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【加奈〜いもうと〜】夕美〜こいびと〜
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1999年6月25日にディーオーより発売されたアダルトゲーム「加奈〜いもうと〜」のSSです。
知的ルート第三エンドの、夕美視点補完シナリオになります。
SSどころか物書き自体初めてなので、至らぬところはご容赦ください。
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【BGM:ありがとう】
乾いた風がひとひらの紅葉を運んできた。
この前まで刺すような陽射しを浴びせていた太陽は、今はいくらかやわらかな光を届けてくれる。
すこしだけ物悲しいような、けれども穏やかさを与えてくれる季節。私は秋は嫌いではない。
あの日から、もう1年が過ぎようとしていた。
私は、彼が通う大学の中庭にいた。
ちょうど午後の講義が終わった頃の時間。
講義を終えた学生が行き交う中、私は少し古びた校舎の壁際によりかかり、彼が来るのをひとりで待つ。
ここは教室から校門への通り道になっているので、彼は必ずこの前を通ることを、私は知っていた。
目の前を一組のカップルが通りすぎる。腕を組んで仲睦まじい。今日の予定を話し合っているようだ。
女の子の弾んだ声が、二人が幸せであることを教えてくれる。
私はその見知らぬカップルを見送った後、持参した薄緑色の本を開いた。
その本は、私の心をとても切なく、苦しく、しかし暖かくもしてくれる、魔法の本。
私はこの本を開くたび、この一年間のことを思い出さずにはいられない。
私の心は記憶の波をさかのぼり、去年の冬の時期にたどり着いた。
そう、
たった一人で泣いていたあの冬の日に……
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【BGM:ありがとう】
冬。
夕暮れから降り始めた雪が辺りを白一色に染める。雪はすべての音を吸い込み、街は静寂に包まれていた。
大学の講義を終えて帰宅した私は、鞄とコートを部屋の片隅に放り投げると、無気力にベッドに倒れ込んだ。
溜息を一回。視線は何をとらえることなく、ただぼんやりと天井を見上げていた。
誰も待つ人のいない部屋。携帯電話の消せないアドレスは、しかし着信を通知することはない。
未だに荷解きを済ませていない引越荷物が、部屋の角に寂しげに鎮座している。
秋の終わりに半年間交際していた彼と別れてから、私は大学の近くにマンションを借りて一人暮らしを始めた。
正確に言えば、一人暮らしを再開したのだ。
大学に入学した時に私は一人暮らしを始めたのだが、すぐに地元の実家に戻ってしまった。
一人暮らしなんてしていられない事情があったからだ。
小学生の同級生だった彼と、念願の交際を始めたのは今年の春、実家に戻る少し前のことだった。
無愛想で仏頂面で朴念仁。クールメンなんて綽名されて、でも本当は不器用なだけだということを私は知っている。
時折見せる照れた仕草。ベッドの中では一転、雄の逞しさを情熱的に漲らせ、私に情熱を注ぎ込む。
かけがえのない、はじめての男。
そう、私が実家に戻ったのは、彼との時間を大切にしたかったから。
彼と私は大学が違うため、大学近くのマンションにいては逢う機会が少なくなってしまうからだった。
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彼との逢瀬は、私の人生において最も幸せな時間だった。
8年越しの初恋が遂に実ったのだ。本当に夢のような、甘い濃密な時間だった。
暇さえあれば、というより他の予定を後回しにしてでも時間を作り、彼と共に過ごそうとした。
一分一秒でも長く側にいたい。これから一生彼と添い遂げたい。
失われた年月を取り戻さなくてはいけない。仲違いして無為に過ごした青春を、今こそ謳歌するのだと。
その時間が、住んでいる距離が遠いために削られては堪らない。私が地元に戻るのは当たり前の決断だった。
私にとって、地元の風景は、彼とともに過ごした幸福の思い出とともに記憶されている。
だから、辛い。
半年あまりで再び一人暮らしをすることに、父は不満げな顔をしたが、結局は許してくれた。
引越費用も馬鹿にならないはずだが、父は私の我侭を負担してくれた。
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そんなマイナーなもんのこっちに聞こえないBGMなんか用意されても
どう反応していいのかわからんわ
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父は地元の病院に勤めている。
先端医療にも積極的に取り組んでいる、結構大規模な病院だ。
病床数も地元では最大で、緊急患者の受け入れのほか、長期入院している患者さんも多い。
都会の大学病院にはさすがに劣るが、専門治療を受けるために遠くから訪れる人もいるほどだ。
小学生の頃、学校帰りにたまに病院に遊びに行った。
その度に父は、『病院は遊ぶところではないんだから、静かにしていなさい』と私を窘めた。
けれども決して追い返さなったのは、病院を通じて健康であることの素晴らしさ、
病気に負けず懸命に生きる人々の姿、命の大切さを私に教えたかったのかもしれない。
言葉で伝えてくれたことはなかったが、私は父の意図をそう感じていた。
誰かのために働く父の姿は輝いていて、子供心に誇りに思ったものだ。
照れ臭くて本人に直接言ったことは無いけれど。
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>>5
禿同
だけど面白そう
支援
がんばって
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その病院に、交際していた彼の義理の妹が入院していた。過去形なのは、今はもういないからだ。
退院したのではない。亡くなったのだ。今日のような雪の降る夜に、慢性腎不全に伴う合併症で。
あの子は幼いころから入退院を繰り返していたという。
というより、殆どの期間を病院で過ごし、稀に退院するだけの人生だったそうだ。
背中まで延びた綺麗な黒髪に、透き通るような白い肌。
純白の夜具に身を包んだその姿はいかにも薄幸の美少女といった風で、
こういう表現は適切ではないかもしれないが、病院という空間が良く似合う子だった。
父があの子の担当医だったことは、かなり後になってから聞いた。
幼い頃のあの子のことを、父は小学校を卒業できないだろうと診断していたそうだ。
先天性の遺伝子異常。それがあの子の病気の元凶だった。
いつも病室の白い壁に囲まれて、白いベッドの上で、他人に体調を管理される生活。
訪れる人も少なく、体を動かす楽しさも知らず、ただ本だけを友人に過ごす毎日。
でもあの子は幸せだったろう。最愛の人を、私が愛した彼を奪い、独占できたのだから。
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xbox版 キャスト豪華すぎ
なくなって残念
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そう、彼は私よりあの子を選んだ。私は捨てられたのだ。
義理とは言え妹に、私は負けたのだ。
私が何年も切望し、やっとの思いで手に入れたもの。
それをあの子は、彼の近くに居たというだけで、いとも簡単に奪ったのだ。
妹なのに。たとえ血が繋がってないとしても、兄妹なのに!
……分かっている。ただの嫉妬に過ぎないことぐらい。
あの子が病魔と闘い、苦しみ、必死に生きていたことくらい知っている。
あの子のひたむきな想いが、彼の心を捉えたのだろうということは想像がつく。
けれども、なら私は一体何なのだろう。
私の想いは永遠に届かないのだろうか。どれほど恋焦がれても、彼に気持ちは伝わらないのか。
出会ったのが、たった数年遅かった。あの子が末期の時を迎えていた。ただそれだけの理由で、
彼は私を裏切ったのか。
彼を思い出すのは何度目だろう。その度に私は、身を引き裂かれるような悲しみに打ちのめされる。
物音ひとつしないマンションの部屋に嗚咽だけが響く。
外はしんしんと雪が降る。今季は記録的な寒波らしく、底冷えする夜が続く。
人肌が恋しい。温もりが欲しい。体を重ねたい。情欲に溺れたい。心も体も熱くしてほしい。
これほど切なくさせる彼が憎い。一度は私に希望を与えて、最後に全てを壊して去った彼のことが恨めしい。
枯れるほどの涙を流して、まだ悲しみが止まらない。どうしてこれほど私を苦しめるのか。
冬の長い夜は、いつまでも私の心を深い闇に閉ざしていた。
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>>5
すいません、自己満足でしたね。
次から外します。
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[つづく]
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【BGM:我が心明鏡止水されど拳は烈火の如く】
夏奈「人の恋路を邪魔するやつはァ…」ググ…
夏奈「馬に蹴られて死んじまぇ!」
夏奈「ばあぁあくねつ…!」
夕美「ふん…だからお前はアホなのだ!」
夏奈「なに!?」
夕美「流派…東方不敗の名の元に…」
夏奈「くっ…ゴッド…フィンガアァ!」
夕美「石破…天驚拳ッ!」
夏奈「…!」
…チュドオォオォン!…
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多分>>13はアニマックスの無料放送を見たんだと思う
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速報に複数立てて放置してんのもお前か?
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期待している
…でも速報の方の後片付けだけはしておいてね?
BGMは別に指定があってもいいと思う
元々、どうしたってターゲットが狭くなるSSだし
つべとかへのリンクがあるといいけど
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>>5
加奈をマイナーって…
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皆様にご迷惑をおかけしてすいません。
速報で立てたときはエラーが出たので、てっきり立ってないとばかり思って…
ひとまず、続き行きます。
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春。
彼と別れてから半年が過ぎた。
時間が問題を解決するというのは本当らしい。人間とはかくも都合よくできているのだろうか。
雪解けの季節が近づくにつれ心の傷は少しずつ癒え、私はそれなりに日常を取り戻しつつあった。
私は大学2年生になった。周りの友人達は彼氏持ちが増え、惚気話や恋の相談事を聞かされる機会が増えていた。
まったく人の気も知らないで、夜の情事のことを熱弁されてもね。いいんだけど、さ。
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午後の講義を終えると、私が所属する文芸部のサークル仲間が声をかけてきた。
今日も今日とてコンパのお誘い。新年度恒例新歓コンパだ。
サークルの提携関係(といえば聞こえは良いが、結局ただの遊び仲間だ)にある某有名大学との合コンらしい。
ちなみに彼の通っている大学とは別の学校だ。この辺り、ウチのサークルはやけに手広い。
軽くOKして教室を出る。19時スタートならまだ時間あるな。特に用事もないし、サークル室で雑談でもしていようかな。
そよ風が若草色のテーラードジャケットを軽く揺らす。やわらかな風が心地よい。
友人の話によれば、今日のコンパには美紀子お姉さんも来るらしい。
お姉さんは何故か私のことを気にかけてくれていて、もう卒業したにもかかわらず
コンパに顔を出してはいかにもウブそうな新人を見つけ、目を細めてしきりに私にけしかけてくれていた。
『あんたねー、いい加減次の男みつけないと、どんどん枯れてっちゃうわよ。折角の美人が台無しじゃなーい』
美紀子お姉さんらしい言い回しだが、私を元気づけようとしてくれている気持ちは伝わっていた。
けれども私はその気になれなかった。
丁重にお断りし、結局新人君をお持ち帰りするのは美紀子お姉さんの担当になる。
そりゃ私だって、一応それなりにモテる自覚はある。
中学・高校時代にクラスメイトにアプローチをかけられたこともあるし、告白だって何度かされた。
それでも私の心は揺るがなかった。ずっと彼のことだけを想い続けてきた。
8年間も。まだ世間知らずな少女の頃から今に至るまでずっと、だ。
どうして今更、新しい恋を見つけることができるだろう。
いつの間にか、足はサークル室とは反対の方向を向いていた。
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校舎を出るとすぐに、満開の桜に囲まれた中庭に出ることができる。
この季節、中庭に広がる光景はなかなかに壮観だ。
私は桜吹雪をよく見渡すことのできるベンチに腰を下ろし、ペットボトルの紅茶を一口。
最近はミルクティーより微糖がお気に入り。なんだか味の好みも少し前と変わってきたような。
確かに最近、ケーキバイキングとか行ってないなあ。高校時代は友達を誘ってよく行ったもんだけど。
ふう、と溜息一つ。
コンパ、ちょっと面倒になってきたな。顔だけ出して適当なところで切り上げようかな。
軽く足をばたつかせてみる。校舎の壁沿いに各サークルの新人募集看板が掲げられているのが見えた。
そういえば、彼と交際するきっかけになったのも、新歓コンパで再会したからだっけ。
一年前のちょうど今ごろ、合コン会場の居酒屋で彼と再会したときのことが頭に浮かんだ。
あの時私は運命を感じた。神様の存在を本当に信じた。
高校卒業式の日、あの謝罪と告白が生涯の別れだと思っていたので、コンパでの再会は奇跡そのものだった。
話が弾んだわけではないけど、かつてのように避けられることなく、会話ができたことが本当に嬉しかった。
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『……なあ、俺って間違ってたのかな』
確か5杯目あたりを空けた頃だ。唐突に発した彼の一言が、私の心を震えさせた。
彼がどういう意図で言ったのか、本当の意味は、正直なところ分からない。
単に、子どもの頃の未熟な行動を悔いていただけかも知れない。
けれど私は、その言葉を自分の都合の良いように再構築して、心の隙間に当てはめていた。
彼も本心では私を嫌っていたわけじゃない。本当は憎からず思っていてくれたのかも知れない。
彼の言葉を、私は自分の恋心を補強する材料として利用していた。
一度そう思い込むと、他の可能性なんて全部却下して突き進むのが恋心、なのかも知れない。
恋は盲目という言葉通り、私は冷静さを完全に失っていた。
彼の影のある表情をよそに、私の気持ちは勝手に盛り上がり始める。心の暴走が止まらない。
酩酊状態の彼を居酒屋から連れ出すと、強引に関係を迫った。
彼を私のものにしたい。いや、彼のものになりたい。そんな一心だった。
我ながらなんて大胆なことをしたんだろう。思い出すと頬が熱くなる。
きっと私も酔っていたからだ、とお酒のせいにするのがいつものパターンだった。
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また随分懐かしいものを……
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ベンチに寄りかかりながら空を見上げる。
今日は雲一つない快晴だ。天気が良いとそれだけで健やかな気持ちになる。
だからだろうか、こうして過去の出来事を思い出せるくらいには、最近の私は落ち着いていた。
彼と別れた直後、冬の間はずっと、すべての記憶を消し去りたいくらい混乱していた。
あの頃、もし街中で彼と出会っていたら、ひょっとしたら殴りかかっていたかもしれない。
随分乱暴な話だけど。そのくらい、冬の私は渾沌の中にいたのだ。
それに比べれば、今の私は大分マシになったと言えるのだろう。
果たしてそれが、本当に気持ちを整理できた結果なのかは分からないけれど。
桜の花びらがひらひらとまい、私の鼻を軽くくすぐった。
桜は人の心を高揚する効果があるのだろうか。花びらのひとひらさえ、なんだか無性にウキウキした気分にさせてくれる。
唐突に、彼の顔が見たくなった。
冬の間にはなかったことだ。いや、あったかな。泣きはらした冬の夜長、彼を恋しく思ったことは会ったかも知れない。
けれども今の気持ちはその時のものとは違う。もっと単純に、素朴に、純粋に、彼のことが懐かしくなったというか。
ひょっとしたら、顔を見れば過去の混乱はすべて無かったことになって、もう一度元の二人に戻れるかもしれない。
あまりに突飛な、根拠の無い甘い願望。けれども私には、それが疑いようの無いくらい透徹した真理だと思えてしまった。
春のあたたかくてのどかな陽気が、思考を楽天的な方向へと誘ったのだろうか。
すっくとベンチから立ち上がり、早足で校門へ向かう。
私は彼が通う大学へ行くことにした。
満開の桜が私を祝福してくれている、そんな錯覚を覚えた。
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彼の通う大学に到着。こちらでもいろんなサークルが新入生を勧誘していた。
彼が大学を休学していたことは、コンパで知り合った友人から聞いていた。
時期的には私と別れた直後かららしい。
理由は容易に想像がついた。彼は、あの子のために自分の時間をなげうったのだ。
嫉妬の炎が燃え上がるのを感じる。
彼はこちらから連絡をしなければ私とはしばし疎遠になりがちなのに、あの子のためならば全てを犠牲にするのだ。
彼を奪ったあの子のことを、納得できるわけではない。
でも、もうあの子はいない。
なら、今なら私の方を向いてくれるかもしれない。
それがどんなに都合の良い幻想かということは、自分でもわかっている。
それでも抑えることができない、想い。
何度か待ち合わせをしたことがある学内の中庭で、私は彼の姿を探していた。
春風に背中を後押しされて。
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彼は4月から復学したそうだ。
学部は変わっていないだろうから、彼が普段どこの教室を使い、どの校舎からでてくるかは大体わかる。
以前、こっそり授業中の彼の隣の席に座ったら、とても驚いていたっけ。
ウチの学生じゃないのに、なんでお前がここにいるんだ、って。
そんなの決まっているじゃない。君のことが好きだから、一緒にいたいからだよ、と言って腕を組み肩に寄りかかったら、彼は呆れた顔をしていた。
乙女心が分かっていないなあ。恋する女の行動力を侮ってはいけないのだよ。
そう、だから今もまた、私は彼の姿を探している。
少し強めの風が吹いた。私は髪の乱れを気にしながら、風が吹いた方向に顔を向ける。
予感がした。風が懐かしい匂いを運んできてくれたからだ。
陽光が眩しい。薄目を開けると、一番奥の校舎からひとりの男性が出てくるのが見えた。
真っ白なシャツにデニムのパンツ、少し履きつぶしたスニーカー。
左肩にはスポーツタイプのリュックをかけている。
最近散髪にでも行ったのだろう。髪形は自然な短髪で、前より少しさわやかな印象を与えていた。
右手で前髪をかき上げる仕草。変わっていない。
彼だ。
胸がときめいた。顔が上気しているのが自分でも分かる。ひょっとしたら目が潤んでいたかもしれない。
あふれる気持ちを抑えられない。彼の元へ駆け寄ろうと足を動かす。一歩、二歩。
数歩先へ進んだところで、私の足は止まった。
一瞬だけ目をかわしたかもしれない、その時の彼の表情に、私はその場から動くことができなくなっていた。
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私は、彼のこの表情に見覚えがある。
小学生の頃、私にくれた手紙が教室内で暴露されたときの、あの表情。
感情の全てを心の井戸の底に沈めてしまったかのような、深く沈んだ色をした瞳。
古い記憶がよみがえる。彼に徹底的に嫌われた、ラブレター事件。
私の迂闊さが、彼の心に深い傷を残した、忘れてたくても忘れられない過去。
心が締めつけられる。完全な拒絶。何年にもわたって避けられ続けた少女時代。
ほんの十数メートル先に彼がいるのに、絶望的な距離を感じる。二人の間に、埋めることのできない溝がある。
私は彼が通りすぎるのを、俯きながら待つことしかできなかった。
風は、いつの間にか止んでいた。
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[つづく]
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速報で立てたやつちゃんと依頼出しとけよ
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いいね
懐かしい
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梅雨。
しとしとと雨の降るこの時期はあまり好きじゃない。
湿気った空気は髪の毛が撥ねさせるし、折角念入りにに髪をセットしても、午後には毛先が上向いてくる。
身だしなみに気を使う女の子にとっては、それだけでなんだか気持ちまでじとじととしてきて、憂鬱になる季節だ。
彼の大学へは、その後も懲りずに何度か訪れたが、彼はやはり険しい様子だったので近づくことさえできなかった。
私の数ヶ月は、こと彼のことに関しては何事も起きることなく無為に流れていた。
ある休日、私は友人と駅前の商業ビルにショッピングに来た。
女同士の気楽な買い物はスタートの時間ものんびりとしていて、すでに午前中ももうすぐ終わりという時間の待ち合わせだったので、まずは軽くランチを済ませた後、お目当ての買い物に向かうことにした。
友人の目的は水着コーナーだった。まだ夏の訪れにはには随分気が早いがそこは女の子。
いち早く最新の流行をチェックして、来るべきアバンチュールを万全の体制で迎え撃ちたいということなのだ。
まあ、気持ちはわかるといえばわかる。一応、私だって女の子だし、ね。
ターゲットを着実に仕留めるための準備はしすぎるということはないわけで、殊に彼女の企む海辺の恋というシチュエーションは、多大な戦果を期待できる一方で背負うリスクもまた大きい。
端的に言えば目的の殿方が他所の女に目移りしてしまう可能性もあるわけだ。
であるならば、相手を射止める重要な武器となる装備品の選定は慎重かつ確実に行われなければならない。
あれやこれやと水着を取っ換え引っ換え思い悩む友人に対するお見立て役を勤めきった後、今度は私の買い物に付き合ってもらい、最後に作戦立案の参考を得るために書店に行くことになった。
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駅ビルの中にある書店は比較的広く、3つ並んでいるレジの前は広くスペースがとられていて、その向こうには話題作や新書が平積みされているひと島がある。
私と友人はその前を素通りし、女性向け雑誌が並べられている一角へ向かった。
雑誌コーナーのラックには、最新号のファッション雑誌が揃っていた。
友人はそのうちの一冊を手に取り、目をきらきらと輝かせながら熱心に読み始めた。
友人が食い入るように読み込む大判のファッション雑誌の表紙には、
「今年の夏はこれでキメる!最新コーディネイト」「恋を手にする必勝パターン!これだけはチェックしておきたい10箇条」
などとかなり大きめのフォントでコピーが踊っている。
そういえば、最近はこういったファッション雑誌をチェックすることも、久しくご無沙汰となっていた。
なんというか、いまいち気分が乗らないというか、盛り上がらないというか。
どうも遊ぶことへの情熱が、以前と比べて萎えてしまったような気がする。
いかんなあ、こんなんじゃ。私は一人でも遊び回る女、のはずだったんだけどなぁ。
湿気で撥ねた髪を指先で弄くりながら、私はそんなことを考えていた。
雑誌に目を通す友人の真剣な眼差しが、ふと一年前の自分と重なって見えた。
彼と交際していたあの頃、毎月欠かさず何冊も雑誌をチェックしていたことを思い出す。
最新のファッションで着飾って、流行のメイクを施して、彼の気を引こうと必死に努力をしていた、あの頃。
彼に喜んでもらいたくて。
彼に、キレイだと褒めてもらいたくて。
結局一度も、彼は私のファッションを褒めてくれることはなかったけれど。
レインコートにまだ残っていた雨粒を払い、ふっと溜息をつく。
「……朴念仁だもんねぇ」
私の呟きは、幸いにも友人には聞こえていないようだった。
というより、友人はファッション雑誌に夢中になっていたので(買って帰るのだから、家で読めば良いのに)、私の事は気にも留めていない様子だった。
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どうやら友人は完全に自分の世界に没入してしまったようだ。今ごろきっと、彼女の頭の中には夕日を背にロマンチックな一時を過ごす自分の姿が出来上がっていることだろう。
私は軽く首をすくめると、仕方がないの書店の中を歩き回ってみることにした。
先週、刑法の講義でレポートの課題が出ていたのを思い出す。何か参考になる本があるかもしれない。
学内の図書館は貸し出しの倍率が高いし、常に本を手元に置いておけたほうが勉強の効率は上がるのだ。
課題に使えそうな本を数冊小脇に抱えて、再び友人のいる雑誌コーナーへ戻る。
途中の通り道にある、話題作の島が目に入った。何か面白そうな本はあるかなあ。
私はそれほど熱心な読書家ではないが、それでも話題作は一通り読んでみることにしている。
会話の種にもなるし、新しい発見や視点を得られることもある。何より楽しい。
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くりぃむれもんみたいなやつですか?
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並べられた書籍を見渡してみる。新書、文庫本、写真集。ジャンルは様々だ
ベストセラーの文芸書(毎年ノーベル文学賞の候補になる作家のものだ)やちょっと眉唾な自己啓発本、最近昼間のテレビを賑わせている芸能人の著作などが並ぶなか、薄緑色に彩られた表紙の、小さな本に目がいった。
その本の脇には、おそらく店員の手書きであろう、黄色の紙に赤い文字で宣伝文句が謳われているPOP広告が立てられていた。
『インターネットで話題騒然!不治の病に侵された少女が生と死を正面から見つめる、感動の実話!店員Aは読後涙が止まりませんでした!!絶対超オススメ!!』
『絶対超オススメ』って、なんだか随分な表現だなあ。
今流行のありきたりなお涙頂戴本なのかなと思いつつ、その本のタイトルを確認してみた。
『命をみつめて』
そして、著者名を見た瞬間、私は目の前が真っ白になり、次に黒い感情が胸の奥から全身を支配していくのを感じていた。
皮膚細胞から脊髄神経に至るまで、すべての生命維持に関わる機能が麻痺し停止したような錯覚に襲われた。
なんで、なんで今になってまだ私の前に現れるの!!
意識の声は現実の音を伴わなかったが、それでも感情の発露は周囲の空間を大きく震わせたように感じられた。
いや、本当に私は声を発しなかったのだろうか。咽頭が、まるで一晩中叫び続けた後のように腫れている感覚がする。
もしかしたら、その感覚すらも錯覚なのかも知れない。今の私は、自分の身体制御における一切を管理しきれていないように思われた。
なぜなら、視神経から伝達された小さな本の存在が、現実の光景なのか、幻覚なのか理解できていないのだから。
ただ身体から乖離した思考が私という個の中に深い闇を形成し、指の先にまで浸透したそれが辛うじて人の形を保っているように感じられた。
私はその本を手にすることさえできず、ただ呆然とその場に立ちつくした。
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[つづく]
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数日後、私は久しぶりに実家に帰省した。
帰省と言うほど遠くはないし、お盆休みと言うわけでもないのだが、父が、『たまには顔を見せろ』とうるさかったからだ。
私がリビングに顔を出すと、新聞を読んでいた父が私に気付いて顔を上げる。
よく言えばロマンスグレー、有り体に言えば白髪混じりの髪をかっちりセットした父の姿は、
銀縁の眼鏡と相まって非常に生真面目な印象を受ける。実際、中身もその通りなのだが。
父は私の顔を見るなり、大学にはちゃんと通っているか、三食食事は取っているのかなど次々と質問攻めをしてきて、
旅疲れの残る(嘘。そんなわけない)娘をなかなか解放してくれない。
……あれ、父はこんな人だったっけ。
実家にいたときは、寡黙と言うほどではないにせよ、小言は少なく家庭教育は母親に一任していたような気がするけれど。
(これは育児に関心がないわけではなく、多忙なのと母親を信頼しているからだということは前に本人から聞いていた)
大体、いつもは病院の仕事に時間をとられ、家にいることの方が珍しかったはずだ。
なんで今日はこんな時間に家にいられるんだろう。仕事が暇になったのかな?
急に我が家の家計が心配になったが、今気にしても仕方がない。
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「はい、お父さん。父の日のプレゼント。いつもありがとう」
父の攻勢から逃れたい私は、そう言ってプレゼントを手渡した。中身は血圧計。
先日、友人と出かけたときに買ったものだ。
父の日の定番プレゼントといえばネクタイが思いつくところだけど、父は仕事柄あまりネクタイを締めないし、
医者の不養生というのか、自分の健康に気を配ることがない。
勤務地が病院なのだからその気になれば血圧ぐらい測れるだろうが、こうしてプレゼントでもしなければ自分からすることはない人だ。
「もういい年なんだから、少しは自分の体のことも気をつけてよね」
父は少し驚き、戸惑った後、ぎこちない笑顔で『ありがとう』と答えてくれた。
「どういたしまして。それじゃ、娘は旅の疲れを癒すんで、2階で一休みしてきますねー」
私はそう言うと自分の部屋へ向かった。
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久しぶりの実家の部屋。お気に入りのベッドがそのままにされていることが嬉しい。
ハンドバッグを床に置いた後、ベッドに思い切りダイブ!あーふかふかなこの感触、懐かしいー。
しばらくくねくねとベッドの心地よさを堪能し、くるり、とそのまま体を一回転半。
仰向けになった頭を少し上にあげると(この場合、仰向けなので下に下げるというのだろうか)、すっかり中身の寂しくなった本棚が目に入った。
一人暮らしを始めた際、必要な本はマンションに持って行ったし、不要な本はすべて処分してしまったので、
部屋の本棚に残っているのは数冊のアルバムぐらいだった。
去年の冬に家を出ていったあの頃は、過去の思い出に触れるのも辛かったから、アルバムはすべて実家に残してきていたのだ。
少しの間、私は本棚に目をやるだけだったが、意を決して小さく息を吸い、ぴょんと飛び起きる。
なんだかいつまでもウジウジしているのは私らしくない。過去の思い出が何だ!アルバムぐらい見てやろうじゃん。
誰に責められたわけでもないけれど、私は自分に言い聞かせるように呟いた。
……あるいは、あの薄緑色の本の著者に向けた、敵愾心だったのかも知れない。
私は一冊のアルバムを手に取り、古くなった学習机の椅子に腰かけてアルバムを開いた。
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偶々手にしたのは小学生のころのアルバムだった。小学校の校門の前、桜の花が華やかに咲いている。
まだ小さな私が、両親の間に立って満面の笑みを浮かべている。入学式のときの写真だ。
子供なりに一張羅の洋服が嬉しかったのか、それとも小学校に進学したことが誇らしかったのか。
自分で言うのも何だけど、本当に元気いっぱいな良い笑顔だと思う。私にもこんな頃があったんだなあ。
私の左手を取る母の顔も嬉しそう。父はどこか緊張した面持ちで両手を体の前で組んでいる。
おかげで私の右手は手持ちぶたさだ。
『男親って、どこか不器用なのよね』
子供の頃、買い物ついでに井戸端会議をしていた母が、そんな事を言っていたのを思い出した。
ああ確かにそうかもしれない。昔は良くわからなかったけれど、この写真の父を見ると確かに不器用そうな感じがする。
ただ、本当に大切なことを教えるときは、父は私の目をじっと見つめて、真摯に語りかけてくれた。
気の利いたことが言えるわけでもない。楽しい冗談が言えるわけでもない。
でも、人間として大事なことはちゃんと教育してくれる。私にとって、父はそのような人だった。
……彼も父親になったら、父のようになるのかな。デートの時だって、私からしないと手を繋がなかったし。
突然そんなことを思い、つい赤面してしまう。久しぶりの実家で気持ちが緩んでいるのかな、私。
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慌ててアルバムのページをめくる。ずっと年月が進んで、5年生の時の林間学校の写真が出てきた。
高原の旅館で一泊二日。学校行事と言うより、ほとんどピクニック気分で遊びまわったことが懐かしい。
お花畑の中でピースサインをする女子軍団。うわあ、みんな元気かなあ。
中学までは一緒だったけど、高校進学のときに離れちゃったんだよね。今度電話してみよう。
次の写真にはいかにもやんちゃそうな、鼻に絆創膏をつけた男子が、いたずら心丸出しの顔で女子のスカートをめくろうとする瞬間が写っている。
えーっと、誰だっけ。たしか、下田君、だったかな。
彼と仲が良かった男の子。そうそう、彼も含めて四天王とか言ってたっけ。ただの仲良し4人組なのに、大げさなんだよねー呼び方が。
子供の頃って、妙にカッコつけた言い方したり、見栄張ったりするもんだよねぇ。
彼はそういうタイプに見えなかったのに、四天王の中にいたのがちょっと意外だったなあ。
そう、意外だったのだ。どちらかというと朴訥な、勉強にしろスポーツにしろ、もちろんイタズラにしろ、
クラスの中で目立つタイプでは無かった彼が、四天王なんて呼ばれていることが意外だった。
その意外さ、ギャップ、ミスマッチさが、私の気を引いたのかもしれない。
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この人は、違う。私の本能が、直感的に彼に運命を感じたのだろう。
人を好きになるのに理由なんかないと思うし、そんなことを彼にも言った覚えがあるけど、きっかけはちゃんとあるもんだなあ。
彼とツーショットの写真もあった。私がよろけたフリをして彼に寄り掛かり、彼は仏頂面ながら少し顔を赤らめている。
写真の中の猫目の少女が『作戦成功!』と喜んでいる。確かこれ、シチュエーション作るの苦労したんだよねえ。
友人の女の子達に口実をつけて一旦離れて、彼にちょっと荷物が重いから手伝ってって言って、
イタズラしようとする下田君達を牽制して、ようやく二人きりになれたんだっけ。
上手いことカメラマンさんの近くに誘導して取ってもらった写真。
学校の写真販売で見つけた時は嬉しくって、貰って家に帰ったあと一晩中眺めてたんだよねえ。おかげで翌日は寝不足で大変だったなあ。
ああ私浮かれている。胸のドキドキが止まらない。こんな楽しい気分になったのは久しぶりだ。
ニヤニヤがおさまらない顔でページをめくる。
……6年生のときの、修学旅行の写真だった。
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[つづく]
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乙です
雰囲気あるな
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修学旅行は秋の京都・奈良。2泊3日の日程だった。
紅葉の向こう佇む古寺が美しい。なんてことは小学生の身分には理解できない。
友人と一緒に遠くに旅行に来たことが嬉しいと言ったところであったが、私の心はそれほど弾んでいなかったことを覚えている。
6年への進級時にはクラス替えが無かったので、彼と私は同じ組で古都見学をしていたが、以前のように彼に近づくことはできなくなっていた。
5年生の秋に起きたラブレター事件以来、私たちの関係は一変した。
以前も特別仲が良かったわけではない。私が遠回しなアプローチをかけるだけの間柄だった。
そう、小学生の頃の私は、直接彼に好きだと告げる勇気はなかった。
付き合っていた頃、彼は私の愛情表現をあけすけだと言ったが、それは遠回りしすぎた過去に対する反動であって、子供の頃の私はそれなりに純情な少女だったのだ。
見た目のイメージとは違ったかもしれないけれど。
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ラブレター事件の発端となったあの恋占いだって、私なりに懸命に計画を練って、決死の思いで作戦遂行したのだ。
どうしたら私のイメージらしく、自然に気持ちを伝えられるか。寝ずに考えた思い出がある。
『……いいんだよー、明日みんなの前でお話しても』
占い本できっかけを作った帰り道、彼にこんな言い方をしたのも、こうすれば二人きりで話をしてくれるに違いないと踏んだからだ。
実際、彼はラブレターを通じて私を呼び出してくれた。
彼がラブレターをくれたのは数日後だったが、もちろんその間『みんなの前でお話し』などしなかった。
予想通りだった。彼は私の期待通りに動いてくれた。
……きっとあんなふうに彼の気持ちを利用したから、あの事件が起きたのだと思う。
天罰、なのだろう。数日後、ラブレター事件が発生して私の目論見は崩れ去る。
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手紙の内容を暴露され、クラス中で痛烈に冷やかされたあの時。
私はただクラスの空気に流されるままだった。
彼に想いを伝えたい。私の願いはそれだけだった。何故もっと素直な方法をとれなかったのだろう。
手紙を読まれそうになった時、もっと必死に止めなかったのだろう。
場の雰囲気に流されず、自分のイメージなど気にせず、彼の事を本当に考えていればもっと違う行動ができたはずなのに。
後悔の念が募る。
あれ以来、
視線を向けると、逸らされる。
近づこうとすると、逃げられる。
声をかけると、嫌悪の表情を返される。
私は、彼に拒絶された。
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どんなに想っても届かない。謝ることさえ許されない。
恋に目覚めた少女にとって、それは絶望そのものだった。
私に許されるのは、彼を遠目で眺めることだけ。
団体行動の時も、自由行動の時も、私はいつも彼の姿を目で追っていた。
彼は事件後、四天王以外の子たちとは遊ばなくなっていた。
彼は殆ど笑わなくなった。元々賑やかなタイプではなかったが、それでも興が乗れば大声で騒ぐこともあった。が、それも無くなった。
この時も四天王は一緒に行動していたが、彼はいつも冷めた目で、つまらなそうな表情をしていたことを覚えている。
唯一楽しそうにしていたのは、産寧坂でお土産を物色している時ぐらいだった。今思えば、あの子へのお土産をどれにするか考えていたのだろう。
胸がチクリと痛む。
私はこの頃から、あの子の後塵を拝していたのだ。
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修学旅行の写真に二人が一緒に写っているものは一枚も無い。
せめて同じフレームに収まろうとも考えたが、彼の神経を逆撫でするだけではないかと思うとできなかった。
これ以上彼に嫌われる事が怖かったのだ。
彼が写っている写真はすべて買い求めたが、それは寂寞感を強めるだけでしかなかった。
私はアルバムを閉じた。
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夕食を済ませると、私はリビングのソファに座りぼんやりとテレビを眺めていた。
数か月ぶりに母の手料理を堪能したお礼に、後片付けくらい手伝いたかったのだが、折角だからゆっくりしていなさいと言われてしまったのだ。
実家にいたころは普通に手伝いを頼まれていたのに、変なものだと思う。
雨戸の向こうから雨音が聞こえる。しとしとじとじと。
仕方がないとはいえ、こうも雨が続くと遊びに行くのも億劫になるので勘弁して欲しい。
テレビは恋愛ドラマを流している。人気俳優が出演しているとかで友人の間で話題になっている番組だ。
普段この時間は遊びに出ているか、大学の課題をしているかどちらかなので、内容はさっぱりわからない。
いや、友人に話を聞かされるうちに、大筋だけは把握できてしまっているのだが、いまいち興味が持てないので見たことが無い。
髪の毛先を弄りながら、テレビから視線をそらす。
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どうやら、最近は本能的にこの手のドラマを避けているようだ。
なんだかんだ言っても、結局彼のことを引きずっているらしい。
別れのシーンなど出てきたら、辛くて泣いてしまうかもしれない。
弱いなあ、私。いつからこんなふうになったんだろう。
溜息が漏れる。テレビの中ではヒロインの独白が始まっていたが、やはり見る気がしない私はチャンネルを変えた。
雨足が強くなってきた。テレビの天気予報は大雨警報を発している。
こんな雨の中、外から中継する予報士さんは大変だ。
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しばらくすると、書斎にいた父がリビングに姿を現した。
最近、読書はしているのか?妙に不自然な切り出し方で、父は私に問いかけてきた。
「まー、それなりに。面白そうな新刊が出たら読んでるよ」
そう答えると、父はソファに腰を下ろし、傍らから一冊の本を取り出してテーブルに置いた。
小ぶりな本だ。書店のカバーが掛けられているため、何の本かは分からない。
父は話し始めた。良い本があるから、お前に読んでもらいたいと思ってな。
以前ウチの病院に入院していた患者さんの本だ。お前も知っているだろう。慢性腎不全を患っていた……
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凍りついた。息が止まった。何かで殴られたような衝撃を感じた。
自然と顔が俯く。
父は続けた。……患者さんの日記を、臓器移植コーディネーターの人が是非にと勧めて出版したものだ。
ウチの病院も全面的に協力している。お前にも読んでもらいたくてな。
そう言うと、父はテーブルに置かれた本を、右手で私の方に差し出した。
カバーの下からうっすらと装丁が透けて見える。間違いない。あの本だ。
愕然とした。
父も私も、一言も言葉を発しない。ただ雨戸を叩きつける雨音だけが響く。
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何故父はこの本を勧めるのだろう。
父は彼と私の関係を知っている。交際していたことも、破局したことも。
この本に何が書かれているのかは知らない。しかし父は日記と言っていた。
日記。本来プライベートなもの。誰にも言えないような事を書くことも多いだろう。
きっとあの子は、彼への想いを、兄妹ではなく異性としての想いを綴っているのに違いない。
それは兄へ向けたものと分からないように、巧妙にカムフラージュされているのかもしれない。
直接名前を出さなかったりとか。
自分の死後に、誰かに日記を読まれるかも知れないことを考えれば、その程度の工夫をすることはあるだろう。
ならば父が気付かないのも分かる。
だとしても、何故父は、娘と破局した男の肉親の本を、私に勧めることが出来るのだろう。
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私は顔をあげた。父はまっすぐに、私の目を見つめている。
子供の頃、いつもは言葉少なげな父が、私に大切なことを教えるときにしていたあの目だ。
その瞳には決意を感じる。
あまりに真摯な父の眼差しを今の私は受け止めることができない。再び顔を伏せ、目線を逸らす。
私にどうしろというのだろう。父は、私に何を望んでいるのだろう。
分からない。理解できない。理解したくないのかもしれない。
けれども私は、父に、父のこの目に抗う術を知らない。
結局、私は何も言うことが出来ず、黙ってその本を受け取った。
雨は、一晩中降り続けていた。
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[つづく]
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乙乙〜
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乙です
ゲームの事は知らないけど、この話しは面白い
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翌日、私は両親に見送られて実家を後にした。
わざわざ玄関口まで二人して見送ってくれるなんて。今生の別れというわけでもないのに大げさだなあ。
自宅の車庫は、2台分の車が停められる程度にはスペースがあった。
今、車庫には真新しいハイブリッドカーと旧型のセダンが並んで駐車されている。
ハイブリッドカーは最近、父が新車を購入したものだ。私は車の事は詳しくないが、何でもこっちのほうが燃費が良いのだとか。
経済的合理性を追求する辺りはいかにも生真面目な父らしいのだが、ちゃんと初期投資額に見合う算段はついているのかな?
自宅と病院の往復だけだとそんなに走行距離は長くないし、車両価格を回収できるほどのコスト減になるんだろうか?
まあ、燃費云々は言い訳として、実は単なる趣味でした、でも良いんだけどね。
普段は病院の激務に追われて、たまの休みは家族サービスに費やして。
個人の時間をなかなか持てない父にとって、たとえ通勤時でも車を運転している時がプライベートな一時なのだとしたら、
そこに嗜好を反映させるのは決して咎められるものではないと思うし。
むしろそれでストレス発散になるのだとしたらどんどんやって欲しい。家計が破綻しない程度に。
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そんなわけで余ってしまった旧型のセダンは、今は私が使わせてもらっていた。
子どもの頃、休みの度に遊びに連れていってもらったときに乗せてもらった車だ。
私は新車より気に入っている。多分に思い出補正が強いのだろうけど、乗り心地もこっちの方が落ち着く感じがするのだ。
エンジンを起動し、左右を気にしながらゆっくりと発進させる。
住宅街だから急に子どもが飛び出してきたりとかするかも知れない。自分の子どもの頃を思い出せば心当たりもチラホラあるし。
運転免許は、去年の冬休みの間に合宿教習で取得した。
ちょうど彼と別れた直後、私が一番塞ぎ込んでいた時期だ。
個人的には乗り気ではなかったが、父が強く勧めてくれたので気分転換を兼ねて取ることにしたのだ。
2週間の教習は温泉地で行われ、自由時間に廻った土地の名湯は傷心をいくらか癒してくれた。
日常から離れた合同教習は、私にとっては心の療養のような期間だった。
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昨夜遅くまで降っていた雨は止んではいたが、台風一過というわけではないので相変わらず雲行きは怪しい。
本当、気が滅入ってきちゃいそう。早く梅雨あけないかなあ。
道路の端々にできた水たまりに気をつけながら、制限速度内で車を走らせる。
それほど人通りが多くないから大丈夫だと思うけど、誰かに泥を撥ねたら大変だ。
私だってお気に入りのレギンスに泥が跳ねたら嫌だしね。
セダンの調子は結構ご機嫌。もう年代物なんだと思うけど、今までトラブルが起きたような記憶はない。
車検とかきちんと通しているのは勿論だけど、きっと父の車の扱いも丁寧だったせいだろう。
こんなところにも性格って出るものなんだなあ。
快調に車を走らせていると、かつて通った中学校への通学路の途中、長く急な坂道への道が見えてきた。
懐かしい思い出が蘇る。
ちょっとくらい寄り道しても良いかな。私は進路変更して坂道を登るコースへ入った。
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いいな雰囲気が
ビターエンドだろうけど、楽しみ
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急勾配の坂を登りきったところで車を路肩に寄せ一旦停車。
ドアを開けると湿気の多い空気がむわっと襲ってきた。あー、これだから梅雨時って嫌い。
顔を上げると地元の景色がパノラマサイズで広がっていた。
ここは周囲より一段高くなっているので街中を一望できる。私の密かなお気に入りの場所だ。
丁度車を降りた方向、正面には神社や学校、住宅街を見渡すことができる。
左手遠くにはうっすらと山並みが連なり、青々とした木々が茂っている。
そして上半分は抜けるような青空……だったら良かったのだけど、生憎の重たい雲が折角の景色の邪魔をしていた。
それでも、子供のころから慣れ親しんだ眺めが広がるこの場所は、少しだけ心を落ち着かせてくれる。
わずかに高くなっているガードレールに両手をかけ、ぐいと体を乗り出してみる。
風が遠くの樹木を揺らし、私のところまで届いた。
湿った空気が顔をべたつかせる。メイクが崩れてしまいそうだ。
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広がる景色に視線を移すと、真っ白な建物が小さく目に入った。父の病院だ。
彼との関係が決定的に終わった場所でもある。
彼があの子を抱いたこと、あの子への想いを私に告白された場所だ。
私はあの日以来、父の病院に顔を出したことが無い。
行く勇気が無かった。すべてを思い出してしまうから。
看護師の美樹さんとも古い付き合いで仲が良かったが、あの子のこと聞くことはついになかった。
あの子の葬儀にも出席しなかった。
ご両親には不義理な事をしたと思う。清く正しい交際をしていたはずなのに、な。
ただ、どんな顔をして参列すれば良いのか分からなかったし、自分が何をしでかすかも知れなかった。
それに、きっと彼も望まなかっただろう。
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そう、彼が私に望むことなど、何もなかったのだ。はじめから。
あの場所で、彼自身がはっきりと告げたではないか。
あの子のことを、たとえ血縁だとしても好きになっていた、と。
異性として……愛していると。
彼は、私を嫌いではないと言ってくれた。 好きだと言ってくれたこともある。
しかし、愛しているとは一度も言わなかった。抱いているときでさえも。
『好き』と『愛している』。近しいようで、途方もなく遠い二つの言葉。
それが、私とあの子の差。
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風が吹く。前髪がかすかに揺れる。厚い雲は陽射しを遮り、辺りを薄闇で包み込んでいく。
私は何を浮かれていたんだろう。何を期待して、彼の大学まで顔を見に行ったりしたのだろう。
アルバムの中で含羞む彼は今の彼ではない。
まだ彼が、あの子を意識する前なら私にもチャンスはあったかもしれない。だけど。
今の彼の中に、私の居場所は、無い。
私はあの子になりたい。無条件で彼の愛情を注がれる立場になりたい。彼の全てを独り占めにしたい。
守られたい。私だけを見つめて欲しい。彼の中に私の居場所が欲しい。
愛していると、言って欲しい。
また風が吹いた。瞳が濡れた気がしたが、きっとそれは湿気を帯びた風のせいだ。
私は自分にそう言い聞かせると、車に戻りその場を後にした。
頭上を覆う重たい雲は、堪え切れなかったのかのように細い雨粒を落としていた。
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[つづく]
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ゲームか…
彼女エンドもあったのかな?
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>>68
ありました。が……
「加奈 夕美エンド」で検索してもらうと分かりますが、これが結構辛いものだったりします。
本稿では別のエンドを採用しています。
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夏。
鬱陶しい雨の季節も過ぎて、空もさわやかな青色を取り戻した。
さらに前期試験も今日で終わり。課題提出もすべて済んだし、明日からは長ーい夏休みが待っている。
気分一新するには最高のタイミングだ。
大学の講義は嫌いじゃないけど、それでも休みになると心ウキウキ。
子どもの頃に過ごした楽しい夏休みの思い出が、今でも心に残っているからだろうか。
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実家から戻って以来、彼のことはできるだけ考えないようにしていた。
もう彼の大学にも行っていないし、父には申し訳ないがあの本なんて開いてさえいない。
だって今更思い悩んだところで昔に戻れるわけじゃないし、仮に戻れたとしたって彼と結ばれる未来はないだろうと思うから。
私を苦しめる全てのことから逃げ出してしまいたかった。あんな辛い思いをするのは二度と嫌だ。
いっそ一生男なんか作らずに、バリバリのキャリアウーマンにでもなってやろうかしら。
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そーゆーことなので今日はみんなでパーっと騒ごう!と友人たちに声をかけるも、どうもリアクションが芳しくない。
聞けば、彼氏とデートだの旅行だの、みんな充実した予定を立てておられるようだ。
ふんだ、なにさなにさみんなして。女の友情より男の方が大事だってゆーの?
私たちの絆は彼氏が出来たくらいで切れてしまうもんなのかー!と一人拗ねていると、友人の一人から突っ込みが入る。
「あんただって去年は全然私らの誘いに乗らなかったじゃん。彼氏が出来るってそーゆーもんなの、わかってるでしょ?」
……御高説ごもっとも。返す言葉もございません。
ああ、因果応報とはまさにこのことなのね。悲劇のヒロインよろしくヨヨヨと泣き崩れる(フリをする)私。
許せ、私には心に決めた人がいるのだ。さらばだ、我が永遠の友人よ!
友人たちはそう言い残すと、颯爽とスカートを翻して去って行った。
……なんだろう、この小芝居。
これから夏休みが始まろうというのに、こんなところで何コントをやってるんだか。
ひとり教室に取り残された私。あーあ。いつまでもここにいてもしょうがないか。
大きな溜息を一つついて、ショルダーバッグを手にとり教室を出た。
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あーあ、これからどうしようかなあ。
サークルに行く気分じゃないし、街にでも遊びに行こうかなあ。
そうさ、一人でも遊び回る女なんだもん。寂しくないぞ、私!
そう気持ちを切り替えると、廊下の蛍光灯を照明替わりに見立て、
右手を一度前につき出してからぐっと胸元へ引き寄せて、心の中で高々と科白を歌い上げてみた。
そうさ孤独も恐れることなんてないのだ。未来はたった独りでも己が両手で切り開くもの。
さすれば我が前途には洋々たる未来が広がるのだ。
さあ明日へ向かって、希望の大海原へ漕ぎだそうではないか!
……私、なんかテンションおかしい。一人芝居は空しくなるから大概にしよう。
そこまで反省したところで、ふと芝居つながりで高校時代の先輩のことを思い出した。
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昔、演劇部の助っ人で、学園祭の出し物に出演したときに知り合った人だ。
知り合った、というより初対面の先輩に無理矢理助っ人として勧誘されたてのことだった。
なんでも私の容姿が芝居の役柄にぴったりだったからだという。
褒められるのは嬉しいけど、素人を舞台に立たせるのは勘弁してほしいんだよね。
なんたって芝居なんて小学校の学芸会以来だったんだから。
まあ、おかげであの経験は後々役に立ったけど。主に清く正しい交際をアピールする時とか。
先輩はとにかく強引で、小柄だけどパワーあふれる人。
今は自分で劇団を結成し、小規模でも自主公演までしているという。
確か駅前の小劇場を拠点にして演っているはずだ。
たまには顔を出してみるかなあ。
暫く会ってないし、特に予定もないし。友人たちにはフラれちゃったし。
とりあえずの予定を決めた私は、バッグを肩にかけ直すと、夏のギラギラした日差しに身を晒した。
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真夏の太陽が放つ強烈な熱光線ががアスファルトを焼いている。
照り返しで、熱気が上からも下からも全身を襲う。
思わずレースのブラウスの胸元をばたつかせてしまう。これだけ暑いとファッション選びも機能性優先だ。
クーラーが恋しい。思わず歩調が速くなる。
何度ハンカチで汗を拭っても次から次へと額が濡れてくる。早いところ涼しい室内に入りたーい。
小劇場は駅前の横道を少し奥に入ったところ、バーや居酒屋、カラオケ店が並ぶ通りの地下にある。
昼間から元気なカラオケ店の呼び込みさんをかわして劇場の前へ。
大分年季が入った建物の入り口に設置された掲示板に演目が張り出されていた。
今上演されている作品はなんだろう?えーと……
『いもうとー兄妹の禁断の愛』
……ああ、このタイトル知っている。数年前それなりに流行したジュブナイル小説だ。
少し頭がクラリとする。暑さのせいだ、きっと。
帰ろう。
そう思い踵を返すと、背後からドンッと誰かに抱きつかれた。次の瞬間、
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「ひっさしぶりー!元気してたー?私が卒業して以来だねー!もー3年ぶりー?懐かしーねー!
思い出すなー学園祭!あの時のドレスとぉっても似合ってたよー!どーこのプリマドンナかと思っちゃうくらい!
演技も素人とは思えないくらい様になってたしー!ヘプバーンの再来?みたいなー!なんか天性の才能?感じまくりっていうかー!
あ!ひょっとして演劇に興味もった?もっちゃったもっちゃった?やぁっぱりねー信じてたよ!自分の才能試したくなっちゃったんだねー!
わかる!わかるよその気持ち!あなたなら絶ーっ対ステキな役者になれるとこと間違いなし!月9の主演も夢じゃないよー!
ね!ね!じゃーまずはお勉強だと思ってウチの芝居見ていかない?今ならワンドリンクサービスするからさ!
もー特等席用意しちゃうよ!なんだったら舞台袖来ても良いよー!ウチの脚本家の豪華解説付き!
あ!それとも舞台上がる?演る?演ってっちゃう?大ぁぃ丈夫!誰だって初めては緊張するもんなんだからさぁ!
なんにも心配すること無いよ!お姉さんに全て委ねてまっかせなさーい!めくりめく快感味わせちゃうよー!
あ!いっそこのまま入団しちゃおっか!ね!ね!あなたなら看板女優の道へ一直線だよ!目っ指せ新国立劇場!
さ!さ!そうと決まればまずは駆けつけ一本!飛び入りアドリブ大歓迎!ぐぐーと行きましょ!イっちゃいましょー!」
……出た、先輩のマシンガン口撃。美紀子お姉さんとは質の違う押しの強さ。
もう二十歳を過ぎているのに中学生と間違えられそうな小柄な先輩の、一体どこにそんな力があるのだろう。
両手で私の腕をつかむと、まるで獲物を巣穴に持ち帰ろうかという勢いで地下へ続く階段へ引き込もうとした。
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ショートカットがよく似合う童顔に輝く瞳は、しかし猛禽類を思わせるような鋭さを見せる。
予期せぬ方向からの急襲にたじろぐ私。
学園祭の時もこの勢いに押されて、助っ人出演引き受けさせられたんだっけ。
かと言って今回はあの時とは違う。
学校行事の一環だった学園祭と違って、今回は小劇場とはいえお金を取って芝居を演じる立派な興行だ。
とても私が出て良い場ではない。
芝居の心得なんて無いし、それ以前に今日は芝居を見に来た(そして帰ろうとしていた)だけであって、
自分で演じようとか、ましてや劇団に入ろうなんて考えたことは一度もない。
しかし、かつて先輩の口撃に晒されて無傷で帰還した人はいない。
どうにか被害を最小限に食い止めようと、マシンガンの合間にピストルで必死の応戦を試みた私は、『とりあえず舞台を見ていく』というところで講和条約を締結できた。
妥結点としては上等、と言う他なかった。
-
[つづく]
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入口でチケット代を支払い、狭い通路を通り客席に向かう。
先輩が、奢りだなんて言い出されなかったことに少しホッとした。
もし奢りなんてことになれば、それを盾にしてこの先どんな要求をされるか知れない。
それこそ無理やりにでも劇団入りさせられるかも。悪いけど、そんな気はないんだよなあ。
古びた扉を開き中に入ると、客席は思いのほか盛況だった。
数十席しかない小さな劇場だが、それでも無名の小劇団の公演で席を埋めるのは並大抵ではないはずだ。
正直感嘆してしまう。先輩はじめ劇団の皆さんの努力が垣間見えた。
定刻を少し過ぎた頃、会場の照明が静かに落とされていき、舞台の幕が開いた。
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物語は兄妹が数年ぶりに再会するところから始まった。
兄役は背の高いスポーツマン風の男性、妹役は先輩だ。二十歳過ぎなのに高校生役がむしろ幼く見えるのはズルいと思う。
序盤はコメディータッチで進んでゆく。
兄妹の他愛のない日常。けれども兄は、妹の何気ないしぐさに異性を感じ、いつしか心惹かれてしまう。
以前なら創作物として見られたので、きっと面白いと思えただろうが、今の私の心境は複雑だ。
どうしてもあの二人の姿を重ねてしまう。
ああ、やっぱり帰ればよかったな。なんだか胸の奥がムズムズしてくる。
かと言って今席を立つのもなんだか悪いし、だいたいバレたら後で先輩に追求されてしまいそうだ。
もしバレて捕まったりでもしたら…そのとき繰り広げられるであろうハイパー・マシンガン口撃は、とても防げる気がしない。
もう、しょうがない。諦めて最後まで観劇させてもらうことにしよう。
まったく、なんて夏休み初日だろう。たまには何も考えずに楽しめることがあっても良いのにい。
私は固めの座席に体を滑らせるようにして、周囲に聞こえない程度の溜息を漏らした。
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サッと照明が落ち、自室にいる兄にスポットライトが当たる。
苦悩する兄の独白シーン。妹へ抱いている、一人の女性としての想いを必死に否定する。
妹の兄への思慕を、異性への愛と捉えてしまう自分への嫌悪。
何気ない仕草、時に無防備とも思える妹の行動に振り回されてしまう自分。
むしろ、振り回されていると感じてしまうこと自体が異常と感じてしまう。
妹は自分を兄として信頼してくれていると言うのに、自分は妹を汚れた視線で見つめてしまう。
禁忌を犯してしまうのではないかという恐怖。
兄は決意する。自分を律し、あくまでも肉親として、兄であり続けようと誓う。
……私は、舞台上の兄の姿に、彼のことを重ねずにはいられなかった。
彼は果たしてどうだったのだろう。あの子のことを愛していると言えるまで、苦悩したのだろうか。
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物語は進み、妹に転機が訪れる。いかにも御曹司然としたライバルの登場だ。
妹に一目ぼれしたライバルは、あの手この手で妹にアプローチをかける。
この辺、いかにもジュブナイル小説原作だなあ。
まあ、でも恋の物語にはライバルの登場は不可欠かもね。
昔よく読んだ少女漫画でも大抵出てきたし。
兄は、妹へ親しげに近寄るライバルに対しに複雑な思いを抱きつつ、妹とライバルの仲を後押ししてしまう。
禁断の想いを断ち切るため、それが妹の幸福になると信じて。
とんとん拍子に話は進み、あっという間に縁談の話ができあがる。
あれあれ、本当にあっという間だな。そりゃ限られた上演時間の事を考えれば、あんまり時間割けないんだろうけど。
兄は、御曹司と親戚関係になるために身辺整理を迫られる。
そこで初めて、兄は妹と血縁関係が無いことを知る。
-
兄は葛藤する。血の繋がりが無いとしても、兄妹の絆を優先するか。
自らの思いに正直なり、妹に気持ちを伝えるか。
禁忌の鎖を断ち切り、たとえ世間に白い目で見られたとしても、妹と結ばれることを選ぶのか。
妹にとって、何が本当に幸せなのか。
決意した兄。結婚式の打ち合わせをするライバルの目の前に現れ、決死の表情でで妹に告白をする。
妹は全てを知っていた。歓喜し抱き合う二人。
ライバルは激怒し、そこから七転八倒しながらも、最後には二人は結ばれ、ライバルにも祝福され物語は終わった。
-
カーテンコールの拍手の中、私は一人席に沈んでいた。
脳裏に、舞台上の兄妹と、彼とあの子の面影が交互に浮かぶ。
私の意識は幻想の中に沈んでいった。
幻想の中で、兄妹とあの二人の姿が重なっていく。
手を取りあい、輝く未来へ仲睦まじく歩んでいく二人の姿。
劇中の兄妹の立場を入れ替えてあの二人に当てはめたら、ライバルのポジションにいるのは私だ。
ライバルは必死に想い人を求めるが、彼の声は決して届くことは無い。その姿が、過去の私と重なった
幻想の中の男女ははやがてあの二人だけとなり、無人の教会で愛を誓い合う姿が映し出された。
義理とは言え兄妹。幻想の中の二人は、禁断の愛にもかかわらず迷いの無い瞳でお互いを見つめあっていた。
私は一人蚊帳の外。どんなに彼を求めても届かない場所に取り残されたまま。
気が遠くなる。認められない。認めたくない。兄妹で恋愛関係になるなんて、そんなこと!
あり得ない。あっちゃいけない。不潔だよ!そんなの!
「ハーイ!どうだった私達のお芝居?いーでしょやっぱ演劇って!あなたもやりたくなってきちゃったでしょー?」
突然、背後からカン高い声が響いてきて、私は現実に引き戻された。
膝の上で強く握りしめていた拳を開くと、手のひらにびっしょりと汗をかいていた。
-
先輩は舞台が終わってからメイクも落とさずに私の席に来てくれたようだ。
相変わらず強引な勧誘。けれども、先輩の強引さのおかげで幻想の世界から帰って来られたのかも知れない。
今回ばかりは、ちょっとだけ感謝。
とは言え、やっぱり劇団入りするつもりもないし、今はちょっとまだ気持ちが落ち着かない。
この精神状態で先輩と対峙するのは不利だ。
それに、今は少し一人になりたい。一人で、色々と考えてみたい。
私は咄嗟に嘘の用事をでっち上げると、逃げるように劇場を後にした。
-
劇場の建物を出て少し歩いたところにある小さな公園。
ここなら、そんなに人は来ないだろう。この暑いさなか、わざわざ公園で休もうという人も少ないはずだ。
公園と言っても、街の真ん中にあるここには子ども用の遊具が設置されているわけではない。
いくつかのベンチと、申し訳程度の緑がある程度だ。
私はできるだけ木陰になりそうなベンチを選んで、表面の埃を軽く払ってから腰を下ろした。
はあ、と大きな溜息。をしてから慌てて周囲を見回してみたが、幸いにも私以外の人影は公園の反対側にいる老夫婦くらいだ。
よかった、誰かに聞かれていなくて。やっぱりなんか恥ずかしいよね、溜息聞かれるのとかって。
禁断の愛、かあ。
劇場から逃げ出してここに来るまで少し時間をかけたことで、私はいくらか冷静さを取り戻していた。
すると、いくつかの疑問が湧き出てきた。
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【疑問その1:たとえ血縁が無かったとしても、兄妹として育った仲に恋愛感情は生まれるのだろうか】
身の回りで他にそんな話は聞いたことがない。
女の子同士の恋愛話で、たまに誰かが冗談めかして兄弟への恋のことを話すこともあった。
だが帰ってくる答えはいつもきまって『気持ち悪ーい。お兄ちゃんと恋愛なんて考えられなーい』というものだった。
それが普通だと思う。私は一人っ子だけど、仮に兄弟がいたとして恋愛感情が生まれるとはちょっと考えられない。
他の肉親に置き換えてみれば分かりやすいかも知れない。
父のことはそれなりに尊敬しているが、それでも恋愛対象には絶対にならないだろう。
肉親なんだから、当たり前だ。
ジュブナイル芝居は正直ご都合主義的なので、その辺の明確な回答を教えてはくれない。
ただ、もし仮に恋愛感情が発生するとしたら、それは相当特殊な環境下におかれていたか、常識が欠落しているかどちらかだろう。
劇中の兄妹は、暫く離れ離れになっていたようだから、兄妹という意識が元々弱かったのかも知れない。
それも一種の特別な環境、と言えるのだろうか。
なら、あの二人の場合は?あの子の病気があったから?
でもそれは、普通ではないけれど、極端に特別なケースと言うわけでもないはず。
病院には、同じような苦しみを持つ人がたくさんいたわけだし、それらの人がみんな近親恋愛をしていたはずなんてないんだから。
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【疑問その2:血の繋がりがないから、恋愛対象として意識することができた?】
あの二人は、いつ血縁が無いことを知ったのだろう。
もし小学生の頃から血縁がないことを知っていたなら、その頃からすこしずつ意識しあい、愛を育むということもあるのかも知れない。
言い方は妙だが、幼なじみの変形版、のような感じだろうか。
実際、彼は中学生頃から過保護なまでにあの子を守っていた気がする。
昔、何度かあの二人が一緒にいるところに遭遇しかけたが(その頃の私は彼に嫌われていたので、見つからないように身を隠す癖が付いていた)、あの親密さは兄妹という枠を超えていたような気もする。
それでも、実際のところは本人に確かめてみなければ分からない。
けれど、今の私にそれをする勇気は無い。
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【疑問その3:相手に恋人がいると知りながら、自分の想いを貫くことができるのか?】
あまり積極的に見えないあの子を、略奪愛にまで突き動かしたのは何なのだろうか。
あの子のどこに、それほどまでの熱情が潜んでいたのか。
私は生前のあの子とそれほど交流を持っていたわけではないから、あの子の性格を把握しているわけじゃない。
けれども、一見したところの印象からは、略奪愛なんて行動はかけ離れているように見える。
それに、彼もそうだ。既に恋人がいるにもかかわらず、安易に変心するものなのだろうか。
私が彼の心を掴みきれていなかったといえばそうなのかも知れない。それにしても、だ。
何度も体を重ね、お互いの気持ちを確かめあった。そう信じていたのは私だけだったのだろうか。
恋なんて理屈じゃない。自分の経験からもそれは分かる。けれども、あの二人の行動はあまりにも大胆すぎやしないだろうか。
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考えれば考えるほど分からなくなる。なんで兄弟間で愛が芽生えたのか。いつ血縁がないことを知ったのか。
どうして二人が結ばれるまでに至ったのか。
何も分からないし、そもそも私はあの二人の間にあった事情をよく知らない。
そう、私はあの二人のことを意外なほど知らない。
あの子がいつから想いを抱いていたのか、いつ想いを告げたのかを知らない。
彼の気持ちがどのように変わっていたのかを知らない。
何故私を捨てるまで決意できたのか、そのきっかけを知らない。
このまま負けっぱなしで良いのか。ライバルが私に囁く。
ライバルは傷つきながらも戦った。
倒れ傷つき、最後には負けてしまったが精一杯戦った。
だからエンディングでは、兄妹を笑顔で見送ることが出来たのだ。
私はどうだろう。負けたまま、何も知らないまま逃げつづけている私が、ライバルのように笑顔を取り戻すことが出来るのだろうか。
答えは、どこにあるのだろう。
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[つづく]
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おつ
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彼女、幼馴染っぽいなぁ…
支援
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懐かしいな!大好きなゲームだ
未だに98版を持ってるよ
プレイ当時は若かったこともあり、加奈に入れ込むあまり夕美はあまり好きではなかったが、
今は夕美のことも理解できる気がしていて、個人的にとてもタイムリーだ、ありがとう
期待してる!
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98版?最初のWindows版(win95・98用)かな
名作だよね
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コメントありがとうございます。
>>93
報われない幼馴染ポジション、な感じはあるかもですね。
夕美の場合、初恋の相手に8年間無視→和解して恋人関係になるも義妹にNTR、という人生ハードモードですが……
>>94
本編ではひたすら加奈と隆道の物語なので、正直夕美に感情移入する余地があんまり無いんですよね。
ただ、それでも夕美には夕美の想いがあって、人生があって……というところを、拙いながら描ければいいなと想っています。
>>95
初期版はWin95/98用ですね。
ちなみに今はダウンロード販売でいもうと/おかえりとも配信されてます。お手ごろ価格になってますね(ステマ)
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来た時には人気の少なかった公園に、気がつけば背広姿のサラリーマンの姿をちらほらと見かけるようになっていた。
公園の中央にそびえたつ時計台を見上げると、いつの間にか時刻は18時を回っていた。
そういえば、私は何時頃ここに来たんだっけ。随分長い間ベンチに座っていたのかな。
時間も忘れて物思いに耽るなんて、らしくないよなあ。
真夏は日の落ちるのが遅いし、この時間になっても一向に暑さは弱まらない。蝉の鳴き声もまだまだ元気いっぱい。
なんだか時刻の感覚が狂ってしまいそう。子どもの頃は、夏の夕方ってこんなに明るかったかな?
時折木々を揺らす風の感触も相変わらず生ぬるい。体中じっとりと汗がにじんでる。
パンプス脱いでパーっと足を広げたら、スカートの中に風が入ってちょっとは涼しくなるかしら?
……やめましょう。はしたない。一応、年頃の乙女なんだから。
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暑さの中でぼんやりと(半ば朦朧と)していると、クゥ、と小さな音が聞こえてきた
何の音?と思うのも束の間、お腹が急激に空腹を訴えてくる。
そういえば、私お昼ご飯食べたっけ?午前中に試験が終わってその足で街に出かけて、先輩に拉致監禁されて……ご飯食べる間なんてなかったんだ。
ああ、なんてことでしょう。食事サイクル乱れると太りやすくなっちゃうのにい!
でも、もうだめ。意識したら最後、猛烈な空腹感で眩暈さえしてきた。
お腹すいた。ひもじい。とりあえず何か食べないと。
暑さと空腹のダブルパンチでおぼつかない足をひきずりながら、私は夕食を求めて公園を後にした。
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再び駅前の雑踏に帰還。仕事上がりのサラリーマンやOLで、街は昼間以上の賑わいに溢れていた。
何は無くともともかく食事だ。どうしようかな。オシャレなレストランで素敵なディナー……駄目、料理が出てくるまでの時間に耐えられない。
この際ファーストフードでも……でも夜中にお腹すきそうだよなあ。生活の乱れ、食事の乱れはおデブへの第一歩……ううむ。
あーそう言えばこの間焼肉のお店がオープンしたって友人が言ってたっけ。でもうら若き乙女がひとり焼肉かあ。カロリー的にも危険かなあ。
いやいやしかし今の苦境を脱するには、肉の力は大変強力な助けになることは間違いない。
食欲を満たすのを取るか、乙女の誇りを取るか、それが問題だ!
混み合う駅前の路上で、ひとりハムレットの心境で逡巡していると、不意に誰かに肩をぐっと掴まれた。
しまった!もしかして先輩に捕まった!?嘘の用事だったことがバレたら、今度こそ本当に劇団勧誘のマシンガン口撃で蜂の巣にされちゃう!
恐る恐る肩を掴んでいる張本人へ顔を向けると……そこには美紀子お姉さんの姿があった。
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ソバージュのかかった茶色の長髪に真っ赤なピアス。
今は一応会社勤めだからスーツで決めているけど、それでも雰囲気的にはデスクワークよりお水系の方が似合いそう。
会社の風紀的にはOKなんだろうかと、他人事ながら気になってしまう。
合コンではまるで獲物を探す肉食獣のように少し細めの目を鋭く辺りを見回して、ターゲットを定めるや否や口紅よりももっと赤い舌をなめずらせる。
誰が呼んだか『新人食いの美紀子姉』。私も何度も翻弄させられたなあ。
空腹で体がふらつく(ような気がする)こちらの様子などお構いなしに、
美紀子お姉さんは大変にこやかな顔で私の肩に腕を回すと、大きな笑い声をあげながら横道へと私を連れ込んだ。
え、ええとお姉さま?どちらにいらっしゃるのでしょう。私、お腹空いて倒れそうなんですけれども。
どうやら美紀子お姉さんはお話がしたくて堪らないご様子。はい、言うこと聞きますからとりあえず何か食べさせてください。
私は美紀子お姉さんに引きずられるままに、劇場の向かいのショットバーに連行されていった。
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それほど広くない店内を、オレンジ色の間接照明が照らしている。
カウンターの向こうでグラスを磨いていたバーテンさんが、こちらに気づくと小さく頭を下げて挨拶した。
美紀子お姉さんは慣れた様子でカウンター席に腰を下ろすと、『いつもの。よろしくね』とバーテンさんにウインク。
私も何度かこの店には来たことがあるが、『いつもの』で通るほど馴染みではない。
お姉さん、遊んでるなあ。
と感心していたら早く注文するようせっついてきたので、まずはとにかく食べるもの!とソーセージの盛り合わせと野菜スティック、それとカシスオレンジをオーダーした。
ほどなくしてカクテルが出てくる。食べ物はまだですかー?
美紀子お姉さんの『いつもの』の正体はソルティードッグだった。
美紀子お姉さんはグラスの淵に盛られた塩をひと舐めしぐぐっと一気に半分ほどを飲み干す。
うーん男前。
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この人の態度は男の前だろうが何だろうが変わらない。
いつも遠慮なく素の自分を晒してくる。
男好きだからって変に媚を売らないのは良いと思うが、実のところ男と長続きしたという話は聞いたことが無い。
強気で強引な性格は酒席では盛り上がって良いけれど、本気で付き合うには疲れるタイプなのかもなあ。
美紀子お姉さんには失礼だけど、そんなことを考えてしまった。
それから暫くはひたすら美紀子お姉さんのターンだった。
内容は専ら男の話。デート代ぐらい男が持てとか、髪形変えたらすぐ気付けとか。大体そんな感じの話を延々と。
アメ車並みの大排気量を誇るお姉さんトークは、ガソリン代わりのお酒をがぶがぶと飲んでスピードを上げていく。
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お姉さんエンジンの回転数が加速度的に高まると、話の内容もどんどんエスカレートしてとどまるところを知らなくなっていく。
終いには男女の営みの話になったが、それはさすがに割愛。
大体私は一人しか男を知らないのに、アレの比較話なんでできるわけないじゃん、もう。
私はその間ひたすら聞き役。今はお腹を満たしたいから、正直喋るよりこっちの方が有り難い。
トークの隙を見て唐揚げをオーダー。ああ、明日の体重計が恐ろしい。けど食欲が止まらない。
ひとしきり喋り終えると、美紀子お姉さんは満足げな顔で最後の一口を飲み干した。
ああやっと終了かな。私もお喋り好きだと思うけどこの人には敵わない、というか圧倒されてしまう。
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どうも私は周囲の雰囲気に流されてしまう性格らしい。
過去、ラブレター事件の時もそれで痛い目にあっているのに、この性格は治りそうにない。
こんなとき私は、へらへらと笑いながら嵐が過ぎ去るのを待つしかできなくなってしまう。
周りに合わせて、愛想笑い浮かべて。自分の本当の気持ちを押し止めて、嫌なことを嫌だと言えなくなってしまう。
今日はそこまで嫌なわけじゃないけど、それでもあんな芝居を観た直後だし、どちらかと言えば一人でいたい気分だった。
まあ結局お腹が空いたのが運の尽きと言うか、また街中に来てしまった時点で文句は言えないのかも知れないけれど。
あ、そうか。早くマンションに帰ってご飯にすれば良かったんだ。
でもさっきは倒れそうなくらいお腹減ってたし、仕方がないかなあ。
あとは早く美紀子お姉さんが解放してくれるのを、おとなしく待つしかないかあ。
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お姉さんは、しかし私が期待したのも束の間、まだまだ足りないと言わんばかりにジントニックをオーダーした。
あれあれ、まだ続くんだ。さすがに聞き役も疲れてきたんですけど。エンジン、タフですねえ。
明日もお仕事あるんじゃないですか。そんなに飲んじゃって大丈夫なんですかあ。
バーテンさんから新しいグラスを受け取ると、美紀子お姉さんはくっと一口だけ飲み、私の目をじっと見つめてきた。
あれだけ飲んだのにお姉さんの目はしっかりとしていて酔った様子は無い。顔色も普段と全く変わらない。
お酒に呑まれないのも大したもんだなあと感心していると、お姉さんはゆっくりと口を開いた。
「ところで、あんたの方はどうなの。まだ別れた男の事を引きずっているの」
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[つづく]
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支援
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美紀子お姉さんらしい遠慮のない言葉に、私の心臓は鷲掴みされた。
お姉さんは自分の話をしていた時とはうってかわった真剣な表情で言葉を続けた。
「あんた男と別れてから変わったよね。サークルでも合コンでも笑わなくなった。
ううん、笑ってるけど周りに合わせて笑ってるだけで、前みたいに本当に楽しそうな顔で笑わなくなった」
「あんたは知らないかもしれないけど、みんなあんたの変化に気づいているよ。
正直迷惑なんだよね。
暗い顔したのがひとりいると場が白けるんだよ。最近遊びに誘われること減ったでしょ。
みんなあんたに気を使うのに疲れて、一緒に遊ぶのが嫌になってきてんだよ」
美紀子お姉さんの一言一言が、鋭利な刃物となって私の心を刺す。
刺して、貫いて、半年以上の間、心を覆っていた黒い皮膜を一枚ずつ剥ぎ取っていく。
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「あんたは悲劇のヒロイン気取ってれば満足なのかもしれないけど、周りは堪ったもんじゃないんだよね。
何なのさたかだか男にフラれたぐらいで。そんなの生きてりゃいくらだってあるんだよ。
なのにいつまでも引きずって暗い顔して」
「あんたぐらい美人だったら男なんて選り取り見取りじゃない。
何でいつまでも一人にこだわってるんだい。
そんな思い詰めるほど好きだってんなら、諦めずにもう一度アタックすりゃあ良いじゃんか」
私は茫然と美紀子お姉さんの話を聞きながら、アタックという言葉が、なんだかお姉さんのイメージとはずいぶん違うなあと思っていた。
肉食獣のお姉さんは、有無を言わさず獲物を捉えるイメージがあったから。
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「あんたは自分で考えてるよりずっといい女だよ。
美人だってだけじゃない。心だって最近のコにしちゃスレてないし立派なもんさ。
それはあたしが保証するよ。なんたって可愛い後輩だもの。あんたが本気になれば大抵の男は落ちるはずさ」
「なのになんでいつまでもぐじぐじしてるんだい。
なんで本気になってその男を奪いにいかないんだい。
なんで本気で自分の気持ちに向き合わないんだい」
「あたしはあんたがフラれた理由なんて知らない。ていうか相手の男のことも知らない。
あんたと相手の男の間にどんな事情があったのかにも興味無い。
けどさ、あんたがそんなに諦めきれないんだったら、なんでフラれたのか考えて、もう一度振り向いてもらえるように努力すりゃいいんじゃんか」
「もしフラれたことに向き合うのが怖いんだったら、そいつのことはもうすっぱり諦めて忘れなさい。それで新しい男を見つけんの。
なんにしてもいつまでも落ち込まれてたら周りが迷惑なのさ。
酒だって不味くなるんだから」
美紀子お姉さんはそこまで言うと、ジントニックをぐびっとあおった。
私は……美紀子お姉さんに何も言い返すことができなかった。
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その後、美紀子お姉さんがもう一杯カクテルを飲み干した後、私たちは店を出て別れた。
辺りはすっかり夜の帳が下りていた。路面の所々に水溜りができている。
きっと私たちが飲んでいる間に夕立でも降ったのだろう。
昼間の蒸し暑かった空気は少しだけ和らいでいた。
美紀子お姉さんにあれだけのことを言われたのに、私の心中は不思議と落ち着いていた。
お姉さんは遠慮が無いけど悪意も無い。
すぱっすぱっと心に刃物を刺されたが、表層の膜を削いでくれたおかげで妙にすっきりとした気分にさえなった。
こういうことができるのがお姉さんと慕われる所以なのかもしれないな。
そんな事を考えながら、私は雨上がりの空を見上げた。
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夏の夜空にひときわ輝く星が三つ見える。
こと座のべガ。わし座のアルタイル。白鳥座のデネブ。夏の大三角形だ。
なんとはなしに、三つの星を彼と、あの子と、私になぞらえてみる。
はっきり言えば三角関係にもならなかった三人。意識しているのはきっと私だけだろう。
ベガとアルタイルは七夕の織姫と彦星でもあったと思う。なら、私は仲間はずれのデネブなのかな。
自宅への帰り道、人気の少ない住宅街を一人歩きながら、私は頭の中で美紀子お姉さんの言葉を反芻していた。
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『あんたは悲劇のヒロイン気取ってれば満足なのかもしれないけど』
ああ、そうかもしれない。いい年して、おとぎ話のヒロインみたく打ちひしがれて泣いていれば王子様が助けに来てくれると思っていたのだろうか。
現実はおとぎ話のように都合良く進まないのに。
それよりは、ジュブナイル小説のほうがよほど現実的かもしれない。
傷ついて、反撃して、それでもやっぱり報われなかったあのライバルのほうが。
『みんなあんたに気を使うのに疲れて、一緒に遊ぶのが嫌になってきてんだよ』
今日みんながさっさと帰ったのも、本当はそういうことなのかな。
彼氏と遊ぶという話が嘘だと思わないけど、遠回しに面倒臭がれたのかもしれない。
『なんで本気で自分の気持ちに向き合わないんだい』
じゃあ、私は何をすれば良いのだろう。
自分の気持ちに向き合うって、どうすればできるのだろう。
『なんでフラれたのか考えて』
私は失恋の痛手に落ち込むだけで、なんでフラれたのかを考えたことがなった。
いや、あの子に寝取られたとしか思ってなかった。
それ以外の理由なんて今でも思いつかない。他に何があるのだろうか。
……他に何かあるのだろうか?
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単なる色恋沙汰の果てという以外の事情が、あの二人の間にあったのだろうか?
あの義理の兄妹の間に、私の知り得ない特殊な事情でもあったのだろうか?
夕方、公園で思い悩んでいた事が蘇る。
私はあの二人のことを何も知らない。知らないから分からない。理解ができない。
どんなに悩んで苦しんで、救いを求めたとしても、結局は知らないという結果に帰着してしまう。
自分の中には答えはどこにも見つからない。見つからないから、私は永遠とも思える思考のループに陥ってしまう。
本当に答えを求めるのなら、残された手段は相手に問いただす以外に無い。
しかも当事者の一人はもうこの世にいない。これでは検証する術はない。
検証。事実を確かめること。
民事訴訟法による検証とは、裁判官が直接に検証物の形状・性質・状態を観察し、その結果として得られた内容を証拠資料とする証拠調べの手続きの事。
証拠資料。記録。あの子に関する記録。果たしてそんなものが残っているものだろうか?
……日記。
私の脳裏に、あの薄緑色の小さな本が浮かんだ。
-
[つづく]
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乙
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日付が変わろうとしていた時刻に、やっとたどり着いたマンションの自室。
部屋の電気を灯けて、ショルダーバッグを片隅に置く。
壁掛け時計の秒針以外は動いているものは何もない、静かな部屋。
大学や街からこの部屋に帰ってくると、私はいつも世間から取り残されたような気分になる。
誰も待つ人のいない、何も起きない空間。たった一人だけの世界。
不意に実家が恋しくなる時もある。自分の我侭で一人暮らしをしているというのに、勝手な話だけど。
結局、人間は孤独ではいられない生物なんだろうと思う。
孤独に耐えられないから家族を作り、社会を営む。
誰かと触れ合い、足りない部分を補いながら生きていく。
時に傷つけ、争うことがあっても、なお人間は他者を求める。
何回過ちを繰り返しても、それでも誰かと共に生きたいと望む。
ついこの間まで必死に強がっていた自分に気付き、思わず苦笑してしまう。
やっぱり、一生男を作らずに、なんてきっと無理だな。少なくとも私には。
恋をしていなければ生きていけない、なんてタイプじゃないと思うけど、それでも誰かと共にいたいとは強く思う。
願わくば、それが……ううん、それは後の話。
今は、確かめなければいけないことがあるから。
自分が、前に進むために。
-
大学のテキストや課題資料が積まれている机の上に、小さな本が隠すように置かれている。
あの大雨の夜、実家で父から受け取った、薄緑色の本だ。
実家から戻ってきた私は、この本をできるだけ目に付かないように、他の本に紛れるようにして放置していた。
父から貰った手前捨てるわけにはいかなかったが、かと言ってとても読む気にはなれなかったからだ。
読むどころか、本の存在を意識することさえ嫌だった。
彼とあの子の蜜月を見せつけられているような気がして。
だから私は、まだこの本を開いたことがない。
もうひと月あまりの間、本は机上の山の中、触れられることなく孤独な存在であり続けた。
あたかも秋の終りに別れを告げられ、取り残された私の心のように。
椅子に座り、山の中から本をとり出して向き合う。
この本に何が書かれているのか、知ることは正直なところ苦痛だ。
あの子の想いに触れることが怖いし、彼への睦言に耐えられる自信は無い。
それは今でもそうだ。
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けれど、私は事実を知らなさすぎる。
知らないから、検証ができない。検証ができないから、納得ができない。
納得ができないから、いつまでも取り戻せない過去に執着してしまう。
どうして、彼とあの子の間で恋愛感情が成立したのか。
何故二人が結ばれたのか。何故私が捨てられたのか。
私に致命的な落ち度があったのか。それとも別の理由があるのか。
あの二人の間に、一体どんな事情があったのか。
それらがこの本に書かれているのかは分からない。私が求める答えがあるのかは知れない。
それでも、この本に触れなければ、きっと私は前に進めない。
戦わなければ、向き合わなければいけない。いつまでも逃げているだけじゃ、私はいつまでも独りのままだ。
静寂に包まれる部屋。一人きりなのに空気が重い。心が気圧されそうになる。
それでも。
私は震える手で、薄緑色の本の表紙を開いた。
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本を開くと、最初に窓際に飾られた鉢植の写真が載っているページがあった。
青空の下、燦々とした日差しを受けて、白い花が眩しいくらいに輝いている。
茎を抱くようにして生えている葉と、弧を描くように丸みを帯びた花が一対、健やかで可愛らしい姿を見せている。それが数本。
確か、林間学校の時に見た花だ。青空の下、女の子たちみんなで小さな花輪を編んだ事を覚えている。
そう、これはウメバチソウだ。
花言葉は『いじらしさ』。あの子にふさわしい言葉なのかもしれない。
ページをめくる。白紙ページの中央に、一行だけ言葉が綴られていた。
「願わくば、明日のわたしが、今日のわたしより優れた人間でありますように……」
メッセージの意味は分からない。あの子が遺した言葉なのか、どこかから引用したものなのか。
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カラーページを終えると、冒頭に出版にあたってという題目の謝辞が書かれていた。
署名には臓器移植コーディネーターという職名が記されている。
臓器移植?そう言えば、父からこの本を手渡されたとき、臓器移植コーディネーターがどうとか言ってた気がしたけど。
あの子に移植手術が行われたなんて話は聞いていない。どういうことだろう。
謝辞は2ページに渡って記されていた。コーディネーター氏は、
・あの子が自分も腎臓移植を望む立場であるにもかかわらず、臓器バンクにドナーとして登録し、肝炎を患う姪のために臓器を提供することを望んだこと
・コーディネーターの氏は生前のあの子と面識は無かったが、日記を読んで深い感銘を受けたこと。特に命のあり方に向き合うあの子の姿勢に感動したこと
・臓器移植により助かる人が大勢いることを、多くの人に知ってもらいたいこと
・妹の兄である彼が、日記の出版を強く望んでいたこと
これらのことを感謝の気持ちとともに述べていた。
-
臓器移植のドナー。
思いもよらない言葉に、私は激しく動揺した。
一瞬、手元を誤り、本を落としそうになったほどだ。
あの子の病気、慢性腎不全は基本的に根治しない。
透析や薬物治療、食事療法などで症状の緩和を図ることはできるが、病気の進行自体を止めることはできない。
父からも、重篤に陥った場合は腎移植しか助かる道は無いと聞いていた。
だから、あの子は移植を待つ立場、レシピエントだった。
けれどコーディネーター氏は、あの子がドナー、提供者になったと言う。
二律背反ともいえる行動。
死を間近にし、臓器提供を受けることに一縷の望みを抱いていたはずの人間が、同じ苦しみを持つ人間のために自らの臓器を提供する。
いかにもか弱い、守られるだけの存在に見えたあの子のどこに、自らを犠牲にする勇気があったのだろうか。
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我が身に置き換えて考えてみよう。
仮に、私が同じ病を抱えていてたならどうしただろう。おそらく最後まで助かる可能性に賭けるのではないか。
彼と結ばれることを心の支えにして生に縋りつくはずだ。
助からないから他人のために臓器提供をする。そんな事は、思いつくことさえ無いだろう。
たとえ、それが親戚、姪のためといえども。
姪に臓器を提供するのは他の健康な体を持つ人の役目。私は自分の病気のことで精一杯。
はっきり言葉にして意識することはなくとも、きっと潜在意識の中ではそう思うはずだ。
それが普通の人間だと思う。誰だって自分の命が大事だろう。
平時なら綺麗事を言えるかもしれないが、もし死を目前にすれば、自分が助かることを最優先にするのではないだろうか。
自分が特別リアリストだとは思わないが、私はそう考えてしまう。
これがもし、アクション映画のように突発的な出来事で命を賭すシチュエーションであれば、まだ分からなくもない。
そうしたケースでアドレナリン・ハイな状態になれば、自己を犠牲にして誰かを助けるということはきっとあり得るのだろう。
ただ、あの子は病気で長期入院していた。長い間、病魔に苦しめられていた。
そのような状態であれば、健康への憧れ、生への執着はより強くなるのではないだろうか。
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それなのに、あの子はドナーになる道を選んだ。
およそ浮世離れしたとさえ言える行動だ。
病院生活が長く、世間ズレしていないからそんなことができたのだろうか?
いや、そんなことは無いだろう。生き死にはもっと本能的な問題だ。
大体、あの子の側には彼がいた。恋人がいると知ってなお、思いを遂げずにはいられなかった男性がいた。
だったら、略奪愛さえ成してみせるパワーがあるなら、同じように生きることにだってしがみつこうと思うはずだ。
たとえ気持ちが通じ結ばれたとしたって、死んだら何もならないのだから。
わからない。あの子が何を考えていたのか。どうして生を諦めるような選択をすることができたのか。
私は、あの子が恐ろしいとさえ感じた。
数ページ先から、あの子の日記は始まっていた。
-
[つづく]
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『○月×日
今日から日記を書きはじめることにします。
毎日、病室から外を眺めるだけばかりでは息が詰まりそうだから。
何か建設的なことをしようと思ったけど、思いついたのはこれだけだった。
とりあえず初日。
書くこともないので、状態の経過を書くことにする。
体温、脈、血圧ともに正常。
呼吸困難もなく、動悸も少ない。
一番心配なのは顔のむくみと黄疸だけど、今のところ出ていない。
それが一番嬉しい。
……もう書くことがなくなってしまった。
窓の外は……何だか寒々しい。
もうじき冬で、中庭を枯れ葉がさらさらと流れていく。雪でも降れば、キレイになるのに。
雪……いいかも知れない。
自分と雪と、どっちが早いか競争してみるなんて、面白いかも知れない。
終わり。』
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『○月×日
兄が見舞いに来る。
わたしのことを訪れくれる人は、そんなにいない。
両親と、香奈ちゃんと、伊藤君と……そして兄。
一番頻繁にやってくるのは、兄。
ずっと小さな頃から、兄はわたしのために多くのものを犠牲にしてきてくれたような気がする。いや……きっとそうなのだ。
それは、決して忘れてはならないことだと思う。
兄、という存在が、わたしをここまで生かしておいてくれた。生きる力を与えてくれた。
透析はつらい。
心不全も痛い。
けど、不思議と寂しくはない。
一人で闘っているわけじゃないと感じるから。
私は、兄と一緒に生きてきたのだ。
その兄の様子が、少し変。
……何かあったのだろうか。
兄は自分で抱え込むタイプだと思うから、何かあってもあまり外に出ることはないけど。
ちょっと心配。』
-
数ページ読んでみて、想像していたよりも冷静な文面に、拍子抜けすると同時に少しだけ安堵した。
……考えてみれば、兄(義理だけど)への熱烈な愛情を綴った日記なんて出版しないか。
それこそジュブナイル小説じゃあるまいし。おかしいよね、そんなの。
どうやら冷静さでなかったのは私の方らしい。
肩の力がどっと抜けた。
大きく息を吐く。呼気とともに体を押しつぶしていたプレッシャーが抜けていくのを感じた。
途端に猛烈な喉の渇きを覚える。どれだけ緊張していたんだろう。
お茶でも飲んでリラックスしよう。そう思い、席を立った。
1DKの狭いダイニングキッチンの食器棚からグラスを取り出し、即席のアイスティーを作る。
本当は好みの茶葉で作り置きしておくと楽なんだけど、最近はちょっとサボり気味。
なので、今回もティーバッグでお手軽に済ませてしまおう。
ミルクなし、砂糖はほんのちょっぴり。
-
ストローを差して軽くかき混ぜる。カラカラと鳴る氷の音が心地よい。
なんというか、そう、夏の音だ。
昔、小学生の頃の夏休み、学校のプールで遊んで帰って、自宅の庭先で足を伸ばしながら飲んだ麦茶の音。
郷愁。まだ恋も知らず、目に見えるものすべてが輝いていて、楽しい日々がずっと続くと信じていた、あの頃。
少しだけ逃避したくなる。何も知らなかったあの頃に。
でも、それではいけない。私はもう、大人なのだから。
何も知らないふりは出来ない。知らなければならない。
前に進むために。
ストローを唇に当て、一口吸う。ひんやりとした紅茶が喉を通り、体中の血管を冷やす。
冷えた血液が脳まで通り、頭の火照りを静めてくれた気がした。
ふぅと一息。
さあ、続きを読もう。
再び本に向かい、ページを繰る。
-
『○月×日
寒波がやってきているらしく、毎日かなり寒い。
秋から一足飛びに冬になってしまったかのよう。
この分だと……今年は年内に雪が降るかも知れない。
それは、素敵な予感だ。
白い壁は清潔だけど、こう毎日見ていては息が詰まりそうになる。
同じ白でも、窓の外の枯れた景色を染めてくれる白なら、さぞかしキレイなんだろう。
そのことを話すと、兄は『きっと降る』と力説してくれた。
あと、花と海の話しもした。
海……そう、わたしは海を見たことがない。テレビでしか。
海水浴なんて危なくてとてもできないけど、見るだけでも見ておきたい。
今度退院できるようなことがあれば、わがままを言って連れていってもらおう。
キレイなものばっかりのこの日の対話は、とても楽しかった。』
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『○月×日
今日は何もない。
健康状態は落ち着いている。
心臓もまだ動いてくれている。
あと少し、頑張って欲しいと思う。
午後になると、兄が様子を見に来た。
特に長く話したわけではないものの、顔を見るとほっとする。
でも……兄の見舞いの回数が増えたような気がする。
大学、大丈夫なのかなあ?』
-
日記には、彼が度々病院を訪れる様子が、繰り返し描かれていた。
彼は本当に、あの子のために自分の時間を捧げていたのだなと改めて思い知る。
分かってはいた。覚悟したつもりでもいた。
それでも、こうも蜜月を見せつけられると、やはり打ちのめされた気持ちになる。
妹の最期を看取るため、ならまだ少しは納得はできる。肉親だから。家族だから。
身内の残り少ない時間を、自分の生活を犠牲にして介護するというのはきっとある話だろう。
父からも、過去にそのようなケースがあったことは聞いていたし、想像もできる。
けれども彼は、あの子を異性として意識していた。
すでに私と言う恋人がいたのに、比べて選んであの子についた。
芝居や小説の中ならあり得る話だとしても、いざ自分の身に降りかかれば受け入れられるものではない。
-
胸がちりちりと焼ける思いがする。暗い思いが脳内を駆ける。
なんで。どうして。私が一体何をしたというのだろう。
私に何が足りなかったというのだろう。あの子のどこがそれほど魅力的だったのか。
なぜ彼は平然とあの子の元に通えるのか。なぜあの子は彼と私の関係を壊したのか。
嫉妬。
怨嗟。
悲嘆。
ひとりきりの部屋の沈黙を、窓の外から蝉の鳴き声が引き裂いた。
蝉の声は深夜なのにやけに煩く、まるで頭の中に直接響くように聞こえてくる。
脳が音波で揺さぶられたかのようにくらくらとした。
地上に出た蝉の生涯は儚く短い。僅かに与えられた時間の中で、蝉はパートナーを求めて必死に鳴き続ける。
その声が、姿が、儚げなあの子の姿を想起させる。
-
心の底の深い闇から、薄汚れた格好をしたもう一人の私が恨みに満ちた目を向けている。
小刻みに震える両手が、わずかに残る理性を引き裂こうと力を込める。
壊してしまえ、消してしまえと、声が聞こえる。
目の前から映像が消え、周囲は完全な闇に包まれた。
混濁した意識はゆっくりと遠のき、霧がかかったようにぼんやりとした中から、やがて黒い獣が頭をもたげた。
漆黒の毛皮を纏い、耳をとがらせ、釣り上がった目は漲る敵意を隠そうともしない。
呼気が荒い。全身から闇のオーラが立ち上る。
本能という名の野獣。理性は闇に掻き消され、獣を止める者は何もない。
獣は記憶の中のあの子へ向けて牙を剥く。か細い喉元目がけ襲いかかり、食い千切ろうと唸りを上げる。
その脆弱で白い肌を鮮血で真っ赤に染めてやろう。
獣の、鋭い爪を剥き出しにした前足が脳のキャンパスを強く蹴り上げた!
-
カラン!
硬質な塊が崩れてぶつかる音に、私の意識は現実に引き戻された。
紅茶を入れたグラスの中の氷が溶けた音が、部屋を包んでいた汚れた空気を掻き消した。
私の意識を支配していた黒い獣は霧散したように消えていた。
目の前には薄緑色の本がページ半ばで置かれていた。大丈夫、視界ははっきり見えている。
本を持っていたはずの手はいつの間にか空を彷徨っていた。掌にはびっしょりと汗。
胸の鼓動が早くなっておさまらない。このまま破れてしまうのでないかと思うくらい激しく動悸している。
蝉の声は聞こえなくなっていた。再び深夜の静寂が私の部屋を支配する。
私は慌てて紅茶を口にした。ほのかに香る紅茶の匂いが、興奮した交感神経をいくらかほぐしてくれた。
-
いけない、このままでは同じことの繰り返しだ。
心の闇に飲まれてはいけない。飲まれてしまっては、一人噎び泣いた冬の長い夜からいつまでも抜け出せない。
事実にきちんと向き合い、検証し、受け止めなければ前に進むなんてできやしない。
気持ちを落ち着かせるための深呼吸を、二度三度。
椅子を立ち、上体を大きくのけぞってみる。
少し体が硬い。緊張で全身の筋肉が委縮していたのだろうか。
ちらりと掛け時計の方を見やる。時刻は、もう深夜2時を回っていた。
-
もうこんな時間なのか。今日はこれで切り上げて休もう。
友人たちに置いてけぼりにされ、先輩の芝居に当てられ、美紀子お姉さんに煽られて、さらにこの本だ。
今日は精神的に色々な事がありすぎた。
疲労は心に隙を作り、隙が出きれば闇の中の獣に心を乗っ取られてしまう。
シャワーを浴びて、ぐっすり寝て、心も体もリフレッシュして、落ち着いた状態で向き合った方が、じっくりと考えることができるだろう。
勉強だってそうではないか。一夜漬けで臨んだテストの結果は大抵良くない。
じっくり、しっかり学んだことの方が身に着く。これだって同じことだ。
そう自分を納得させると、本を閉じた私は着替えを準備してシャワールームへ向かった。
明日のために。そして、まっすぐ前に進むために。
-
[つづく]
-
乙です
-
翌朝。
花の女子大生もかかわらず夏休みのスケジュールが白紙の私は、随分と高い位置に陣取った太陽からの日差しで目を覚ました。
枕元に置いた携帯電話で時間を確認する。
もうすぐ午前9時。普段なら一限目アウト、でも代返頼むのはぎりぎりセーフのタイミング。割と勝負の時間帯だ。
でも今日から夏休み。多少の課題は出ているにせよ、初日の寝坊ぐらいは大目に見てもらえるでしょ。
本日はお日柄も良く。まったく絶好のデート日和。きっと友人達はラブラブデートを満喫するんだろうなあ。
ゆったりと体を起こし、うーん、と大きく伸びをする。
パジャマが上に引っ張られ、おへそがチラリズム。いやん。
頭ボサボサ。ゆうべ半乾きのまま寝ちゃったからね。寝ぐせついてもしょうがないね。
まぁちゃんとセットすれば大丈夫かな。
-
ベッドを降り、顔を洗い、恐怖の体重計チェーック。
昨夜はあんなだったしね。さあ、どうだっ!……ま、まあ誤差の範囲内でしょう。うん、大丈夫、大丈夫。きっと。多分。
よし、明日から本気出す!……いやいや、今日からちゃんとしないと駄目ね。まだ一日は始まったばっかりなんだし。
そ、それはさておき朝食、朝食。健やかな体形は正しい食生活から!
いつまでもパジャマのままなんてだらしない、なんて事はこの際無視。
だっておなかがすいたんだもん。腹が減っては戦は出来ぬ!とトースターにパンをセットし、焼いてる間に他の準備。
普段は紅茶党の私も、朝だけはコーヒーと決めている。
インスタントのドリップコーヒーをカップにセット。
お湯を注ぐと香ばしいコーヒーの匂いが鼻腔を刺激した。
湯気にカフェインは混じっていないんだろうけど、なんとなくこれだけで頭が覚めた感じになる。不思議。
ミルクたっぷり、砂糖ちょっぴり。コーヒーはカフェオレに限る♪
-
サラダがあれば最高だけど、昨夜家事も買い物もサボった私にそんなものは無い。
かといって今から準備するのも腹の虫が許さない。
何か代わりになるものは無いかと冷蔵庫を漁ると、ほんのり赤く熟し、甘い香りを漂わせた桃がコロリと出てきた。
先日実家から送られてきたものの残りだ。
朝から桃。なんとなく勿体無い気がするが、食べないで痛ませるのはもっと勿体無い。
ここはひとつ有難く頂戴するとしよう。蜜たっぷりですっごく美味しかったんだよね、これ。
患者さんからの貰いものだと同封されていた手紙には書いてあった。
患者さんと父に感謝。では、いただきます!
朝食を採り、着替えて、身だしなみを整えたら、あの本だ。
私にとっての戦。相手はあの子じゃない。自分自身。
-
色々と用事を済ませてから机へ向かう。
寝坊するほど休んだからか、昨日より自然に本へ手を向けられる。
もちろん紅茶も準備完了。ちゃんと茶葉を使って淹れた、お気に入りのダージリンティーだ。
ついでに今日はアロマも焚いてみた。ラベンダーの落ち着いた香りが部屋中に満ちていく。
うーん良い香り。リラックス、リラックス。
あの子の本を少しずつ読み進めていく。しばらくはありふれた日常の様子が綴られていた。
気になったのは、あの子が驚くほど冷静に、自分の病状を受け止めていたこと。
-
おそらくあの子は、日記の執筆を始めた時点で余命が短いことを悟っていたのだろう。
文章の節々に『今やらなければならないこと』への使命感めいた思いが見え隠れしている。
それでいて気負いが無い。運命を率直に受け止め、その上で残りの人生をいかに充実させるかということだけを考えていたようだった。
不思議なことだと思う。死を間近にした人間が、これほど穏やかに死と向き合うことが出来るのだろうか。
それともうひとつ、気付いたことがあった。
あの子は彼のことを日記に書くとき、二つの呼び方を使い分けていた。
普段は『兄』。大抵の場合、あの子はこの呼び方を使っている。
たしか以前、初めて病室であの子に会ったとき時、あの子は彼の事を『お兄ちゃん』と呼んでいたはずだが、日記に書くにはさすがに恥ずかしかったのだろう。
もう一つは『あの人』。こちらは、あの子が女として、異性としての彼を書くときに使用している。
『兄』と『あの人』。肉親としての彼と、男性としての彼。
あの子の胸中に内在していた二つの想い。
二つの呼称を使い分けることで、禁断の想いに対する免罪符としていたのだろうか。
いつしか私は、あの子の内面に興味を惹かれていった。
-
『○月×日
最近は比較的体調が良好。
微熱がちなのは仕方が無いけど、それ以外に気分が悪くなったり、胸が苦しくなったりはしていない。
とても穏やかな気持ちだ。ずっと今の状態でいられたなら、どんなに素敵な事だろう。
具合も良いし、たまには外に出てみたかったので、美樹さんにお願いして病院の中庭を散歩させてもらった。
しらばくは病室と診察室、あとはトイレぐらいしか歩く機会が無かったので、階段を下りるのがちょっと大変。
上り階段を使うのは無理かもしれない。美樹さんにも、帰りはエレベーターに乗るように言われてしまった。
中庭に出たわたしの目的地はひとつ。以前埋めたウメバチソウがどのくらい育っているか見たかったのだ。
ウメバチソウは少し珍しい植物で、8月から10月頃に花をつける。
そろそろ咲いていてくれたら嬉しかったのだけど、この子の季節はまだみたい。ちょっと残念。
わたしがウメバチソウの茎を撫でていると、どこからか一匹の蜂が現れて、鼻先をかすめるようにして飛んで行った。
わたしはびっくりして尻もちをついてしまった。蜂は美樹さんが追い払ってくれたけど、上着の裾とおしりの部分は芝生と土で汚れてしまった。
美樹さんに怒られちゃうかな、と思って見上げてみると、美樹さんは本当に心配そうな顔をしてわたしの事を見つめてくれていた。
なんだか悪いことをしちゃった気分。次からは、もう少し色々と気をつけようと思った。
-
どうやら、わたしは蜂に縁があるみたい。
まだずっと子どもの頃、家族で行ったピクニックの時に蜂の巣にいたずらをして以来、蜂から恨まれているのかも。
あの時、大勢の蜂から襲われそうになった時、兄は自分の身を挺してわたしの事を守ってくれた。
はじめて兄の事を頼もしいと思った瞬間だった。それまでは、わたしは入院していることが多かったし、
兄は見舞いに来てくれなかったから、話をしたことはほとんど無かった。
だけどあの時、兄がわたしに覆いかぶさるようにして守ってくれたあの時、兄とわたしの距離がとても近づいたように感じた。
物理的な距離だけではなく、心の距離も。
あれ以来、わたしは兄に対してとても深い親愛の情を抱くようになった。
守ってくれる誰かがいてくれることは、とても素敵な事だなと思うようになったのだ。
こんなことを伊藤君に話せば、きっと彼はわたしの事をブラコンだと揶揄するだろう。
でも……いいもん、ブラコンでも。
兄がわたしの事を守ってくれたように、わたしも兄の事を大切だと思う気持ちは誰にも負けないつもりだから。
なんだか恥ずかしくなってきたので、今日の日記はおしまい。』
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蜂に襲われたこと……確かに、彼が山で蜂に襲われて、2週間くらい入院したことは覚えている。
ラブレター事件から数日後の出来事だ。
私は心配でたまらなかったけれど、あの事件の直後ということもあり、彼のお見舞いに行きたくても行けなかった。
不幸中の幸いというか、入院先が父の病院だったので、私は美樹さんを通じてこっそりと彼の容態を教えてもらっていた。
病院へ運ばれた直後、昏睡状態だと聞いたときは心臓が止まる思いがしたが、その後持ち直して後遺症も無いと知った時は心底安心したものだ。
退院して彼が登校したときは、クラスの雰囲気に釣られてつい軽口を叩いちゃったけれど……。
本当はとても心配していたと。ラブレター事件の事もあの時に謝罪していれば、その後の関係も変わっていたのかもしれないのに。
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蜂に襲われたこと……確かに、彼が山で蜂に襲われて、2週間くらい入院したことは覚えている。
ラブレター事件から数日後の出来事だ。
私は心配でたまらなかったけれど、あの事件の直後ということもあり、彼のお見舞いに行きたくても行けなかった。
不幸中の幸いというか、入院先が父の病院だったので、私は美樹さんを通じてこっそりと彼の容態を教えてもらっていた。
病院へ運ばれた直後、昏睡状態だと聞いたときは心臓が止まる思いがしたが、その後持ち直して後遺症も無いと知った時は心底安心したものだ。
退院して彼が登校したときは、クラスの雰囲気に釣られてつい軽口を叩いちゃったけれど……。
本当はとても心配していたと。ラブレター事件の事もあの時に謝罪していれば、その後の関係も変わっていたのかもしれないのに。
『ほら、あんなことの後だから藤堂君もしかしてジサツとか考えちゃったのかなーとか思って』
……なんてデリカシーの無い言葉だろう。
照れ隠しにしたって、もっと気の効いた言い回しがあったはずだ。
いやそうじゃない。私は彼の事を深く傷つけてしまった後なのだから、まずは彼の体の事を心配して、そしてあの事件の事を謝るのが当然だったはずだ。
けれど、私にはそれが出来なかった。またしても周囲の雰囲気に流されて、自分の気持ちを素直に表すことができなかった。
-
しまった二重書き込みになってしまった。
>>147は無視してください。
-
……あの子はこの時から、彼の事を異性として意識していたのだろうか。
長期入院していたあの子。見舞いに行くことのなかった彼。
物心つくまで殆ど交流のなかった少年少女。
年代は違えど、先輩の芝居に出てきた兄妹の境遇とある程度符合する。
だからって、まだ小学校中学年程度の子が恋愛なんて、少し早すぎるような気がしないでもない。
自分はどうだったろう。彼と同じクラスになったのは5年生の時だから、初恋もちょうどその時期だ。
たった2歳違い、といえども小学生の時の1年は他の世代とは何倍も重みの違う時間だと思う。
中学年ぐらいなら、まだ性差を意識せず無邪気に遊んでいて良い頃だ。
-
けれど、あの子の置かれた境遇。
稀にしか登校できなかったであろうあの子は、恐らく他の子たちと違い交友関係を築く訓練をしていない。
友達、という人間関係を知らなかったかも知れない。
たった一人の病室。接する人は、父や美樹さんなど、みな大人。
外の世界を知る手段は、大半が書物から。実際、あの子は大変な読書家だったという。
白い壁に囲まれた退屈な時間を潰す本の中には、きっと恋愛を取り扱うものもあっただろう。
そこに現れた彼。同じ世代。
友達というものも知らず、その瞬間まで兄妹という関係性さえ築けずにいた中で、突如現れた異性。
幼いあの子の心の中に、未熟な恋心が生まれたとしても、あるいはおかしくないのかも知れない。
-
勿論、これは私の推測にすぎない。
断片的な情報と、もたらされた結果を無理矢理結び付けただけの、勝手な推論だ。
けれど、もし私の考える通りだとしたら……
あの時、彼に対して思慕を寄せるようになったあの子と、素直になれなかった私。
ひょっとしたら、もうあの瞬間から、私達の運命は決まっていたのかも知れない。
胸の奥底に、ギュッと締めつけられたような痛みが走る。
私はきっと、取り返しのつかないことをしてしまったのだ。
-
[つづく]
-
乙
彼女も切ないがずっとこれから一人の兄も寂しいよな…
妹助かるルート以外は孤独なんだろ
-
>>154
隆道(兄)もかなり辛いと思います。
けれど隆道は、長く時間はかかりますが、加奈の残した思いをちゃんと受け止め、少しずつ立ち直っていきます。
その辺は本編で語られていますので、良かったらプレイしていただければ……。
ちなみに加奈が助かるルートは1/6です。そりゃ泣きますわ。
-
『○月×日
夢を、見た。
どこかは分からないけど小高い丘で、大きな木が一本だけ生えている、とても広い草原。
わたしは、木陰で本を読んでいた。
傍らには大の字で寝そべる兄の姿。
辺り一面は芝生で覆われて、見上げれば大きく広がる青い空。時折吹くそよ風が心地よい
(夢の中なのに、わたしは確かに風の感触を感じていた)。
会話が弾んだわけではない。むしろお互いに側にいただけ。
それがとても心地よくて安心できるような、そんな夢だった。
-
夢。
寝ている時に見るのも、自分の目標や希望のことも同じように夢と呼ぶ。言葉って面白い。
わたしの夢は何だろう。
以前なら、きっと元気になって普通の生活をすること、と答えただろう。
でも今は少し違う。
元気になるのはとても魅力的だけれど、今はもっと違うものを求めている。
あんまり具体的ではないけれど、残された時間が満ち足りたものになること。それが夢、かな。
たとえば、海を見ること。
わたしは海に憧れを持っている。海を見れば、きっとわたしは満足することだろう。
そうした小さな幸福を積み重ねて、人生を満ち足りたものにすること。
それが、わたしの夢。
わたしは学校にあまり通えなかったから、他の人がどんな夢を持っているかを知る機会が少なかった。
けれども、わたしが出会えた希少な人たちは、みんなそれぞれ素敵な夢を持っていた。
春、兄の卒業式に行った時に出会った兄の友人たちは、将来の夢を確かに持っていて、とても輝いて見えた。
わたしはそんな彼らが羨ましかった。
ずっと病院暮らしが続いたわたしは、彼らのような夢を持つことができないと思っていたから。
でも本当はそんなことは無い。わたしの夢だって誰に恥じることのない立派な夢だ。今はそう思う。
-
兄は、夢を持っているだろうか。
わたしは兄の夢を聞いたことが無い。以前聞いたときは、兄は大学に通う間に将来の目標を見つけると言っていた。
はたして兄は夢を見つけることができただろうか。
わたしと違い、兄には時間がたくさんある。だから焦る必要は無いのかもしれない。
けれど、わたしのために多くの時間を割いてくれている兄に、夢を見つける時間があるのだろうか。
わたしがいなくなった後、兄は夢を見つけることができるのだろうか。
一途な兄のことだから、なんだか不安になってしまう。
兄には兄の人生がある。わたしがいなくなった後も、兄の人生は続いていく。
兄には夢を持ってほしい。兄の人生を幸あるものにするために。』
-
『○月×日
今朝はすこし風が強い。
外の空気に触れたくて窓を開けたら、ぴゅうと冷たい風が私の顔を撫でてくれた。
病室の空気はエアコンが効いていてもどこか淀んだ感じがするから、自然の空気に触れるのは気持ちが良いし、嬉しい。
人間も自然の一部なんだなあと、大げさな事を考えてみたりして。
風は季節によって香りが違うと思う。今は枯葉の匂い。
春に芽生え、夏に陽光を一身に浴びた葉が、役割を終えていくときの匂い。
生命の循環を感じさせる匂い。
わたしはあと何回、この匂いを感じることができるのだろう。
わたしも自然の一部として、生命の循環に組み込まれるのだろうか。
それが摂理というのなら、まっすぐ受け入れたい。
受け入れられる自分になりたい。窓の下で舞う枯葉に、わたしはそう願った。
-
お昼ご飯の時間に兄が来た。
今日は大学が一時限目しかないから、一緒にお昼を食べようと誘ってくれたのだ。
そう言われてもわたしは病院食なので戸惑ってしまうが、兄は構わず幾つかの菓子パンをわたしの前に広げ、好きなものを選ばせてくれた。
久しぶりの甘いもの。嬉しいけど、これお昼ご飯じゃないよね。
結局、わたしはチョコレートのかかったドーナツを一つもらった。ごちそうさま。
母から聞いたのだが、兄は彼女さんと別れたのだそうだ。
理由は聞いていないけど、わたしの見舞いを優先してくれたのかもしれない。
わたしはずっと兄の側にいられるわけじゃない。
わたしの時間があとどのくらいあるのか分からないが、遠からず別れの時が訪れるだろう。
わたしがいなくなった後の兄のことを考えると、支えになる人がいた方が良いはずなのだ。
-
あの彼女さん、鹿島夕美さんなら、きっと兄のことを良く支えてくれるだろう。
初めて見舞いに来てくれたとき、わたしは夕美さんにほとんど口をきく事ができなかった。
兄が女性を連れてきた事に、正直とても動揺していたから。
けれど、夕美さんは笑顔を絶やさず、わたしに色々な話をしてくれた。
明るくて、きれいで、優しそうな夕美さん。
なにより、とても健康で元気な人。
わたしがどんなに望んでも手に入れられないものを、夕美さんは持っている。
少しやきもちを焼いてしまうけど、兄にとっては必要な女性だと思う。
それだけに、別れてしまったというのなら、とても申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
-
一人でいることは寂しい。
過度な依存は不健全だと思うけど、孤独はとても辛い。
人にはお互いに支えあう他者が必要だと思う。わたしは、それを最近強く感じるようになってきた。
病室にいても、わたしは一人じゃない。支えてくれる多くの人がいる。美樹さん、先生、両親、そして兄。
みんなが支えてくれることで、わたしはまだ生きることができる。
肉体的にも精神的にも、多くの助けを得ることで、わたしは生かされている。
感謝しきれないくらい、わたしは幸せだ。
兄は、わたしののために自分の多くを犠牲にしてきてくれた。
逆にわたしが心配になるくらい、わたしのために尽くしてくれた。
わたしがいなくなったら、兄はどうなってしまうのだろう。わたしのために費やしてくれた時間を、兄は埋めることができるのだろうか。
兄を支えてくれる人はいるのだろうか。
どうか、支えになる人を見つけてほしい。
わたしがいなくなったら、兄には自由に生きてほしいから。』
-
あの子が彼を想う気持ちが、切ないほどに伝わってくる。
私だって彼を好きだと言う気持ちは誰にも負けない。
でも……。あの子が彼を想う気持ちと、私が求めていたものは何かが違う気がする。
一体、それは何だろう。
ああ……そうか。分かってしまった。
あの子は彼の事をとても大切に想っていた。彼が幸福になることを強く願っていた。
けれど、私の気持ちは彼を独占したい、彼のものになりたいという、私個人が満たされることを望むものだったんだ。
-
以前、まだあの子が存命の頃、頻繁にお見舞いに行く彼の事を私は内心快く思っていなかった。
彼から全く連絡が来なく期間があり、そういう時は大抵彼はあの子のために時間を費やしていたのが不満だったのだ。
だから、地元で彼を見つけたとき、私は彼があの子の見舞いに行く事を知りながら、強引にデートに誘ってみたりもした。
あの時、彼は偶然私と会ったと思っただろう。でも本当は違う。
彼が病院へ行く経路を知っていた私は、途中で彼を待ち伏せていた。
全然連絡が来ないから、それならばこちらから強襲してやろうと思ったのだ。
『ヘイ、ミスター藤堂、どこ行くの?』
白々しく、彼の目的など分かっていたのに、私は軽い調子で彼にカマをかけてみた。
私の意図がバレなかったのは、きっと先輩に鍛えられた演技力の賜物だったと思う。
彼は案の定困惑して、それでもいくらかの後ろめたさはあったのだろう。
あの子の見舞いに行く事を諦めて、その日は一日中私のデートに付き合ってくれた。
夜、ホテルに誘ったときは、さすがに断られてしまったけれど……。
-
彼にとって、あの時何が一番大切か、何を尊重しなければいけないかなど、私は全く考えていなかった。
彼が一番に望むもの。だってそれは、私の望むものではなかったから。
あの子は今際の際に置かれてもなお、彼の事を大切に考えていたのに、私にはそれができなかった。
私がしなければいけなかった事は、(あの子が喜ぶかどうかは分からないが)彼と一緒に病院へ行って、あの子の事を支えてあげることだったのだろう。
けれど、私はそうしなかった。それどころか、彼の心を踏みにじるような行動をしてしまった。
自分の身勝手のために。彼の苦しい気持ちを推し量る事も無く。
ああ、私は最低だ。
私は自分の愚かさにやっと気付き、頭がくらくらと歪んでいくような思いがした。
-
『○月×日
今日はあまり気分が良くない。
原因ははっきりしている。透析の後の貧血症状だ。
以前から時折、透析後に軽いめまいをもよおすことがあったが、最近は症状が重くなってきている。
からだの機能が衰えるというのはこういうことなのだろう。
少しずつ不自由な事が増えていく。
覚悟していたつもりでも、実際に体験すると正直、怖い。
せめてあともう少しもってほしい。まだわたしには、やりとげていないことが残っているから。
ベッドに横になっていると、いつもあの人の顔が思い浮かぶ。
わたしにが生涯でただ一人、想い続けた人。
わたしはあの人から、たくさんの大切なものを与えられてきた。
生きることの喜び。共に過ごすことの楽しさ。
つらいときは傍らで励ましてくれたし、悲しい時は優しく抱いてくれた。
叶わぬ恋だと嘆いたこともある。他にふさわしい人がいることも知っている。
けれども想いは募るばかり。今もまだ、わたしはあの人を求めている。
残された時間の全てを、あの人と共に過ごしたい。
それがわたしのわがままで、誰かを傷つけているとしても。
あの人の幸せとわたしの望み。相反するとわかっていても、気持ちを抑えることができなくなる。
こんなにからだが辛い時は特にそうだ。あの人に触れたい。温かな手で抱きしめてほしい。
優しい瞳で見つめてほしい。わたしだけの人でいてほしい。
わたしにはもう、時間が無いから。』
-
『○月×日
いよいよ明日。
わたしは帰宅する。
最後の帰宅……になるという確信がある。
わたしにはもう時間がないのだ。
ずっと、ずっと考えていたことがある。
子どもの頃から、今日この日に至るまで、一度も揺らいだことのない想い。
それは……わたしの生きる活力で、わたしの力の源だった。
そう、わたしは……とても大切なことを……ずっと抱いていた気持ちを……あの人に告白していない。
言えるかどうか分からない。けど、もし言えたなら……。
本当に、悔いを残すことなく幕を引くことができると思う。
あのアルバムのことを知ったから……呵責など感じていられない。
わたしには時間がなさすぎる。
ゆっくり悩む時間など、もうない。
あとは。
どうか、どうか勇気を出せますように……。』
-
遠くから、蝉の鳴き声が聞こえてくる。
紅茶の中の氷はすべて溶け、グラスの表面はびっしりと汗をかいていた。
私は紅茶を飲むことも忘れ、ただ茫然と本の表面に浮かぶ活字を眺めていた。
-
[つづく]
-
妹いい子やね…
このあと兄貴はずっと1人で過ごしていくのか…確かに心配
-
『○月×日
帰宅、した。
兄が可愛そうなくらいまじめに驚いて(この表現、実に的確だと思う)、わたしの小さな悪戯は成功に終わった。
ゆっくりと話して、のんびりとテレビ見て、ゆったりと休んだ。
そして今、ベッドの中でこうして日記を書いている。
穏やかだった。
二日しかない休み、その一日が何もせずに終わったわけで。
けど、ちっとも惜しいとかいう気持ちはなかった。
きっと……わたしはこういう時間を過ごしたかったから。
両親と会えなかったのはちょっと残念だったけど、そのかわりに兄がいた。
……兄は大学に行っていないのだそうだ。
そうやって自分の身を切るようにして、わたしの最後を演出してくれているのだろうか。
それは……正直、嬉しいことだ。
兄にとってわたしは、自分の人生の一部と引き換えにするほどの価値があるということだから……
この家で暮らせて、良かった。
いっぱいじゃないけど、楽しい思い出があって、優しい家族がいて……それで何の不満があるだろう。
もう恨みごとは言わないし考えない。わたしは、幸せだ。
明日が、良い一日でありますように。
終わり。
-
……寝られない。
少し、興奮しているのかも知れない。
さっき、兄が来た。
海へ連れていってくれると、言ってくれた。
海。そう、海。
見たことのないもののうち、もっとも大きなもの。
行ったことのない場所のうち、もっとも広い場所。
どうしよう、寝られない。
まだ、こんなに興奮することができるのだ。
こんなに明日が待ち遠しいと思えるのだ。
これはつまり、生きることが楽しいことの証というわけで。
わたしは、人生の最後の時間を、好きなように生きている。
-
……現在、深夜一時。
やっぱり寝つけない。
徹夜なんかして明日のために体調を崩したくないのに。
けど、今夜は妙に頭がすっきりしている。
もう少し、哲学してみよう。
-
死について。
どうして人は死ぬんだろう、死を恐れるんだろう。
このことを、わたしはずっと考え続けてきた。
正直、まだちょっと恐い。
死ぬこと。これはとても恐いことだ。
けど、人はいつか死ぬわけで、死ぬということは避けられない定めで。
アポトーシスで、進化の結末で、遺伝子の意思で、世界のことわりで、分子の停止で、細胞の死滅で、生きとし生けるものすべてのルールで……
けど、それは、どうしてだろう?
少し、考えてみます。
-
仮定1……死への恐怖は、ただ遺伝子の本能的なものである。
仮定2……死への恐怖は、繁殖を保護するためである。
……そうだろうか?
死は遺伝子によって決められて、それを恐れる心もまた遺伝子によって設計された。
ここに矛盾がないだろうか?
じゃあ……恐れって、何のために?
-
この前、興味深い意見を見つけた。
科学雑誌のコラムで、進化と遺伝子について扱っていた。
一つの個体が永遠に生きると、生物としての多様性が失われるという。
例えば、人間が冷凍睡眠して五百年後に蘇生したとする。
……似たような小説がある。あの素敵な猫が出てくる、外国のSF小説だ。
けど、あの小説みたいなことは起こり得ないという。
なぜなら、五百年後の世界は、今いる世界の延長線上に見えても、大気や細菌などの面で、今の世の中とはまったく異なる組成を持った未来だから。
そんな世界に、現代の人間は適応できないのだそうだ。
五百年間の世代交代で培った抗体を、現代の人間は持っていないから。
だから、きっとその人間に訪れるのは、輝かしい未来社会での生活ではなく……死。
こんな倫理観を持ち出すまでもなく、人はその時代を生きることが正しい。
-
死。
わたしはどういう風に死ぬんだろう。
わたしが死んでいく様子を、誰が見るんだろう。
そして、わたしは唐突に気付いた。
明日、海を見る。
ずっと見たいと思っていた。
それを、明日見る。
わたしはそのことに、とても満足できるだろうという確信がある。
そう……つまりそういうことだ。
人が死を恐れるのは、やり残したことがあるからなんだって。
だから、自分のなすべきことを終えた人は、安心して命をまっとうできる。
その時、人は死を克服できる力を手に入れる。
-
聖書に確かこんな一文があった。
死ぬ日は生まれた日に優るーーーー
何も知らずに誕生してくる日よりも、多くのことを知って、より大きな人間となって死に逝く日は、決して劣るものではない……確かそんな意味だったと思う。
わたしは……生まれた日よりは大きくなれたよね?
だから……だからね、お兄ちゃん。
わたしは臓器バンクにドナー登録をしました。
まだやるべきことがあるのに、死ななければならない人のために。
そんな人が、たった一人でも自分をまっとうできるように。
だから……ショックを受けないでください。
HLAが適合すれば、その相手は香奈ちゃんになると思います。
あの子には、まだ見てないものが多すぎるから。
願わくば、明日のわたしが、今日のわたしより優れた人間でありますように……。』
-
本の厚みも残り少ない。これが最後の日付だろうか。
静かにページを繰った。
-
『○月×日
今日、海を見た。もう恐くない』
-
あの子の日記に記されていたこと。
それは、彼への一途な想い。
相手の幸福を第一に願う、思いやり。
何よりも、自分の運命を正面から捉え、目を逸らす事のなかった心の強さ。
それらはみんな、あの子や彼のことを恨み、ただ悲嘆に暮れるだけだった私に決定的に欠けていたもの。
私は、自分が愛されることばかりを望み、愛を与えることを、彼を大切に思うことを忘れていた。
都合の悪い現実から目を背け、彼にも、自分自身にも向き合おうとしなかった。
あの子と私の違い。
あの子が選ばれ、私が選ばれなかった理由。
きっとそれは、私が本当の意味で彼を理解してあげられなかったからだ。
彼の心に寄り添うことをしなかったからだ。
-
あの子は、私よりもずっと強かった。
不治の病に苦しみ、長い間入院生活を強いられ、時には全身が痛みに襲われただろうあの子は、苦悩や絶望に苦しんだこともあったろう。
それでも、あの子は決して心の強さを失わなかった。
あの子が強くいられたのは、きっと兄である彼の支えがあったから。
そして、あの子も彼に与えられたのと同じように、彼の事を支えようとした。
いや、恐らくは彼にとって、あの子の存在そのものが心の支えだったのだろう。
二人は兄妹として、そして男女として、誰にも侵すことのできない深い絆で結ばれていたんだ。
互いが、互いの事を深く思いやることによって。
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ああ、悔しいなあ。
なんだか理解できてしまった。あの子の事、自分の事。
結局、私は一人でくるくる回っていただけだったんだ。
彼とあの子の間に入るには、私はあまりにも身勝手すぎた。
……私の負けだ。かなわないや、これは。
一年近く胸中にあった、わだかまりがすうっと消えていく。
ずっと心を覆っていた厚い雲が爽やかな風と共に晴れていき、暖かな日差しが差すのを感じていた。
涙は、出なかった。
私の長かった初恋は、今、終わりを告げた。
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ふと窓の外に目線を移す。青い青い夏空がどこまでも広がっていた。
きっとこの青空は天国にまで続いていることだろう。
「新しい恋をするときは、もっと上手に恋をしてみたいなあ」
誰に言うというわけもなく、ひとり呟いてみた。
新しい恋。私は、次はどんな恋をするのだろう。
どんな人を好きになるのか。それはまだわからない。
けれど、次はお互いを支えられるような存在になりたい。
相手のことを考えて、ただ求めるだけじゃなく、安らぎを与えられるようになりたい。
「……ふふふ。ね、加奈ちゃん」
気がつけば、私は彼と別れて以来一度も口にすることのなかった彼女の名前を呼んでいた。
自然と笑みがこぼれた。
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藤堂加奈。
彼の妹。
私のかけがえのない人が愛した、かけがえのない妹。
今はもう会えないけれど、一生心に残り続ける少女。
私は椅子から立ち上がり、ベランダの窓を開けた。
熱気を帯びた風がカーテンを揺らし、私の体をも包み込む。
そのまま手すりに両手をつけて、大きく深呼吸。
夏の暑い空気が体中を熱くしてくれる。今日は珍しく湿度が低いのか、全然不快な感じがしない。
空はどこまでも澄み渡っていて、一点の曇りも見当たらない。まさに快晴。
私の熱い季節は、まだ始まったばかりだ。
突き抜けるような大空に向かって、私は笑顔で囁いた。
「願わくば、明日の私が、今日の私より優れた人間でありますように……」
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【エンディング:あなたへ】
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[つづく]
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彼女の本を読み終えた翌日。
私は父に会いにために、久しぶりに病院へ行くことにした。
父に本を読み終えたことを伝えるためだ。
別に電話で伝えれば良かったのかもしれない。けれども、今の私は、父に直接気持ちを伝えたいと強く思ったのだ。
単純に会って顔を見たかったということもある。
あれれ、私ってファザコンなのかな。そんなこと一度も考えたことなかったけど。
彼と別れて以来、10ヶ月ぶりの病院。少し前まで、ここに再び来るなんて考えられなかった。
けれど、今はもう平気。
懐かしい感じがする入口を通り、私は1階の受付で父の名前を伝え面会を申し出た。
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今日はアポ無しで来たのですぐには会えない。
患者さんの診察の合間に時間を作ってもらわなくてはならないからだ。
父は責任ある立場だからしょうがない。というかこっちが突然押しかけてきたのだから、文句を言える筋合いじゃないのは分かっている。
私は外来受付で混みあう待合室の長椅子に座り、暫し待つことになった。
30分くらい経った頃、奥の通路からくびれたウエストが特徴的なナース服姿の女性が姿を現した。
「夕美ちゃーん、久しぶりじゃない。元気だったあ?」
語尾を少し伸ばす独特のイントネーション。懐かしいなあ、美樹さんだ。
彼女の担当看護師だった女性。彼女がまだ小学生だった頃から10年間見守り続けてきたという。
確か美樹さんが新人時代から担当していたはず。
きっと感情移入もひとしおだっただろう。美樹さんにとって、彼女は妹のような存在だったに違いない。
そういえばこの人も少し猫目だ。うーん、ちょっと親近感。
「先生ねえ、もう少ししたら時間できるから、先に応接室で待っててだって」
美樹さんはそう言うと、患者さんの家族に病状を説明するときに良く使われる応接室に案内してくれた。
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父が来るまでの間、私は美樹さんと雑談をして時間を過ごした。
私が小さいころに遊びに来た時の話とか、最近病院内であった出来事とか。
暫く会っていなかったせいか、次から次へと話題は尽きない。
なんだか久しぶりに長話をしたような気がする。美紀子お姉さんには一方的に攻められっぱなしだったしなあ。
けれど、美樹さんの口から彼女の話題は出てこない。
きっと一番に話したい事は彼女の事だろうに。私に気を遣ってくれているのだろうか。
もう自分の中では決着済みの話なのだが、それでもこちらからは何となく切り出しづらかったので、結局彼女の話はしなかった。
それにしても。
美樹さんとは随分長い付き合いだけど、この人は未だに20台前半の時と同じスタイルをキープしているように見える。
もう30歳を越えているはずなのに、初めて出会った頃、看護学校を卒業したての頃と体形がまるで変わらない。
グラマラスボディも肌の張りも相変わらず若々しい。看護師の激務と美容を両立させているのは驚異的だ。
何か秘訣でもあるのかな。まさか、夜な夜な若い男のエキスを啜り、美貌を保っているとか?
夜勤の合間、若い入院患者さんの病室に忍び込み、こっそりと上着をはだけさせ、そして白く細い指先を這わせて男性の下腹部に……うわぁ、インモラル。
ちょっ、本人目の前にしてこんな妄想しちゃいけません。ここカット、カットね。
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暫くすると父が来た。相変わらずきっちり髪形をセットした、生真面目そうな顔。
父は向かいのソファに腰を下ろすと、今日はどうしたんだと聞いてきた。
私はハンドバッグから例の本ー『命をみつめて』ーを取り出すと、この本を読んだことを告げた。
隣にいた美樹さんの表情が少し変わった。驚いたような、それでいて少し喜んだような顔。
父は『そうか』とだけ言って黙ってしまった。私が次に何を言うのか待っているようだ。
私は父の目を真っ直ぐ見つめて、自分の意思を強く込めた声で答えた。
「お父さん、ありがとう。私、この本に出会わなかったらずっと誤解したままだったよ、加奈ちゃんの事」
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彼女の名前を口にした時、胸が色々な感情でいっぱいになって、押しつぶされたような気持ちになった。
でもそれは決してネガティブな感情ではない。
幸福な気持ちと言うのとも違うけど、すがすがしいような、感謝のような、少しだけ切ないような。
その時、普段は仏頂面な父の口元が、ふっと緩んだ。
「ありがとう、お父さん」
もう一度私は言った。視界が少し歪んだ。
あれ、私泣いている?すこしも悲しくなんかないのに、なんでだろう。
一滴の涙が頬を伝うのを感じた。やだ、メイク崩れちゃうじゃん。
それでも涙は止まらない。むしろとめどなく溢れてくるような。
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涙を流している自分を自覚した途端、私の中に眠っていた父への思いが堰を切ったように流れ出てきた。
感謝。我侭放題の娘を優しく見守ってくれて、立ち直るのをじっと待っていてくれた父。
勝手に一人暮らし始めても咎めずに、むしろ教習を口実にした慰安旅行に出してくれたり。
それでも逃げ続けている私に、彼女の本を通して事実に向き合うことの大切さを教えてくれた。
ありがとう、お父さん。もう一度口にしたつもりが言葉にならない。かわりに呻くような声が出るばかり。
いつの間にかぽろぽろと涙をこぼした私は、まるで子どものように声をあげて泣き出してしまった。
隣では美樹さんがもらい泣きをしていた。
どのくらい泣いていただろう。
父は私の頭を軽く撫でてくれた後、さっさと仕事に戻っていってしまった。
相変わらず気のきいた言葉をかけてくれたりはしない。
不器用な人だなと、改めて思う。
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なんかカッコ悪いな。こんなところで、隣に美樹さんもいるのに取り乱したように泣いてしまって。
ようやく自分の様子を自覚できた私は、ガーゼハンカチで涙を拭い、深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。
そして少し気持ちが整理できたとき、私は気付いた。私はずっと、父に支えられていたんだという事を。
あの本の中で彼女の言っていた通り、人は支えてくれる誰かが必要なんだ。
私にとっては、父がそういう存在だったんだ。
心が折れそうになった時、深い絶望に包まれた時。
無条件の優しさを与えてくれる。そっと手を差し伸べてくれる。
支えてくれる人がいるという事は、こんなにも幸せな事なんだ。
私は、今まで父の支えになることが出来ていただろうか。父のために、何かをしてあげられていただろうか。
正直なところ自信が無い。ずっと、父に甘えていたばかりだったような気がするから。
こんなに身近な存在を思いやる事が出来なければ、誰か他人に愛を与えるなんて出来っこない。
だから、私は。
これからは、父に支えてもらうばかりではなく、私も父を、両親を支えていける人間になろう。
彼女の、兄への想いに負けないくらい。
それがきっと、私がこれからも前に進んでいくために、必要な事だと思うから。
私が思いを馳せていると、隣から美樹さんがそっと肩を抱いてくれた。
私は、自分も多くの人に支えられていたんだという事を知った。
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応接室を出ると、美樹さんは私に見せたいものがあると言い、病院の中庭に連れてきてくれた。
中庭にはリハビリや散歩をする患者さんが数人いたが、場所が病院だけに静かなものだった。
あるいは、連日続く夏の暑さで中庭に出る人が少ないからかも知れない。
なんだって毎日こんなに暑いのかしら。そう言えば、あの友人は今ごろ海のアバンチュールを満喫してるのかしらね。
美樹さんは遊歩道の脇、花壇のところに私を招くと、屈んで白い小さな花が咲いているところを指し示した。
ウメバチソウが小さな花をつけていた。
あの薄緑色の本に書かれていた花だ。
そうか、ちゃんと咲いたんだ。純白で可憐な、綺麗な花をつけたんだ。
思わず笑顔がこぼれた私に、美樹さんはこの花は去年彼女が植えたものであることを教えてくれた。
あの本の冒頭にも、ウメバチソウの写真があったことを思い出す。
きっと彼女のお気に入りだったのだろう。彼との思い出の花、なのかな。
そんなことを考えても、もう嫉妬心は湧かない。むしろなんだか微笑ましいような気持ち。
「この花を見てるとねえ、加奈ちゃんはずっと私たちの側にいるんだって、そう思えてくるの」
美樹さんはそう言うと、とても優しい目でウメバチソウを見つめていた。
私も一緒にその花を見つめた。私の目も美樹さんのような眼差しになっていたらいいな。
ウメバチソウの小さな花に向けて、私はそう願った。
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[つづく]
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そして、私はアルバイトを始めた。
今までずっと仕送り頼みの生活をしていたので、これからは自分の生活費ぐらい自分で稼ごうと思ったのだ。
働かざるもの食うべからず、って言うしね。ホントは誰かと一緒のご飯が一番おいしいんだけど、それは今は我慢。
とはいえ、学業優先なので家賃などすべて自分で稼げるほどバイトは入れられない。
もっと家賃の安いところに引越せば可能なのかもしれないけれど、そこまでしてバイトに没入するのは両親も望まないだろう。
引越と言えば、引越し屋のアルバイトって時給良いんだよね。時間の都合もつけやすいみたいだし。
さすがに女の私じゃ勤まらないと思うけど、こんなときは男性が羨ましい。
これは早いところ社会人になって自活できるようにならないとなあ。
とりあえず、今の目標はバイト代で両親を旅行に連れていくこと。
感謝の気持ちを込めて、自分で稼いだお金で親孝行したくて。
学生のバイト代だから、近場の温泉ぐらいになりそうだけどねー。
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バイト先に選んだのは駅前のファミレス。ポップな色合いとフリフリの制服が可愛と学内でも評判のお店だ。
や、制服目当てで応募したわけじゃなく、自分にできそうなアルバイトを探したらここになっただけなんだけど。
お客さん来店時の声だしから始まり、オーダー取り、厨房にメニューを伝えて、配膳して、会計。
帰った後の食器を回収しつつテーブルを拭いて、また接客。閉店後は店内を掃除して、翌日のシフトに変更が無いか確認して一日終わり。
労働経験のない私にとっては全てが新鮮でハード。
働いて賃金を得るってとっても大変なことなのね。改めて父の偉大さを痛感してみたりして。ちょっと大げさ?
でも、チームワークで働くのってすっごく楽しい。
今までは同じ学校の同級生が交友の中心だったけど、バイト先にはいろんな年齢のいろんな経歴の人がいる。
自分の知らない世界で生きてきた人たちとの交流はとても刺激的で、新たな視野が広がる思いがした。
もちろん楽しいばかりじゃなくて、仕事だから失敗をすれば叱られる。
正直初めの一週間はミスの連続で、周りにとても迷惑をかけた。
仕事には責任がつきまとう、ということを、文字通り体で学んだ。
テーブルにお水こぼした時は焦ったなあ。お客さんにかからなくて本当に良かった、うん。
割と裕福な家庭の一人娘だった私にとって、アルバイトはとても貴重な体験となった。
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バイト先には場所柄、知り合いが来店することも多く、美紀子お姉さんや先輩が来ることもあった。
美紀子お姉さんは、オーダーを取りに来た私の顔をじっと見つめると、ニヤッと笑い謎のサムズアップとコンパの時によく見せる真っ赤な舌なめずりを返してきた。
ええと、どういうことなんでしょう。あれれ、私食べられちゃうの?
などと戸惑っていると、お姉さんは楽しそうに目を細めて私の耳に口を近づけ、
「今度はうまい酒を飲もうよねー。あんたのおごりでさ」
などとのたまってきた。
私のおごりですか。いや、お姉さんには感謝してますけど、あのペースで飲まれるとバイト代一気に飛んじゃいそうなんですが。
学生にたかるのは止めていただけると大変有り難いんですけれども。
先輩は先輩で相変わらず、獲物を捕らえた鷲のような目つきで、私を劇団に引き込もうとマシンガン口撃を仕掛けてくる。
ここでは先輩といえどもお客さんなので、かつてのようにピストル応戦というわけにはいかない。
一方的に撃ち込まれる銃弾を、それも百戦錬磨のマシンガンをかわすのは至難の業だ。これってある意味営業妨害なんじゃないの?
先輩、ちょっともう本当に勘弁してください。私これでも忙しいんで。
そう、私は忙しくなっていた。単にバイトが忙しいという意味ではない。
白紙だったはずの私のスケジュールは、いつの間にか予定でぎっしりと埋まっていた。
ひとつの大きな山を越えた私には、色々とやるべきこと、目標ができていたのだ。
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ひとつは、病院のボランティア活動。
父に会いに行った日、美樹さんと雑談したときに病院の多忙さを聞いたのがきっかけだった。
病院では医療やそれに付随する行為のみならず、中庭の花壇の手入れや院内図書の管理、衣類やシーツの洗濯修繕など日々様々な業務が行われている。
特に近年は長期入院患者さん向けのメンタルケアが重要視されていて、お年寄りや子どもとの対話、遊び相手や身の回りの手伝い等、医師や看護師だけでは賄いきれないような仕事がたくさんあるとのことだった。
何か私に手伝えることはないだろうか。そう言うと、美樹さんは病院のボランティアを紹介してくれた。
私がはじめて担当したのは、入院児童向けの手芸教室だった。
昔から手芸人形を作るのが趣味だと言ったら、丁度講師を探していたと言うことで頼まれたのだ。
私にとって手芸と言えば羊毛フェルトの人形作りなんだけど、未経験の子がいきなりやるのは大変なので、
市販のあみぐるみキットを使って、ひよこや小さな昆虫なんかの人形を作ってもらうことにした。
それにしても、私が子どもの頃はこういう教室はやってなかった気がする。割と最近取り入れたのかな。
もし彼女が幼い頃に教室があれば……なんてことを考えてみたり。
いやいや、別に変な気持ちがあるわけじゃなくて、ちょっとでも入院生活に彩りを持たせてあげられたんじゃないかって思っただけよ。
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入院している子は男子もいるはずだけど、さすがに手芸教室となると参加者は大半が女の子だった。
まあ、それはそうだよねえ。男の子だったら、同じ作るでもロボットのプラモデルとかになるのかな。
そう言えば小学生の頃、学校にプラモデル持ってきてた子がいたような。あれ持ってきたの下田君だっけ?
何のロボットかは分からなかったけど、やっぱり男の子は可愛いよりカッコいいほうが好きなんだろうなあ。
唐突に小学生の時、彼の下駄箱に手作り人形を入れた事を思い出した。
あの年代の男子が夕美ちゃん人形なんて貰っても戸惑うだけだよねえ。ああ若気の至り。はふう。
それはさておき。
手芸教室に来てくれた女の子達は、小さな手で一生懸命かぎ針を扱いながら、真剣にあみぐるみに取り組んでくれた。
はじめのうちは慣れない手つきで悪戦苦闘しながらも、段々と形ができてくるに従い目をきらきらと輝かせて、
可愛いひよこが出来上がると達成感で一杯の笑顔を見せてくれた。
うんうん、わかるよその気持ち。ひとつ人形を完成させると、こう、成し遂げたー!って感じになるんだよね。
そして次はもっと良いものを作りたい、また新しいものにチャレンジしたいと思って、段々ハマっていくのよねえ。
あみぐるみなら病室でも作れると思うし、もっと色々なものを作りたいという気持ちが、
入院生活の支えになって、さらには病気に打ち勝つ力になってくれるととっても嬉しいなあ。
そう言えば、最近は羊毛フェルト人形も久しく作っていないなあ。
最後に作ったのっていつだっけ。夕美ちゃん人形セクシー版を作ったのは覚えているんだけど。
そうだ、今度は両親の人形を作ってみよう。それで二人の結婚記念日にプレゼントするの。うん、これって名案じゃない?
ありきたりた既製品より、手作りの贈り物で。今まで立派に育ててくれた両親に感謝を込めて。
人形なんて子どもっぽい?いやいやそんなことはないのです。こーゆーことは気持ちが大切!
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もう一つは私の夢。ぼんやりとした目標だった、弁護士への道を本気で目指そうと決めたのだ。
元々肝心なところで流されやすい性格の私は、自分の意見をはっきりと主張する人に憧れていた。
それがなんで弁護士になったのかと言うと、子どものころに見たドラマがきっかけだけど。
私って単純?いやでも、何かを目指すきっかけって、案外こんなものよね。
だって法廷で検察官に対峙する姿、カッコいいじゃない。あの俳優さん好きだったなーそう言えば。
でも今は、法廷弁護士より社会的に弱い立場にいる人、困っている人に寄り添えるような弁護士になりたいと思っている。
自己満足というか、代替行為なのかもしれない。
彼の辛さを分かってあげられなかったこと。彼女の苦しみに手を差し伸べてあげられなかったことへの罪滅ぼしの意識が無いとは言えない。
でも、それでかまわないと今は思う。自分に何ができるか。何をしなければならないか。
もう後悔はしたくない。後ろを振り返りたくはない。
過去の過ちに苛まれるのは止めて、前を向いて歩くことを大切すると決めたのだ。
だって私は、生きているんだから。
そうと決めたら俄然勉強は大変になる。
今までだって真面目に勉強してきたつもりだけど、何せ相手は司法試験だ。
生半可な努力じゃ太刀打ちできないことは承知の上。
独学でどこまでいけるかは分からないけど、やるだけのことは全部やってみよう。さあ、今日もお勉強、頑張りましょう!
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……と、意気込み取り組む事数時間。
さ、さすがに脳みそフル回転させると疲れちゃうね。あー、なんだか目がチカチカするー。
よし、ちょっとティーブレイク。そういえばこの間輸入食品のお店で買ってきたスコーンがあったっけ。
紅茶を入れて、しばし午後の優雅な一時を楽しみましょうか。
ケトル(やかん、とは言わないの。こーゆー時は)でお湯を沸かす間にポットと茶葉を颯爽と準備。
今日のセレクトはアッサムティー。茶葉は飲み方にあったのを選ばないとねー。
沸騰寸前で火を止めて、まずはカップにお湯をとぷとぷ。
ポットに勢い良くお湯を注いだところで、温まったカップにミルクインファースト!
茶葉を濾しながら紅茶を注げば、香ばしい特上ミルクティーの出来上がりー♪
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んー、よきかなよきかな。晴れた日の午後にゆったりと紅茶を楽しむなんて、贅沢の極みですわー。
吐息もなんだか幸せな音。スコーンに蜂蜜を乗せて食べれば、口内に広がる甘ーいお味もたまりません。
はぁ、体が幸福感でとろけてしまいそう。
そう言えば私、いつの間にか甘党復活してるような。
ついこの間まで紅茶は微糖オンリー!なんて思っていたのに、今やすっかりミルクティー派。
年と共に味覚は変わるって言うけど、あれれ、もしかして私幼児退行してる?
そんな事はない、と思いたいけど、実際どうなんだろう。
両親から見れば私なんていつまでも子どもなのかも知れないけど、いやいや、私だって成長してる!はず。
そう、立派な大人にならなきゃなのだ!そのためにも今は勉強、頑張らねば!
ようし、ティーブレイクこれで終わり!さぁ引き続き気合い入れて行ってみよー!
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[つづく]
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乙です
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エンディング名は忘れたけど加奈の墓の前でボイスレコーダーに保存されてた
加奈の遺言聞くのはマジで涙腺崩壊させられたな
D.O.ももうなくなったし寂しい限りだわ
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>>207
ボイスレコーダーは、ノーマルエンドですね。
あれは泣けます。自分も涙ボロボロでした。
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相変わらずうだるような暑さが続くある日の事。
『職員さん達が夏バテで倒れちゃって大変なのー!』
美樹さんの悲鳴を聞き、私は病院の手伝いに駆けつけた。
夏バテ、と言うとなんだか虚弱っぽい印象もあるけど、美樹さん曰くこれは中々難しい問題で、
冷房の効いた室内と暑い戸外を往復してると身体の体温調整がうまくいかず、体を壊してしまうんだとか。
院内は良く冷房が効いているけど、職員さんは院外に出る用事も多いので、
忙しく働いているうちに夏バテしてしまうらしい。職員さん、大変だなー。
それでも、多少食欲が落ちる程度ならまだ良いのかも知れないけれど、
症状が重くなると吐き気や下痢、熱や頭痛などを引き起こし、
酷い場合は自律神経が機能低下してパニック障害に近いことになってしまう人もいるそうな。
うーん、夏バテ恐るべし!
予防方法は良く言われているように、十分な睡眠と栄養補給、あとミネラルを含んだ水分摂取。
食べ物はビタミンB1が多く含まれているものを摂るのが良いそうだ。
ビタミンB1と言えば、うなぎとか豚肉、レバーなんかにあるって聞いたなー、そういえば。
うなぎ、はちょっとお高いから、豚肉が良いかなあ。あー、なんだか野菜炒めとか食べてくなってきたなー。
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それはともかく、今は病院業務のお手伝い。これもボランティアの役目の一つだね。
気合いを入れて頑張るぞー!と、美樹さんの前でニッコリ笑顔で腕まくりをして見せたりして。
みんなが大変だと思っている時ほど、元気アピールして場を盛り上げるのも大切なんです!
とはいえ、医療事務の経験も知識もない私にレセプトの処理なんて出来るはずもなく。専ら裏方作業に従事することに。
裏方、と言ってもこれがかなりの労働で、シーツや着替えの洗濯、病院食の回収片付け、院内の細々とした清掃等々……。
次から次へと頼まれる用事のあまりの忙しさに、比喩でなく本当に目が回ってしまいそう。ひええ。
こ、これは確かにバテるかも知れない。最近はバイトで働く事にも慣れてきたはずなのに、ちょっとこれはキツイですわー。
いやいや、患者さんが安心して入院できるその裏には、お医者さんや看護師さんのみならず、職員さん方の大変な労苦があるものなのね。
もし万が一自分が入院するような事があれば、職員さん達にも感謝を忘れないようにいたしましょう。
何度も院内を往復して手足が棒のように感じるさ中、私はそんな事を考えていましたとさ。
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朝から猛烈に働き尽して、気がつけば午後の3時。
やっと雑務も片付いてきた。あ、そう言えばお昼ご飯食べていない……。
なんか途中で美樹さんに声かけられた気はしたんだけど、目前に積まれた洗濯物の山を片付けるのに精一杯で、自分の事なんて全然気が回らなかった。目は回っていたけど。
あー正しい食事サイクルが……。でもいいや、今日は。
こーゆー時はお仕事優先。とりあえず一日だけだし、ちょっとぐらい無理したって大丈夫でしょ。
と考えたところで、さっきの夏バテ話を思い出す。
この『ちょっとぐらい大丈夫』という油断が体に疲労を蓄積させて、すこしずつバランスを崩して夏バテにつながっていくのかも。
うん、それは十分あり得そう。若いからといって過信は禁物なのかな。お肌のお手入れとおんなじで。
やっぱり、ちゃんと食べないと駄目かも。
ここで私まで倒れたりしたら、なんかミイラ取りがミイラというか、そんな感じになっちゃう。
何より、美樹さんが責任を感じちゃったりするかも知れない。それは良くない。
よし、じゃあ一旦区切りをつけて、休憩する事にいたしましょう!
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美樹さんに一声かけて、私は遅いランチを取るために院内の食堂を訪れた。
ランチというよりおやつの時間だよねー本当は。
まぁそれは良いとして、果たして何を食べようか。食品ディスプレイの前で、ひとりうーんと唸り声を上げる私。
ここは外来の人が使う食堂だからか、メニューが豊富に揃っているのがポイント高し。
様々な料理が再現されたディスプレイに思わず目移りしてしまう。なんだかどれもこれも美味しそーう。
疲れた時は元気つくものが良いよねぇ。お、あるじゃないですか野菜炒め定食。しかも何だか肉多め!あ、名前が肉野菜炒めってなってる。
これならビタミンB1補給できるしお腹も膨れてバッチリね!
油使ってても野菜炒めは案外カロリー低いし(これは肉多めだけど)、夏バテ予防という大義もあるし。
ちょっと時間が不規則気味なのが不安だけど、食べられる時にモリモリ食べておくことはとっても重要なことよね。うん、そうに違いない!
そう食堂の前で自分を納得させる作業をしていると、隣から「チョコレートパフェがいい!」という甲高い声が聞こえてきた。
チョコレートパフェ!そんな素敵なものまであるというの!
疲れた時には糖分補給が大事よねぇ。
野菜炒め定食+チョコレートパフェ。パフェが加わった途端、カロリー的には大変な数値を叩き出しそうだったが、私の頭はあっという間にこれらの食べ物達に支配されていった。
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ああ、野菜炒め美味しー。疲れ切った体に活力が戻ってくるー。
すんでの所でチョコレートパフェの誘惑を回避した(その代わりにあんみつを注文したのは内緒だ)私は、8時間ぶりとなる栄養摂取に歓喜の舌鼓を打っていた。
空きっ腹に食べ物が満たされていくこの喜びは何物にも代えがたい。人間、この瞬間のために生きていると言っても過言ではないほどだ。
私が食べる喜びに打ち震え感涙にむせていると、近くのテーブルから先程の少女の嬉しそうな声が聞こえてきた。
少女は予告通りチョコレートパフェを食べているようだ。ああ、やっぱりいいなあチョコレートパフェ。いやいや、このあんみつも中々の逸品ですぞ!
と、良く冷えた寒天とみかんを口の中へコロリ。うーん、シアワセ。
少女は元気いっぱいで、口の周りにクリームをべったりと付けながら大きな声で笑っている。
うん、元気なのはとても良いことだけど、場所が場所だしもう少し静かにした方が良いんじゃないかなあ。
そう私が思っていると、さすがにバツが悪いと思ったのか、父親らしき人が少女を窘めるように口を開いた。
「こら、カナ!ここは自分の家じゃないんだから、もう少し静かに食べなさい」
……カナ?
少女の名前を耳にした途端、箸を持つ私の手が止まった。
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カナ、カナ……加奈。
その名前は、私にとってあまりにも大きな存在を示す響きだった。
藤堂加奈。
彼の妹。
かつては酷く妬んだこともある、絶対に敵わない恋敵だった少女の名前。
でも今は、彼女の事も、自分の事も良く理解できたから、恨み辛みを言うつもりもない相手。
むしろ、彼女のために何もしてあげられなかった自分への、僅かな罪悪感さえ感じさせる響き。
今、私と同じ空間に、カナと呼ばれる少女がいる。
赤の他人だ。見た目だって、彼女は綺麗な長髪だったが少女はツインテールというにも短すぎるヘアスタイル。
それに、彼女はあんなに騒々しくない。
それなのに、私の心臓は早鐘を打つように激しく鼓動していた。
気付いたら箸を置いていた。私の双眸は、少女の一挙手一投足に釘付けになっている。
どうしてだろう。自分でも分からない。ただ、私はあの少女の中に、何か言葉で説明できない繋がりを感じている。
少女はパフェを食べ終わったようだ。父親とともに会計をして食堂を出ようとしていた。
……追わなきゃ!
なぜそう思ったのか。私は食べかけの食事に目もくれずに、慌てて席を立った。
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会計にもたつき、少女の姿を見失ってしまう。ああもう、こんなタイミングでレジの釣銭切れだなんて!
食堂を出て、慌てて少女を探し出そうと周囲を見渡してみる。院内は診察を受ける人たちで混みあっているが、少女の姿は見当たらない。
あの様子ならきっと診察は終わっていたのだろう。なら後は受付で会計か、もしかしたら帰っているかも!
思いつくや否や、両足が自動的に動き出す。
私は少女を探し出して、一体何がしたいのか。その理由は自分でも理解していない。
ただ、私は少女に会わなければいけない。そんな根拠のない責務のような感情に駆り立てられていたのだ。
早足が、次第に駆け足になる。行き交う患者さんにぶつからないよう気をつけつつ、病院内はお静かに、という貼紙を横目に。
ごめんなさい職員さん。
もうすぐ受付、そして出口。視線をカウンターから出口に移すと、ちょうど自動ドアの脇の所で、美樹さんと話をしている親子の姿が見えた。
やった、少女はもう間近だ!
しかし、そう思ったのも束の間、親子は会話を終えたのだろう、並んで手を繋ぎ病院の外へ出て行ってしまった。
……一歩、遅かった。
軽く息を切らせた私を見つけた美樹さんは、
「夕美ちゃん、どうしたの?ちゃんとご飯食べたあ?」
と、いつもの語尾を伸ばした口調で問いかけてきた。
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今、美樹さんと話していた少女は誰なのか。
それを聞いてどうしたいのかを自分でも理解できないまま、私は美樹さんに尋ねた。
美樹さんは少しきょとんとした顔で、でもその後に何かを得心したような表情になって、私の問いかけに答えてくれた。
「あの子はねぇ……霧島香奈ちゃん。亡くなった加奈ちゃんの姪っ子よ」
姪っ子?彼女の?それってもしかして……
「そう、加奈ちゃんの肝臓の移植を受けた子よ。あの子も重度の肝炎を患っていたけど、移植を受けて元気になることができたの」
移植!そうか、あの薄緑色の本に書かれていた香奈ちゃんが、あの少女だったんだ。
肝臓、移植……あの少女の中に、彼女の一部があるんだ。生きているんだ!
わぁ!わぁ!凄い!凄いよ美樹さん!生きているんだ、香奈ちゃんの中に、加奈ちゃんが!あんなに元気いっぱいに、生きているんだ!
病院という場所の事もわきまえず、叫ぶような声ではしゃぐ私。周囲の冷たい視線も目に入らない。
美樹さんは驚き、困ったような顔をしていたが、やがて、
「そうね……本当に凄い事よね。とても素敵な事だと思うわ」
そう言うと、両手でそっと私の手を握り締めてくれた。
出口から差し込む夏の日差しは、まるで希望の光のように私達二人を照らしていた。
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[つづく]
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アルバイト、病院ボランティア、司法試験。
様々な目的や目標ができた私の夏は、あっという間に過ぎて行った。
それは、一年近く止まったままだった青春の時間を取り戻すかのようだった。
そう、今振り返れば、私はあの日、彼と別れて以来ずっと立ち止まったままだった。
失恋の痛手に嘆き、彼を恨み、彼女を妬むばかりだった。
支えてくれる人たちの存在に気付かず、いたずらに自分を孤独の淵に追い込んで、悲劇のヒロインを演じているだけだった。
自らを省みることなく、ただ外的要因に責任を求めるばかりだった。
でも、もうそんなのはお終い。
だって時間が勿体無いもの。
いのち短し恋せよ少女(おとめ)、って言うじゃない。何だっけ何かの歌だっけ。
ともかく、今は出来ることを精一杯やって、毎日を目一杯楽しんで、素敵な女性になれるように頑張んなきゃ。
いつかめぐり会う、新しい恋のために。
一方的に求めるだけじゃなくて、お互いを理解し尊重し、依存するんじゃなくて支え合えるような恋をしたい。
困難な現実から目を背けずに、きちんと正面から向かい合える人間になりたい。
誰かを助けられる人間でありたい。
私よりもずっと小さくか弱くて、けれどもずっと強くて純粋だった彼女の分まで。
ねぇ、加奈ちゃん。
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夏の終わり、と言ってもまだまだ暑さの抜けきらない夜。
新しい恋を探すというわけじゃないけれど、ちょうどアルバイトが休みだし、勉強の息抜きもしたかったので、数年ぶりに地元の夏祭りに行くことにした。
久しぶりだったので地元の友人を何人か誘ってみたけど、みんな『彼氏と一緒なんだけど良いー?』なんて言うもんだから、こちらから丁重に辞退させていただいた。
ふんだ、そんな野暮な事はいたしませんよ。いいの、一人でだって遊びまわる女だもん、私。
折角の夏祭り。こーゆーときはトウゼン!女の子だったら可愛い浴衣着たいよねえ。
というわけで、神社に行く前に実家に寄って、母に浴衣を着付けてもらうことにした。
でも、着付けくらい自分で出来るようにならないとねえ。自立云々じゃなく、女のたしなみとして。
高校時代にも着たことがある、薄い桃色の浴衣。
浴衣だからサイズはあまり関係ないけれど、それでもちゃんと着られたことがちょっと嬉しかったりして。
まあ胸だけはきつくなっても良いんだけどさ。胸だけ、ね。
今日は珍しく父もいたので、くるりと一回転して娘の麗しき浴衣姿を見せつけてあげた。
どう、似合ってる?なんて聞いても生返事しか返してくれないけどね。
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普段は殆ど人通りのない神社の前も、この時ばかりは多くの人波でごった返す。
まるで町内の人全員が祭りに集合したんじゃないかと思うほどだ。
居並ぶ屋台を裸電球の照明が照らし、辺りは人の熱気と喧騒と祭囃子と食べ物の匂いが混然とした、一種独特の雰囲気に包まれていた。
お祭りといえばやっぱり屋台よねえ。お好み焼き、あんず飴、焼きそば、たこ焼き。
普段はあまり選ばないような食べ物達が、この時ばかりはとても魅力的な輝きと香ばしさを放っている。
うーん、どれからいただきましょうかねー。浴衣のサイズと相談しながら、ベストチョイスをしなくちゃねー。
すっかりハラペコモードになった私の横を、幾人もの人がどんどん通りすぎていく。
すれちがう人たちでの中には子どもたちのはしゃぐ声に混じって、カップルの仲睦まじい笑い声なんかも聞こえたりして。
ふ、ふんだ。べ、べつに羨ましくなんてないんだからね。
まあいいや。今は花より団子、色気より食気だね。
などと考えながらたこ焼きの屋台を覗いていると、横から少しダミ声の男の子に声をかけられた。
ええっと、これナンパかな?ドキドキしながら声の主に顔を向けると、相手はカップル風の男女。
えー、カップル様が私ごときに何のご用でしょうかー。
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声をかけてきたのは私と同じくらいの年の、やや浅黒い肌でやんちゃそうな男の子。
黒い甚平を着て背中に何か荷物を背負ってるけど、それが何かは薄暗い中では良くわからない。
隣には茶髪で少し釣り目の派手目な女の子。あの赤い浴衣、私には派手すぎてちょっと着れないなあ。
「鹿島ー、おまえ久しぶりだなあ。高校卒業して以来か?おまえ女子大行ったんだっけ?良いなー女子大生いっぱいって、羨ましイテテッ」
男の子が最後まで言い終わらないうちに、女の子が男の子の頬をきつーくつねった。
なんだろう、この漫才。
それにしても、ええと、誰だっけ。
なんかこのノリ覚えがあるような気がするけど。
色黒でやんちゃで女の子にちょっかいかけて……。
あれ、もしかして下田君!?
「おうよ!なんだ一発で思い出してくれよー寂しいじゃねえか」
あはは、でも一緒の学校といってもずっとクラス違ったし、卒業以来会ってなかったから分からなかったわ。
ごめんなさいねー。
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そっかー下田君も彼女連れなんだね。大変充実した人生送ってらっしゃるのねえ。
良いですねえ本当に羨ましいですわあ。
などと話していると、突然赤ちゃんらしき泣き声が辺りの喧騒よりも大きく響き渡った。
どこから?と考えるより早く、下田君が『よしよし』と言いながら体を上下にゆすり、女の子が下田君が背中に抱えている何かをあやしだした。
え、その背中の荷物って、もしかして、赤ちゃん?
「あーまだ人混みん中はビビっちまうか。やっぱお袋に預けてきた方が良かったかもなあ」
下田君は私が口をパクパクさせているのに気付くと、二カッと笑いながら背中の赤ちゃんを私に見せてこう言った。
「おう、まだ挨拶させてなかったな。これ、うちのガキな。どうだ、可愛いだろう?」
え、え、えーーーっ!?
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話を聞くと、下田君は高校卒業後に自動車整備工場に就職したのだが、そこで知り合ったお客さんの娘(つまり、隣にいる女の子)と深い仲になり、そのまま結婚したのだそうだ。
いわゆるデキ婚ってやつだ。赤ちゃんは4カ月になるらしい。
いやいや、就職したの去年の春でしょ。赤ちゃん生まれるのに十月十日で、今4カ月。なんか色々早すぎない?
呆気にとられる私をよそに、下田君は赤ちゃんを奥さんに渡して、自分は赤ちゃんの頬をつついたり指を握らせたりして遊んでいた。
奥さんは赤ちゃんを優しく抱いてゆりかごのようにしてあやしている。
一見派手で気の強そうな奥さんだけど、赤ちゃんを見る目はとても優しくて母性にあふれていた。
ああ、親になるってこういうことなのかなーと思ってみたり。
親、かあ。私も赤ちゃんのころは、両親にこうしてあやしてもらってたんだろうか。
父のそういう姿って、なんか想像できないけどなあ。
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さすがに人混みの中での立ち話は大変なので、境内の少し空いているところに移動することにした。
途中で食料はきっちり補給させてもらった。たこ焼き、とってもデリーシャス。
あーもうなんで屋台の食べ物ってこんな美味しく感じるのかしらね。
お次は何を食べましょうかね。私のお腹は、まだ若干の余裕があるように感じられますゆえ。
なんて、あふれる食欲は一旦置いといて。
奥さんの胸の中ですやすやと眠る赤ちゃんがあまりにも可愛いので、私も抱かせてもらうことにした。
そーっと、そーっと奥さんから赤ちゃんをお預かり。起こさないように、慎重にね。
うわあ、何これすごくちっちゃい。そして軽ーい。指なんてわたしの何分の一もなさそう。
何このプルプルなお肌。とってもすべすべつやつやで、もう張りがあるってもんじゃない。
生え始めた髪もさらさらで、撫でるとまるで風が通り抜けたように掌を滑ってく。もちろん枝毛なんてあるわけがない。
わあわあ、何だか羨ましい。せめて肌だけでも赤ちゃんのころに戻りたいなあ。
ねえねえ、ちょっと分けてくれないかなあ。
私が夢中で赤ちゃんと遊んでいると、下田君はいつもの軽い調子で、でも少しだけ真剣な色を漂わせて話を切り出した。
「なあ鹿島。おまえ最近、隆道と会ってるか?」
下田君の口から突然出てきた名前に、私はびくりと体を震わせた。
-
隆道ーーー
藤堂隆道ーーー
私の初恋の人の名前。
はじめての人の名前。
ずっと求め続けて、一度は手にしたと思ったけれど、本当の意味で心を通わすことが叶わなかった相手の名前。
恋破れ、失った相手の名前。
もう、全てを納得したはずだった。
彼女との絆に前には私の立ち入る隙は無かった。はじめから実ることのない恋だった。
私が身勝手だったから、彼を支えてあげる事が出来なかった。
薄緑色の本を読んで、それらをはっきりと理解したはずだった。
それなのに、どうしてだろう。
彼の名前を聞いただけで、私の心は水面に石を投じられたかのように激しく波打ち、波紋が広がっていく。
心の動揺が伝わってしまったのか、腕の中の赤ちゃんが再び泣き出してしまった。
私があやしても泣きやんでくれそうになかったので、奥さんに渡して代わってもらう。
お母さんの腕に包まれると、その温もりに安心したのか赤ちゃんは程なくしてすやすやと寝息を立て始めた。
-
「おまえさ、隆道のこと好きだったじゃん。どうかな、ちょっと会って励ましてやってくれないか」
下田君は私たちの事情を知らないから、ちょっと会ってなどと気軽な事を言う。
もう終わった恋なのだ。今更どうやって彼に会うことなどできるだろう。
大体、私が彼の事を好きだったことを、下田君は何故知っているのだろう。
不思議に思った私は下田君にそのことを尋ねてみた。
「そんなもん分かるに決まってんじゃねーか。おまえさ、隆道を追って双葉に進学したんだろ。
おまえの成績ならもっと上狙えたのにって、みんな言ってたんだぜ」
ええ、そんな前からバレてたの。誰にも言ったことないのに。
ひょっとしたら彼にもバレてたのだろうか。
「まあ隆道は気付いてなかったみたいだけどな。鈍いっていうか、ほら、小学生の時のアレあったじゃん。
やっぱアレのせいでおまえの事避けてたから、気付くもんも気付かなかったんじゃねえかな」
ああ良かった。いや良かったのかな。でも重い女だと思われたら悲しいし。
実際重いとは思うけど。
小学生の頃の初恋を、ずっと引きずり続けてたくらいだし。
-
「でもよー、いい加減時効だと思うんだよなーガキの時の話なんて。いつまでもそんなの引きずっててもしょうがないぜ。
大体そんな昔のことを言ってたら俺なんて償いきれないくらいの前科が……イテテッ、つねるなつねるな!」
「ン……まぁ、それよりも今を前向きに楽しんだ方がずっと良くね?ほら、ケンセツテキってやつ?
まあおまえの気持ち次第だし、もし今は彼氏いるってんだったら無理強いはしねえけどさ」
下田君は明るい調子で語りかけてくる。気持ちなんて、もう破局したのに今更どうしろというのだろう。
私が戸惑っていると、下田君は表情を変えて、今度は本当に真面目な雰囲気で話を続けた。
「加奈ちゃん、知ってるだろ。隆道の妹。去年加奈ちゃんが亡くなってさ……。
あいつ、半年ぐらい引き籠ってたんだよ。
通夜の時とかも心ここにあらずって感じで。俺とか昔のダチが電話しても殆ど話にもならなかったりしてさ。
そんで春ぐらいからかな。少しずつ元気出てきたっつーか、四天王集結して遊びに行ったりしたんだけど、まだ何か違うんだよ。
見た目には大丈夫そうなんだけどよ。上手く言えないけど、あいつの中に欠けてるもんがあるような、そんな気がするんだ」
遠くから祭りの喧騒が聞こえてくる。
誰かが吹いた笛の音や、大きな笑い声や、屋台で使う発電機の音が、突然突きつけられた事実に揺れる私の心を掻き乱した。
-
下田君が語る、今の彼。
私と別れた後の、私の知らない彼の姿。
小学生の頃から彼の事を見つめ続けていた私が知らない、現在の彼。
彼は今、苦しんでいるのだろうか。
彼女が亡くなった喪失感を埋めきれずにいるのだろうか。
図らずも生前の彼女が危惧したように、支えを無くした状態なのだろうか。
彼は、あの子を亡くして以来、立ち止まったままなのだろうか。
ふと、あれだけ騒がしかった祭りの喧騒が消えたように感じた。
その瞬間、下田君がじっと私の目を見つめながら言った。
「なあ、どうなんだ?鹿島は、今でも隆道のこと好きか?」
隆道のこと好きか?
隆道のこと……
下田君の言葉が耳にこだまする。彼の事を好きか、だって?
そんな事、私は、私は……!
-
[つづく]
-
気がついたら、私は実家の自室のベッドに横たわり、ぼんやりと天井を見上げていた。
どうやって帰ってきたか覚えていない。いつ下田君たちと別れたのかも記憶にない。
何故実家に帰ったのかもわからない。ああそうか、浴衣借りたから返すのに実家に戻ったんだ。
でも何でそのまま実家にいるんだろう。
さっさとマンションに帰れば良いのに、何でまだ実家にいるんだろう。
茫洋としていると、先ほどの下田君との会話が頭の中に渦巻いてくる。
彼女を失い何かが足りない様子の彼。
唐突に突きつけられた、今の私の気持ちの在り処。
私の中で、心の奥底に押さえつけてきた何かが、ふつふつと湧き上がるのを感じていた。
彼は、彼女を愛していたんだ。
二人の間に立ち入ることはできない。自分の事しか考えていなかった私には、彼を愛する資格はない。
それが分かったから、私は諦めたんだ。
そう納得したんだ、自分の中で。
だから、私は彼に会うことができない?
本当にそれで良いのだろうか?それは自分の心に正直に向き合った結論なのだろうか?
先輩の芝居の中のライバルは、兄妹の事を笑顔で祝福していたじゃないか。
私はまだ、自分の心の問題から逃げているのだろうか。
ひとり宙にむけて問いかけても、当然答えは返ってこない。
祭りの喧騒から遠く離れた部屋は、ただしんと静まり返っているだけだった。
-
一時間ほど経っただろうか。
沈黙を破ったのはドアをノックする音だった。少し間をおいて返事をすると、父が私の部屋に入ってきた。
どうしたんだろう、こんな時間に。
父は一冊のファイルを私に渡すと、すぐに部屋から出ていってしまった。
飾り気の無い、いかにも事務用品然としたファイルだ。背表紙には『XX年度活動報告』と書かれたラベルシールが貼ってある。
開いてみると、何かの会報のような書類が綴られていた。
表紙に目を通してみると、それは病院ボランティアが季節ごとに発行している活動報告だった。
父は何故これを持ってきたんだろう。
私がボランティアを始めたことは知っているから、今後の参考にしろということなのだろうか。
でも、今の私は正直なところ、何かを読んだりする気分じゃない。
けれど、父が持ってきてくれたものなら、それはきっと大切なものなのだ。
私は萎えた気力を精一杯振り絞って、病院ボランティアの活動報告を読む事にした。
-
『中庭でお花見をしました』『七夕の飾り付けをしました』……
活動報告には、ボランティアが催している様々なイベントが、患者さんの笑顔の写真とともに記されていた。
このファイルに綴じられているのは、どうやら去年一年間の分をまとめたもののようだ。
活動報告を読んでいると、ボランティアの人たちと患者さん達が一体となって、入院生活を少しでも楽しいものにしようという思いがとても強く伝わってくる。
病気と闘うのは大変な事だけど、だからこそ誰かが傍にいて、一緒に笑ったり何かをする事は大切な事なんだ。
手芸教室で、自分で完成させたあみぐるみに目を輝かせていた女の子達の事が思い浮かぶ。
私は、少しでもあの子達の苦しさを和らげてあげられただろうか。
きっとできていたと信じたい。そして、これからもあの子達の力になってあげたい。
ボランティアの活動に思いを馳せているうちに、私の沈殿した心は少しずつ明るさを取り戻していった。
単純?でも良いんだ。今は私にできる事を精一杯やろう。そう決めたんだから。
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さて、もうすぐ秋。秋はどんな活動をしているのだろう。
ファイルをめくり、秋の行事の箇所を探して読んでみることにした。
まずはお月見の会。
夕食後に談話室の窓からみんなで月を見ながらお団子を食べていた。
次は絵画教室。こっちは芸術の秋。
絵画と言ってもみんなで楽しく好きなものを描くという感じ。子どもたちのクレヨン画、楽しそう。
ウチのボランティアはいろんなイベントやっているんだなあと感心してしまう。
長期入院の患者さんが多いからかもしれない。
ずっと病室で過ごすのはストレス溜まるだろうし、楽しいことを沢山するのはとても大切なのだろう。
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10月はお彼岸。亡くなった患者さんの事を語り合う、思い出会の様子が綴られていた。
病院には様々な病気を抱えた多くの患者さんが入院している。
全ての患者さんを救えれば良いけれど、残念ながら亡くなる患者さんも多い。
彼女もその一人だった。
思い出会の項目には、携わったボランティアの人のコメントが書かれていた。
『家族を失うということは、とても辛いことです。
残された遺族は心に深い傷を負い、長い間立ち直れない方もいらっしゃいます。
特に配偶者を無くされた方で、お子様がいない場合には、その傾向が強くみられるような気がします。
私も、3年前に夫を病気で亡くしました。
夫を亡くした直後は食事も喉を通らず、誰とも話をしたくないほど悲嘆に暮れていました。
仕事に復帰して気を紛らそうとしても、ふとした時に夫の事を思い出してしまい、精神的に不安定な状態が長く続きました。
そんな折、思い出会の事を知り、自分が立ち直るきっかけになればと思い参加いたしました。
同じ痛みを抱えている人たちと故人への思いを語らうことで、それまで抱えていた悲しみから解放され、少しずつ心の傷が癒されていくのを感じました。
同じ苦しみを持つ者同士、支え合うことの大切さを学びました。
自分の思いを言葉にして口にするというのはとても大切なことです。
心の中で一人で抱えていた気持ちを整理することで、新しい一歩を踏み出すきっかけになると思います。
一人で痛みを抱えて苦しんでいる方がいらっしゃいましたら、ぜひ思い出会にご参加ください。
私達と一緒に、悲しみを乗り越えていきましょう。』
-
……故人への思いを語らうという事。
私は一度だけ、彼から彼女への想いを聞かされたことがある。
彼女が亡くなる前日。彼が、彼女の同級生だった伊藤君と病院のロビーで喧嘩した後のことだ。
彼は診察室の前にある長椅子に座りながら、彼女との思い出を話していた。
まだ幼かった頃の彼女と過ごした日々。小さな日常の出来事が、けれど宝物のように輝いていた事を。
訥々と、だけど幸せを噛みしめるようにゆっくりと話していた。
けれど私は、別れが決定的になった直後だったから、彼女の事を聞くことに耐えきれずにその場を逃げ出した。
あまりにも辛く、苦しかったから。
自分がみじめで仕方がなかったから。
あれから一年近くが過ぎ、私は彼の事も、彼女の事も納得できるようになった。
今の私なら、彼の話を受け止めることができるだろうか。
彼の事を、支えることができるだろうか。
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自分に彼と会う資格があるのか、まだ自信がない。
彼女の代わりになれるのか。いや、きっと代わりになんてなれないだろう。
でも、代わりになれないからって、彼の事を放っておいて良いの?
私は支え合う事の大切さを学んだじゃないか。
彼は、支えを必要としているんじゃないの?
誰かが支えを必要とするなら、そっと寄り添ってあげる事が、今の私のするべき事なんじゃないの?
それに。
自分の、本当の気持ちは?彼に対する想いは、どうなの?
自分の気持ちから目を背けて、逃げ続けて、それで前に進めるの?
『なあ、どうなんだ?おまえ、今でも隆道のこと好きか?』
下田君の問いかける声が、再び私の脳裏に蘇る。
そうだね、うん、私は……
「私は、今でも好きだよ。隆道君の事……」
-
[つづく]
-
初秋、彼女の月命日。
父から譲り受けた白いセダンを駆り、私はひとり郊外へ向かっていた。
目的地は墓地。彼女が眠るお墓だ。
暑さのピークは過ぎたからか、フロントガラスを通して感じる日差しはいくらかやわらかなものになっている。
サイドガラスを全開にすると、少し乾いた風が車中に入り込んできた。
運転しながら、私は父のことを考えていた。
また父に助けてもらった。私が悩んだり苦しんだりしていると、父は絶妙のタイミングで救いの手を差し伸べてくれる。
今回もそうだった。父には、私が何で悩んでいるのか分かるのだろうか。
親とはそういうものなのだろうか。支えてくれる事に感謝するとともに、私はもっと大人になりたいと強く思った。
いつまでも親に心配かけてちゃいけない。同級生には、すでに父親になった子だっているんだから。
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墓地は私の住む街から車で二時間ほどのところ、郊外の坂道を登りきったところにあった。
都会の喧騒から離れたそこは周囲を林に囲まれた静かな場所で、木々が僅かな物音さえ吸収しているのかと思えるほど静寂に包まれていた。
厳かな雰囲気、というのはきっとこういうことを言うのだろう。
数百はあろうかというお墓が並ぶその場所は、お彼岸が近いこともあり多くの人が訪れていた。
厳粛な面持ちで墓前に手を合わせる人、一生懸命にお墓を磨く人、家族と小声で話をする人。
人々の様子は様々ながら、みな故人への深い思いを胸に墓地に訪れているのだろうと感じられた。
美樹さんに貰ったメモを頼りに、彼女のお墓を探す。
本当は彼か彼のご両親に聞ければよかったのだが、突然連絡することにいくらかの躊躇いはあった。
それに、きちんとけじめをつけてからでないと、彼の前に現れてはいけない気がしたのだ。
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探し始めてから数分後、私は彼女のお墓を見つけた。
お墓の周りは綺麗に掃除されていて、お供えの花もつい先ほど替えたような瑞々しさを保っていた。
どうやら誰かが先に来ていたらしい。丁度入れ違いになったのかもしれない。
もしかしたら彼かもしれない。月命日に欠かさず参拝する。
彼女の事をとても大切に思っていた彼なら、きっとあり得る事だろう。
まだ彼に会う心の準備ができていなかった私は、鉢合わせにならなかったことに少しだけほっとした。
私は入口で用意してきた水桶からひしゃくで水をすくい、彼女のお墓に少しずつかけた。
水はさらさらと流れ落ち、やがて周囲の小石に僅かな染みをつくる。
水が流れ落ちた墓石の側面には、彼女の名前と命日、享年が刻まれていた。
ああ、彼女は本当に亡くなったんだ。
葬儀に参列しなかった私は、彼女が亡くなった事は父から伝え聞いただけだった。
彼女の容体は理解していたし、亡くなった事自体はちゃんと認識していたはずだったが、
彼女のお墓を前にし、墓石に命日が刻まれているのを目前にして、初めて亡くなった事を実感したような、そんな気がした。
私はお墓の前に両膝をつき、持参した花を供えた。
風に消されないよう気をつけながらお線香に火をつけ、線香置きにそっと置いた。
正面には『藤堂家之墓』の文字。
私は、そのままの姿勢で両手を合わせ目を閉じた。
-
加奈ちゃん。
今頃になってごめんなさい。やっと、あなたのところに来ることができました。
思えばあなたとは殆どお話ができませんでしたね。
あなたが生きているうちに、もっと沢山お話しておけばよかったなと今になって思います。
同じ女の子同士、本音で語り合えば分かりあえることもあったかもしれないですね。
お互いなんとなく敬遠してしまって、充分にお話しできなかったことが、とても残念に思います。
加奈ちゃん。
今、彼は苦しんでいます。
あなたがいなくなってしまったことに。彼はまだ、喪失感から立ち直れ切れていないようです。
彼にとって、あなたはかけがえの無い、たった一つの生き甲斐だったのでしょう。
そんなあなたの代わりは誰にもできないことは分かっているけど。
それでも、今の彼にはあなたの代わりに、支えになる人が必要なのではないかと思うのです。
加奈ちゃん。
私に、彼を支える資格は無いのかもしれません。
過去に彼を深く傷つけ、あなたが亡くなる時に背を向けた私が彼のことを想うのは、とても身勝手なのかも知れません。
それでも、私は彼の側にいてあげたいと思っています。
今の彼には、支えとなる人が必要だと思うから。
彼の支えになってあげたいから。
加奈ちゃん。
どうか私の行動を、許してもらえますか。
-
ドラマや漫画なら、ここで彼女の声が聞こえたり、微笑んだ顔が青空に浮かんでくるのかもしれない。
けれども私には、そんなありきたりた奇跡のような事は起こらなかった。
結局、こんな行為は残された人間の自己満足に過ぎないのかもしれない。
いくらお墓に話しかけたところで、故人から答えが返ってくることなどあり得ないのだから。
だから、この墓参は私自身のため、自分の気持ちを納得させるための儀式でしかなかった。
あるいは、次のステップへ進むための手続きとでも言えるだろうか。
彼女に許しを乞うたことを免罪符にしなければ、今の私は彼に会うことさえできそうにない。
そのための墓参であり、それは欺瞞であり偽善であるかも知れなかった。
お参りを終え帰ろうと立ち上がった時、視界の左端に人影が見えた。
ゆっくり振り向くと、逆光の向こうに黒いジャケットに身を包んだ彼女の母親の姿があった。
私がみじろぎもできずに、その場に佇む事しかできなかった。
それは、お母様も同じ事だった。
-
暫くして、お母様は私に少し待つように言うと、彼女の墓前に向かい合い、そっと手を合わせた。
私はお母様のお参りが済むのをその場で待つ。お参りが終わると、お母様は私を墓地外の休憩所に誘ってくれた。
どうやら、私に話したいことがあるらしい。
正直、ご両親には後ろめたい気持ちがある。
彼との交際中は色々と良くしてくださったのに、彼女の葬儀に参列しなかったから。
弔電もよこさず非常識な娘だと思われてないだろうか。
嫌みの一つも言われるのではないか。自らが招いた結果とはいえ、私は内心おびえていた。
休憩所はそれほど広くはない感じで、いくつかのテーブルと椅子が並べられているだけの簡素な場所だった。
私達はその一角に座ることにした。テーブルを挟んで、お母様と私が向かいあう。
座ったは良いが、その後はお互い中々口を開けない。自販機で買った紅茶を前に、しばらく無言の時が流れた。
お母様は目を伏せ、両手をぎゅっと組んでテーブルの上に置いている。
陰りのある表情。時折、何かを言い出そうと唇を動かしているが、言葉として発せられることはない。
私も何か話さねばと思っても、重苦しい雰囲気に気圧されてしまい言葉を出すことができないでいた。
周囲には私たちと同じようにお墓参りを済ませた人たちが話に花を咲かせている
私たち二人の空間だけが、周りから隔絶されたような沈黙に包まれていた。
-
先に口を開いたのはお母様だった。
「加奈の……娘の墓参りに来てくださってありがとう。貴方には辛い思いばかりさせてしまって。息子が……貴方を裏切るような事をしてしまって。
本当はもっと早くお詫びをしなければいけないと思っていたのだけれど、今まで連絡をすることもできなくて、本当にごめんなさい」
お母様は全く予期しないことを話し始めた。私はただ驚くばかりで言葉を返すことができない。
なんで私は謝られているのだろう。そんな、不義理を働いたのは私の方なのに。
なんとか我を取り戻し、謝られることなんて何もない、むしろ私の方が葬儀に参列もせずに申し訳ないと伝えたが、お母様は首を横に振るとさらに話を続けた。
「いいえ、私は……私たちは、貴方を傷つけてしまったことをとても後悔しているの。
隆道と加奈が……いつ二人が、本当の兄妹でないことを知ったのかは分からないけれど、昔から度が過ぎるくらい仲の良かった二人だったから、いつか一線を越えてしまうのではないかと思っていて……。
貴方のような素敵な彼女ができたから、隆道がやっと加奈以外の女性に目を向けてくれたと喜んでいたのだけれど……。
結局、貴方に苦しみを押しつけるような形になってしまって……本当に申し訳ないと思っています
それなのに、貴方は加奈のお墓参りにまで来ていただいて……どうお礼をすれば良いのか」
お母様は途切れ途切れの声を振り絞るように話し続けた。
そのあまりに弱々しい姿に、かえってこちらが申し訳なくなってくる。
お母様が気に病む必要なんてどこにもない。
結局、この話は単純化すれば三角関係のもつれでしかなく、私は単にフラれただけなのだ。
それも、大体において自分のせいで。
-
お母様に安心してもらいたくて、笑顔でいてほしくて、私は勤めて明るく振る舞い、笑い飛ばすようにそのことを伝えた。
そのまま昔話へ持ち込んで、お母様から彼女の思い出話を引き出して、楽しかった事を思い出してもらって元気になってもらえるよう努めた。
残された人間が故人の思い出を語らうことは意義あることだという、思い出会のボランティアの人の言に習うことにして。
笑顔で、楽しく。話し込むうちに、お母様の表情からも次第に悲しみの色が消え、私にとっても懐かしい笑顔を取り戻してもらえた。
うん、やっぱり人間、落ち込んでいるより笑顔でいる方が良いや。笑顔は百薬の長にも優る、なんてね。
自分が半年以上思い悩んでいたことなど棚に上げて、お母様を元気づけられた事に私は嬉しい思いに浸っていた。
一時間くらい話していただろうか。
思い出話も一段落し、そろそろお開きという雰囲気になった。
折角だからお母様を車で送ろう。一人より二人でいた方がドライブも楽しいし。
お母様は一旦は遠慮したが、それでもと私が頼むと頷いて助手席に乗り込んでくれた。
そういえば誰かを助手席に乗せて走るのって久しぶりかもしれない。
友人たちと車で出かけるって、最近無かったもんなあ。みんな男連れだしぃ。
片道二時間のドライブも、お母様と話をしながらだとあっという間だった。
やっぱり誰かと一緒って良いもんだ。楽しいし、一人のときのように思い詰めなくて良い。
女同士の話はもはや彼や彼女の話題からも離れ、まるで昔からの友人のような気軽さで他愛のないことをたくさん語り合った。
私はお母様の心痛を和らげてあげられたんだと思った。同時に、私の後ろめたさも癒してもらったと感じた。
誰かと話をすることってこんなに大切なんだ。言葉に出すことで心が整理されていくことって本当にあるんだ。
思い出会のボランティアの人の言うことは正しいんだなあと、私は実感していた。
-
やがて、彼の自宅の前までたどり着いた。あー懐かしいなーここ。
ここを最後に訪れたのは一年以上前だっけ。ご両親ご不在の時、ご自宅で彼といっぱいエッチしてましたなんて言ったら怒られるかな。
まあ、もう時効で良いよね、えへへ。それでもお母様に打ち明けたりはしないけどさ。
内緒話といえば他にも。小学生の頃、偶然を装って彼に会えるよう何度もこの辺うろついてたんだよねえ。
今思い返せばちょっとストーカーめいていたかも。近所の人に、よく不審者に思われなかったなあ。
まあ子どもだったから、何かイタズラしているぐらいにしか思われなかったのかもしれないけど。
お母様は車を降りると、ちょっと待っててと言い家の中へ入っていった。
どうしたんだろう。もしお土産でも持たされたら申し訳ないな。
車で送ったことで、変に気を遣わせてしまったんだろうか。
5分ほどたった後、お母様は家から出てくると、何か小さいものを私に手渡した。
おもちゃだろうか。小さな卵型をしたオブジェクトの上に、細い銀色のチェーンが輪を描いて繋がっている。
その形は、数年前に流行した育成物の携帯型ゲームに似ていた。
違うのは、ディスプレイの代わりに丸型のスピーカーがついていて、本体下部に5つのボタンが付いていることだった。
これは、何ですか?
私がそう尋ねると、お母様は躊躇いがちに私に告げた。
「加奈の……メッセージです。貴方への」
メッセージ?彼女が?私に?
「加奈が亡くなる直前に私に託したものです。メッセージを吹き込んであるので貴方に渡してほしい、と。
ごめんなさい、ずっと渡さなければ思っていたのだけれど……」
彼女が私にメッセージを残していた。考えもしなかった展開に、私は驚きを隠せなかった。
-
[つづく]
-
彼の自宅を後にした私は、そのままマンションの自室に戻った。
今、机の上には、お母様から受け取った卵型のおもちゃと、あの薄緑色の本がある。
外観から、このおもちゃはボイスメモを記録する機能があるのだろう。
5つあるボタンは、それぞれ音声をバンク式に分けて記録できる感じなのだろうか。
メッセージの内容はお母様も知らないそうだ。ただ私宛、ということだけしか聞いてないらしい。
彼女から私へのメッセージ。彼女が、私に何かを残していたなど予想もしていなかった。
彼にメッセージを残すのなら分かる。
日記に思いのたけを書いてあるとはいえ、それとは別に恋人にだけ特別な遺言を残しておきたいと考えるのは自然な欲求だろう。
それが、何故私なのか。私は生前の彼女と深い交流があったわけではない。
むしろ横から彼の事を奪おうとした泥棒女だと思われていてもおかしくない。
彼女が私の事をどれだけ知っていたかは分からないが、もしラブレター事件の顛末まで知っていたら、かつて彼を深く傷つけたにもかかわらず、のうのうと現れてたらしこんだ女だと軽蔑されていてもおかしくないのだ。
……そう考えるとメッセージを再生するのが怖くなる。
彼女は私へ恨み辛みを残していったのではないか。その可能性は十分にある。
少なくとも、あれだけ彼を愛した彼女が、自分の死後に別の女、それも過去に彼を傷つけた女に彼を奪われることを嫌い、二度と近付かないように警告を残したということは考えられるのではないだろうか。
彼女はそんな子じゃない、自分の考えすぎだとあわてて否定してみるものの、彼女の真意が予想できない以上、邪推とも言える想像を完全に打ち消すことはできないでいた。
-
卵形のおもちゃを見ているのが怖くなってきた私は、薄緑色の本に目線を移した。
日記には確かに、私の事を『彼を支えてくれる人』と認めてくれてる記述があった。
けれど、本音の部分がどうだったのか。彼女の本心はどうなのか。
それを知るのは、正直、怖い。
また逃げ出したくなってきた。失恋の事実に向き合うことを避け続けてきた、あの日々のように。
言い知れない恐怖に、思わず手が震えた。
それでも、私は逃げてはいけない。
彼と再会したいのなら、自分の過去も彼女の怨嗟も全て受け入れて、全てを背負い込んだ上で彼に向き合う強さが必要なのだ。
そうでなければ、きっと私はまた自分だけの愛を彼に求め、同じ失敗を繰り返してしまうだろう。
ラブレター事件の時と昨年の交際の時。二度の失敗を、また同じように繰り返すだけだろう。
もうあんな苦しい思いはしたくないし、彼を傷つけたくもない。
だから、私は逃げてはいけない。前を向いて、進んでいかなくちゃいけない。
紅茶もアロマもいらない。何にも頼らず、自分の体いっぱいで彼女の言葉をまっすぐに受け止めよう。
私は卵型のおもちゃの一番左、おそらく最初のバンクであろうボタンを押した。
-
「……………………
………………あ
…………
……はあ、はあ
ケホッ、ケホッ
…………
……」
最初の音声は、苦しそうな彼女の呼吸と、時折咳き込む音が記録されているだけだった。
そういえば確か、彼女はあの日記の最後に記されていた海に行った後、再入院してすぐに風邪をひいて体力が大幅に低下したと聞いていた。
もしこれが海に行った後のものなら、彼女は普通に話すことさえ辛い状態でメッセージを残したことになる。
実際、再生される彼女の声は、音だけでも苦しげな様子が伝わってくるものだった。
そこまで衰弱した状態で、彼女は私に何を伝えたかったのだろうか。
その後四つ目のバンクまで再生しても、彼女の苦しげな様子は変わらなかった。
時折何かを話そうとする気配はあったものの、その都度咳き込んだり言葉を詰まらせたりして、なかなか形あるメッセージにはならなかった。
ただ彼女の必死さ、振り絞るように何かを伝えようとする気持ちは、途切れ途切れの声の中からひしひしと伝わってきた。
まるで自分に残された命の灯の、最後のひとかけらを燃やしつくそうとするように。
-
最後のバンクのボタンを押す。
このバンクも、卵形のおもちゃのスピーカーから、意味を成す言葉は聞こえてこない。
ただ、必死に呼吸を整えるように、規則正しく深呼吸をするような音が流れてくるだけだった。
その状態が長く続き、残りの再生時間が10秒ほどになった頃、か細い少女の声が流れた。
幼さを残したソプラノの声。かすれ気味だけど、それでもはっきりとした意志を持つ、芯のある声だった。
「……夕美さん
…………
……私は十分幸せでした……
………
……もう何の悔いも……残すこともありません…………
………
……ただ……たった、ひとつだけ……
………
……兄を……兄の事を、どうか支えてあげてください………」
彼女が最後の言葉を放った直後、まるで言い終わるのを待っていたようなタイミングで再生が終了した。
卵型のおもちゃは、自分が役割を終えたことを知ったかのように、ひとりでに私の手から滑り落ちて床に落ちた。
いや、私の手が震えて落してしまったのかもしれない。
しばし呆然としていた私には、それがどちらなのか判断ができなかった。
-
言葉にしてたった数秒。
ほんのわずかな、ごく短いメッセージ。
日記に綴っていたような情熱的な言葉も、飾り立てるような表現もない。
ただ簡潔に意思表示をしただけの言葉。激しい感情のうねりや抑揚があるわけでもない。
それなのに、私の心は大きく揺さぶられ、頭の中は様々な感情であふれぐちゃぐちゃになっていた。
瞼を閉じれば涙が頬を伝う感触を感じる。唇は小刻みに震えて言葉を発することもできそうにない。
耳の奥で、彼女の声が何度も繰り返し聞こえてくるような気がする。
まるで脳に直接響いてきているかのようだ。一年ぶりに聞いた、あの幼い声が。
『兄の事を、どうか支えてあげてください』
頭の中で、私は彼女の言葉を何度も何度も反芻した。
人生の最期の時を迎えた彼女が、その貴重な時間を使って私に残したメッセージを。
彼の事を支えてくれと。
彼女は、私に託してくれた。
彼のことを、私に託してくれた。
私は、託されたんだ。
-
目を閉じると、彼女の姿が思い浮かんだ。
長くきれいな黒髪と、つぶらな瞳。
病院のベッドの上で純白の夜具を身にまとい、儚げな様子を醸し出す姿。
けれど内実は、まっすぐ、ひたむきに、自分の生と彼への愛にに向き合い続けた少女。
その彼女から託されたんだ。
もう、迷わない。
私が逃げたら、彼女の想いを裏切ることになってしまう。
正直に、率直に、真摯になって。
私も、彼への気持ちに向き合おう。
彼への気持ち。
そう、それは間違いなく、彼への愛。
私は、彼女の分まで彼の事を愛そう。
彼女の想いとともに、彼の事を支えていこう。
それが、今の私にできる、たった一つの事だと思うから。
-
人さし指の腹で涙を拭うと、胸の奥から熱い何かがこみ上げてきた。
ドキドキするような、未知の何かに向き合うような、でもそれでいて不安な感じじゃない。
長かった少女の初恋はもう終わってしまったけれど、
これからは、成長した私の新しい恋が始まる。
ひとりよがりな、求めるだけの愛じゃない。
彼の気持ちを大切にして、尊重して、お互いに支え合えるような愛を。
焦らず、急がず、一生をかけて築き上げていこう。
ーーーありがとう、加奈ちゃん。
薄緑色の本と卵型のおもちゃを、私は胸にきゅっと抱いた。
ふわりと、遠い昔、林間学校の時に感じたような香りがしたような気がした。
可憐で、どこか清潔さを感じさせるような香り。
そう、これはウメバチソウの香りだ。
ひょっとしたら彼女の残り香だったのだろうか。
あり得ない話だけど、だけど私はその香りを確かに感じた気がしたのだ。
胸の中の熱い何かは、すうっと全身に広がって行き、暖かな気持ちとなって私の体を包んでいった。
-
日中でも太陽の光が大分柔らかな感じになってきた季節。
時折吹く風もすっかり涼しいものになってきた。
こういう季節の移り目は、ファッションの選択にいつも頭を悩ませてしまう。
コートを出すのはまだ早いし、かと言ってあんまり薄手の服だと肌寒いし。
今朝もしばらく迷った結果、秋色をしたカシミヤのカーディガンを羽織ることで落ち着いた。
最近は化粧もナチュラルメイクな感じにするよう心がけている。
病院ボランティアやってるのに派手なメイクというのも何か、ね。
それに流行のメイクで男の気を引こうと言うのも、何かあざといかなーとか思うようになってきたし。
陳腐な言い方だけど、人間中身が大事!というか。
最先端のファッションで派手に着飾るよりも、自分自身を磨きあげることの方が大切だと感じるようになってきたのだ。
や、それでも女の子だから、もちろんファッションも色々気にはなっちゃうんだけどね。
ま、何事もバランス、バランス。
バイト代の範囲内で、無理せず、自然なお洒落が出来れば、それが一番なんじゃないかなあ。
-
私は、彼が通う大学の中庭にいた。
春に彼目当てでしばらく通って以来、ここから足が遠のいていたが、今月になって再び通うようになっていた。
もちろん、大学の講義とバイトの時間の都合がつく範囲でだけど。
ここに来る目的は春の頃と変わらない。
けれど、私の心持ちはあの頃とは随分変わっていた。
待つ、ということに過度な希望も失望も持たないようになっていたのだ。
もちろん、今すぐ彼と話をして関係を修復したいという思いはある。
いや、修復じゃなくて新たな関係を築きたい、かな。
どちらにせよ彼に近づいて、彼を感じたい気持ちは大きい。
彼の事を、傍で支えてあげたい。
けれど、遠目に分かるくらい葛藤している彼の表情を見れば、今はまだ私の方から歩み出す時期ではないのだろうと思えたのだ。
彼の中で消化しきれない思いがあるなら、私は不用意に近づくべきじゃない。
彼女への想いは、きっと私が思うよりはるかに大きなものだろうから。
彼の中で迷いがあるなら、そしてまだ私を必要としていないなら、私は出ていかない方が良い。
彼の事を支えたい。手を差し伸べたい。
でも、手を差し伸べることと、一方的に彼の腕を取ることとは違う。
もう身勝手な振る舞いはしない。自然な形で彼に寄り添いたい。
だから、私は待つことにした。彼の方から近づいてくれる、その日まで。
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薄緑色の本を読んでいると、校舎の方から誰かが歩み寄る気配がした。
誰か、なんてわざとらしいかな。私には、それが誰であるかなんて分かってる。
だって風が教えてくれたから。一年ぶりの、懐かしい匂い。
どこか躊躇いがちに近づいてくるその人物の雰囲気があまりに以前と変わりないので、私は思わず本を顔に当てて苦笑してしまった。
相変わらず不器用なんだね。君は。
だからきっと、第一声はとてもそっけないものになるのに違いない。
それでも、私の胸を高鳴らせるには十分だ。
私は本をそっと閉じ、両手で胸に抱いた。
一度目を閉じて、顔を上げる。小さく深呼吸。
ゆっくりと目を開くと、視線の先には私が長い間ずっと待ち望んでいた男性の顔があった。
まだ少し戸惑っているようにも見える。昔の私だったら強引に腕を組んで連れ回していたに違いない。
でも、もうそんなことはしない。ゆっくり、自然に、負担にならないように。
落ち着いて、言葉が発せられるのを待った。
「……よお」
一年ぶりに聞く、彼の、隆道君の肉声。
そのぶっきらぼうな声をチャイムの代わりにして、私の新しい恋が、今、始まった。
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[FIN]
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長々と続いた夕美の物語はこれでお終いです。
もし読んでくださっている人がいた、最後までありがとうございました。
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乙ずっと読んでた
二人はそのあとどうなったんかな?
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ここからゲーム本編のラストにつながるんですが、ゲームでも将来どうなるのかは描かれていません。
ただ、お互い大人になった二人ですから、きっと良いカップルになっていくでしょう。
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長編お疲れ様でした
名作の思い出が蘇りました
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