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別冊☆大阪百科☆ニュース6

573よっさん ◆XxkTNAUYOc:2014/02/27(木) 00:05:14 ID:bkKlFIC.0
「不沈艦だと信じていた」 戦艦大和の生還元乗組員、3月2日に大阪で「“最期”を語る講演」
2014.2.26 21:30
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140226/wlf14022621310019-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140226/wlf14022621310019-n2.htm

 史上最大の戦艦といわれた「大和」が東シナ海に沈んで69年となるのを前に、当時の乗組員で数少ない生還者の一人、北川茂さん(90)=三重県名張市=が、3月2日に大阪市内で開かれる講演会で、大和の“最期”の様子や思いを語る。「大和が沈んだら日本は終わりだと思っていた」。だが、第二次大戦末期には大型艦の時代は去り、特攻作戦に向かう途中で撃沈され、悲運な末路をたどった大和。北川さんは「ほかに道はなかったのか」と今も悔やみつつ、語り継ぐ使命をかみしめている。

 北川さんは昭和17年、18歳で海軍に志願し、20年2月、大和への乗り組みが決定。敵艦との距離を測り伝える担当で、甲板から高さ25メートル超の場所にある「測距所」が仕事場となった。

 「まるで巨大な岩のようだった」。すでに戦闘も経験していたが、広島・呉港で初めて見た大和の威容には圧倒された。「装備も近代的で、全てが他の艦船と比べものにならなかった。大和配属は誉れでした」

 戦況が悪化の一途をたどっていた同年4月5日、甲板に全乗組員が集められ、沖縄への特攻命令を受けた。「足が甲板にへばりついたように動けなかった」。隣の兵隊に目を向けると、表情は血の気を失っていた。2日後、鹿児島県沖の洋上で「戦闘用意」の命令が下った。

 分厚い雲の合間から次々と敵機が飛来し、魚雷を投下。すさまじい衝撃で艦が揺れ、水柱が上がり、測距所にもしぶきがかかった。左舷に集中して魚雷を受けた艦は傾き、まっすぐ進むこともできなくなった。

 船が徐々に沈み、海面が眼前に迫る中、同年兵と恩賜のたばこを吸い、海に飛び込んだ。突き上げられるような2度の衝撃とともにオレンジ色の閃(せん)光(こう)が海中を染めた。重油にまみれた海面に浮かんだときには、大和の姿は見えなかった。

 約4時間後に味方に救出され、翌日の早朝、長崎・佐世保港へ。甲板に出ると朝日が差し込んだ。「太陽を見て、ああ生かしてもらったんだと。あのときの感情は今も忘れません」

 生還者は乗組員の1割にも満たない276人。70年近くが過ぎ、そのほとんどが亡くなった。

 「特攻の末路以外に道はなかったのか。犠牲が大きすぎた」。北川さんは今も無念さをかみしめる一方、「大和の最期を語り継ぐことは、残された自分の役目。多くの人に聞いてもらえたら」と感じている。

 講演会は3月2日午後1時半〜3時、大阪市港区弁天のホテル大阪ベイタワーで。参加費は一般2500円、大学生以下1千円。問い合わせは、ウェーブ産経大阪((電)06・6633・9087)。

    ◇

 戦艦大和 当時の最先端の造船技術を駆使し、開戦直後の昭和16年12月16日に完成。全長263メートル、幅38・9メートルで、射程42キロの主砲を備えた世界最大の戦艦だった。だが、戦いの主役は戦艦から航空機へと移っており、威力を発揮できないまま20年4月7日、沖縄特攻作戦に向かう途中の鹿児島県沖で、米艦載機の攻撃を受けて沈没。乗員3332人のうち、生還者はわずか276人(8・3%)だった。


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