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別冊☆大阪百科☆ニュース6

1479名無しさん:2019/03/17(日) 19:23:06 ID:NrdB.GxU0
沖縄と本土結んだ財界人の“架け橋”「沖縄懇話会」の30年
3/12(火) 22:27配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190312-00000600-san-bus_all

  関西・東京と沖縄の財界人が、沖縄の経済活性化を議論する場として平成2年に発足した「沖縄懇話会」が今年30年の節目を迎える。KDDI傘下の沖縄セルラー電話の発足や、沖縄サミットの招致など同会が直接・間接的に果たした役割は少なくない。発足時から深く関わる元沖縄県知事、稲嶺惠一氏(りゅうせき参与)の証言をもとに、同会30年の足跡を振り返る。(内田博文)

 「中山素平(そへい)氏(日本興業銀行=現みずほフィナンシャルグループ=元頭取)がすべての原点だった」

 稲嶺氏はこう振り返る。同会設立のきっかけのひとつ、国内女子プロゴルフの開幕戦「ダイキンオーキッドレディスゴルフトーナメント」は、中山氏の仲介でダイキン工業がスポンサーとなり昭和63年に始まった。開幕前日のプロアマ大会には著名財界人が多数参加することでも知られる。その後、中山氏が「ゴルフだけでなく、本土と沖縄の経済人が定期的に集まる場を」と提案し、沖縄懇話会が発足した経緯がある。

 平成2年10月の設立総会には沖縄と本土の有力企業56社が参加。本土からはウシオ電機会長だった牛尾治朗氏や秩父セメント(現秩父太平洋セメント)会長の諸井虔(けん)氏、京セラ会長の稲盛和夫氏、日本IBM社長の椎名武雄氏(いずれも当時)らが名を連ねた。

 第二電電(現KDDI)の全国展開を進めていた稲盛氏は懇話会で「沖縄にも会社を設立したい」と提案。地元の産業界も歓迎し、翌年沖縄セルラー電話が誕生したという。稲嶺氏は「稲盛さんは『沖縄のために何かをしたい』とおっしゃった。その後、沖縄は情報産業の規模が拡大し、いまや観光に次ぐ産業になっている」とたたえる。

 12年の沖縄サミット誘致にも沖縄懇話会は一役かった。稲嶺氏が10年末に沖縄県知事に就任すると、11年春に牛尾氏ら懇話会のメンバーが東京で当選祝賀会を開催。当時首相だった小渕恵三氏や官房長官の野中広務氏らを招き、参加者らが「沖縄でサミットを」と政府にアピールしたという。

 「後日、小渕氏に手紙で直接、進言してくれた方もいる。当時、誘致に名乗りを上げた8地域のうち、省庁の評価で最下位だった沖縄でサミットが開催できたのは、皆さんの支援のたまものだ」と稲嶺氏はいう。

 このほか同懇話会は、16年に開場した国立劇場おきなわや、23年設立の沖縄科学技術大学院大学、現在建設中の那覇空港第2滑走路など地域の大型開発にかかわる提言や支援事業を手がけた。

 26年からは県と共同で国際食品商談会「沖縄大交易会」も開催するなど、地域の経済振興に一定の役割を果たしている。稲嶺氏は「多くの財界人が沖縄に関心を持ってくれた。これだけ実効性のある団体はほかにない」と評価する。

 まもなく平成が終わり、懇話会は新たな元号で30年の節目を迎える。この間、会員企業は約90社に拡大。11月の総会に合わせて記念行事なども行う予定だ。懇話会には本土と沖縄をつなぐ“架け橋”としてより大きな役割が求められる。

     

 いなみね・けいいち 慶応大学経済学部卒。昭和32年いすゞ自動車。48年琉球石油(現りゅうせき)に転じ、61年社長。平成5年会長。沖縄県経営者協会会長、沖縄懇話会代表幹事などを歴任し、10年沖縄県知事に初当選。2期8年を務め18年退任。85歳。


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