したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

【1565】大包囲戦【The Great Siege】

1まこり〜の:2005/05/18(水) 20:38:08 ID:4sJFRfpU
今日、5月18日は、440年前に、マルタ攻略を狙う、
オスマン・トルコの艦隊が、マルタ沖に現れた日。
当初トルコ軍は、マルタ北部の、メリハ周辺の海岸より、
部隊を上陸させ、イムディナを衝くことを考えたが、
このあたりの海岸が、大規模部隊の上陸に向かないことを知り、
艦隊はマルタ南部への回航された。

2まこり〜の:2005/05/20(金) 12:26:04 ID:Z2WVa5rk
5月20日、マルサシロクの主力はじめ、ビルゼブジャ、マルサスカーラに、
オスマン・トルコ軍が上陸。

ゼイツン付近で、騎士団と、トルコ軍が交戦。

3まこり〜の:2005/05/27(金) 12:21:03 ID:bzLjXc52
>>1
騎士団側が、トルコ艦隊の来寇をみとめると、
イムディナ、ビルグ、セントエルモ砦から、警報として、それぞれ三発ずつの砲声が鳴った。
また、ゴゾのシタデルもそれに応えて、三発の砲声を鳴らし、ついで、イムディナからの警報の狼煙を確認した。

警報をうけて、マルタの住人は、家財を持ち、すべての家畜を連れ、イムディナ、ビルグ、セングレアの
城壁の内へ避難を始めた。

上陸後のオスマン・トルコ軍が、水源のひとつとして期待しているであろう、マルサの井戸は、
苦味のつよい香草(一説には毒)で、埋められた。

4まこり〜の:2005/05/27(金) 12:22:38 ID:bzLjXc52
>>2
別の資料では、トルコ艦隊が、マルタ沖に現れた翌日の
5月19日には、トルコ軍と、騎士団による、この最初の戦闘が起こったとある。

ゼイツン付近の戦闘は、イェニチェリ(スルタンの親衛隊)の分遣隊を主力とする
トルコ側の先遣上陸隊と、騎士団の騎馬偵察隊との不規遭遇戦だったもよう。
この騎士団側の部隊は殺されるか、捕虜となるかしている。

トルコ軍の先遣上陸隊の任務は、周辺での家畜、作物の確保、住民を捕らえての尋問、
セングレア、ヴットリオサ南側正面への威力偵察であった。
しかしながら、家畜と作物は、各砦に避難した住民が、城壁の内側に運び込んだために確保できなかったようである

イムディナから出た、騎士団の騎兵部隊が、トルコ先遣隊に対しての、威力偵察も行ったりしている。

5まこり〜の:2005/05/27(金) 13:00:00 ID:bzLjXc52
初期の小競り合いや、威力偵察などから、
ビルグ、セングレア南正面の防備が堅いとみたトルコ側は、
最初に攻撃の主力を、セントエルモ砦にむけると、5月24日にきめた。

マルサシロクで揚陸された攻城砲が、陸路、家畜、ガレー船奴隷によって
シベラス半島(現ヴァレッタ)に運ばれ、セントエルモ砦にむけて、据えられた。
26日には、最初の砲撃が、27日には、最初の突撃が行われた。

騎士団総長のジャン・パリゾ・デ・ラヴァレッテは、
事前にスパイからの報告で、トルコの主攻が、まずセントエルモ砦に向くことをきき、
これを良いニュースとしてとらえた。
防戦側の本拠となる、ビルグとセングレアへの攻撃が薄くなれば、
シシリーから援軍が到着するまでの時間を稼ぎやすくなるからである。

6まこり〜の:2005/05/30(月) 21:56:56 ID:4sJFRfpU
5月30日、名高き海賊ドラグートが到着。

海賊とはいっても、トルコ海軍の一翼を担い、
トルコが騎士団から奪ったトリポリの代官もつとめていた。

手勢をもって、オスマン・トルコ軍に加勢するのも、
マルタにやってきた目的のひとつだが、
なによりもドラグートは、砲術の専門家でもあった。

7札幌窓辺のねこ:2005/05/30(月) 23:23:04 ID:soScPe8g
師匠、あのー、大包囲戦の話ぢゃないのですが・・・。
映画“キングダム・オブ・ヘブン”観て以来、
突然十字軍に嵌りまして(今頃かよ!)、色々調べております。
で、聖ヨハネ騎士団またの名をホスピタラーまたの名をマルタ騎士団の
トレードマークはかつて、黒地に白クロスだったみたいですが、
何時の間にか、赤地に白クロスになっちゃっていますよね。
何時、どういう流れでそうなっちゃったのか、ご存知ではないでしょうか?

8まこり〜の:2005/05/31(火) 12:21:24 ID:bzLjXc52
>>7
今でも、僧服では、黒地に白となります。

ここからは、きちんと資料をあたったわけではなく、
私見となりますが、
聖ヨハネ騎士団は、マルタに来る以前より、赤地に白の十字(ギリシア十字)の旗を用いてました。
奇しくも、これは、マルタをアラブより「解放」したノルマン伯ロッジェール(ロジャー)が、用いていたのと
同じ旗になるわけですが、これに、マルタ十字の意匠をあてはめたのが、
今日よく見る赤地に白のマルタ十字ではないかなあと。

ちなみに、赤地に白のギリシア十字の旗は、
今でも、マルタ騎士団国の国旗として使われています。

9まこり〜の:2005/05/31(火) 12:21:52 ID:bzLjXc52
>>6
ドラグートの到着後、オスマン・トルコ軍の、セントエルモ砦への砲撃は、
数と、効果ともに増したと、篭城側が記録している。
また、ドラグートは、マルタ到着後すぐに、
マルサムセット湾をはさんで、セントエルモ砦に攻撃を加える
スリマのティグネ岬の砲兵陣地の増強と改善にとりかかっている。
この岬の突端は、今日では、彼の名にちなんで、ドラグート岬と呼ばれる。

10札幌窓辺のねこ:2005/06/02(木) 03:39:32 ID:soScPe8g
>>8
師匠、レスありがとうございましゅ。

映画の中でもホスピタラーは黒地の服、
カラヴァッジオの絵にも黒地のが登場しますが。
服と旗は違うっていうことなのかしらん?
それとも、騎士団の中で階級みたいなものがあって、僧と兵士は違うとか。
うーむ、これはもうちっと調べてみる必要あり、だな。

なんか、エルサレムに行ってみたくなってきた・・・。

11札幌窓辺のねこ:2005/06/02(木) 06:04:45 ID:soScPe8g
って、早速、某サイトに記述があったのを発見しました!
“彼らは通常、白地の十字のついた黒いマントを羽織っていますが、
戦闘になると聖堂騎士団同様の白地に赤い十字のマントを見に付けていました。”
ですって。
納得。

12札幌窓辺のねこ:2005/06/02(木) 06:14:41 ID:soScPe8g
あれ?納得、と書いたものの、
これ変くない?
“聖堂騎士団同様の白地に赤い十字のマントを見に付けていました。”
“同様の”ぢゃないよね?
赤・白が反対だ。
まあ、ともあれ、戦闘の際は黒地じゃなくて、赤地だったってことね?
因みに“見に付けて”と、漢字も違うし。
ここのサイトマスターさんにお知らせしちゃおうかなぁ・・・。

13まこり〜の:2005/06/03(金) 12:51:31 ID:bzLjXc52
>>10-12
我々が今日イメージする旗って、船の所属を示すのが
はじまりだったからね。

おっしゃるとおり、戦闘時には、鎧のうえから、
赤地に白のギリシア十字ないしはラテン十字のマントをつけます。

騎士団においては騎士は、将校、下士官にあたり、
兵の部分を構成するのは、武装従者や、用兵でした。

大包囲戦では、後に送られた援軍とは別に、シシリーから派遣された
スペイン皇帝軍の部隊も、当初から防戦に参加していました。

14まこり〜の:2005/06/14(火) 13:06:42 ID:bzLjXc52
ドラグートの到着により、オスマン・トルコのセントエルモ砦に対する砲撃は、火力、精度ともに増した。
さらに、トルコ軍は、砦前方の防壁を突破。
砦は、攻勢を真正面で受け止めることになる。

ドラグートは、ティグネ岬の砲台を強化した他に、
カルカラのガロウズ岬にも、セントエルモ砦と、ヴィットリオサを砲撃する目的で砲台を構築したが、
イムディナより出撃した、騎士団の騎兵隊の襲撃で、一度破壊された。
セントエルモ砦は、これによって、多少は息をつくことができたようである。

ほどなく、ガロウズ岬の砲台をドラグートは再構築した。
今度は、手勢を船より上陸させ、襲撃に対しての防備を固めることも忘れなかった。

6月10日夜、セントエルモ砦に対する、トルコ軍の夜通しの攻撃が行われる。
今のヴァレッタの中心部にあたるシベラス山、ティグネ岬、ガロウズ岬よりの、
制圧砲撃の後、イェニチェリに督戦されたトルコ部隊の突撃が夜明けまで続いた。
砦南西の壁の損傷が著しく、トルコ軍はそこに殺到したが、
砦は、ヴィットリオサからの、グランドハーバーを越えた支援砲撃にも支えられ、
この夜の戦闘にもちこたえた。

戦闘の終了後、砦と、トルコ軍の前線のあいだには、
おおよそ1、500のトルコ兵の戦死体が転がった。防戦側の死者は60名。

15まこり〜の:2005/06/15(水) 13:32:45 ID:bzLjXc52
トルコが、6月10日の夜、セントエルモ砦に終夜の攻勢をかけた理由には、
砦の攻略が遅々としてはかどらないうえに、損害の大きいことへの焦りのみならず、
セントエルモ砦に戦力を割いている間に、
島の外より、騎士団への援軍が入るのではという恐れもあったようだ。

事実、6月10日、ゴゾの北の沖に、シシリーからの500人の援軍を乗せた、
騎士団のガレー軍船が二隻、姿を見せた。
二隻は、しばらくそこにとどまったが、援軍の揚陸は困難とみて、北へ去った。

ドラグートは、これを、さらなる大規模な援軍の先遣隊ではないかと疑い、
その進言をうけたトルコ海軍のピアリ提督は、あわてて、100隻のガレー軍船を、
ゴゾとシシリーの間のマルタ海峡の広い範囲での哨戒に出動させた。

16まこり〜の:2005/06/15(水) 13:42:01 ID:bzLjXc52
大包囲戦関連の、史資料をあたっていると、
小火器を表す言葉として『アーケブス(arquebus)』と、『マスケット(musket)』が、
それぞれ別のカテゴリのものというニュアンスで登場する。
「はて?マスケットは火縄銃のことだが、アーケブスとは....?」
と、当初戸惑っていたのだが、調べてみたところ、
16世紀当時、1人で扱える、一丁の重量が数キロ程度の、
比較的軽量で口径も小さい(当時としては)火縄銃のことを『アーゲブス』と呼び、
口径が大きく、銃そのものの重量も重く、体格の良い兵が、
二脚や台架に乗せて扱った火縄銃を『マスケット』と呼んだとのこと。

現代でいえば、前者は歩兵銃で、
後者は、遠距離狙撃、陣地車両攻撃用の対物ライフルといったところか。

口径の大きさにかかわらず、火縄銃全般をさして、『マスケット』というようになったのは、
16世紀後半から17世紀にかけてとのこと

17まこり〜の:2005/06/15(水) 13:47:16 ID:bzLjXc52
>>16
さらに余談。
マルタでもロケが行われた映画『カットスロートアイランド』にて、
終盤の宿敵との戦闘シーンで、主人公のジーナ・デービス演じる海賊の女頭目が
「ライフルを!」と叫ぶところがあった。字幕がそうあっただけでなく、英語の台詞でそう叫んでいた。

あの当時、まだ『ライフル銃』は発明されていないのだが.......(ーー;)

18まこり〜の:2005/06/20(月) 12:35:57 ID:bzLjXc52
6月18日、海賊にして、トリポリの総督でもある、ドラーグート死亡。
侵寇軍総司令官ムスタファ・パシャ、海軍提督ピアリや、他の幕僚とともにシベラス山の戦場を視察中でのこと。

グランドハーバーの対岸より、一行の姿を認めた、セントアンジェロ砦の砲手が、慎重に狙いを定めて、砲弾を放った。
砲弾は、一行の誰にも当たらなかったが、乾いた岩の地面に着弾した砲弾は、多くの石のつぶてを飛ばした。
そのうちのいくつもが、ドラグートに当たり、右の耳のあたりに当たった石が致命傷になった。

ムスタファ・パシャは、すぐにドラグートの遺体を隠すように命じた。
うろたえたわけではないが、ドラグートの死が知られることによって、士気が衰えることを恐れたのである。
しかし、ドラグートの死は、トルコ陣営にほどなく知れ渡ることになり、この夕刻には、
脱走兵(※)によって、ドラグート戦死の報は、騎士団にももたらされた。

ドラグートの死によって、実際、トルコ軍の士気は落ち、攻勢に勢いがなくっなった。
だが、ドラグートが、トルコ軍の砲兵工兵に与えた助言は、着実に効果を積み重ねていて、
数日中に、セントエルモ砦が陥落するのは明らかだった。


(※)トルコの陣営には、トルコ領内各地から徴集されたキリスト教徒の兵士人足が多くおり、
また、戦闘や海賊行為などで捕らえられたことによって、奴隷となったキリスト教徒もいた。
これらが、スキを見て、戦線を越えて、セングレアや、イムディナに逃げ込むことがよくあった

19まこり〜の:2005/06/20(月) 18:45:24 ID:bzLjXc52
>>18
ドラグートは、砲撃をうけた際、負傷はしたものの、その後数日生き続け、
死亡したのは、セントエルモ陥落の日であったというハナシもあるのだが、
そうなると「講談くさい」ので、ここでは、「ほぼ即死」のほうを採用した。

20まこり〜の:2005/06/20(月) 18:48:44 ID:bzLjXc52
>>17
ライフル、つまりは銃身の施条の発明は1742年。
「カットスロートアイランド」は、ジャマイカのポートロイヤルの街が健在であることから、1692年以前の物語。
やっぱり、ライフル銃は発明されていない。

21まこり〜の:2005/06/23(木) 12:38:25 ID:bzLjXc52
ドラグートの退場により、士気が衰えたとはいえ、トルコ軍の波状攻撃はつづく。
双方の遺体と瓦礫によってセントエルモ砦前面の壕は埋まっていた。

6月21日には、トルコ軍は、マルサムセット湾側より壕と堡塁を突破。
一度は追い返されるが、6月22日再び同じところを突破。
砦は、正面と、マルサムセット湾側より、挟撃をうけることになり、
また、ビルグ、セングレアからの連絡補給も困難を極めることとなった

夜、1人のマルタ人兵士が、セントエルモ砦の守備隊よりのメッセージをもって、ビルグに泳ぎ着く。
騎士団総長ラ・ヴァレッテは、ボート5隻を準備し、砦への増援を募った。
騎士十数名を含む志願者で、ほどなくボートは埋まった。

グランドハーバーに進み出たボートの一団に対して、
ガロウズ岬の銃砲が火が吹くとともに、トルコ側も、グランドハーバーに
ボートの一団を送り出して、この援軍行く手をばはんだ。
援軍は士気が高くとも、すべなくビルグに引き返した。

この様子を見ていた、セントエルモの守備隊は、終りが間近なことを覚悟した。
砦の中に、最後にまでとどまり、守備隊の信仰上の支えであった2人の神父は、
聖具を、チャペルの石の床の下に埋め、埋められないものはトルコの手に渡らないように燃やした。
このときまでに、守備隊は、死に臨んでの、告解(懺悔)と、聖体拝領(※)をすませていた。

明けて23日、守備隊は、トルコ軍の攻撃開始の声があがったとき、
守備隊の動ける負傷者は、全員が武器をとった。砦の中で負傷していないものなど、
ほとんどいなかったのだが。
騎士の中には、立ち上がれないほどの傷を追いながらも、椅子に座って防戦に就いたものもいた。

その日の戦闘は、それまでの精鋭部隊による波状攻撃ではなく、潮がよせるように、
トルコの軍勢が砦のまわりに集まり、各所にできた突破口から、
押し込んでいくというかたちだったという。
そして、砦から騎士団の旗が降ろされ、かわりに、スルタンの旗印がひるがえった。

「2、3日で陥落させられる」と、スパイがスルタンに報告したセントエルモ砦は、
一ヶ月もちこたえたのちに陥落した。
トルコ軍は、セントエルモの攻略に、時間だけではなく、数千人もの人員も失った。
陥落直後の砦にはいった、侵寇軍総司令官のムスタファ・パシャは、
グランドハーバーの対岸にいぜんひるがえる騎士団の旗を見て、
「神よ、我々はまだ犠牲を払わねばならないのか」と嘆いた。

※キリストが「最後の晩餐」の際に、自分の身体であるとして弟子たちにパンを取分けたことにならって、
「ホスティア」という小さく薄い種無しパンを食べる儀式。
キリストの聖霊との交わりや、原罪への救いを求めるもの。

22まこり〜の:2005/06/27(月) 13:26:11 ID:bzLjXc52
セントエルモ砦陥落の日、四隻のガレー船でシシリーよりやってきた、700余人の、騎士団への援軍が、密かに、マルタ北西の海岸に上陸した。

この部隊は、地形と、夜、シロック(シロッコ、南西から吹く季節風)のもたらす霧を巧みに利用して、トルコ軍のパトロール網と、戦線を、くぐり抜け、カルカラの入り江に到着。
入り江には、先に送られた伝令によって、援軍の到着を知っていたラ・ヴァレッテが遣わした舟が、待っていた。
カルカラの入り江の最奥部の海岸をはじめとして、周辺には、トルコの部隊がいたが、霧に守られた部隊は、悟られることなく、ビルグに入った。
騎士団に援軍がやってきたのを、トルコが知るのは、この夜が明けてからである。

この部隊は、大包囲戦の物語の中で、後に「小さな援軍(Little Releaf)」と、呼ばれることになる。

23まこり〜の:2005/07/01(金) 12:30:07 ID:bzLjXc52
「船頭、多くして、舟、山に登る」という言葉があるが、
知る限りでは、オスマン・トルコは、二度、舟を山に登らせている。
一度目は、メフメット二世による、コンスタンティノープル攻略の際の、
かの有名な「トルコ艦隊の山越え」である。

二度目は、マルタである。
セントエルモの陥落後、マルサムセット湾から、
シベラス半島の付け根越えるようにして、
舟をグランドハーバーに運び込んだ。
ちなみに、コンスタンティノープル攻略のときは、27隻が山をこえたが、
この時は、数日かけて、大小80隻が「陸を渡った」。

セングレアのトルコの陣営に面している、南西岸の沖合いには、
先端を尖らせ、鉄を被せた、クイが、何本も立てられていた。
それぞれのクイは互いに鎖で結ばれていて、満ち潮の時、
舟がセングレアをめざしてやってきたときには、舟底を破るように
仕掛けられていた。

このことを知ったムスタファ・パシャは、
セングレアの防御は、陸側に重点をおいていて、
南西岸側は、火力が薄いと判断。
海から攻めて、セングレアを落とすとして、
ビルグのセントアンジェロ砦の強い火力を避けるために、
マルサムセットより、陸をまたいで舟を、マルサまで移動させた。

24まこり〜の:2005/07/07(木) 12:54:35 ID:bzLjXc52
>>23
「船頭、多くして、舟、山に登る」の余談

第二次大戦時、
英国がジブラルタル海峡をしっかり押さえているがため、
ドイツ軍は、大西洋岸から地中海への艦艇の回航が、海上で行えず。
魚雷艇などを、陸路で移送したことがある。

25まこり〜の:2005/07/12(火) 18:23:02 ID:bzLjXc52
セングレア西岸の防柵を破壊するために、
トルコ軍は、泳ぎにすぐれた兵を集めた。
彼らは、手斧をもち、フレンチクリークの、防柵までの百数十メートルを、
泳いで渡った。

防戦側も、トルコ軍の意図をすぐさま読み取り、
トルコの工作隊撃退の志願者が募られ、
ただちに、何人ものマルタ人が応じた。

志願者たちは、セングレアの城壁と岩の河岸を駆け下りて、
海に滑り込み、匕首や短剣を口にくわえて、トルコの
工作隊に迫った。

いかにトルコが、泳ぎに優れた兵を集めたといえど、
水中での活動は、幼い頃から海に親しんだマルタ人のほうが、
数段上手だった。
志願者たちが防柵に至って数分で、工作隊は撃退された。


翌日、トルコ側は、武装兵士を乗せたボートを何隻か、
防柵まで送り込んだ。
ボートで陸からロープ送り込み、それを防柵に結び付け、
地上のろくろ(※)でロープを巻き上げて、防柵を引き抜こうという策である。

ロープを柵にかけ、巻き上げはじめるところまでは、
うまくいった。
しかし、この日も、小さな刃物だけを手に、海に入ったマルタ人たちによって
ロープが切られ、トルコ側の企ては、成功しなかった。


(※)キャプスタンをあえて「ろくろ」と訳してみますた。

26まこり〜の:2005/07/12(火) 18:26:09 ID:bzLjXc52
騎士団側は、トルコのマルタ侵寇がいつはじまるのか、
はじまるのならば、侵寇部隊の規模と、その指揮官は誰かを探るために、
トルコ側は、騎士団の防備の体制、城塞の構造と弱点を探るために
それぞれ、商人などのユダヤ人を、スパイとして用いていた。
この当時から、ユダヤ人はスパイとして優秀だった?

ちなみに、
ロードス島包囲戦の最中、騎士団側の情報を
トルコにもたらしつづけたのは、ユダヤ人の医師であった。

27まこり〜の:2005/07/19(火) 12:25:26 ID:bzLjXc52
ムスタファ・パシャは、セングレアの防柵の撤去に、
これ以上の時間を割くことはできないとして、7月15日早朝より攻勢にでた。

まずは、ドラグートの義理の息子でもあるアルジェ総督ハセムの副官、
キャンデリッサの率いるアルジェリア人部隊が、舟でセングレアに向かう。
漕ぎ手が力任せにオールを漕ぐが、やはり、防柵に阻まれて
立ち往生してしまう。
そこへ、セングレアの城壁から、火縄銃が火を噴き、
さらには、臼砲による砲撃が加わる。
キャンデリッサは、自ら真っ先に、舟から海にとびこむ。
アルジェの戦士たちも、それに続く。
盾を頭上にかかげて、銃撃を防ぎながら、
防柵での狙撃、砲撃を生き延びた一団は、セングレアの海岸に泳ぎつき、
城壁の下にはりついた。

キャンデリッサの海からの攻撃に呼応して、
ハセムも手勢のアルジェの戦士たち率いて、セングレアを
陸側より攻める。
トルコの精鋭部隊よりも、さらに交戦的なアルジェリア人部隊は
砲撃で隊列に穴をあけられても、かまうことなく、
前進し、城壁にとりつく。

やがて、海側の城壁の一部が爆破される。
防衛側が混乱し、ひるんだスキに、キャンデリッサと
その手勢は、破壊された部分より、城壁に登る。
陸側の城壁とともに、ここでも、激しい白兵戦が展開される。

セングレアの南側の城壁に、トルコの旗印があがったのを見て、
ラ・ヴァレッテは、ビルグより、セングレアに増援を送ることにした。
ビルグとセングレアの間に浮き橋を、味方が渡ってくることを察した
セングレアの守備隊は、元気を取り戻し、激しい白兵戦の中、
持ち場にとどまった。

キャンデリッサの手勢によって、トルコの旗印が、
セングレア南岸の城壁に、あがったのを見た、
ムスタファ・パシャは、予備隊投入の好機とみて、合図を送った。
1000人のイェニチェリが分乗した、10隻の舟が、
合図を受けて、マルサから、グランドハーバーに進み出た。

陸側と、南岸側の防戦のために、備えの薄くなった
北側先端よりセングレアを強襲し、防戦側の背後を衝くという作戦だった。

28まこり〜の:2005/07/19(火) 12:28:58 ID:bzLjXc52
10隻の舟に目を配っていたのは、ムスタファ・パシャだけではなかった。
ビルグの半島の突端、高きセントアンジェロ砦たもとに、巧妙に隠蔽された
五門の砲を備える砲台があった。
砲台の指揮官、騎士ラ・ギラルは、マルサから、グランドハーバーに進んできた
10隻の舟を見て、その意図を読み取った。
ラ・ギラルは、指揮下の五門の砲をセングレアの方向にむけ、
鎖弾(※1)と葡萄弾(※2)をこめるように命じた。

舟が、セングレアの先端北側への上陸を目論んでいると、
確信したラ・ギラルは、五門の大砲で、最初の斉射を加えた。
距離は200メートルほど。これで9隻が損傷。
さらに続けて二回の斉射で9隻が沈み、800人のイェニチェリが死んだ。
残った1隻と生き残ったイェニチェリは、なんとか対岸の
シベラス半島にたどり着くありさまだった。

ビルグよりの援軍にもささえられ、
セングレアは、激しい白兵戦によく持ちこたえ、攻撃を押し返した。
攻撃側は、人的損失が著しい上、昼にいたって、
マルタの夏の気候に、兵士の体力の消耗もはげしく、
攻勢を継続できなくなった。

南岸にはりついた、キャンデリッサは、体ひとつで、
命からがら逃げ戻ることになった。

※1:鎖弾(Chain Shot)
ふたつまたはみっつの砲弾を鎖で繋いだもので、
敵船の帆を破く、索を切るといった効果を期待して発射される。
帆などに当たらなくとも、人体に当たれば殺傷能力はあるし、
船体に当たった場合の破壊効果もそれなりに期待できる。

※2:葡萄弾(Grape Shot)
大砲の口径より小さな砲弾を、木ないしは金属の枠で
複数まとめたもの。枠でまとめられた様子が、葡萄の房のように
見えるためこのように呼ばれた。いわゆる大砲の散弾。

29札幌窓辺のねこ:2005/07/21(木) 07:36:45 ID:LTCgc3mM
やっぱりちょっとスレ違いかとも思うのですが、他に歴史っぽいのが無いみたいなので・・・。

今、N●Kでやっている“伊太利亜縦断1200キロ”。
初日はアマルフィだったのですが、それ見ていたら。
あら?なんだか街のシンボルが見たような十字だわ・・・。
で、調べたら、やはりアマルフィの旗にはマルタ十字が入っています。
あ。
そー言えば、聖ヨハネ騎士団の基は、アマルフィの商人達が築いたのではなかったっけ?
で、色々確認してみたら、やっぱりそうだ!
サビッハ・マルタの本でも少し触れていますね。
・・・っつう事は、マルタ十字のデザインはアマルフィからやって来たってことになるのかなあ。

ああ、面白い♪

30青葉マーク:2005/07/21(木) 10:30:43 ID:.8BKizOE
>>29
札幌窓辺のねこさぁん、私も見ました!>N●Kの世界遺産特集アマルフィ
そうそう!8つの尖端をもつ十字・・・思わず鼻息荒くなりました。
イタリアの権威・陣内センセイも、N●Kの海外ロケのおいしい仕事ご用達アナ・住吉アナウンサーもひとっことも触れてくれませんでしたけど(しかたないか・・・)。

今夜はサン・ジミニャーノですね(23:15〜)。
数年前に行った大好きな場所なので、またなにか住吉アナがスットコドッコイなことでも言おうものならツッコミ入れてやろうと今から手ぐすね引いてます(笑)。

31まこり〜の:2005/07/21(木) 12:38:07 ID:bzLjXc52
>>29
歴史スレも立てるべし?

そのとおり。
マルタ騎士団は、アマルフィの商人がはじめた
巡礼者のための施療院に由来するので、
もともとアマルフィの紋章である、八点十字を使っているのです。

32札幌窓辺のねこ:2005/07/22(金) 01:32:47 ID:LTCgc3mM
>>30
青葉マークさん!
そうです!あれ見た途端、ホント、ねこも鼻息荒くなりました。
住吉アナ・スットコドッコイ説にも、激しく同意です!!

サン・ジミニャーノ、ねこも大好きです。
トスカーナに行くと、つい訪れてしまいます。

>>31
師匠、やっぱりアマルフィがオリジナルなんですね。
へぇ〜ふぅ〜ん、凄いな。面白いな。歴史って♪

33名も無き騎士さん:2005/07/22(金) 12:40:29 ID:bzLjXc52
>>32
ちなみに、十字は、キリストのずっと以前の超古代から、
太陽(日輪)を抽象化した意匠として、世界中にありました。

34まこり〜の:2005/07/22(金) 12:41:22 ID:bzLjXc52
>>33は、オレだよ。オレオレ

35札幌窓辺のねこ:2005/07/23(土) 03:12:51 ID:SERKY50g
>>34
なんか、“なんとか詐欺”みたいですね、師匠!

蛇足ですが、十字を切る仕草、
眉間から胸の中心、両腕の付け根を触れてくワケですが。
これ等の場所は何気に“気”とか“ツボ”とかに於いて大切なポイントで、
そこにタッチすることで、緊張を和らげ、集中力をアップする効果があるそうです。

36まこり〜の:2005/07/25(月) 09:43:00 ID:bzLjXc52
>>35
それは知らなんだ。

37まこり〜の:2005/08/04(木) 19:15:10 ID:bzLjXc52
7月15日の攻勢が、多大な損失をともなって失敗したため、
ムスタファ・パシャは、砲撃によって、篭城軍を消耗させることにした。
昼夜を問わず、ビルグとセングレアには砲撃が加えられた。

8月2日朝より、オスマン軍は、砲撃の勢いを強めた。
その音は、シシリーのカターニアでも聞かれたという。

さらに砲撃が五日間続いた後の、8月7日の夜明け前。
砲撃が止み、オスマン軍の、ビルグ、セングレアの陸側正面に対する、
大規模な突撃が開始された。

ビルグでは、カスティリア騎士団の砦付近の外壁の裂け目に
オスマン軍が殺到。
たちまち、多くが外壁を乗り越えたが、
これは、防戦側が仕掛けた罠であった。
外壁の内側の、せまい突入路に多くが殺到し、身動きが
とれなくなったところを、周辺の建物の上や、
内壁の守備隊から、銃火、ギリシア火、擲弾をあびせられ
突入したオスマン軍の多くが倒れた。

ところが、セングレアの守備隊は、オスマン軍に圧倒されつつあった。
ムスタファ・パシャは、セングレアの陥落が間近であると確信し、
防衛側の多くも、奇跡でも起きないかぎり
セングレアが落ちるのはまぬかれないと思い始めていた。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板