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韓国語における日本語由来の単語について

1あじょしがばんえどぅろがしんだ:2003/03/29(土) 10:43
韓国学を専攻して会社に入り、上司や同僚から時々酒の肴に「韓国では
○○は何というか?」という質問をよくされます。
さて、最近あった話なのですが、「タマネギ」を韓国では何というか、
といわれて、「다마네기」と即答したのですが、みんな「ウソだろう」
と言って信じてくれません。
興味本位で聞いているわけですから、日本語と違う言葉が返ってくるの
を期待していたのでしょうが・・・。
韓国語に日本語由来の単語が多いと言うことがあまり知られていないの
かな、というギャップを感じずにはいられませんでした。

以前、金浦空港のロビーで「바른말 고운말」という番組を見ていたと
きに、「앙꼬빵」(あんぱん、の意味)という言葉は悪い言葉だから使
うな、というようなことを言っていたのにびっくりしたことがあります。
これは90年代も後半の話です。

事情はわかるが、あまりにも一方的な言い方に、帰国後当時の文教部の
カナダ電話に「直訴」しましたが・・・・。

日本語由来の言葉を「悪い言葉」として追放しようとするのは、彼等な
りの「過去の清算」を急ぐ、という一面もあろうとは思うのですが、だ
からといって「タマネギ」について「양파」などという安易な造語を普
及させるのも、傍目から見ると「?」な気もします。

皆様はどうお考えでしょうか?

2あきづき:2003/03/29(土) 11:20
 解放後の一定期間は,自分たちの ことばをとりもどすために いろんな
いいかえや外国語(とくに日本語)を政策的に排斥する必要が あったのだと
おもいます。それは それで理解できるのですが,それが,日本語に由来して
いるものは すべて「わるい ことば」であるとか,「おきかえなければなら
ない」というふうに教条化してしまうと,「ちょっと ちがうのではないか」
と おもったりも しますね。

 言語政策というのは,最終的には その言語をつかっている ひとたちが
きめるべきことだと おもいますが,いまの韓国の国語政策で おこなわれて
いる ことの なかには,ほんとうに この ことばをはなしている ひとたちの
日常の感覚からも はなれてしまっている部分も おおいのではないかと 感じ
ることが あります。たしかに 伝統的な民族の ことばを大切にしようという
原理には ほとんどの ひとが賛成するでしょうが,それが すべてに優先する
原理として主張されるのは ことばの別の面をきりすてることにも なるので
はないかと おもいます。わたしには,これだけ ながい期間をかけて国語醇化
のとりくみが されたのにも かかわらず,いきのこってきた「倭色」の こと
ばには,いきのこるだけの理由が あるのだと おもいます。たとえば
「쓰메끼리」などは よくもあしくも日帝時代に 日本語と いっしょに は
いってきた文物で,日本語といっしょに普及したという歴史をせおっている
のでしょう。そのことを歴史の断面として みとめることも大切なことでは
ないかと おもいます。(みとめたからといって,日帝支配を肯定したと
いうことには ならないでしょう。むしろ,このような日常に痕跡をとどめ
ていることがらから出発して歴史をどのように みていけばいいかということ
をかんがえるのが,いままでの歴史教育に かけていた点であり,これからの
歴史教育に もとめられていることなのでは ないかと おもいます。)

 わたしは「양파」が安易な造語だとは おもいませんし,「고추냉이」なん
ていうのには むしろ感心してしまいます。そういう努力は わるくはないと
おもうんです。しかし,「それだけが ただしくて,ほかは まちがい」という
態度で権威をふりかざすような方法から,ほんとうの「国語愛」が そだつと
も おもえません。日帝時代の くるしみをみをもって体験した世代の ひとた
ちが,それにも かかわらず つかいつづける日本語起源の ことばを,学校で
ちょっと知恵をつけられた中学生が,「その ことばは まちがっている」など
と指摘するという構図は,どう かんがえても ヘンなことだと おもいます。

 国語学者たとが,もっと,ことばをつかう 民衆の意識のなかに はいって
いって,その ふかいところをくみとるようなアプローチをしないと いけない
のではないでしょうか。日本と くらべても韓国の国語学界は規範主義が つよ
いという印象が ぬぐえません。規範主義と,「うばわれた自分たちの ことば
をとりもどす」ということは,ほんらいは対極にあるべき発想だと わたしは
おもうのです。

3あじょしがばんえどぅろがしんだ:2003/03/29(土) 13:11
どうもありがとうございます。
僕もどうもすっきりしないのは、ご指摘の「規範主義」ゆえだと思います。
逆に日本語の場合、決め事がなさすぎて、外来語の表記に混乱が見られるなどの別
の問題がないわけではありませんが、がちがちの「規範主義」は、戦前の「方言札」
のような問題をもたらす怖さがあると思います。

日本語由来の語を使いつづけることが、決して日帝支配の肯定とは僕も思いません
が、彼らにとっては、あくまで支配者側の言い分だと言うことになるでしょう。
쓰메끼리や다마네기などということばが、解放後の歴史のローラーに幾度もかけ
られながらも生き長らえているのは、生き長らえるだけの何かがあるはずです。
かの地にもともとあった文物が日本語由来の言葉で言いかえられていたのならば
とにかく、日本語での名称と共に入ってきたものだったからでしょう。

それを韓国語での置き換えを試みると言うのは、しかるべき方向性のあるものと
思いますが、あきづきさんのおっしゃるように「それだけがただしくて、ほかは
まちがい」というあり方は、ことばが「生き物」である以上、無理があると思い
ます。

「앵파」はとにかく(「洋」を付ける、という造語法はやはりちょっと安易では
ないかと・・・)「고추냉이」なんかは、本当によく出来た造語ですね。
ただそれが、日本語由来の言葉に集中しているのが、事情は理解しながらも、い
びつさを感じさせる面ではありますが。

英語などの外国語由来の商標も禁止された時代を思うと、노바따야끼などの赤提
灯がぶら下がっている今の世の中の方がかなり自由な言語表現が出来てきていると
は思いますが、日本語ばかり目の敵にしているのも(確かに「親の敵」なのでしょ
うが)どうかという気もしますね。
その一方で、韓国では日本語学院は結構盛況だと聞いているので「?」が3つくら
い頭の中で点滅してしまうのですが・・・・。

4あきづき:2003/03/29(土) 15:46
 >>3 をみて おもいだしたんですが,양파は ともかく,マッシュルームの
ようなものを 양송이と いうのは,ちょっとなと おもったことが あります。

この「양」の おかげかなにか しりませんが,「養殖のマツタケ」が存在する
と信じている ひとが いたり,どうみてもシイタケでしかないものを「マツタ
ケ」であると主張するひとが いたりして,こまったことが あります。


> 英語などの外国語由来の商標も禁止された時代を思うと、노바따야끼などの
> 赤提灯がぶら下がっている今の世の中の方がかなり自由な言語表現が出来て
> きているとは思いますが、日本語ばかり目の敵にしているのも(確かに
> 「親の敵」なのでしょうが)どうかという気もしますね。

ご指摘のとおり,「自由」は あるんですね。ほかの外来語と くらべて
日本語由来のときは とりわけ問題にされがちだということは たしかに ある
だろうと おもいますが,一方で,日本語由来であろうと なんだろうと ゆる
される「自由」な空間も ひろがっているというのも事実でしょう。

つい数日まえ,新聞の写真いりの かなり おおきな広告で,日本のマンガを
紹介する雑誌の宣伝が でていて,そのキャプションに「만화」ではない
「망가」の雑誌なんだというようなことが かかれていて,ちょっと びっくり
したのをおもいだしました。

5あじょしがばんえどぅろがしんだ:2003/03/30(日) 10:53
양송이が「養殖マツタケ」とは、略語好きでは日本人以上かも知れない韓国人ら
しい発想だな、と思わずひざを打ってしまいました。
それにしてもどうして양느타리(洋しめじ)くらいにしておけばいいものを、양
송이なんかにしたのだろうか(しめじのほうがよっぽどマッシュルームに似てい
る様に思うのだが)、マッシュルーム農場のオヤジから袖の下でも貰ったのかい
な、と茶化したくもなりますね。

しかし、マンガを「망가」とは、「うちのマンガは、今までの韓国人のイメージ
する만화じゃなくて、ほんものの日本のマンガだよ!」といいたくてやったのだ
ろうが、語呂が悪すぎますね。これでは。
息子、娘がマンガを読んだら家が亡びる、まさに「亡家冊」ってわけで。

6屋台の親父:2003/03/31(月) 18:00
Yahoo!Koreaで「망가」を検索したところ
ほとんどが、「섹스망가」、「헨타이망가」、
そして「성인 일본망가」でした。
ひょっとしたら、わざと「亡家」と
語呂を合わせているのかもしれませんね。

7ミズ:2003/04/13(日) 00:13
わたしは日帝時代の日本語(日帝日本語)を消し去ることで、韓国人の
大多数が癒されるのなら、国語醇化運動はすべきだと思います.

また、この運動は日帝日本語の根絶やしを目標にしていると思われますから、
教条化していくのも方法論としては当然のような気がします.
それだけ、強力なキャンペーンじゃないと、根絶やしは難しいと
思うからです.

国語醇化運動によって、民衆に浸透した「쓰메끼리」のような
日帝日本語が奪われるという側面はおっしゃる通り確かにあると
思います.

しかし、その言葉を使えなくなった民衆(テレビなんかで使ったり
すると、訂正されますよね)はあまり不満を持っていないように
見えます.

もしあるなら、ネット上等で活発に議論されてもいいはずだし
(私が知らないだけかもしれません)、中学生に「その ことばは
まちがっている」と指摘された人は「それでも私は使いたいんだ」と
反論しているはずです。

この仮説が正しいなら、韓国では少なくとも過去の清算が民衆の
言葉の維持に優先されると思うし、また、こういう国民感情に
合わせて国語醇化運動をしていると思うので、国語学者は
すでに民衆の意識の中に入っているとも思います.

8<削除>:<削除>
<削除>

9ミズ:2003/04/13(日) 00:18
すみません。

「書き込む」を押したら、「技術上の問題が発生して」うんぬんと出たので、
2回押してしまいました.
できたら、一つは消して頂けませんか.

10あきづき:2003/04/13(日) 21:06
 ミズさん,こんにちは。

> わたしは日帝時代の日本語(日帝日本語)を消し去ることで、
> 韓国人の大多数が癒されるのなら、国語醇化運動はすべきだと
> 思います.

わたしも国語醇化運動の意義は みとめるものです。しかし,この運動で
「韓国人の大多数が癒される」ということは ないだろうと おもいます。

韓国人のなかにある いやされない心情が,国語醇化運動の みなもとに
なっていることは否定できないと おもいますが,国語醇化運動で それが
いやされるとも おもえません。また,そんなことで いやされてしまっても
いけないんじゃないでしょうか。

また,過去の清算は国語醇化運動と関係のないところで されることが可能だと
おもうし,そうなれば国語醇化運動も いまとは ちがったものに なっていく
だろうと おもいます。

「その言葉を使えなくなった民衆はあまり不満を持っていないように見える」
というのは,不満をことばに する論理が たてにくいからでしょう。なぜ
不満が あっても それを論理だてしにくいかと いうと,それこそ 過去の
清算が うまく いっていないからなんだと おもいます。

ですから,わたしは「国語学者はすでに民衆の意識の中に入っている」と
いうのは,そのようにも いえるかもしれないけど,それは 国語学者として
はいっているのではなくて,韓国人の国語学者が韓国人の民族的意識を民衆
と共有しているということをあらわしているに すぎないと おもいます。

11ミズ:2003/04/19(土) 19:02
あきづきさん、こんばんは。

>韓国人のなかにある いやされない心情が,国語醇化運動の みなもとに
>なっていることは否定できないと おもいますが,国語醇化運動で それが
>いやされるとも おもえません。また,そんなことで いやされてしまっても
>いけないんじゃないでしょうか。

癒されないとする理由がわからないので、噛み合う議論になるかどうか
わかりませんが、とりあえず、意見を述べてみます(全て癒されるとは私も
思いません)。

もし、国語醇化運動をやめて、テレビなどで日帝日本語(日本語の和語、
漢語を韓国の漢字音で発音するものは除く)が流れ出したら、どうして
規制しないんだと言い出す人は少なくないと思います.植民地時代は
全て悪と考える人が多いからです.

じゃあ、どうしてそんな風に言い出すかといえば、上のような考え方をする
人は日帝日本語を見たり、聞いたりするのが嫌だからでしょう。嫌なものを
取り除いてあげれば、ある種の精神的満足感・癒しは得られるのではないかと
思います.
(だから、現実世界で不満を言う人があまりいないということは、
国語醇化運動によってもうすでにある種の精神的満足感・癒しは与えられて
いるのでは?そういう効果が少なくないのでは?ということです。)

もし、そういこともないのなら、なぜ、国語醇化運動が続けられるの
でしょう.
結局、この問題は国語醇化運動の意義に対する認識の違いだと思います。

>「その言葉を使えなくなった民衆はあまり不満を持っていないように見える」
>というのは,不満をことばに する論理が たてにくいからでしょう。なぜ
>不満が あっても それを論理だてしにくいかと いうと,それこそ 過去の
>清算が うまく いっていないからなんだと おもいます。

不満を言わないのは、理論化しにくいから、逆に言えば、理論化すれば
不満を言い出すということですか。

どうでしょうか。不満の有無に対立点があるので、理論化したら、不満が
噴出する(ごく少数ではないという意味)という仮定には共感しにくいです.

そもそもなぜあきづきさんが日帝日本語を奪われた民衆が不満を持っている
とお考えになったのでしょう。
そこのところがわかれば、もっとすっきりするのだと思いますが....

また、植民地時代は全て悪という考えにからめとられてしまった民衆は
そこから抜け出る過程で、他の理論にもからめとられてしまい、結局、
本心はわからずじまいということにはならないでしょうか。

12きんちょ:2003/04/21(月) 13:52
 こんにちは。

 ミズさん ご自身が「全て癒されるとは私も思いません」と のべているのだから、
基本的に わたしが いっていることと おなじになりませんか。

 「ちょっとだけ いやされる」というような状態が ありうるのか、あったとして、
それを「いやされる」と表現するものなのか、わたしは たいへん疑問に おもいま
す。わたしが いっていることは、現在のような国語醇化運動をつづけても それで
日帝に うけた精神的な傷が なくなるわけではないという 至極あたりまえのこと
です。

 ミズさんが おっしゃりたいのは、「それでも すこしでも つらい おもいを
せずに すむのなら…」ということなんだと おもいます。それは そうでしょう
けれども、それなら基本的に つかいたくない ひとが つかわなければ すむこ
とだと おもいます。みんなが つかいたくなくて、いいかえるべき ことばが
適切に しめされているのなら、自然に つかわなくなりますよね。

実際、そうやって なくなっていった ことばは たくさん あるわけです。

そのうえで、いまも いきのこっている ことばには、それなりの いきのこった
理由が あるのではないかと いうことが、そもそもの わたしの はなしの出発点
でしたよね。ですから、この出発点の段階で わたしも国語醇化運動を全面否定
しているわけではないことが おわかりになると おもいます。

あくまで、現代における国語醇化運動が、民衆が さしてイヤだと おもっている
わけでもない「タマネギ」「スメキリ」のような ことばをヤリダマに あげて
攻撃している さまが おかしいと いっているのであって、現代においては国語
醇化運動が意味をうしなったと いっているわけでもありません。

[あとにつづく]

13あきづき:2003/04/21(月) 13:54
 つい最近も、国語政策に おおきな影響力をもつ韓国の国語学者であると きく
金世中教授が、新聞のコラムに国語醇化のことについて かいていました。同教授は
「スメキリ」などの語は いいかえられるべきだという たちばですが、同時に、
「実際は、現在における国語の危機は日帝語の残滓ではなく、英語の侵入である」と
断言していました。また、日本語の影響をうけた ことばをあげていけば、実は膨大な
漢字語のリストが つくられるはずです。初級の日本語教科書の各国語訳をくらべれ
ば、いかに基本的な韓国語のなかの漢字語が中国語とは一致せず、日本語とだけ一致
しているかということが すぐ わかります。この傾向は、学問や行政や法律の分野
で、さらに顕著に あらわれてきます。わたしが おかしいといっている国語醇化運動
とは、こうした権威のある分野で つかわれている語にしみついた日帝の影響について
は「同化した」ものと みなしながら、「タマネギ」「スメキリ」のような どうでも
いい ものの よびなについてだけ ことあげする運動のことなのです。また、「コドリ」
が日本語であるから いけないと いうのは その延長線上でしょうが、そういうときに
「コドリ」は「五」と「鳥」からできた日本語であると かいてしまうような日本語に
対する無知も問題です。日本語をはなすひとは、そんな奇妙な合成語をつくることは
しないでしょう。これは起源が日本語であるとしても、あきらかに韓製日語です。そう
いう正確な知識をつかって、語学的な事実に もとづいて どのような語が もともとの
韓国語を侵食し、どのような語が もともと韓国語が なかったところに はいってきた
外来語であるのかをあきらかにするのが国語学者の つとめであると おもうのです。

もちろん、もともと韓国語がなかったところに はいってきた語であっても おきかえる
ことは できます。それは その ことばをはなすひとたちが決定すべきことだと おもい
ます。しかし、それなら ほかの外来語と おなじ基準で あつかうべき問題であると
いうことも できるはずです。日本語起源だからといって すべてを強制のせいには でき
ないということです。

> 嫌なものを取り除いてあげれば、ある種の精神的満足感・癒しは得られるのでは
> ないかと思います.(だから、現実世界で不満を言う人があまりいないという
> ことは、国語醇化運動によってもうすでにある種の精神的満足感・癒し
> は与えられているのでは?そういう効果が少なくないのでは?と
> いうことです。)

たとえば、「スメキリ」とか「タマネギ」などの語は、わたしが接した もと「慰安婦」
の おばあちゃんが しきりに つかっていたり するわけです。「チョソンマル」も そう
で、「ちょうせんご、ちょうせんご」と 日本語で いうのは、韓国語で いうときも
そういっているからだということが あとで わかりました。

この おばあちゃんにとっての「いやし」とは なんなのでしょうか。「あなたの
いった『タマネギ』は きたないことばだから つかうな」と まわりから指摘して
やることなのでしょうか。

> そもそもなぜあきづきさんが日帝日本語を奪われた民衆が不満を持っている
> とお考えになったのでしょう。
> そこのところがわかれば、もっとすっきりするのだと思いますが....

光州の太平洋戦争遺族会を代表する たちばのハルモニが「戦後、『ペント』が よくない
ことばだからといって、だれも しらない ふるい文献から ことばをひっぱってきて
『トシラク』と いうようになった。余計に わからなくなった。こうやって、戦争で
苦労した 老人は ますます ことばの面で苦労させられた」というようなことを わた
しに かたったことが あります。

「日帝日本語を奪われた」というのは いいすぎでしょう。つかいたい ひとは、つ
かっているのですから。問題は、ほんとうに こころに きずをうけている ひとたちの
おもいとは別のところで、あたらしい権威が うえから制度的に改革をおしすすめ、
ほんとうの「いやし」のほうは 結局、どんどん あとまわしにされたということなの
だと おもいます。

「理論化」うんぬんについては、すでに のべましたが、韓国語全体がうけた日本語からの
影響を学問的に評価していく理論が ただしく つたえられれば、そのなかで「スメキリ」
「タマネギ」などというものが たいした問題ではなく、もっと 問題にされなければ
ならないことが隠蔽されているということが わかるはずだということをいいたかったの
です。

 それでは、また。

14あきづき:2003/04/21(月) 13:55
>>12 の「きんちょ」は「あきづき」です。また まちがえちゃいました。

15あきづき:2003/04/21(月) 21:19
さきほどの >>13 で紹介した金世中教授の記事は,以下で
みることができます。

http://www.barunmal.com/board/gisa/view.htm?board=265

金世中教授は,生活のまわりにある外来語の増殖をおいだす姿勢で
対応するべきだと 最後のほうで のべていますが,ほんとうに そう
なのでしょうか。

おなじ記事の最初のほうで,「これらが日本語であることをしらない
から,つかうのをやめようとも おもわない」と かいていますが,
もし そうだとすると,ミズさんの意見では,いったい「日本語である
ことをしらない」くらいなのに,どうして日本からうけた こころの
きずに さわると いえるのでしょうか。金教授が いうように,それが
日本語起源だったと気づくことは大切なことかもしれません。そして,
気づいたうえで すてるというのなら,それも立派なことかもしれません。
しかし,わざわざ しらなかったことに気づかせたうえで,それをすて
させることが「いやし」になるというのなら,それは へんだなと おもい
ます。まるで,もともと おもいもしなかった先祖のタタリかなにかを
もちだして おはらいをするようなもので,そんなことでツキモノが
とれたみたいに しあわせになれるなどというのは まやかしでしょう。

知識人の姿勢として あたらしい ことばづかいを提唱し,実践すると
いうのなら,理解できます。わたしも わるいことだとは おもわないし,
協力してみたいくらいです。でも,「日本語であることも しらない」で
つかわれているのだったら,日本語起源であったとしても 生活に ねづいて
ひとびとに うけいれたのだという事実を学者のほうが まず うけいれる
べきなのではないでしょうか。学者が自分の基準で うけいれたくないものは
まちがっていたり,よごれていたり すると きめつけるのは,ことばの
おしつけという点で,過去の あやまちをまた なぞっているように
わたしには おもえるのです。もし,こういう規範の おしつけを中心とした
国語醇化が民衆の要求に もとづいたものだというのなら,民衆的な言語
世界である方言のなかにこそ,日本語起源の ことばが まじったままに
なっていることをどのように説明したらよいのでしょうか。
 ことばの現状をありのままに認識することから,あたらしい あるべき
ことばづかいを提唱していけばよいと わたしは おもうのです。過去の
きずが どうのこうのではなく,いま いきている ひとたちが,外来語を
伝統的な韓国語をもとにした造語で いいかえていくことを決意して,
それをすすめていくのなら,そうすればいいし,そういう実践のなかで,
商品名などとして流入する日本語の すべてをいいかえる必要もないという
ふうに かんがえられるのであれば,同様に,過去に さかのぼって,生活の
なかで定着した日本語は それとして みとめても よいものも あるのでは
ないかという議論が されていけば いいと おもうのです。
 いまをいきる ひとたちが これからの ことばづかいの あるべき すがたと
関連づけて 結論を説明できるのなら,その結果,外来語の使用については
どういう結論に なるとしても自分たちの ことばを大切にしていると
評価することができると おもいます。 重要かつ必要なことは
純粋化ではなく,ことばの つかいてが言語主権を獲得することでは
ないでしょうか。日本でもそうですが,純粋化の主張というのは,
えてして ことばの知識のない ひとの ことばづかいに対してだけ攻撃の
ほこさきを むけるようです。知識が ある ひとは,そういう やりかたに
加担してほしくないと おもうのです。

16nayuna:2003/04/22(火) 11:36
横レスのような形になってしまいますが、
私の考えを書かせていただきたいと思います。

「言葉は思想を統制する」と言われますが、外来語が多くなると言うことは、
外国の文物や思想が盛んに入ってきている=外国の影響が大きい
ということだと思います。

もちろん、日本統治下では日本の影響が最も多かったわけですから
その時代を好まない韓国人は日本語を使いたがらないでしょう。

だからといって、外国の影響をまったく無視してはどの国も成り立たないでしょう。
外国の影響がまったくない地域があれば、それは閉ざされた、
または取り残され、いずれは衰退する文明の地域です。

「純粋な韓国語だけを使おう」という運動を見ると、
「(中国語・日本語に由来する)漢字語はどうするんだ?」
「中国風の姓名はどうするんだ?」と思ってしまいます。

現在の韓国語に占める中国・日本由来の言葉を消そうとすれば、
漢字語はすべて消えてしまいます。

言葉は変わりゆくものであって、これは社会現象であり、歴史の証人だと思います。
できれば、あきづきさんのいうとおり、正しい由来を教えていくことが
その国全体の言語を支えていくでしょう。

私は「日本語由来だからダメ」という道をはずした愛国運動はどうかと思います。
その一方、今、韓国人は猫も杓子も「英語」「英語」と言っていますが、
日本語学校に来ている学生のうちのかなりの数が英語脱落組であるのを見ると
韓国人の英語信仰(日本人もですが)を日本語(多言語)で打ち破ってほしいと
期待してしまいます。

17ミズ:2003/04/28(月) 01:31
こんばんは。
長文のレス、nayunaさん、ありがとうございます.

国語醇化運動について私の仮説は大体、以下の3つになります。
長文のレスについて1つ1つ答えることは大変なので、この3つを中心に
述べていきたいと思います.

1,日帝日本語(日本語の和語、漢語を韓国の漢字音で発音するものは除く)
をマスコミ等で排除する国語醇化運動によって、ある程度の精神的満足を
与えられている韓国人が少なくないのでは?その理由は、植民地時代は
全て悪と考える人が多いから.

>ミズさん ご自身が「全て癒されるとは私も思いません」と のべているのだから、
>基本的に わたしが いっていることと おなじになりませんか。

言葉の使い方の問題はさておき、もし、同じなら、ある程度の精神的満足は
与えられているという認識はあきづきさんと共通していると思われますが、
いかがでしょうか。

2,日帝日本語がマスコミ等の公的な場で使えなくなっても、それに対して
不満を感じている人は少ないのでは?その理由はこれに対する反対意見や
議論を見たことがないので。

>光州の太平洋戦争遺族会を代表する たちばのハルモニが「戦後、『ペント』が よくない
>ことばだからといって、だれも しらない ふるい文献から ことばをひっぱってきて
>『トシラク』と いうようになった。余計に わからなくなった。こうやって、戦争で
>苦労した 老人は ますます ことばの面で苦労させられた」というようなことを わた
>しに かたったことが あります。

このハルモ二たちにとっては日帝日本語が日常的に使っていた言葉だと
思われるので、好き嫌いを超えて、それを使いたがる人はいらっしゃる
でしょう。
しかし、5,4,30代ぐらいの人(ことによると60代前半も)は
テレビ等で日帝日本語が流れた来たら、嫌だと思う人が多いのでは?
ということなんです。逆に言えば、国民全体を考えたら、不満を
感じている人は少ないのでは?ということなんです。
(つづく)

18ミズ:2003/04/28(月) 01:35
3,国語醇化運動は韓国人の国語学者の一方的な押し付けではないのでは?
国語学者は韓国人の民衆の意識にすでに入っているのでは?

これについてはちょっとわかりにくいですね。あきづきさんの考えが。
下のaとbとでは押し付けという点では相反しているように
見えます。

a
>ですから,わたしは「国語学者はすでに民衆の意識の中に入っている」と
>いうのは,そのようにも いえるかもしれないけど,それは 国語学者として
>はいっているのではなくて,韓国人の国語学者が韓国人の民族的意識を民衆
>と共有しているということをあらわしているに すぎないと おもいます。

b
>知識人の姿勢として あたらしい ことばづかいを提唱し,実践すると
>いうのなら,理解できます。わたしも わるいことだとは おもわないし,
>協力してみたいくらいです。でも,「日本語であることも しらない」で
>つかわれているのだったら,日本語起源であったとしても 生活に ねづいて
>ひとびとに うけいれたのだという事実を学者のほうが まず うけいれる
>べきなのではないでしょうか。学者が自分の基準で うけいれたくないものは
>まちがっていたり,よごれていたり すると きめつけるのは,ことばの
>おしつけという点で,過去の あやまちをまた なぞっているように
>わたしには おもえるのです。もし,こういう規範の おしつけを中心とした
>国語醇化が民衆の要求に もとづいたものだというのなら,民衆的な言語
>世界である方言のなかにこそ,日本語起源の ことばが まじったままに
>なっていることをどのように説明したらよいのでしょうか。

aでは「韓国人の国語学者が韓国人の民族的意識を民衆と
共有しているということ」を一応は認めてるように見えますが、
bでは国語醇化運動のための規範を支持する学者の押し付けを
批判しています。

恐らく、bの方が主張なさりたいことに近いのでしょう。
そして、方言の中に日帝日本語が現存しているということを
持って、民衆の要求と国語醇化運動が結び付いていないと
おっしゃりたいわけですよね。

私はこう思うんです。それは方言ではなく、私的な言語に
日帝日本語が残っているんだと。
方言はそれを売り物にしているタレントとかバラエティー
とかでしかテレビではあまり使われませんよね。
地方局でも。また、地方の人は何か発表したりするときも
方言は控えて、「です・ます」で言うことが少なくないの
ではと思います。地方選挙の演説でも聞いている人が地元民で
あっても、普通は共通語に近いもので話すと思います。
(上のは日本での話ですが、韓国でも同じだということでした)

つまり、方言は公的な場面であまり用いられない、私的な言語
なんじゃないか、そういう色合いが濃いんじゃないかと
いうことなんです。

今の国語醇化運動は理想(日帝日本語の完全排除)は別として、
実際は公的な場面での日帝日本語の排除だとおもうんです。
ですから、私的な場面での日帝日本語は対象になっていない。
現実醇化運動では。だから、方言に残っているように見える。
しかし、いかに地方局でもテレビで日帝日本語を連発したら、
苦情が多く来るんじゃないでしょうか。地元民から。
もし、苦情が来るなら、民衆の要求と現実の国語醇化運動が
結び付いていると言えるのではないのかなと思います。

国語醇化運動と言っても、現実の部分と理想の部分とが
ありますよね。この現実醇化運動(公的な場面での
日帝日本語の排除)といったものに対して、私は三つの仮説を
立てたわけです。
この辺の定義付けを初めにしておかなかったので、
あきづきさんとの間にずれが生じたのかなとも思います。
(つづく)

19ミズ:2003/04/28(月) 01:40
古い時代が終わり、新しい時代が始まれば、過去の反省と
過去の受容が行なわれます。これはどこの国でも
いつの時代でも同じだと思います。
韓国においては解放後の過去の反省は過去の清算に繋がり、
過去の受容とは植民地時代のシステムの継承を意味すると
思います。

言葉の面においては、過去の清算は現実的には公的な場面での
日帝日本語の排除、過去の受容とは私的な場面での日帝日本語の
容認・植民地時代に入ってきた、韓国語の漢字音による日本語の
和語及び漢語(日本製韓国漢語)の容認になると思います。

>また、日本語の影響をうけた ことばをあげていけば、実は膨大な
>漢字語のリストが つくられるはずです。初級の日本語教科書の各国語訳をくらべれ
>ば、いかに基本的な韓国語のなかの漢字語が中国語とは一致せず、日本語とだけ一致
>しているかということが すぐ わかります。この傾向は、学問や行政や法律の分野
>で、さらに顕著に あらわれてきます。わたしが おかしいといっている国語醇化運動
>とは、こうした権威のある分野で つかわれている語にしみついた日帝の影響について
>は「同化した」ものと みなしながら、「タマネギ」「スメキリ」のような どうでも
>いい ものの よびなについてだけ ことあげする運動のことなのです。

これについても、上のような考えを持っているので、
おかしいとは思いません。
このように清算と受容、ワンセットにするのが、
現実的なのではないでしょうか。何しろ、「タマネギ」
「スメキリ」は韓国語の中では目立ちますからね。
現実的と言ったのは、過去を受容せずに全ての日本製韓国漢語
を作り替え、再教育するとしたら、大変な労力が必要だと
思うからです。

>ミズさんが おっしゃりたいのは、「それでも すこしでも つらい おもいを
>せずに すむのなら…」ということなんだと おもいます。それは そうでしょう
>けれども、それなら基本的に つかいたくない ひとが つかわなければ すむこ
>とだと おもいます。みんなが つかいたくなくて、いいかえるべき ことばが
>適切に しめされているのなら、自然に つかわなくなりますよね

これはそういうわけには行かないでしょうね。例え、
現存している日帝日本語が生き残るだけの理由が
あったとしても。公的な場面では。
それが民衆の望んでいることだろうと思いますから。

>重要かつ必要なことは
>純粋化ではなく,ことばの つかいてが言語主権を獲得することでは
>ないでしょうか。

全ての人が公的な場でも自分の使いたい言葉が話せる
ようになるというのが、言語主権を獲得するという
ことなら(解放後しばらくは私的な場でも日帝日本語を
使うと強く咎められたのかもしれませんが、現在は
私的な場では使っているので)、現実醇化運動であれ、
理想醇化運動であれ、それとは同時に両立できません。
しかし、そもそもそういうことを現在の韓国人の
多数が望んでいるのでしょうか。
また、望んでいないのなら、現在の韓国人の多数が
現実醇化運動をよしとするなら、言葉の使い手による
言語主権は獲得されているのでは?
(つづく)

20ミズ:2003/04/28(月) 01:48
私の仮説を基に述べるのはこれくらいにしておいて、
以下ではあきづきさんの質問に答えると共に共感を
覚えるところもについても言及したいと思います。

>おなじ記事の最初のほうで,「これらが日本語であることをしらない
>から,つかうのをやめようとも おもわない」と かいていますが,
>もし そうだとすると,ミズさんの意見では,いったい「日本語である
>ことをしらない」くらいなのに,どうして日本からうけた こころの
>きずに さわると いえるのでしょうか。

これは金先生が例として出した、いくつかの単語の中
では日本語由来であることが知られていない単語がある
ということで、知らないのもあるよということを
わざわざ言うということは韓国語内の日本語由来の
ものは大体知られているということではないでしょうか。
ですから、「しかし」以下の論は無効だと思います。

>また、「コドリ」
>が日本語であるから いけないと いうのは その延長線上でしょうが、そういうときに
>「コドリ」は「五」と「鳥」からできた日本語であると かいてしまうような日本語に
>対する無知も問題です。日本語をはなすひとは、そんな奇妙な合成語をつくることは
>しないでしょう。これは起源が日本語であるとしても、あきらかに韓製日語です。そう
>いう正確な知識をつかって、語学的な事実に もとづいて どのような語が もともとの
>韓国語を侵食し、どのような語が もともと韓国語が なかったところに はいってきた
>外来語であるのかをあきらかにするのが国語学者の つとめであると おもうのです。

これは同感できますね。語誌についてはもう少し慎重に
なった方がいいと思います。

いや、ずいぶん長いのを書いてしまいました。
直接書き込んでいなかったので,こんなに長くなるとは思っても
みませんでした。お許しください。今度から気をつけます.

また、誤解している点も多々あると思うので、ご指摘ください。

それから、韓国文化人類学会からの月例会の情報(歴史清算
に関するもの)、ありがとうございました。

21あきづき:2003/04/28(月) 17:07
 こんにちは。

 3点に まとめらたので、それにそって簡単にコメントしておきます。

1点めについて
> 言葉の使い方の問題はさておき、もし、同じなら、ある程度の精神的満足は
> 与えられているという認識はあきづきさんと共通していると思われます
> が、いかがでしょうか。

わたしの かんがえでは、そのようなものが あるとしたら それは代理満足と
いうべきものだと おもいます。

2点めについて
> このハルモ二たちにとっては日帝日本語が日常的に使っていた言葉だと
> 思われるので、好き嫌いを超えて、それを使いたがる人はいらっしゃる
> でしょう。
> しかし、5,4,30代ぐらいの人(ことによると60代前半も)は
> テレビ等で日帝日本語が流れた来たら、嫌だと思う人が多いのでは?
> ということなんです。逆に言えば、国民全体を考えたら、不満を
> 感じている人は少ないのでは?ということなんです。

「逆に言えば」と かかれていますが、その前後で おっしゃっていることは
おなじことではないと おもいますよ。

わたしが なぜ慰安婦にされたハルモニの ことをもちだしたか わかりますか。
「日帝のきずをいやすため」という理由が あげられていたからです。

それなのに、いつのまにか 5,4,30代ぐらいの人(ことによると60代前半も)
というふうに、「嫌だと思う人」の層が 議論のなかで すりかわっているように
おもいます。

テレビなどの公共性の たかい ところでの ことばづかいを論じるのに「国民全体」
で どうかという基準をもちだすのなら それは それで わかりますが、それなら
日帝による精神的な きずをいやすという はなしは いったん きりはなして議論
するべきだろうし、「生活の周辺から外来語をおいだそう」という わたしが批判
しようとした主張を擁護する議論には なりえません。生活の周辺の ことばは、
そこで生活をしている ひとが きめることで、国民多数が どちらであるかと いう
ことで きめられるものではないのですから。

3点めについて
> aでは「韓国人の国語学者が韓国人の民族的意識を民衆と
> 共有しているということ」を一応は認めてるように見えますが、
> bでは国語醇化運動のための規範を支持する学者の押し付けを
> 批判しています。

おそらくミズさんは、言語政策というものが すぐれて政治権力によって統制される
ことによって なりたっているものだということを理解していないのだと おもいます。

日本に対する反感という民衆的な意識を共有することは 自然なことであると いえる
かもしれませんが、政治は その意識を別の目的に利用しますよね。そこに批判の
メスをいれるのが学問の やくわりではないかということをわたしは いっているのです。

ミズさんは「国語醇化運動のための規範を支持する学者の押し付けを批判して
います」と まとめたけれども、ちがいます。「国語醇化運動のための規範」という
ことばを無前提に もちだすところにミズさん自身の たちばが あらわれているの
です。わたしは、国語醇化運動のすべてに反対ではないが、規範をおしつけると
いう方法によって すすめられる国語醇化運動の ありかたには反対であると いった
のです。つまり、規範というものが ありうべき国語醇化運動のためのものであるか
どうかを問題にしているのに、その問題意識をうけとらずに「国語醇化運動のための
規範」と かいしまう行為は、一方的に結論を
だしてしまったうえで議論をすすめているものなのです。

ほんとうに民衆から支持されている運動なら、規範をつくり、それに したがわせると
いうような運動形態でない運動を つくることが できるはずです。

22あきづき:2003/04/28(月) 17:21
 ミズさん、こんにちは。気になったところがあるので質問します。

> 言葉の面においては、過去の清算は現実的には公的な場面での
> 日帝日本語の排除、過去の受容とは私的な場面での日帝日本語の
> 容認・植民地時代に入ってきた、韓国語の漢字音による日本語の
> 和語及び漢語(日本製韓国漢語)の容認になると思います。

どうして、そういうふうな分類で わりきれるのか、説明してくださいませんか。
「清算」されるべものと「容認」されるべものが、なぜ、公的/私的という線で、
または、日本語のオトそのものをとった外来語/日本語の漢字表記の韓国語式音読
という線で わけられるのでしょうか。そこに どのような合理的な根拠が ありますか。


あと、以下の部分はミズさんが誤解されていると おもいます。

(あきづき)
>ミズさんが おっしゃりたいのは、「それでも すこしでも つらい おもいを
>せずに すむのなら…」ということなんだと おもいます。それは そうでしょう
>けれども、それなら基本的に つかいたくない ひとが つかわなければ すむこ
>とだと おもいます。みんなが つかいたくなくて、いいかえるべき ことばが
>適切に しめされているのなら、自然に つかわなくなりますよね

(ミズさん)
> これはそういうわけには行かないでしょうね。例え、
> 現存している日帝日本語が生き残るだけの理由が
> あったとしても。公的な場面では。
> それが民衆の望んでいることだろうと思いますから。

わたしは、「民衆が のぞんでいるのだったら、適切な いいかえが しめされただけで
自然に つかわなくなるのでは」と かいたのです。ミズさんのコメントは 「そういう
わけには行かない」というものですが、そうすると「民衆の望んでいること」だから
「日帝日本語をつかう」という意味に とれますよ。なにか かんちがいをしていませんか。

23あきづき:2003/04/28(月) 17:29
>>20

こんにちは。こちらも気になったので。

> これは金先生が例として出した、いくつかの単語の中
> では日本語由来であることが知られていない単語がある
> ということで、知らないのもあるよということを
> わざわざ言うということは韓国語内の日本語由来の
> ものは大体知られているということではないでしょうか。

学者だから しっているのでしょう。「しらないで つかっている」ことが
おおいということは、金先生が かかれているとおりに うけとれますし、
わたしの体験上も そうです。

それから、わたしが方言について いったのは、民衆の意識に ねざした感覚を
間接的に検証するためでした。「私的言語だから ゆるしてもよい」「公的な
場ではダメ」ということこそが、規範主義です。別の ことばでいえば、タテマエ
です。タテマエの うえでの運動が民衆の意識に ねざしていると いうのは
むずかしいと おもいます。ほんとうに イヤだとおもう ひとびとの意識が
背景にあるのなら、むしろ私的な言語のほうから さきに きえていくはずでは
ありませんか。

24ミズ:2003/05/13(火) 09:06
おはようございます。
レスが遅れて,すみませんでした.さっそく、回答と意見を
送らせていただきます.

> 言葉の面においては、過去の清算は現実的には公的な場面での
> 日帝日本語の排除、過去の受容とは私的な場面での日帝日本語の
> 容認・植民地時代に入ってきた、韓国語の漢字音による日本語の
> 和語及び漢語(日本製韓国漢語)の容認になると思います。

これは合理的な根拠があって,分類したものではなく,今の韓国の
現状を見て,分類したものです.

>ほんとうに イヤだとおもう ひとびとの意識が
>背景にあるのなら、むしろ私的な言語のほうから さきに きえていくはずでは
>ありませんか。

これもそうだとは思いません.嫌だという気持ちが常にどんな場合でも
同じように嫌だというものでもないと思います.

公的な場面で日帝日本語を見聞きするのは、多数の韓国人が
嫌なんじゃないかということです。

私的な場面では容認しているわけですから,それほど嫌というわけでは
ないでしょう.
ただし、私的な場面での容認が公的な場面での容認にはつながらないと
いうことです。
私的な場面での容認と公的な場面での容認は別次元の問題なので,
切り離して考えたほうがいいのではないでしょうか。

論点を整理したいと思います.
1、国語醇化運動は押し付けである。(ミズ)現実醇化運動はそうでは
                     ない。
2、生活の周辺から日帝日本語を追い出そうとする動きに反対.
 (ミズ)民衆に対する影響力はほとんどないと思うが、反対.
3、国語醇化運動は一定の評価。(ミズ)現実醇化運動は評価。
4、生き残った日帝日本語は容認。(ミズ)私的な場面ではOK。
 *現実醇化運動=公的な場面で日帝日本語を排除すること

1については、あきづきさんは押し付けという立場でしょう.
しかし、代理満足であれ,少なくない数の韓国人がある一定の
精神的満足を得ているとおっしゃるのなら、押し付けとは言いきれない
のでは?少なくとも、現実醇化運動は。

私的場面では容認、公的場面では排除という現実醇化運動は
建前とも思えません.理由は上と同じです.公的場面での排除で、
精神的満足を得ていると思えるので。
ですから、精神的満足を得ているとするあきづきさんもこれを
建前とは言えないのでは?少なくとも、現実醇化運動は。

誤解について

>それなのに、いつのまにか 5,4,30代ぐらいの人(ことによると60代前半も)
>というふうに、「嫌だと思う人」の層が 議論のなかで すりかわっているように
>おもいます。

精神的満足を得る人を植民地時代の体験者だけとは初めから限定
していません。

>テレビなどの公共性の たかい ところでの ことばづかいを論じるのに「国民全体」
>で どうかという基準をもちだすのなら それは それで わかりますが、それなら
>日帝による精神的な きずをいやすという はなしは いったん きりはなして議論
>するべきだろうし、「生活の周辺から外来語をおいだそう」という わたしが批判
>しようとした主張を擁護する議論には なりえません。

公的な場面での日帝日本語の是非と日帝による精神的な きずを
いやすという はなしを切り離すことはできません.
日帝によって精神的な傷を受けた人はその時代を生きていた人
だけではないからです。

> これはそういうわけには行かないでしょうね。例え、
> 現存している日帝日本語が生き残るだけの理由が
> あったとしても。公的な場面では。
> それが民衆の望んでいることだろうと思いますから。

「公的な場面では日帝日本語を使いたくない人が使わなければすむ
というわけにはいかないでしょう.公的な場面での排除は
民衆の望んでいることだろうと思うから」ということ。

>学者だから しっているのでしょう。「しらないで つかっている」ことが
>おおいということは、金先生が かかれているとおりに うけとれますし、
>わたしの体験上も そうです。

金先生が知っている、知らないという問題ではなく,あくまで、
普通の人が日帝日本語だとわからないものがあるということ。
また、知らないで使っていることが多いということは
日帝日本語だとわからないものが多いということではありません。

> bでは国語醇化運動のための規範を支持する学者の押し付けを
> 批判しています。

これはあきづきさんの元の文を受けているので,ただの「規範」
ではなくて、「押し付けの規範」です。
ですから、あきづきさんのおっしゃりたかったこととあまり
変わらないのでは?


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