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韓国語における日本語由来の単語について

1あじょしがばんえどぅろがしんだ:2003/03/29(土) 10:43
韓国学を専攻して会社に入り、上司や同僚から時々酒の肴に「韓国では
○○は何というか?」という質問をよくされます。
さて、最近あった話なのですが、「タマネギ」を韓国では何というか、
といわれて、「다마네기」と即答したのですが、みんな「ウソだろう」
と言って信じてくれません。
興味本位で聞いているわけですから、日本語と違う言葉が返ってくるの
を期待していたのでしょうが・・・。
韓国語に日本語由来の単語が多いと言うことがあまり知られていないの
かな、というギャップを感じずにはいられませんでした。

以前、金浦空港のロビーで「바른말 고운말」という番組を見ていたと
きに、「앙꼬빵」(あんぱん、の意味)という言葉は悪い言葉だから使
うな、というようなことを言っていたのにびっくりしたことがあります。
これは90年代も後半の話です。

事情はわかるが、あまりにも一方的な言い方に、帰国後当時の文教部の
カナダ電話に「直訴」しましたが・・・・。

日本語由来の言葉を「悪い言葉」として追放しようとするのは、彼等な
りの「過去の清算」を急ぐ、という一面もあろうとは思うのですが、だ
からといって「タマネギ」について「양파」などという安易な造語を普
及させるのも、傍目から見ると「?」な気もします。

皆様はどうお考えでしょうか?

20ミズ:2003/04/28(月) 01:48
私の仮説を基に述べるのはこれくらいにしておいて、
以下ではあきづきさんの質問に答えると共に共感を
覚えるところもについても言及したいと思います。

>おなじ記事の最初のほうで,「これらが日本語であることをしらない
>から,つかうのをやめようとも おもわない」と かいていますが,
>もし そうだとすると,ミズさんの意見では,いったい「日本語である
>ことをしらない」くらいなのに,どうして日本からうけた こころの
>きずに さわると いえるのでしょうか。

これは金先生が例として出した、いくつかの単語の中
では日本語由来であることが知られていない単語がある
ということで、知らないのもあるよということを
わざわざ言うということは韓国語内の日本語由来の
ものは大体知られているということではないでしょうか。
ですから、「しかし」以下の論は無効だと思います。

>また、「コドリ」
>が日本語であるから いけないと いうのは その延長線上でしょうが、そういうときに
>「コドリ」は「五」と「鳥」からできた日本語であると かいてしまうような日本語に
>対する無知も問題です。日本語をはなすひとは、そんな奇妙な合成語をつくることは
>しないでしょう。これは起源が日本語であるとしても、あきらかに韓製日語です。そう
>いう正確な知識をつかって、語学的な事実に もとづいて どのような語が もともとの
>韓国語を侵食し、どのような語が もともと韓国語が なかったところに はいってきた
>外来語であるのかをあきらかにするのが国語学者の つとめであると おもうのです。

これは同感できますね。語誌についてはもう少し慎重に
なった方がいいと思います。

いや、ずいぶん長いのを書いてしまいました。
直接書き込んでいなかったので,こんなに長くなるとは思っても
みませんでした。お許しください。今度から気をつけます.

また、誤解している点も多々あると思うので、ご指摘ください。

それから、韓国文化人類学会からの月例会の情報(歴史清算
に関するもの)、ありがとうございました。

21あきづき:2003/04/28(月) 17:07
 こんにちは。

 3点に まとめらたので、それにそって簡単にコメントしておきます。

1点めについて
> 言葉の使い方の問題はさておき、もし、同じなら、ある程度の精神的満足は
> 与えられているという認識はあきづきさんと共通していると思われます
> が、いかがでしょうか。

わたしの かんがえでは、そのようなものが あるとしたら それは代理満足と
いうべきものだと おもいます。

2点めについて
> このハルモ二たちにとっては日帝日本語が日常的に使っていた言葉だと
> 思われるので、好き嫌いを超えて、それを使いたがる人はいらっしゃる
> でしょう。
> しかし、5,4,30代ぐらいの人(ことによると60代前半も)は
> テレビ等で日帝日本語が流れた来たら、嫌だと思う人が多いのでは?
> ということなんです。逆に言えば、国民全体を考えたら、不満を
> 感じている人は少ないのでは?ということなんです。

「逆に言えば」と かかれていますが、その前後で おっしゃっていることは
おなじことではないと おもいますよ。

わたしが なぜ慰安婦にされたハルモニの ことをもちだしたか わかりますか。
「日帝のきずをいやすため」という理由が あげられていたからです。

それなのに、いつのまにか 5,4,30代ぐらいの人(ことによると60代前半も)
というふうに、「嫌だと思う人」の層が 議論のなかで すりかわっているように
おもいます。

テレビなどの公共性の たかい ところでの ことばづかいを論じるのに「国民全体」
で どうかという基準をもちだすのなら それは それで わかりますが、それなら
日帝による精神的な きずをいやすという はなしは いったん きりはなして議論
するべきだろうし、「生活の周辺から外来語をおいだそう」という わたしが批判
しようとした主張を擁護する議論には なりえません。生活の周辺の ことばは、
そこで生活をしている ひとが きめることで、国民多数が どちらであるかと いう
ことで きめられるものではないのですから。

3点めについて
> aでは「韓国人の国語学者が韓国人の民族的意識を民衆と
> 共有しているということ」を一応は認めてるように見えますが、
> bでは国語醇化運動のための規範を支持する学者の押し付けを
> 批判しています。

おそらくミズさんは、言語政策というものが すぐれて政治権力によって統制される
ことによって なりたっているものだということを理解していないのだと おもいます。

日本に対する反感という民衆的な意識を共有することは 自然なことであると いえる
かもしれませんが、政治は その意識を別の目的に利用しますよね。そこに批判の
メスをいれるのが学問の やくわりではないかということをわたしは いっているのです。

ミズさんは「国語醇化運動のための規範を支持する学者の押し付けを批判して
います」と まとめたけれども、ちがいます。「国語醇化運動のための規範」という
ことばを無前提に もちだすところにミズさん自身の たちばが あらわれているの
です。わたしは、国語醇化運動のすべてに反対ではないが、規範をおしつけると
いう方法によって すすめられる国語醇化運動の ありかたには反対であると いった
のです。つまり、規範というものが ありうべき国語醇化運動のためのものであるか
どうかを問題にしているのに、その問題意識をうけとらずに「国語醇化運動のための
規範」と かいしまう行為は、一方的に結論を
だしてしまったうえで議論をすすめているものなのです。

ほんとうに民衆から支持されている運動なら、規範をつくり、それに したがわせると
いうような運動形態でない運動を つくることが できるはずです。

22あきづき:2003/04/28(月) 17:21
 ミズさん、こんにちは。気になったところがあるので質問します。

> 言葉の面においては、過去の清算は現実的には公的な場面での
> 日帝日本語の排除、過去の受容とは私的な場面での日帝日本語の
> 容認・植民地時代に入ってきた、韓国語の漢字音による日本語の
> 和語及び漢語(日本製韓国漢語)の容認になると思います。

どうして、そういうふうな分類で わりきれるのか、説明してくださいませんか。
「清算」されるべものと「容認」されるべものが、なぜ、公的/私的という線で、
または、日本語のオトそのものをとった外来語/日本語の漢字表記の韓国語式音読
という線で わけられるのでしょうか。そこに どのような合理的な根拠が ありますか。


あと、以下の部分はミズさんが誤解されていると おもいます。

(あきづき)
>ミズさんが おっしゃりたいのは、「それでも すこしでも つらい おもいを
>せずに すむのなら…」ということなんだと おもいます。それは そうでしょう
>けれども、それなら基本的に つかいたくない ひとが つかわなければ すむこ
>とだと おもいます。みんなが つかいたくなくて、いいかえるべき ことばが
>適切に しめされているのなら、自然に つかわなくなりますよね

(ミズさん)
> これはそういうわけには行かないでしょうね。例え、
> 現存している日帝日本語が生き残るだけの理由が
> あったとしても。公的な場面では。
> それが民衆の望んでいることだろうと思いますから。

わたしは、「民衆が のぞんでいるのだったら、適切な いいかえが しめされただけで
自然に つかわなくなるのでは」と かいたのです。ミズさんのコメントは 「そういう
わけには行かない」というものですが、そうすると「民衆の望んでいること」だから
「日帝日本語をつかう」という意味に とれますよ。なにか かんちがいをしていませんか。

23あきづき:2003/04/28(月) 17:29
>>20

こんにちは。こちらも気になったので。

> これは金先生が例として出した、いくつかの単語の中
> では日本語由来であることが知られていない単語がある
> ということで、知らないのもあるよということを
> わざわざ言うということは韓国語内の日本語由来の
> ものは大体知られているということではないでしょうか。

学者だから しっているのでしょう。「しらないで つかっている」ことが
おおいということは、金先生が かかれているとおりに うけとれますし、
わたしの体験上も そうです。

それから、わたしが方言について いったのは、民衆の意識に ねざした感覚を
間接的に検証するためでした。「私的言語だから ゆるしてもよい」「公的な
場ではダメ」ということこそが、規範主義です。別の ことばでいえば、タテマエ
です。タテマエの うえでの運動が民衆の意識に ねざしていると いうのは
むずかしいと おもいます。ほんとうに イヤだとおもう ひとびとの意識が
背景にあるのなら、むしろ私的な言語のほうから さきに きえていくはずでは
ありませんか。

24ミズ:2003/05/13(火) 09:06
おはようございます。
レスが遅れて,すみませんでした.さっそく、回答と意見を
送らせていただきます.

> 言葉の面においては、過去の清算は現実的には公的な場面での
> 日帝日本語の排除、過去の受容とは私的な場面での日帝日本語の
> 容認・植民地時代に入ってきた、韓国語の漢字音による日本語の
> 和語及び漢語(日本製韓国漢語)の容認になると思います。

これは合理的な根拠があって,分類したものではなく,今の韓国の
現状を見て,分類したものです.

>ほんとうに イヤだとおもう ひとびとの意識が
>背景にあるのなら、むしろ私的な言語のほうから さきに きえていくはずでは
>ありませんか。

これもそうだとは思いません.嫌だという気持ちが常にどんな場合でも
同じように嫌だというものでもないと思います.

公的な場面で日帝日本語を見聞きするのは、多数の韓国人が
嫌なんじゃないかということです。

私的な場面では容認しているわけですから,それほど嫌というわけでは
ないでしょう.
ただし、私的な場面での容認が公的な場面での容認にはつながらないと
いうことです。
私的な場面での容認と公的な場面での容認は別次元の問題なので,
切り離して考えたほうがいいのではないでしょうか。

論点を整理したいと思います.
1、国語醇化運動は押し付けである。(ミズ)現実醇化運動はそうでは
                     ない。
2、生活の周辺から日帝日本語を追い出そうとする動きに反対.
 (ミズ)民衆に対する影響力はほとんどないと思うが、反対.
3、国語醇化運動は一定の評価。(ミズ)現実醇化運動は評価。
4、生き残った日帝日本語は容認。(ミズ)私的な場面ではOK。
 *現実醇化運動=公的な場面で日帝日本語を排除すること

1については、あきづきさんは押し付けという立場でしょう.
しかし、代理満足であれ,少なくない数の韓国人がある一定の
精神的満足を得ているとおっしゃるのなら、押し付けとは言いきれない
のでは?少なくとも、現実醇化運動は。

私的場面では容認、公的場面では排除という現実醇化運動は
建前とも思えません.理由は上と同じです.公的場面での排除で、
精神的満足を得ていると思えるので。
ですから、精神的満足を得ているとするあきづきさんもこれを
建前とは言えないのでは?少なくとも、現実醇化運動は。

誤解について

>それなのに、いつのまにか 5,4,30代ぐらいの人(ことによると60代前半も)
>というふうに、「嫌だと思う人」の層が 議論のなかで すりかわっているように
>おもいます。

精神的満足を得る人を植民地時代の体験者だけとは初めから限定
していません。

>テレビなどの公共性の たかい ところでの ことばづかいを論じるのに「国民全体」
>で どうかという基準をもちだすのなら それは それで わかりますが、それなら
>日帝による精神的な きずをいやすという はなしは いったん きりはなして議論
>するべきだろうし、「生活の周辺から外来語をおいだそう」という わたしが批判
>しようとした主張を擁護する議論には なりえません。

公的な場面での日帝日本語の是非と日帝による精神的な きずを
いやすという はなしを切り離すことはできません.
日帝によって精神的な傷を受けた人はその時代を生きていた人
だけではないからです。

> これはそういうわけには行かないでしょうね。例え、
> 現存している日帝日本語が生き残るだけの理由が
> あったとしても。公的な場面では。
> それが民衆の望んでいることだろうと思いますから。

「公的な場面では日帝日本語を使いたくない人が使わなければすむ
というわけにはいかないでしょう.公的な場面での排除は
民衆の望んでいることだろうと思うから」ということ。

>学者だから しっているのでしょう。「しらないで つかっている」ことが
>おおいということは、金先生が かかれているとおりに うけとれますし、
>わたしの体験上も そうです。

金先生が知っている、知らないという問題ではなく,あくまで、
普通の人が日帝日本語だとわからないものがあるということ。
また、知らないで使っていることが多いということは
日帝日本語だとわからないものが多いということではありません。

> bでは国語醇化運動のための規範を支持する学者の押し付けを
> 批判しています。

これはあきづきさんの元の文を受けているので,ただの「規範」
ではなくて、「押し付けの規範」です。
ですから、あきづきさんのおっしゃりたかったこととあまり
変わらないのでは?


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