上がりますわ! 霧子さん、心底(マジ)有難(アザ)です!」
「ふふっ……どういたしまして……」
席は人数分用意されている。
しおとデンジは片隅にひょいと座って、各々舌鼓を打ち始めた。
お腹がすくのはアイドルもヴィランも変わらないらしい。
しおはピーナッツクリームを塗ったコッペパンをあむ、と一口。
デンジは――サーヴァントは本来食事の必要はない――ナポリタンをがっついて、隣のしおにまでケチャップを飛ばしている。
-
「らいだーくん、お行儀わるいよ。もう、私着替えもってないのに」
「ハラ減ってる時のメシはかき込んでナンボなんだよ。お前ももうちょっとお下品に食えよ」
「や。さとちゃんに嫌われちゃうもん」
「あのレズ女はお前が何しようが全肯定だよ、心配しなくても」
……こうしているぶんには、彼らが聖杯のためにいくつもの命を奪ってきた敵(ヴィラン)だとは到底思えない。
少なくともにちかはそうだった。歳の離れた兄妹にしか見えない。
でも、彼らは連合だ。にちかと霧子の大切な方舟を終わらせた、れっきとした相容れぬ敵なのだ。
複雑なものを噛みしめながら見つめるにちか。一方で霧子は、彼らの様子を微笑ましげに見つめながら口を開いた。
「そういえば……死柄木さんがどこにいるのかって、わかる……?」
「とむらくん? んー……。たしか、機械がいっぱいあるお部屋にいたと思うよ。えっと、こんぷ、こんぴゅ……」
「ぉんゆーあーいうあお(コンピューター室だろ)」
「! そうそれ!」
しおたちの居所は、にちかが知っていた。
だから彼女たちを呼びに行きたいと言い出した霧子に居所を教えたのはにちかだ。
だが、そんなにちかも連合の王たる青年がどこに消えたのかは分からないままだった。
彼はしおと雌雄を決する旨を伝えた後は、ふらふらとどこかへ消えてそれきりだったからだ。
にちかとしても「あんな勝手なやつのこと知りません!」モードだったので、別に追う気も起きなかった。
……もっとも彼の方は、呼んだとしても本当にこういう場所には来ないだろうけど。
「そっか……じゃあ、ちょっと行ってみるね……」
「――え。マジで持っていくんですか? あんなのに」
「うん……。死柄木さんも、おなかすかせてると思うから……」
「…………、」
七草にちかは、自分がどちらかと言えばリアリストの方に部類される人間だと自覚している。
だからだろう。この時、にちかが霧子の言葉に覚えたのは感心ではなくむしろ空寒さだった。
ああ、悪いクセが出ようとしてる。
そう分かっていても、こればかりは止められなかった。
命乞いをして命を拾って貰った身とはいえ、それを恩と思えるほど負け犬根性極まってはいない。
方舟の終わりをもたらした彼に対して思うところは、今この時だって死ぬほどあるのだ。
だから結局、一度は堰き止めた言葉をそのまま吐き出してしまった。
どうせ後でしみったれた後悔をすることになるのだからやめておけばいいのに、それでも止められなかった。
「方舟(みんな)を殺した、悪いやつなのに?」
言ってからはっとする。
言わなくていいことを言ってしまった。
そんなことを、彼女に言ったってどうにもならないのに。
取り繕おうとしたにちかだったが、当の霧子はと言えばどこか寂しそうに笑っていて。
「……死柄木さんとは…………いつか、戦わなきゃいけないと思ってる…………」
「っ」
「でも……いつかは、今じゃないから…………。
これが、今夜が……私たちにとっての、最後の平和な時間なんだったら……私はあの人にも、幸せな気持ちで過ごしてほしいなって…………」
――挙げ句の果てにはそんな答えが返ってきたものだから、にちかも思わず毒気を抜かれてしまう。
-
「………………霧子さんは、あんまり電話とか出ない方がいいと思います。
息子が事故にあったって言われたら、結婚もしてないのにたんまりお金送っちゃいそうなんで」
「ふふ……。大丈夫だよ、私もちゃんと気をつけてるから……」
「へえ、そうですか。具体的にはどう気をつけてるんです?」
「――レターパックで現金送れは、すべて詐欺…………!」
「初歩の初歩なんですよそれは。おばあちゃんですかあなたは」
止めてもどうせ無駄だろうし、しゅんとされてこちらが申し訳なくなるだけだろう。
だからにちかは、潔く諦めることにした。根負けというやつである。
「とりあえず、セイバーさんは絶対連れてってくださいね。相手の機嫌ひとつで霧子さんなんて消し炭なんですから」
「うん……そこはちゃんと気をつけるね…………、……そういうわけなんですけど……大丈夫ですか、セイバーさん…………?」
「寝耳に……水だ…………」
不機嫌を露わにした声で、体育館の壁へ凭れて立っていた黒死牟が言う。
霧子は彼にも給食を勧めていたが、鬼は血肉以外の食事を受け付けないため、英霊だとかそういうものは関係なく摂れないのだと断っていた。
……単に不要だと断ればいいものを、わざわざそう説明してやっている辺り、彼も霧子に相当"やられて"きたのだろうなとにちかは思ったものだ。見かけは怖いが、意外と今は苦労人気質なのかもしれない。
「――ていうか私だけ残されたらしおちゃんが心変わり起こした時やばくないですか? それは大丈夫?」
「そんなことしないよ。サーヴァント持ってないんだったら、わざわざ殺したって仕方ないもん」
「…………そうですか。ええ確かにそうですね。私が心配性すぎでございましたよー……」
当の本人にぴしゃりと釘を刺されて、なんだか釈然としない気分でにちかは言う。
とはいえ確かに、今此処で事を起こすのは彼女たちにとっても旨くないだろうことは確かだった。
何せそれをすればほぼ確実に霧子のセイバー/黒死牟が敵に回る。
死柄木との戦いを控えている身で、わざわざ前夜にそんな負担は背負いたくないのが普通だろう。
連合組であらかじめ話を合わせているとかなら話は別だろうが、今の自分にそうまでして命を狙う価値があるとは思えなかったし、何よりあの死柄木弔という男はそんな細々した計略が扱えるタイプとは思えなかった。
まったく、どいつもこいつも勝手なんですから。
ぼやきながら、にちかはデザートのアイスクリームを口に運ぶ。
「あ…………、そうだ、らいだーくん……」
「? え、霧子さん? ちょっ――」
霧子が、デンジの口元に手を伸ばした。
目に見えて慌てるデンジだが、霧子は気にした様子もない。
そのまま手を彼の口へと触れさせて。
手にしていたティッシュで、彼の赤く染まった口元を拭いてあげた。
「……ケチャップ…………ついてたよ…………」
「…………あ。ありがとうございます……?」
ひらひらと手を振って、ここにいない"彼"のぶんの給食を盛った御盆を持って駆けていく霧子。
その背中を呆然と見送って……霧子の背中が廊下の曲がり角に消えたところで、ようやくデンジは言葉を発した。
「……ありゃ絶対俺に気があるよな?」
「ないと思う」
「ないと思いますよ」
-
◆◆
霧子が駆けていった後、体育館には気まずい沈黙が流れる。
いや、あるいはにちかがそう思っているだけかもしれない。
何せ相手はルール無用、常識だとか良識だとか踏み躙ってなんぼのヴィランどもだ。
明日には崩壊するかりそめの停戦。にちかとしては死柄木ではなく目の前の彼女たちに勝ってほしいところだったが、それでも結末は変わらない。
立場が反目している以上、方舟のアイドルと連合のヴィランは決して相容れないのだ。
どちらかが残って。
どちらかが、消える。
そう分かっていたからだろうか。にちかは、開かなくていい口を気づけば開いてしまっていた。
「……あの。一個だけ聞きたいんですけど」
「なんだよ」
「あなたじゃないです。そっちの女の子に聞きたいの」
「愛想もへったくれもねえ奴だぜ。は〜、霧子さん可愛かったな……」
「敵に愛想振りまいてもしゃーないでしょ。私が普通なんですってば」
悪態をつきながら、デンジがしおを肘でつんと小突く。
もきゅ、もきゅ……と咀嚼していたパンを飲み込んで。
しおが、くるりとにちかの方を見た。
こうしているぶんにはどう見たって年相応の女の子にしか見えない。
こんな少女が、自分たちを踏み台にして何かを叶えようとしていること。
きっとここまで来る間にも、多くの命を食らってきただろうこと……。その実感が、どうしてもにちかには持てなかった。
「神戸しおちゃん」
「うん?」
「死柄木さんの願いは知ってます。あの人は、気に入らない社会をぶっ壊したいんだって言ってましたね」
それもまた、にちかに言わせればまるで理解のできない、したくもない願いだった。
気に入らないから壊すだなんて、幼稚園児でも分別のつく癇癪ではないか。
それを大真面目に押し通そうとする傍迷惑な魔王のことを、にちかはどうやったって認められない。
だが一方で、そういう願い/想いもあるのだということは理解した。
だから、問いたくなったのだ。恐らく話すのは今夜が最初で最後になるだろう少女にも、聞いてみたくなった。
「しおちゃんは、何のために戦ってるんですか」
「……霧子さんから聞いてない?」
「聞いてもよかったんですけど、あの人に他人のプライバシーをべらべら喋らせるのも気が引けたんで」
「そっか」
霧子のことだ。既にしおとの"お話"は済ませているだろうとにちかは思っていた。
なのに現状がこれということは、つまり対話では彼女を揺るがせなかったということ。
彼女も死柄木と同じで、何をどうしたって自分のあり方を改めることがない存在だということを示している。
「だいすきなひとがいるの」
「それは――さっき言ってた、さとちゃんって人?」
「うん。とってもふわふわいい匂いがして、やさしくて、いつだって私のことを一番に考えてくれる……とってもすてきな女の子」
「女の子」
思わず度肝を抜かれたが、まあ、そういうこともあるだろうと自分を納得させる。
そこにツッコミを入れていたらいつまで経っても話が進まなそうだ。
それに、語るしおの表情は、余計な横槍を入れる隙間もないほどに完璧だった。
-
――偶像(アイドル)。
他人に笑顔を与えるには、まずその人物が笑顔でいることが大前提なのだと今のにちかであれば分かる。
だからだろうか。七草にちかはこの時、間違いなく神戸しおという少女にアイドルの聖性を見出していた。
微笑みのひとつで他人を魅了し、熱狂させる偶像。立ち振る舞いのひとつで他人を狂わし、時に人生すら擲たせる天使。
ああ、これが普通の女の子なんかであるものか。彼女は、この女は、そう間違いなく――
「私は、私の知ってる愛を貫くの」
――死柄木弔(かれ)の同類だと、理解した。
人誑しの才能(カリスマ)、そして人倫に捉われることのない不変の歩み。
対話など、手を差し伸べることなど、これを前にして意味があろう筈もない。
これは何を言ったところで、決してその歩みを止めないだろう。
言葉の通り、愛を貫くまで。その愛が行き着くところへ行き着くまで、決して。
「そのためになら、私は世界だって壊してみせる」
「……何を犠牲にしても構わないって、そう言うんですね?」
「うん。知ってる? えっと……にちかちゃん」
天使が、囀っている。
天使が、微笑んでいる。
魔王を討つべき天使が。
ただひとりのための救済を運ぶ天使が、微睡むように宣言した。
「愛のためなら、やっちゃいけないことなんてないんだよ」
そうですか、と気付けばにちかは吐き捨てていた。
対話の成果は、これでも一応あったといえる。
なんと言っても今日は決戦の前夜。世界の終わりがやってくるその前の、最後の静かな時間だから。
こうして言葉を交わし、改めて自分の中にあった感情を深められただけでも有意義だったとにちかはそう思っていた。
「……私、やっぱり連合(あなたたち)のことが嫌いです。うん、だいっきらい」
七草にちかは、敵連合という集団が嫌いだ。
もう散っていった連中も。
悪の親玉たる白の魔王も。
そして今目の前にいるこの天使も、すべてが嫌いだった。
自分は霧子とは違う。自分は彼女のような、すべてを照らすお日さまにはなれない。
だって彼の語る崩壊も、彼女の語る狂愛も、欠片だって理解できないから。
何かを成し遂げるために他のすべてを犠牲にするだなんて理屈を当然の顔で押し通せる人間に対して、良い印象なんてさっぱり抱けないから。
-
「明日、戦うんでしょ。だったら私たちのためにも死柄木さんを倒してください。
ぶっちゃけあの人が生き残ってると、私たちの今後がやばいくらい無理ゲーなんで。
霧子さんはともかく、私はそれまではあなたたちのことを応援してあげます。でも、その後は」
方舟は、心優しい願いをもってすべての命に手を差し伸べる集団だった。
けれど、その根底にあるのはお花畑のような無垢さではない。
それしか解決の手段がないのなら、どうやっても和解するのが困難であるのなら、その時は戦うとあの"境界線"は言っていた。
にちかは事此処に至ってようやく、そんな言葉の意味を実感する。
もういない境界線に思いを馳せながら、今やこの世界で最も無力な少女は、はっきりと天使の目を見て宣言した。
「ぜったい、あなたたちになんか負けません」
自分達、方舟の残骸の未来がどうなるかは分からない。
分からないが、負けてはならないのだということだけは分かる。
自分達はまだ負けてなんかいない。だって、まだクルーが残っている。
あの優しい時間を覚えている二人と一騎が残ってる。
連合と方舟の戦いは、まだ終わっていないのだ。
ならば狙うのは勝ち、ただそれだけ。
宣言するにちかに、しおは少し驚いた顔をする。
七草にちかという人間にこれだけの胆力があるとは思っていなかったのだろう。
「ふうん」
だがその顔も、すぐに微笑みに変わる。
思わず毒気を抜かれるような可憐な笑顔。
まさに天上の御業のような無垢に染まっていく。
「できるといいね」
-
……真面目な話は、そこまでだった。
しおがバニラアイスを口に含んで。
にちかもナポリタンを頬張った。
デンジはポトフのベーコンにがっついている。
「霧子さん、遅いねえ」
「な。死柄木の奴、案外絆されてんじゃねえの? 霧子さんのバブみによ」
「ばぶみ?」
「小さい子は知らなくていいんです。ていうかあなた本当にサーヴァントなんですか? 言動も言葉のチョイスも俗すぎるんですけど」
「現代っ子だからな。アイドルの話もできるぜ〜?」
「どの面下げて私の前でアイドルの話するつもりなのか大変興味深いですね」
「この面だよこの面。てかお前って売れてんの? だったら後でサインくれよ。メルカリで売ってドラクエの新作買うからよ」
「は〜っカス。あなたみたいな魂胆の人がいるからグッズ販売もサイン会も厳しくなるんですよ」
「あ。にちかちゃん、バニラアイスもう一皿とって」
「なんで霧子さんのことはさん付けで私はちゃん呼びなんですか????」
「…………、…………。」
「……、……。」
「……。」
「…」
-
◆◆
「あ……ほんとにここにいた……」
コンピューター室の扉を開けて、そこで幽谷霧子は連合の王と対面していた。
その手にはお手製の給食を載せた御盆。向ける笑顔は、とてもではないが不倶戴天の敵に対するそれとは思えない。
「晩ごはん、持ってきたんです……死柄木さんも、おなかすいてると思って……」
「何言ってんだお前。頭おかしいのか?」
この場に限って言うならば、死柄木の言葉が正しいだろう。
とはいえ当の本人は傷付いた様子もなく笑っている。
そこから微塵の害意も感じ取れないのがまた、死柄木にとっては不可解だった。
となるとこの女は、本気で自分に食事を運ぶためだけにここまで来たのか。
わざわざしお達に自分の居所を聞いてまで。
全身の感覚を集中させる――彼女の背後に、サーヴァントの反応が感じ取れた。
流石にそこまで酔っ払ってはねえか、と死柄木は小さく嘆息する。
「敵が運んできたメシなんざ食うかよ。ハニトラのつもりだとしてももっと上手くやれ」
「……でも……しおちゃんとらいだーくんは、おいしそうに食べてました……」
「あいつらは馬鹿なのか?」
その光景が容易に想像できるのもまた頭が痛くなる。
差し出されたそれを片手で振り払って、床にぶちまけるのは簡単だ。
だが目の前の女の顔が、あまりにも邪気だとか嫌悪とは無縁のものだったから死柄木としてもその気が削がれる。
こいつに対してそんなチープな悪意で応えてしまったら、むしろそれは自分の敗北になってしまうような。
そんな奇妙な、今までにない感覚を霧子は死柄木に与えていた。
「……そこに置いとけ。気が向いたら食ってやるよ」
「……! ありがとうございます……嬉しいです、ふふ……」
「なんでお前が礼言うんだよ。マジで脳溶けてんのかお前は」
"この身体"には、今や空腹の概念は存在していない。
何しろ龍脈の力を吸い上げて合一化させたマスターピースだ。
エネルギー効率やその生成手段も人間のそれとは一線を画した人外のそれに置き換わっている。
だからこのお節介が必要か不要かで言うなら、間違いなく後者だった。
なのにどうしてかそれを無碍にできなかったのは。
気が向いたら食うなどと、まるで気遣うような言葉を口にしてしまったのは何故なのか。
死柄木自身にすら理解の及ばない感情が、その脳の内側で渦を巻いている。
脳裏によぎるのは、もう捨て去った過去の追憶。
今より遥かに低い視点。笑顔で語らう知らない/知っていた顔。
机の上で湯気を立てている皿には色とりどりの食材が載っていて、その空間はひどく暖かで懐かしくて――
-
「田中摩美々を殺したぞ」
そんな思い出(ノイズ)を振り払うように、死柄木はその事実を口にしていた。
「正確には俺がやったわけじゃないが……まあ、連合の一員がやったことだしな。俺が殺したようなもんだ」
「…………、…………」
「お前らの計画を支える肝心要のライダーも殺した。七草の片腕を吹っ飛ばしたのも俺の仲間だ。
方舟だったっけ? とにかく、お前らの夢や理想は全部ブッ壊してやったよ。
灰と光の境界線なんてもうどこにも存在しない。あるのは、一面真っ黒の未来さ。奈落が口を開けてお前らを待ってる」
霧子の顔に沈痛の色が宿る。
同時に、後ろに控えているらしいサーヴァントの放つ殺気が強まったのを感じた。
そうだ。それでいい。死柄木は過去を押し込んだ記憶の鍋に蓋をして、魔王らしく悪意を振り撒く。
偶像の純朴な優しさに小便をぶち撒けるような所業は麻薬のように心地よく、本番の前夜に相応しい娯楽になるだろう。
「死柄木さんは……」
そう思っていた。
その筈だった。
なのに幽谷霧子の口から次いで出た言葉は、死柄木の行いを糾弾する言葉でもなければ、売り言葉に買い言葉の挑発でもなかった。
「世界のぜんぶを、壊した後……どこに、行くんですか……?」
「何?」
「死柄木さんの願いごとは、知ってます……。ぜんぶ壊して、真っ平らにしたいって……。
私はそれを……すごく寂しいって、そう感じてしまうけど……でも、私はあなたの人生を……死柄木さんの物語を、知らないから……。
死柄木さんが、大事に抱いて歩いてきた……その願いごとを、否定する気は、ありません…………」
でも、と続いたのは、先程の繰り返しだった。
「その後に、あなたは……願いを叶えた死柄木さんは、どこに行くのかなって…………」
「さあ」
今、死柄木弔に纏わり付く巨悪はいない。
彼の完成をもってそのすべてを乗っ取り、自分の野望にすげ替えようと目論んでいた男は既に介入の余地を失った。
この聖杯戦争を制した時、死柄木弔は理想を叶えてすべての崩れた白の地平線に立つだろう。
ならばその先に待つのは彼の、彼だけの物語だ。
社会を壊してひとつの時代を終わらせた彼は元の世界でも魔王と崇められ、新たな巨悪として君臨するに違いない。
では。その後で、彼はどこへ向かうのか?
「壊してみなきゃ分からない。ただひとつ言えるのは、壊さなくちゃ俺はどこへも行けないってことだけだ」
答えは、分からないと言うしかない。
すべてを崩壊させた後、自分はどういう気持ちで願いの叶った世界を眺めるのか。
それを知れるのは地平線の彼方に辿り着いた時だ。
今、幽谷霧子の向けてくる問に対して返せる答えは死柄木の中に存在しなかった。
-
「俺を憐れむなら大人しく道を譲ってくれ。手を差し伸べるなら、さっさとサーヴァントを自殺させてくれれば手間が省ける」
「それは…………、……できません…………」
「なら戦うか。俺と」
「……死柄木さんの願いが、とても強いものだって……誰にも譲れないものだってことは、わかってますから……。
戦い、ます……。勝てるだなんてとても思えないけど、それでも……私達も、方舟(わたしたち)のために…………戦う」
「それでいい。分かってんなら下らねえ言葉遊びはやめとけよ。そういうのを不毛って言うんだぜ」
ヒーローの本質は、お節介だという。
ならばこの少女は間違いなく、"そうなる"資格を有しているに違いない。
そもそも、医者もアイドルも味方を変えればヒーローだ。
人に夢と希望を、時には勇気を与えて救う存在。それを指して人はヒーローと呼んだのだから。
であればああ、なんという因果だろう。
結局死柄木弔(じぶん)という人間は、ヒーローとヴィランという昔懐かしの対立構造からどうやっても逃れられないらしかった。
「明日の戦いは俺が勝つ。そしてお前らも、あの鍵穴娘も殺してゲームセットだ」
「……しおちゃんと、戦うんですね……」
「七草から聞いてるだろ。面倒臭いがジジイの遺した宿題なんでね。
ムカつく野郎だったが、奴の教えが無益だったことはない。なら最後の最後、絞りカスまで吸収してやろうって腹さ」
「…………死柄木さんにとって……しおちゃんは、何だったんですか…………?」
また妙なことを問う。
今度の答えは、考えるまでもなく決まっていた。
「敵だ」
そう、いつだって奴は敵だった。
出会ったその時から今まで、一度だってそれは変わっちゃいない。
誰よりも身近にいた、最も長い時間を共にした、敵だ。
死柄木弔にとって神戸しおは、いつだって最大の敵(ヴィラン)だった。
「だから殺すんだ」
連合の王は残虐非道の悪逆無道である。
七草にちかが彼を評した時の形容は何一つ間違ってなどいない。
モリアーティの教鞭によって、彼は本当に人間などではなくなってしまった。
志村転弧としての弱さを限りなく封じ込め、死柄木弔という魔王として完成した。
だが。それでも、彼の中には魔王なれども心がある。
田中一の死に形だけでも手向けをくれてやったり。
鎬を削った敵に、彼なりの評価を下してみたり。
無道ではあっても無感ではない、それが死柄木という男の在り方だ。
その矛盾があるから、彼は強い。
どこまでだって進化していく、停滞を知らない。
それは彼を最初に見出したオール・フォー・ワンという男が、唯一持っていない質の"強さ"であった。
――とむらくん、なんだかお兄ちゃんみたいだね。
――私、勝つね。とむらくんに。
甘い声(シュガーソング)を反芻しながら。
訣別(ビターステップ)へと歩み出す。
そこにあったのは紛れもない、彼らなりの仲間意識と友情で。
だからこそこの結末は譲れないのだと、獣の心でそう誓っていた。
「…………、…………」
そのことが、霧子には伝わったのだろう。
言葉だけ見れば彼らしいと言う他ない残忍さだが、その言葉に付加された重みを彼女は感じ取っていた。
だからこそ、もうそれ以上言える言葉はなかった。
だって自分は、彼らの物語を知らないから。
かけられる言葉は、もうない。
「日の出だ。それと同時に事を始める」
決戦の刻限は日の出と同時。
最後の朝が訪れたその瞬間。
「巻き込まれたくなかったら逃げときな。運が良けりゃちょっとだけ生き延びられるよ」
それをもって、敵連合は消滅する。
魔王か、天使か。
どちらかの願いのみを残してこの世界から消える。
霧子はその意味を、彼らの戦いの重さを噛みしめていた。
乗り越えるために戦う、相手を重んじるからこそ戦うということの意味。その価値。
世界の終わりを否応なしに感じさせられながら、彼女は魔王の視界を去ったのだった。
-
◆◆
「早めに寝とけよ。明日早いんだからな」
「うん」
埃っぽい物置の中にソファがあった。
右側にデンジが、左側にしおが座っている。
時刻は12時になるかどこかといったところ。
日の出が事の始まりと考えると、十分に眠れるかどうかはだいぶギリギリだ。
だいぶ不規則な生活習慣にも慣れてきたようだが、それでもしおはまだ幼い。
デンジに言われるまでもなく、もうかなりうとうととしている様子だった。
「……いよいよだね。おわるんだ、ぜんぶ」
「そうだな」
聖杯戦争が本格的に"戦争"の様相を帯びたのは最近だが、予選を含めて見ればこの戦いはなかなかに長かった。
最初はあんなに浮かれていた久々の現世も、今となっては昔と同じで日常に変わっている。
神戸しおという少女が隣にいる時間も同じだった。
あらゆる日常が、事がどう転ぼうと明日で終わるのだと考えてもいまひとつ実感が湧いてこない。
「今だから言うけどよ。俺、お前が"さとちゃん"の話するのめちゃくちゃ嫌だったんだわ」
「しっと?」
「ちげえよ馬鹿。……あれだ。そのモードに入るとお前、途端に何言ってるか分かんなくなるからよ。
俺はなんつーか……一緒にゲームで馬鹿やってたり、ヘンな時間にだらだらカップ麺食ったり、菓子つまんだり。
お前とはそういう、こう……毒にも薬にもならねえ時間だけ過ごしていたかったんだよ」
デンジの耳には、しおの語る"愛"の話は酒にでも酔っているのか、という感想しか抱けないものだった。
彼女のような幼い少女がそれを語っている事実もまた、そこに拍車をかけていたのだろう。
これさえなければな、と口に出しこそせねどずっと思っていた。
「けど、まあ……お前らはさ、すげえわ」
だからこれは、きっと根負けというやつなのだろうとデンジは考えている。
良くも悪くも、自分にはきっとそういう生き方はできない。
「俺なんて好きな人がいても平気で他の女に尻尾振っちまうし。
サーヴァントになっても、可愛くてエロい女に話しかけられたら鼻血出そうになるし。
そうやって何があっても、自分がどうなっても他人を愛し続けられるってのは……俺には真似できねえな〜ってよ」
それを貫き続けた結果、気付けば聖杯戦争は最終局面だ。
不思議と、何の疑いもなくデンジは自分達が勝つのだと信じていた。
希望的観測でも情熱でもなく、ただそういうものだと思っている。
あの時――桜の舞う渋谷で、彼女達の再会とその顛末を見た時からずっとそうだった。
漫画の主人公が、劇的な何かを経て最終回に突き進んでいくように。
映画の主役が、神の下りた情景の中でエンドロールに歩いていくように。
デンジは、それを見ると同時に理解した。
ああ、こいつは勝つんだと。
そう思いながら今もここにいる。
そして今も、それは変わっていない。
-
「私も、らいだーくんはすごいなって思うよ」
明日、すべての物語は終わりを迎える。
勝者が決まり、残りのすべてが消えてなくなる。
桜が散り、ひぐらしが鳴いて季節が移り変わるように。
日常だったこの世界は、誰かの"願い"のために消費される。
「らいだーくんじゃなかったら、私はたぶんここにいないと思う」
それはきっと、デンジに限った話ではないのだとしおは気付いていた。
きっとここで出会ったもの、経験したこと、そのすべてに意味があったのだ。
以上をもってジェームズ・モリアーティが見初めた最後の課題。
魔王の闇黒を照らし、白光にて焼き焦がす天使は完成された。
結実の時は日の出と共に。界聖杯を照らす最後の朝日が、彼らの神話の終わりの始まりだ。
「怖くねえの」
「怖くないよ」
「愛してるから?」
「うん。そして、らいだーくんがいるから」
しおはにへらと笑った。
天使のさえずりは悪魔狩りの少年へ向けられている。
その感情は愛ではない。
だけど、形だけの伽藍でもない。
そこにはきっと、情がある。
この世界で巡り合った相棒に対する、友情があった。
「すきだよ、らいだーくん。"ともだち"として」
「……さとうが泣くぞ。あんま気軽に好きとか言うなよ」
「ううん、だいじょうぶ。本当に大切な気持ちは、ここにちゃんとしまってあるから」
そう言って胸に手を当てる、しお。
一番大事な愛の砂糖菓子はそこに秘めた。
心の瓶は、もう割れていない。
「そんでありがと。私、らいだーくんがサーヴァントでよかった」
微笑む少女の姿に、デンジは存在しない記憶を見た。
鎖で繋がれたたくさんの犬。壁に貼り付けられたローマ字表。
二人分の食事、自分のためじゃない貯金、腕の中でテレビを見つめる誰か。
今までの自分が、卵のようにひび割れていくような感覚を懐かしさと同時に覚えながら。
デンジは、こてんと眠りに落ちたしおの顔を見つめていた。
「クソガキがよ……」
本当にこいつは、とんだマセガキでクソガキだと思う。
どうせなら最後まで、自分勝手でわけのわからないことばかり喋る馬鹿でいてくれたらよかったものを。
こいつがこんなだから、自分はらしくもなく――
「……やめだ。俺ももう寝る」
かぶりを振って湧き上がった思考を否定して。
不貞寝するみたくソファの背に身体を投げ出し、だらしなく足を広げた。
しおとデンジ。天使と悪魔の主従にとっての、最後の夜であった。
-
◆◆
「…………そっか…………」
「あなたは………界聖杯、さんは…………」
「あなたは、ただ…………」
「何かに、なりたかったんですね…………」
◆◆
-
無人無生の摩天楼に一人立つ白影があった。
その傍にサーヴァントの姿はない。
彼は既に、己が運命と死に別れている。
だが、亡き"教授"はこの世界に最大の犯罪劇を仕込んで逝った。
薔薇の青年が少女達へと繋ぐ希望を遺して焼け死んだように。
蜘蛛糸の主は、今この光景のためにすべてを尽くして消え去ったのだ。
彼は、王である。
地平線の彼方に辿り着くべき、そしてあらゆる大地を平らに均すべき、魔王である。
すべてを塗り潰す白。すべてを薙ぎ払い、崩し、リセットする終末装置(アークエネミー)。
その名を死柄木弔。龍脈の力をその身に宿し、空すら掴む手を有するに至った怪物である。
コンクリートジャングルの果て。
薄闇の名残を残していた空が、金の陽光に照らされた。
天を衝くような高層ビルの数々が、尾のように影を伸ばす。
その光は当然、魔王をも照らしていた。
網膜を焼くような、鬱陶しいくらいの日差しが街を呑む。
日の出の時だ。眠った草木も叩き起こされ、穏やかな静寂の夜は終わりを迎える。
彼は誰時、朝ぼらけ。
夜の終わり、一日の始まり。
「さあ、刻限だぜ」
――――世界の終わり、その幕開け。
「遊ぼうか――――」
死柄木の足が、アスファルトを踏み砕いた。
破片と粉塵が、血飛沫のように舞い上がる。
その一片を、魔王の指先が優しくなぞった。
王に触れられた破片は、風に揺られて地面に落ちて。
-
そして次の瞬間、都市が"崩れた"。
大地が崩れる。
高層ビルが次から次へ、まるで自分の姿を忘れたように崩落していく。
崩壊に、終焉に染まる街の中。
魔王はその滅びの中心に立ちながら空を見上げた。
朝日の照らす終わりの世界で。
キラリと陽光(それ)を反射させた、鋼の何かが翔んでいる。
崩れゆく都市の悲鳴が木霊する中でも、その音は恐ろしいほどによく聞こえた。
それは遥か彼方、地獄にて産声をあげた大悪魔。
不滅。不撓。不屈。滅びを知らぬまま滅びを運び続けたモノ。
彼は数多の滅びを喰ってきた。そして今、その俎上に地上最後の魔王が載る。
空に躍った悪魔の影から。蛇の如くに、無数の鎖が飛び出した。
頭上から崩れてくる、高層ビルの大鉄槌。
それを触れぬまま微塵に切り裂きながら、悪魔は魔王に死を聞かせる。
――ぶうん。
「――――しお」
「うん――――遊ぼう、とむらくん!」
滅びの大地に立つ、崩壊の魔王に。
悪魔の肩に乗った、狂愛の天使が応える。
どちらも同じ教師に見出され、育て上げられた悪の器。
彼らにとってこの世界は教場だった。
多くを学び、多くを知って、よく育った。
卒業式はすぐそこ。けれどその前に、彼らだけの卒業試験が待っている。
世界の終わる日、その朝に。
彼らだけの最終決戦が、その幕を開けた。
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投下終了です。今年もよろしくお願いします〜〜
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進捗報告です。
投下自体は可能な文量なのですが、ちょっとここは展開的にキリのいいところまで書いて投下したい欲があり、来週の木曜までお待ちいただけましたら幸いです。すみません
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投下します
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魔王の手が触れた物質は、何であれ必滅の雫となる。
その雫に触れた物質が、死に冒されて広がっていく。
まさしく破滅の力、世界を滅ぼす者が握るべき力。
死柄木弔が個性を発動した時点で、この深層渋谷区の滅亡は確定した。
崩れ落ちるビルの山、その一軒一軒が死を帯びている。
そして死の奥底にて佇む魔王は、天地を神明として隷属させる万象の支配者だ。
これぞ盤石。これぞ最強。死んでいった皇帝達に決して劣らない怪物となって、連合の王はそこにいる。
しかしそんな王者に一歩も退かず、怯むことさえなく向かっていく腥い影がある。
伸ばすチェーンと斬撃で触れることなく死の波を超え、質量攻撃は断ち切って、死の空を駆ける彗星と化していた。
「は――」
魔王が笑う。
喜劇を見るような顔で、彼は歯を剥いて笑っていた。
皇帝殺しの時には肩を並べて戦いもした、神戸しおのライダーの中に潜む何か。
あるいは、ライダーを表に出しながら彼の中で眠り続けていた真のサーヴァント。
その強さは知っていたつもりだった。つもりだったが、しかしこうして敵として直面すると流石に笑いが込み上げる。
何故、これだけの死を越えられるのか。
今までで最大規模でぶち撒けてやった崩壊が足止めとしてさえ機能していない。
小細工も手品も一切なしでの正面突破で、彼は魔王の命をその射程圏内に捉えてみせたのだ。
これこそまさに悪魔の中の悪魔。真性悪魔と呼ばれる上位種にさえ迫り得るだろう、地獄の英雄。
「――カッコいいなぁ! チェンソーマン!!」
「■■■■■■■■――!!」
人も、悪魔も、彼をそう呼ぶ。
魔王死柄木弔もまた、その例外ではなかった。
響き渡る真名/真銘に応えるようにチェンソーマンが哭く。
次の瞬間、死柄木は後ろへ大きく跳んだ。
その判断は正解だ。そうしていなければ、今頃彼の身体は微塵切りにされていただろう。
完成を果たした今の死柄木でさえ、チェンソーマンの身体能力には遠く及べていない。
近距離戦(インファイト)での殺し合いにおいて有利なのは明確にあちらの方だ。
死柄木はそれを理解している。
峰津院家の傑物にさえ舌を巻かせた天性の戦闘センス、相手の命に迫る勘の鋭さが彼に最適解を躊躇なく選ばせた。
風を手繰り、触手のように自らの周囲へ伸ばす。
風であるため当然不可視だが、チェンソーマンは彼の狙わんとするところを理解していた。
何故なら彼はこれを知っている。
これは奇しくも彼が喰らった、この世のどこにも存在しない男の使った戦法と同じだったからだ。
「戦いってのは難しいよな。一個壁を越えたと思ったら、またすぐ次の壁が出てくんだ。
魔王がセコセコ創意工夫しなきゃならねえなんて、バトル漫画の世界もずいぶん世知辛いらしい」
黒死牟、童磨、猗窩座。
三体の上弦をこの世に生み出した、あらゆる悲劇の根源たる始祖の鬼。
死柄木が至ったのは彼と同じ発想。触手状に伸ばした烈風を、ただ闇雲に振り回して周囲すべてを攻撃する力技だ。
-
ソルソルの実の能力を継承した今の死柄木は、しかし本家本元の■■■■■を出力でも速度でも大きく上回っている。
殺到する風の鞭に対して、チェンソーマンが足を止めたことがその証拠だ。
始祖を歯牙にもかけず屠った彼が、足を止めなければ捌けない風鞭の嵐。
一瞬にして三十六本の触手のうち半分を破壊したが、仕損じた残り半分が一気に襲いかかってくる。
やむなく後退を選んだ悪魔に、魔王はあえて追撃を選ぶ。
――近距離戦ではチェンソーマンに勝てない。
なのにわざわざ死に近付くような選択を取ったのは、ひとえに自信があるからだ。
「死ぬ気で守れよ、ヒーロー」
死柄木にとっての勝ち筋は、何もチェンソーマンの滅殺だけではない。
彼がその肩に載せている少女を殺せれば、極論それだけで勝利を確定させられる。
だからこそ死柄木が此処で頼ったのは、炎のホーミーズだった。
肉体への負担など一切考えずにありったけの火力を集中させる。
当たらなくても余波の熱だけで炙り殺せるような、そんな地獄の業火が理想だ。
赫灼熱拳・ジェットバーン。
吹き荒ぶ業火の濁流が、怒涛の勢いで悪魔と少女の姿を隠す。
さあ、どうなった。焼け死んだか、蒸し殺されたか、それとも窒息で召されたか。
答え合わせの代わりに、忌まわしいほど明瞭なあの音が響いて死柄木の鼓膜を揺らす。
ぶうん。
「守ってくれるんだよ、とむらくん」
空高く飛び上がったチェンソーマンの肩で、少女は無傷で生きていた。
チェンソーマンのやったこと、それ自体はごくごく単純だ。
崩壊を触れる前に切り刻める速度と手数を生かしてジェットバーンを食い止めつつ、チェーンを振り回して即席の冷却機にする。
高速回転で熱波の到達自体を遮り、それどころか逆に押し返して神戸しおの生存圏を捻出した。
理屈は単純。しかしそれを実現させられる存在など、この悪魔くらいのものだろう。
「どっちのらいだーくんも、私のヒーローなんだから!」
火柱が生まれ、廃墟と化した街をまた別の地獄に変貌させた。
もはやその出力は彼の参考にしたオリジナル、そしてそれを生み出したフレイムヒーローのレベルに収まっていない。
出力だけに留まらず、動作の繊細さも延焼範囲も共に唯一無二の領域に達して余りある。
この街に、魔王の敵の生存圏など存在しない。
崩壊に限らず、彼が駆使する時点でそれはすべてが社会を均すジェノサイドと化す。
そして顕現する地獄絵図(フィルム・インフェルノ)――止まらない、止まらない。誰もこの白い魔王を止められない。
ああならば。
その焦熱地獄に踊り舞い、火を斬りながら進む黒影は一体何者か。
語るに及ばず、彼は悪魔だ。
天使を肩に載せた、恐るべき悪魔狩りだ。
悪魔でありながら悪魔を狩る、地獄の恐怖その象徴――デビルハンター・チェンソーマン。
「いいマイクパフォーマンスじゃん。殺し甲斐があるよ」
斬り裁かれた蒼炎が、悪魔の通る花道となる。
振るった刃を読み切れず、死柄木の肩口から血が飛沫した。
緋色の糸が、風に靡く。
糸を引いて伸び、やがて千切れて消えるそのわずかな流血がどれほどの偉業であるかは言うに及ばずだ。
-
斬られて初めて、死柄木は敵の大きさを知る。
龍脈の力を取り込んで人智を超えた筈の肉体が、内から悲鳴をあげていた。
細胞のひとつひとつが叫喚して、目の前の悪魔への恐怖を示している。
こんな感覚は初めてだった。皇帝との殺し合いでも、境界線との決戦でもついぞ感じることのなかった圧倒的なまでの恐怖が此処にある。
――強い。これがチェンソーマン。これが、神戸しおの擁するサーヴァント。
長いようで短い付き合いだった間柄だが、これまで死柄木が真の意味で彼女達に脅威を感じたことは思えばなかった。
今なら分かる。あの犯罪王が、ジェームズ・モリアーティが彼らに最後の大役を任せたその意味が。
恐らくあの男は、こうまで"成る"こともすべて見越した上で神戸しおとそのサーヴァントを選んでいたのだろう。
一体何手、何十手先まで読んでいたのやらと呆れさえ覚えながら、死柄木は彼にしては珍しい心からの脱帽を感じていた。
「上等だぜ、モリアーティ。あんた間違いなく、先生以上のスパルタだ」
風のホーミーズを右腕に纏わせて鎌鼬を撒き散らし、凶刃の進撃を抑える即席の迎撃手段とする。
相手は峰津院ともホライゾンとも、ビッグ・マムとすら格が違う近接戦の最強種だ。
"技"と"経験"の不足は峰津院との戦いで指摘された通り。
今から埋め合わせるのは困難と判断し、なるだけその欠点が露呈しない戦い方を選ぶことでカバーする。
チェンソーマンは鎌鼬の全弾を、曲芸の如く打ち払う。
音に届く速度の風刃など、彼にとってはものの脅威でもないのだ。
これ以上の狼藉を防ぐべく、八岐大蛇さながらに悪魔の背から噴き出したのは八本の鎖。
死柄木が初手で巻き起こしたコンクリートジャングルの大崩壊をすら無傷で凌がせた、このチェーンもまた馬鹿にできない脅威だ。
風のホーミーズを、"神"の姿形で顕現させて、その鉄騎馬(バイク)に運命共同(ニケツ)して離脱を図る。
縦横無尽のバイクアクションは、人間ならば過度のGと風圧でたちまちミンチになっていること請け合いのむちゃくちゃだ。
だからこそ、この馬に乗れる者は人外でなければならない。
魔王と神。生きながらにして神話を体現した二人だからこそ、この無理を道理に変えられる。
空を駆ける、ジグザグに。
追い縋る縛鎖を引きちぎり、音を突破しながら駆け巡る。
目指す場所は天空、遥かの高み。
そこまで駆け上がった所で、神の姿形が消えた。
いや、消えたのではない。
彼は、溶けたのだ。
空一面を覆う嵐が、忽ちにして空の雲々を吹き散らしていく。
ありったけの魔力を注いで渦巻かせる大嵐、それはまさしく神の御業なれば。
次に待ち受ける現象は、もはやひとつを除いてはあり得ない。
――嵐が来れば。
――空が融解(とけ)て。
――雨(レイン)が来る。
「来いよ、バカども」
魔王の声が、神に通じ。
神の声が、"彼ら"を呼び起こす。
空、風の天蓋から何かが飛び出した。
単独ではない。十、二十、いやそれでも止まることのない軍勢が召喚されている。
神戸しおは、これを知っていた。
チェンソーの悪魔も直接ではないにしろ、この悪夢めいた光景を知っている。
今や遥か新宿決戦。割れた子供達(グラス・チルドレン)の総攻撃を前に、暴走の神が繰り出した軍勢召喚宝具。
地平線の果てから爆音と共にやって来て、そこにあるすべてを均して去っていく夢想の軍勢を知っている!
-
「祭りの時間だ――――死んでも踊れ!」
その名、暴走師団聖華天。
一度ならず二度までも、地獄の釜が開いて十万の悪童(ワルガキ)達が蘇った!
空を埋め尽くして、地に駆けてくる鋼鉄の流星群はあくまで単なる模倣(イミテーション)。
されど再現された彼らもまた、原典と同じくその圧倒的物量というただ一点で無限大の脅威となる。
猪口才な搦め手など一切無用。必要なのはただ走ること、暴走して走破することそれひとつ。
忍者、幼狂、そして今度は悪魔と天使を轢殺するために暴走族神も太鼓判を押す馬鹿どもが駆け抜ける!
もはやその火力は、生半可な対城宝具をさえ超えていた。
一切の枷を外した死柄木弔、魂を喰らう女の後継者は此処までやれるのだと好敵手へそう示す。
そしてそれに応えるように、天使は悪魔の肩をきゅっと掴んだ。
次の瞬間。地獄から来た黒影が、ゆらりと蜃気楼のように揺らぎ。
「――ポチタくん!」
主の号令と共に、彼は一切鏖殺の颶風(かぜ)と化した。
殺す。ただ殺す。
刃を振るって殺す。鎖を振るって殺す。
彼が取る行動にそれ以外のものは一切なかった。
故に、その挙動には一から十までどこを調べても無駄というものが存在していない。
完璧な効率と完璧な精度を実現しながら、悪魔(ヒーロー)は"モノを殺す"ということを突き詰める。
極限まで収斂させた殺意は、現実をもねじ伏せる"絶対"となって具現する。
その証拠が今、この世界に再来した暴走師団を蹂躙していた。
特攻隊長として先陣を切った、金属バットを持った男が斬殺された。
日本刀を握り悪魔に挑んだ副総長が鎖に胴体を切断された。
不退転の覚悟で悪魔の懐に飛び込んだもう一人の副総長もまた、拳が届くよりも速い斬撃で全身を微塵に切り刻まれた。
彼はこれを成し遂げるまでの間に、片手間と余波で4235体あまりの暴走族を殺害している。
そして主要幹部を切り刻み終えるなり、チェンソーマンは587体を殺しながら空に飛び上がった。
鎖を超高速で振り回しながら引き戻すことで2357体を抹殺し。
空へ追いかけてきた198体を、身じろぎひとつせずに斬首する。
-
一瞬の沈黙があって。
次にチェンソーマンが地に向かうべく空を蹴ったのが、終わりの始まりだった。
殺す。殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す
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殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す
殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す
殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す――ただ殺し続ける。
そこには慈悲はおろか、一切の感情すら籠もっていない。
作業的に、事務的に、単なる勝利に近付くための手段として目の前の暴走師団を殺していく。
寄せ集め、烏合の衆なれど十万体いれば格上の喉元にも届き得る。
そんな希望を、この悪魔は少しだって斟酌しない。
-
一分と経過しない内に、聖華天の総軍は半分を割った。
そこから弛れるどころか、更にチェンソーマンは加速する。
殺人扇風機とばかりの回転率で、それでいて肩上の天使には傷一つ負わせることなく、ただ敵だけを殺し尽くすのだ。
結果として。チェンソーマン――暴走師団の十万総軍を一分二十四秒で鏖殺!
そして最後に、空の彼方から飛んできた一発の魔弾。
それを一刀両断し、砕いた風弾の破片を天へと打ち返す。
神と呼ばれた男の似姿の頭蓋が弾けて、風のホーミーズは消滅した。
殺されたのだ。チェンソーマンが、死柄木の無数の手足を一つもいだ。
だというのに何故、この男は笑っているのか。
-
「終わってんな。今のを無傷で凌ぐかよ普通」
根負けにも聞こえる、その台詞。
だがそれをそう認識するならば、分かっていない。
死柄木弔という怪物の真髄を、浅瀬でしか読み取れていないと断言する。
何故、死柄木が暴走師団とチェンソーマンの交戦中に一切横槍を挟んでこなかったのか。
その根拠はひとつだ。彼は、こうなることを予期していた。
時には肩を並べて戦いもしたあの悪魔が、単なる数任せの力押しで倒せるなどとは端から思っていない。
だからこそ、彼は暴走師団を隠れ蓑にしながら次の準備に取りかかっていたのだ。
チェンソーマンにとって、暴走師団は実力で滅ぼし切れる程度の脅威でしかなかったが。
かと言って十万という数は純粋に膨大であり、さすがの彼も無視しながら死柄木に向かえはしなかった。
そこまで含めて魔王の読み通り。だからこそ、彼が潜ませていたこの策が活きる。
「しお。ライダー。お前らは見てたよな、"これ"も」
死柄木の背後に――龍が、とぐろを巻いていた。
この光景そのものを見たわけではない。
だが、こうなり得るものは確かに見ていた。
「もう一度仰ぎ見ろ。これは俺とお前のすべてを尽くした殺し合いなんだから、お前はこいつを知らなきゃいけない」
四皇ビッグ・マム。
追い詰められた彼女が、幼狂の王の決死で掴み取った起死回生の好機。
その瞬間に彼女が何をしたのかを、彼らは知っている。
龍脈の力そのものに魂を与え、その上で取り込もうとしたのだ。
言うなれば龍脈のホーミーズ。
ビッグ・マムはそれをあくまで龍脈の力を完全に取り込むための"手段"として用いたが、既に吸収を終えている死柄木は違う。
彼は自分の体内に巡る龍脈の力をホーミーズ化させ、その上で自分の手駒として扱うことを選んだのだ。
龍脈の龍などという生易しいものでは、当然ない。
死柄木はそれを知らないし、知っていたとしても彼はその程度では満足しなかっただろう。
故に彼が選んだカタチは、彼にとってあまりに大きなとある存在の姿形(ガワ)となった。
実体のない無形の龍が、歪んでいく。
龍体から人体へ、一見すると零落と言っていい変化を遂げる。
だがその認識は、明確に間違いだ。
これは進化である。龍が人に堕ちる、それをもって彼は進化と呼ぶ。
人間を英霊以上の超人に変え得る、絶大なる力の源泉。
それに命を与え、名を与えるならば。
彼が選ぶ銘は、奇しくも先代(ビッグ・マム)と同じだった。
この世のすべてを己の手に収めるための、他の何者も追随を許さない力の極み。
机上の空論(ペーパー・ムーン)を現実に変える出鱈目。
しかしその固定観念を乗り越えて現出したこの荒唐無稽を、そう――
「――――――――"全ては一つの目的の為に(オール・フォー・ワン)"」
-
――オール・フォー・ワンと呼ぶ。
刹那、莫大な衝撃波がチェンソーマンを打ちのめした。
天使を守りながら吹き飛んだ悪魔が、無数のビルを打ち抜きながら消えていく。
その跡に佇んでいるのは、異形と呼ぶべき姿の男だった。
潰れた白紙の顔。そこに繋がれた呼吸器。口元に浮かんだ、悪意に満ちた笑み。
一人の薄汚れた少年を拾い上げ、そして育てた最大の悪の似姿がそこに立っていた。
「……それが」
鎖を手繰り、空を駆け。
戻ってきた悪魔と、先代の魔王がぶつかり合う。
暴走師団とは文字通り格の違う強大さは、悪魔の中の悪魔をしてそう容易く押し退けられるものではない。
何しろこれは、述べている通り魔王なのだから。
死柄木の記憶の中にある恐ろしさと巨大さ、その両方を完全に再現した"先代"なのだから。
「それが、とむらくんの――"先生"なんだね」
「ああ、そうさ。血の通ってない顔をしてるだろ?」
死柄木弔を完成させる目論見は、後からやってきた犯罪の王が奪い取った。
それでも、最初に彼を路傍から見出したのは間違いなくこの男だ。
策謀の冴えでならば後任に劣るだろう。しかし力でならば、その限りではない。
「俺は先生の人形だった。今思えば、まあ……踊らされてたんだろうよ。これと訣別できたことも俺にとっちゃ幸運だったのかもな」
撒き散らされる個性(ちから)、個性、個性、個性――
単なる釣瓶打ちなれど、ひとつとして並の威力はない。
「だが今は違う。元の世界(あっち)に戻れば、先生のことも殺してやるさ。
けど俺は……やっぱりあの人の教え子だからな。最後に共闘戦線といこう」
死柄木と、そして彼が知る限り最強だった男の二段構え。
並び立つ二体の魔王は、チェンソーマンを従えるしおでさえ決して油断できる布陣ではなかった。
絵面だけなら先の暴走師団より遥かに大人しいにも関わらず、覚える戦慄はまさに次元違い。
この二人だけで十万の極道を優に凌駕しているのだと、幼心にしおはそう理解した。
だというのに、一体何故だろうか。
気付けばしおは、理解が追い付くよりも早く笑っていた。
「何故笑う?」
「ふふ、うふふ――ごめんね。なんだか、とむらくんのことをもっと知れた気がして」
これは殺し合いである。
命を削り、世界を冒す。
そんな、互いのすべてを賭した殺し合いだ。
けれど、彼らにだけはそれ以上の価値があった。
だからこそ、彼らは泣きも怒りもしない。
笑いながら、語らうように殺し合う。
涙を流して怒り狂うのはヒーローの役目だ。
そして彼らは、ヒーローではない。
彼らはヴィランなのだから、笑って命を賭け合うのだ。
-
「夢の共闘だな。あんたの計画(プラン)にはなかっただろ、これは」
龍脈のホーミーズ。
この世のすべてを意味する言葉を与えられた魔王の影が、悪意を咲かす。
迸る莫大な魔力は、これまで死柄木が駆使してきたどのホーミーズとも比にならない。
ソルソルの実の能力と、龍脈の力……異なる世界の異なる法則同士をかけ合わせた結果生み落とされた科学反応。
影の指先から、無数の触手が出現した。
悪鬼のものとは質が違う。稲妻を思わす、黒い爪のような触手だ。
這うように襲いかかるそれを、チェンソーマンは切り裂きながら突き進む。
彼の前に敵の強さ、不測の事態は一切関係がない。
敵が増えたのなら、それも殺して踏み越えるのが地獄流だ。
そのやり方は奇しくも、先代魔王が最も苦手とする蛮勇(スタイル)なのであったが、しかし。
「ずっと気味悪く感じてたよ。お前さ、頭のネジがどっか外れてんだろ」
この影は、死柄木弔の抱くかつての"絶対"だ。
だから当然、知っている。共有されている、絶望のビジョンが。
あらゆる奸計を踏み越えて迫り、拳を叩き込んでくるヒーローの影を生まれたその時から脳裏に焼き付けている。
如何に天敵といえども、知っているならば手は打てる。
ただの凡夫ならばいざ知らず、ひとつの社会を陰で牛耳った悪の大魔王ならば。
「お前がただのガキ? 笑わせんじゃねえ。お前は間違いなく、この俺の同類だ」
振るわれた斬撃。
瞬時に八つ裂きにされても不思議でない的確なる多段斬が、しかしひとつも実を結ばない。
それどころか――力(ベクトル)そのものが反転したかのように、チェンソーマンの身体が弾き飛ばされた。
衝撃反転。
龍脈の力の出処である世界になぞらえて言うならば、"テトラカーン"と呼ぶべきか。
そして吹き飛ぶ彼の着地を待たずに放たれたのは、不可視の熱波だった。
電波放出能力。それを突き詰め、極めて殺人的な形に特化させて放つ電磁波攻撃……電子レンジの内側で起こる現象を外に引っ張り出す所業。
これを使われれば、チェンソーマンは跳んでの退却を選ばざるを得ない。
その熱波は彼ならば耐えられる微風に過ぎないが、彼が載せている少女を殺すには十分すぎる攻撃だからだ。
逃れたチェンソーマンの真上から、死柄木が落ちてくる。
翳す右手に満ちていく蒼炎が、悪魔を目掛け放出されるまで一秒と要さない。
巨大な火柱が立ち昇ってチェンソーマンを呑み込み、更にそこへ魔王の影が加撃する。
「今なら分かるよ。俺は、お前を殺さない限り終われない。
俺という犯罪(うつわ)を完成させるには、どうやったってお前の墓標が不可欠だ」
爆心地を囲む形で展開される、数多のパラボラ。
そのすべてが同時に、英霊の肉体に風穴を穿つ破壊光線を射出する。
個性/異能同士の複合は、この影の大元となった男の十八番だ。
更にそれでも足りぬとばかりに、構えた拳へ衝撃を載せて空間をひび割れさせるほどの威力でぶちかました。
『発条化』+『膂力増強×10』+『ダークボール』+『空震』。
空間そのものを震動させて放つそれは、この地にはいない白髭の皇帝の得意技にも似ている。
吹き荒れる大破壊は追い打ちと呼ぶにはあまりにも苛烈。
人間はおろか虫の一匹さえ生存できない熱と衝撃の海の中、しかしまたあの音が響いてくる。
――ぶうん。
-
「俺もお前を知りたい。魅せてみろよ、しお。
ジジイの遺命だ――お前のすべてを殺し尽くして初めて、俺という魔王は完成する!」
破壊光の乱れ飛ぶ中を、文字通り切り進んでいくのは地獄のヒーロー。
英霊にさえ生存圏を確約しない地獄絵図の中、悪の英雄と魔王の影がダンスを踊る。
秒間数十という数の異能には、驚くべきことに一つとして重複するものがない。
龍脈の力と死柄木の記憶を重ね合わせて生み出した、超常個性の万華鏡。
完成した界奏の影を踏む勢いの流星群が、少女の夢を塗り潰さんと嗤い転げている。
「知ってる。だから私も、とむらくんを殺したいの――!」
光を断ち、音を斬る。
雷を喰い、炎を捻る。
既存の科学の範疇に収まる現象は彼らの間に存在していない。
まさに神話の戦いだった。
神の去った地平で繰り広げられる、魔境の戦場がここにある。
膂力強化を施した拳をチェンソーの刃が受け止めた。
殺到した悪魔のチェーンを、血色の鎖が絡め取った。
力比べならば悪魔の側に利がある。だが、それは敵方も承知の上だ。
鎖と鎖の間に成立するわずかな綱引きの時間を拘束に利用し、受け止められた状態から更に膂力を跳ね上げていく影。
そこに筋肉系の発条化を施して乗算すれば、均衡の行方は本来のと真逆になった。
破砕音を立てながら揺らぐ、地獄からの使者。
その隙に、新たに噴出した血鎖が彼の身体を無数に貫いて飛沫をあげさせる。
立て続けに叩き込まれる空震の一撃は、悪魔の全身を粉砕するのに十分すぎる破壊力だった。
更に――畳みかけるような連続攻撃から彼が復帰するのを待たずして、真横から災禍の濁流が押し寄せてくる。
「試したかったんだ。不死身のお前に、俺の崩壊(こいつ)が通用するのか」
チェンソーマンは――こと生きているモノを殺すということにかけて他の追随を許さない。
海賊であろうが、混沌であろうが、天元の花であろうがその例外ではないだろう。
目の前に存在する命を殺す、その一点において彼は間違いなくこの聖杯戦争の最強格である。
だがその彼でも、死柄木の崩壊は防げない。
何しろそこには命もなければ形もない。
ただ押し寄せては、触れたすべてを平らに均していくそういう種類の“厄災”だ。
滅びの厄災。天の星すら崩壊させる彼の“個性”は、チェンソーマンにとってもまごうことなき天敵と言える相性を発揮していた。
だからこそ、最悪の横槍として放たれたそれに対し彼が選べる手は回避以外に存在しない。
そして避けるための動作を挟むということは、それ即ち目の前の影に好き勝手を許すのと同義だ。
「不死身、不滅……俺にとってお前の存在は目の上の瘤みたいに鬱陶しいよ、ライダー。
俺の世界にお前は存在しちゃならない。壊れてもまた蘇る存在なんて、なあ――だから俺は、ずっとお前が嫌いだったんだ」
-
空に逃れるのを許さぬと、足を血鎖が貫く。
ただし今度は単なる足止めには止まらない。
針金のような自在さで成形され組み上げられたのは、悪魔を捉える球状の檻だった。
破られるまでは一瞬。しかしその間なら、確実に悪魔の視界と自由が奪われる。
内側から微塵に砕かれた檻の向こうで、釈放の時を待ち受けていたのは、言わずもがな――
「――ぶッ壊れろ」
破壊の貴公子、地上の魔王に他ならない。
彼はこの極短期間で、幾度も脅威に直面した。
生きるためというこの世の何より重い理由に背中を押されて獲得してきた経験値を、今の彼の身体は120%糧にできる。
だからこそ、ここで彼はまた一つ偉業を成し遂げた。
チェンソーマンが放ってくる音速超えの殺刃を、数百体の敵をもたちまち膾斬りにできるその死線を、たかだか致命傷程度で押し留めながら捌いてみせたのだ。
千切れかけた腕。半ばで断ち切られた左足。
胴体に刻まれた太刀筋は心臓に達しているが、せいぜいその程度。
脳が生きているならば。首が繋がっているならば。
彼こそは不滅のマスターピース――それしきの流血は無と等しい。
崩れ落ちる鎖獄、それそのものが死を纏って降り注ぐ。
振り回されるチェーンを使い捨て、トカゲの尻尾切りのように途中で自ら切断することで崩壊を防ぐが、後手に回ってしまうのは否めない。
その一秒を魔王が握り砕く。伸ばされた手が、遂にチェンソーマンの腕に触れた。
刹那にして始まる崩壊の伝播。防ぐ手段は、やはりというべきかひとつしかない。
崩壊が胴体に達する前に右腕を切り落とす。
それと同時に前蹴りで魔王の腹を蹴り抜き、脇腹を中心に胴体の半分を消し飛ばした。
瞬時に猛追へ切り替えた悪魔を、先代の影が嗤いながら相手取る。
常ならば容易く相手取れた借り物の乱舞、しかしそれも文字通りの片手落ちとあっては――
「■■■■■■……!」
「きゃ、っ……!」
腹に叩き込まれた重撃が、チェンソーマンの胴体をくの字にへし折って宙へかち上げた。
押し寄せた衝撃に、肩上のしおが小さな悲鳴を漏らす。
そこを狙う黒鎖の一撃は当然ながら致命であって、彼女が駆る悪魔は我が身を犠牲にしてでも撃ち落とすしかない。
彼は極めて、極めて優秀な天使の走狗(しもべ)だ。
彼がついている限り、如何に死柄木と言えどもしおを殺すことは限りなく不可能に近いだろう。
だが、守るものを抱えて戦う行為はどんなに秀でた英雄にさえ致命的な隙を作り出す。
死柄木と、彼が再現した影。その両方ともがよく知る、ヒーローの殺し方。
「そこだ。撃ち抜け、"先生"」
先公譲りの悪意を煮詰めた命令(オーダー)が下るのと。
嗤う悪心影の右腕から、黒い流星とでも呼ぶべき光が放出されるのは視覚的にほぼ同時のことだった。
龍脈の龍が会得していた魔法のひとつにして、かの理の参照元である世界でもハイエンドに区分される一撃。
名をメギドラオン――数刻前には禍津日神を僭称した蘆屋道満が振るい、英霊三騎相手に痛打を与えた大魔法。
今、オール・フォー・ワンが放ったのはそれだ。だがそこは悪の極み、数多の個性を束ねて我が物として運用していた先代魔王。
手持ちの異能を駆使して、本来広域を破壊する用途で放つ筈のメギドラオンを一点に圧縮/収束。
その上で一筋の流星として、最大の貫通力と収束性を与え解き放った。
まさに闇の天霆(ケラウノス)。
ただでさえ回避不能と言っていい初速を帯びて放たれたその極光を、全英雄共通の弱点にねじ込む形で放ったならば。
あらゆる行動の余地を奪い去りながら、魔王の悪意は必中する。
――黒が、崩壊都市に一瞬の静寂を生み。
――崩壊の未来を遮っていた目の前の壁に対し、文字通りの風穴を穿った。
-
悪魔の胸に穴が空いている。
皇帝にさえ致命を刻み、鬼の始祖を餌として貪った地獄の英雄の心臓が、消し飛んでいた。
彼の膝が地面に落ち、まるで疲弊した走者のように荒い呼吸音が乱杭歯の覗く口元からは聞こえてくる。
いまだかつてない、ともすれば"死"よりも激しい消耗が、その弱々しい姿からは窺える。
「さあ」
道化を演じた不死身の超人。
誰もに愛された義侠の風来坊。
そして、銀河を駆ける海洋王。
三人の"希望"を屠った、"絶望"の権化。
ヒーロー殺しの魔の手が今、その遍歴に地獄から来た英雄の名を刻まんとしていた。
両手を広げ、強さを誇示して謳うは白き魔王。
黒き先代を侍らせて、今こそ新たに唯我独尊(オール・フォー・ワン)を掲げている彼を。
天使の少女は、ただ見ていた。今まさに希望をへし折られ、砂糖菓子の夢をコールタールのような苦味で蝕まれつつある少女は。
今まで自分がどこか軽く口にしてきた、乗り越えられるものと信じていた最後の課題の重さを思い知っていた。
「どうする、天使」
崩壊の手が、心の中の瓶へと伸びてくる幻影。
もはや甘さでも苦さでもない、破滅の予感を天使は確かに見る。
これが、死柄木弔。これが、自分が共に歩んできた男。
神戸しおにとっての二人目の"友達"で、超越しなければならない"敵"。
すべてを崩す魔の手が、大切なものを入れた瓶に触れて。
あまねく希望と未来が、一息のうちに崩れ落ちる。
絶望に包まれて崩れていくその一瞬に、少女が思ったのは――
「……やっぱり」
諦めでも、怒りでもなく。
むしろ、納得にも似た感情だった。
「とむらくんは、強いね」
そんな、分かりきっていたことを呟いて。
神戸しおは、へらりと笑った。
◆◆
-
心の中の、秘密の瓶。
砂糖菓子をふたつ入れた、彼女が信じる永遠そのもの。
それに触れた絶望の手、その幻影が弾かれて逆に崩れる。
その光景を幻視しながら、しおは自分に言い聞かせるように頷く。
――とむらくんは強いね。
神戸しおは、ずっとそのことを知っていた。
何故なら誰より近くで見てきたからだ。
どんな強大な敵にでも笑いながら向かっていく彼の背中を。
世界そのものをさえ壊しながら、自分の理想へ邁進していく魔王の強さを。
簡単に勝てるなんて思っていたつもりはないが、それでもまだ足りなかったということらしい。
緊張で乾き切った喉を唾液で潤しながら、しおは改めて彼の姿を見た。
純白の滅び。身体中血と傷にまみれているのに、不敵に笑い続けるその姿が見た目よりもずっと大きく見える。
それを、しおは"怖い"と思った。
それはいつぶりの感覚だったろう。
さとうを失ったあの日から、一度だって抱いたことのない気持ちだったのは間違いない。
無敵の愛で世界を荒らす天使を、ただの子どもへ戻してしまう恐怖が目の前に立っている。
怖い。この気持ちは、きっと嘘じゃ誤魔化せない。
なのに――
「がんばって。私も、がんばるから」
この口が、自然と笑顔を浮かべているのは何故だろう。
こんなにも恐ろしいのに。
生き物としても、願いを追う者としても、死柄木弔という魔王をこんなに恐れているのに。
不思議と心が揺れている。恐怖とは違う震えで、瓶がからから音を立てているのが分かる。
伸ばしたちいさな手で、スターターを引いた。
今まさに尽きた命が、再起動される。
胸の真ん中に空いた穴は塞がっていない。
バケツをひっくり返したような血を河のように垂れ流しながら、それでも悪魔は立ち上がった。
少女の意のままに。揺れ、震えるその気持ちに応えるように。
「とむらくんはさ」
しおは、この情動に与えるべき名を知らなかった。
理解できなかった、という方が正しいだろうか。
神戸しおは運命を背負うにはあまりに幼くて、敵を名乗るにも未熟すぎたから。
だから定義する代わりに、彼女はとある記憶を思い出していた。
それは死柄木弔と出会う更に前、安くて狭いマンションの一室で過ごしたひと月のこと。
テレビの前に座って、コントローラーを握って、隣の彼と勝負をする。
大人気なんてあるわけもない彼だから、最初のうちはまったく勝てない。
そのうち自分もムキになって、熱中しているうちにだんだん勝てるようになってきて。
そうやって遊んでいる時の気分が、強いて言うなら近いのかもしれないとそう思っていた。
そして今、言葉を重ね、物語を重ねてしおはその"初めての気持ち"に名前をつける。
「今まで、たのしかった?」
「あ?」
「連合のみんながいて……えむさんがいて、らいだーくんがいて、私がいて。
海賊さんたちとたたかって、なにもかもめちゃくちゃにしてきたよね」
-
何かを愛すること。
それは、すべてを失くした少女が得たたったひとつの尊いもの。
神戸しおという少女は、間違いなくただそれだけを追い求める存在だった。
松坂さとうから継承した狂おしいまでの愛情、それだけを糧に歩む翼のない天使。
彼女にとって、世界とはすべてがうわべだけのハリボテで。
価値のあるものは、もうどこにもいないさとうと、さとうと過ごしたあのお城だけ。
そうだったし、それでいいと思っていた。
それが変わったのは、この世界に来てからのこと。
「私は……楽しかったよ」
ああ、私は楽しんでいたんだな、と今なら分かる。
敵連合は、しおにとって間違いなく拠り所だった。
もうやめてしまった筈の家族にも似た、そんな温かい場所だった。
この胸の奥で今も痛み続ける愛さえなかったなら、しおは喜んで連合の幸せのためにすべてを尽くしていただろう。
「とむらくんは、どうだった?」
それでも、しおにはもっと大切なものがあるから。
じゅくじゅくに膿んだ生傷みたいに痛みをくれる、甘い甘い記憶があるから。
桜の木の下で、あの人に抱き締められていた時のことを覚えているから。
だから神戸しおは、楽しかった思い出に、大好きだった連合(みんな)に"さよなら"をする。
最後の問いかけに、死柄木弔は押し黙った。
「――――」
何故そうしているのか、自分にも分からない。
ふざけた問いだ。一蹴してしまえばいいだけのことだ。
なのにどうしてか、吐き捨てる筈だった言葉が喉の奥につかえている。
「――――俺は」
この世界での敵連合は、元いた個性社会の同組織とは似て非なるものだった。
何しろ目指す場所が一部の例外を除いて全員違ったのだ。
だから裏切りも起きたし、こうして連合の主要メンバーと殺し合う羽目にもなっている。
単なる呉越同舟、百パーセント利害の一致だけで結成された悪の寄り合い。
過ごした時間も共にした成長も、本来の連合の面々とは比較にならないほどわずかだ。
仲間、という呼称すら大袈裟に思えるような薄っぺらの同盟関係に未練などあろう筈もない。
「――――そうだな」
にも関わらず、王手を突きつけた少女の放つ言葉がやけに重たく胸に響くのは何故なのか。
……それが分からないほど、今の彼はもう幼くなかった。
「まあ――――楽しかったよ」
言葉に出して、らしくないこともあるものだと驚く。
どうやら自分もまた、あの希薄で歪な集団に思いのほか価値を見出していたらしい。
-
驚きではあったが、辻褄の合うこともあった。
裏切り者の星野アイに対し、柄でもなく弔いじみた真似をしたことも。
田中一という毒にも薬にもならない駒との約束をわざわざ果たしてやったことも。
そんな今思えばらしくない数々の行動も、要するに連中のことを少なからず気に入っていたからこそのものだったのだろう。
そしてそれはきっと、眼前の彼女も例外ではないのだ。
越えるべくして用意された相棒。ジェームズ・モリアーティの、もうひとりの教え子。
「そっか」
「よく笑う奴だよな、お前は」
「うん。友達と同じ気持ちだと、やっぱりうれしいよ」
「背中が痒くなるようなこと言うんじゃねえよ。こちとらもうそんな歳じゃねえんだ」
死柄木の手が、龍脈のホーミーズたる魔王の影の肩に触れる。
次の瞬間、彼の身体を突き破るようにして無数の"力"が形を持って噴出した。
「お前、学校に行ったことはあるか?」
「ないよ。とむらくんは?」
「俺もない。だからまあ、実際に経験したわけじゃねえが」
喩えるならば、それは百鬼夜行の如き現象だった。
元の五体がどこにあったのか、それすら見失う勢いで噴出と膨張を繰り返していく体躯。
異形は異形でも、峰津院大和が従えていた龍脈の龍とは似ても似つかないグロテスクなキメラだ。
死柄木弔が龍脈のホーミーズ/オール・フォー・ワンに搭載したあらゆる異能が、用途も相性も一切合切無視して強引に外へ引き出されている。
「チャイムが鳴れば、それで終わりなんだとよ」
オール・フォー・ワンは、死柄木がかつて信じていた力の象徴だ。
彼を信じ、彼を慕い、彼の言葉を聞いて社会のゴミなりに大きくなってきた。
今になって思えば自分のすべては彼の手のひらの上、彼の目的を遂げるための"手段"でしかなかったのだろうと思うし。
彼の理想に殉ずるために生きてやるつもりなど、今はもうひと欠片だってありはしない。
それでも、彼の存在が死柄木にとって今も変わらず巨大であることに変わりはない。
その力、その悪意、そのすべてが今も死柄木の心の中に残光あるいは傷跡として焼き付いている。
何かを信じる力は脅威だ。それは、時に道理を超えた力を生み出す。
死柄木弔の中に残るかの先代、死柄木弔の信じたすべてを投影して生み出したのがこの"龍脈のホーミーズ"だ。
「学校を出て、手を振ったらそれぞれの帰り道にさよならだ。
俺はそれを知らないが、お前の言う"友達"ってのは所詮そんなもんなのさ」
死柄木は今――そんな最高傑作のホーミーズを一度きりの最終兵器として射出しようとしている。
間違いなくそれは、今の死柄木弔にできる最大の攻撃手段だった。
それを今此処で開帳するその意味は、しおにも分かる。
「連合(おれたち)も、そろそろ下校の時間だろ」
-
彼は今、さよならをしようとしている。
手を振るなんて仲良しこよしなやり方は悪党達(ヴィラン)には似合わない。
お別れをするなら、ありったけの殺意でやるのがヴィラン流だ。
いつまでも続く遊びの時間なんてありはしない。どんなに気の合う友達でも、結局のところ家路についたらただの他人なのだ。
「お前にとっての松坂さとうが、俺にとってはこの人だった。
ドブネズミみてえに街の片隅で腐ってた小汚いガキを拾い上げて、魂胆はどうあれ育ててくれた"先生"さ。
此処に来てジジイに出会わなかったら、今も変わらずそうだったろうな」
後に控えるフォーリナーとの決戦に温存しておく選択肢ももちろんあった。
なのにそれをしなかった理由は、それだけ目の前の敵を評価しているから。
そして、彼なりの"相棒"に対する餞だったのかもしれない。
不本意ながら悪くないと感じていたあの時間、あの集団。
敵連合という教場を締め括るために放つ、下校のチャイムこそがこの最大攻撃だった。
「その記憶のすべてをこれからお前達にぶつける。
それで……さよならだ」
楽しい時間は早く過ぎるもの。
始まりがあれば、終わりがいつか必ずやってくる。
「そっか」
しおは、わずかな寂しさを感じながら納得したように頷いた。
この寂しさという感情自体、"彼女"以外に向ける日が来るとは思わなかった情動だ。
今までならば、しおはそれを抱くことを胸に抱く愛を裏切る行為だと信じて疑わなかったろう。
だが今は違う。今の彼女は、愛を抱きながら他者の存在を受け入れることを覚えた。
連合とのいびつな絆と。
お城とはとても呼べないような散らかった部屋で過ごしたひと月と。
アイドルの少女から受けた、お日さまのように温かい言葉がしおにそれを教えてくれたから。
「私たち、始まりはおんなじだったんだね」
ふたりとも、始まりは社会の片隅でだった。
孤独からすべてが始まった。運命のような出会いを経て、大きくなった。
そうして巡り合った、敵連合の双翼。
相棒で、共犯者で、宿敵で、たぶん友達だった二人。
けれどその終わりがお互いの否定だったことは、たぶん必然だったのだろう。
同じ始まりから育ってきたふたつの器。
ひとりは愛を見た。そしてひとりは、悪を見た。
そして今、愛の器と悪の器は対峙している。
その因果と友情は、殺意でもって終わるのだ。
「楽しかったよ。ありがとう」
「じゃあな。もう会わないことを祈るよ」
悪魔が、立ち上がって。
魔王が、手を伸ばした。
母に/社会に棄てられた二人の繋いだ手は此処で途切れる。
一瞬の静寂が、感傷のように世界を包んで。
ふたりの声で、本当の終わりが始まった。
-
「全因解放――――"全ては一つの目的の為に(オール・フォー・ワン)"」
「――――やっちゃえ、チェンソーマン!」
◆◆
-
あらゆる色の絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜ合わせたみたいな混沌だった。
ツギハギと呼ぶのさえ過大評価に思えるような、お粗末すぎる力の塊。
全因解放。一つの目的を達成する為に全てを費す、魔王の精神性のその具現。
それを前に地を蹴ったチェンソーマンの身体は、既にすべての再生を完了している。
その証拠に、胸に空いていた風穴は完全に塞がっていた。
最後の最後に飛車角落ちだなんて無粋はない。
全霊対全霊。最終局面に相応しい力と力が、今真っ向から相対する。
チェンソーマンは不死身の悪魔だ。
彼にとっては心臓を破壊されることも首を千切られることも滅びを意味しない。
しかし、今の彼は神戸しおを守るという重荷を背負わされている。
彼だけが生き残っても意味はないのだ。しおが死ねばその時点で、死柄木の勝利が確定してしまう。
そしてその点、今目の前にある最大攻撃は凡そ最悪の相手と言ってよかった。
何しろ単純に力として強大すぎる。
直撃はおろか、その余波でさえしおの全身が吹き飛ぶ対城砲撃だ。
これならば形のない自然現象の亜種に過ぎない"崩壊"の方がよほど与し易かったし、死柄木もそう考えてこの鬼札を切ってきたのだろう。
優位に立つのは死柄木弔。
チェンソーマンは挑戦者だ。
魔王の悪意に立ち向かう、勇者のようなもの。
奇しくもこの場でさえ、彼らはヒーローとヴィランの構図から逃げられないらしい。
残骸未満の瓦礫。
かつて街だった粉塵の地平。
そのすべてを文字通り平らげながら、異能の暴風が迫る。
咆哮にも似た轟音をあげるそれとは対照的に、チェンソーマンは静謐を保っていた。
地を蹴り、空へ舞う。
今度はそれは、逃げの一手ではない。
立ち向かうためにこそ空を、高度を使う。
悪魔の脚力で到達可能な最高高度に達した時点で、彼は重荷を"投げ捨てた"。
死柄木としお、双方の顔に驚きが宿る。
最初にそれを消したのは、しおの方だった。
自由落下に身を委ねながら、それでも遠のいていくその背中を疑わない。
ふわり、ふわりと、天使が来臨するように少女が墜落していく。
天使の背中に翼はない。彼女はそれを捨ててしまったから。
天使を空に置き去りにして、悪魔はかつて魔王だったモノへと突き進む。
――ぶうん、と、彼の刃が哭いた。
敵は数百数千の群れを束ねたレギオンだ。
対するチェンソーマンは、圧倒的に孤軍である。
しかし孤軍にありながら、悪魔は殺意を掻き鳴らす。
終線(DEAD LINE)を、踏み越えていく。
-
チェンソーがまず、全因の先頭に鎮座する先代魔王の頭蓋を割った。
それは事態の解決には繋がらない。
どだい命の存続など度外視した砲撃なのだ、急所などあってなきが如し。
その証拠に、チェンソーマンの身体は瞬く間に死の河へと呑み込まれていく。
微生物一匹の生存さえ許さない、あらゆる命を芥子粒のようにすり潰す濁流の中に消えた悪魔。
だというのに――だというのに、ああ何故。
何故、音がやまないのか。
何故、あの音が。
地獄で殺しに明け暮れる億千万の悪魔たちが震え慄いたあの音が、響き続けているのか!
血飛沫があがる。
それは彼の血飛沫であって、しかしそれだけではない。
解放された異能達のあげている鮮血が、撒き散らされる瀑布のような血飛沫の九割以上を占めていた。
そう――彼は、殺しているのだ。
自ら河の中に身を投げて、そこに棲まうすべての力(いのち)を殺している。
チェンソーで斬る。裂く。割る。削ぐ。刻む。粉々に砕いて、他の血肉と混ぜて塵にする。
暴走師団聖華天の再現を前にやったことと、彼の取っている攻略法は何ひとつ違わない。
まったく同じだ。すなわち一切鏖殺、チェンソーマンは解き放たれた百鬼夜行のそのすべてを殺そうとしている。
響く斬音、肉が裂けて骨が砕ける音。
そのいずれもが、彼の奏でる終末数え唄。
彼の繰り出す刃が一秒ごとに星々の葬列を連ならせていく。
それはさながら、地平の彼方までを埋め尽くす蝗の群れを一匹ずつ叩き殺すような所業。
夜空の星を全滅させることを本気で目指すように意味のない、遂げられる筈もない難業だ。
しかし彼も、彼女も、その行動を無謀だとは微塵も思っていなかった。
彼らは知っているからだ。この悪魔が、この英雄が、どれほどめちゃくちゃな生き物であるのかを。
実際に目の当たりにし、時には命さえ救われてきたからこそ――この悪魔ならばやってのけると本能がそう確信させるのだ。
-
天使の来臨を背に。
悪魔が、魔王の影を虐殺する。
恐るべきことに、全因解放の進軍が止まっていた。
完全な停止でなくとも、限りなくその歩みは遅々となっている。
チェンソーマンが片っ端から殺しているから、軍勢そのものが物理的に削られている故の停滞。
魔王の影は、チェンソーマンを喰えていない。
この恐るべき悪魔を、咀嚼できていない――!
そして。
ひときわ大きな"ぶうん"が最後に響くと同時に、大気を引き裂くような轟音が響いた。
それは魔王の絶叫。すべての夢が潰えて散る、大悪党の断末魔。
その叫喚を合図にしたように、死の河が破裂した。
-
全てを集めて一つにしても。
彼は、彼らは、ひとりの悪魔を殺せなかった。
飛び散る血肉が、黄金色の粒子に変わって溶けていく。
サーヴァントの消滅にも似たその光景は、オール・フォー・ワン……龍脈のホーミーズが完全に死亡したことを物語っていた。
しおの身体を、そのタイミングで一本のチェーンが絡め取る。
そして優しく、抱き上げた子どもへそうするように穏やかに地面へ下ろした。
チェンソーマンにとって、しおを抱えながら目の前の災禍に対応するのは確かに難題だった。
しかし荷物を一度放り捨て、投げたそれが地面に叩き付けられる前に事を済ませるのなら可能だった。
だから実行した。その上で、抹殺も救助もどちらも成し遂げた。
完封、である。死柄木弔の全力は、この悪魔にとっては次のタスクを控えさせながら捌ける程度の脅威でしかなかったのだ。
「マジで化け物かよ、お前」
死柄木は全力を出して尚、敗れた。
その結果は揺るがないし、言い訳のしようもない。
だからこそ彼は呆れ返ったように嘆息した。
強さ比べの結果は、もはや火を見るよりも明らか。
「やっぱり、ままならねえなあ――」
完敗である――ただし。
最後の勝ちまで譲ってやったつもりはない。
「念には念をで、準備しといてよかったぜ」
-
舞い散る血飛沫、全因の肉片が舞う空の中で。
事をやり遂げた悪魔に向けて、接近する影があった。
全因解放の一撃が本命だったのは本当だ。
死柄木は本当に、先の一撃でもってチェンソーマンをしお諸共に消し飛ばしてやるつもりだった。
だが万が一、億が一それが叶わなかった時を想定しての備えを、この魔王は潜ませていたのだ。
それは間違いなくこの界聖杯で学んだこと。
物事は、大体の場合で想定通りには進まない。
圧倒的な力の差があるのに苦戦する、殺されかける。当てが外れる。
この世界で何度も味わされてきた挫折と苛立ちが、彼に"もっと先へ(プルス・ケイオス)"を促した。
・・・・・・・・・・・
そう、こんなこともあろうかと。
死柄木は全因解放の巨体を影に、既に攻撃の準備を進ませていた。
河の末尾に触れ、崩壊の伝播を開始させていたのだ。
悪い予想は当たり、チェンソーマンは死の河を泳ぎ切った。
そこに宿るすべての因果を鏖殺し、自分の算段を頓挫させてくれた。
だからこそこの瞬間、打っておいた布石が活きる。
「――――――――」
舞い散る血飛沫、肉片。
その中に混ぜられた崩壊の存在に気付いたチェンソーマンに、逃げ場はしかしどこにもない。
死の吹雪が彼の身体に一つ二つと触れていき、接触の度に彼の輪郭を文字通り崩していく。
「残念だったな、ヒーロー」
両腕が欠けた。両足がもげた。
それでも魔王殺しを成さんとする悪魔の心臓に、突貫した魔王の右手が触れた。
チェンソーマンは、チェンソーの悪魔は不死身の存在だ。
しかし彼は今、どうしようもなくサーヴァントという枠組みに縛られている。
要するに零落である。ひとつの都を脅かした祟り神が、チープな怪談のひとつに貶められるように。
その不死性は完全なようで、あくまでも道理の内側に収まる不死(しなず)へと零落している。
だからこそ。
存在のすべてを凌辱し、魔力のような無形の概念さえ崩壊させる魔王の"個性"の直撃は、今の彼にとって間違いなく"致命"だった。
「これで……」
悪魔の身体が、白く染まり。
そして、網目状に亀裂が走った。
最後、その口は何かを言わんとするように微かに動いていたが。
それ以上の生存を、崩壊の魔王は許さない。
「――俺の、勝ちだ」
チェンソーマンが、空に消える。
崩れて、溶けて、風に乗って消えていく。
嵐の去った地平に立つのは、死柄木弔。
連合の双翼による最終決戦の結末が、そこにはあった。
【ライダー(チェンソーの悪魔)@チェンソーマン 消滅】
◆◆
-
その光景を、神戸しおはどこか他人事のように見つめていた。
あ、負けたんだ、と理解が追いついた頃にはもうチェンソーの悪魔はどこにもいなくて。
へたり、と地に座り込んだしおの視界の中には、佇む死柄木の姿があるだけだった。
「……ポチタくん」
声に出して名前を呼んでも、返事はない。
生き返らせるためのスターターロープも崩れてしまってどこにもない。
完全なる詰みが、敗北が、まっさらになった大地の中に漂っていた。
「これが……お前の、そして俺たちの終わりだよ。神戸しお」
魔王が、否、死神が歩みを進める。
逃げようという気にはなれなかった。
そうしようにも、どうしてか足が動いてくれないのだ。
腰が抜けているのではなく、力が抜けている。
終わってしまったことに対する理解が追いついていないかのように、身体が反応してくれない。
――負けちゃった。
敗北するのは、これが初めてではない。
破竹の勢いで勝ち進んできたように見えて、しおは何度も負けている。
けれど今回のそれは、今までのとはまったく話の違う敗北であると幼いながらに彼女は理解していた。
「俺は、願いを叶える。聖杯を手に入れて……目障りな何もかもを、この景色みたいにまっさらにブチ壊してやるんだ」
どうしよう。
考えてみても、答えなんて出るわけもなかった。
神戸しおは非力だ。
心に何を飼っていても、彼女に現実を変える力はない。
モリアーティのヒントで見出した技巧(スキル)も、この状況では焼け石に水でしかないだろう。
それに、あんな猫騙しのような芸当がこの魔王に通じるとはどうしても思えなかった。
仮にこの足がちゃんと動いて、背中を向けて逃げ出させてくれたとしても、結末は何も変わらないに違いない。
軽いひと撫でで都市ひとつを更地に変えられるような巨悪に、齢一桁の幼女がやれることなんて何ひとつありはしないのだ。
「だから、お前は」
どうしよう。
約束したのにな。
さとちゃん。
せっかく、二回も助けてもらったのに。
「その"愛"を抱いて――――此処で死ね」
魔王の手が、少女の顔へと伸びてくる。
それを避ける手段はないし、避けたところでどうにもならない。
ハッピーシュガーライフは、二度と紡がれない。
彼女達の"愛"は、この時をもって永久に途絶する。
砂糖少女の献身は実を結ばず。
蒼き雷霆の想いは空を切る。
ふたつの砂糖菓子を収めた瓶に、絶望というコールタールが流れ込んでいく。
最期はヴィランでもなければ天使でもない、ただの歳相応の無力な子どもとして。
神戸しおは、撫でるような"死"に呑まれた。
-
「――――けて」
-
――響き渡る"その音"さえなければ。
ぶうん。
◆◆
-
夢の中にいるみたいな、ふわふわした感覚に包まれながら少年は目を覚ました。
現実世界、少なくともあの界聖杯深層でないだろうことはすぐに分かった。
というよりこの光景自体覚えがある。
懐かしい、いつかのボロ屋。
小さな悪魔の友人と一緒に過ごしてきた、言うなれば生まれ故郷の景色だ。
『ポチタ……?』
彼は、少年に背を向けてそこにいた。
小さな体躯が、白く染まっている。
まるで灰みたいだとそう思い、手を伸ばそうとしてすぐに『だめだ』と制止された。
とっさに手を引っ込めた少年に、悪魔は少しだけ笑った気がした。
『■■■は、あの子が好きかい?』
そう問われて、少年は言葉に窮してしまう。
Loveかどうかを聞いているんじゃないことは分かった。
でもこの気持ちが、果たしてLikeなのかいまいち判断がつかない。
なんだって今そんなことを聞くんだよ、とも思って。
そこでようやく気が付いた。
目の前で崩れていく友人の身体。
その崩壊を、彼は知っていた。
『あいつはさ、どうしようもねえクソガキだよ』
何が起こったのかをすべて理解し、少年は口を開く。
此処でこうしていられる時間はきっと長くはないだろう。
それどころか、果たしてこの先があるのかどうかも分からない。
だからこそ、答えなければならないと思った。
この質問にだけは、答えてやらなきゃいけないのだと思った。
『信じられるかよ、あの歳でとんだ色ボケなんだぜあいつ。
窓辺に座って、ウットリした顔で死んだ女の昔話聞かせてくんだよ。
もう慣れたけどよ、最初はマジで勘弁してほしかった。いっそ鞍替えでもしちまおうかと思ったこともあるぜ』
けど、と続ける。
そこで言葉に詰まった。
はて、どう言語化したらいいものか。
迷って、悩んで、仕方ないので雑に絞り出すことにする。
『けど……今思うとさ、けっこう悪くなかったんだ』
要するに結局、自分も彼女をそれなりに気に入っていたということなのだろう。
なんだか負けたような気がしないでもないが、こうなっては認めるしかなかった。
-
昔、ひとつ屋根の下に三人で暮らしていたことがあって。
遠いいつか、別な誰かと二人で暮らしていたこともあった気がする。
そんな、懐かしくて名残惜しい、そんな日常が確かにあの世界にはあった。
『俺は、きっと』
いつか繋いだ手を、開いて。
視線を落として、少年は言った。
『あいつに、勝って欲しいと思ってる』
『そうか』
わん、と悪魔が今度は確かに笑った。
『私も、君があの子と遊んでるのを見るのが好きだったよ』
世界が、白く崩れていく。
"あいつ"の力が、もうじきに此処を覆い尽くしてしまうのだと分かった。
振動と轟音がけたたましく響く追憶(ゆめ)の中で、けれど友の声ははっきりと聞こえる。
『これは契約だ、■■■』
『おい、ポチタ……!』
『私の心臓をやる。かわりに――』
遂に足元までもが崩壊した。
果てがあるかどうかも分からない奈落に落ちながら、少年は消えていく友に手を伸ばす。
でもその手が、伸ばした腕が何かに触れることはなく。
代わりに彼のからっぽの身体に、何かあたたかいものが入ってくるのが分かった。
『――しおちゃんを助けてあげなさい。ほら、あの子が君を呼んでるよ』
◆◆
-
伸ばされた、死の腕。
少女のすべてを終わらす筈の"崩壊"が、その黒髪に触れる寸前で断ち切られた。
地面に落ちる右腕を、しかし死柄木もしおも見ていなかった。
ふたりの視線は、結末の定まった運命に割り込むようにして現れたその少年へ注がれていた。
「……正直言うとな。俺も物足りないと思ってた」
チェンソーの悪魔は魔王の滅びに喰われ、風に吹かれて消え去った。
本物の不死を聖杯戦争の舞台で、サーヴァントの身では体現することができない。
だからこそ、今ここに彼がいることは道理から考えて絶対にあり得ない事態だった。
神戸しおのライダーは、チェンソーの悪魔という本体を格納するための“乗り物”である。
言うなれば本体、霊核そのものがかの悪魔であって、普段表に出ていた彼は悪魔の不在を埋め合わせるための代役でしかない。
主役が去ったのなら舞台は終わる。
心臓が止まったのなら肉体は止まる。
本体なくして付属品だけが自律行動するなど、どう考えても道理に適わない。
――その"代役"が、"主役"となり得る資格を得でもしない限りは。
「あの殺人鬼には世話になったが、そいつのサーヴァントって言ったらやっぱりお前だろ。
そうだ、そうだな、そうだよな――俺達が決着をつけるってんなら、本当に殺さなくちゃいけないのは奴じゃなくてお前だったんだ」
チェンソーの心臓を搭載した武器人間の少年は、愛をもって支配から脱却した。
そこから始まるのは彼の物語だ。
檻の中から檻の外へ、首輪もリードも外されて駆け抜けていく。そういう歴史を、この少年は確かに経験している。
それは本来ならば呼び起こされることのなかった記憶。
支配の悪魔を殺し、彼女の陰謀を打ち砕いたという反逆者の逸話を参照して召喚された彼には生涯縁のないままで終わる筈だった未来(かこ)。
浮上しない筈の記憶を呼び起こさせたのは、召喚された彼が置かれた環境そのものだった。
狭い部屋の中で、ちいさな同居人と暮らす。
悪い意味で年齢離れした言動と性格に振り回されながら、彼女と四六時中を共にする。
そうして、ちいさな砂粒を積み上げて山にするみたいに少しずつ絆を紡いでいって。
彼女のために生きて、戦う――あの檻を抜けた少年の人生をなぞるような一ヶ月間の戦いが、奇跡を起こす呼び水となった。
そして、消えゆくチェンソーの悪魔と交わした最後の契約。
その縛りが、悪魔と人間の契約という魔術的に見ても大きな意味を持つだろう工程が。
達成されていた条件と合わさって、この状況を実現させていた。
「――ごちゃごちゃうるせえよ。ったく、ポチタもこんな糞野郎に負けんなよな。せっかく気持ち良く寝てたってのによ〜……」
負けて、死ぬのを待つだけだったしおの前に立つ背中がある。
その背中を、しおは知っていた。
この世界で誰よりも間近で、ずっと見てきた背中だった。
――霊基再臨。
容れ物でしかなかった少年は、こうして彼自身の物語へと到達する。
チェンソーの悪魔が消滅するその寸前に、彼と契約しその心臓だけを受け継いで。
もう付属品などではない、正真正銘一体のサーヴァントとして再臨するに至った。
「……らいだーくん」
「おう」
彼の名は、チェンソーの悪魔に非ず。
しかし人は彼を、悪魔と同じ名で呼んだ。
チェンソーマンと。悪魔を殺す悪魔として、彼をこう扱ったのだ。
「あのね。ポチタくん、いなくなっちゃった」
「知ってるよ。さっき話してきた」
「おねがい。一個、してもいい?」
「んだよ」
すなわち。
ヒーローと。
「たすけて、らいだーくん」
-
返事はなかった。
そんなもの、必要でさえなかった。
いちいち答えてやるのも気恥ずかしい。
少年は、デンジは、ただ黙って一歩前へ出る。
「遅かったな。ようやくケツに火が点いたか?」
「おかげさまでよく寝れたよ。ポチタに手こずってくれたお前のおかげだ」
それを受けて立つように、魔王は足を止めた。
正面から再び対峙する、白き魔王とチェンソーマン。
もう、悪魔と魔王の殺し合いではない。
これは。野良犬のように生きた、人間と人間の喧嘩である。
「行くぞ、死柄木」
「来い、ライダー」
正真正銘、此処からが最終決戦。
都市を滅ぼす火力の応酬にはならないだろう。
先の戦いに比べれば、これから始まるのはきっと驚くほど小規模で見栄えのしない戦いになる。
チェンソーの刃音が、高らかに嘶いて。
再生を終えた魔王の右腕が、迎え撃つように突き出された。
その光景を、誰かにさよならをするための戦いを、しおはやはり見つめるだけで。
どこまでも無力な少女の口が、小さく動く。
「……がんばれ」
これは、彼女のための英雄譚。
本当にちっぽけな意地のぶつけ合いが、彼らに相応しいゴミ溜まりの街で幕を開けた。
-
投下終了です。
-
投下します。
-
……霧子も、にちかも。
その光景を、ただ無言のままに見つめていた。
場所は東京スカイツリー。最上階、天望回廊。
そこからは、死柄木弔と神戸しおの決戦の図がはっきりと見通せた。
始まりの時間、そこにあった筈の街並みはもう影も形も残っていない。
改めて実感する。方舟の夢を終わらせた男は、もはや人間と呼べる生物ではないのだと。
まるで、書き損じに消しゴムをかけるみたいな戦いだった。
つい数秒前まであった景色が、次の瞬間にはどこにもない。
白く、白く、さも当たり前のように世界が塗り潰されていく。
霧子達が言葉を失ってしまったのも無理はない。
眼下の街で繰り広げられている戦いは、まさに非現実の産物であった。
嫌でもわかる。
彼らは今、殺し合いをしているのだ。
互いのすべてをかけて、相手の命を奪うための戦いをしている。
「……ていうか霧子さん、本当に大丈夫なんですか。ここ」
「うん……。大丈夫だと思う……"あの人"とは、お話ができたから……」
魔王と天使の戦いが行われている以上、この東京のどこにも安全な場所は存在しない。
何しろ死柄木は、その気になれば本当に東京のすべてを更地にしてしまえる怪物だ。
下手に遠くへ逃げるよりは、彼の動向を逐一把握できる近場にいた方がまだ安全とすら言える。
そんな中、行き場所にスカイツリーを提案したのは他でもない幽谷霧子だった。
界聖杯とわずかながら言葉を交わせたこの場所ならば、きっと最後が来るまでは大丈夫なはずだとそう言ったのだ。
その言葉に根拠は何もなかったが――どの道安全地帯など存在しない現状である。藁にもすがる思いで、その言葉に従った形だ。
そして現在に至るまで、このスカイツリーはあれほどの激戦の被害を一切被っていない。
霧子の予想は当たったのか、それともたまたまか。
定かではないが、今のところ首の皮一枚で繋がっている状況だ。
「ここにきてから、でたらめなものは見飽きたつもりでしたけど」
眼下の街では、冗談みたいな戦いが現在進行形で続いている。
一秒ごとに街並みが消える。戦時下の爆撃でさえこれに比べればもう少し穏当だろう。
そんな戦いが、かれこれ十分以上は継続しているのが一番理解不能だった。
これが聖杯戦争――これが、敵連合。方舟を終わらせた者達の戦い。
改めてそのことを実感すると共に、沸いて出るのは嫌悪ではなくどこか気の滅入るような感情であった。
「……これで、どっちかが死ぬんですよね。あの二人の」
「……うん。そう、なるだろうね………」
「――なんか、すっごくヘンな気分です。私、どっちも嫌いだったはずなのに」
死柄木弔、神戸しお。
その両方と、にちかも霧子も多少なり会話を済ませていた。
だからもう、アイドル達にとって連合の両翼は顔も知らない誰かではない。
顔を知り、言葉を聞いた、関わったことのある知り合いなのだ。
そんな二人が、殺し合いをしている。
そしてじきに、どちらかがこの界聖杯から消えてなくなる。
それは、本当なら敵が減るという意味で願ってもないことの筈だった。
なのに、今にちかは――
「ちょっとだけ、寂しいなって思ってるんです」
そんな、余分としか言いようのないだろう感情を抱いてしまっていた。
けれどそれを、霧子は否定しなかった。
何も言わずに、ただ隣に立って頷いた。
「……やっぱり私、あの人達が嫌いです。
人でなしのくせに。敵のくせに――」
――私達とおんなじように、生きてるんだもん。
戦いの終わりを間近に控えた地上を見下ろしながら。
絞り出したその声が、何かを変えることはない。
ひどく無力で、だからこそ尊い、素朴な慈しさがそこにはあった。
-
◆◆
衒いも、外連も、絶望も、結末も。
すべてをかき消していくエンジン音が鳴る。
立ち込めていた敗北の香りをかき消して。
少年は今、魔王の前に立っていた。
魔王はそれを、笑みと共に見据える。
紛れもない不倶戴天の敵だというのに、彼の心にはどこか清々しいものさえあった。
そうだ。結局のところ、一番否定するべきだったのはこの男。
自分と同じ匂いのする、けれど何もかもが違うこの英雄(ヒーロー)。
「……挑んでたのは、俺の方だったってわけか」
「何の話だよ」
「こっちの話だ。やっぱり壊すのはいいな、見えなかった真実(こと)が見えるようになる」
デンジの頭は既にチェンソーの怪物……否。
悪魔を狩る悪魔、チェンソーマンのそれに変わっている。
支配の悪魔を殺しても、彼はチェンソーマンとして悪魔狩りに勤しみ続けた。
霊基の再臨を経た今のデンジは、間違いなくその名を正当に名乗る資格を有している。
チェンソーの悪魔が去ったことが、奇しくも彼を完成させるための逸話再現となったのだ。
死柄木弔が殺すべきは、この男の方だった。
だから彼は、逸話をなぞって本当の敵を引きずり出す必要があった。
玉座にふんぞり返った魔王を殺すためにヒーローが現れただなんて、思い違いも甚だしかったと理解する。
挑んでいたのは魔王の方。そして彼は今、ようやく宿願を果たす権利を得た。
――英雄譚(エンジンサウンド)は、響いている。
「一人でいいんだ。こんな生き物は」
先に地を蹴ったのは、死柄木だった。
彼の言葉の意味は、実のところデンジにも伝わっていた。
デンジは死柄木弔という人間について何も知らない。
だが、チェンソーの心臓から流れてくる記憶が。
彼が神戸しおに対して語ってみせた過去が、それを理解させるヒントの役目を果たしていた。
「だから俺は、お前が気に入らない」
「俺も、テメエのことが嫌いだからよ」
振るわれる、魔王の腕。
不滅を誇る大悪魔さえ消し飛ばした、この界聖杯における最強の矛。
無論、多少霊基が強まったとはいえデンジにとっても致死的であることに疑いの余地はない。
だが、デンジは躱すのではなく迫る死柄木へ向けて踏み込んでみせた。
「"そういうこと"にしといてやるぜ」
チェーンを伸ばし、それをすぐさま自分自身の刃で断ち切る。
伸長の勢いを残したチェーンの破片が、魔王の両手を弾丸のように射止めた。
空中で跳ねる腕。今まさにデンジへ触れようとしていた死/未来が変わる。
そのままもう一歩前へと足を進め、デンジが彼の腹に己が刃を突き立てた。
壮絶な流血と共に内臓がシェイクされ、血霧となって白紙の街に舞い遊ぶ。
「俺は、マキマさんに拾って貰った。
けどよ、あの人の思い通りにはならなかったんだ」
死柄木弔は、社会に棄てられた塵だった。
神戸しおは、母親に棄てられた孤児だった。
そしてデンジは、人生に棄てられた骸だった。
ロクでなしの父親を殺しても、彼の人生は何ひとつ好転などしなかった。
借金苦の中で誰からも見下され、唯一の友人は拾った悪魔だけ。
身体は病魔に冒されて、挙げ句最期は騙されてゾンビ達の餌だ。
何の価値もないまま終わる筈だった、まさに骸のような人生。
それを救ったのは、ある美しい女であった。
-
「テメエ友達いなかったろ。俺にはいたぜ、み〜んないなくなっちまったけど」
女はデンジを利用しようとしていた。
というよりも、彼の中に眠るチェンソーの悪魔以外に欠片の興味も抱いていなかった。
理想の容れ物として飼われ、いつかはそのまま果てる筈だった彼は、しかし。
そうはならなかったのだ――彼はひとりではなかったから。
「友達ならいたよ。どいつもこいつも悪いことしか出来ないロクでなしだったけどな」
少年の夢を優しく否定する世界の中で、彼は開花を迎えてしまった。
咲き誇った滅びの花は、芽吹いてしまった悪は、彼のすべてを呑み込んだ。
忌まわしい檻を壊しても、その先に待っていたのは誰も手を差し伸べてくれない冷たい街並みだった。
何の救いもないまま終わる筈だった、まさに塵のような人生。
それを救ったのは、ある巨大な悪であった。
「そう、俺の人生には悪だけが満ちていた。だから当然、そんな姿なんて目指しもしなかった」
悪もまた、弔を利用しようとしていた。
いずれ来る新生の時、新たな魔王が宿る器として彼を見初めただけに過ぎなかった。
未来の容れ物として飼われ、いつかは未練のままにその時を迎える筈だった彼は。
そうはならなかったが、けれど、ヒーローにだけはなれなかった。
デンジは、志村転弧という男のIF/"もしも"だ。
すべてを失ったどん底から這い上がって返り咲いた溝育ちのヒーロー。
志村転弧が失った可能性のそのすべてを、彼は体現している。
だからこそ、彼の存在を"死柄木弔"は許容できない。
その姿は、その人生は――
「死ねよヒーロー。お前を見てると吐き気がするんだ」
あの日、家族と共に滅ぼした志村転弧(過去)そのものだからだ。
胴体が張り裂けるのも構わずにチェンソーを無理やり引き抜く。
そして蹴りを放ち、デンジの横っ面を蹴り抜いて吹き飛ばした。
それだけでもあまりに絶大な威力。サーヴァントの徒手空拳と比べて遜色ない。
その上で追い縋り、間近から再び手を伸ばして確殺を狙う。
「念入りに殺したつもりだったが、案外過去ってのはしぶといもんだな。
生意気なクソアイドルのせいで、しっかり塞がってた古傷が膿み出しちまった」
最初に、死柄木弔の古傷へ触れたのは田中摩美々というアイドルだった。
咄嗟に殺意で応えたあの瞬間が、廻り廻ってこの状況に繋がっている。
方舟の刃は届いていたのだ。そうでなければ、魔王は完全な獣として完成されていたに違いないから。
「お前を殺して、今度こそ俺は完成する。
荒野の王、崩壊の主――現代の魔王だ」
死柄木の手が、デンジの腕に触れた。
しかし彼の判断は速い。
即座に触れられた腕を切断し、崩壊の伝播を打ち止めにする。
落ちた腕が触れた地点から、地面が崩れてまた奈落の津波が生まれるからチェーンを伸ばしてしおを担ぐ。
その上で死柄木の追撃を、巻き上げられた粉塵に紛れた辛うじて爪先が乗るサイズの石塊を着地点に跳躍することで凌いだ。
-
次に来る行動は、分かっていた。
その予想をなぞるように、蒼い火柱が噴き上がる。
分かっていれば対応も出来る――地面へ戻り、着地ざまを襲う崩壊を躱して、すれ違いざまに片腕を斬り飛ばした。
「俺も、やっと分かったよ」
至近距離で、死と殺意が応酬を繰り広げる。
被弾はすべて死柄木側だったが、彼の身体はそもそも被弾することを脅威としていない。
だからこそあらゆるリスクを厭わず、愚直なまでの前進一辺倒で敵を圧倒できるのだ。
それそのものも脅威であるのは間違いない。
しかし驚くべきは、その無茶苦茶な死の台風をすべて捌きながら生を譲らずにいるデンジの奮戦だろう。
「元々気に入らねえ奴だとは思ってた。だけどな、龍脈だっけ? あれを手に入れてからのお前は特にいけ好かなかった」
霊基の強化と同時に獲得した、数年分にも及ぶ悪魔との戦闘経験。
今のデンジは比喩ではなく再臨前の倍以上の性能を発揮していた。
ノウハウとセオリー。厄介な能力に対する戦闘の組み立て方。
すべて実戦で獲得したそれらの理屈を脳の奥からひっぱり出して、片っ端から目の前の脅威を捌いている。
まさしく、死柄木弔がこの界聖杯でそうしてきたように。
「だってよぉ――お前、ずっと笑ってんだもん」
その言葉が、死柄木の脳裏に決別した師の面影を想起させる。
かの"先代"も、いつでも笑っていた。
自分の蒔いた悪事の種がヒーロー側に潰されても尚、顔を歪めることなく不敵に笑っていた。
「俺なんざにコンプレックス燃やしてるような人間(チンピラ)がよ。何バケモノの真似事してんだ?」
ヴィランとはよく笑うもの。
ヒーローとはよく怒るもの。
であればヴィランの王たる"魔王"が常に笑みを浮かべるのは、道理としては通っている。
しかし。しかしだ。結局のところ、真の魔王なぞ人間の社会には存在しない。
どのような力を持っていようが、それでも人間は人間なのだ。
それはきっと、死柄木弔を造り上げた先代の魔王さえ例外ではない。
「真似事、か」
「大体よ〜……お前もしおも、いい歳こいて真剣な顔で魔王だ何だって言ってて恥ずかしくねえのかよ?
ンなもんどんなに突き詰めたところで結局真似事(ごっこ)だろうが。俺だったらハズくてとても人前じゃ言えねえぜ」
"彼ら"にとって笑顔とはメッキのようなものだ。
自分を偽り、記憶の彼方に人間性を隠すためのメッキ。
要するにそれが気に入らなかったのだと、デンジは事此処に来てようやく思い至る。
それは神戸しおに対しても言えることだった。彼女も、やはりよく笑うから。
「腹立ったらブチ切れて、ヤバかったら泣けよ。酔っ払いの相手させられる側の身にもなりやがれってんだ」
デンジは、彼らの神話を否定する。
この界聖杯に、神などいない。
天使も魔王も存在しない。
いるのは英霊と、人間だけだ。
-
「そうかもな。所詮、俺達がやってるのは命を賭けたごっこ遊びさ」
腕を再生させながら殴り付ける。
触れた場所を切り落とされるなら、純粋に被弾箇所を増やして切除が追い付かなくしてやればいい。
癌細胞と同じやり方を死柄木は取る。そして彼の"崩壊"は、癌よりも格段に浸潤の速度が速い。
「だが、俺は魔王だ。そう成ったのさ、だから此処に立ってる」
「いいや、人だろ」
デンジは此処で初めて、後ろへ下がる。
死柄木の案じた計は、確かにこの膠着状態を破るのに適したものだった。
しかし、あくまでも一時の後退に過ぎない。
伸ばしたチェーンを蜘蛛糸のように死柄木の足へ絡め、そのまま一気に引き寄せる。
「そうにしか見えねえよ、お前らは」
死柄木は脚力のみでそれを引き千切ったが、無茶の代償に歩行機能が一時的に破壊されてしまうのは避けられなかった。
退避を封じた。狙いを果たしたデンジは、すぐさま再び攻勢に転じる。
死柄木の肉体は限りなく完璧に近い状態にあるが、それでも不滅ではない。
心臓の完全な破壊。あるいは、斬首。そのような決定的かつ即死に通じる殺害手段を用いれば、殺せる筈。そうデンジは踏んでいた。
それに対し死柄木は、やはり手で応じる。
先ほどまではあらゆるホーミーズを駆使し、戦略兵器もかくやの戦いぶりを見せていた彼が、デンジとの戦いではほぼ手を使っている。
これは決して気のせいでも、ましてや因縁の対決故に自ら縛りを課しているわけでもない。
――龍脈の力を得た死柄木は、確かに限りなく完璧に近い状態にある。
だが、無限の力などというものはこの世に存在しない。
無からエネルギーを生むことができない以上、そこには必ず限界がある。
死柄木は今、まさにその限界に直面していた。
原因は言うまでもない。チェンソーの悪魔を屠るために使った"全因解放"……あの一撃が完全なる肉体に、普通なら起こる筈のないガス欠をもたらしていたのだ。
(あのチェンソー野郎に持ってかれすぎたな。魔力が上手く練れねえ)
そうでなければ、不死身の魔人を相手に馬鹿正直な肉弾戦など挑まない。
ホーミーズの釣瓶撃ちと広域崩壊の連発でしお諸共に消し去っている。
先に成し遂げたヒーロー殺しの代償。それが、毒のように死柄木の身体を蝕んでいた。
(力が戻るまで……五分は要るか。それまでのらりくらりと引き伸ばして、確実に勝つ方を――)
安牌を選ぶならば、きっとそれが一番いい。
力が戻りさえすれば、チェンソーの悪魔とさえ互角に渡り合った自分がその残りカスに遅れを取る道理はない。
龍脈によって強化された身体能力が健在であることは、既に確かめ終えている。
であればインターバルを逃げに徹してやり過ごし、力が戻ったところでゆっくりと目の前の宿敵を調理してやればいい。
・・・・・・・・・
――だが、それは雑魚の思考だ。
-
「はッ」
死柄木は、ちょうど切り飛ばされたばかりの腕の断面から露出している骨を振り上げた。
そしてそのまま、自らのこめかみへと突き刺してぐちゃぐちゃと中をかき回す。
飛び散る鮮血、脳漿。正気を疑うような自傷行為だが、しかしそれで構わない。
正気を塗り潰すためにこうしているのだから、問題などある筈もない。
「……いいね。スッキリした」
まともに動く脳を破壊して、正気を狂気で支配する。
雑魚の思考に落ちぶれてやるつもりはない。
逃げ回って時を待ち、確実に殺すなど魔王のやることではないからだ。
「見かけによらず御高説を垂れるクチなんだな。だが残念、一から十まで的外れだ」
復活するなり、死柄木が風になった。
峰津院大和との交戦で更に磨かれた獣の躍動。
瞬く間に懐へと入り、拳の一撃でデンジの内臓を砕き打ち上げる。
崩壊の発動条件は五指の接触。やり方さえ工夫すれば、こうして拳でだって他者に触れられるのだ。
チェーンが身体に絡み付き、突き刺さってくるが気になど留めない。
望むところだと、今度は五指で握ってたぐり寄せてやる。
「オール・フォー・ワンが見出し、ジェームズ・モリアーティが完成させた『終局的犯罪(カタストロフ・クライム)』。
すべてを壊し、クソッタレな世界をまっさらに均すヴィランの王……それが俺なんだよ、ライダー!」
浮かべるは狂笑。
そこに、志村転弧の影など微塵もない。
人の殻などとうに脱ぎ捨てた。未練がましい古傷は所詮傷跡でしかない。
であれば。であるのならば――
「否定したけりゃ俺を殺せ! 俺はお前で、お前は俺だ!!」
一切鏖殺、それでもって自己を証明するのみ。
崩れゆく鎖を自切して逃れようとするデンジだが、最初の"引き寄せ"で両者の距離は既に詰まっている。
それはつまり、この魔王の手が触れる射程圏内にいるということを意味する。
巻き上げた砂に崩壊を触れさせ、回避不能の接触を強いる。
今まで何度となく使ってきた、死柄木の得た知恵の中でも最も凶悪だろう殺し技。
これに対しデンジは、自ら回転してチェーンを振り回し、即席の人間竜巻となることで対策を講じた。
「言われなくてもそのつもりだぜ」
突き進んできた死柄木に、回転の力を乗せた回し蹴りを打つ。
想像以上の硬さに骨が砕けるが、衝撃で多少でも軌道をずらせればそれでいい。
「お前よぉ! 海賊ババアの力使えなくなってんだろ!!」
「だったらどうした? 所詮借り物さ、俺の本領は崩壊(こっち)だ」
「偉ぶりやがって。触ったら死ぬ力ってことはよォ〜……逆に言えば"触らなきゃ殺せねえ力"ってことだろうがア!」
確かに、死柄木弔の"崩壊"は強力無比な異能だ。
デンジの知る限り、これ以上に命を奪うことに特化した能力は存在しないだろう。
だが――xxしてはいけない、なんてルールの中で戦うことにはデンジだって慣れている。
悪魔という生き物は、基本的にあっちのルールを一方的に押し付けてくる存在だ。
だからこそ、そのルールを躱し/時にねじ伏せて殺すのがデビルハンターの日常である。
そういう世界で生きてきたデンジにとっては、死柄木と殺し合うことだってそれほど怖くはない。
生き物として単純に巨大すぎて堅すぎて何も通じなかったあの皇帝達の方が、デンジにとっては目の前の男より余程脅威に思えた。
-
「ババアの力が戻る前にブッ殺してやるよ〜……死柄木!」
「こっちの台詞だぜ、電ノコ。薄汚いナリのヒーロー一匹、元よりこの手だけで十分だ……!」
悪魔と魔王が踊っている。
それは、死の舞踏だ。
どちらかの死でしか終わることのない、地獄の舞踏会だ。
しかし制限時間はある。
死柄木弔に力が戻れば、その時点でデンジの死は確定する。
英霊デンジでは、あの規模の破壊と崩壊に相対することはできない。
追い詰められているのは圧倒的にデンジの方。
されどデンジは、そんな事実をまるで恐れることなく進撃を続けていた。
魔王と踊り狂う、この最初で最後の喧嘩に明け暮れていた。
刻む、刻む。
潰す、潰す。
最終決戦と呼ぶにはあまりに無骨な光景だった。
「ッは――」
死柄木が全身を刻まれ、血潮を撒き散らし。
内臓すら飛沫かせながら、デンジの刃で殺され続けている。
「――ッぐ!」
デンジが死柄木の蹴りを浴び、骨肉を砕かれ。
彼に負けず劣らずの血を零しながら、死柄木の悪意を受け止め続けている。
不良同士が夕暮れの河原で殴り合う、そんなチープな情景を。
ただ単にスケールを広げて、バイオレンスとスプラッターを注ぎ足したみたいな光景だった。
それを、神戸しおは言葉も挟むことなくひとり見つめていた。
もう、彼女が二人にかけられる言葉は何もない。
伝えたいことはすべて伝えた。だから、しおはただ見ている。
がんばれ。
"彼"に捧げた祈りを、その小さな胸に抱きしめて。
幼子が見るにはあまりに腥すぎる殺し合いを、見ていた。
不死身と、事実上の不死身。
肉体強度だけで言えば規格外に近い者同士の殺し合い、これほど不毛なものはない。
結局、どれだけ見た目が派手でも彼らにとってはほぼすべての負傷が無意味なのだ。
だからこれは豪快な殺し合いのようであって、同時にたった一つの王手を探る対局でもあった。
斬撃。打撃。崩壊。殺意。
それぞれの武器をぶつけ合って、ヒーローとヴィランがしのぎを削る。
デンジのチェンソーが、死柄木の胴体を血霧に変えた。
しかしこれは、死柄木の狙い通りの展開。
心臓への傷だけを巧みに反らし、それ以外すべてを受け入れて直進。
両手を振り上げて彼の頭頂部に叩き付け、強引にその場へ縫い止めることに成功する。
-
これならば逃げ場はない。
チェーンでの小細工もさせない。
更に、崩壊の始点も工夫を入れる。
死柄木がその両手で触れたのは、同じくデンジの両手だった。
封じたのは自切。中途半端に触れたのでは始点を切除されて逃げられる――だから自切という手段そのものを封じつつ殺す。
理に適った殺し方だったが、デンジの無茶苦茶は更にその上を行った。
彼は瞬時に死柄木の意図を理解すると、頭のチェンソーで両腕ごと胴体を真横一文字に切断したのである。
チェーンは後方に伸ばして、地面に突き刺すことで離脱手段にする。
着地点はしおのすぐそばだ。両腕と下半身を喪失したなんとも憐れな姿だったが、しかし互いに動揺はない。
「らいだーくん」
「おう。ちょっと貰うぜ」
チェンソーで軽く、しおの腕を切り。
傷口からこぼれる血を、喉を鳴らして飲み込んでいく。
契約で繋がったマスターの血だ。摂取効率は言わずもがな最高であり、瞬時に彼は蘇生の条件を満たす。
――ぶうん、と音が響いて。チェンソーマンが再起動する。
「下がってろ」
「うん!」
しおは後ろに、デンジは前に。
追い付いた死柄木に、チェンソーを振るって応戦する。
淀みのない離脱と復帰、そして迎撃だった。
彼の戦いを間近で見てきたしおには、今のデンジがどれほど強くなっているのかがよく分かる。
いや、違う。
彼はずっと、神戸しおにとってのヒーローだった。
それは、一度は遠ざけた在り方。
かつて彼がそう在ることを否定したのは、無意識に彼のことをそう思ってしまっていたからだったのかもしれない。
自分の歩く道は、きっとヒーローでは成し遂げられないものだから。
だから否定した――武器として、ただ血を流すことだけを望んだ。
(……そっか)
だが、結果はどうだ。
結局自分は、ヒーローとしての彼を求めてしまった。
つまりこれは、ただ単に回り道をしただけだったのだ。
(もっとはやく、気付いてあげられればよかったな)
そして彼も、きっとそうありたかったのだろうと思う。
死柄木弔という魔王と戦う彼の姿は、今までの戦いと何も変わらずぼろぼろで。
けれど舞い踊るその背中がどこか清々しく見えるのは、たぶん気のせいではない。
デンジは、チェンソーマンは、ヒーローであることを望んでいる。
彼の居場所は、生きる形は、ヴィランでも殺戮の武器でもなかった。
それを理解したからこそ。今、この主従はかつてないほどに同調を深めていた。
-
「見違えたじゃねえか。最初からやっとけよ」
「俺だってやりたかったぜ。この身体なら、あのいけ好かねえ覆面野郎にしてやられることもなかったかもな」
デッドプールという名の、覆面のヒーローを思い出してデンジは吐き捨てる。
結局、あの男にはやられっぱなしになってしまった。
何が腹立つって、奴に喫した敗北には納得しかなかったことだ。
あの時、デンジはまだヒーローではなくて。
神戸しおも、ようやく飛翔(ライジング)に至ったばかりだった。
だから勝てなかった。少年を守るヒーローの強さを、乗り越えることができなかった。
――けれど、今は違う。
「残り何分だよ」
「言う義理はないが、そうだな。二分ってところだろ」
彼らに足りなかった空白は、もう埋められている。
しおはこの時初めて、兄の見ていた背中を理解した。
自分を無条件に助け、導いてくれるヒーロー。
その背中を見つめている時、心の中にあるものは――
(あったかい)
それは、愛する彼女と一緒にいる時ともまた違った熱だった。
すべての不安や懸念が蒸発していくような、そんな安心感が胸を癒していく。
あの時、あの病室で自分に何も言えなかった兄が、自分の目を見られるようになっていたこと。
きっと要するにあれは、"勇気"というものだったのだろうと遅まきながらしおは気付いた。
結局のところ、要するに。兄だけでなく自分にとっても、ヒーローが必要だったということらしい。
神戸家という壊れた家族に必要だったのは、結局それだったのだ。
「割と短えじゃん。じゃあ、まあ……急いで殺すか」
デンジが、改めて死柄木に向き直る。
リミットは二分。それを逃せば、一切の勝機は霧散する。
此処から先が、正真正銘のラストダンスだ。
-
はじめ、の合図はもうなかった。
お互いに示し合わせることもしない。
電刃がうなり。崩壊が、それに応える。
土を、粉塵を、巻き上げながら奏で合う死の旋律。
交差する意志と意志、生き様と生き様がぶつかり合っては砕け散る。
この上なく暴力的で、この上なく燦然とした決戦だった。
ゴミ捨て場の街で繰り広げられる、男と男のぶつかり合いだ。
いつしか死柄木は、手を広げなくなっていた。
理由は一つ。その方が、デンジに対してよく当たるからだ。
「アアアアアアアァアァ!」
「オオオォオオオオオオ!」
五指を開かねば崩壊は使えない。
だが、今のデンジには崩壊を当てたところで素早く切り落とされる。
やはりインターバルを乗り越えるまでは出力不足。
であれば、純粋な肉体の性能差に物を言わせて圧殺した方が理に適うと死柄木は判断したのだ。
そうなると、二人のぶつかり合いは先ほどまでよりも更に無骨な様相を呈してきた。
それは――二人の男による、殴り合いも同然だった。
デンジは腕からチェンソーを生やしているが、死柄木の拳も当たる度彼の肉体を血袋に変えているのだから大差はない。
腕と腕、拳と拳をぶつけ合って繰り広げる極めて原始的な絵面。
ありったけの暴力をもって己の生き様を謳い上げる、どこまでも飾り気のない殺し合いだ。
デンジの骨肉が弾けて。
死柄木の臓物が、噴き上がる。
それはまるで、彼らが辿ってきた人生の"色"を物語るように身も蓋もない光景。
美しさなど、華などありはしなかった。
あったのはただ、暴力と生への執着だけ。
野良犬は二匹いた。
どちらもが、星を名乗る泥を見た。
けれど一匹は泥の中で仲間を見つけ。
もう一匹は、更に深くの泥濘へと沈んでいった。
ゴミ捨て場のような街を駆けるヒーローと。
社会をゴミの山に変えようとするヴィラン。
二匹の生き様は、そうも明確に分かたれて。
だからこそ、彼らは決して相容れない。
聖杯戦争なんて関係なく、絶対に相容れられない二人なのだ。
「死ね!」
「テメエが死ね!」
命の削り合いの中、確実に互いは削れていく。
死柄木は応酬を重ねるにつれ、デンジの刃が自分の急所へ正確に迫り出しているのを感じていたし。
デンジもまた、せっかく補充したばかりの血液が凄まじい速度で失われていくのを感じていた。
死。その文字が、それぞれの野良犬の脳裏に浮かぶ。
その上で彼らは吠えるのだ。
そうだお前が死ね。これは、俺の物語だ。
-
【死柄木弔の復活まで 残り60秒】
刻限(リミット)が、迫る。
どちらとも、生きているのが不思議なほどの有様だった。
身体中、血で濡れていない場所が本当に存在していない。
潰れていない内臓も、壊れていない骨もない。
しかし"死なない"ことはもはや、彼らの中では当たり前のこと。
後は死ぬまでの時間をどれだけ引き伸ばせるか。
その上で、どうやって相手の不死身を殺し切れるか。
そういう領域の話になっているのだ、彼らの中では――既に。
【龍脈の力の回帰まで 残り45秒】
死柄木は思う。
認めざるを得ないことだ。
デンジは、この忌々しい男は強い。
最初は、見所のない三下だと思っていた。
口ばかり達者で実力の伴わない、まるでチンピラのような輩だと。
そう、今思えばまさに自分と同じだった。
あるいはその言葉は、自分自身に向けたものだったのかもしれない。
しかし、彼は強くなった。
今になってそうなったわけではない。
いつの間にか、死柄木の中で無視のできない存在にまで成長していた。
彼の中に潜むチェンソーの悪魔、その脅威を度外視してもだ。
死柄木弔は、デンジというチンケでつまらない容れ物に価値を見出すようになっていた。
そして同時に、彼の存在を認めてはならないことを悟り始めた。
そこにあるのは、鏡であると。
彼はそう、まさに。
田中摩美々が指摘したような、未だにヒーローへの古傷(みれん)を抱えた自分の――"あったかもしれない"姿なのだと。
【魔王の再臨まで 残り30秒】
デンジは、これを英雄と魔王の決戦だなどと思ってはいなかった。
そも、先に直接伝えたように彼はその手のノリについて行けなかった節がある。
英霊の付属品でありながら、彼は死柄木よりもしおよりも現実を直視していた。
彼も彼女も、決して人外の存在などではない。探せばどこにでもいるような、跳ねっ返りの変わり者にしか見えなかった。
デンジにとって死柄木という男は、兎にも角にもいけ好かない、それこそ殺してやりたいような相手だった。
口を開けば悪態ばかりで、おまけに人の心がない。
しおと切った張ったができるくらい、わけのわからないことばかり喋るガキみたいな大人。
しかしデンジもまた、彼を己の鏡なのだと気付いていた。
もういなくなってしまった"あの二人"も、自分を鍛えてくれた"師"もいなかった己の姿を、デンジも確かにそこへ見い出していた。
-
だからといってやるべきことは何も変わらない。
躊躇いが生まれるわけでもない。デンジは、そういうノリに浸るタイプの男ではない。
死柄木弔は殺す。殺さなければ、こっちが殺されるだけだからだ。
ただ強いて言うなら、そこに少しでも理由を付け加えてやるのなら。
自分にとっても、あの"敵連合"は……ちょっとだけ、本当にちょっとだけだが悪くない居場所だった。
遊びの時間を、楽しいままで終わらせる。
そのためにデンジは、この"卒業"へと臨むのだ。
それが、散っていった連中にも……そして目の前の馬鹿に対しても、最高の手向けになると確信しているから。
【デンジの敗北まで 残り15秒】
力の高まりを感じる。
死柄木の身体が、着実に再生している。
故にデンジは此処で、勝負を決めることを選んだ。
拳に合わせて拳を放つ。咄嗟に五指での崩壊に切り替えられるリスクはあったが、そこまで考慮してはいられない。
真っ二つに腕を叩き割りながら、膝をかち上げて腹腔を粉砕。
その上で左の鎖骨にチェンソーを減り込ませ、袈裟がけの一刀両断を狙った。
「ッ、ぎ――!」
「避けてたもんなあ、心臓への直撃だけはよぉ〜〜!」
ゲラゲラと高笑いをあげながら、刃を進めるデンジ。
阻まんと伸ばした手も抜かりなく切断する。
チェンソーマンは全身にチェンソーの刃を有する。よって、この手の機転も利きやすい。
「殺せると、思ってんのか……!? 俺を誰だと思ってやがる、人類史の残響が!!」
「ただのチンピラ崩れだろうがアアアア! イキり腐ってねえでさっさと死にやがれってんだよオ!!!!」
「死にはしないさ。死なねえからこそ、魔王なんだよ!!」
「おう知ってるぜ〜? ならよぉ、死ぬまでブチ殺してやるだけだぜ〜〜!!!?」
死柄木には自負がある。
魔王とは滅びぬもの、滅びを超えて世界を蝕み続けるもの。
そういう存在を指すのだと、彼は特等席で学習し続けてきた。
だからこそ、不滅を吐きながら彼は最後の抵抗へ全力を振り絞る。
実際、デンジの殺戮と拮抗する勢いでの再生と抵抗を彼は見せていたが――しかし不運だったのは、デンジにとって"死なない悪魔"なんて存在は、もう何度となく相手取り殺してきた"慣れた相手"であるということだった。
死なない、何度殺しても蘇る。ああそうか勝手にすればいい。
ならばその上で、死ぬまで殺し続けるだけだ。
永遠の悪魔へそうしたように。軽口を叩く英雄にそうしたように。
いつも通りのやり方で、正々堂々真っ向勝負で正面突破する。それ以外に、デンジが取る選択肢は存在しない!
-
【決着まで 残り10秒】
男たちの、聲が響いている。
それは叫びだ。
命を、譲れないものを乗せた咆哮だ。
あまりにも愚直で、混じり気のない殺意が清々しく残骸の街に反響していく。
張り裂ける玉体(マスターピース)と、迫る終焉の時。
されど時間は、打って変わってデンジの味方をしていた。
残り十秒。その時間は、間近にまで死が迫っているこの状況ではあまりにも――永く、重い。
そして、今。数秒の猶予を残しながら、デンジがこの拮抗勝負を押し破った。
「ブッッッッッッ、壊れろォオォオオオオオオオオオオオオ〜〜〜〜〜〜!!!!!」
魔王のお株を奪う、崩壊の叫び。
それと同時に、刀身に纏わり付いて侵攻を阻害させていた骨肉を力ずくで引き裂いた。
こうなれば後はもはや、斬り刻むだけ。
いつも通りの、チェンソーマンにとってあまりに慣れた趣向が待っている。
「――――――――――――――――――――――!!!!!」
壮絶なエンジン音の前に、もはや声らしい声は聞こえない。
死柄木の絶叫が、魔人の殺意の前に押し流されていく。
血反吐を吐きながらのそれは、まさしく絶叫だった。
生命の終わりを前にして、無縁となった筈の死に直面して、その時人があげる絶叫。
断末魔とも言い換えられるだろう、心血を注いで絞り出す狂音だった。
古今東西、悪役(ヴィラン)の末路は見苦しい叫びと爆風の中にあるべきと相場が決まっている。
であれば死柄木弔の最期はまさしく先人たちのそれに倣うお約束通りのものであり。
デンジの刃を前に肉体を爆散させ、血と肉の破片に成り果てる未来は確定していた。
【敵連合の終焉まで 残り5秒】
だが。
【玉座まで 残り■■■■■■■■■】
-
その未来が今、より強き想いの前にねじ伏せられていく。
デンジがそれに気付いた時、彼が見たのは深遠と続く莫大なる闇だった。
臨界に向かい脈打つ闇という成立する筈のない現象が今、目の前の魔王を柱にして現出している。
「死ぬかよ、この俺を――」
龍脈の力が回帰し、魔王が再臨を果たすまでには残り五秒の時間が必要な筈であった。
しかしデンジの猛攻によって防波堤は突破され、そのわずかな時間は死柄木にとっての永遠になろうとしていた。
それが道理。この決戦を終幕へと導く、理屈に適った敗因。
そう、理屈上ではそうなるべきだったのだ。
「――俺を、誰だと思ってやがる!!!」
もっと先へ。更に向こうへ(プルス・ケイオス)。
根性論での限界突破は何もヒーローだけの専売特許ではない。
死柄木弔はここで、自らの限界を粉砕した。
死の敗亡を前にして、あらゆる理屈を度外視し時間の壁をぶち破る。
残り五秒のインターバルをねじ伏せて、壁の向こうからあるべき力を引き出した。
無形をも掴む"崩壊"、海賊から継承した王の力、龍脈より取り込んだ土地の力。
それらが瞬時にして三位一体(トリニティ)を描き上げ、死柄木を完璧で究極の魔王へと再生させていく。
「……化け物かよ、お前」
さしものデンジも、これには絶句するしかなかった。
こんな無茶苦茶が押し通るのなら、戦いなんて成立しようがない。
これまで彼が築いてきたすべてのプロセスを無視して、死柄木は玉座に舞い戻ってしまった。
そして再臨を許したことの代償は、言わずもがなこの上ない破滅という形で彼を襲う。
「終わりだ――――ライダー」
心臓を斬り刻む筈だった電刃が握られると同時に、崩れ去っていく。
炸裂する崩壊の速度も、規模も、先ほどまでの比ではない。
都市ひとつを消し去る威力の崩壊が、考えられる限り最短の間合いでデンジに触れた。
それはあまりにも明確なチェックメイトで。
魔王の勝利と、狩人の敗北を明白に分かつ決着だった。
-
「死柄木。テメエ、俺が死ぬ方に賭けやがったな?」
伝播していく崩壊の速度はこれまでで最速。
よって、頼みの自切ももはや間に合わない。
今から切ったのではどうやったって遅い。
動作を挟んでいる間に、死柄木の崩壊はデンジのすべてを崩すだろう。
「なら、テメエに言うことはひとつしかねえよ」
そう、今から切ったんじゃ遅いのだ。
それでは、再臨した死柄木の魔の手を止められない。
この状況から命を繋ぎたいと思うのならば、それこそ。
"最初から、腕を切り離していた"なんて種明かしでもなければ、不可能だ。
デンジの腕が、千切れる。
しかしそこから噴き出したのは、崩壊を受けた者特有の白い粉塵ではなかった。
赤い、少し黄色っぽい脂肪も混ざった鮮血である。
その事実が何を物語っているのかを、死柄木弔は瞬時に理解し。
だからこそ驚愕した。脳が高速で回転する。
完成した筈の詰み盤面に現れた理外の事象、そのトリックを咀嚼したのと、デンジの叫びが耳へ届くのはほぼほぼ同時のことだった。
「――――――――残!!! 念!!! だったなあ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!」
死柄木が土壇場で起こした"無茶苦茶"は、デンジにとって完全な想定外だった。それは事実だ。
だが、死柄木が生きてインターバルを終えてしまう……自分がそれまでに彼を殺せない可能性の方は、想定していた。
あの崩壊もホーミーズどもの馬鹿みたいな火力も、デンジ個人の実力ではどうやったって相手しきれない。
つまり、完成した死柄木をまともにやり合って殺すことは不可能だ。
ならばもしそうなってしまった場合、勝機は死柄木の初撃、その瞬間だけだとデンジは踏んだのだ。
-
自分の腕にチェーンを食い込ませ、予め切断し。
その上で、肉の内側にチェーンを張り巡らせて補強する。
要するに、自分で斬った腕をこれまた自分で縫合して使い続けていたのである。
再三に渡る近接戦で浴びた血肉をカモフラージュにし、死柄木に悟られることなくデンジはラストチャンスのための準備を終えていた。
死柄木の"崩壊"が触れてきた瞬間に、肉の中のチェーンを切断して腕ごと切り離す。
先置きの自切。これならば、最速かつ最強威力で放たれる崩壊に対してでもギリギリ回避が間に合う。
チェンソーの悪魔の内側で目の当たりにした死柄木の全力。
そこから自分の中に作り出した勘を元にした、ほぼほぼ博打と言っていい時間計算。
切り離された腕だけが、崩壊で消える。
伝播すら起こる余地はなく、風に吹かれて消え去った。
事実上の空振り。致命の隙を晒す死柄木に、デンジが踏み込む。
崩壊は間に合わせない。
その前に、一薙ぎで両腕を断ち切った。
崩壊の個性の最大の弱点。それは、五指で触れなければ発動しないという発動条件にこそある。
死柄木が十全の力を取り戻していたとしても、腕の再生が完了していないのならば崩壊は使えない。
その間だけは――彼は破滅の魔王ではなくなるのだ。
「これで、俺の……!」
「いいや――勝つのはッ」
「少なくともテメエじゃあねえ!!」
解き放たれるホーミーズ。
あらゆる力が、嵐になってデンジの肉体を削る。
だが、それでも、怯まない、止まらない。
一歩分の距離をやっとの思いで詰めて。
肉を吹き飛ばし骨まで削る熱風に全身を炙られながら、残る隻腕を前へと突き出した。
「俺達の――――勝ちだアアアアアアアアアア!!!!」
怒号、隻腕、チェンソー。
闇を拓いて閃いた、血と殺戮の電刃が。
ぶうん、と、鎮魂曲の音を奏でながら。
遂に。
今この瞬間、遂に――
終局的犯罪、地平の魔王の心臓を両断した。
.
-
◆◆
夢を見ていた、そんな気がした。
ひどく永くて、迂遠な夢だ。
陽だまりのように暖かいのに、水中のように息苦しい。
真綿で首を絞められながら、子守唄を囁かれているみたいな夢だった。
その夢の仔細は覚えていないし、どちらだろうと然程の意味はない。
どうせ最後は、すべてが崩れて終わるのだ。
青年は、それをよく知っていた。
「とむらくん」
頭が重い。
視界が、やけに霞む。
胸に目を落として、ようやくその理由に気が付いた。
胸に穴が空き、折れたチェンソーの刃が突き刺さっている。
心臓の無事など、確認するまでもなく明らかだった。
その証拠に、あれほど満ち溢れていた魔力がちっとも制御できない。
龍脈の力を得て無敵となった筈の肉体は、たかが大穴のひとつも修復できずに手をこまねいている。
そんな体たらくが、戦いの行方がどちらに転がったのかを如実に物語っていた。
「……おい、どうした」
どうやら自分は、あれだけの力を持っていながら見るも無様に負けたらしい。
力が戻れば、いや戻らなくても、少し力を込めたら捻り潰せるような格下の英雄。
自分にも用意されていたかもしれない人生の先からやってきた、殺すべき、否定すべきifの英霊。
彼は勝ち、自分は負けた。
絶対に覆らない筈の戦力差を覆して、ヒーローはヴィランの夢を駆逐した。
蓋を開けてみれば、それはあれほど唾棄していたお決まりの結末で。
最初の憎悪(オールマイト)もその後継者も関係なく、資格など問うことなく、魔王など誰にでも殺せるのだということを証明している。
なんと無様で、滑稽で、つまらない話だと思う。
いっそ手を叩いて自嘲したい気分だったが、今青年が笑った理由は自嘲(それ)ではなかった。
「笑えよ。お前の勝ちだぜ」
「……うん。私の勝ちだね」
そしてじきに、自分はきっと死ぬだろうことを青年は感じ取っていた。
何しろ、今こうして佇んでいるのだって相当な無理をして格好つけている。
気を抜けばこの全身が、今にも地に向けて崩れてしまいそうだった。
みなぎっていた生命力も、狂おしいまでの恩讐も、すべてが命の終わりと共に消えていくのを感じる。
そんな自分を目の前で見つめる小さな影は、勝者となったというのにやけに浮かない顔をしていて。
肝心な時に限ってあの鬱陶しい笑みを浮かべないその姿に、思わず青年は失笑してしまった。
-
「――アイさんが死んだときも、悲しかったんだ」
少女は、振り返るようにそう言った。
星野アイ。連合に弓を引き、その結果裏切り者として処刑されたアイドル。
「とむらくんも、死んじゃうんだね」
「手前で殺しといて何言ってやがる。ガキが」
これで、敵連合は本当に終幕となる。
構成員はみんな死んでいった。
そして今、連合の王も玉座を追われようとしている。
独りきりでは、もう"連合"とは呼べないだろう。
聖杯戦争の終焉に先駆けて、ひとつの小さな物語の臨終がやってきた。
本当のところ、青年だってもう少しは足掻きたかったのだ。
あの女王がそうだったように、みっともなく生に執着したかった。
生を繋ぐ手段を探すために地を這い、本当の最後の最後までこの妄執にすべてを費やしたかった。
たとえ、無駄だと分かっていても。
そうすることで、自分の糞みたいな人生を最後の一滴まで否定しきりたかったのだ。
この生に、妄執に、己という人間には何ひとつ価値などなかったのだと。
ヴィランらしくすべてを失い死んでいくのなら、きっとそれが一番美しい。
そう考えていたのだが、結局それは出来ずじまいになってしまった。
そのことに無理矢理にでも理由を与えるのならば、それは。
多少なりとも付き合いのあった近所の子どもの前で、少しは格好付けてやりたくなった――そんなところなのかもしれない。
「私、とむらくんのことが好きだったよ」
「浮気か? だったら生憎だな。ガキを侍らす趣味はねえよ」
「ちがいますっ。愛してる人と友達とは別なんだよ」
「……ああそう。お前も大概、よく学ぶ奴だよな」
少女は、そして彼女のヒーローは、二人の犯罪王が完成させた終局の犯罪を打ち破った。
崩壊の異能と数多の魂を携えて地平線上に君臨した魔王は、じきにこの世界を去る。
そうなればいよいよもって、最後の時はすぐそこだ。
残るサーヴァントは三体。残る器は、三人とひとり。
界聖杯が降り立ち、地平線の彼方へ辿り着く者が現れる。
これは嵐の前、束の間の静寂。
本当の祭りが始まる前の、ちっぽけな葬送でしかない。
-
「叔母さんも、アイさんも、ゴクドーのおじさんも、えむさんも、田中さんも……みんな、好きだったよ」
どこまでも歪で、どこまでも終わりが見えていて。
だけど、ほんの少しだけ誰もにとっての居場所だった集団。
悪の組織と呼ぶにもカジュアルすぎる、サークルみたいな連合。
その物語を、少女はそう締め括った。
「だけど、私は行くね。私には、愛があるから」
友達と別れるのは、いつになっても名残惜しいものだ。
けれど、世の中には友情よりも大切なことがしばしばある。
少女にとってそれは、いつかの日に誓い合った"愛"だった。
だから、少女は手を振って去りゆく友とお別れができる。
「……すべてをブチ壊す野望が、色惚けたガキの愛に阻まれるか。
は……ジジイも先生も、田中の奴も浮かばれねえな」
「……あは。くやしい?」
「そうでもないな。どちらかと言うと、今はゆっくり寝腐りたい気分だ」
何しろ、身体のそこかしこが鉛に置き換わったみたいに重いのだ。
失血で意識は飛んだり跳ねたりを繰り返しているし、限界云々抜きにしてもそろそろ休みたい。
思えば、ここに来る前もギガントマキアとの戦いで連日徹夜だったのを思い出す。
道理で眠いわけだ、と青年は小さく笑った。
「まあ……何にせよ、これで俺は死ぬわけだ」
ここに来てからの時間は、ほんの一月だったとは思えないほどに濃密だった。
特に最後の三日間だ。ここに一生分の濃度が詰まっていたとすら思う。
それも、もう終わる。未練は別段ないが、最後にひとつ気まぐれをしたい気分になった。
体内で行き場をなくしたように暴れ回っている魔力を無理やり一握ほどの大きさに纏める。
そして、恐らく最後になるだろう力の行使を行った。
崩壊ではない。ビッグ・マムから継承した、魂を操る能力の方だ。
龍脈の力、今となってはもはや絞りカスと言っていい量だがそれをかき集める。
形はどうするか、と思ったところで――少女の身なりがぼろぼろなことに気が付いた。
戦いで巻き上げられた粉塵や泥に塗れ、元の小綺麗さは見る影もない。
「さっきはああ言ったけど、やっぱり多少は無念だよ。
世界のすべてをブチ壊して、まっさらにしたその上で君臨する。
俺がずっと思い描いてきた未来は、これで叶わなくなっちまったわけだ。
俺は――このクソみたいな世界を破壊したかった。社会の片隅で連綿と繋がれてきた俺達の夢も、もうお終いさ」
-
生憎と、色気や女っ気とは無縁の人生を送ってきた身である。
思いつく形は、自分が纏っていたジャケットくらいのものだった。
記憶の中にあるそれをひっぱり出して、再現する。
サイズだって合っちゃいない。自分の、夢の仇にそこまで配慮してやる義理も思いつかなかった。
「だが……まあ、すべては終わったことだ。俺からお前に言えるのは、そうだな……」
なけなしの力で作った最後のホーミーズ。
それを、自分より二回り以上も小さい目の前の影に被せてやる。
これでいい。この程度でいい。
敵連合は心に刃を潜ませた、敵同士の呉越同舟。
であれば贈る餞の品も言葉も、少しの皮肉を滲ませた毒のあるものでいいに決まっているから。
だから――
「次は…………………………お前だ」
形はどうあれ、先代から次代を託された者として。
胸の奥にすとんと落ちるそんな言葉を遺し、青年は少女とすれ違うように倒れ臥した。
「……、……」
そしたら、もう青年は動かない。
血溜まりを広げながら、薄い笑みを浮かべて事切れている。
誰がどう見ても、魔王は死んでいた。
そんな彼の姿を見下ろして、一瞬何かを口にしようと口を開いて……やめて。
それから、勝者の少女は改めて口を開き直した。
「うん」
敵連合、ここに壊滅。
魔王・死柄木弔、ここに死する。
魔王の夢を踏み越えて進むのは、天使と呼ばれたひとりの少女。
貰ったジャケットを、サイズの合わないそれを、風に遊ばせて。
「次は、私」
少女は、散った片翼に背を向けた。
もう振り返ることはない。
その必要はないと信じているから振り向かない。
確かに存在した楽しかった時間。
多くを学んだ、賑やかな日常。
ほんのちょっとだけそれを名残惜しく思いながら――神戸しおは、歩き出す。
友の死を悼む暇もなくやってくる、次の災禍。
乗り越えるべき壁にして、壊すべき可能性。
それを殺すために――願いを抱いて、突き進む。
-
◆◆
決戦が終わり。
嵐がやってくる。
空が、銀色に染まっていく。
水銀のような、もしくは箒星を映す水面のような、銀色の空が広がっていく。
流れ出した神の兆し。
流れ出した、愛という狂気。
それは冷たく、そして熱く、いま空から降臨(おり)てくる。
右手には鍵を。
額には鍵穴を。
空に孔を穿って、巫女が立つ。
――世界の終わりが、再開される。
◆◆
-
『転弧、起きて、起きてってば!』
夢を見ていた、そんな気がした。
ひどく永くて、迂遠な夢だ。
夢の中から、僕は耳慣れた声で浮上する。
やけに重たい瞼を開ければ、そこには家族がいた。
『もう、いつまで寝てるの。もう朝ごはんできてるよ!』
『ああ……うん、ごめん華ちゃん。昨日、ちょっと夜ふかししすぎたみたいで』
『根詰めるのもいいけど、それで寝坊してたら世話ないでしょ。ほら、ちゃっちゃと起きる!』
まったくもってその通りだ。
僕は苦笑しながら、起き上がって伸びをした。
夢の内容を思い出そうとしたけれど、どうにも靄がかかったみたいに思い出せない。
なんだか、とても大切な夢だった気がする。
悲しくて、だけどどこか清々しいような。
そんな、永い夢を見ていた気がするんだ。
『今日、雄英の入試なんでしょ。実技厳しいんだから、ちゃんと目覚ましとかないと落ちちゃうよ!』
ああ、そうだった。
今日は雄英の入試の日じゃないか。
この日まで、ずっと長いこと準備をしてきた。
勉強も死ぬほどしたし、個性を伸ばす訓練だってそうだ。
僕の"個性"はヒーロー向きじゃないから、練習に付き合ってくれる人を探すのだって大変だった。
たまたま巡回中の"あの人"に見つけて貰えなかったら、そもそも受験を許してもらうところにだって辿り着けなかったかもしれない。
『お父さん、結局仕事休むことにしたって。転弧のこと、試験会場まで送っていくって言ってたよ』
『え。お父さんが?』
『うん。……まー、なんだかんだで転弧のこと応援してたんじゃない? 本当に頑張ってたしね、ずっと』
華ちゃんにそう言われて、心の中になんだかとても暖かいものが広がっていく。
だとしたら、尚更ここまで来てしくじるわけにはいかない。
あんなにヒーローを嫌っていた、僕がヒーローを目指すことを否定していた人が、僕の背中を押してくれるんだとしたら。
――そうだ。僕は、ヒーローになれる。
いや、僕だけじゃない。きっと誰にだって、そうなる資格はあるんだ。
『ほら。行くよ』
『……うん。華ちゃん』
これは、僕の夢の始まりの日だ。
何者でもなかった僕が、何かになるための第一歩。
朝ごはんを食べて、そして夢を叶えに出かけよう。
誰かを壊すことしかできないと思ってたこの手で、これからは泣いてる誰かを助けるんだ。
ああ、空が晴れ渡っている。
こんな日は、なんだかとても良いことがありそうだ。
そう思いながら、僕は華ちゃんの手を取って。
"みんな"の待っている食卓へと、駆け足で歩き出した。
【死柄木弔/志村転弧@僕のヒーローアカデミア 脱落】
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投下終了です。
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次回の投下ですが、分割で投下するのも野暮な内容になりそうですので、前回同様完成してからの投下とさせていただきます。
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めちゃくちゃ遅くなってごめんなさい!
投下します。長いですが、どうぞごゆるりとお付き合いください
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水銀色の空が、虚構の街を包み込む。
青い、青い空は雲間の向こうにさえその微笑みを見せない。
世界が、界聖杯という現象そのものが異界の法則によって侵蝕されている。
かつてある抑止力の青年がそうしたように、癌細胞もかくやの役割を果たして神に干渉していた。
今やこの界聖杯は、少なくとも深層部は銀の鍵持つ巫女によって正真正銘の異界へと変じた。
そんな死よりも恐ろしい末路へ行き着いた街を歩きながら、女は奇妙な感傷に浸る。
<裏世界>。恐怖に満ちたる異郷、踏み入る回数を重ねれば現実へと滲み出してくる、共犯者達の理想郷。
女の日常は、もはや無視できないほど明確に<裏世界>に汚染されていた。
枯れ尾花などである筈もない怪異、怪現象、それと接触した者の成れの果て。
日増しに変貌していく世界での日々は界聖杯という怪奇どころではない現象によって休載を喰らっているわけだが――
もしもあのままあちらの世界に入り浸り続け、現実を歪め続けていたのなら、最終的にはこんな景色が待っていたのかもしれない。
怖気立つように美しい、恐怖と狂気が支配する世界。
無人の都市を、巫女と隣り合って歩く。
隣で風に靡く髪は白銀。よかった、と思う。もしもこれが金色だったなら、また余分な感情を沸かせてしまうところだった。
しかし、ああ。それにしてもこの街は、本当に……
「どうかした?」
「別に。ただ――――きれいだな、って思って」
本当に、綺麗だ。
幽世、人の条理の外にある世界とは何故にかくも美しいのか。
斜に構えては社会性を蔑ろにしてきた自覚はあったが、これがそんな月並みな厭世観から来る感情でないことは分かっていた。
「此処も、あんたも、あいつも……恐ろしいくらいにきれいだ」
きっともう、自分は取り返しがつかないほどに魅入られているのだ。
<裏世界>が自分を見初め、そして聖杯戦争がこの病気を末期まで到達させた。
単にあちらを眺め、歩いて悦に浸るだけには飽き足らず。
命を奪うことを是とし、挙げ句この手で曲がりなりにも人間だったモノを殺した。
それはもはや、普通の人間などと呼べはしないだろう。
実話怪談本を開いては日常の片隅に潜んでこちらを覗く<かれら>に想いを馳せる必要は、もはやない。
今はもう、自分も立派に<そちら側>だ。
女は、自ら望んで――怪異に成った。
わが子を殺された母親が、異形の姿になって夜な夜な徘徊するように。
子を轢いたドライバーを探して、辺り構わず人間を襲うように。
女は愛する者を失った痛みで狂い、生きながらに鬼になったのだ。
「最後は私も出るよ。大和から拝借した"これ"もあるし、何かできることがあるかもしれない」
「ええ、わかっているわ。私も、止めたりなんかしません」
「遠慮するもしないも全部あんたに任せる。私からあんたに命じるのは、たったひとつ」
人ならば、絶対にやってはいけないことでも。
鬼ならば、それを咎める者はいない。
「必ず勝って。これが最後なんだから」
-
愛するからこそ、鬼になったのだ。
愛するからこそ、すべての器を壊すのだ。
愛しているから、すべての命を奪うのだ。
地平線の彼方にたどり着ける資格者はひとりだけ。
であれば、自分以外の命はどこまで行っても障害でしかない。
道徳や倫理を排除して、理屈だけで考えるならそうなる。
後はそれを貫くか、背くかの話だ。
そして女は、貫くことを選んだ。
すなわち皆殺し。すなわち、根絶やし。
女には、それができるだけの力がある。
「――私ね、ずっと恐れていたの」
主の命令に対し、巫女は答えるのではなく語り始めた。
白銀の髪、蒼白の肌。額の鍵穴、右手の鍵剣。
エロスを感じさせるほど露出の多い服装が、それと同時にひどく退廃的な冒涜を感じさせる。
まるで、そう。深淵のような。恐ろしいと分かっているのに覗いてしまいたくなる虚穴のような。
「変わってしまうのが怖かった。私が、私でなくなってしまうのが怖かった。
あの人が……鳥子さんが好きだと言ってくれた私でなるのが、恐ろしくて堪らなかった」
「……、……」
「でもね。今は、なんだかとっても心地いいの」
鍵の奥に、宇宙そのものを覗かせて。
巫女は、くしゃりと笑った。
「この手なら鳥子さんを……遠くへ行ってしまったあの人を連れ戻せる。
いけないことだなんてわかっているけれど、それでもこの私は悪い子だからきっとやれるわ。
ええ、約束します。必ず勝ってみせるって。
たとえ、どれだけの美しいものを汚してしまうとしても」
そう、人間の手で届かないところに手を伸ばすのならば。
人間でなど、なくなってしまえばいいのだ。
清貧の村で育った敬虔なる少女は、狂気に身を浸して恍惚と微笑み。
青い世界で緩やかに狂った浄眼の女は、理屈のままに鬼と化す。
女の名前は『紙越空魚』。巫女の真名は『アビゲイル・ウィリアムズ』。
数多の英霊が散っていき、魔王さえ玉座を降りたこの余命わずかな世界において。
地平線の彼方へ続く辻、狂気の鳥居の前にて佇む――――凶星である。
-
◆◆
変質しゆく世界の中で、空から地へ降りる影がふたつあった。
ひとつは、言わずもがな凶星たる銀鍵の巫女。
そしてもうひとつは――
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!」
「…………、……っ……!」
六眼の鬼と、それに抱えられた二人のアイドルである。
七草にちか。幽谷霧子。そして霧子のサーヴァント、剣鬼黒死牟。
東京スカイツリー最上階、天望回廊。
敵(ヴィラン)たちの最終決戦の最中でもなぜか余波を被らなかった場所ではあったが、次に待つ因縁も何も関係のない正真正銘の最終決戦を前にしてもそうであり続けてくれるとは思えなかった。
黒死牟が窓を破り、少女たちを抱えて飛び降りる。
常人なら自殺行為の自由落下でも、サーヴァントならば問題はない。
着地――衝撃でミンチにならなかったのは、黒死牟がそれだけ二人の人間に配慮をしていた結果だ。
地獄みたいな自由落下を終えたにちかが、次いで霧子が、肺の底からのため息を吐く。
「……っ、はぁ……。やっぱりこの手のやつは、何度やっても心臓が弾け飛びそうになります……!」
「う、ん……おなかのあたりが、きゅうう……ってなるよね………」
「軟弱千万………無駄口を叩く暇があるならば……、周囲に、目を凝らせ…………」
サーヴァントっていつもそうですよね……と言いたげなジト目を鬼に向けるにちかだが、一方の霧子は彼の言葉に従っていた。
その結果、遠くから近付いてくる影を見つけて「あ……」と声を漏らし、指を向ける。
水銀の空の下。白塵が吹き遊ぶ荒野の向こうから現れたのは、大小二つのシルエットだった。
「しおちゃんと、らいだーくん………」
「あ……無事だったんだな。霧子さん――あと七草も」
なんで添え物みたいにしたんですか、という軽口が普段なら出てくる場面だったが。
帰ってきたのが彼らだけという事実を認識しているから、どうもそんな気にはなれなかった。
あれほど激しく繰り広げられていた戦いの中から帰還した、神戸しおと彼女のライダー。
彼女たちの傍に、あの憎たらしい"仇"の姿はない。
戦いの末に何やかんやあって分かり合い、別れたのかもしれない……だとか。
そんなありえっこない"もしも"を考えたりしない程度には、にちかもこの非日常の中で擦れてしまったようだ。
「安心していいぜ、死柄木は殺した。これでもう、あのおっかねえ"崩壊"に怯えなくていいってこった」
死柄木弔は、敵連合の首領だった男は、死んだ。
神戸しおのライダーの手によって討ち取られた。
魔王は玉座を追われ、恐ろしい"崩壊"が吹くことはもう二度とない。
それは――間違いなく、方舟の残党たちにとって望んでいた結末である。
何しろ死柄木は強すぎる。
危険度も手の内の幅も、一度の行動で影響を与えられる範囲の広さも桁違いだ。
厄介さだけで言うならば、今まさに世界を蝕んでいる銀の鍵の巫女さえ後塵を拝するかもしれない。そんな相手だった。
だから死柄木がしおとライダーを殺して帰ってくる結末こそが、考えられる限り最悪の展開だったのだ。
しかし、そうはならなかった。
勝ったのはしおだ。
本来であれば喜ぶべきことだったが、なのにやっぱり"そんな気にはなれない"。
-
本来であれば喜ぶべきことだったが、なのにやっぱり"そんな気にはなれない"。
おかしなことだと、にちかは思う。
憎たらしくて憎たらしくて、できるならこの手で絞め殺してやりたいとすら思った相手だったのに――いざ死んだのだと知ると、心の中を駆け巡るのは喜びではなくなんとも言えないむなしさであった。
「街をこんなにして……。最期まで傍迷惑の権化みたいな人でしたね。あいつ」
やっぱり、殺したり殺されたりの世界はまっぴらだ。
復讐は何も生まないなんて日和った主張だと思うが、それで喜べる人間とそうでない人間、二つのパターンがあるらしいとにちかは知った。
七草にちかは、どうやら後者の側だったらしい。
死柄木弔という仇敵の死を知るなり手を叩いて喜べなかった時点で、にちかにそちらの素質はさっぱりないのだろう。
「ま、死んだんなら勝負は私の勝ちってことで。石ころ拾って持ち歩くなんて酔狂しなけりゃ完全勝利だったのに、馬鹿な人です」
あんなのに命乞いして救ってもらったと考えると複雑なものはあるが、それでも生きてるだけで丸儲けだ。
連合に対しては負け続けだったが、最後の最後で勝ち逃げできたということにしておく。
にちかはそうやって、自分の目の届かないところで死んだ憎い男へのちょっとばかしの追悼とした。
一応は、同じ釜の飯を(たぶん)食った仲でもあるのだし。
嫌いだし、今でも思い出すと腹の立つ相手だが、まあそのくらいはしてやってもいいだろうと。
そうやって自分の中の感情に折り合いをつけ、にちかは連合の王の死を受け入れたのだった。
時に、霧子はといえば。
「しおちゃん、そのジャケット……」
「うん。とむらくんからもらったの」
戦闘の名残だろう。
粉塵や泥で汚れたしおが羽織っている、見覚えのあるジャケットに気が付いた。
霧子は死柄木弔という人間について、ほぼほぼ知っていることはない。
直接まともに対面したのは昨夜のコンピューター室が初めてだし、彼が魂を支配する異能を継承していたことなど知る由もなかった。
だが、それでも。
死にゆく魔王が同胞だった少女に遺したという"それ"は、彼女にかの男の人間味を垣間見させるには十分な代物だった。
「…………、…………」
なにか言葉をかけようか、迷った。
でも、それは余計なお世話だろうなと思い、やめる。
連合(かれら)の絆はきっと連合だけのものだ。
自分たち方舟に、皆で支え合ったかけがえのない時間があったように。
彼らにもきっと、自分の知らない尊い時間とつながりがあったのだと霧子は思う。
だから言葉はかけなかった。他人の心/瓶の中身を覗こうとするなんて、それはお行儀の悪いことだから。
「――ありがとね、霧子さん」
でも、意外にも話を続けてきたのはしおの側であった。
藪から棒にそんなことを言われ、ぽかんとしてしまう霧子。
そんな彼女へ、砂糖菓子の片割れは言う。
「霧子さんが、"ともだち"って何かをおしえてくれたから……私、ちゃんとお別れできたよ」
「……、…………そっか……。それなら、よかった…………」
彼女たちの物語は、きっと別れでしか終われないものだったのだろう。
霧子は優しいからつい手を取り合う未来を願ってしまうが、彼女たちにとってはきっとそうでない。
霧子としては、決してそう大したことを言ったつもりではなかった。
偉そうに説教を垂れたわけでもないし、ほんのちょっと小さな子に教えてあげたくらいのつもりだった。
けれどそのちょっとした善意が、あるいはお節介が、彼女たちの"お別れ"に花を添えるくらいのことにはなったというのなら。
それは霧子にとって、心が華やぐように嬉しいことであった。
たとえ世界が終わりに瀕していても。
いよいよもって、殺し殺されでしか立ち行かない現実が近付いてきていても。
それでも、283プロのアイドルたちはこうして彼女たちらしく生きている。
それは亡きプロデューサーや、方舟のために散っていった者たちの生き様を労うような日溜まりで。
そんな日溜まりのなかに立ちながら、もう灼かれてはいないその鬼が――静かに口を開いた。
-
「語らいの時間は……終わりだ………」
鬼が、空を見上げる。
その面持ちは厳しく、これから起こることのすべてを見据えているようであった。
「――――――――来るぞ」
黒死牟の声が、全員の耳に届くのと。
目の前で、さっきまで砦だった電波塔が崩落を始めたのはほとんど同時のことだ。
いや――これは崩落なんて生易しい現象ではない。
東京スカイツリー。日本最大の電波塔が、まるで空間をねじ曲げられたように歪んでいく。
ぐるぐると渦を巻くように、あらゆる物理法則や物体の強度、その他性質を無視して変形する。
そうして出来上がるのは、直径数百メートルにも及ぶ巨大な"うずまき"だ。
その渦は、門であると。
底の知れない存在規模(スケール)を持った存在がこの世に向けて開けた口のようなものであるのだと。
全員が等しく理解したのは、スカイツリーだった渦が数千にも及ぶ触手の波濤を吐き出したからだった。
――戦慄が走る。対城宝具にも余裕で匹敵するだろう異界の触腕群は、比喩でなくこの場の全員を殺せる威力を秘めた鉄砲水に他ならない。
駆けたのは黒死牟と、そしてデンジだ。
と言ってもまともに勝負しようとしているわけではない。
臆病と無謀は違う。どうあがいても、人は天災と相撲は取れないのだから。
あれだけの火力を正面からどうこうするのは無理だと判断し、彼らは躊躇なく守るべき者たちを連れての逃げに走った。
鬼の脚力と、チェンソーマンの縦横無尽な駆動力。
それを駆使して逃げる、逃げる。
死柄木の個性によって焦土と化した街を再び蹂躙する大海嘯から、絶望的な撤退戦を敢行する。
「に、にににに、逃げきれるんですかこれ……!?」
「喋んなバカ! 舌ぁ噛んでも知らねえぞ!!」
「あなたにバカって言われる筋合いないんですけど!!」
デンジは、しおとにちか。
黒死牟は霧子を抱えていた。
休戦協定の維持について確認をしている暇はなかったし、どちらの陣営にもその気は皆無だった。
これほどの光景を見れば、誰だって議論の余地なく納得する。
"これ"には勝てない。少なくとも単騎(ひとり)では、どう戦ったって活路というものが見い出せない。
-
当初の予定通り、異界の厄災――フォーリナー・アビゲイルを倒すまでは方舟と連合の因縁は打ち止めだ。
だからデンジはにちかを迷わず助けたし、黒死牟もデンジらへ押し寄せる分の触手を払う役目を率先して担った。
問題は涙ぐましい助け合いをしたからと言って、彼ら二騎でこの厄災を切り抜けられる確率は限りなく乏しいということ。
死柄木弔が脱落した代償は今、戦力の枯渇という点で確実に残る器たちを苛んでいた。
「聞け……ライダー………」
「今じゃなきゃダメ!? 俺結構しんどいぜ、これ〜〜!!」
「今でなければ、ならぬ……敵が至近に迫った段階では、気取ってくれと言っているようなもの……」
「……まあ、そりゃそうだけどよ! なんだよ、あのタコガキをどうにかできる妙案でも浮かんだのかあ!?」
デンジのやけっぱち気味な問いかけに、黒死牟は肯定も否定もしなかった。
その反応に、デンジの顔が幾らかの真剣味を帯びる。
「――え。マジであんの?」
「それは、貴様が判断しろ……」
「わ〜ったわ〜った、猫の手も借りてやらあ! 聞かせろサムライ!!」
デンジは、根源的脅威の名を持つ悪魔を知っている。
人形の悪魔の計略で地獄に落とされた時、遊びのように蹂躙された『闇の悪魔』。
今だって勝てる気のしないあの"超越者"に似た気配を、デンジはアビゲイルに感じていた。
だからこそ、猫の手も借りるし藁にだって縋る。そうでもしなければ勝てないと分かっているからだ。
この状況を逆転ホームランに持ち込める妙案なんてものが本当に存在するのかどうかについては未だに半信半疑、いや九割九分は"疑"が勝っていたが、それでも今はその一分にすら望みを懸けたい。
そんな思いで叫んだデンジに、黒死牟は駆けながらも距離を詰め、そして――
「―――――、―――――――――…………」
何事かを、囁いた。
それを聞いたデンジは一瞬、足を止める。
すぐに慌てて歩みを再開するが、それでも彼の顔に宿る怪訝は消えていなかった。
「お前……」
まるでその顔は、馬鹿げた悪戯の計画を聞いた子どものようで。
発案者が堅物の黒死牟であることを踏まえて見ると、どうにもシュールさの付きまとう絵面だった。
「それ、本気で言ってんのかよ」
「ならば問うが……その娘に令呪が残存していない今も、貴様は"悪魔(あれ)"に成れるのか……?」
「……無理だな。ポチタは死んじまったし、俺も多少強くなったとはいえアイツには及ばねえよ」
「であれば尚のこと……これを除いて手は無かろう……」
「……、……」
無茶苦茶はデンジにとって、常套手段と言ってもいい。
その彼が、こうまで難色を示す――というより"信じ難い"といった顔をする策。
黒死牟は、二度は語らなかった。
ただ一言、こう付け加えるのみだった。
「天下分け目の、大戦だ………………貴様も腹を括れ、ライダー」
「……ああクソ、テメエを信じたワケじゃねえからな! 無理そうになったら盾にしてやるぜ!!」
そう、これは天下分け目の大戦。
誰も彼もが腹を括り、命を懸けなければならない。
器(マスター)も、英霊(サーヴァント)も。
そこにひとつの例外もありはしない。
「……セイバーさん……?」
「憂うな」
霧子の問いを、一刀のもとに斬り捨てて。
黒死牟は、言った。
「これを弥終とするつもりはない。
だが、成さねばならぬ……。
貴様と交わした誓いを……賤しい嘘に終わらせぬ為にも…………」
成さねばならぬ、鬼殺があるのだと。
語る鬼の横顔に、霧子はもういないひとりの男を思い浮かべていた。
-
◆◆
銀の鍵が、妖しく輝きを増した。
次の瞬間、溢れ出したのは蝙蝠の群れだ。
骨肉のみならず魂まで咀嚼する異界の蝙蝠。
信仰の概念を獲得した、外なる神由来の侵略的外来種。
いざ残りの命を平らげるべく飛び立ったそれを、鬼の月剣が一羽残らず斬殺する。
戦いの始まりは、無言の内に訪れた。
"うずまき"の津波からどうにか逃げ遂せた二体の英霊が、巫女に対して挟撃を仕掛ける。
月輪が揺らめく軌跡の剣と、それに巻き込まれ損傷することを厭わずに進めるデビルハンターの相性は意外にも良い。
フレンドリーファイアをある程度無視できる相棒がいれば、黒死牟は一切の憂いを排してその剣技を開帳できるのだ。
天満の月が、地を這う嵐となって殺到する。
アビゲイルにとってそれは鍵の一振りで払い除けられる程度の脅威でしかなかったが、その細腕にデンジの鎖が巻き付いた。
巫女の腕を柱代わりにして距離を詰めながら、迎撃のための触手を五本六本と切り刻んでいくデンジ。
チェンソーマンのデタラメさ此処に極まれりといった光景だったが、アビゲイルの笑みはそれでも崩れない。
彼女の白い腕はひしゃげるどころか血の一滴も流すことなく、拘束を物ともせず逆に鎖を引いてデンジを引き寄せてみせた。
「いいわよ。遊びましょう、悪魔憑きのお兄さん」
こうなると、望んでいた接近が一転して窮地に変わる。
引き寄せられたデンジの身体を、迸った極光(オーロラ)が刹那にして槍衾に変えた。
デンジだから耐えられているが、不死性を持たない英霊だったなら即死していたに違いない。
「祓ってあげるわ」
しかし、彼の弱点は既にアビゲイルには割れている。
チェンソーの心臓、それがデンジの骨子だ。
故に狙うのは素手での心臓摘出。
あがく少年を無視して殺しに掛かったアビゲイルの懐に、だが這入った者がある。
「あら――私、出来ればあなたとは戦いたくなかったわ。"あの人"の恩人ですもの、何が悲しくて恩あるお方を傷付けなければならないのかしら」
そう。
その鬼は、少女を巫女へと至らせたある女のことを知っている。
戦いと戦い、波乱と波乱の合間に存在したほんのわずかな、けれど確かにあった穏やかな時間。
だが今となってはあの光景を共にした者達の中にさえ生きている者は少ない。
そして生き残っている二つの陣営も、こうして殺し合っているのだからこれほど無体な話もないだろう。
セイバー、剣鬼黒死牟――アビゲイルがかつて心から感謝した悪鬼の剣は、しかし今他ならぬ彼女自身を断つ鬼滅の刃と化していた。
無言のままに放たれる月の呼吸・壱ノ型……闇月・宵の宮。
神速の抜刀で繰り出される居合抜きは通常ならどんな天禀さえ一太刀で斬り伏せられる魔剣だが、巫女はそれを易々と防ぐ。
揺らめいた月刃を呑み込みながら溢れて氾濫する、異界の神の片鱗たる触手の群れ。
人間時代、後に上弦と呼ばれる者達に相当するだけの強き鬼さえ滅してきた黒死牟でさえ、これほどの怪物を見た覚えはない。
あるとすればそれはあの忌まわしい"混沌"くらいのものだが、今眼前に立つこの少女もまた、間違いなくあれに匹敵する魔徒になっている。
だからこそか、月剣の冴えは間違いなく黒死牟/継国巌勝の永い生涯で一番のものだった。
(感じる)
その練度たるや、件の混沌と相対した時の次元さえ遥かに超えていると断ずる。
黒死牟自身、剣を振るいながらそれをひしひしと感じていた。
-
(三百年の、研鑽を……この数日間で、飛び越えるか…………)
強く焦がれ、強く焦がれ。
久遠の時間を費やして、人の身すら捨てて鍛錬に明け暮れた数百年。
ああも永く感じた鬼としての生涯、そこで手に入れた力のすべて、業のすべてを。
この世界で過ごしたわずかな時間、それも此処数日の間だけで凌駕したと強くそう感じる。
だというのに全能感のひとつも抱けないのは、よりにもよってあの弟めをこの世界で視てしまったからだろう。
天狗にすらなること叶わず、今でも鬼は鬼のままだ。
それなのに超えるべき遥かの高みは、自分を置き去ってどこかへ先に消え去ってしまった。
奇しくもそれは、あの赤い月の夜のように。
「イブトゥンク・ヘフイエ・ングルクドゥルゥ」
祝詞(うた)が聞こえる。
これは、冒涜の詩だ。
彼女は、あらゆるモノを冒涜する。
例えばそれは、美しく研ぎ澄まされたモノであっても。
例えばそれは、醜く欲望に淀んだモノであっても。
例えばそれは、情愛の果てに狂ったモノであっても。
全てを冒涜する、彼女だけの詩篇。
宇宙から響く、虚空から降る詩。
渚に雨の降る如く、我が心にも涙降る。
されど今宵、天の銀雲は狂している。
降り注ぐ触手の波が月輪を噛み砕いた。
空間そのものを湾曲させる神の力が、斬撃を押し曲げて巫女への到達を拒絶した。
ひとつとして物理法則その他既存の理(ルール)に則っている現象はない。
悪魔のように尖った牙をぬらりと覗かせながら笑う巫女が、清貧なる聖者などであるものか。
届かない。
当たり前のように、己の技/業は届かない。
いつからであろう。
届かぬことに慣れたのは。
十二鬼月の頂点まで登り詰め、幾多もの鬼狩りを屠った。
あの"最期の夜"にあってさえ、黒死牟の剣は必殺の脅威を振り撒き続けていた。
だというのにこの世界ではどうだ。
鬼など、たかだかヒトの延長線など、単なる井の中の蛙でしかなかったのだと思い知らされ続けている。
剣が当たったところで薄皮すら裂けず。
形のない月輪さえ、条理を無視して打ち砕く。
そんな輩の跳梁跋扈する魔界こそが、この界聖杯であり。
黒死牟にとってはこの世界の方が、よほど自分を罰する地獄めいていた。
-
飛び越えても。
飛び越えても。
己という生き物の壁を、どれだけ突き破ってその先に転がり出ても。
いつだって、先に誰かがいる。
追い越すべき背中はおろか、その前にさえ無数の背中がある。
自分の底の浅さをひたすらに自覚させられた挙句、おまえの在り方はすべて間違いだと突き付けるようにあちこちから照らされる鬱陶しい光。
これを地獄と言わずしてなんと呼ぶのか。
無間地獄や阿鼻地獄、六千層に及ぶ地獄降りよりも遥かに恐ろしい。
この世界は、黒死牟――否。
継国巌勝という存在に対する否定に満ちていた。
人生を。極めた剣を。一端に抱えていた存在意義を。認識していた自己の価値を。
ひとつひとつ丁寧に踏み砕いて、否定していく太陽の世界。
太陽の輝きに照らされることを恐れて、穏やかな月明かりだけが見守る夜に逃避した軟弱者を笑う永遠の昼。
いっそ早々に死ねてしまったなら、まだ幾らか楽だったのかもしれない。
知らずに済んだことも、無数にあったのかもしれない。
月の呼吸・捌ノ型――月龍輪尾。
迫る触手を抉り斬って道を開き、ひた駆ける。
殺到する蝙蝠に肉を喰まれながら、それでも肉薄を果たして剣を振るう。
月の呼吸・玖ノ型――降り月・連面。
振り下ろす三日月が巫女の矮躯をすり潰す。
しかし現実は、それを振り上げた鍵剣が受け止めるのみ。
鬼の腕力なら指一本で押し潰せるような細腕が、今は一寸たりとも動かない。
地面を殴って星を動かそうとしている。そんな滑稽さを、黒死牟は想起した。
だがならば。
月の呼吸・伍ノ型――月魄災渦。
刀をまったく振るわずに放つ斬撃という、自分自身の本末転倒さを何より体現した技に恥じ入る段階はもう過ぎた。
心の中で今も響き続ける豪放磊落な笑い声が、あらゆる自問と矛盾への葛藤を笑い飛ばす。
宇宙を斬ると豪語するのなら、このくらい出来ずして如何にする。
回避不能の間合いで吹き荒れた斬撃の竜巻が、今度こそアビゲイルの痩身を飲み込んで切り刻んだ。
しかし。
「いあ・いあ」
声が聞こえる。
次の瞬間、そこに立っていたのは無傷のアビゲイルだった。
黒死牟は確かに見ている、斬り刻まれて血飛沫をあげる巫女の惨憺を目にしている。
なのにその記憶を真っ向から否定する"現実"が、悪戯をする子どものような顔で嗤っていた。
-
「とても痛いわ。苦しいわ。私、辛くて泣いてしまいそう」
伸ばされる、手――
ただそれだけで、唐突に黒死牟の半身が消し飛んだ。
鬼でなければ間違いなく即死。
強度も、距離も、何もかもを無視した証明不能の方程式が上弦の月を半月に変える。
「それでも私、泣かないわ。どれだけ痛くても苦しくても、今"あの人"が感じてるのに比べたらそよ風みたいなもの。
だから繰り返すの。だから何度でも、この身が擦り切れても繰り返す。箒星は巡り、法廷は開かれ続ける。結び目は生まれ続ける」
「訳の分からぬ、ことを……」
上弦の鬼の再生速度は、下弦以下のそれの比ではない。
同じ上弦でも上位三柱とその下では巨大な格の差がある。
その点、求道の修羅である猗窩座と神童の童磨をさえ寄せ付けず頂点を保ち続けた黒死牟の再生は言わずもがな最高のレベルだ。
半身欠損など彼に言わせれば巻き返せる範疇でしかなく。
また、この程度の不覚は不本意ながらもはや慣れている。
土に塗れた回数。
界聖杯という地獄で味わった屈辱の数。
それが、黒死牟を明確に強くしていた。
月の呼吸・拾ノ型――穿面斬・蘿月。
瞬時に再生を終えて繰り出した刃が、巫女を再び斬撃の中に隠す。
その一瞬を突いて再び台頭してきたのは、アビゲイルが言うところの悪魔憑きの少年だった。
「化物同士の決戦だなオイ。魑魅魍魎のバーゲンセールかあ?」
切り刻まれていくアビゲイルにチェンソーの刃を突き立てる。
ぐじゅ、という肉が潰れる音に続いて、スプリンクラーもかくやの勢いで噴き上がる鮮血の音が響く。
スプラッター映画を通り越してスナッフビデオ同然の惨劇だったが、それでも演目の形は揺るがない。
これがか弱い少女への露悪的な虐待劇ではなく、狂気に囚われた巫女による恐怖劇であるということを改めて二人に突き付けるように、銀の運命は素手でデンジのチェンソーを掴んでいた。
「うふふ」
「うおっ。力、強〜〜ッ……!?」
「か弱い悪魔さん。おいたをしてはいけないわ」
そしてそのまま、自らの身体に深く突き立ちそれどころか貫通していた凶刃をぬぷ、ぬぷりと耳を塞ぎたくなる異音を奏でながら引き抜いていく。
臓物が刃の凹凸に引きずられて外に飛び出すが、アビゲイルにそれを気にした様子はない。
戦慄を通り越し、悟りさえ抱かせる光景である。
これに比べれば、鬼などまさしく人間の延長線上にある存在でしかない。
この娘は、本物の化生だ。
昼も夜も関係なく、またあらゆる理に縛られず、狂気のままに現実を湾曲させる天魔の化身。
鬼が天魔を討つという皮肉以外の何物でもない光景を、黒死牟が体現する。
内臓と脂肪諸々の色を開帳しながら笑う少女、その首筋に向けて躊躇なく鬼剣を振るった。
「いぐな・いぐな・とぅふるとぅ――」
「黙れ」
紡がれる詠唱に付き合ってやる義理はない。
むしろ、今はそれ自体がありがたかった。
-
この局面での詠唱は即ち、自分達の猛攻が彼女に対し一定の効果を挙げていることを示す。
どんなに道理を超越した芸当を駆使していようが、彼女もまた自分達と同じサーヴァントなのだ。
であれば必ず、そこに限界が存在する。その枠組みに収まっている事実自体が状況の突破口になる。
故に出し惜しみはしない。
確実に殺せる一撃で、屠り去りにかかる。鬼殺を成す。
そのための月光を用立てるのに、特別な動作は必要なかった。
ただしその代わり、対価だと言わんばかりに猛悪なまでの吸い上げが襲ってくる。
まさしく妖刀。地獄の鬼が振るうに相応しい、いやそれでさえ役者が足りるか定かでない魔剣。
放つのは黒き斬撃――数に飽かすこともなく、逃げ場を塞ぐことに腐心するでもない、ただの袈裟斬りだ。
だからこそその速度は黒死牟の持つあらゆる技の中で最速。
最強の海賊でさえ、この剣を前にしては咆哮し悶絶するしかなかった一振り。
月の呼吸・拾漆ノ型――――紫閃雷獄・盈月。
「ぁ」
拍子抜けしたような声が、アビゲイルの口から漏れる。
初めて、その顔から笑顔が消えた。
呆けたような顔が浮かんでから、次の段階に移行するまで一秒もかからない。
「う、あ――あ、ああああああああああああっ……!!?」
露出は多く布地は薄い、退廃と冒涜を糸代わりに編み上げたような異界の巫女装束。
それごと柔肌を切り裂いた斬撃の軌跡が、次なる斬撃の始発点となる。
そして巫女の体内で起こるのは、自分自身の血肉を糧に成長していく斬撃という地獄の形だった。
「ひ、ぐぅ、あ、あ……っ、い、ぁ……あ、あぁあああぁああ――!!」
響き渡る絶叫は、それが彼女に対してさえ無視することのできない痛手であったことを示している。
上弦を超越し、鬼の王へと新生した猗窩座はこの斬撃を乗り越えることができなかった。
カイドウは体内に覇気を轟かせ、肉体強度に物を言わせて圧殺する荒療治で凌いだ。それでもその傷は確かな深手として残り続けた。
アビゲイルの所業は確かにめちゃくちゃだが、彼女自身の耐久値はそう高くないものであると黒死牟の六眼は見抜いていた。
ましてや彼女は、竜王カイドウの最後の一撃を相手取っている。
結果的に下しこそしたものの、あの"火龍大炬"はこうまで成った/堕ちた巫女でさえ持て余す一撃だったらしい。
アビゲイルの霊基には、カイドウが残した傷跡が今も癒やしきれずに残留している。
当然だろう。あれだけの怪物が最強と断じて放つ一撃を、そう易々と凌ぎ切れて堪るものか。
隠し切れない疲弊と、サーヴァント故の限界値。
そこにねじ込まれた、閻魔が繰り出す盈月の一刀。
これだけでも十分に討伐に足るものと信じるが、黒死牟は今孤軍ではない。
「う、ぁ、ああぁあああ゛ぁ゛っ、が……!!」
「へへへっ、ずいぶん痛そうじゃねえかよ〜……! 傷口に塩を塗り込んでやるぜェ〜〜ッ!!」
「――ひ、ぎゅ……ッ」
文字通り、傷口をこじ開ける役目をデンジが担う。
突っ込まれた刃が今も斬撃が肥大し続けているその傷を押し開き、内側を更に掻き回すのだ。
もはや激痛だけで発狂死してもおかしくない責め苦を敷くさまは、まさしく悪魔と鬼、地獄のコンビネーションと呼ぶに相応しい。
「これで――」
「沈め……!」
切腹。
ならば介錯が必要不可欠だろう。
そして此度、それを務めるのは六つ目の鬼だ。
水銀の空の下、邪教の巫女を断罪する剣が振るわれる。
彼女の首を切り落とし、淀んだ愛の物語を終わらせる一太刀。
いざ終われと天魔討伐の絵巻を締め括る、結びの筆が振るわれるその最中。
-
中の、
ナニカと、
目が、
合った。
.
-
「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」
黒死牟が開き、デンジがこじ開けた袈裟の傷。
本来ならば筋肉や臓器が覗くだけの筈のそこから、何かがこちらを見ていた。
それが何であったのかを形容する手段は、ふたりにはない。
ただ、分かってしまったのだ。
見られている、と。
目が合った、と。
認識された、と。
「ぉ゛、え」
デンジが嘔吐した。
黒死牟も、介錯の刀を振り下ろさんとする格好のままで硬直していた。
与えられた情報の量を、脳が処理しきれていない。
今自分が何と目が合ったのか、いや合ってしまったのか。
それを理解しようとする理性と理解すまいとする本能が無限のせめぎ合いを繰り広げているから事態がまったく進展しないのだ。
これを理解してはならない。
逆に、理解されてもならない。
知るな、見るな、関わるな。
触れるな、思うな、感じるな。
盲目白痴であり続けることこそがこれに対しての最適解。
遠巻きに見る星空がいかに美しくとも、望遠鏡で倍率を絞って観測すれば人知を超えた星辰が蠢くのが見えるように。
真実を知ること、世界が開けることが必ずしも幸福ではないことを示している。
「ダルブシ・アドゥラ・ウル・バアクル…………」
苦悶の声が、止まる。
紡がれる呪文は、妖精の囁きに似ていた。
「いあ、いあ、んぐああ んんがい・がい
いあ、いあ、んがい、ん・やあ、ん・やあ、しょごぐ、ふたぐん」
それは端から見れば、さぞかし奇妙な光景だったに違いない。
少女の腹から引き出される自分の刃を、進めも引きもせず止めているデンジ。
刀を振り上げたままの格好で静止している黒死牟。
アビゲイルは官能的でさえある粘ついた水音を立てながら、悠然と誰の邪魔も入ることなく歌唱を続けている。
「いあ、いあ、い・はあ、い・にやあい・にやあ、んがあ、んがい、わふるう、ふたぐん」
そんな彼女の顔から、一度は姿を消した笑みが。
にぃ、と――引き裂くように、顔を出した。
「よぐ・そとおす」
鼓膜が爆ぜる。
魂が震撼する。
認識の彼方からこちらを睥睨する神、語られぬモノ、語ってはならぬモノ。
観測される深淵、世界の戸口に佇むそれが、ああ、今、窓に、そこに。
「 よぐ・そとおす! いあ! いあ! よぐ・そとおす! 」
額が、鍵穴が、傷口が、瞬く。
またたく。そして、まばたく。
サーヴァントの身では知覚することも叶わない巨大な何かが、まばたきをした。
起こったことは多分、きっとそれだけ。
ただそれだけのことだった。
世界が、銀の光に包まれていく。
少女は、愛し子を抱擁するように両手を広げた。
真っ赤な血が、剥がれてとろりと溶け落ちて。
体内で反響していた斬撃は、いつの間にか消失していた。
それそのものが宇宙の彼方、星の光さえ窺えない何処(いずこ)かへ飛んでいってしまったかのように。
「何だよ、これ……」
デンジが辛うじて絞り出せたその言葉が、彼らにできる最大限の抵抗だったのかもしれない。
光が、邪神の祭祀に踏み入った悪魔憑きと鬼を呑み込んでいく。
塗り潰して、白く、白銀に染め上げていき。
そして――
-
◆◆
『人間であり非人間であり、脊椎動物であり無脊椎動物であり』
『意識を持つこともあり、持たないこともあり』
『局所性』
『不変かつ』
『自己一体感』 『動物であり植物』
『無限性』
『幼年期の夢』
『力の渦動』
『無限』
『原型的な無限の眩暈』
『囀り』
『インドの寺院』 『繰り返し連続して見る夢』
『深淵と全能』
『神聖な存在』
『呟き』
『そのもの』
『空恐ろしい想念』
『不条理』
『口にするのも憚られるほど』
『法外』
『零』
『戸口に立つもの』
『手足と頭を多数備える彫像』 『窮極の門』
『限りのない空虚』
『無』
『始まりも終わりもない』
『触手持つ原形質の怪物』 『最極』
『ラヴィニア・ウェイトリー』
『異端なるセイレム』
『時空連続体』
『虹色の輝く球』
『門にして鍵』
『彼方なるもの』
『全にして一、一にして全』
◆◆
-
ざ、と。
女が、少女達の前に姿を現した。
初めて見る女ではない。少なくとも、霧子にとっては。
「あ……」
彼女が誰であるのかに予想がついたのは、幽谷霧子ただ一人。
アビゲイル・ウィリアムズを従え得る人物がいるとしたら、霧子には一人しか思い付かなかった。
そして片目だけの色彩異常。とても綺麗な、宝石ともオーロラとも違う透明を湛えた眼(まなこ)。
今はもう記憶の中だけにしかいない、透明な手を持っていた女の姿が脳裏によぎる。
「空魚、さん………」
「久しぶりだね。元気してた? あいつが迷惑かけたでしょ」
女。紙越空魚は、再会に驚いた様子もなくそう言った。
あいつ、というのが誰のことを指しているのかは言うまでもなく瞭然である。
仁科鳥子。アビゲイルの、かつてのマスター。
彼女が、名前を聞いただけで目の色を変えるくらい大切に想っていた人。
その手には、一丁の拳銃が握られている。
銃の銘を知っている人間は、もはやこの界聖杯には存在しない。
誰も彼もが死んでいき、今残っている器は資格を失った者も含めて三人だけだ。
マカロフの名は、紙越空魚だけが知っている。
そんな事実もまた、彼女にとっては清々しく心地よくさえあるものだった。
この銃もまた、もういない共犯者と紡いだ思い出の結晶なのだから。
「あと、死柄木を倒してくれてありがとね。あいつの力は危なすぎるから、できれば勝つのはあんた達であってほしいと思ってたんだ」
紙越空魚は、人間ではなくなった。
少なくとも彼女自身は、そう思っている。そう自らに科している。
〈裏世界〉とは一歩でも足を踏み外せば永久に正気を失う狂気の園。
それに照らして言うならば、足を踏み外した自分は〈彼ら〉の側に堕していなければならない。
怪異と呼ばれる存在は、その無法とは裏腹にしばしば律儀にルールを守る。
放課後の女子トイレ。三番目の個室をノックし、呼びかけることで現れる厠の少女。
鳥居と五十音を記した紙。十円玉に指を置き、正しい手順で語りかけることで知恵を授けてくれる狐の霊魂。
鏡の前、特定の角度に礼をすることで顕れる囁き喰らう破滅の女怪。
曰く因縁渦巻く廃墟に踏み入ることでのみ霊障を振り撒く巣窟の住人達。
夜、太陽の消えた闇の中にだけ存在することを許される人食いの鬼。
だからこそ、〈裏世界〉をする二人組という怪異は。
片割れを失ったことで、狂気のままに血を流す鬼女と化した。
透明な眼を持ち、銃を携えて、子どもたちを殺す鬼女。
果てしない蒼空の広がる地獄から来た怪人。
空と鳥を隣り合わせて綴るあの妖鳥のように。
紙越空魚は怪異として、世界の終わりに立ち塞がる。
マカロフの銃口を、躊躇もなくまずは霧子に向けた。
相手は小娘。ただのアイドル。そのことは、アサシンによる事前調査で既に割れている。
-
「最後に聞いておこうかな。鳥子は、あんたにとってどんなやつだった?」
「……鳥子さんは……」
地獄への回数券(ヘルズ・クーポン)の服用は既に完了。
峰津院大和という強大な敵から受け継いだ遺品も、全部使って勝ちを狙う心算だ。
どうせこれが最後なのだから、温存しておく理由ももはやない。
銃口を向ける空魚に、霧子は顔を伏せこそすれど怯えはしていなかった。
アイドル。一般人。無力な、怪異には蹂躙されるしかない普通の女の子。
けれどそんな人間でも、地獄に放り込んで一月も暮らさせたらどうやら多少は肝も据わるらしい。
「…………優しい、人でした」
霧子は、死への恐怖を超克したわけじゃない。
今この瞬間だってそれは変わっていない。
彼女は今も昔も変わらず、小さな小さないのちでしかない。
「とても綺麗で、優しくて……。アビーちゃんが、あの子が慕うのもわかるような……すてきな、お姉さん。
だけど空魚さんがいるってわかったら、すごく真剣な顔になって………空魚さんのことが本当に好きなんだなって、そう思いました……」
「そっか」
だろうな、と空魚は思う。
鳥子はそういうやつだ。
仁科鳥子という人間は、まさに今霧子が言った通りのような人間だ。
あんなに恐怖で溢れた世界を生きているのに、自分がちょっと倫理観のないことを言ったら複雑そうな顔をする。
〈裏世界〉の存在がなければ、たぶん一生会うことも、そして合うこともなかっただろう類の人間。
そういう女だった。だけどそんな女の中で、少しでも自分が特別であれたらしいという事実が空魚の心に一筋の風を吹かせる。
――やっぱりあいつ、私のこと好きすぎだな。
私も、人のことを言えた義理じゃないけど。
「わたし……鳥子さんに、生きていてほしかったです」
そう言って霧子は、我が事のように目を伏せる。
知った風な口を利くな、と思わなかったわけじゃない。
でもこの世界に限って言えば、鳥子のことを知らずに生きてきたのはむしろ空魚の方だ。
だから怒るでもなく、その言葉の先を聞くことにした。
「いっしょにいた時間は、本当に……ほんとうに、短い間だけだったけど……それでも…………。
わたしは、……わたしも…………鳥子さんのことが、好きでした……。だから――」
「だから?」
「…………、…………ごめんなさい」
「は?」
-
一度目は堪えた。我慢をした。
でも二回目は、内容もあってその限りじゃなかった。
〈裏世界〉の存在も、あいつがどういう人間かもろくに知らないだろうガキがあれを好きと言っていること。
自分があいつに対して抱いてる感情も知らないまま、そんな言葉をのうのうと吐いていること。
その事実は、少なからず空魚の神経を逆撫でした。
引き金に触れた指が、躊躇いではなく苛立ちで震える。
けれど続いた言葉で、空魚は思わず拍子抜けしたような声を漏らしてしまう。
「空魚さんの、大事な人のことを………守れなくって、ごめんなさい…………」
霧子の瞳に、涙はない。
だがそのことが逆に、彼女の言葉がその場しのぎの心にもない本心ではないのだと空魚に告げていた。
鳥子がいなくなってしまったこと。
もう二度と戻らぬ身になってしまい、そのことが空魚に深い哀しみと悲しい覚悟を与えたこと。
この霧子は、それを自分のことのように感じ取っている。
決して薄っぺらな同情ではない。そのことが、空魚には分かってしまった。
鳥子の死は霧子のせいなどではない。空魚もそれは分かっているし、だからこそ別にそこに関しての恨み言を彼女へ向けるつもりはない。
「――――、何言ってんだ……おまえ」
馬鹿じゃないのか、と空魚は思う。
狂っている、とさえ思う。
こいつは、この霧子は、これを本気で言っているのだ。
この状況でさえ、銃を向けている自分を憎み恐れるよりも自分を"そうさせた"鳥子の死を悼み、その死を空魚に詫びている。
こいつ、頭がおかしいんじゃないのか。そうじゃなくても大馬鹿だ。それ以外にあり得ない。
「アビーちゃんを、止めてとか……誰かを殺すのは、よくないよとか……。そんなことを言うつもりは、なくて……」
この世の多くの人間は、人類のマジョリティは圧倒的に善性だとそう信じてる。
誰かの不幸を本気で哀しみ、誰かの幸福を本気で喜び、誰かが傷つかないように配慮と理解を深めていく。そんな人間が多数派だと信じて疑わない。
けれどそれは、あくまで平凡な……お風呂上がりにふかふかのソファに腰かけてゆっくりスマートフォンに世迷い言を打ち込めるような、そういう安穏とした日常が保障されている場合にのみ適用される前提だ。
自分の命が本気で脅かされている状況で、そんなカタログ上の善性を呑気に抱えたままいることのできる人間がいったいどれほどいるだろう?
答えは簡単だ。
そんな奴は、まずいない。
「ただ………ひとつだけ…………」
別に、〈目〉で見たわけじゃない。
〈裏世界〉の住人の真実を見抜き検める、あの峰津院大和にさえ高く評価された空魚の目。
だからただ、普通の人間としての視覚で見ただけだ。
その時、空魚に見えたものはごくごく牧歌的なそれだった。
のどかで、暖かくて、優しくて、少し退屈な。そんな"ありふれた"概念。
「空魚さんの大好きな人は……鳥子さんは、この世界でも……とても素敵に、生きていたよって……。そう、伝えたかったんです……」
-
――〈お日さま〉。
空魚の目に、幽谷霧子はそう見えた。
万人を照らし、世界をいつだとて実直に見つめながら、それでも翳ることを知らず、汚れなくあり続ける。
世界の善きものを寄り集めて奉ったような、光と熱に満ちた。
けれどそれでいて誰の目も身体も焼くことのない、優しいだけの、ただそこにあるだけの光。
いつだってそこにあり続けてくれるだけの、そういう光。そういうモノ。
偶像。まさしくそうとしか言いようがない。
――〈空亡(そらなき)〉という妖怪がいる。
全ての妖怪を逃げ帰らせる、夜の終わりに現れるもの。
今や創作と知れて久しく、好事家に語れば鼻で笑われるのが関の山な与太話だが。
もしもそれが本当にいるならば、こういうモノであったのかもしれないと空魚は感じた。
〈空亡〉は夜の終わりに現れる。
あらゆる影を、闇を照らし、晴らして消し去る。
夜明けと共に現れて、闇夜を終わらす。自らの光で、闇を包み込む。
その妖怪は、球の形をしている。
夜明けと共に現れ、闇と影を照らし去る球。
それを人は、こう呼んだ。
それを畏れるからこそ、人は存在しない妖怪を生み出し、その輝きを定義付けた。
――〈太陽〉と。
「分かったよ。ご苦労さま、わざわざ伝えてくれて」
この女は、殺した方がいい。
誰からでも殺せるが、まずはこいつだ。
恨みじゃなく純然たる嫌悪感で、空魚は霧子を選んだ。
これは、この生き物は、怪異の生きる世界には不要なものだから。
光があるのなら遠ざける。もしくはそのものを消す。
百鬼夜行の終わり宜しく、照らされて消えてなどやるものか。
「そんで謝らなくていいから。"それ"は、私のものだ――勝手に触るな」
引き金を引く動きは、自分でも驚くほどスムーズだった。
峰津院大和の時とは違って、相手は戦う力も脅威性もないただの少女だというのに。
しかしそれもその筈だ。
怪異は、鬼は、逡巡なんてしない。
今や怪異の爪牙と化したマカロフは、主命に従って凶弾を吐く。
それは霧子の心臓へと何に遮られることもなく吸い込まれていき……
触れるその直前で、割って入った少女に弾かれた。
-
「……しおちゃん……」
「今霧子さんに死なれたら、私も困るから」
地獄への回数券だな、と空魚はすぐに理解する。
服用者特有の紋様が、黒髪の少女の目元には見て取れた。
こうなると面倒だが、それならそれでやりようはある。
「鬱陶しいな。そういう展開やめてよ、ジャンルが違うんだよね」
〈目〉で、標的の三人全員を視界に収める。
大和にさえ通じた、〈裏〉を見通す目の悪用法。
魂を観測して震わす、十八番をやろうとしたところで。
空魚は、霧子を庇って立った神戸しおの姿に眉根を寄せた。
……なんだあれ。
より正確には、しおの纏っているボロ臭いジャケットの方だ。
サイズの合わないそれが、空魚の目には龍に見えた。
白い龍だ。白内障でも患っているように眼球は白濁し、そこには生気というものが一切窺えない。
「……死柄木の置き土産?」
「すごいね。お姉さん、わかるんだ」
「まあね。っていうかマジか、めんどいな……」
空魚は仕事柄というべきか、育った畑柄というべきか知っている。
ヤバいものには、見た目なんて関係ない。
例えば、麦わら帽子に白いワンピースの、やたら背が高い女だったり。
田んぼの真ん中でくねくね踊ってる白い物体だったり。
人間(こちら)の認識だとか通説だとかそういうものに、あっち側の存在は合わせてくれない。
あの龍もそういう存在だと、空魚は認識した。
第一そうでなくたって、"あの"白い魔王の遺した置き土産なんてものが尋常な代物であるとは思えなかった。
マカロフを向けたまま、数秒ほど無言で睨み合って。
それから、ゆっくりと銃口を下ろしてため息をつく。
せめて残りの器くらいは狩ってやろうと思って出てきたのはいいが、これではご破算だ。
欲をかいた結果、アビゲイルと関係のない場所で返り討ちにされて死んだのでは鳥子にもアサシンにも笑われてしまう。
それに。
「まあいいよ。どっちみち、遅かれ早かれあんたらは終わりだから」
此処でどちらを選んだって、結局結末に大差はない。
投げられたサイコロの出目が変わることは、ない。
結末は決まっているのだ。
「ここで終わりにしよう。私とあんた達の、聖杯戦争を」
だって、ほら。
崩壊した都市の残骸の果てから、歩いてくる影がある。
-
「lu lu lu la lala la la lu lula la lu lu lulu――――……♪」
うたが、きこえる。
思わず耳を傾けてしまうくらい、美しく。
思わず耳を塞ぎたくなるくらい、恐ろしい。
そんなうたが、きこえてくる。
「la lulu lu la la la lala la lu lu lula la lulu lu lulu lu……――――♪」
どしゃ、となにかが地面に落ちてきた。
半面と半身が欠けて、四肢が既に"四"肢ではなくなっていた。
はらわたをすべて体外にぶち撒けて、肋骨が皮膚を引き裂いて花のように咲いている。
すべての目を潰されたそれがかつて黒死牟と呼ばれたサーヴァントであったことに、少女達は一瞬気付けなかった。
少女は、誰かの手を握っていた。
胸から下のない、異形の頭をした少年の手だ。
ずるずると引きずられる彼はされるがまま、血の尾を引いて少女のお散歩に同伴させられている。
エンジン音は聞こえない。魔王殺しを成し遂げた狩人が、獣害もかくやの死に様を晒していた。
「こんにちは、皆さん。気持ちのいいお昼ね」
笑う少女は、すっと鍵を天へと翳す。
そして、ドアでも開くようにそれを回した。
それが合図。世界が再び、壊れるサイン。
「そしてさようなら。せめて最期は、幸せなほど安らかに」
――かつて都市だった白紙の地表が。
――触手の犇めく、異星の大地に塗り替わる。
-
「いあ、いあ…………今行くわ、マスター」
星辰光という力のことを、七草にちかは知っていた。
アシュレイ・ホライゾンが用いた力だ。
説明は正直なところちんぷんかんぷんだったが、要するに地球上に別な星の環境を再現する力だったとにちかは理解している。
だがこれは、そんな生易しいものではない。
持ち込んでいるのではなく、書き換えているのだ。
界聖杯内界および深層が、界聖杯という上位者によって造られた世界であるのをいいことに。
神の如き権能を用いて、それを異星そのものにリライトしている――!
ならばそんな世界に、人間の生存する余地があるわけがない。
ここは、これは恐怖の大地だ。
深淵から来る根源的恐怖が跋扈し、ひと呼吸で人を発狂させる宇宙的恐怖(コズミックホラー)の舞台だ。
しおがたたらを踏んだ。
にちかが嘔吐した。
界聖杯内界で積み重ねた経験も成長も、異星にあっては意味を成さない。
外なる神の膝下たるこの汚穢にして神聖なる星では、人の強さなど何の意味も持たない。
すべてに、意味はなく。
故に、すべてが此処で終わる。
そう理解するしかない、終わりの景色のその中で。
「…………、アビーちゃん…………っ」
――――ただひとり。幽谷霧子だけが、少女を見つめて立っていた。
太陽の光は、あらゆる怪異を照らして灼く。
あるいは、抱擁して浄滅させる。
それがこの世の理、聖杯戦争という百鬼夜行絵巻の末尾だ。
だがこの星は今や太陽系の遥か彼方、領域外の宇宙に揺蕩う凶星。
太陽の光など、お日さまの輝きなど、届くべくもない凶つの星だ。
故に、少女の存在に意味はない。
その光は、降臨者(フォーリナー)の少女を照らせない。
「霧子さん、もうすぐよ」
アビゲイルは嬉しそうに笑っていた。
それがあまりに爛漫とした顔だったから、霧子は唇を噛んでしまう。
-
「もうすぐ、またあの人に会える時がやってくるの」
何のために立っているのだろう。
霧子は、既に戦うということを理解している。
それは彼女達がまだ方舟と呼ばれていた頃の話。
無垢なアイドルだった彼女達は、当然として現実に直面した。
大団円というエゴを押し通すことの意味。
優しい結末という理想論に轢殺される、誰かの願い。
言葉を交わしても、手を差し伸べても決して相容れない者の存在。
尊い願いたちは、いつも分かり合えるとは限らない。
人を殺して勝ち取らなければ救われない者達と、皆で幸せになりたい者達との間に妥協点は存在しない。
例えば、神戸しおがまさにそうだった。
彼女は、幽谷霧子が初めて明確に"戦う"ことを示した相手だ。
しおは愛を抱えている。大きな、他人には計り知ることもできない愛を。
だからこそ、その時が来たなら戦うしかないのだと理解した上でそれを言葉にした。
そしてこのアビゲイルという少女も、ある意味ではしおと同じ。
「この私は所詮、時が来れば消え去るうたかたの夢でしかないけれど……
それでも私、とっても幸せよ。鳥子さんが大好きな人と幸せに、この先の世界を生きていけるのなら――ええ。これ以上の喜びはありません」
彼女の願いは、聖杯によってしか叶えられない。
なくしたものは返らない、その理を唯一覆せるのが全能の願望器だから。
霧子も、失う痛みは何度も経験してきた。
誰も彼も、死んでいった。消えてしまった。
彼の彼女の顔をもう一度見られるなら、どれほど幸せなことだろうと思うから。
だから、アビゲイルの行く道を糾することなんてできる筈もない。
では何故、自分はまだ立っているのだろう。
その答えは、霧子自身にも分からないままだった。
分からないままだった、けれど――
「アビーちゃんは……」
口を開いて、言葉を紡いだ。
へにゃりと力なく、それでも笑って。
「アビーちゃんは、頑張ったんだね……」
「――、――」
そう、言った。
アビゲイルが、驚いたような顔で少しだけ止まる。
正直なところ何を言うべきなのかはとても迷った。
ほとんど感覚的に絞り出した言葉だったと言ってもいい。
でも、今彼女にかけるべき言葉があるとすれば、それはきっとこれだと思った。
「…………ええ。私ね、霧子さん。とても頑張ったの。すごく、すごく――」
-
「うん……。アビーちゃんは、すごい子だ……」
変わってしまった姿かたちは、まさにその証なのだろう。
自分自身を見る影がないほど変えてしまってでも、彼女は手を伸ばしてきた。
失ってしまった大切なものを、もう一度掴み取るために戦ってきた。
きっと自分なんかでは想像もできないくらい、大変な思いをしてきたんだろう。
苦しんで、泣いて、泥と血にまみれて、それでも歩き続けてきたんだろう。
――そうして彼女は、仁科鳥子のサーヴァントだった少女は今自分達の前に立っている。
彼女の目指す結末と、自分達の目指す結末は決して相容れない。
だけどそれでも、その歩いてきた道と努力を否定するべきではないと思った。
頑張ったねって声をかけて、労ってあげるのが"友達"としてするべきことだと信じた。
その上で。
「でも、ね……わたし達にも、信じてきたものがあるんだ……」
この想いだけは。
連綿と繋いできたこの気持ちだけは――この方舟だけは、譲れないのだとそう示す。
胸を抑える手がやけにあたたかいのは体温のせいだけではない。
なくしてきたもの。一緒に生きてきたもの。待っていてくれるもの。
そのすべてが、ちっぽけな少女に力をくれる。
光の届かない、宇宙の果てであろうとも。
それさえ、その熱さえあるのなら――
「だから…………受け止めて、背負っていくよ…………」
お日さまは、〈夜の終わり〉は輝ける。
輝いて、眩しくいられる。
最後の最後の宣戦布告。
それに、アビゲイルは短く言った。
「そう」
分かっていたことだ。
それなのにその声に少しの落胆が滲んでいたのは、心のどこかで彼女もまだ信じていたからなのか。
わずかな時間とはいえ絆を紡いだ、優しい少女。
彼女を踏み躙らずに、離してしまった手を掴めるなんて都合のいい可能性を。
だがその未来は、至極当然の帰結として否定される。
であれば、アビゲイル・ウィリアムズが選ぶ行動は決まっていた。
鍵剣を静かに掲げる。
無力な少女、かつて確かに友達だった少女に。
その命を、今ここで断ち切ってしまうために。
-
「ありがとう、霧子さん。私、あなたのことは忘れないわ。
あなたのことも、皆さんのことも。私も私で、全部背負っていくから」
だから。
もう、おやすみなさい。
振り下ろされる鍵剣に、逆らう手段は存在しない。
霧子のすべての抵抗は、確定された運命を覆せない。
奇跡は起こらず、輝きはたやすく潰える。
それでも、霧子は立っていた。
立って、見据えて、信じていた。
そう、彼女は奇跡など願っていない。
霧子は信じているだけだ。
だからこそ、閃く鍵が少女の肉を斬り裂かず阻まれたのは必然の運命だったと断言できよう。
「…………覚えて、いるな」
「はい…………覚えてます……!」
「ならば……良い…………」
交わす言葉は、短く。
されどそれだけで十二分。
血まみれでぼろぼろの背中を見つめ、頷く霧子。
その視線の先に立っているのは――ひとりの侍であり、一体の鬼だった。
上弦の壱。
継国の長男。
焦熱地獄から零れた運命のしずく。
焦瞼を超えて融陽に至った、月の剣士。
――黒死牟は、そこにいた。
◆◆
-
太陽の光。
それは、鬼の存在を赦さない天の意思。
鬼となり、時を重ねるにつれて誰もがその記憶を忘れていく。
けれど男は、覚えていた。
この世の何よりも鮮烈な、その輝きを覚えている。
それを見、それに灼かれる他人の気持ちなど微塵も理解せずに、勝手な顔で笑う男を。
そういう家族(かたわれ)がいたことを、一度とて忘れたことはない。
鬼畜に堕ち、永遠の闇夜を生きる中で。
生きる標のように灯り続けた、唯一無二の太陽。
赤月ではなく朝日に溶けたその影を、今も鮮明に覚えているから――
だから。剣士は今、宇宙(ソラ)に挑むのだ。
.
-
◆◆
月の呼吸・壱ノ型――闇月・宵の宮。
それをもって血戦は再開された。
神速の抜刀に複雑怪奇なる月輪の点滅が交ざる、当たり前に回避不能の一撃。
小手調べと呼ぶにはあまりに無体な斬撃だが、敵は鬼さえ届かない宇宙から下りてきた色彩だ。
鍵剣が太刀を阻み、泉のように沸き出した触手が月を咀嚼して噛み砕く。
それでも足りぬと迫る触手に呑まれるのを是とするほど、黒死牟は抜かった剣士ではない。
弐ノ型――珠華ノ弄月。
三連の太刀で触手を蛸の刺身よろしく裁断しながら幼い身体を狙う。
されどアビゲイルは技名の通り、弄月に笑う余裕を崩さない。
魔力出力に物を言わせた突進で文字通り正面突破しながら、振るった鍵の鋒が脇腹を掠めた。
それだけで傷口が爆ぜる。
全身の細胞に粗塩がまとわり付いてくるような、放射線被曝にも似た激痛が黒死牟の意識を沸騰させた。
現在、アビゲイル・ウィリアムズは彼方の邪神との同調が極端に高まっている状態だ。
ともすれば霊基再臨の枠をさえ超えた災厄を引き起こしても不思議ではない、よって黒死牟達に猶予はほぼないと言ってよかった。
「優しいひとを傷つけるほど心の痛むことはないわ。けれど、そうね。私も背負って乗り越えないと」
「ほざくな……戯けが…………」
手数では黒死牟に間違いなく劣っている筈なのに、アビゲイルの猛攻は彼にとって嵐のようにも感じられた。
骨身を噛み砕く蝙蝠の群れに構っている暇はない。
最低限の身体機能を維持することだけに意識を向け、負傷を無視して呼吸を重ねる。血鬼術を放つ。
参ノ型。厭忌月・銷りが至近でアビゲイルを襲い、後退させつつその痩身を月で刻んだ。
人事不省に陥っても不思議でない傷が入っている筈なのに、何故かその傷が次の瞬間には姿を消している。
再生ではない。これは逆行だ。
彼方の邪神、巫女が仕える全能なる外神は時間をも司る存在であるが故に。
「ああ、お父様――あたたかいわ。どうかアビーに微笑んで。私の、私達の、この"願い"を叶えるために……!」
肆ノ型が魔力の放出だけで、真実の意味で粉砕される。
この状況でなお不壊を貫いている閻魔は、やはり妖刀と呼ぶ他ないだろう。
紡いだ絆、受け継がれたもの。
皮肉にもかつて彼を彼らを終わらせた鬼狩りのように、今黒死牟はそれを糧とし鬼殺ならぬ神殺に挑んでいた。
-
『海を渡りゃ世界も広がる。空の雲を斬る剣士もいりゃ、視界の果ての山を切り飛ばしてのける野郎もいたな』
奇しくもそれは、仁科鳥子の呪詛を経ってすぐのこと。
煩わしくも絡み付いてきた風来坊、光月おでんは頼んでもいない漫遊話を始めてきた。
何より腹立たしかったのは、その会話が結局自分にとって有意義なものになってしまった事実だ。
侍としての剣だ何だと考えるのが馬鹿馬鹿しくなるような荒唐無稽が、彼の話では当たり前に歩き回っていたからだ。
『それでも一番凄かったのはやっぱりロジャー……海賊王になりやがったあのワガママ船長だ。
今もあいつの剣はおれの瞼に焼き付いてる! いいか、よく見てろよ。こうやって構えて、こうだ! 一気呵成にズバっと切り込むんだよ!!
んで技名はこうだ。これがまたイカしてんだ、男ならこれで心胆震えねェ奴はいねえ!』
鬼の王と化した猗窩座との戦いは、彼との会話がなければ制せなかっただろう。
そして今もまた、黒死牟はあの煩わしい時間のことを回想していた。
頼んでもいないのに動作付きで教えてきた、彼の知る"最強の剣"。
あの大雑把な男のことだ。細部の記憶まで正しいのかは定かでないし、彼流のアレンジが入っている可能性も大いにある。
にも関わらず結局こうして記憶の片隅に留めてしまっていたのは、堕ちたとはいえ剣の道に生きた者として惹かれるものがあったからなのか。
『恥も外聞も気にするな! 大声で叫べ、いざや参らん――』
閻魔を引き、構える。
迫る触手を避けるのは、後に回す。
すう、と呼吸ではなく純粋に息を吸い込んで。
そして記憶の引き出しから暑苦しい顔共々飛び出してきたその名を、高らかに吼え上げる!
「――――――――神避(かむさり)…………!!」
一閃。
それを受けたアビゲイルの顔に、驚嘆が浮かんだ。
「か、っ……!」
深い刀傷を刻まれ、小さな口から血を零すその姿は黒死牟へある確信を与える。
「やはり………すべて効かぬというわけでは、ないようだな…………」
先ほど、紫閃雷獄・盈月を打ち込んだ時にも思ったことだ。
このアビゲイルは無敵と見紛うような、規格外の性能を持ちそのままに振る舞っている。
だが、すべての攻撃が効かないというわけではないらしい。
恐らく重要なのは深度。小さな傷を重ねるのではなく、霊核深くまで届くより鋭い斬撃で攻め立てることこそが肝要。
その理屈で言うならば、斬首などの即死に繋がらせることのできる攻撃もきっと有効だろう。
「種が割れれば……神殺しもまた、ただの鬼殺か…………」
首だけに固執しなくていい分、殺し方の幅だけで言えば鬼を相手にするよりも広い。
得た事実を反芻しながら、伍ノ型・月魄災渦で傷付いた巫女の身体を斬撃と力場の海に隠していく。
海賊王の斬撃"神避"からの無動作斬撃という組み合わせは殺人的だが、しかし割れたアビゲイルの性質を思えば決め手にはなり得ない。
そう判断した黒死牟は月魄災渦の斬撃を前座に据えつつ、本命の斬撃を重ねて振り下ろした。
-
陸ノ型――常世孤月・無間。
微塵に切り裂く心算で放ったそれには、アビゲイルを討てる可能性が十分にあった。
技自体の凶悪さと、黒死牟の極まった太刀。そして光月おでんから受け継いだ妖刀。
三位一体(トリニティ)を描く月剣は、如何に邪神の巫女と言えども微笑んではいられない脅威性を秘めていたが……
「ふふ」
月の裏側から響く小さな笑い声が、すべての希望を霧散させる。
斬撃を引き裂いて白い手が伸びた。
切り落とさんと閻魔を振るう黒死牟が、しかし物理的にひしゃげて地面を転がる。
理屈ではなく、結果だけが生まれる異常現象。
まさしく狂気。世界そのものを狂おしく歪める、神の御業。
「痛いわ。ええとても……これが私への罰なのね、お父様。大事なものひとつ守れなかった愚かなアビーへの、罰」
「何を……寝惚けたことを、言っている……!」
「そうかもしれないわ。私、もうずっと夢見心地なの」
漆ノ型――厄鏡・月映え。
刀身の形態変化を経ずとも月の呼吸の威力を最大限引き出せる閻魔には感服ものだったが、しかしそうしている余裕はもちろんない。
五つの斬撃と無数の三日月。
返す刀の迎撃としては凶悪極まりないが、凶悪に応じるのもまた凶悪なれば。
「いあ・ええややはあふたぐん」
「ぐ、うッ――!?」
月映えの斬撃そのものが、形を失ったように崩れて消えた。
その残滓を苗床にして、爆発的に触手が増殖したのだ。
鉄砲水同然に押し寄せたそれに打ち据えられた衝撃だけで、黒死牟の骨という骨が砕ける。
更に触手どもは彼の手足に首筋に絡み付いて締め上げて、全身を原型を留めないまでに圧潰させんとしてくる。
鬼は頑強な生き物だ。しかしそれも、このレベルの攻撃を前にしては意味をなさない。
だからこそ速やかな脱出は急務であり、黒死牟はすぐさま奥の手のひとつに据えていた技を開帳するのを余儀なくされてしまった。
「舐め、るな…………!」
月の呼吸・拾捌ノ型。
月蝕・号哭鎧装。
自滅へ向かう宝具を変質させて成立させた、骨の甲冑である。
斬撃の自動展開機能を持つこの甲冑は、触手による圧殺に対して驚異的なほどに相性がよかった。
一時は黒死牟の身体を八割方まで破壊した触手達が、次から次へと切り裂かれて散っていく。
そうして死の海から這い上がった黒死牟は加速し、突貫する。
進化の果てに辿り着いた猗窩座さえ圧倒した攻防一体の鎧だ。
そんなものに肉薄されては、アビゲイルの身体ももちろんただでは済まない。
「あはは、あはははははは……!」
毎秒ごとに斬り刻まれては逆行し、斬り刻まれては逆行しを繰り返す。
スプラッターショーか地獄絵かと見紛う有様を晒しながら、それでも少女は夢見るように笑っていた。
鍵剣と鎧がかち合っては火花を散らし、轟音を響かせる。
アビゲイルの攻撃の威力は全弾において猗窩座を超え、カイドウの域にさえ迫っていたが、それでも号哭鎧装は役目を果たし続ける。
-
「すごいわ、流石お侍様。霧子さんが信じた運命はかくも鋭いのね……!」
「童(わらべ)が……ずいぶんと、酔狂な言葉を遣うものだ……」
捌ノ型――月龍輪尾。
薙ぎ払う広範囲殲滅斬撃。
鍵剣で受け止められるが、それでもその威力は邪神の巫女へ後退を強いる。
その隙を、黒死牟は背負い投げるような大振りで放つ次技で突いた。
「貴様にとっても……この剣は、運命となろう……。亡者の剣にて滅び……あの娘と同じ、黄泉比良坂へ逝くがいい……」
月の呼吸・玖ノ型――降り月・連面。
満ち欠ける月の風情を思わす大斬撃を前に、アビゲイルは今度は動かなかった。
動かぬまま、額の鍵穴から白き光を迸らせる。
斬波に大穴を穿ちながら、今度は黒死牟を後退させた。
無論、防御よりも攻撃を優先した結果として彼女の身体は引き裂かれたが、今のアビゲイルの有様はかの煌翼(ヘリオス)にさえ類似する。
「違うわ。あの人は、そんなところにはいない」
少なくとも、即死に達する傷でなければ彼女を殺傷することは不可能だ。
カイドウを討つまでの彼女であれば、まだいくらか御し易い相手だったに違いない。
しかし界聖杯の深層に落ち、邪神との同調を深めた今、アビゲイルはまさしく怪物。
界聖杯をめぐる戦争に名乗りを上げてきた数々の強者達、その中でも頂点に君臨した規格外達と肩を並べている。
鍵が、空を扉に見立ててこじ開ける。
刹那、光が鎧ごと真下の黒死牟を貫通した。
風穴を穿たれながら、しかし彼は冷静に今起こった事象を理解する。
(我が鎧装は、接触を介して斬撃を発生させる……故に攻防一体。
であれば接触などせぬまま……空間そのものを穿てばよいと、そう考えたか……)
線ではなく点。
世界そのものに撃ち込む光。
空間を超越する邪神の権能であれば、そんな芸当も当然可能となる。
身に余る力を得て絶頂の高みにあった法師を騙し、天逆鉾を掠め取って忍ばせたあの時のとやっていること自体は同じだ。
「触れられないのなら。蝶の羽をむしるみたいに、丁寧に嬲ってみようかしら」
「ッ……!」
無数の穴が、禍々しくもどこか荘厳だった黒死牟の甲冑を次々穿っていく。
ネズミの食ったチーズのように穴だらけになっていく中、黒死牟は怯まず前に進んだ。
この戦いで何をおいてもしてはならないことがひとつある。
それは、足を止めること。そして剣を止めること。
刹那でも戦うことを止めてしまえば、たちまち食い尽くされるだけ。
思い出せ、鬼狩りに明け暮れた日々を――生物として圧倒的に弱かった頃の己を。
――真昼の月となれ、巌勝。
-
「あら。お転婆ね」
黒死牟が、あらゆる負傷を無視して駆ける。
崩壊寸前の鎧装は、この段階に入っても健気に主を害する触手や異界生物を斬殺し続けていた。
この技/血鬼術を開眼させていなかったなら、ここに至るまでの段階で黒死牟は確実に死んでいただろう。
巡り巡る縁の流転が、太陽を認めた月の輝きを支えている。
拾ノ型――穿面斬・蘿月。
斬殺を通り越して圧殺にも届くような巨大な太刀筋が、アビゲイルを挟むようにして放たれる。
見た目は派手だしそれに違わぬ威力も秘めているが、主目的はまさに逃げ場を塞ぐことだ。
迎え撃つか後ろに下がるか、それ以外の選択肢を奪う。
アビゲイルは前者を選んで鍵剣を構えたが、彼女がどちらを選ぼうと大差はない。
「散れ…………凶つ神の巫女よ…………」
「あは――!」
月の呼吸・拾肆ノ型。
兇変・天満繊月。
逃げ場のないアビゲイルに辛うじて許された生存可能な領域を、すべて奪い去る範囲斬撃を放つ。
これに比べれば月龍輪尾など、無体の内にも入らない。
人の身では放つことの叶わない、鬼となって初めて扱いこなせる絶技の剣。
今の彼はこれを一切の逃げも瞑目もなく、心のままに放つことができる。
「――――――――!」
埋め尽くす。
剣で、すべてを塗り潰す。
逃れようともがくアビゲイルの手足はすぐさま月輪達に斬り刻まれて形を失う。
得意の逆行ですら事態の解決に繋がらない。
兇変・天満繊月だけでも手に余る手数だというのに、黒死牟の纏う鎧装が絶え間なく追加の斬撃を叩き込んでくるのだ。
何を口にしようがかき消され。
何を目論もうが、行動の前に刻まれる。
そんなアビゲイルの姿を前に、黒死牟は畳みかける。
生み出されるは、地さえ貫く月の虹だった。
それが、目下まさに斬り刻まれ続けているアビゲイルへ殺到していく。
月の呼吸・拾陸ノ型――月虹・片割れ月。
身動きの取れない巫女に致命を与えるための、黒死牟が放つ決め手の一撃だ。
触手の波さえ形成するなり微塵切りにされる刀剣の地獄の中で、彼女にこれを凌ぐ手立ては存在せず。
遥か外宇宙の神に見初められし銀鍵の巫女は、剣の鬼の手にかかって命を散らす。
-
……その間際、黒死牟の耳が。
轟音にかき消され聞こえない筈の、少女の声を、聞いた。
「災厄なる魔の都」
「隠されし厳寒の荒野」
「蕃神の孤峰」
「未知なる絶巓」
戦慄。
骨の髄まで凍り付く感覚が、再び黒死牟を貫く。
斬撃の隙間、鮮血の中で煌めく少女の歯が見えた。
笑っているのだ。やはり、この童は、巫女は、笑っている。
何故笑う。そんなことは決まっている。
神殺しなど、未だ幻夢の彼方。
だというのにまるで手が届いたみたいな顔をして、決着を確信している剣士の姿があまりに可愛らしかったからだ。
「深き眠りの門の彼方、降りて到るは幻夢郷。訪れど、去ることは叶わじ」
門が、開き。
光を、見た。
幻覚か現実かを判別する暇さえ、与えられはしない。
少女の鍵穴に灯る、これまでとは違った色の光。
それを目視した瞬間、黒死牟の意識は夢見の中へと連れ去られた。
「『遥遠なりし幻夢郷(ドリームランズ)』。さあ、夢見なさい――きっとこの世が滅ぶまで」
-
◆◆
『遥遠なりし幻夢郷(ドリームランズ)』。
対人宝具。他者を夢の世界へ落とす。
それは、"この"アビゲイル・ウィリアムズが持つ宝具ではない。
異なる時空、異なる事象にて、とある若人に召喚されたアビゲイルが紆余曲折あって霊基を変質させ、所持に至った宝具。
とはいえ繋がっている邪神は同じ。
時空と空間を超越し、あらゆる不可能を可能とする窮極の力があれば――ましてやそれがサーヴァントの域を超えるほど強まっているならば。
欲するに至るまでの発想こそ違えど、彼女がこの宝具を振るう可能性は十分に存在した。
本来、世界の変容/移行はなめらかに進行する。
だが今、"この"アビゲイルはかつてなく攻撃性に傾いている。
器たる少女達を含めた全員を巻き込んで夢に落とし、精神発狂に至らせるまでは不可能。
けれど討つべき一人。目の前で跳ね回っては剣を振るってくる一人の男を落とすだけならば、それはあまりに容易いことだった。
幻夢郷へ落ちた者は、そこで己が世界の真体を見る。
その解像度と質量は人の精神を壊し、自我を失わせる。
薔薇の眠りへと続く門の果てに、月の剣士が見るものは――
◆◆
-
赤い月が、空高く輝いていた。
くらり、と鬼になってから一度も覚えたことのない目眩に微かたたらを踏む。
なにか。
なにか――長い、夢を見ていたような気がする。
ひどく忌まわしい気分になっているというのに、夢の内容は片鱗たりとも思い出せない。
下らぬことだ、と切って捨てる。
鬼が夢など見る筈がない。
であればこれは、単なる耄碌なのであろう。
老いることを忘れ、死することを忘れた生き物にもそれは付き纏うものらしい。
歩く。
剣を振るい、鬼狩りを屠るためか。
人を見つけ、血肉を喰らうためか。
当初の本懐さえ判然としない起床直後の惚けを抱えながら、黒死牟は進んでゆく。
その先に、ひとりの男が立っていた。
足を止める。目を疑い、そして見開いた。
――信じられぬものを見た。
痣者でありながら、年月の縛りを無視している。
二十五の夜に死ぬ筈の男が、黒死牟の行く先に佇んでいた。
これは何だ。幻か。まだ、自分は夢を見ているのか。
そんな甘えを切り裂くように、闇夜に声が響き渡る。
「お労しや――――兄上」
あり得ない。
あり得ぬ。
あり得てはならぬ、こんなものは。
その男は、見る影もなく老い果てていた。
肌は皺に覆われ、頭髪は余さず白く染まっている。
肉体は既に、命の息吹を失おうとしている。
誰がどう見ても、ただの老人だ。
にも関わらず、六つに増やした眼は信じられない事実を告げていた。
今自分の前に立っているその弟は、兄の記憶している最後の姿から微塵たりとも衰えていなかったのだ。
殺さねば。
殺さねば、ならぬ。
思うと同時に、剣を抜いていた。
心は、本能は逃げろと喚いている。
だがここで逃げれば、己のすべてが無駄になる。
そも、今こうして生きている意味がない。
大恩ある産屋敷の当主を殺し。
共に駆けたすべての同胞を裏切り。
殺すべき鬼の首魁に傅いて血を授かり。
ヒトの時間を超えてまで技を極め、剣を磨いだ年月がすべて無為になる。
-
走り出すと同時に、剣を振るった。
月の呼吸――日に並ぶ名を持つ、己独自の技。
天満の繊月を騙る剣で、乗り越えると掲げた男を切り裂かんとする。
だが。誰よりも黒死牟自身が、この一合の結末を悟っていた。
自分が渾身の殺意を込めて放った剣は、血鬼術の無体を取り込んだ魔の斬撃は小細工含めてすべて空を切り。
刹那の後に、断つと決めた片割れのではなく自分の血が飛び散る。
斬られたと判断した直後に飛び退いた。
そうしなければ、次の瞬間には頸を断たれて殺されると理解したからだ。
この化物の剣を頸を"掠める"程度で凌げた事実に一抹の違和感を覚えつつも、黒死牟は下がる。
そして改めて見据える――自分が真に斬るべき、そう思いながらどこかで二度と会うことはない筈だと信じていた男の姿を。
「縁壱……………………」
継国縁壱。
始まりの呼吸の剣士。
自分――、継国巌勝の弟たる化物。
縁壱は、言葉を紡がなかった。
そのまま陽炎のように揺らめき、剣を振るった。
反応できたのは奇跡だ。
それでも受け止めた腕が破砕して、血飛沫をあげる。
「縁壱…………!」
憎悪のままに牙を剥き出し、応戦する。
鬼の肉体に、多少の傷など無意味だ。
であれば今すべきは、極めた技が届かなかった事実ではなく本懐を遂げるべく剣を振るい続けること。
自分の存在を誇示するように月を侍らせながら轟く、数多の斬撃。
そのすべてを切り払いながら迫ってくる神速は、もう悪い冗談の類にしか思えない。
一瞬の内に、両手の指の数を十倍しても足りない剣戟が振るわれる。
ただでさえ膨大な数だというのに、そのすべてが一つたりとも抜かりなく最速で迫ってくるから天を仰ぎたい気分になった。
がむしゃらに迎え撃っている間に右腕が落ちた。
左足が飛んだ。目が半分潰れて、内臓が半分は消し飛んだ。
怨敵――縁壱には、未だ傷ひとつついていない。
足元に広がる、鬼の血で作られた血溜まりに。
斬り刻まれ、一瞬の内に何百という敗北を喫した自分の姿が映っていた。
-
人間の形など、もはやしていない。
足りなくなった部分を補うために、人間には存在しない部位が生えている。
蜘蛛の怪物。伝承に語られる牛鬼や土蜘蛛に似ていると、そう感じた。
侍の姿か?
これが?
鬼になって老いを捨て、痣者の寿命を克服して数十年。
一度たりとも顧みることのなかった自分の姿が、水面という名の鏡には克明に映し出されている。
肩やら腹やらから剣が生え手足が生え。
失った臓物を補うように、蛆みたいに蠢いて肉がわなないている。
目の数は一対ではなく、三対あり。
残っている方の手も指がなくて剣を握れないから、その代わりを身体中から生やした剣で替えようとしている。
武家に生まれ、物心ついた頃から剣を握り、侍の何たるかを教え込まれてきた。
戦に出向いて敵を斬り、敵味方を問わず数多の猛者を目の当たりにしてきた。
その中に、ただのひとりとしてこんな輩はいなかったと断言できる。
これは、侍ではないだろう。
これを例えるなら、そうまさに――
(なんだ…………この、化物は…………?)
化物と。
魑魅魍魎、その一席を任された醜悪な怪物と。
そう形容する以外に、彼は言葉を知らなかった。
(私は……こんなものになるために……)
二十五の夜に死ぬことが、許せなかった。
心血を注いで極めてきた技が、理不尽な運命によって遺失することが認められなかった。
生涯ただの一度として目の前の弟を超えられずに終わる事実から、目を背けたかった。
だから跪いたのだ。だから、鬼になったのだ。
だから人を捨てたのだ。だから、黒死牟(わたし)になったのだ。
その結果が。
これか。
-
(こんなものになるために……老いもせず、死にもせず……永らえて、きたのか……?)
自分の中にあれほど激しく燃え盛っていた戦意の炎が、急速に萎んでいくのを感じる。
人としては越えられないと悟った。だから絶望した。だがその先にさえ、待ち望む超越はどこにもなかった。
挙句の果て、そうまでして極めた技も一発たりとて目標を掠められない。
今になってようやく自覚した無様が、黒死牟に剣を下ろさせた。
縁壱は、無言のまま剣を翳す。
目を六つに増やしても見切れないが、即死と分かる剣が自分へ向かってくるのが分かる。
魔剣などではない。
あくまでもこれは、人の身体で放つ技だ。
だからこそ恐ろしい。
この世の何より、心胆を寒からしめる。
(何故、今に至るまで気付かなかった)
青空に煌めく太陽に手を伸ばし、届かないことを理解する。
誰もが子供時分に通り過ぎる道だ。
それを、何故自分はこうまで堕ちるまで気付けなかったのか。
少し考えてみれば、分かることだったのではないのか。
どれだけ手を伸ばして焦がれても、人は太陽には触れられない。
伸ばしたその手は、空の太陽を掠めることさえありはしない。
勝てる筈など、超えられる筈などないのだ。
自分は、何をどうしても単なる人間でしかなかったのだから。
早々に諦め、身の程を弁え、等身大の幸福を求めることに時間を遣うべきだったのだ。
(こいつは、化物だ)
宇宙の果て、そこで佇む巫女が示した扉。
その向こうで、黒死牟が、継国巌勝が見た"世界の真実"。
それは、ごくごく単純。
何の奇も衒わず、露悪にも走ることのない、ただ当たり前なだけの現実だった。
(私は…………どれだけの時があろうと、どれほどこの剣を極めようと…………)
――継国巌勝は継国縁壱を超えられない。
人は、化物にはなれない。
伸ばした手は、太陽には届かない。
ただそれだけのことが、彼の見る幻夢郷。
この弥終にて待ち受ける、つまらない絶望のかたちなのだった。
「――けるな」
ギリッ。
音が響く。
いつしか異形ではなくなっていた、一振りの刀の柄を握り締める音だ。
「ふざけるな」
-
噛み締めた歯が、砕け散る。
真実を見据えた視界が、血で赤く染まる。
自壊した脳が、どろどろに溶けて混ざっていく。
「――――――――――――ふざ、けるな………………………………!!」
死を告げる、化物の剣を凌いだ。
地獄の王でさえ、一合で軋む規格外の剣。
混沌、皇帝、巫女……あらゆる脅威よりもこのちっぽけな老人こそが自分には恐ろしく見える。
あな恐ろしや。こんな生き物が、人の皮を被って地上を歩いている事実に怖気が走る。
ああ、これは化物だ。これに人が敵う道理などない。
『――――はい。わたしは、見ています。
最後におやすみするまで一緒に……セイバーさんのこと……これからも見ています……!』
だが。それでも。
だとしても…………!
「私は…………俺は、ァ…………!」
手も伸ばさずに。
剣も、振るわずに。
「諦めてなど…………堪るか……………………!!」
――届かぬから、仕方ないなどと。
――諦めて膝を屈せる道理は、もっとないのだ……!
「神避……………………!」
月の呼吸などではない。
どこで学んだのかも分からぬ剣が、散る筈だった命を救う。
脳裏によぎって消えていく、奇妙な頭の武士は果たしていつの戦で見たものだったか。
分からない、だが分からぬとも構わぬ考えている時間さえ今は惜しい。
致命の剣を、神さえ避けると謳う斬撃にて凌ぐ。
そして踏み込み放つのは、鬼でなければ放てぬ片割れ月だ。
そう、この身はもはや人に非ず。侍にも非ず。
だが。
ならば。
ならば、何だという…………!
「――縁壱ッ!」
微かな驚きに眉を揺らした、赤月の下の老人。
それに剣先を向けて、黒死牟は常の口調も忘れて吠えていた。
-
「俺は、お前が嫌いだ……! お前は人の心が分からぬ化物だ。そんなお前を、俺はこの世の何より厭悪している……!!」
敵わぬから、何だという。
届かぬから、何だという。
それが、剣を振るわぬ理由になるのか。
侍らしくないから、歩みを止める理由になるのか。
「だからこそ――!」
黒死牟の身体を、骨の甲冑が覆っていく。
知らぬ技だ。だが構わない。
ますます人を離れた姿になりながら、猛進する姿はまさに怪物そのもの。
だとしても構わぬと、黒死牟は叫んでいた。
肉体で。魂で。その存在の全霊で――吠えていた。
「だからこそ、お前を超えたいのだ……! 超えねばならぬのだ、縁壱――!!」
号哭の鎧装が、一歩走るごとに剥げ落ちていく。
縁壱の剣が、斬撃の自動防御さえ物ともせずに黒死牟の御技を破っていく。
相変わらずその老体には傷ひとつ、埃ひとつついていない。
黒き斬撃を放った。
紫閃雷獄、鬼の王にさえ膝を突かせた一撃だ。
それが、どういう道理か刀の一振りで破られる。
理屈などない。原理すらあるか疑わしい。
笑えるほどの格の差は、どちらが鬼なのだと問い質したくなるほどだったが。
それでも黒死牟は、駆け続けた。
剣を振るい、血と泥にまみれながら、走り続けた。
狂っている。
彼岸も、此岸も。
瞬く月は、狂おしく焦がれる生の象徴。
迎える日は、決して触れ得ぬ死の象徴。
遠巻きに眺めるだけならば、眩しさに顔を顰めるだけで済む。
しかしもし近付こうと願えば、熱光に灼かれて誰も彼も落ちていくしかない。
幼心に空へ掲げた手は、ついぞ一度も届かなかった。
鬼の身体という蝋の翼は、とうの昔に溶け落ちた。
世界の真実は、示された。
この世のすべてが不可能と断じた絶望は、今も変わらず欠片も揺らがずそこにある。
それでも。
――それでも、脈打つことさえ忘れた心臓が、燃えているのだ。
――地獄に落ちても一度として冷めることを知らなかったその熱が、自分を果てなく突き動かして止まないのだ。
-
『心が……どこにもいけないままだと…………命も……どこにもいけないから……』
『どんなに痛くて……ここにいることが苦しくても……わたしは見てるから……。
あなたのための歌を……こうやって……届けられたらって……今のわたしは……すっごくそう……願うんです……』
剣魔に堕ち、羅刹と化すほどの狂おしい熱が。
少女の抱擁を受けて、身を焦がすだけの熱に収まる。
何を切り捨てるでもなく、されど箍は外れたまま。
ただ目の前の宿敵/憧憬を超えるためだけに最適化された狂熱が、過去最高の剣才を発揮しながら凶月の夜に咲く。
太陽の御子と打ち合うことが成立している事実、その驚異を自覚することもなく黒死牟は狂い哭いていた。
何故超えられない。これでも届かないのか。
私は、私は――こうまでしても勝てぬのか。
すべて費やして放つ剣に専心する一方で、黒死牟は既に気付き始めていた。
違う。夢を見ていたのではなく、こちらこそが夢なのだ。
異界の大戦。その最後に果たし合うと交わした誓いは、履行されることなく役目を終えてしまったから。
きっとこれは、置き去りにされた者が空を見上げて見る夢なのだと知る。
(構うものか)
しかし、関係はない。
そんなこと、この剣を止める理由にはなりなどしない。
(私は、私は……!)
たとえ、日と月が交ざったとしても。
憎しみともすれ違いとも無縁の、らしくもない終わりへ辿り着いたとしても。
この身この剣は、ただ目の前のこれを超えるためだけに。
『兄上。なぜ、鬼になったのですか』
問うか。
問うたな、それを。
愚問だ。
いちいち問うな、そんなこと。
そういう台詞が素面で出てくるところが、忌まわしいと言ったのだ。
人では届かないから、鬼になった。
私は、最初から最後、そして今に至るまでずっと――
ただ、お前だけを見ている。
それが私の世界の真実。
この呪われた数百年の、たったひとつの真実なれば。
「――――――、」
視界が、ぐるりと回った。
頸を落とされたのだと、追って理解する。
生首となり地面に落ち、そこでまた届かなかったことを知る。
つくづく、遠い。こうまでしてもまだ不足なのか。
剣を変え、技を増やし、虫唾の走るような日だまりに身を窶しても足りないのか。
失意の中で見上げる弟は、今もってふらつきもせず直立したまま黒死牟を見下ろしている。
――その頬に、赤い線が走っていた。
-
それはおよそこの男には似合わない、小さな小さな傷。
常に完璧であり続け、存在するだけでこの世のすべてを圧する男が、不覚を取ったことの証。
刻まれた線から滴った赤い液体が、顎へ伝って雫に変わって落ちた。
涙のようだと、黒死牟は場違いにもそう思った。
「兄上」
継国巌勝は継国縁壱を超えられない。
人は、化物にはなれない。
それは今も変わらず不変の真実。
だが。
「いっそうお強く、なられましたね」
伸ばした手のその先が、ほんのわずかに太陽を掠めた。
幻夢郷が、破綻する。
黒死牟を崩壊させるための真実が、ロジックエラーを引き起こした。
赤い月が、眩い太陽に変わっていく。
空は、闇夜から晴れやかないつかの日に。
老いた弟は、人だった最後の日に見た若く壮健なる姿に。
暑苦しいほどの熱を感じているのに、しかし身体の崩壊は始まっていない。
いつしか落ちた筈の頸は、胴体に再び繋がっていた。
「さあ。お戻りください、どうか振り返ることなく」
待て、と言おうとした。
だが、言葉が出なかった。
まるで、今そうしてはならないと。
振り向いてはならぬと、そう分かっているみたいだった。
「あなたの運命が、あなたを待っている。他の誰でもない、兄上。あなたの助けを」
すべてを思い出す。
行かなければならぬ場所、戻らねばならない場所。
待っている"誰か"の顔が、脳裏にはっきりと蘇ってくる。
黒死牟は、歩き出していた。
現実(そこ)へと向かうため、帰るため。
扉は、当たり前のような顔をしてそこにあった。
それをくぐって現実に帰還する最後の一瞬。
――ぴう、と。そんな、笛の音が聞こえた気がした。
-
「…………は、ぁ…………ッ、ぐ………………!」
腹を捌き、自らの手で臓物をぶち撒けた。
侍がする切腹のような自殺的自傷行為が、黒死牟を現実へと帰還させる。
その姿をアビゲイル・ウィリアムズは、信じられないようなものを見る目で見つめていた。
「――――うそ。帰ってくるなんて」
邪神の権能を最大限に引き出して見せた、悪夢。
本来のかたちより数段は攻撃的、かつ破滅的な幻夢郷。
英霊であろうと精神死に至り、自己崩壊を引き起こさせる悪夢の檻から、しかしこの鬼は帰還した。
それが信じられなくて、思わず絶句してしまった巫女は代償を支払うことになる。
「が、うっ……!」
起きがけ一発に放った黒死牟の剣が、彼女の首筋を捉えたのだ。
斬首にこそ至らねど、その剣はこれまで放ってきたのと比べて格段に深く、何より鋭い一閃だった。
「は……っ、痛い、痛いわ……。どうして、今になってこんな――」
「貴様が……余計なものを、見せるからだ……」
黒死牟の剣速が、段を飛ばして向上している。
放たれた月の呼吸の奥義に対し、アビゲイルが明らかな焦りを浮かべて反応したのがその証拠だ。
彼女は鍵剣のひと薙ぎで三日月の刃をことごとく打ち砕くが、しかし本筋の斬撃が身体を掠めた瞬間これまでにはなかった苦悶を浮かべる。
「っう……!」
――違う。
今ここにいる彼は、さっきまでの彼じゃない。
赤い月の夜の下、世界の真実たる絶望と果たし合った経験。
果たされずに終わった筈の誓いが、擬似とはいえ果たされた事実。
それはこの界聖杯で彼が培ってきたすべての経験を凌駕する、圧倒的な経験値を黒死牟にもたらしていたのだ。
「図に、乗らないで……!」
苛立ちを滲ませたアビゲイルの声が響く。
それは、ここまで静謐とした神秘性を纏っていた、水銀の空の主とは思えない反応だった。
鍵先で描く印。五芒星が虚空に生まれ、吐き出されるのは異界のモノ達の触手の洪水だ。
-
「ザイウェソ、うぇかと・けおそ、クスネウェ=ルロム・クセウェラトル……!!」
明確な殺意を込めて放つ、一切の手抜かりを排除した一撃。
その冒涜的な猛威を前にしても、黒死牟は平常心を保っていた。
閻魔を握って構えを取り、呼吸をする。
独特の呼吸音を響かせた後に放つのは、既にここまでで一度見せた技。
「月の呼吸・拾肆ノ型――兇変・天満繊月」
展開される、斬波の波浪。
それが、瞬く間に召喚された触手の軍勢を消し去った。
否、それだけではない。
触手の向こう側で結末を見守っていたアビゲイルの身体に、先ほど当てたのと同じかそれ以上に深い斬痕を無数に刻み込んだ。
「が……! は、ぁっ……!?」
巫女が、膝を折る。
彼女の力であれば、即死以外の傷は傷にもならない。
だというのに、何故こんなにも痛いのか。
命が命としてあることを否定されるような、そんな痛みがアビゲイルの思考をかき乱す。
同時に覚えたのは、かつてない恐怖だった。
鬼の強さに怯えているのではない。
成し遂げなければならない未来、ずっと見えていた筈のそのビジョンに薄雲が立ち込め始めたことを恐れたのだ。
「私、間違ってたわ……」
夢の世界に落として精神死させる。
そんな生ぬるい手段に訴えるべきでは、そもそもなかった。
愛するマスターに食い込んだ呪詛を断ってのけた、鬼の侍。
その存在を、強さを、もっとずっと重く捉えておくべきだった!
この人は、この男は……この鬼は、その剣は。
「最初から、こうしておくべきだった……!」
最初から、自分にできる最大の力で砕いておくべきだったのだ……!
-
「――アビー!」
声をあげたのは、紙越空魚だった。
焦燥を覚えていたのは、何もアビゲイルだけではない。
彼女の現マスターであり、同じ未来を共有する空魚も同じだ。
何か、とてつもなくまずい風が吹き始めている。
彼我の消耗を比べれば、有利なのがこちらであるのは明白。
ほぼ不死身に近いアビゲイルと、所詮は現世利益の不死の延長線でしかない黒死牟との間には未だ埋められない差がある。
だからこそ、そんな事実を込みにしてもこんなに嫌な予感がすることそのものが恐ろしいのだ。
恐らく、これ以上長引かせてはならない。
空魚とアビゲイルの思いは同じだった。
「最後の令呪だ! 終わらせろ!!」
「ええ――幕を引くわ、我は禁断の秘鑰、導くものなれば……!」
ラスト一画の令呪が注がれ、アビゲイルが両手を開く。
「イグナ・イグナ・トゥルトゥウクンガ――」
門が、開く。
幻夢郷なんて易しいものでは断じてない。
これは人類とは絶対に相容れない、異質異常な異界へ繋がる門だ。
邪悪の樹(クリフォト)より現世に寄り添う地下茎、巫女が描きあげる最大の災厄。
「我が手に白銀の鍵あり。虚無より顕れ、その指先で触れたもう……!」
黒死牟は、いや、彼以外の全員も同時に確信した。
もしもこれが放たれれば、その瞬間すべてが終わる。
聖杯戦争を終わらせ、地平線の彼方を現出させる力がこの輝きにはある。
理解したからこそ。だからこそ――黒死牟の選択は決まっていた。
「…………幽谷…………」
下がるのではなく、前へ出る。
そうでなければ超えられないと、分かっているからだ。
逃げたところで、もはやこれはどうにもならない。
あの混沌・ベルゼバブと同じだ。
たとえ東京の端まで逃げたとしても、同じ世界に存在してしまっているという時点で遅かれ早かれ破滅が確約されてしまう。
この手の怪物達は、要するにそういう存在であるのだから。
では。ならば。
その厄災を前に、力なき者はどうすればいい?
その答えを、黒死牟は知っている。
既に――見ている。
「今から私がすることを…………見ていろ…………」
「………………! はい、セイバーさん………………!」
霧子は、考えるでもなく頷いた。
頭を回す必要はなかった。信じているからだ。
そして、約束したからだ。
「見ています……! 私も、みんなも……! だから、だから…………!!」
だから――、
「がんばれ…………! セイバーさん…………!!」
霧子は、そう叫んだ。
それと同時に、残るふたつの令呪を使って"お願い"する。
今、霧子にできるすべて。黒死牟の背中を押せるすべてを使って。
その時は、訪れた。
上弦の壱、剣の鬼黒死牟。
あるいは――継国巌勝。
月の呼吸の剣士は今、修羅場に入る。
-
◆◆
呼吸を、深くする。
肺の奥から全身の隅まで、細胞のひとつひとつにまで酸素を行き渡らせる。
鬼になっても囚われ続けた"呼吸法"という人間時代の未練を、あえてここで肯定する。
鬼ではなく、神を殺すために。
人ではなく、運命を喰らうために。
剣を構えた――為すべきことは、既にこの頭の中にある。
だが上弦最強の鬼/己を超えた剣士である彼をしても、これから試みるのはあまりに分の悪い賭けと言わざるを得なかった。
「我が父なる神よ……! 我、その真髄を宿す写し身とならん……!!」
少女の額から溢れ出す光が、ただでさえ異界化している界聖杯深層を更なる深淵へと堕させる。
とある男の空想から偶然この世界と繋がってしまった"その領域"には、果てというものが存在しない。
際限のない力の渦動。宇宙の外側という最大の未知に通ずる、虚無の領域。
彼女とは、アビゲイル・ウィリアムズとは――世界を彼岸(そこ)へ繋ぐ、禁断の秘鑰。導き手なのだ。
故に、揺るがない現実として断言する。
この宝具が解放され、黒死牟が溢れ出す"それ"を完全な破壊と化す前に斬れなかったなら、その瞬間に聖杯戦争の勝者が確定する。
生きとし生けるものすべてが、薔薇の眠りを超えた窮極の彼方に放逐され。
邪神の巫女と、片割れを失ったなり損ないの鵺が、願いを叶える。
方舟の夢は終わり、繋いできたすべてが烏有に帰す。
にも関わらず、黒死牟はやはり平静だった。
猗窩座と雌雄を決した時のような高揚は、ない。
弟と共にベルゼバブを屠った時のように、失意を抱いてもいない。
神域の中にあるような静謐を飼い慣らし、彼は目の前で展開される冒涜の神秘を見るのも忘れて脳内に焼き付いた"それ"の回想に専心していた。
夢の中とはいえ、悠久の時を超えて弟と果たし合って再実感したことがある。
継国縁壱は、間違いなく怪物である。
この界聖杯には、ともすれば彼を上回るような存在もわずかながらいた。
ベルゼバブ。カイドウ。奴らと剣を交わし、打ちのめされてきた黒死牟だが、しかしそれでも断言できることがひとつ。
肉体の強さや根本的な種の違いに依らないのなら、やはり最強の生物は縁壱だ。
そしてそんな彼が振るう剣は、どれひとつ取っても他人に真似できるものではない。
ましてやそれが――彼をして秘奥義と認識する鬼札であるのなら、なおさらのことだ。
(やれるか?)
問いかける――他の誰でもない、自分自身に。
(斬れるか?)
魂の奥に痘痕のようにこびり付いた、その光景。
あらゆる剣士の心を砕くだろう、その奥義。
(勝てるか?)
六つの目で見てなお、完全に理解できたとはとても言えないまさに"究極"。
黒死牟が今、挑もうとしているのはひとえにそれだった。
門外漢。畑違い。百も承知だ、しかし彼に描ける勝利のビジョンはそれを除いて他にはなかった。
(愚問――)
やれなければ、死ぬ。
斬れなければ、死ぬ。
――勝てなければ、死ぬ。それだけだ。だからやるしかない。その無体な状況が、黒死牟の身体を軽くする。
-
「薔薇の眠りを越え、いざ窮極の門へと至らん…………!!」
残されている猶予は、あとワンフレーズ。
運命の時を前にして、遂に黒死牟が追憶を断ち切る。
令呪二画のサポートを受けたその身体は、これ以上ない最高の状態。
これでできなければ、所詮自分はその程度の剣士だったのだと諦めもつこう。
故に無様は晒さぬと決めた。
腐っても武家に生まれ、剣を志した者。
恥知らずにも侍を標榜し続け、屍山血河を築いてきた者。
神ごとき斬れずして、どうしてこの剣があの日に届くという……!
訪れんとする、運命の時。
アビゲイルの口が、動かんとした。
真名解放。邪神の巫女、その全霊が解放される前の最後の一瞬。
そこで――
「シャアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
すべての静謐を断ち切って台無しにする、無粋そのものの声が響いた。
ついでに、おなじみのあの音も。
下品で粗暴でむちゃくちゃな、この"ヒーロー"がやってくる合図も。
ぶうん、と。高らかに、鳴り響いていたのだった。
-
◆◆
「あの娘は、私が斬る」
「故にお前は、適度なところで死んでおけ」
「頃合いは任せる。無粋とは、もはや言わぬ」
◆◆
-
デンジの、二代目チェンソーマンの十八番。
その不死性を活かした、しぶとさに物を言わせた奇襲攻撃。
特にこの聖杯戦争では幾度となく、それで敵の鼻を明かしてきた彼。
それがここでも出た。彼はアビゲイルに殺されたも同然だったが、それも黒死牟との打ち合わせ通りの展開だった。
斬撃で巫女の血を飛沫させ、倒れたデンジに届かせる。
スターターロープを引く役目は、血鬼術の副産物でばら撒かれる三日月に任せる。
結果、彼は月の呼吸が巻き起こす斬撃の轟音に紛れてひそかに蘇生。
その上で、機を伺っていた。
アビゲイルが最も突かれたくない一瞬、それを突くために潜伏していたのだ。
「人の身体練り消しみてえにブチブチちぎってくれやがってよぉ! 死ねやア糞ガキィ〜〜〜〜!!」
小物そのものの罵詈雑言を吐きながら、背後から襲いかかったデンジ。
上手く行けば黒死牟の"賭け"の成否に関わらず、戦いを決める要因にもなるだろう。
そう思われた。だが、アビゲイルはデンジの咆哮を聞いても驚くどころか振り向きすらしない。
「お芝居が下手ね。おままごとをしてくれるお友達はいなかったのかしら」
「ッガ……!?」
振り向きもせずに、空中から出現させた数多の光で彼を槍衾に変えた。
攻撃を当てることも敵わず、べちゃりと地面に落ちるデンジ。
……アビゲイルは、彼が不死身の悪魔憑きであることを知っていた。
要するに、最初から彼女は油断などしていなかったのだ。
デンジの存在を、意識から一瞬だって外していなかった。
いつ復活してきても対応できるように、その存在を考慮に入れて戦っていたのである。
「私、今とても忙しいの。後で遊んであげるから、そこでしばらくお昼寝していなさい」
宝具の解放は、止められなかった。
奇襲は失敗に終わり、アビゲイルに傷のひとつも与えられずじまい。
少年の渾身は実を結ばず、結果、稼げた時間はものの一秒半といったところ。
――アビゲイルの額が、輝きを増して。
――そして今こそ遂に、彼方へ通じる"門"が開いた。
「光殻湛えし(クリフォー)――――――――虚樹(ライゾォム)……………………!!!!」
よって終わりは、来る。
門の向こうから現れた、これまでのとは比にならない量と質と密度の異界概念。
それが黒死牟、ひいてはその背後で守られている少女達まですべてを呑み込まんと溢れ出した。
吉良吉影を裁き、蘆屋道満を打ちのめした時の威力とは、もはや比べるべくもない最大火力。
もはやそれは、主神級神霊の真体(アリスィア)が放つ宝具攻撃にも匹敵している。
それに対して、ひとり立つのは黒死牟。
許される行動(アクション)は、一度きり。
されど放たねばならぬ斬撃の数は、無駄に長生きをした脳でも演算しきれない量。
「さあ、さあ……! 私達の"願い"の供物と消えなさい、あまねくすべての器達――!!」
いや。
その前に、仮に"できた"としてこれを斬り切れるのか。
そんな現実的問題さえ、ここに来て追加で影を落とし始める。
あまりに巨大な絶望が、深淵から来る大洪水となって立ちはだかる。
一面の黒。一面の闇。宇宙の、漆黒。
地上を塗り潰さんと迸る、その"破壊"に――
「…………!?」
――否を唱えるように。
白く、白い、世界を染め上げるように白い。
"崩壊"の龍が、地鳴りのような轟音を響かせながら喰らいついた。
-
◆◆
「そうだよね」
「あんなことされたらさ、むかついちゃうよね」
「だってそれは、あなたのものじゃない」
「世界をこわす夢を最初に見たのは、あなたじゃないよ。アビーちゃん」
「――ねえ」
「やっつけちゃおっか――――――――とむらくん」
◆◆
-
今やもうこの地平線上のどこにも存在しない、ソルソルの実の能力。
魂を操り、従わせる、支配者の力。
末代である死柄木弔が最後に造った、神戸しおへの置き土産。
それは、ビッグ・マムのゼウスやプロメテウスのようにしゃべりはしない。
敵連合の偶像(アイドル)や現人神(ゾクガミ)のように暴れ散らかさない。
ただ、そこには"力"が込められていた。
死にゆく死柄木の身体に残っていた、龍脈の力。
こぼれゆくそれを拾い上げて編み上げた、魔王の衣。
その使い方を教わっていたわけではない。
しおがしたのは、ただ語りかけただけだ。
そしてその声に、魂とすら呼べない、単なる力の塊が応えた。
紙越空魚がその目で垣間見た、白き龍。
かつて龍脈の龍と呼ばれたそれが、漂白でもされたように白く染まった未知の個体。
大仰な魔術や加護ではなく、ただすべてを滅ぼし壊すことにだけ特化した白龍が。
学友の声に応えて姿を現し、今まさにお株を奪おうとしていた邪神の力に喰らいついたのだ。
「くそ……!」
痛恨を悟った空魚が、マカロフをしおへと向ける。
これ以上の横槍は許さない。
大局に影響が出る前に、持ち主を殺してしまわなければ。
そう思って引き金に指をかけた空魚の身体に、真横から猪口才な質量が衝突した。
「させるか、ってんですよ……!」
「っ――!? お前っ……邪魔すんな、このクソガキ!!」
七草にちかだ。
戦いに関与する力も手段も持たない彼女が、凶弾を放とうとした空魚に不意打ちを決めた。
空魚は既に、地獄への回数券を服用している。
超人と化した空魚は、不意打ちだったとはいえ少女の体当たり程度で押し倒されたりはしない。
だがその手から、マカロフをこぼれ落ちさせることには成功した。
地面を転がって遠のく銃。まとわり付いてくるにちかを突き飛ばせば彼女の身体は軽々と吹き飛び、木の枝を踏み砕くような嫌な音が鳴った。
「いっっっ……たぁ……。でも……」
どうやら右腕が、完全にいかれてしまったらしい。
地獄みたいな激痛に涙を浮かべるにちかだが、その顔はしかし笑っていた。
「方舟(アイドル)舐めんなっての……っ。私だって、私達だって……この、クソみたいな世界で生き抜いてきたんですよ……!!」
今すぐにでも蹴り殺してやりたい衝動に駆られる。
しかし、こんな端役にかかずらっている暇などない。
マカロフを拾うか。いや、間に合わない。
となれば――もう、できることは。
「…………、アビー!!」
声をあげることくらい、だった。
信じてきたもの、共有したもの、そして取り戻したいもの――
同じ志を持っているからこそ、同じ"大切"を知っているからこそその叫びは単なる応援以上の意味を持つ。
「――終わらせろ!!! 鳥子に会うぞ、アビー!!!!」
響く声は、確かに巫女のもとへと届き――
-
「ええ、ええ……! そうよ、私達は願いを叶える……!!」
邪神の力が、少しずつ崩壊の残響を砕いていく。
死柄木弔の"個性"に龍脈の力を重ね合わせたそれは、確かに宝具にも匹敵する威力を秘めた脅威だったが、しかし所詮は残滓でしかない。
打ち破るのはおろか、拮抗することすら叶いはしない。
総体を崩すにはてんで及ばず、せいぜいが一割二割の威力減衰を可能にしたくらいのこと。
大局に影響はない。神の力は、無限に通ずる地下茎の氾濫は止まらないし止めさせない。
やがて崩壊の龍が、完全にその形を失って霧散した。
デンジの奇襲が一秒半の時間を稼いだ。
死柄木の残滓が、二割弱の威力を削いだ。
されど結局のところ、この戦いの本質は何も変わっていない。
「………………、………………」
黒死牟が勝たなければ、意味はないのだ。
彼が敗北すれば、それですべてが終わる。
それを誰より強く理解しているのは、他の誰でもない彼自身。
足を、一歩前へと踏み出す。
初めて、構え以上の動作を起こした。
追憶は済んだ。反芻も完了した。
今もって、とてもではないができるとは思えない。
しかしそれでも、彼は挑む。
彼は、向かう。
鬼殺ならぬ神殺を、成し遂げるために。
足を前へと踏み出し、構えた刀を虚空へ滑らせた。
-
(縁壱。私は)
恐ろしげな概念など、彼には何ひとつ味方していない。
道理をねじ曲げる超常現象など、英霊としての力を除けば一切彼に微笑まない。
彼は、凡人だからだ。
かの神才と比べるべくもない、たかだか無双程度の剣士でしかないからだ。
似ているのは状況だけで、後は何もかもが違う。
届くはずがないと、理性はそう言っている。
けれど。それでも。
時にこの世には届かぬと分かっていても手を伸ばさずにいられないものがあることを、彼はよく知っていた。
(まだ、お前に追い付けるだろうか)
日と月が、真の意味で並び立つ時は来るのだろうか。
生涯を終え、地獄に落ち、今や影法師としての役目しか持たないこの魂でも。
今から、その未来を見ることは可能なのだろうか。
答えはない。
あるはずも、ない。
縁壱は死んだ。
だが――
(教えてくれ。…………いや、教えずともよい)
答えなど、もはや要らない。
分かったところで、どうせ挑まずにはいられないのだ。
無理なものは無理なのだと諦めればよかったことを、折り合いも付けられずに延々続けて地獄に落ちた半端者。
半端も半端で、穿けば何かには到れるかもしれない。
だから、答えは不要だった。
黒死牟には、もう、何もいらない。
(お前"も"――――そこで、私を見ていろ)
必要なものは、すべてこの手に揃っている。
-
鬼が駆ける。
剣士が駆ける。
侍が、駆ける。
勝てぬと分かってひた走る。
届かぬと分かってひた走る。
勝つのだと、届かすのだと無茶を言う。
受け継いだ刃が、閃いた。
最初の閃きは、静かに。
号砲。自分を叱咤するように、響かせて。
そして――
日の呼吸、拾参ノ型――――――――――――――――、あるいは。
「――――――――――――――――月の呼吸、終ノ型」
祝詞はない。
次元は屈折せぬ/刀は増えぬ。
事象は飽和せぬ/太刀筋は重ならぬ。
直死は発現せぬ/死は起きぬ。
だが。
それでも。
どれほど、不格好でもその剣は確かに――――満月という、円環を成していた。
.
-
◆◆
――信じられないものを、見た。
開かれた門から溢れ出した"無限"が、現出していた分すべて斬殺されて消滅した。
さりとて、無限とは尽きぬからこそ無限なのだ。
斬られた分はまた取り出せばいい。
しかし、無限が這い寄るための窓が、門が壊れてしまえばその氾濫も打ち止めを迎える。
黒死牟の剣は、地上に瞬いた満月は。
無限の魔を供給する、窮極の門そのものを断っていた。
宝具解放の強制中断。
力のすべてを斬り伏せられたアビゲイルは、もはや丸裸も同然だった。
鍵剣を伸ばす暇さえ、神との繋がりを断たれた彼女には与えられない。
無限の片鱗を相手に一切鏖殺を達成した英霊剣豪の終ノ剣、その閃きを見つめることしかできない。
「マスター……」
彼女にとっての、ふたりのマスター。
付き合った時間は違えど、どちらも大切な人。
聖杯で報いたいと、罪を禊ぎたいと思って戦ってきた。
恐れていた神の力に身を浸し、変わり果ててまでここまできた。
それでも。
今、"死"はアビゲイルの眼前でその口を開けていて。
「ごめんなさい……」
少女は刹那の後に、百つに引き裂かれた。
斬り裂かれた肉片は、黄金の粒子に変わって空へ還っていく。
鳥が舞い、魚を見下ろすあの空に。
溶けるように、消えて――
流転が止まり、月が消えた時。
そこにはもう、何もいなかった。
【フォーリナー(アビゲイル・ウィリアムズ)@Fate/Grand Order 消滅】
-
すべてが終わった時、立っているのは黒死牟だけだった。
にちかは身を丸めるようにして、気絶している。
しおも同じようなものだ。失神している。
アビゲイルは消えた。そのマスターも、気付けば姿がない。剣戟に巻き込めた筈はないが、一足先に離脱に成功したか。
デンジはと言えばこちらもまだ復活しておらず、今ならば容易く首を取れるだろう。
だが、首を取ろうにも剣を振るう腕がない。
黒死牟の両腕は、肘の付近から消し飛んでいた。
取り柄の再生も、とうに働いてなどいない。
腕だけでなく全身の端から端まで亀裂のように霊基ごと壊れていて、気を抜けば斃れてしまいそうだ。
「やはり……お前は、化物だ……縁壱……」
呟いた声は、謗るような文字面とは裏腹にどこか清々しいものをさえ含んでいた。
呆れたように、六つの目で消し飛んだ両腕の断面を見つめる。
傷口から突き出た骨の表面が、黒く焦げている。
一体どれほどの速度で腕を動かせば、たかだか剣を振るっただけでこうなるというのか。
「こんなもの……常世の誰が、その身ひとつで放てるという…………」
――黒死牟が放ち、アビゲイルをその宝具もろともに消し去った剣。
それは言わずもがな、継国縁壱の秘奥・日の呼吸拾参ノ型の劣化模倣品であった。
ベルゼバブの命運を事実上断ち切った一瞬。
無駄に増やした目が、こと奴に対しては初めて用を為したと言っていい。
極限まで鍛え抜き研ぎ澄ました視力が三対あって、それで初めて形だけでも真似られた。
その上で霧子の令呪による肉体強化を重ねがけし、足りない力を補強した。
見取れなかった部分は自分の"月の呼吸"の奥義を織り交ぜ、かさ増しをした。
それでも、まだ足りなかった。
神戸しおのライダーが時間を稼ぎ。
崩壊の魔王の残滓で、威力を最大限削り落とし。
そうまでしてようやく放てた、つぎはぎの円環。
月の呼吸――その終(つい)なる、日輪に並ぶための斬撃。
神殺こそ成し遂げたが、代償はこの有様だ。
地に突き立った閻魔を引き抜くこともできず、霊核もほぼほぼ崩壊している。
戦うどころか、一歩歩いただけでも黒死牟の身体は塵になって崩れ去るだろう。
それに現時点でも既に、肉体の末端部からは黄金の粒子が立ち昇り始めていた。
-
「つくづく………半端なことだ、何たる無様よ…………」
果し合いは夢の中でしか、叶えられず。
弟を超すことも、能わず。
神殺為せど、秘剣と呼ぶにはあまりに不格好。
挙句の果てには、己で口にした誓いさえ全うできない始末。
失笑が口をついて出た。
けれど、その時。
黒死牟は――、――それを見た。
「…………そんなこと、ないよ…………」
立っている人間がひとり、いた。
よろよろと、自分とは別な意味で今にも崩れそうな足取りで。
今際の鬼に、寄ってくる、娘がいたのだ。
「わたしは、見てたから…………」
「お前、は――」
「…………セイバーさんのこと、ちゃんと……」
少女は、へにゃりと笑った。
「ちゃんと………約束通り、見てましたから…………」
……空は、いつしか元の青を取り戻していた。
水銀の雲は晴れ、青空からは陽光が差す。
鬼の生きられぬ筈の世界で、鬼は、太陽と相対していた。
-
◆◆
フォーリナー、アビゲイル・ウィリアムズの脱落。
そしてセイバー、黒死牟はもはや数分と保たずこの世界を退去する。
この瞬間をもって、界聖杯をめぐる戦争の勝者は事実上、決定された。
「はー、ここまで長かったですね」
「紆余曲折、前途多難。一時はどうなることかと思いましたけど」
「まあ、皆さんの頑張りのおかげだったってことで」
「それじゃ、最後の仕事をしましょうか」
結末は決まった。
最後に残る願いも、決まった。
地上はじきに、洪水によって洗い流され役目を終えるだろう。
それがこの物語の行く末で、エンドロールだ。
そういう風に決まっているから、そういう風になるのだ。
だが。
「――なんて。いくら似姿でも、私(にちか)に無視されたら傷付いちゃいます?」
「ねえ、不穏分子さん。それとも、こう呼んだほうがいいですか?」
・・・・
「ライダー。星辰界奏者(スフィアブリンガー)、さん?」
――反論は、させてもらう。
-
投下終了です。
次回で本編最終回になります。
-
ご報告です。
本日20:00から最終話を投下します。
最終話の投下終了後、少し間を置いてからエピローグを投下させていただき、それで当企画は完結になります。
最後ですので、ぜひご覧いただければ幸いです。
(もし時間がずれてしまったらごめんなさい)
-
それでは予告通り、最終話を投下します。
PCの様子が少し変なので、もしかすると途中で再起動を挟むかもしれません。
-
界聖杯の深層。
最終決戦となった世界の底よりも、更に底。
言うなれば海底とでも言うべきその領域は、紛れもない界聖杯の中枢であった。
故に、そこに存在している"彼女"こそは界聖杯。この世界の主であり、神である絶対意思に他ならない。
空前絶後の宇宙現象。
自然発生した願望器という、珠玉の神秘。
渦水の中に投げ込んだ歯車が偶然時計を形作るような、奇跡の産物。
自己の価値の実現という願いを叶えるために、可能性の器達を招集したすべての元凶。
界聖杯の打倒は叶わなかった。方舟勢力は敗北し、"彼女"を利用することを目論んだ峰津院家の神童も志半ばで命を散らした。
そして先刻、この聖杯戦争の結末は事実上決定した。
フォーリナー・アビゲイルの敗北と消滅。これによる、紙越空魚のマスター資格喪失。
神殺を完遂したセイバー・黒死牟は数分と保たずに退去することがもはや半ば確定している。
継続した生存が可能な状態で生き残っているサーヴァントは、一体のみ。
彼を従える少女が自動的に優勝者の座を射止めるのは、時間の問題だった。
であれば界聖杯は、じきに役目を果たして天寿を全うするだけだ。
だがその彼女に、声を投げかけた者がいる。
彼は、もうこの世界から消えた筈の男だった。
「その見た目で呼び捨ては微妙に慣れないな。ライダーさん、って呼んでくれると話しやすいんだが」
星辰界奏者(スフィアブリンガー)。
彼は当初抑止力の尖兵として界聖杯に接触し、本懐果たせず削除された。
されど、そこは付属性特化の極晃星を煌かせる界奏者である。
完全に退去させられる今際の際に、界聖杯そのものへバグを潜り込ますことに成功した。
当初はNPCであった"偶像"七草にちかと結び付き、界奏を事実上封じられこそしたものの、結果的にすべてのサーヴァントの中で誰よりも深刻に界聖杯を脅かしたといえる。
だが、彼はまたしても本懐を遂げられなかった。
死柄木弔の介入である。
犯罪王モリアーティの手で自己の可能性を爆発させ、四皇ビッグ・マムを下してソルソルの実の能力を継承した白き魔王。
魔王が振るう恐るべき崩壊の力で、星辰界奏者は今度こそ完全に消滅させられた筈だった。
その証拠に七草にちかはマスター資格を失い、今やただ生きているだけの傍観者も同然と化している。
だというのに。何故、その彼が――アシュレイ・ホライゾンが、今こうして界聖杯と対面を果たしているのか。
「じゃあライダーさん。聞きたいことはいろいろありますけど、まずは一番気になるところから」
「そうだな。君の時間が大丈夫なら、一応質問には答えるさ。今更隠し立てする理由もない」
「あなたは死柄木弔に殺されて、消滅したものと思ってました。なんでまだここに残ってるんです?」
「その認識は正しいよ。あいつに負けたのは事実だし、今でも痛恨だったと思ってる。マスター達には申し訳が立たないよ」
紙一重の戦いでは、あった。
あとわずかでも死柄木の限界突破が遅ければ、勝敗はまったく逆のものになっていただろう。
そうなれば方舟勢力の勝利はほぼ確実。
界聖杯の存在意義(ゆめ)もまた、阻まれていた可能性が高い。
しかし、そうはならなかった。
だからこそ、優勝者の確定という段階にまで来てしまっているのだ。
アシュレイ・ホライゾンは方舟を守りきれなかった。
それが事実で、まごうことなき現実だった。
「でも、顛末はどうあれ……界奏の起動自体には成功できた。俺は確かに敗北したが、首の皮一枚繋がったんだ」
「……なるほど」
けれどそもそも。
方舟勢力が目標としていたのは、敵連合という勢力への勝利ではない。
彼らが目指していたのは界奏の発動そのものだ。
アシュレイ・ホライゾンの封じられた宝具、『天地宇宙の航海記、描かれるは灰と光の境界線(Calling Sphere Bringer)』。
これを発動することで界聖杯本体に干渉し、書き換えを行って勝者以外を切り捨てるこの世界そのものを変革しようとしていた。
そして――アシュレイは死柄木に敗れこそしたものの、その第一目標自体は達成できていたのである。
とはいえ、すべてを成し遂げるにはあまりにも時間が足りなかった。
当初予定していた規模の干渉など夢のまた夢。
彼に与えられたか細い一瞬の猶予では、如何に新西暦が誇る星辰界奏者といえど……
「過去の焼き直しですか。"また"、あなたは私の中に想定外(ウイルス)を刻み込んだと」
-
「そういうことだ。我ながら芸がなくて嫌になるけどな」
ただでさえ矮小化していた自分の霊基の更にそのまた一部を、界聖杯の内側に潜行させるくらいがせいぜいだった。
焼き直しと言われたら返す言葉もない。
せめて相手が他のサーヴァントだったならまだ話も別だったろうが、崩壊の異能を持つ死柄木に殺されたのがまずかった。
最後には逆襲劇、星辰滅奏者(スフィアレイザー)の座にまで手をかけていた彼の力は、たとえ極晃奏者であろうと天敵だ。
介入権は最低限。現にアシュレイは何か成し遂げたわけでもなく、こうして界聖杯の意思の前に姿を現すのをせいぜいとしている。
「それで? 負け惜しみを言いに来たってわけじゃなさそうですけど」
「ああ。こんなザマに成り下がりはしたが、まだ俺なりに目指してる結末があってな」
「言っときますが、私は願われた以上のことはしませんしできませんよ。私の命はもうすぐ生まれる優勝者、地平線の彼方に辿り着く彼女のために使うものと決めています。
それに」
ふう、とため息をつく。
それから界聖杯は、七草にちかの顔で見覚えのある笑みを浮かべた。
自虐するような、私なんて、と腐るようなあの顔だ。
「あなたが私にお"願い"しようとしてることも、恐らく期待には応えられません。意地悪じゃなくて、単純に不可能です」
アシュレイ・ホライゾンがここに現れた理由は分かる。
お得意の"交渉"だ。この聖杯戦争で何度も見せてきた、言葉という名の彼最大の武器。
それを翳して、アシュレイは最後の最後に方舟の夢を遂げさせようとしている。
最初に彼女たちへ語ったのに比べればずいぶんと寂しく、それでいて最低限のものにはなってしまったが、それでも。
「私は願いを叶えることだけに特化した〈現象〉ですから。願いを叶えた後のことを補完するだけのリソースは持っていません」
自分のマスターであり、守りきることができなかった七草にちかと。
そして、幽谷霧子。今生きているこのふたりだけでも逃がせないかと、彼は懇願に来たのだろうと界聖杯は踏んでいる。
だが、その夢すらも叶うことはない。
界聖杯は特化型、役目を終えたらその時点で崩壊を始める願望器。
その点で彼ないし彼女は、平行世界のどこかに存在する月の願望器(ムーンセル)に大きく劣っている。
願いが叶えられた時点で、この世界とそこに残っているすべての"可能性の残骸"は消滅する。
それはアシュレイがどれだけ言葉を重ねようが変わることのない、絶対不変の現実だった。
そんな絶望を、他でもない神自身の口から聞かされたアシュレイ。
灰と光の境界線たる青年はしかし、苦渋の表情など浮かべなかった。
一切その表情を変えることなく、続く言葉を放ったのだ。
「分かってる。だから、ここからが"交渉"だ」
界聖杯が願望器としては不完全な代物であることは、既に分かっていた。
何しろ自身の悲願を灯した盤上に、抑止力の残骸などという不穏分子をみすみす侵入させてしまう体たらくである。
可能性を失った者達を帰さないのも、露悪的な理由ではなく単なる機能リソース上の問題なのだろうと推測も立っていた。
だからこそ、彼女の言葉はアシュレイにとって予想通り。
改めて"そうである"と確認したことで、遂に舞台を降りた交渉人の戦いが幕を開ける。
「おまえは自分の役割を果たすことだけに専念していい。俺に、彼女たちの処遇を任せてもらえないか」
「……と、言いますと?」
「界奏を使って、あの子達に行き場を与える機能を新造する」
「は」
一笑に付す。
その反応は正しい。
だが、アシュレイは真剣だった。
-
「今のあなたは影にも満たない、単なる亡霊のようなものに過ぎないでしょう?
あなたの知る人物で例えるならば、冥狼(ケルベロス)……星辰滅奏者のしずくにさえ数段劣る。
そんなあなたが一体どうやって、そんな慈善事業じみたことをするって言うんですか?」
「おまえの中には、おまえが消去した星辰界奏者(おれ)のダストデータが残ってる。違うか?」
「それを私が引き上げて、わざわざ授ける理由は?」
「ない。だから頭を下げに来たんだ」
そんな発言を臆面もなくできる辺りは、流石に非凡な才能だと言わざるを得ない。
しかもこの男は伊達や酔狂ではなく、本気で言っているのだ。
そのことはここまでの戦いで彼が取ってきた行動が示し、また物語っている。
「おまえの権限で俺に力を返却するなら、俺がおまえの目的を台無しにする可能性は極限まで排除できる。
少しでも意に沿わない、不都合な行動をしたならその時点で俺から力を剥奪してくれればいい」
「あなたの極晃は、その前提を破壊できる能力でしょ」
「そうだな。けどそれはしないし、もししようとしても上手くはいかないと思う」
「その心は?」
「これだ」
アシュレイが、そのジャケットを大きく開いた。
服の下に隠れていた彼の胴体は、左の脇腹からごっそりと抉られたように欠損している。
もちろん界聖杯が与えた傷ではないし、死柄木から受けたダメージを引き継いでいるにしても傷の形が妙だ。
表舞台を去ったにも関わらず界聖杯(じぶん)の中で生存し続けることが可能で、なおかつ星辰界奏者による界聖杯の現状変更を望まず、物理的に妨害さえする理由がある者といえば……
「……ああ、なるほど。チェンソーの悪魔ですか」
「正直、流石に面食らったよ。会うのは初めてだったが、まさか界奏(おれ)の死に際の悪あがきまで読まれてるとは思わなかった」
神戸しおのライダー・デンジ。
彼の中に眠っていた、チェンソーの悪魔。
アシュレイと同じく魔王の手によって消し去られた筈の、地獄のヒーローを除いて他にはいない。
不死者と言えば、この界聖杯戦争の中では決して稀有な存在ではない。
だが同じ不死者でも、かの大悪魔と十二鬼月の鬼達とでは不死性の純度が明確に異なる。
チェンソーの悪魔は元々完全な不死者。
何度殺されても、お決まりのエンジン音ひとつで無限に復活してくる地獄の悪夢だ。
サーヴァント化という制約を受けた上で死柄木に消し去られて尚、その存在は完璧に消滅してはいなかったらしい。
会ったこともない星辰界奏者が、この期に及んでまだ自分を呼んだ少女の願いを邪魔立てしないように。
表舞台を去ったチェンソーの悪魔は、界聖杯の内部に潜んでいた。
そして読み通り活動を再開した界奏の前に現れ、今度こそ完全に抹消するべく襲いかかったのだ。
「地上で会わなくてよかった。界奏が全開だったとしても、正攻法で勝てるかは分からなかったろうな」
ただし、さしもの彼も存在規模の弱体化は避けられなかったようだ。
何せ、全盛期の一割以下まで衰えたアシュレイを"終始圧倒する"くらいしか出来なかったのだから。
とはいえそれでも、今のアシュレイ程度なら完膚なきまでに惨殺して世界を蹴り出す程度の力は持っている筈だったが――
「どうやって切り抜けたので? 私の知ってるライダーさんじゃ、どうやってもあの化物に勝てるようには思えませんが」
「契約をした」
「はあ」
悪魔との契約。
それは古今東西、破滅の代名詞である。
悪魔を欺こうとすれば、相手が余程の間抜けでもない限り必ず失敗する。
無知なまま悪魔の甘言に頷けば、一時の栄華の向こうには必ず最悪の結末が待っている。
-
だがその点、アシュレイ・ホライゾンがかの悪魔と取り交わした契約はどちらでもなかった。
欺くことはない。
もしも反故にしたならその瞬間、チェンソーの悪魔はすぐにでも飛んできて彼の五体を八つに引き裂くだろう。
そしてアシュレイが欺かれることもない。
彼は自分の持つ強みと相手の持つ強み、その両方を深く理解している。
要するに対等な立場での"交渉"――智謀においても魑魅魍魎のひしめく新西暦を駆け回った、軍事帝国アドラーの交渉人。海洋王(ネプトゥヌス)の本領発揮であった。
「そして俺は、あいつに語った言葉をそのままおまえにも投げかけて希う。と言っても、おまえ相手じゃ流石に対等とは行かなそうだけどな」
「当たり前ですね。今のあなたでは、私が無情を貫いた場合にどうすることもできません」
「それでも語ろう。今の俺にできるのは、この舌を動かすことくらいだから」
チェンソーの悪魔と、海洋王が交わした契約。
それは、
「俺が界奏を使って、優勝者の願いを叶える補佐をする。
その代わり、まだ生きている可能な限りの命を元の世界へ送還してほしい」
界聖杯が定める規定を満たし、じきに戴冠する最後の器。
地平線の彼方への到達者、砂糖少女の愛した天使。
すなわち神戸しおの願いを、より完全な形で瑕疵なく叶えさせること。
その対価として、自分がこれから界聖杯の絶対意思に接触して交渉を行うのを許すこと。
「必要ありません。あのですねライダーさん、私って聖杯ですよ? 願望器です。願いを叶えるのに誰かの手を借りる必要なんか」
「そうだったら俺の負けだよ。でも、俺が思うにおまえ、そんなに完璧な願望器じゃないだろ」
「ケンカ売ってます?」
「事実だ。峰津院大和なんかは、薄々気付いてたんじゃないかな」
界聖杯が空前絶後の宇宙現象だというその触れ込みに、恐らく嘘偽りはない。
何百、下手したら何千という数の宇宙から可能性の器を吸い上げて自分の体内で儀式に興じさせた事実。
更には抑止力の尖兵である極晃奏者を完全でないとはいえ退け、事実上抹殺したこと。
これだけの芸当ができる願望器であれば、それこそ叶えられる願いの数を増やせだとか、そういう頓智話みたいな無理難題でもない限りはどんな願いでも成就させることができるだろう。
そこについては、アシュレイも疑っていない。
彼が言っているのは、界聖杯の"願いを叶える機能"以外の部分だ。
「おまえはこの聖杯戦争を運営するに当たって、いくつものミスをやらかしてる。
俺の存在もそうだが、鋼翼のランサー……ベルゼバブだってそうだ。あれはナシだろ、おまえ継国縁壱が倒してくれなかったらどうするつもりだったんだ?」
「どうとでもなりますが」
「それに下手したら、俺の中のヘリオスが全部ぶち壊してる可能性だってあった。おまえは何ていうかアレだ、詰めが甘いんだよ」
カイドウやビッグ・マムはその点、実にお利口さんだったといえる。
何故なら彼らはどれだけ強くとも、世界を壊したりなんてしない。
その上でそれができる奴らとも殴り合える、運営視点じゃこれほどありがたい障害もなかっただろう。
だがベルゼバブやヘリオスは別だ。彼らは戦いの"ついで"に世界を破壊する。
最悪の場合、界聖杯が直々に介入して事を収める事態になっていた可能性だってある。
「それにずっと聞きたかったんだけどな。おまえ、方舟(あのこたち)の出現は想定外だったんだろ」
-
「否定はしません。意味分かんないですしね、NPCまで引っ張って全員で帰ろうとか」
「だからおまえは、万一にでも方舟勢力が主権を握らないように、あえてシュヴィ・ドーラによるハッキングを許した。違うか?」
「聡いですね。モリアーティ教授の影響でも受けましたー?」
「かもな。なかなかに刺激的な出会いだったよ、あれほど地頭のいい男を俺は一人くらいしか知らん」
界聖杯はアシュレイの詰問を、暗に認めた。
それはつまり、方舟は存在そのものが界聖杯にとって一定の脅威だったというわけだ。
実際に脱出を決行され、聖杯戦争を破綻させられても困るし。
方舟が巨大勢力になって覇権を握り、全員であらぬ方向へ漕ぎ出されても困る。
だから界聖杯は、解析に長けた機凱種とはいえたかだか一サーヴァントからの介入を意図的に許した。
要するに界聖杯はシュヴィに情報を与えることで皮下真へ働きかけ、方舟への対処に勤しんでいたということ。
「まあ、いざとなれば俺を下した時みたいに……防衛機能やら何やら使って、強引にちゃぶ台返しする方法でも考えてたんだろうが。
おまえの聖杯戦争は、無事に終わりこそしたもののずいぶんと想定外に溢れたものになった。そうだな?」
「何が言いたいんです? そんなだから七草にちか(わたし)に唇尖らせて文句言われるんですよ、赤ペン先生」
「耳が痛い。けどまあ、添削ついでにおまえの欠点をひとつ教えてやる」
では何故、界聖杯はそうまで可能性の器達の制御に難儀していたか?
その理由を、アシュレイは既に理解していた。
「――おまえは、もう少し人の心ってものを勉強したほうがいい」
例えば、人が強さにかける想いは時に常軌を逸する。
例えば、人の絆は時に合理で動かない。
それさえ分かっていれば、界聖杯は光の魔人や方舟勢力の存在を想定することもできただろう。
「そしておまえ、本当に断言できるか? 人の心に疎い自分が、"最後の一人"の願いを完璧に叶えられるって」
「できますよ。別に複雑な願いでもありませんから」
「その台詞が、もう"わかってない"ことの証明だよ」
アシュレイは肩を竦めて言う。
複雑な願いではない、そう言い切られては疑念も確証に変わろうというものだ。
「あの子の願いは"愛"だぞ」
もはや、番狂わせが起きることはない。
最終優勝者はもうすぐ決まる。
そしてそれは間違いなく、愛に焦がれたひとりの少女だ。
この聖杯戦争で最も幼く。
それ故に誰よりも成長した、翼のない天使。
「人の心の中でも最も複雑な感情だ。世界征服や巨万の富なんかより遥かに叶えるのが難しい願いだよ」
「……ふむ。では、ライダーさんが私に仕えて愛とは何ぞやか教えてくれるってことですか?」
「誤解されそうな言い方をするな、その顔でそれは色々と具合が悪い。
……、まあでも、そうだな。うん、おまえよりは俺の方がまだ分かってる自信があるよ。注がれる愛には割と困らない人生を送ってきたからな」
-
彼女は、普遍的な愛の持ち主ではない。
彼女は、歪みこそを望んでいる。
社会の規範では叶わず、永遠であれるわけもない"愛"。
永遠不変たる、甘き幸福の日々。
その願いに付け焼き刃で手をつければどうなるか、想像するだけでも惨憺だ。
「……話を戻すぞ。とにかく、おまえだって一生に一度の悲願を棒に振りたくはないだろ?
だったら俺を引き上げて使ってくれ。そうすればブチ切れた親御(あくま)さんが此処に怒鳴り込んでくることもない筈だ」
「あなたが裏切らないという保証は?」
「極晃規模の能力だろうと、干渉を試みてきたらおまえだって流石に分かるだろ。
その時はお得意の防衛機能でも何でも使って潰してくれればいい。
ただ、おまえが俺との契約を守ってくれるのなら誓って出過ぎたことはしないさ。
それで目の前のふたりの命まで取り零したら、今度は鬼とか教授とかに追い回されてボコボコにされるだろうし」
極めて複雑で、完璧に叶えすぎてもいけない願い。
少なくとも一般論における健全な愛の形とは、とてもではないが一緒くたにできない砂糖菓子の愛情。
それとひとりで向き合うのは、人の心が分からない願望器では荷が重い。
そこにアシュレイは交渉の糸口を見出した。
「願いを叶えるために必要なリソース……だったな。その部分も俺の界奏で改良し、もう少し柔軟に対応できるよう頭を捻る。
そうすればおまえの存在意義を脅かすことなく、優勝者への戴冠と並行して彼女達の命も救える。win-winだと思わないか」
「まあ、そうですね。特に反論の余地は見当たりませんけど――」
「なら」
「しかしふたつ、私から付け加えさせてください」
界聖杯は、主(にちか)の顔で指を二本立てる。
その一本を、まずは折り曲げた。
「ひとつ。死者の蘇生とNPCの生還、これはきっぱり諦めてください」
「……できるなら頼みたいと思ってたが。一応理由を聞いても?」
「前者は私が考える"願い"の定義に抵触します。王冠はひとつ、世界樹の王はひとり。これは譲れません。
後者は単純に、私の内界に存在するデータを外に持ち出すことはまず不可能です。できたとしてもリソースの消費が著しいんで。
あなたのマスター……この姿(ガワ)の持ち主の"七草にちか"は本当に、とっても特殊な例だったと考えてもらえると助かります」
完全無欠の大団円は、神直々に否定されたわけだ。
それを悔しく思わないではなかったが、しかし残酷な話、予想していたことではある。
だからこそアシュレイは、苦いものを呑み込んで――頷いた。
「分かった。そこは折れる」
「物分かりがよくて助かります」
「もうひとつはなんだ。勿体ぶらずに言ってくれ」
「七草にちかは優勝者の世界へぺいっと送りつければそれで事足りますが。問題は、幽谷霧子ですね」
幽谷霧子。厳密には、彼女のサーヴァントはまだ生きている。
だがそれは間違いなく、時間の問題だった。
にちかと、霧子。このふたりこそが、今アシュレイが救おうとしている命である。
「彼女を生かすことは、まあ、星辰界奏者(あなた)の頑張り次第では可能かもしれません。
でも、だとしても。幽谷霧子が生まれ育った"元の世界"に帰すのは諦めてください」
「……そっちも、理由は」
「同じく、余力がありません。吸い上げるだけなら無作為で済みますが、世界を探り出して戻すのには最初の比でない労力がかかります」
「願いを叶えるのには惜しげなく力を使えるのに、それ以外にはだいぶシビアな印象を受けるな。機能上の問題か?」
-
「そうですね。詰めが甘いって指摘も、まああまり反論はできません。
何しろ界聖杯(わたし)は願いを叶えるために生まれた現象ですから、それ以外のことはあまり器用にはできないんです。
それに、やはり"余分"の要素に注力するよりも、私は私にとって大切なことに力を使いたいですから」
元の世界には、帰れない。
これがどれほどの痛みになるか、彼女には分からないのだろうとアシュレイは思った。
アイドルにだって、可能性の器にだって親がいる。友人がいる。それをすべて捨てろと言っているのと同じだ。
だが彼女が"それはできない"と強く断言していることについて食い下がれば、次に返ってくるのは交渉自体に対する"否"なのは想像がつく。
であれば――アシュレイがこれに返せる答えは、やはりひとつしかなかった。
「……分かった。それでいい」
交渉とは、基本的には取捨選択の連続である。
こちらが下の立場であるなら尚更のことだ。
交渉のテーブルで欲をかけば、相手は頑なになる。
受け入れさせることのできる条件さえ、彼方に吹っ飛んでしまいかねない。
故にこそアシュレイはここで、霧子の未来を"妥協する"選択をした。
そうでなければ彼女も含めた、ふたりの命が救えないからだ。
歯痒いな、と思った。申し訳ない、と心から思った。
――だが、それに固執して足を止めては交渉人は務まらない。
だからこそアシュレイは、合理的に取捨選択を行った。
一見すると冷酷にさえ見えるだろうその姿勢はしかし、何をおいても掴みたいものを掴むための苦肉の策だ。
「死者の蘇生は諦める。NPCの生還も諦める。幽谷霧子の"元の世界"への送還も、妥協する。
その上で問うぞ、界聖杯」
「にちかって呼んでくれてもいいんですよ」
「呼べるか馬鹿。……それさえ受け入れれば、いいんだな?」
方舟の夢は潰えた。
自分は結局、彼女達に残酷な夢を見せてしまったな、とアシュレイはそう思う。
希望を見たまま死んでいった彼女達に、どう顔向けすればいいのか分からない。
だがそれでも、救えるものがまだ残っている。
方舟と呼べるほど大層なものでなくても。
せめて、せめて。
皆が繋いだ希望の欠片を、せめてどこかの未来(さき)へ届けてあげられたのなら――
「――七草にちか、幽谷霧子のふたりを"優勝者"神戸しおと共に生還させる。
――その代わりに俺は、おまえがより完璧に役目を遂行できるように助力する。
この契約を呑んでくれるってことで、いいんだな?」
アシュレイの確認に、界聖杯は一瞬沈黙した。
彼の言葉がすべて戯言である可能性は、まだ残っている。
"人の心がわからない"彼女だけは、まだその可能性を信じられるのだ。
界奏を大義に噛ませることのリスクが分からない界聖杯ではない。
最悪の場合、事ここに至って土壇場ですべてをひっくり返される可能性さえある。
この饒舌な星辰界奏者の話を蹴り飛ばす理由が、界聖杯にはまだ残っている。
その上で、彼女はこの聖杯戦争が始まって終わるまでのどの瞬間よりも深く考えた。
考えて、考えて、考えて――そして。
そして……
-
無人の街で、ふたりだけが立っていた。
ひとりは、少女だ。
銀髪の少女。色は白くて、包帯がよく目立つ。
吹けば消えてしまいそうな儚さと、心のやわらかい部分を優しく抱擁してくれるような優しさを宿した少女だった。
そしてもうひとりは、鬼だ。
六つ目の鬼。刀を携えて、今にも空に還りそうな鬼。
その見た目はひどく恐ろしいのに、どこか今はその姿形におぞましさが宿っていない。
幽谷霧子と、黒死牟。
お日さまと、三日月。
ふたつの天体が人の形をして、対面していた。
「…………見ていたのか」
「はい。見てました…………」
神殺は、成った。
アビゲイル・ウィリアムズは確実に消滅したと断言できる。
黒死牟の手に残る手応えが、それを証言している。
だが結果はどうだ。この有様で、約束を果たしたなどと誰が言える。
少なくとも黒死牟は、そうも図々しい恥知らずではなかった。
「ならば、気休めは止めろ………私は、お前との誓いを果たせはしなかったのだ…………」
曰く。
蝋の翼を背に太陽へ飛び立った少年は、焦がれ焦がれて地に堕ちたという。
まさに己はそれだと、黒死牟は自虐でもなく正当にそう自己評価を下していた。
継国縁壱という太陽に手を伸ばし、触れる身の程知らずを冒した凡夫の末路。
彼が極めた技の最終形という奇蹟を、たかだかヒトの延長線で果たそうとした顛末。
当然として肉体は壊れ、魂はひび割れ、じきにこの世界を退去することが確定している。
要するに、優勝者の座は射止められなかったということだ。
そしてそれは、幽谷霧子と交わした誓いを果たせないことと同義だった。
何故ならこの世界は、王者以外の生存の余地を認めないから。
邪神の巫女という最大の厄災を討ち果たせたところで……その結果、本筋を取り零していては世話もない。
「私は、今に消える……そしてお前も、戴冠に至ることなく………私と同じように、消え失せるのだ…………」
結局、最後までは勝ちきれなかった。
二天一流と果たしあった。
混沌と相見えた。
鬼の王を斬り伏せた。
海の皇帝へ挑んだ。
邪神の巫女を打ち破った。
それでも、届かなかった。
それでも、たかだか世界樹の頂ひとつ獲れなかった。
それが、黒死牟という悪鬼に用意された現実で。
それが、彼と彼女の誓いの弥終に待っていた結末だった。
-
だからこそ黒死牟は、自分を半端と言った。
気休めの言葉など止めろと、自身の要石たる少女に言った。
だが。
それでも。
「ううん……セイバーさんは、私との約束を……守って、くれました…………」
それでも、少女は天晴と剣士を讃えるのだ。
疲労で震える足を、そのか細い身体で押し止めて。
しっかりと二本の足で荒廃した大地を踏みしめながら、そう言うのだ。
「だってわたしも、にちかちゃんも、しおちゃんも……みんな、生きてる……」
「私は――」
「みんなを、助けてくれた……みんなを、守ってくれた……。
そんなセイバーさんのこと……わたしは、すごく……すごく、誇らしいんです……
わたしが戦ったわけでもないのに、わたし……とっても、嬉しくて……自分のことみたいに、誇らしくって……」
その言葉を聞いて、黒死牟は思わず閉口する。
そして思うのだ、やはりこの少女は可怪しい。
何故、この結果を前にしてそんな言葉が吐けるのか。
そんな、まるで本当に誓いが全うされたかのような言葉が出てくるのか、皆目分からない。
思えば幽谷霧子という少女は、最初からそうだった。
辻斬りよりもおぞましく、怪物よりも醜いこの鬼(おのれ)を前にして。
一度たりとも怯えた顔を見せず、そうまさにこの顔で笑い続けてきた。
不可解だった。
不気味だった。
不愉快だった――理解ができないから。
「わたしの、サーヴァントが……セイバーさんでよかったって、すごく……そう、思うんです……」
お前は、自分が可愛くはないのか。
自分の命が、惜しくはないのか。
死とは、遺失である。
生きた証、積み重ねたもの、培ったすべて。
それらすべてが、永い年月のすべてが、その瞬間に辿り着くだけですべて零に帰る。無に帰すのだ。
それが、怖くはないのか。
「お前は……死ぬのが、恐ろしくはないのか……?」
「……怖いです、ごめんなさい……」
「ならば」
「でも……」
継国巌勝は、それが堪らなく恐ろしかった。
自分が文字通り血反吐を吐きながら極めてきた技が、すべて消え失せることが怖かった。
だからこそ鬼になった。
恩人の首を捧げ、すべてを棄てて悠久の時を生きることを選んだ。
その果てに何ひとつ、ただひとつとして何かを得ることはなく。
届かぬ技を極め続け、罪を重ね、屍を積み上げて挙げ句選んだ外道さえ全うできずに死に果てた。
-
「……生きてきたこと、歌ったこと、仲良くしてくれた、みんなとの思い出……」
それを許容できる者の言葉が、理解できなかった。
己が追い求めた、土を噛んででも並び立とうとした男の言葉が気味悪かった。
化物の言葉だとして、噛み締めることもなく嫌悪のままに切り捨てた。
そのことは今も変わらない。
焦熱地獄を超えて常世にまろび出たこの仮初めの肉体が、再びあの無間に還るのだと思うだけで怖気が立つ。
そんな鬼に、少女は、しかし。
「たとえわたしが、ここで消えてしまうとしても……死んでしまうとしても……。
今まで積み重ねてきたこと、がんばってきたこと、好きだったもの……それは、無駄なんかじゃないと思うから……」
あの日の男のようなことを、言った。
「…………………………は…………」
やはり、結論は変わらない。
狂っている。
そうとしか思えない。
英霊の座に上り詰められる技も生涯もない身で、一度きりの死を受け入れるなど。
だがだからこそ、その狂おしさが。
狂おしいまでの輝きが――眩しさが。
今、黒死牟にひとつの悟りをもたらした。
「結局は、それか……ああ――お前ならばそう言うと、どこかで思ってしまっていた……そんな己の浅ましさに、腹が立つ……」
結局のところ、何も違いなどしなかったのだ。
仮初めの、二度目の生。
そんなもの、ただの言葉の綾だった。
同じだ。自分が人として、心臓一個の人間ひとりとして生きていた時と同じ。
理解することのできない太陽に寄り添い、強く焦がれ、強く焦がれ。
骨肉の焼ける痛みに呻きながら、敵をひたすらに切り捨てていく旅路。
違ったところがあったとすれば、この世界には太陽がふたつあったこと。
かつて自分が追いかけた、近付く者すべて焼き焦がすような雄々しい太陽と。
距離を取ろうとしても勝手に寄り添ってくる、か弱く愚かなやさしい太陽。
ふたつの太陽に照らされ続けた結果、自分でも予想しない、ありもしない形を手に入れてしまった。
……つくづく、なんたる体たらくか。
地獄での永い断罪の日々は、鬼の脳すらも耄碌させるのか。
「幽谷。お前は…………」
「はい……」
「お前達は、何故……そうなのだ……」
人間であれば誰もが持っている醜い部分というものが、彼女達にはまるで見て取れない。
憎しみ。嫉み。恐れ。
自分の命が脅かされてもそれをおくびにも出さない姿が、ひどく不気味だ。
「だから、私は……お前達が、嫌いなのだ……」
-
結局最後まで、その結論は一度だって変わらなかった。
頼んでもいないのに心の中に入ってきて、煩わしい光で照らしてくる。
外道に再び堕ちようとしても、またその輝きでまとわり付いてくる。
挙句の果てに、自分はまんまとそれに"あてられて"しまった。
鬼が、人間を守るために剣を執るなどとんだお笑い種ではないか。
道を極めるために、妻子を捨てた。
鬼殺に明け暮れた日々の中でさえ、ただの一度も人を守りたくて剣を振るったことなどない。
縁壱という星へ触れるためだけに生涯を使い、だからこそ恩も信頼もたやすく裏切ることができた。
その自分が――、今になって鬼殺隊士の本分を果たすかのように戦ったなど。
自身の死、培ったものの遺失をも顧みずに剣戟を放ち、今まさに朽ち果てようとしているなど。
これがお笑い種でなくて何なのだと、黒死牟はそう思う。
「わたしは……セイバーさんのこと、好きですよ……」
いっそ恨み言のひとつでも吐きかけてくれたなら、これ以上のことはなかったと言っていい。
しかしこの期に及んでまだ、この少女は臆面もなくこんなことを言ってくるのだ。
「強くて、格好良くて……私のことを、みんなのことを、いつも守ってくれた……やさしいセイバーさんのことが、大好きでした……」
「何を、言っている……。お前の目は、節穴か……?」
優しい。
言うに事欠いて、優しいなどとのたまうのか。
こいつは自分の何を見てきたのだ。
感情のままに剣を振るい、情念を剥き出しにして危険に晒しさえした。
脅かしたことこそ数あれど、優しく宥めたことなど覚えている限り一度としてない。
「セイバーさんは、ずっと……やさしいひと、でしたよ………セイバーさんがいてくれたから、わたし……怖くても、悲しくても、つらくても……いつだって、頑張って来られたんです…………」
『兄上は、この地にてひとつでも、命を殺めましたか』
記憶の中の声が、目の前の娘の声と重なる。
太陽と太陽が重なって、輝きを放つ。
けれど魂を灼くことは、もうない。
「だから……これだけは、伝えたくて……」
ぽふ、という間抜けな感触があった。
少女が、黒死牟へつたなく抱き着いていた。抱きしめていた。
華奢な身体は、少しでも力を込めれば粉々にできてしまいそうなほど脆いのに。
何故かそれを跳ね除けようという気にならない。
-
細い腕を、消えゆく黒死牟の背中に回して。
まるで、今からいなくなってしまう大切な誰かの感触を全身で感じようとしているように。
霧子は、そうしていた。
その上で、彼女は顔を上げる。
うっすらと涙の浮かんだ瞳で、それでも太陽は微笑んでいた。
「ありがとう、ございました…………」
生涯、女の涙に何かを感じたことなどない。
にも関わらず今、その顔は黒死牟の心胆に重く響いた。
「わたしと、出会ってくれて…………」
はじめから、この娘は不思議だった。
寝台で寝息を立てていれば勝手に首級が増えていくというのに、律儀に夜の徘徊へ付いてくる。
何故だと問い質せば、意味の取れない摩訶不思議な理由を述べてくる。
役に立たないだけでなく、意思の疎通すら十分に取れないまごうことなき"外れ"の要石。
そう、思っていた。
「わたしを、わたしの大切なものを……ずっと、ずうっと守ってくれて…………」
だが今になって振り返れば、どうだ。
この身、この魂は、数百年もの停滞を抜け出した。
技の冴えは、神をも斬り伏せた。
太陽の光にさえ、もはや灼かれることはない。
果たしてこの少女以外に召喚された自分が、この境地まで辿り着くことはできたのか。
その光景が、腹立たしいことに想像できなかった。
だからこそ黒死牟はここで、とうとう認めざるを得なくなってしまったのだ。
「わたしと一緒に、生きてくれて…………ありがとう、ございました…………」
自分の主となる人間は、この幽谷を除いては他にいなかったのだと。
彼女だから、自分はここまで来られたのだと。
そう気付き、理解し、認めた。
笑顔のまま銀の涙を流す少女に、黒死牟は茫然と口を開く。
「おい…………泣くな…………」
泣き縋る妻子の姿にさえ何も感じることのなかった脳が、何故だかこの少女の啜り泣く様を拒絶している。
-
「それは…………、」
自分は何を言おうとしているのだ、と我に返る。
剣を振るい、敵を殺すだけの鬼が背筋の粟立つようなことを言おうとしている。
そう気付いた黒死牟の逡巡は、しかしまたもらしくない形で幕が引かれることになった。
もはや、残されている時間はほぼない。
じきに己は、この世界を去る。
であれば――
「…………それは……お前には、似合わぬだろう…………」
「…………、……セイバーさん…………」
いいか、と思った。
だから口にした、らしくもない慰めを。
世界の終わりも近いという。
であれば最後は、星でも降るか。
「さめざめと泣きながら舞う芸鼓など………興醒めにも、程があろう…………」
後悔はある。
武士として、娘ひとりとの誓いさえ守れなかったこと。
弟に弥終を唱えておきながら、自分はそこに辿り着けなかったこと。
霧子が何と言おうと黒死牟にとってそれは情けのないことであったし、呆れ返りそうな体たらくだった。
だが、一方で未練は驚くほどになかった。
まるでそれは、長く続く洞窟を抜けて外へ出たような心地。
闇の中を抜け出して、そうして眺めた青空のような。
そしてそこに佇みこちらを見守る、太陽の光を見上げた時のような――。
そんな数百年ぶりの感慨を、黒死牟は今際の際で感じていた。
「役に立たぬ、弱き童ならば……囀るだけしか能のない、芸事で生計を立てる娘ならば………せめて、それらしく…………」
この空も、きっと見納めになるだろう。
英霊の座に還り、もし次があったとして。
その時、自分という鬼が再び宿業の超克に到れるとは思えない。
ならば最期に見上げればいいものを、黒死牟はそれをしなかった。
空よりも、今は――
「……………………………………………………笑っていろ」
この、忌まわしい太陽(おひさま)を見ていたかった。
-
鬼の身体が、解けていく。
金色の粒子に変わって、空に還っていく。
解けた身体が抱きしめた両腕の隙間を抜け、抱擁もまた解ける。
霧子はそこで、空を見上げた。
剣士の還っていく空を見上げようとした。
でもその前に、まずは服の袖で涙を拭う。
思えば困らせてばかりだった。
いつも、怒らせてばかりだった。
せめて最後くらい、晴れ晴れと彼が去れるように。
もう、お前が嫌いだと言われないように。
涙を拭って、それから改めて――空を見上げた。弥終の空を。
「………………、…………ありがとう…………」
なんて綺麗なのだろう、と思った。
なんてあたたかいんだろう、と思った。
夜にしか生きられない、陽の光を浴びられない。
寂しさを抱いた、小さな焔。
そういう"罰"を受け続けていた彼も、これでもう寒くないだろうか。
そうであってくれればいいなと、霧子は思う。
彼が犯した罪も奪った命も、決して消えることはないかもしれない。
それでも――自分の見てきた彼は、本当にがんばっていたから。
いつもがんばって、自分達のことを守ってくれていたから。
そんな彼に、そのくらいのご褒美があってもいいと霧子は信じる。
「さようなら…………! …………セイバーさん…………!!」
響いてく、彼方へと。
少女の声は、いつまでも響いていた。
ありったけの微笑みで、感謝という花束を空へ届ける。
そんな少女の前には、地面に刺さった一振りの刀だけが残されていた。
それだけが、幽谷霧子のサーヴァントの。
彼女をいつも助けてくれた、ある無愛想な剣士の生きていた、たったひとつの証だった。
【セイバー(黒死牟)@鬼滅の刃 消滅】
-
◆◆
『…………そっか…………』
『あなたは………界聖杯、さんは…………』
『あなたは、ただ…………』
『何かに、なりたかったんですね…………』
◆◆
-
「いいですよ」
界聖杯は、アシュレイの確認にそう答えていた。
受ける意味のない、リスクの方が大きな話だ。
だが、確かに心の分からない自分が歪んだ愛の成就という願いを叶えられるのか、という指摘には一理ある。
だからこそ、界聖杯はそれを重く評価した。
界奏と契約し、自分という物語の結末をより欠陥のないものにするべく保険をかけたのだ。
「じゃあ契約しましょう。その代わり、あなたが反故にする素振りを確認したらすぐさま全消ししてやるのでそのつもりで」
「……ああ、それで構わない。けどやけに素直だな、正直もう少し嫌がってくると思ってたよ」
「耳の痛い指摘をされましたからね。やり直しの利くことでもありませんし、まあ悪くない話だと思っただけですよ」
「――本当に、それだけか?」
「はい。それだけです」
最後の逡巡の時、界聖杯の意思の内側によみがえってきた声があった。
自分との対話などという奇特なことを求めてきた、今現在も理解のできない少女の声だ。
彼女に恨まれる筋合いこそあれど、それ以外の感情を向けられる理由など一切ない自分に対して。
まるで"よかった"とでも言わんばかりの顔をし、微笑んできた少女。
呆気に取られるとは、まさにあのときのことを指すのだろうと界聖杯は振り返る。
未知づくしの聖杯戦争になってしまったが、まさかあんな形でまで想定外を味わされることになるとは思わなかった。
アシュレイの言う通り、自分のこの判断はきっと"らしくない"のだ。
まるで、願いを完璧に叶えるという用意された建前に都合よく乗っかったみたい。
他者と通じ合うことなどなく、分かり合うことなど求めたこともない――そんな自分の世界に、ただひとり現れた未知。
その微笑みに、まるで報いるみたいな。
そんなことをするのは、間違いなくらしくない。
要するにバグのようなものなのであろうと、界聖杯はそう片付ける。
自分の陥穽を星辰界奏者なんて油断ならない相手に漏らすほど、彼女は愚かではなかった。
だからこの小さな小さな違和感は、データの奥底に隠したまま彼の手を取る。
ちょうど今……、"彼女"のサーヴァントである剣の鬼が消滅した。
残るサーヴァントは一体。優勝者が、決定された。
「戴冠です。〈世界樹の王〉は、今決定されました」
そう、契約相手となった青年に告げつつ。
界聖杯は内心、呆れたようにため息をついた。
――ああ、聖杯戦争が今終わってよかった。
これ以上は、自分までおかしくなっていたかもしれない。
やり遂げたにも関わらず、奇妙な敗北感をさえ覚えながら。
全能の願望器たる彼女は、最後の最後に小さな方舟を作ることを赦したのだった。
-
◆◆
夢を見ていた。
夢、だと思う。
だってこんなの、現実だったらありえないし。
そう思いながら、七草にちかは目の前に立っている男を見つめる。
「……久しぶり、マスター」
「あれ。もしかして私、死にました?」
「いいや生きてるよ。怪我はひどいけど致命傷じゃない。起きたらちょっとのたうち回るくらいで済むだろうさ」
のたうち回るのかあ……。
にちかは嘆息する。
「生きてるなら、なんで今更会いにきたんですか。遅いでしょ、どう考えても」
「……すまない。本当に悪かったと思ってるよ」
「あーもう、本当に申し訳無さそうにしないでくださいよ。なんだか悪いことしてるみたいな気になるでしょ。
一月も一緒にいたんだから、その……ちょっとは察してくださいよ。よく知ってるでしょ、私がどういう人間なのかなんて」
そう、別にこんなことが言いたいわけじゃないのだ。
恨み言なんて、本気で言っているわけじゃない。
それをいちいち説明するなんて、これほど恥ずかしいこともないだろう。
そのくらい察してほしいものである。にちかは顔を少し赤らめながら、ぶつぶつ呟いた。
そんな彼女に、"彼"――アシュレイ・ホライゾンは小さく苦笑して。
「ああ。よく知ってる」
「……ばか。甲斐性なし」
「それはちょっと意味合いが変わってくるからやめてくれ」
そんな、いつも通りの会話を交わした。
でも、にちかは知っている。
アシュレイ・ホライゾンは消滅した、その筈だ。
ではこれはやっぱり夢なのか。
その疑問を察してか、アシュレイが言う。
「伝えなきゃならないことがあるから、無理を言ってマスターの意識に割り込んだんだ。
……後、あんな別れ方だったからな。最後にせめて、謝罪がしたかった」
「いいですよ、謝罪なんて。……別にライダーさんが悪いんじゃないですし。全部あの王様野郎が悪いんです」
「いや、言わせてくれ……不甲斐ないサーヴァントでごめん、にちか。
俺があの時敗れなければ、方舟は出港できてたんだ。守れた命も、もっとあった」
この人も大概不便なやつだな、とにちかは辟易する。
謝らなくていいって言ってるんだからそれに甘えればいいのに、わざわざ頭を下げたがるなんて。
-
「じゃあ、"ごめん"はもうそれでおしまいにしてください。
謝るなら私じゃなくて、あっちに行っちゃった摩美々さん達にってことで」
「……そうだな、ありがとう。なんていうか――どの口で言うんだ、って話なんだが」
「なんです?」
「大きくなったな、マスター。少し見ない間に、すごく成長した気がする」
「どの口で言うんですか」
唇を尖らせるにちかに、アシュレイはまた苦笑して。
「本当に苦労をかけたし、迷惑をかけた。
埋め合わせることもできない失態だったが……、さっきも言った通り、伝えなきゃいけないことがある。聖杯戦争のこの先についてだ」
「……いいですよ。話してください」
「さっき、霧子さんのセイバーが消滅した」
「…………そうですか。あーあ、じゃあこれで方舟(わたしたち)はいよいよ本当に終わりってことですね?」
……動揺は、不思議となかった。
元よりサーヴァントを失って、魔王に気まぐれで生かしてもらってたようなものだ。
のらりくらり伸ばしていた終わりが、遅れて今やってきたというだけ。
何なら、死への恐怖よりも霧子が可哀想だという感想の方が強かった。
方舟の物語は、今度こそこれで終わり。
誰も彼も、願いを叶えるついでに燃やされてさよならだ。
そうとばかり思っていたのだが、アシュレイの続く台詞は予想だにしないものだった。
「いいや、違う。界聖杯が、マスターと霧子さんを生きて帰すことに同意した」
「……、……え?」
「俺が界奏を使って、優勝者の願いを叶えるのを助力する。その過程で器ふたつの脱落によるリソース不足をどうにか調整する。
正直手探りだし博打だが、威信にかけて上手くやるよ。だからもう安心していい。君達が死ぬことは、もうないんだ」
「え? ……え、え? なんですか、それ――それじゃ、私達……」
「そうだ。助かるんだ、ふたりとも」
へたり、とにちかはその場に座り込む。
身体に力が入らないし、何なら腰も抜けていた。
-
「意味、わかんない……急に、どんでん返しするの……やめてくださいよ、せっかく――せっかく今、覚悟決めてたのに……」
死ぬのは怖くない。
そう思っていたはずだったけれど、それがやせ我慢だったとすぐさま思い知らされる。
もうどうしようもない状況になったから、脳が本能を麻痺させて誤魔化していただけだったらしい。
その証拠にみっともなくへたり込んで、目からはぼろぼろ涙が溢れてくる。
そんなにちかに、アシュレイは屈み込んで視線を合わせた。
子どもみたいだな、と思って恥ずかしくなったけれど、今はそれを抗議する余裕もない。
「生きてくれ、にちか」
「……ぅ、うぅうぅうう……」
「にちかは、幸せになるんだ」
七草にちかは、もう籠の中の鳥じゃない。
にちかは、幸せになれる。
世界が、それを赦した。
「行かないで、ください……」
にちかは涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で、アシュレイにそう願う。
「最後まで、一緒にいてよ……
ライダーさん、負けちゃったから……お別れできなかったんだから、せめて――」
「ごめんな」
それはできないと、アシュレイは静かに首を横に振る。
世界の終わりはもうすぐ来る。
海洋王は、彼女達を守るための最後の戦いに臨まなければならない。
現実をねじ伏せ、ルールを書き換えるための戦いだ。
彼にとってはこの先こそが大一番。
だからこそ、少女の切なる願いに応えることはどうしてもできなかった。
「結局、俺は何もできなかった。夢を見せるだけ見せて、最後になんとかひと握りの希望を繋げただけだ。
そんな俺だけど……楽しかったよ。マスターと過ごした時間は、大変だったけど楽しかった。誓って本心だ」
「ぐす、えぐ……っ、そんなことない……! 何もできなかったなんて、そんなこと……っ、ないもん……!!」
ぽかぽかと、アシュレイの身体を力なく叩いて。
「助けてくれたでしょ、ずっと……! 私、めんどくさいことばっかり、言って……振り回して、ばっかりだった、のにっ……!
ライダーさん、ずっと、私と一緒にいてくれた……! そんな人が、何もできなかったとか……そんな寂しいこと、言わないで……!!」
「……マスター」
泣きじゃくる少女の背を、優しく擦る。
できなかったお別れを、彼と彼女は今していた。
「大丈夫だ。にちかは、きっと大丈夫」
「……ぅ、ううううッ」
「にちかなら、アイドルでもそれ以外でも……何にだってなれるさ。
君のそれはもう、太陽に近付けば溶け落ちる蝋の翼なんかじゃない。
どこへだって、どこまでだって飛んでいける、立派な翼がついてる」
どこに出しても恥ずかしくない、強くて可愛い輝くアイドル。
にちかがそうなったことを、アシュレイは肯定する。
本当に、見違えるほど大きく、そして強くなった。
これならもう、どこにだって行けるはずだ。
「君の未来は、誰より素敵な女の子だ」
夢の終わりに、世界が白く染まっていく。
最後ににちかは、微笑む青年の顔を確かに見た。
見て、焼き付けて、手を握った。
それは、かつて石ころだった少女にとっての幼年期の終わりで。
羽ばたき始めた"偶像"への、何よりの祝福だった。
-
◆◆
【聖杯戦争 終了】
【世界樹の王 戴冠】
【地平聖杯戦争、優勝者――――神戸しお】
◆◆
-
戦いは終わり。
そして今、女は銃口を向けていた。
世界最後の交渉の席で、唯一名前のあがらなかった女だ。
星辰界奏者は彼女の存在を知りながら、その名を口にはしなかった。
他ならない彼女自身が、それを望んでいないから。
その先に立つのは、王冠を被った天使。
戴冠へと至った、世界樹の王に他ならない。
鬼が、天使を射止めるために玉座の前へと立っている。
結果など見え透いた、何がどう転んでも、世界の何事も変えることのない小さな戦いが――滅んだ街の片隅、瓦礫の大地で静かに幕開けようとしていた。
-
紙越空魚の脳内は、奇妙なほどに冷静だった。
要するに自分は、心の芯から人でなしだったのだろうと再認識する。
鳥子を、共犯者を取り戻すための戦い。
それに敗れ、二度と伸ばした手が届かないと分かった瞬間に心のすべてが静かになった。
――ああ。
――終わったのか。
散り散りになって消えたアビゲイルの姿を見送るなり、逃げるように戦場を去った。
本当なら怒り狂ってその場で銃をぶっ放していても不思議ではなかったろう。
けれど空魚は冷静だったから、アビゲイルを葬った剣鬼がじきに消えるだろうことにも気付いていた。
であれば、残る可能性保持者(マスター)はあとひとり。優勝者が自動的に決まることになる。
抱いた願いは、叶わない。
なにひとつ、取り戻せるものはない。
だからこそこの瞬間、女は真の意味で"鬼"になった。
鬼(おに)とは、隠(おぬ)の転じたもの。
形なきもの、この世ならざるもの――そうなったもの。
強い怨みを抱き命を落としたものの成れの果て。
そう語る文献や怪談は枚挙に暇がない。
命を賭して望んだ戦いに敗れ、最後の希望には手が届かず。
戴冠の権利を失い、じきに滅び去る存在となった今。
女は、主役から舞台袖の隠者に成り下がった。
形なきもの、目には見えないものとなったのだ。
だからこそ、女は鬼を名乗る資格を真に手に入れた。
始祖の鬼から連なった、人食いの鬼などではない。
より広義の、口伝で語られ畏れられ、現代の怪談にすらしばしば姿を見せる――怪異としての、鬼。
「見つけた。それとも、そっちが待っててくれてたのかな」
人を呪い、怨み、取り殺す。
そういう存在に、空魚はなった。
自分の願いを足蹴に勝ち上がり、玉座へと座った憎き童。
それを取り殺すべく、祟りの担い手として彼女は銃を構えるのだ。
銃口の先にいるのは、小さな少女。
王冠を勝ち取った、世界樹の頂/地平線の彼方へ辿り着いた者。
神戸しおという名の少女が、世界最後の可能性としてそこにいる。
「うん、待ってたよ。……お姉さんは、私に会いに来ると思ってたから」
「そっか。じゃあ、私がこれからやろうとしてることもお見通しってわけだ」
「そうだね」
今、界聖杯に残っている命は救いの対象となった。
されどアシュレイ・ホライゾンは、界聖杯との交渉に際し紙越空魚の名前を挙げはしなかった。
その理由は、何も彼が空魚の存在を見落としていたからではない。
界聖杯へ潜行しすべてを知ったアシュレイは、理解していたからだ。
紙越空魚はそれを望まないこと。
そして彼女は、まだ戦いを終えていないことも。
-
生きて帰ることなど、空魚には何の救いにもならない。
そうして帰り着いた先は、共犯者のいない孤独な世界だ。
〈裏世界〉は変わらずあり続けるだろう。
〈かれら〉も、変わらず現れ続けるだろう。
だがそれでも、そこにあの透明な手の女だけは存在しない。
その時点で、空魚にとっては世界の一切が意味を持たないのだ。
命尽きるまで退屈が果てしなく続く、ひどく迂遠で無味乾燥とした生き地獄。
そんな世界に、誰が好き好んで帰りたいと願う。
地獄行きの方舟になど、空魚は興味がなかった。
生きて、退屈に身を浸すくらいなら。
あいつのいない世界で、何十年も無駄に生きるくらいなら。
それなら、今ここでこの命を使い切った方がどう考えても得だ。
最後の最後に、少なくとも自分にとっては有意義な八つ当たりをして。
「あんたのせいで、私の願いは叶わなかった」
マカロフを、向ける。
死柄木の遺品はもう、効果を発揮していない。
天使を守護する崩壊の龍は、いない。
「だから――あんたも堕ちろ、神戸しお。この怨み、その願いの散華で晴らしてやる」
この怨み、晴らさでおくべきか。
やろうとしているのは、要するにそれだ。
神話など認めない。神を撃ち抜く凶弾が、この手にはある。
それを突き付けられていながら、しおの表情に怯えはなかった。
考えるまでもなく当然のことだ。今更苛立ちさえしない。
そんな空魚に、しおは静かに口を開いた。
そして問いかけるのだ、願いのかたちを。
「お姉さんも、大好きなひとに会いたかったの?」
「そうだよ。ずっと一緒にいたかったんだ」
仁科鳥子。
孤独で構わないと思っていた自分の世界に、ある日突然不法侵入してきた女。
自信作だった心の壁を壊されたことが、何故か奇妙に嬉しかった。
鳥子のいない世界なんて、もう考えられない。
そんな世界に、価値はない。
だから空魚は、願いを叶えようとした。
今度こそ二度と脅かされることのない、永遠の冒険(ピクニック)ができる世界を祷ろうとしていた。
-
「じゃあ、私とおんなじだったんだね」
「勝手に決めないでほしいな」
「ううん、おんなじだよ。私も……愛する人と、ずっといっしょにいたくて戦ってきたんだから」
少女の中に、小さな小瓶が見えた。
そんな気がした。
「だから私ね、今とっても幸せ」
彼女の願いは、もうすぐ叶う。
その愛は成就し、理想の世界がやってくるだろう。
心底幸せそうな微笑みが、空魚の神経を逆撫でする。
引き金に指をかけた。子どもを撃ち殺す場面だというのに、指に震えはない。
「もうすぐ、さとちゃんに……私の大好きなひとに会えるんだもん。
そしたらもう何もなくさないよ。二度と、手放したりなんてするもんか」
「会えないよ。あんた達の"愛"も、ここで私と一緒に打ち止めだ」
結婚式に、銃弾を撃ち込むように。
空魚は、確かな手付きでマカロフを握る。
しおは動かない。逃げもしない、隠れもしない。
必要がないからだ。空魚も、それは分かっている。分かった上で、それでもこうするのだ。
きっとしおも、空魚の気持ちが分かっているのだろう。
とんだ茶番だな、と空魚は心の中で失笑した。
「堕ちろ、クソガキ」
もう生意気な年下はこりごりだ。
どいつもこいつも、地獄に堕ちてしまえばいい。
そんな辟易と共に引き金を引けば、銃弾は速やかに吐き出された。
向かう先は、神戸しおの眉間。
見たところ、地獄への回数券の薬効は既に切れている。
故にこそ、当たれば確実に即死させることができる筈だ。
律儀にもそんなことを考える空魚の前で、事はどこまでも予定調和のままに進行する。
-
そう、当たれば、しおは確実に死ぬ。
だが、優勝者である彼女には当然侍っている。
彼女を玉座まで送り届けた、彼女の相棒たるサーヴァントが。
空魚としお、銃弾と天使の間に割って入るように、チェンソーを携えた悪魔が現れた。
がきん、という軽い音で銃弾が弾き飛ばされる。
空魚はそれを確認して、ふう、と嘆息した。
だよね、とでも言いたげな所作だった。
次の瞬間、振るわれたチェンソーの刃が。
マカロフを握る空魚の右腕を、身も蓋もなく切り飛ばしていた。
-
(…………、ま。こうなるよね)
元より、結果の見えていた戦いだった。
いや、そもそも戦いにすらなっていない。
峰津院大和のように、生身でもサーヴァントと張り合える実力を有しているのならいざ知らず。
たかだか麻薬のブーストと、拳銃と小手先の〈目〉だけで英霊を連れているマスターを討ち取るなんて無茶にも程がある。
ましてや、神戸しおのサーヴァントは不死身の悪魔憑き。
どの要素を見たって、空魚の八つ当たりが成功する見込みはなかった。
だからこれは、ただただ順当な無謀の帰結でしかない。
最初から最後までそう分かっていたのに、それでもこうして神風特攻じみた無茶に出たのはつまりそういうことなんだろうな、と空魚は腕を切り落とされた激痛と失血で霞む意識の中で考えた。
――死にたかったんだな、私。
鳥子を救えなかった、取り戻せなかったこと。
その時点で、紙越空魚の人生からすべての値打ちが消えた。
この先の世界、この先の人生にだって夢や希望はひょっとしたら残っているかもしれない。
だけどそこには、仁科鳥子の姿はないのだ。
その一点だけで、空魚にとって世界とは生きるに値しない牢獄に意味を変える。
だから、死にたかったのだと思う。
せめて最後は、鳥子が死んだのと同じ世界で。
鳥子が死んだのと同じように、殺されて幕を閉じたかった。
(……悪いね、アサシン。アビー)
託された呪いの言葉は、結局果たしきれなかった。
だが、つまるところ自分はこういう人間なのだ。
カルトに家をめちゃくちゃにされた時からずっと、こう。
普通の人間が持ってる感情を、持ちきれない。
鳥子という灯火があったからなんとか人らしくできていただけで、灯りが消えたらそこには、昔通りの紙越空魚が戻ってくるだけだ。
地面に転がったマカロフを、しおが拾い上げる。
そして切断された腕の断面を抑えながら片膝を突いた空魚に、天使が銃を向けた。
白い、白い大地の中で。
滅び去った、終わりゆく世界の中で。
天使が、怪異に銃を向ける。
そんな、まるで宗教画の一枚のような光景。
それが空魚に用意された"終わり"で。
それが、空魚の望んだ"終わり"だった。
「最後に、なにかある?」
まさか年端もいかない子どもにこんな台詞を吐かれる日が来るとは思わなかったな。
そう苦笑しながら、女は空を見上げた。
空は、青い。
アビゲイルが死んで水銀の雲は晴れ、今は果てしない青空だけが広がっている。
あの〈裏世界〉みたいだな、と思った。
「お幸せに」
「ありがとう」
最後に、そんなとびきりの皮肉をひとつ吐いて。
タン! と、人生の終わりにしてはやけに軽い音を聞いた。
それが、紙越空魚がこの世界で耳にした最後の音響だった。
【紙越空魚@裏世界ピクニック 死亡】
-
◆◆
――、目を開ける。
死後とは、人間にとって最も根源的な恐怖のひとつだ。
死ねば無になるというのは簡単だが、では今ここにあるこの意識はその後どこへ向かうのか。
視覚も聴覚も触覚もない暗闇の中で、時間の概念すら存在しないが故の永遠を味わい続けるのか。
それとも生前の行いに応じた行き先が、人間の魂とやらには割り当てられるのか。
だとしたらきっと地獄だろうな。
そう思って女が目を開けた時、そこには。
「あ。やっと起きた」
「……へ?」
あまりにも見慣れた、金髪の女が笑っていた。
まるで本物の純金を梳いて糸にしたみたいな、艷やかでさらさらの金髪。
シミはおろか傷跡のひとつも見当たらない、すべすべの白い肌。
外国人の血が入っている、碧眼。
そして共犯者の証たる、透明な片手。
どこからどう見てもケチのつけようのない、疑う余地もない、記憶のまんまの……
「……、おまえ――なんで、ここに」
――仁科鳥子が、そこにいた。
慌てて辺りを見回して、更にぎょっとする。
そこは、どこまでも青が広がる〈裏世界〉ですらなかった。
一面の黒と、光の粒。銀河が渦巻き星屑が行き交う、宇宙だ。
生前、怪談好きの延長線で時折空想した死後の世界のどれとも違う超常的光景が広がっている。
絶句するしかない空魚に、目の前の鳥子は苦笑して。
「びっくりするよね。私もびっくりしたもん」
「いや……え。ていうか、おまえ本物か?」
「たぶんね。少なくとも、私はそう思ってる」
空魚の問いに、こくん、と首を縦に振った。
思わず拍子抜けして、全身の力が抜ける。
なんだよこれ。なんだ、この展開は。
こんなことがあるのか、現実によ。
-
「……じゃあこれどこ。これ何。界聖杯の中ってこと?」
「ううん、たぶん外だと思う。そうなんだよね、アビーちゃん?」
「えっ」
鳥子の視線を追って見れば、そこにはばつの悪そうな顔で佇む見慣れた少女の姿があった。
「――あんたの仕業か……!」
「そう、なると思う。ごめんなさい、空魚さんも鳥子さんも。巻き込んでしまったみたいで……」
フォーリナー……、……今はその呼び名も適当ではないのだろうか。
定かではないが、そこにいたのは確かにアビゲイル・ウィリアムズだった。
ただし肌や髪の色、あと服装も最初に会った時のそれに戻っている。
雰囲気もあの狂気的なものは鳴りを潜め、より少女らしさを強く感じさせる歳相応のものに帰っていた。
しかし、アビゲイル。
彼女が出てきたとなると、この事態の真相もなんとなく読めてきた。
何故なら彼女は邪神の巫女。
遥か彼方外宇宙におわす外なる神に魅入られた、銀の鍵の担い手である。
そして空魚は彼女に、より邪神(かなた)へ近付くことを望み。
アビゲイルもまた、鳥子を取り戻すためにその求めへ応えた。
その結果、アビゲイル・ウィリアムズはサーヴァントの枠組みを超えかけるほど邪神の性質に近付き。
敗れはしたものの、もしもあの場で黒死牟ら残存サーヴァントに勝利していたなら、界聖杯さえ掌握できる力を手にしていた可能性もある。
そこまで狂気の深度を深めてしまったこと、深淵に近付いてしまったことがまずかったのだろう。
彼女の死は、単なるサーヴァントとしての消滅だけでは済まない事態を、すべて終わった先の"死後"に引き起こしてしまったらしい。
「私達は今、宇宙の遠いどこかを揺蕩っているわ」
「ビビるよね。宇宙だよ宇宙。私、アビーちゃんの"そういうところ"はあえて考えないようにしてたんだけど――」
「……で。これ、いつ帰れんの。ていうか帰るとかできるの?」
ジト目の空魚の問いに対し、アビゲイルは困ったような顔をした。
どうやら、此処が外宇宙の彼方であるという以外に分かっていることは何もないらしい。
鳥子と空魚は知る由もないことだが、とある時空にて覚醒(めざ)めたアビゲイルもまた、さる旅人に連れられて宇宙の果てへと旅立っている。
"この"アビゲイルの場合、それが本人の意思決定とは無関係に引き起こされた。
言うなれば、窮極の門――時空と空間を超越するそれを開きかけたことが仇となり、魂ごと漂流してしまったというわけだ。
元の地球に帰れるのかも。
そもそも今が、一体過去なのか未来なのかも。
分かっていることは、現状なにもない。
裸一貫で宇宙の外側に放り出されたのと変わらない。
それが、彼女達の今置かれている状況の端的なすべてだった。
「まあまあ、そんな申し訳なさそうな顔しないでよ。どうせほら、私も空魚も死んじゃったんだし。あのまま消えるよりはよかったんじゃない?」
「よかったんじゃない? って、おまえなあ……」
楽観的な鳥子の台詞に空魚は嘆息するが、しかし本心ではそこそこ同意見なのがなんとも癪だ。
「――それと、もう一個……ごめんなさい」
アビゲイルが、そう言って唇を噛む。
次に出てくる言葉は、二人とも予想がついた。
「私……鳥子さんのことも、空魚さんのことも守れなかった。
私、何もできなかったわ。二人の、サーヴァントだったのに……」
-
「あーあー、今更そういうのいいから」
「……よくはないと思うのだけど……」
「だからいいって。宇宙の彼方にブッ飛ばされた衝撃がでかすぎて、そんな話今されてもぜんぜん頭に入ってこないのこっちは」
とはいえ、今そんな話をされたって仕方がない。
何せ今、ここはどことも分からない外宇宙の只中なのだ。
界聖杯でさえスケールが小さく思えるような、未知と超常のひしめく大海である。
それに――願いなら、紆余曲折あったけどもう叶っている。
空魚は隣の鳥子を見つめながら、そう思った。
生とか死とか、場所とか時空とか正直に言ってしまえばどうでもよかった。
自分がいて、隣に鳥子がいること。
共犯者が終わらず、続いていること。
それさえ満たされているのなら、たとえどこだろうとそれは空魚にとって生きるに値する世界だ。
怪異が蠢き、グリッチが敷き詰められた明日の命もおぼつかない〈裏世界〉でさえ喜々として旅した共犯者にとっては、そうなのだ。
……いやそれにしても、さすがに宇宙編が始まるとは思わなかったようだが。
「まあ、ずっとここでこうしてるわけにも行かないだろうけど――アビー、あんたならちょっとは勝手も分かる?」
「ええ。……ちょっとなら」
「ならもうそれでいいよ。ナビ役は任せたから、今度は私らを死なせないように」
「空魚さん――、――……ありがとう」
「はいはい」
そんなやり取りを交わす空魚とアビゲイルを、鳥子はにこにこ微笑みながら見つめていた。
目潰しでもしてやろうと思って指を突き出す空魚の攻撃をひょいと躱す光景は、宇宙の果てとは思えないほど牧歌的だ。
何も変わらない。同行者がひとり増えたこと以外は、ぜんぶ同じだ。
辺り一面には未知の世界が広がっていて、それは果てしなく続いている。
青から蒼へ。人間の常識なんかじゃ想像も説明もつかない、怪異と脅威が蠢く深海。
裏世界ならぬ外世界。それが、共犯者たちに与えられた新たなる白紙の地図。
-
「……どこまで行く?」
「どこまでも」
「いつまでやる?」
「いつまでも」
「……だよね。いつも通りだ」
「うん、いつも通り。何も変わらないよ」
笑う鳥子に、空魚も笑った。
この先は、きっと実話怪談本で培った知識も何ら用をなさないだろう。
正真正銘、本物の未知がどこまでも広がっている。
そういう世界に旅立つのだ、これから。
――不思議と、心はわくわくしていた。
この見果てぬ宇宙を舞台に、鳥子と共犯者ができることに心が躍っていた。
「ねえ、鳥子」
「うん」
「これってさ、やっぱり夢?」
そんな問いかけに。
鳥子は、また笑って。
「空魚は、どっちだと思う?」
そう、言った。
ふ、と空魚もまた笑った。
「どっちでもいいけどさ」
世界は、大いなる誰かの夢なのだと聞いたことがある。
無限の宇宙のその中心で、いつ終わるとも知れない眠りに微睡む誰かの夢。
考えさせられる話だが、でも結局、やっぱりどちらでもいい。
鳥子がいるなら。
「もし夢なら……今度はなるべく覚めないことを祈るよ」
――さあ、冒険の始まりだ。
【裏世界ピクニック――――Sky Blue Sky】
-
◆◆
目を覚ました時、アシュレイの言葉通り死ぬほどのたうち回ることになった。
ただでさえ片腕が吹き飛んでるのに、もう片方までぽっきりへし折られてしまったのだ。
痛いなんてもんじゃなく、慣れるまでは顔を哀しみとは別な意味の涙でぐちゃぐちゃにしなければならなかった。
だけど幸い、霧子は"こんなこともあろうかと"医療道具のあるだろう建物を事前に見繕っていてくれたらしく。
痛む身体に鞭打って、霧子に励まされながらどうにか"崩壊"の及んでいなかった地区まで歩いていき――骨折の手当てと、切断された方の腕の包帯の取り替えをしてもらうと、まあだいぶマシにはなってくれた。
落ち着いた頃、にちかは霧子にすべてを話した。
夢の中で再会したアシュレイ。彼が自分に伝えてくれた、そのすべてを話して聞かせた。
聖杯戦争は終わったこと。
優勝者は、"あの子"で決まったらしいこと。
そして、自分達は死んだり消えたりしなくてもよくなったこと――。
……喜ぶ気には、不思議となれなかった。
無邪気に喜ぶには、あまりに多くの人が死にすぎた。
誰も彼もが死んでいった。みんなみんな、死んでしまった。
だから霧子は、にちかに「そっか」とだけ応えた。
にちかも、それ以上は何も言わなかった。
何も言わずに、ふたりでただ空を見上げて。
しばらく何をするでもなく、そうやって過ごして。
それでも新たな敵が現れることも、身体が薄れ始めるとかそんなこともないのを確認して――
そこでようやく、ああ、本当に終わったんだ、と理解した。
空がオレンジ色に染まり始めた頃、ふたりで歩き出した。
向かった先は、過ごし慣れたあの事務所だ。
道中のコンビニから食べ物と飲み物を拝借して、お財布の中身と相談をしない、ちょっと贅沢でいけない夕飯に舌鼓を打った。
「……あの子、どうしてるんですかね。今頃」
「しおちゃん?」
カップラーメンの残り汁をずずず、と啜りながら、にちかは頷いた。
結局、この聖杯戦争は方舟の対立者である敵連合に掻っ攫われてしまった形になる。
死柄木という魔王をも破って熾天に至ったのは、連合の天使・神戸しお。
彼女が今どこで何をしているのかも、にちか達には分からない。
-
「わからない、けど………でも、それでいいんじゃないかな…………」
「……いい、って?」
「…………あっちも……そろそろ、お別れだろうから…………」
「……、あー。確かにそうですね。勝とうが負けようが、結局そうなるんですもんね」
にちかと霧子は、敗者として一足先にそれを終えている。
元々魔王に敗れて散っていた星辰奏者の青年はもちろん、霧子の傍に侍っていた人相の怖い鬼剣士も今や影も形もない。
霧子の腕にも、令呪は一画も残っていない。
聖杯戦争という儀式があって、彼女達がその主要人物だった事実そのものが、蜃気楼のようにことごとく消えていた。
今じゃ、あれほど辛く苦しかった聖杯戦争も思い出の中に残っているだけだ。
死んでいった、助けられなかった、手を取り合えなかった者達の記憶と共に。
「あーあ。それにしても、できればもう一回"表層"に戻りたかったです」
「……うん……。私も、戻りたかったな……」
「ですよね。霧子さんは恋鐘さんに会いたかったでしょうし、私も――お姉ちゃんに、ひと目でいいからまた会いたかった」
はあ、とにちかはため息を吐き出す。
視線の向かう先は、虚空だった。
手の届かない、帰れないどこかを眺める目だ。
「必ず帰るって、約束したのにな……」
嘘だったら怒るって釘まで刺されたのに、結局帰れそうにはない。
元がこの世界の住人であるにちかにとって、"あの"七草はづきは紛れもない実姉なのだ。
そしてにちかはこれからこの世界を去り、はづきはNPCとして聖杯の起動と共に抹消される。
比喩でもなんでもなく、今生の別れだ。
せめて最後にひと目でも会いたかった。
声を届けて、にちかは大丈夫だよって、そう伝えたかった。
……霧子も、同じ哀しみを背負っている。
「私も……"またね"って、言っちゃった……」
そう言って目を伏せる。
皆で手を叩き、宇宙一だとそう叫んだあの時がもうずいぶん遠い昔のように感じられた。
「世界って、どうやって滅ぶんでしょうね」
「わかんない………けど………」
「……せめて、少しでも幸せな終わりだったらいいんですけどね。無理でしょうね、界聖杯にそんなデリカシーとか期待するの」
そもそも、世界の真実とこの先の行く末が明かされた表層が今どうなっているのかも定かでないのだ。
社会はサーヴァントの振り撒く暴威抜きにしたって崩壊しているだろうし、世紀末みたいな地獄絵図が広がっていても不思議ではない。
そんな地獄の中で為す術もなく消えていく、最後の約束も果たしてもらえずに消えていく、大切な人のことを想って。
小さな筏に乗り込むことを許されたふたりのアイドルは、また沈黙した。
窓の向こうに見える空には、こんな状況だというのに星が瞬いている。
-
「霧子さんは」
「うん……」
「新しい世界に行ったら、どうします?」
「……、……あんまり、変わらないかも……。にちかちゃんは………?」
「まずはとにかく病院ですかね。正直今もけっこう痛いんですよこれ」
もう片方も切断とかなったら、いよいよ洒落になりませんし。
そう言ってにちかは肩を竦め、更に続けた。
「片腕のアイドルとか聞いたことないですよね。
とりあえず半袖の衣装は着れないでしょうし、水着とかそういうのも無理。
ただでさえ私みたいなどんぐりには高いハードルだってのに、この身体で飛び越えるなんて無理ゲーですよ無理ゲー」
「にちかちゃん…………」
「まあ、でも」
ただでさえ、元が凡人な上に。
隻腕という、アイドルをやるには重いハンディキャップまで背負ってしまった。
夢を叶える難易度は強くてニューゲームどころか、前より遥かに上がっていると言って差し支えないだろう。
まさに絶望的。頭を抱えたくなるような暗雲が先行きには立ち込めているが、しかし。
「やりますよ。ぶきっちょでも、拙くても、がんばって飛びます。
言われちゃったし、背負っちゃいましたからね。いろんなものを」
にちかは、残った片手で握り拳を作った。
骨が折れているからこれだけでも激痛が走るが、今だけは我慢する。
そして言うのだ。もういない彼ら、彼女らに伝える言葉を。
「にちかは、幸せになるんです」
――これから、うんと幸せになってやるぞって。
窓の向こうの星空を見つめながら、にちかは言った。
「うん…………きっとなれるよ、にちかちゃんなら………。にちかちゃんも、とっても素敵で……きらきらした、女の子だもん…………!」
「ま、そういうわけで。霧子さんも新生活であんまりぼやぼやしてたら、アンティーカごと抜き去っちゃうんでよろしくです」
「ふふ………負けてられないね…………私達も…………」
新しい世界とやらがどんな場所かは、未だに分からないままだ。
もしかしたら、そこには283プロすら存在していないかもしれない。
けれどそれでも、ふたりのアイドルは疑うことなく確信していた。
自分達が、自分達のまま、目指す道をひた走るアイドルであり続けることを。
聖杯戦争は、終わった。
物語は、本来のジャンルに戻ろうとしている。
悲愴な覚悟と流血で満たされた架空戦記から、歌と踊りで人々を楽しませるアイドルステージへ。
――彼女達の最後の夜は、そんな風にして過ぎていった。
彼女達は敗者だから、失うものはあっても手に入れたものはない。
大切な人と最後に交わした約束さえ、守れはしないままこの世界を去る。
だとしても、その視線は明日へ。地平線ならぬ水平線の向こうからのぞく、希望の太陽を見据えていた。
彼女達は、幸せになれる。
-
◆◆
最後の敵を射殺して、あとは戴冠を待つだけになった。
しおは、デンジと共にマンションの一室にいた。
この深層では、初めて訪れる部屋。
だけど彼女にとっても彼にとっても、とてもよく見慣れた部屋だ。
「なんだかなつかしいねえ」
「そうだな……うお、買い揃えたゲームソフトもお菓子も全部そのままだぜ」
そう――ここは、ふたりが本戦までの一ヶ月を共に過ごした部屋だった。
シュガーライフと呼ぶには品がなくて、別に閉ざされてもいなかったけれど。
それでもこの狭くて散らかった一室が、天使と悪魔の絆の象徴だったことに違いはない。
表層ではもはや現存しているかどうかも怪しいが、そこは深層に落ちてくるという想定外の功名だったと言えよう。
「ていうかよ。マジで最後、ここで過ごすのか?」
「らいだーくんはいや?」
「イヤじゃねえけどよ。深層(ここ)、食い物とかは普通に残ってんだしよ。
どうせなら祝勝会がてら、イイ飯屋にでも行って豪遊した方が――」
「ううん」
靴を脱いで。
とてとて、と部屋に上がり。
それから、くるりと回って振り向く。
「ここがいいの」
そう言って微笑む顔に、デンジも何も言えなくなってしまう。
否が応でも実感してしまったからだ。
もう、これが最後なのだと。
恐らく自分達ふたりが、揃ってこの部屋を出ることはない。
"その時"は、すぐそばにまで迫っている。
聖杯戦争は終わり、少女の願いは叶うだろう。
そうすれば、それで終わりだ。
物語の頁は閉じられて、二度と開かれることはないのだから。
「ありゃりゃ。テレビ点くけど、番組は映らないねえ」
「そりゃな。電波は飛んでるかもしれないが、肝心の演者がいないんだもんよ」
「あ、そっか」
「まあでも、ゲームなら普通に動くんじゃねえか? 見たとこ電気は通ってるみてえだし」
どっかりと腰を下ろして、テーブルの上にレジ袋の中身を広げる。
深層では全部の商品も、レジ袋だって無料だ。
最後の晩餐と呼ぶには質素だが、案外このくらいがいいのかもしれない。
-
「何食う?」
「かっぷらーめん。カレー味!」
「あいよ」
"さとちゃん"が見たらすげえ嫌な顔すんだろうな――。
そんなことを思いながら、やかんにお湯を入れて火にかける。
自分の分も沸かしたいから、お湯は気持ち多めに。
お湯が沸いたらふたりぶん、並んだカップラーメンに注いで後は三分待つだけだ。
ちなみにデンジはチリトマト味。
どちらも、あの一ヶ月の中で事あるごとに食べていた"お決まり"だ。
ぴりりりり。
キッチンタイマーがけたたましく鳴き声をあげて。
蓋を剥がせば、食欲をそそる香りが鼻を突き抜ける。
そういえば朝から何も食べていない。
しおは空腹だったし、一応サーヴァントの筈のデンジもなぜか当たり前に腹が減っていた。
「そういえばよ」
「どしたの」
「ドラクエ。まだ終わらせてなかったんだよな」
「あ。そういえばポケモンも、途中でやめたまんまだよ」
「マジかよ。……間に合うかな」
「えへへ。たたかい、まだ残ってたねえ」
「だな。魔王ブッ殺して、殿堂入りして、それでフィナーレにすっか」
ずるるる、ずるるる。
麺を啜りながら交わされる、最後の夜の計画談義。
対戦ゲームも悪くはないが、やり残しのRPGを放置して去るのもなんだか具合が悪い。
ソフトを起動してゲームを始めれば、魔王の城を目前に立ち往生している主人公一行の姿がディスプレイに表示された。
「バトル一回でこーたいだよ」
「おう。いつものやつな」
そうして彼らは、日常に戻ってきたみたいに冒険を始める。
別に何か、実況動画みたいなにぎやかな会話があるわけじゃない。
律儀に一回戦うごとに操作を交代して、たまに口を挟んだり、どうでもいいことを話したりする。
いつしかカップラーメンは空になって、机の上にはポテトチップスが広げられた。
しおは割り箸でチップを挟んで口に運んでいる。
コントローラーがべとべとになるのは嫌なのだそうだ。
この辺は、さとちゃんの教育の賜物なのかね――とデンジは思ったり思わなかったりする。
-
時計なんて、わざわざ見ることもない。
夜空の星なんて、眺めるようなガラでもない。
ふたりはひたすら、画面の向こうの冒険に集中していた。
彼らにとってはこれこそが、この世界で果たすべき最後の戦いだったからだ。
どうせ世界を去るのなら、後で悔やむような心残りは排しておきたい。
冒険の末に魔王を倒し、エンドロールを見届けても、彼らの戦いはまだ続く。
次のソフトを起動すると、主人の帰りを待っていた六匹の手持ちキャラたちが出迎えてくれた。
時々新しい仲間を加えて、レベルの追いつけてないやつを放逐して、旅を進める。
最近この手のゲームは"野生のモンスター"のレベルが高いので、途中加入のキャラも即戦力になってくれる。
いつしか彼らの手持ちは、見知った名前をつけられた仲間たちで満たされた。
――トムラ。
――アイ。
――ゴクドー。
――タナカ。
――エム。
――おばさん。
連合じゃねえかよ、というデンジのツッコミは「えへへ」という照れくさそうな笑い声で流された。
そして、出会ったばかりの高レベル軍団で埋め尽くされた手持ちは破竹の快進撃を続けていく。
長い旅の中で培った絆なんて、彼らにはない。
ついさっき出会って、数時間一緒に過ごしただけ。
それでも仲間みたいな顔をして、突き進んで、ちゃんと勝つのだ。
今度は、最後までみんな一緒に。
チャンピオンの称号を勝ち取って、連合はゲームの中でも勝ちきった。
「…………、はーーーー」
「つかれたねぇ……お尻がいたいや」
「俺は目が疲れた。しぱしぱするぜ」
「らいだーくんって一応サーヴァントなんだよね?」
そうして、積みゲー二本をどうにかこうにかスピード攻略したふたりは。
デンジが近所のゴミ捨て場から拾ってきた、比較的綺麗だったソファに並んで座り、疲れ果てていた。
「今何時だよ」
「んー……十二時くらいだね」
「え。まだそんな時間なのかよ、俺ぁてっきり朝方くらいだと思ってたぜ」
「始めたの、なんだかんだで夕方くらいだったじゃん」
「あー……そういえばそうだっけか。ゲームばっかりやってると脳ミソ馬鹿になっちまうなあ」
買ってきたお菓子はまだ微妙に残っているが、もうふたりともお腹いっぱいだった。
血糖値の上昇と、二本連続で積みゲーを片付けた達成感とで眠気が襲ってきている。
時間もけっこういい時間だ。そりゃ眠くもなるわな、とデンジは大あくびをして。
そして――
「らいだーくん」
「おう」
「もしかして、そろそろ?」
「……そうだな」
自分の身体が少しずつ、霧のように溶け始めていることに気付いた。
-
今まで何度か見てきた、サーヴァントが消滅する時特有の"アレ"だ。
身体が金色の粒子に変わって、溶けていく。解けていく。
聖杯戦争を終えたばかりとは思えないぐーたら時間を過ごしていたふたりだったが。
それでも平等に、終わりはやってくるらしい。
「ま、そこそこ楽しかったぜ。何せ現世は久しぶりだったからなあ――バケモン共にずっとボコボコにされてた気もするけどよ。
次があるなら、今度こそはもっと欲望全開で過ごすことにするわ」
「えー。えっちなのはだめだよ、らいだーくんも子どもなんだから」
「一緒にすんな。つーか俺に言わせれば、お前らのラブラブの方がよっぽどいかがわしく見えんだよ」
「むっ。失礼しちゃう、純愛だよ」
「お前は帰ったら言動にまず気をつけろよな。見てて思ったけど、お前って相当"たらし"だぜ」
「からし?」
「再会したら"さとちゃん"にでも聞いてみな」
思えば、当初描いていた現世満喫プランはまるで遂行できていなかった。
あの手この手で現世を楽しもうにも、マスターが無力な幼女なのでおちおち外出もできない。
予選の時間はほぼほぼ全部子守りに使わされ、本戦は怪獣大決戦の画面端でヒーヒー言いながら走り回っていた思い出ばかりだ。
最後に勝ち切れたのだけは気分がいいが、よくよく考えるとずいぶん運の悪い現界だった感は拭えない。
「ねえねえ。らいだーくん」
「なんだよ。ますたーくん」
「らいだーくんはさー。たのしかった?」
しおは、変わらず微笑みながらそう聞いた。
それにデンジは一瞬、考えて。
さて、どう答えてやろうかと思って。
「そうだな……」
そこで不服ながら、自分はどうも、何のかんの言いながらそこそこ楽しんでいたらしいぞ――と気がついた。
狭い部屋で、ずっとだらだら過ごしていた時も。
いつかみたいに、対戦ゲームに明け暮れた夜も。
無垢で純粋な子どもに、ジャンクフードの味を教えてやった日も。
ゲーム中に寝落ちした相方に、しぶしぶ毛布をかけてやった時も。
そいつの相棒として、地獄みたいな思いをして戦って。そして、ちゃんと最後まで届けてやれた時も――
「……ま。楽しかったんじゃねえの、そこそこ」
少なくとも、悪くはなかった。
そう、悪くはなかったのだ。
-
だからデンジは、ちょっと視線を逸らしながらそう伝えた。
誤魔化してやろうとも思ったが、これが最後なのだしそれもばつが悪い。
初めて通った学校で、初めて過ごした夏休みみたいな日々だったと思った。
本戦の忙しさだって、必死こいて宿題と向き合っていた時のそれと思えば案外いい思い出だったかもしれない。
それにしたって、二度とは御免だが。
それでも、まあ。
腐すほど悪くはなかったと、思ったのだ。
「私もね、たのしかったよ。
私ね、友達できたのってはじめてだったの」
神戸しおにしたって、それは同じだ。
彼女はデンジより直接的に、それを表現する。
「ほんとなら、もうちょっとここにいたかったくらい」
この世界は、彼女にとって"はじめて"の事で溢れていた。
母のもとにいたときも、愛する人のそばにいたときも、しおはずっとお城のお姫様だったから。
外の世界の粗暴も、愛していない人との友情も、全部が新鮮な初体験であった。
その上最後まで勝ち残って、願いまで叶えられるというのだから文句なんて何ひとつない。
神戸しおは笑って、最後まで笑って、幸せにこの世界を去れる。
「だから――さいごにらいだーくんと遊べて、とっても嬉しかった」
「……別に大したことしてねえだろ。ただメシ食って、ダラダラ一緒にゲームしてただけだ」
「いいの。昨日ごはん食べてる時、にちかちゃんが言ってたよ。友達って、そういうものなんでしょ?」
「まあ……間違っちゃねえかもな」
天使だった少女は、きっと大きく変わってしまった。
その瞳に"悪魔"を宿して、天使のつばさはちぎれて堕ちた。
そして堕落した天使は、お城の中では知れないものを知った。
本当に、ほんとうにたくさんのものを見た。
その目で世界を見て、その足で世界を踏みしめたのだ。
それはもしかすると、彼女を愛した女の望んでいた成長ではなかったかもしれない。
だけどその望まざる成長が、こうして彼女達にとって最善の未来を掴ませた。
「……さとうと再会できたら言っとけ。あんまり箱入り娘させないで、ゲームくらい買ってやれってよ」
根負けしたように言うデンジの言葉に。
伝えとくね、と頷いてみせるしお。
-
話したかったこと、伝えたかったことは全部伝えたらしい。
ぽふん、と改めてソファのふわふわした背もたれに身を預ける。
そして隣の彼を見るしおの目は、どこかとろんとしていた。
「らいだーくん、あのね……」
「今度はなんだよ。まだ何かあんのか」
「私、もうねむい……」
「ねむっ……、……いやまあ確かにそういう時間だけどよ〜……最後だぞお前。そこは踏ん張って起きとけよ」
「でも、ねむいんだもん……」
それもその筈、現在時刻は十二時/午前零時になる少し前。
二桁にもならない歳の子どもは、もうとっくに布団ですやすや寝息を立ててる時刻である。
神戸しおは確かに類稀なるメンタリティを持つ娘だが、それでもこの辺りはちゃんと子どもだった。
目を指で擦って、ぱたぱた……と力なく足をばたつかせて。
「だから、ね……最後に、一個だけ……いい?」
「ったく、締まらねえ奴だなあお前も…………言えよ」
「もう、すっごくねむたいの。起きたららいだーくん、たぶんもういないだろうから。だから――」
ぴと。
隣の彼にもたれかかって、最後の"お願い"を。
マスターとしての"命令"を、した。
「らいだーくん、いなくなるまで、それまで…………手、にぎってて…………」
それが、最後の言葉になった。
こてん、と力が抜けて。
すうすう、すやすや。
寝息を立て始める、小さな少女。
なんだそりゃ。
デンジが思わずため息をついてしまったのも、きっと責められないことだろう。
まさか消滅間際、最後の仕事が眠るマスターの子守りだなんて思わなかったに違いない。
「……"友達"っつーか、"保護者"だろ。それは」
ぽりぽりと頭を掻いて小さくぼやく、デンジ。
それから、眠る少女の小さな手を言われた通り握ってやった。
子ども特有の高い体温が、消えかけの身体に伝わってくる。
これも感じ収めだと思うと、ああ、本当に終わるんだな――と感じ入るものがあった。
「ま、なんだ……」
サーヴァントの身で言うことではないだろうが。
聖杯戦争のことなんて、結局最後までよくわからないままだった。
なのにこうして勝ち切れたのは、"愛の勝利"というやつなのだろう。
であれば最後に。
最後まで、この小さい身体で歩み抜いた"相棒"に。
ちょっとくらいは祝福を添えてやってもいいかと、デンジは思った。
「仲良くやれよ」
-
――ぽーん、ぽーん、ぽーん。
午前零時を告げる電子音が間抜けに鳴り響いて。
聖杯戦争の、最後の夜が終わりを迎える。
マンションの小さな、だらしなく散らかった部屋。
お城だなんてとても呼べない、友達同士の暮らしたカラフルな角砂糖。
戦いの結果になんて、きっと何の関係もない。
小さな、小さな、彼らの世界。
鐘の音が鳴り止んだその時。
もうそこに、悪魔憑きの少年はいなかった。
幸せそうに、安心したように寝息を立てているのは、王様になった少女。
彼女の隣に、ぶっきらぼうで少し下品な友達はもういないけれど。
それでもその手は――まるで誰かの手を握りしめているみたいな、そんな形を保ち続けていた。
【ライダー(デンジ)@チェンソーマン 消滅】
-
◆◆
帰ってくると言ったのに、夜が明けても帰ってこない。
スマホに連絡を入れても、返事はおろか既読すらつかない。
居ても立っても居られなくて、危険を承知で歩き出した。
大丈夫、きっと生きてる。
生きて、この街のどこかにいる。
やるべきことを、やり続けている。
それが何かは、ついぞ教えてくれなかったけど――いや。
今となっては、想像もつくけれど。
それでも七草はづきは、妹を探して一日中街を駆けずり回った。
だけど結果として。
にちかとは会えずじまいのまま、今日が終わろうとしていた。
「ほんと、どこにおるとかねー……霧子も、にちかも……」
隣の恋鐘が漏らした言葉に、はづきは力なく頷くしかできなかった。
この一日で得られた成果はほぼほぼなかったが、唯一の収穫はこの月岡恋鐘と会えたことだ。
どうやら彼女も、アンティーカのふたり……田中摩美々と幽谷霧子と"約束"をしていたらしい。
なのに連絡しても返事がないし、いつまで経っても顔を見せないから、堪らず寮室を飛び出したのだそうだ。
いま、東京は街中大混乱だ。
暴徒化した市民があちこちで物資の奪い合いをしているし、インフラも政府も自衛隊もさっぱり機能していない。
あちこちで起こっているテロやら災害やらのせいもあるが、そこに放り込まれた"世界の真実"なる流説がそれに拍車をかけていた。
曰く、聖杯戦争。曰く、この世界はもうすぐ終わる。
はづきは正直それに関しては半信半疑だったが、にちかの意味深な言動と、あの状況でどこかへ出かけて行った事実に対する根拠になってしまいそうなのがとても嫌だった。
更に恋鐘の話によれば、霧子達も聖杯戦争の単語を出し、あれこれと説明をしてくれたらしい。
――つまりは、そういうことなのだろうか。
恋鐘は幸か不幸か未だにいまいち理解できていないようだったが、はづきは既にいくつもの嫌な可能性を脳裏に思い描いてしまっている。
「……大丈夫ですよ、恋鐘さん。霧子さんも摩美々さんも強い子だし――にちかも、あれで結構したたかですから」
「――ん、そうやね……。うちらが落ち込んどっても仕方なか……!」
この元気が、今のはづきにはありがたかった。
何しろ暇さえあれば嫌な想像ばかりしてしまうのだ。
恋鐘の言葉を聞いていると、自分まで前向きになってくる気がする。
-
「うちらはアンティーカ。宇宙一のアイドルばい」
「……霧子さん達と、そういう話したんですか?」
「ん! うちらは宇宙一ばーい! って、みんなで再確認したんよ。霧子も摩美々もよか顔しとったけん、どうせちょっと連絡忘れとるだけたいね!」
ああ、そうか。
そうか――であれば。
であれば、生きているんだろうな。
霧子さん達も、……にちかも。
何の根拠もないのに、これまで重ねてきたどの想像よりも強い信憑性を、はづきは恋鐘の言葉に感じてしまっていた。
「……そうですね。みんな強いですもんね。でもね、うちの妹だって負けてないんですよ? 姉妹喧嘩とかしたら、もう大変だったんですから」
そう言って、空を見上げる。
今日は、やけに星が綺麗だった。
にちかも……霧子達も、この空を見上げているんだろうか。
「今日は、ずいぶん星が綺麗やねえ……」
ふたりで見上げていると。
ちょうどその時、星空が変化を始めた。
都会の夜空とは思えないような、星々の絨毯。
煌めくそれらが、無数の流れ星に姿を変えたのだ。
「わ……! はづき、あれ……!」
「ほ――ほんとに、すっごく綺麗ですね……!」
いわゆる、流星群だ。
それも、この規模のものなんて見たこともない。
指差す恋鐘に頷いて、ふたり揃って全部の不安を忘れて見惚れてしまう。
彼女達だけではない。
東京中の誰もが、今だけは空を見上げていた。
そしてこの美しい流星群にその目を釘付けにされ、あらゆる不安を忘れ見入っていた。
「……にちか達も、見てるんでしょうね。これを」
「もち! きっと見とるばい、だってこがんすごかもん、霧子もにちかも釘付けになるに決まっとるよ!」
――それは。
終わりゆく世界が見せる、最後の輝き。
無数の可能性が織りなす、終わりの色彩。
世界は終わる。
今ここで、この世界のすべてが幕を閉じる。
であればこれは、せめてもの慈悲だったのかもしれない。
息を引き取る世界に取り残された、消えるしかない命たち。
その最後が、せめて絶望で終わらないように。
世界が、界聖杯が、あるいは彼女に力を添えたある男が。
最後に見せた、この上ないほどに美しい奇蹟の星々。
「――にちか」
はづきが、呟いた。
「――霧子」
恋鐘も、呟いた。
待ち人は、もう二度と来ない。
彼女達が、大切な人に会うことは決してない。
だけど。けれど。
それでも彼女達は最後の一瞬まで、その幸福を祈っていた。
いってらっしゃいの言葉はなくても。
幸せになって、とそう祈る感情は、確かにそこにあって。
これから新たな世界に旅立つ少女たちへの、ちいさなちいさな花束になる。
そして、星空の下で。
ぱたん、と、本を閉じるように。
何の苦しみもなく、絶望もなく。
自分達にその時が来たのだと、知ることもなく。
このちいさな世界は、音もなく、安らかに。
眠るように、その役割を終えた。
◆◆
-
【神戸しお@ハッピーシュガーライフ 優勝】
【幽谷霧子@アイドルマスターシャイニーカラーズ 生還】
【七草にちか(騎)@アイドルマスターシャイニーカラーズ 生還】
【Fate/Over The Horizon 完】
-
以上で本編終了となります(タイトル前半ミスりました、収録の時に修正しますネ……)。
少し休憩を挟ませて頂き、21:30からエピローグを投下し、それをもって当企画は完結となります。
もう少しだけお付き合いください。
-
おまたせしました。
エピローグを投下します。
-
……すこし背が伸びたな、とあさひは思った。
喫茶店の片隅、対面の席でパフェに舌鼓を打つ妹は、いつか家を出ていった時と比べてずいぶん変わった風に見える。
別に顔立ちや服装が大きく変わったわけじゃない。
ただ、どこか大人びたというか。そんな気がするのだ。
「そっか。じゃあ、特に不自由はしてないんだな」
「お兄ちゃん心配しすぎだよ。もう何年経ったと思ってるの」
「心配しないわけないだろ。その歳でひとり暮らしなんて、普通おかしいんだからな」
「でもお兄ちゃん、なんだかんだでほっといてくれてるじゃん」
「諦めたし呆れてるんだよ……。お前、何度連れ戻しても隙見て出ていくだろ。ていうかむしろなんで今までどうにかできてるんだ。まさか――」
「だから。べつにヘンなことはしてないって。どろぼうしたり、えっちなことでお金を稼いだりもしてないよ」
「えっ…………、ごほん! お前な……あんまり心臓に悪いこと言うなよ……?」
兄の心配をよそに、妹――神戸しおはどこ吹く風だ。
それを見てあさひは、もうこの数年でいったい何千回吐いたかわからないため息をつく。
どういうわけかこの妹は、最近やっと中学生になったくらいの年齢であるにも関わらず、信じられないほど自立している。いや、しすぎている。
しおが急に家を出ていった時、神戸家はそれはそれは大騒ぎになった。
そもそもが不安定な暮らしだったのだ。
母はひどく取り乱し、あさひも血眼になって街中を探し回った。
そうしてようやくしおを見つけたかと思えば、あっけらかんとした顔で「これからはひとりで暮らす」とか言い出すものだからもう大変だ。
だけど真に驚くべきは、しおが本当にひとりで大体のことを"なんとかして"みせたことである。
連れ戻しても連れ戻しても聞かないので、いつかあさひ達家族はしおに根負けすることになった。
その結果、しおは中学生になる今年までずっとひとり家族と離れて暮らしている。
書類だとか手続きだとかで必要なときだけ帰ってきて、はんこをもらう。
そういうあまりに歪んだ家族関係が、なんだかんだ今の今までずるずると続いていた。
「お母さん、元気にしてる?」
「ああ。……最近はさ、薬を飲まなくても大丈夫になってきたよ」
「そっか。お父さんは?」
「まだ刑務所の中。お前の言う通りにしたら相当ビビってたから、……まあ出てきてもうちには近付かないだろうな」
「ふふ。ならよかった」
あさひは思う。
いったい、かつて純真無垢だったはずの妹はいつの間にこんな油断も隙もない存在に成長してしまったのか?
考えても考えても答えは出ないが、しかししおは今のところ、自分達家族と距離を取りこそすれど断絶はしないでくれていた。
それどころか、神戸家にとっての呪いだったあの悪魔のような父親は他でもない彼女の助言によって社会から追放されたくらいだ。
要するに神戸家を出たしおが、他でもない神戸家を救ってくれた形になる。
もちろん彼女の助言を聞いたあさひのがんばりもあったのだが、結果だけ見れば、しおの出奔が壊れた家庭を元に戻す役割を担っていた。
-
「で。次はいつ帰ってくるんだよ」
「んー……次はちょっと先になるかも。私もいろいろ忙しくなるから」
「中学生の台詞じゃないんだよなぁ……!」
「それよりお兄ちゃんも、"お姉さん"とはどうなの。けっこうまんざらでもなさそうだけど」
「うっ……うるさいうるさい。妹に言うことじゃない、ませたことを言うなっ」
「あはは。お兄ちゃんかわいー」
けらけらと笑うしおに、兄は顔を赤くして咳払いをする。
そこでふと、しおは兄のかばんに付いている見慣れないキーホルダーに目を留めた。
……いや、見慣れない、というのは嘘だ。
"見覚えのある"それを指差して、しおは問いかける。
「そのキーホルダー。最近流行ってる映画だっけ」
「ん? ……ああ。そうだよ」
「ちょっと意外。お兄ちゃんってそういうの好きなんだ」
「……うるさいな、悪いか」
「悪いとは言ってないよ。ちょっと意外だっただけ」
「――、なんか。こういうこと言うのは恥ずかしいんだけどな」
あさひは、キーホルダーにちょんと指を触れた。
「こいつ、下品で粗暴で、おまけにわけわかんないことばっかり言うんだよ。
でも……なんかそれ見てると、元気になってくるっていうか……。
俺が悩んでることなんて、すごいちっぽけなことなんだって――そう思えるんだよな」
「ふぅん。その映画もお姉さんと見に行ったんだ?」
「う――うるさい、うるさい……! 関係ないだろお前にはっ」
以前は嫌いですらなかった、ひたすら何の関心もなかった兄。
それが今は、からかいがいのある可愛い人に見える。
何しろあの世界じゃ、結果はどうあれ一度負けてしまった相手なのだ。
無視して軽んじることもできない。かつてそう考えたのは正解だったなと、しおは財布を取り出しながらそう思う。
「……もう行くのか?」
「うん。今日はちょっといろいろあるから」
「いいよ、金なんて。妹に出させるほど困ってない」
「いいの? お兄ちゃんおこづかい制でしょ。後で困っても知らな」
「いいから! お前な、あんまり兄を子ども扱いするなよ……!?」
そういうところが子どもっぽいんだよな。
思いながら、しおは席を立って。
赤と黒の二色コスチュームに身を包み、背中に二振りの刀を背負った。
ヒーローと呼ぶにはちょっとケレン味の強すぎる男のキーホルダーを一瞥して、小さく笑った。
-
◆◆
「――ただいまっ」
そう言いながら扉を開ける。
事務員のお姉さんと軽い挨拶をしつつ、とてとてと奥まで歩いていく。
するとそこでは、紅茶を飲んでいる見知った顔が出迎えてくれた。
「あ……おかえりなさい、しおちゃん……」
「うん、ただいま。にっちーは?」
「にちかちゃんなら……学校帰り、直接事務所(ここ)に寄るって言ってたよ……」
幽谷霧子――
あの聖杯戦争では敵として戦った、アイドルの少女である。
しおはてっきり、敗れた彼女達は世界の終わりと共に消滅してしまうものだとばかり思っていた。
というより、そう聞かされていた。
だがどうやら、しおの知らないところで何かあったらしく。
霧子と、そして彼女と同じ陣営に属していたひとりの少女も、しおと一緒にこの"新世界"へと運ばれてきた。
「しおちゃんは、今帰り……?」
「うん。お兄ちゃんと会ってたんだ」
「あさひくんと……そっか……ふふ……。それはあさひくんも、うれしいね……」
霧子は、あの頃と何も変わらないように見える。
この世の誰でも安心させる、日向を思わせるようなぽかぽかした人だ。
そして変わらないと言えば、彼女と一緒にこの世界へ流れてきた"もうひとり"もそう。
足音が響いてきて、しおの顔を見るなり「げっ」て声をあげた彼女も、あの頃から何も変わってない。
「――ま〜た来てるし。283(うち)はあんたの児童館じゃないんですよ」
「あ。おかえり、にっちー。髪やってー」
「おかえりなさい……にちかちゃん……」
「あ、霧子さんただいまー……って、そうじゃなくて。霧子さんもこの図々しいガキにのほほんと応じてちゃダメですよいい加減っ」
「でも……しおちゃんだし、いいかなって……」
「そうだよ。にっちーのけち」
「なんか当然みたいな顔して入り浸ってますけどこいつ283のアイドルじゃないですからね!? 正真正銘、マジの部外者ですからねーっ!?」
――聖杯戦争が終わって、神戸しおは願いを叶えた。
後から霧子達に聞いて知ったことだが、にちかのサーヴァントが界聖杯に取り入っていたという。
その影響なのか、しおの願いはすぐに叶えられることはなかった。
それどころかあの世界からこの世界へやってきて数年経つ今も、まだ願いは叶っていない。
とはいえ、しおはそこの心配はしていなかった。
愛に時間は関係ない。
それに、自分達の戦った……自分が"彼"と戦ったあの戦いが、ただの茶番だったなどとはとても思えなかったからだ。
自分があの日、界聖杯へと告げた願い事はいつか必ず叶う。
ならば今、自分にできるのはその日を迎えるために少しでも準備を整えておくことだけ。
昔みたいに、ただ守られるだけのお姫様じゃなく。
今度は、守ってあげられる対等の関係になれるように。
しおは、強くなった。
予期せず与えられたその日までの猶予を、一日だって無駄にせずに今日まで生きてきた。
-
「まったくもう……。ていうか髪くらい自分でやってくださいよ、今年で中学生でしょ」
「んー。できるけど、にっちーがいちばん上手だから」
「はあ、も〜〜……! ほら、じっとする! あんまり隻腕の人間に雑用任せるもんじゃないですよ!」
「えへへ。おねがいしまーす」
ソファに腰掛けて、後ろのにちかがしおのリボンをほどく。
そして黒髪を、ぶつぶつぼやきながらも丁寧に整えてくれるのだ。
しおはひとりで大体何でもできるようになったが、この世界に来てからも――主に霧子が世話を焼いてくれていたからだろうか。
できないことは人に頼る。力を借りる。相談する、ということを覚えていた。
心の中の"愛"と、それに向かう想いの強さはそのままに、隣人に触れることを知った少女。
それが、世界樹の玉座を射止めた天使の今の姿だった。
『――次のニュースです。都内の病院から、心臓手術の画期的な論文が発表され世界的に話題となっています』
「あ……。この病院って」
にちかが言い、しおも目線を彼女の方に向ける。
霧子は、自分のことのように少し照れくさそうな顔で笑った。
『論文を発表したのは新宿区、皮下医院に在籍するリップ=トリスタン氏。
トリスタン氏は数年前、自身の手で現在の妻にあたる女性の心臓を手術(オペ)し――』
現在霧子はアイドルとしての活動をする傍ら、学生ながらに病院に出入りして現場で働くための下準備を始めている。
その受け皿となっているのが、今名前の出た皮下医院だ。
要するに彼女の境遇は、あの界聖杯内界でのそれとほぼ同じなのだった。
『――今回発表された論文に関して院長の皮下氏は、かねてより業務提携を結んでいる峰津院財閥とも協力し、トリスタン氏の開発した新療法をいち早く実用段階に持っていきたい意向を示しており……峰津院大和氏と皮下氏はワイドショーなどで舌戦を繰り広げることも多い犬猿の間柄ですが……』
「うわ。あのろくでなしども、こっちだと真っ当にやってるんですね」
「ふふ……。皮下先生も、リップ先生も……とってもいいお医者さんだよ……」
世界五秒前仮説という考え方がある。
これまでに積み重ねられてきた歴史はすべて単なる設定でしかなく、世界は今から五秒前に誕生した赤子でしかないという理屈だ。
この新世界の成り立ちは、つまるところそんなところ。
神戸しおの願いを軸に界聖杯が新生させた、あらゆる事象世界から隔絶された無謬の新世界。
そこに放り込まれたしお、そして霧子とにちかは――当然のように、この世界の住人としての記憶や立ち位置を用意された状態で転送された。
それもまた、あの聖杯戦争と同じだ。違いは与えられたロールが一時のものか、それともこの先永遠に続いていくかという点だけ。
「そういえばにちかちゃん、レッスンの調子はどう…………?」
「マジ大変ですよ。一応振り付けとか、私用のを作って貰ってるんですけどね。
それでも身体を理由に美琴さんの足引っ張りたくはないですし、結局練習時間も人一倍必要っていうか」
「そっか……次回のライブ、シーズにとってもすごく大事なライブだもんね……気合いいっぱいだ………」
-
「そりゃもう。相手は真乃さんのイルミネと――"一番星の生まれ変わり"ですから。中途半端な妥協でやり合ったら大恥かいちゃいます」
にちかとそのパートナーによる、シーズ。
櫻木真乃を擁するイルミネーションスターズ。
そして事務所外からの刺客。瞳に星を宿した、最強無敵のアイドル。
建前こそ共演だが、その実態はほぼ対決である。
アイドルとしてようやく芽が出始めたところであるにちかにしてみれば、当然負けられない戦いだ。
そろそろ一発、シーズの名を轟かせておきたい。そんな下克上の野心が彼女の目には燃えていた。
隻腕という、アイドルをするには大きすぎるハンディキャップも……今のにちかは物ともしていなかった。
「……摩美々さんも元気そうでしたね、この前会いましたけど。あの人はやっぱりすごいです」
「ふふ……うん、摩美々ちゃんはいつでもどこでもかっこいいよ……」
283プロダクションは、今も芸能界の頂に向けて日々輝きを増させている。
シーズも、イルミネーションスターズも、そしてもちろんアンティーカもだ。
事務所では気心知れた仲間で友達でも、ステージに立ったら星を奪い合うライバル同士。
彼女達は戦って、分かり合って、強くなる。
いつかの東京で、そうだったように。
「プロデューサーさんも大変だね。毎日いそがしそう」
「いいんですよ。あの人、仕事が恋人みたいなとこあるし」
それを支えているのが彼女達を市井から拾い上げて見出し、そして磨き上げる"プロデューサー"の献身であるのは言うまでもないことだった。
しおもよく顔を合わせるが、にちかの言う通り、今の仕事が天職なんだろうなとそう感じる人だ。
自分をアイドルに勧誘したことは一度もないあたり、人を見る目もあるのだろうと思う。
実際自分は、大勢のために輝くことをするつもりはないし、向いてもいないと思うから。
「はい。いっちょあがりです」
「わー。ありがとね、にっちー。はいこれ」
「……なんですかこれ?」
「飴ちゃん。喫茶店でもらってきたの」
「相変わらず私のことはちょっと舐めてますよね?」
「あはは。飴ちゃんだけに?」
「うるさ」
鏡で確認すると、やっぱり自分でやるよりうまくできている。
にっちーはすごいなあ、としおは改めてそう感じた。
ばっちり決めなきゃいけない日は彼女に頼むに限る。
そして今日は、まさに自分にとってその日なのだ。
「なんですか? これから誰かとお出かけでもするんです?」
「んー。ちょっと違うかな。会いに行くの」
「会いにって、誰に。さっきあさひくんと会ってきたんじゃ」
「――だいじな人」
「……、……あー。"ついに"ですか?」
「うん! なんとなくね、ぴんと来たんだ。あ、今日だ、って」
そう言ってしおは、純真に微笑んだ。
その微笑みは眩しいが、アイドルとしての輝きではない。
みんなを照らす偶像ではなく、誰かひとりのために磨かれた輝き。
その輝きはステージの上でなく、ひみつのお城の中にこそ似合う。
「……そっか……。いっぱい我慢したね、しおちゃん…………」
「えへへ」
「車には、気をつけてね……いってらっしゃい、がんばって……」
「ありがと!」
手を振って、ぱたぱたと事務所を出ていくしお。
あの世界で出会った時より少し丈の伸びた背中を、かつて方舟を名乗った少女たちは見送って。
-
「……やっと終わるんですねぇ、聖杯戦争」
「そうだね……でもぜんぜん、昔のことの気がしないや……」
「同感です。あの頃はまさかこうして、あの子に懐かれるなんて想像もできませんでしたけど――人生ってわかんないもんですね、ほんと」
彼女達は顔を見合わせ、やっとやって来た本当の"終わり"を噛みしめるのだった。
終わりといっても、あの時とは違ってこの世界が終わるわけじゃない。
世界は終わらないし、誰が欠けることもないまま。
世界は、これからも穏やかに、それでいてときどき劇的に続いていく。
少女のために造られた、少女のための"方舟"。
終わりを迎えてひとつ変わることがあるとすれば、それは。
今日この日、ある王女の願いが叶うこと。
ただそれだけの非日常がこれからきっと、どこかの街角でひっそり起こる。
アイドルの少女たちは、日常に還った彼女たちは、どちらともなく小さく笑いあった。
それがあの戦いで散ったもの、消えていった世界への何よりの手向けになると信じて。
「――ま、あんまりインモラルな方向に行きそうだったら介入する方向で」
「ふふ………にちかちゃんも、けっこうお姉ちゃんしてるよね………」
「そんなんじゃないですー! にちかは妹で十分です、あんなくそ生意気な妹とかいりませんっ」
綺羅星のような日常を――支え合いながら生きていく。
かつてあの街で、願いを抱いてそうしたように。
-
◆◆
「う゛〜……。ちょっと今回の数学、テスト範囲広すぎませんこと……? 今回という今回こそは私、ダメかもしれませんわ……」
「みー。沙都子はびーびー泣きながら勉強して、なんだかんだ上位に滑り込むのが定番パターンなのですよ。ボクの派閥の子たちは沙都子のことを嫌味な猫さんだと思ってるのです。にゃーにゃー」
「り、梨花が学校の成績を"部活"にしてしまったからでしょう!? そうじゃなかったら私だってもうちょっとラフに片付けてますのよ……!!」
黒髪と金髪の少女ふたりが話す横を、たたたた、と通り過ぎて。
しおは小走りで、どこにいるとも分からない"彼女"を探していた。
ちょっと疲れて足を止めると、ビルの巨大広告が映画の宣伝をしている。
光月立志伝、と題されたその映画はよほどの話題作なのか、最近テレビでも街頭広告でも主演の顔を見ない日がないくらいだ。
ちょんまげにしても奇矯な髪型をした、日本人離れした大柄な男。
義侠の風来坊の肩書で知られ、彼を主役にした架空の大河映画が制作されるほど大人気な主演男優がお決まりのフレーズを叫んでいる。
『煮えてなんぼの! おでんに候〜〜〜!!』
そういえばお兄ちゃん、この映画見たいって言ってたなあ。
意外とこういうヒーローものっぽいのが好きなのかな。
そんなことを思いながら、しおは乱れた息を整えながら今度はゆっくり歩き出した。
「おい、頼むよ〜〜! 機嫌直してくれって、昨日は本気(マジ)で残業ヤバかったんだって……!!」
「知らない」
「今度の土日で必ず埋め合わせするからさ。な? な〜!?」
そばかす顔の、うだつの上がらなそうな青年が恋人らしき女性に平謝りしている。
どこかで会ったような気もしたけれど、たぶん気のせいだろう。
流石に東京は都会だ。こういう痴話喧嘩を見るのも、そう珍しいことではない。
「あ、そうだ……。今日は手料理作ってくれよ、オレ久しぶりに幽華のカレー食べたいな〜〜!」
「……なんで怒ってる彼女に要求すんのよ。アンタってやっぱりバカよね」
「うぐっ……。い、言われてみれば確かに……」
「――はあ。ほんと私、なんだってこんなヤツと付き合っちゃったのかしら」
女性はため息をついて、すたすたと歩き出した。
一見するとバッドコミュニケーションのように見えるが、しおには分かる。
あれはたぶんむしろグッドコミュニケーションだ。その証拠に、さっきまでより少し足取りが弾んで見える。
「急に会社の呼び出しが、とか言い出したら承知しないわよ」
「……! えっ本気(マジ)!? 許してくれたの!?」
「うるさい黙りなさい。ほら、キビキビ歩かないと置いてくわ」
「りょ、了解(りょ)! あっ、オレカレーは肉ゴロゴロのニンジン抜きな! 分かってると思うけど!」
-
どっちも大変だなあ。
そう思いつつ、視線を外す。
しおの足取りは次に、繁華街の方へと向かった。
別に理由があったわけじゃない。
そしてそもそも、きっとこの予感は理屈じゃない。
だって、今日は願いが叶う日だから。
何をどうしたって、自分は彼女に会うことができる。
この広い東京の中から、夢にまで見たあの人を見つけ出すことができる。
しおにはその確信があった。
気分はさながら、都会のアリス。
こまごまとした街並み、雑踏の中を、不思議の国を探検するみたいに足を弾ませ進んでいく。
「! ドードー……!? 来た、やっと――」
聞いたことのある声がして、しおはその方向に目を向ける。
するとそこでは、まさに今誰かの人生が壊れようとしていた。
「――あっ」
歩きスマホをしながら歩いていた、冴えない男。
彼の目の前を、明らかにスピード違反と思しきタクシーが通り過ぎていく。
それに驚いた拍子に、男の手からスマートフォンが離れて宙を舞った。
しおからすれば一瞬の出来事だが、男にとっては永遠のようにさえ感じられたことだろう。
スマホは側溝の方へと、真っ逆さまに落ちていく。
男の顔が絶望に染まる中、しかし。
「よっ、と」
通りすがりの青年が、ひょいと手を伸ばしてそれをキャッチした。
力が抜けたように地面へ座り込んでしまった男へ、青年は爽やかな笑顔を浮かべて端末を差し出す。
「歩きスマホは危ないですよ」
「あ……ああ、どうも……。いや、えっと――本当ありがとうございます。……よかった、消えてない……!」
「それ"ズーデン"ですか? ……ってうわ、ドードー! 凄いな――持ってる人初めて見ましたよ。だいぶ入れたんじゃないですか、お金」
「ま、まあ……。でもこれで、ようやく報われました」
ズーデン。ズーロジカルガーデン、だっけ。
クラスの子達が話していた記憶があるし、誘われた記憶もある。
しおはいまいち面白さが分からずすぐやめてしまったが、のめり込むと楽しいものなのだろう。
ゲームかあ。私はソシャゲより、やっぱりコンシューマーゲームの方が好きなんだよな。
そんなことを思いながら、進む足取りを再開しようとして。
今まさに絶望のどん底に落ちようとしていた男を助けた青年と、目が合った。
黒髪の青年だった。アトピーか何かの痕が口元に痛々しく残っているけれど、その顔には影が差していない。
自分に笑顔で片手を挙げた"彼"に、しおも微笑んで片手を挙げた。
たぶん、もう二度と会うことはないだろう。
街角の小さなヒーローと別れて、しおはまた、ひとりになった。
ヴィランのいない街はちょっと退屈で、ついついうたた寝してしまうような、そんなささやかな幸せで溢れている。
-
◆◆
「じゃ、また明日ね。私はこれからちょっと野暮用あるから」
「ああ。あの小動物くん? しょーこちゃんも趣味わかりやすいよね」
「ち――違うっての! いや、まあ違わないけど……そういうのじゃないからっ! ……まだ……」
「ふふ。まあがんばって。後で結果聞かせてね」
「う゛ー……! 今に見てなさいよ……!!」
◆◆
-
――友人と別れて、帰路につく。
男漁りをやめてからだいぶ経つけど、やっぱり少し退屈だ。
この世界は、些細な幸せとぬくもりに溢れている。
でも自分にとっては、さほど甘いものじゃなかった。
別に、何が足りないわけでもない。
足りないものは、たぶんないと思う。
両親に先立たれてひとり暮らしではあるけれど、不便を感じたことはない。
お金だってある。バイトもしている。
学業は優等生だ。友達もいる。
なろうと思えばなんでもなれるだろうなと、そう自己評価できるくらいには恵まれていると自負している。
でも、何かが足りない。
心の中にある、ちいさなちいさな瓶の中。
その中に、自分の知らない何かが欠けているとそう分かるのだ。
「……私もそろそろ、彼氏でも作ろうかな」
あいにくとこの渇きは、男を漁っていた頃にも満たされたことはないけれど。
でも親友のあの子みたいに、決まったひとりを作って付き合ってみればまた変わってくるのかもしれない。
少なくとも暇潰し、気休めくらいにはなるだろう。
あの子だって、あの様子じゃじきに例の小動物くんとくっつくことになるだろうし。
そうなったらまた暇な時間が増える――自分探しを始めるには絶好の頃合い、というわけだ。
とりあえず、今日は家に帰ろう。
その前に、久々に叔母の様子でも見てこようか。
小さい頃から変わらずはちゃめちゃな暮らしをしているから、いつ死んだり消えたりしても不思議ではないのだし。
別段あの人が死んでもそんなに悲しまないとは思うけど、それでもいざそうなったら面倒なことはいろいろ思いつく。
これも仕事と割り切って、心の嫌気を黙らせて。
そうして前を向き、歩き出そうとして……
「――――、――――」
私は、"その子"を、見つけた。
-
道の先に立って、こっちを見ている小さなシルエット。
初めて出会うはずなのに、何故だかひどく懐かしく感じられる顔。髪色。
天使のようなその顔は、思わず胸が熱くなるほど可愛らしいのに。
それ以上に私を熱くする何かが、私の瓶のちょうど欠けている部分から湧き上がってくるのがわかった。
「あなた、は……」
そうだ――私は。
私は、この子を、知っている。
今まで、どうして忘れていたんだろう。
でも当然だ、出会ったことがないんだから。
"ここでは"、出会ったことがない。
いつか、こことは違うどこかの人生で。
出会って、一緒に暮らして、そして永遠を誓い合った。
私の、私だけの、お姫様。
はじめて"寂しさ"をくれた――私の、天使。
口が、自然と動く。
そして紡ぐのだ。
まだ知らない、知るはずのない、でも知っている、その名前を。
まるで千年の誓いが果たされるような万感の思いを込めて、私は……
「……しおちゃん?」
大好きな人の名前を、呼んでいた。
◆◆
-
世界は滅んで、誰も元ある場所に帰れはしなかった。
かわりに生まれたのは、王冠を得た王女のための世界。
この世のどことも繋がらない、故に剪定されることもない、理想の方舟。
不思議なことは、もうなにもない。
世界は、変わらない。
社会を変えるヴィランはいない。
願いを叶える戦いは、二度と始まらない。
ここにあるのは、ただささやかな幸せだけだ。
きっと終わらない、エンドロールを知らない世界。
だけどそれが、誰の心を脅かすでもなく。
誰もがそういう風に生き続ける、無謬の箱庭。
宇宙でも時空でもないどこかに漂う、ちいさなちいさなお菓子の瓶。
だからこれも、きっとその例外ではないのだろう。
広い、とても広い街の片隅で。
ただひとつの再会があった。
ただひとつの願いが、叶った。
それだけで、それまでのことだ。
確かなことは、ひとつだけ。
今この瞬間、確かにこの世界は始まり。
最後の"しあわせ"のピースが埋まったのだろう。
地平線は、超えられた。
夜明けはやってきて、人々は皆照らされている。
ここは、天使のための理想郷。
天使の愛のために廻る、ネバーエンドの世界。
-
◆◆
ネバーエンディングシュガーライフ。
◆◆
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以上で投下を終了します。
そして当企画、「Fate/Over The Horizon」はこれで完結となります……!
企画開始から約3年、とても多くの方のご協力とご支援があってここまで来られました。
この場を借りて改めてお礼をさせていただきます。
発足から完結までお付き合いいただいたすべての皆様、本当にありがとうございました!
またどこかでお会いすることがあれば、よろしくお願いいたします。
(スレッドは少しの間残しておいて、それから管理者様に過去ログへ送っていただこうと思います。最終章のwikiの収録も近い内に始める予定ですので、もう少しお待ち下さい……!)
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最終回&エピローグ、投下乙です。
企画者様、ここまでお疲れさまです。
およそ3年間、書き手としてこの企画に参加できて本当に楽しかったです。
ここに参加できたことが物書きとしての大きな糧になったので、感謝の念でいっぱいです。
最終回もエピローグも最高でした。本当に感慨深い旅路でした。
企画完結、改めておめでとうございます!!!
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いやーしおちゃん優勝して本当に良かった。というのもパロロワで初めて俺の好きなハピシュガ勢が出たからずっと追ってたのよ。メンタルこそ強いものの戦闘能力は一般人のさとちゃんとしおちゃんがどうなるか、悲惨な終わり方にならないかってずっと心配してたんパッピーエンドでホッとしたよ。
書き手さん達どうもありがとうよ!
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最終回&エピローグ、投下お疲れ様です
そして完結、おめでとうございます
企画の一部に関わらせていただき、そして結末を見届けることができて幸いな3年間でした
関わった方々も併せて、本当にありがとうございます
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過去ログ送りにされる前に企画主にお願いがあるんやがまとめwikiに◯亡者名鑑みたいなやつ作成してくれへんか?初期の方のパロロワとかは参加者の活躍末路まとめみたいなのがあるんやがそういうのが見たいんや。無論出来ればでええんやがあった方が華があるしな。ご検討の程お願い申し上げますやで。
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