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ラノーン (Ranong)

30ハジャイ・プーケット・サムイ:2013/06/29(土) 17:40:26 ID:mvRf2lo20
アユタヤ日本人町は14世紀頃に始まったと思われるが、日本の戦国時代には主君を失った浪人が流れてくるようになり、急激な膨張がみられるようになった。この傾向が特に強くなるのが関ヶ原の戦い、大坂の役などの後である。当時ビルマ(現・ミャンマー)・タウングー王朝からの軍事的圧力に悩まされていたアユタヤは、このような実戦経験豊富な日本人兵を傭兵として雇い入れることでこれを阻止しようとしたねらいがあり、これが浪人のアユタヤ流入を生んだ。また、アユタヤ君主・ソンタムの治世に、ポルトガル人鉄砲隊がアユタヤによって雇い入れられていたが、タウングー王朝側もポルトガル人傭兵隊を雇い入れていたために、同士討ちを恐れたポルトガル人傭兵隊が発砲せず全く使い物にならなかったということがあり、アユタヤがポルトガル人以外の軍事力を必要としていたことも、浪人のアユタヤ流入に拍車をかけた。

この日本人傭兵隊の勢力は200あるいは800人とも言われる勢力に膨張し、政治的にも大きな力を持つようになった。このアユタヤでは基本法典である『三印法典』に日本人傭兵隊の政治的位置が明確に示されるようになった。『三印法典』では、日本人傭兵隊はクロム・アーサーイープン(日本人義勇兵局)と名付けられ、その最高責任者にはバンダーサック(官位制度)の第三位であるオークヤー(あるいはプラヤー)・セーナーピムック( ออกญาเสนาภิมุข)という官位・欽賜名を授けられた。これは山田長政にも下賜された名前である。


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