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別冊☆大阪百科☆ニュース6

1216名無しさん:2015/09/20(日) 12:02:11 ID:kCiGURGQ0
塩川正十郎氏が死去
09月19日 17時54分
http://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20150919/5088921.html

財務大臣や自民党の総務会長などを歴任した元衆議院議員の塩川正十郎氏が、19日午前、大阪市内の病院で、肺炎のため亡くなりました。93歳でした。
塩川正十郎元財務大臣は、大正10年に大阪府で生まれました。
慶応大学を卒業後、会社社長や東大阪市の前身の旧布施市の助役などを経て、昭和42年の衆議院選挙で、旧大阪4区から立候補して初当選し、通算で11期、衆議院議員を務めました。
昭和55年に、鈴木内閣で運輸大臣として初入閣したあと、文部大臣や官房長官、それに自治大臣などのほか、自民党の総務会長を務めました。
小泉内閣では、政権発足当初の平成13年4月から財務大臣を務め、公共事業費の削減など歳出の見直しに取り組み、平成15年に引退するまで、小泉・元総理大臣を支えました。
塩川氏は、国会答弁などでも、関西弁を用いた、歯に衣着せぬ率直な発言で知られ、晩年は、「塩爺」の愛称で親しまれていました。
政界を引退した後は、東洋大学の総長を務めていました。


関西弁、飄々とした人柄…塩川さん死去
2015年09月20日
http://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20150920-OYO1T50000.html?from=oycont_top_txt

 19日に93歳で亡くなった元財務相の塩川正十郎さんは、関西の発展のために辣腕(らつわん)を振るう政界の大物でありながら、柔らかな関西弁と飾らない、飄々(ひょうひょう)とした人柄が、多くの人を魅了した。

自らを「平々凡々たる政治家」と評した塩川さんだが、剛腕ぶりには誰もが一目置いた。1980年、運輸相として初入閣した際の就任記者会見では、停滞していた関西空港の建設計画に触れ、「建設にメドをつけたい」と省内に根回しなく発言。その後、調査費計上などを取り付けて計画を推し進め、東京一極集中への対抗心をにじませた。

 元大阪府知事の中川和雄さん(88)は開港前の副知事時代、塩川さんに「ボヤボヤしてると(他の空港に)路線を取られる。はよ工事にかかれ」とゲキを飛ばされたといい、「大阪のことで様々な相談にのってもらった」と懐かしんだ。

 小泉内閣の財務相当時には「忘れてしまいました」などと、とぼけた国会答弁で野党の追及をかわし、「塩爺(しおじい)」と広く親しまれた。「あの答弁が批判されなかったのは偉ぶらず、憎めない人柄だったから」。こう指摘するのは塩川さんが信徒総代を務めた奈良・薬師寺の山田法胤(ほういん)管主(74)だ。

 除夜の鐘突きには毎年、寺に駆けつけ、「今年もみんなで頑張っていきまひょか」とあいさつするのが恒例。政界引退の翌年の2004年、日本人の美しい心を取り戻そうと始まった「薬師寺21世紀まほろば塾」(現・薬師寺まほろば塾)では10年間、塾を応援する「推進の会」会長を務めた。今年5月の役員会でも元気な姿を見せていたといい、山田管主は「ざっくばらんやけど義理堅く真面目。あの関西弁を聞けないかと思うと寂しい」と悼んだ。

2015年09月20日


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