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【戦前】 三鷹市 【戦中】
1
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太宰治@走れメロス
:2010/03/16(火) 10:58:25 ID:ds/HeLM20
【2009.12.03】戦闘機プロペラ出土 旧陸軍調布飛行場
http://mytown.asahi.com/tama/news.php?k_id=14000000912030002
旧陸軍調布飛行場(三鷹、調布、府中市)の三鷹市側の敷地から、軍用機3機のプロペラと機体の頭部が発見された。陸軍の主力戦闘機だった「飛燕(ひえん)」と、飛燕を改良した「五式戦闘機」のものとみられる。同飛行場から戦闘機のプロペラが見つかったのは初めて。市教委は貴重な歴史遺産として、公開を含めて保存・活用方法を検討している。(佐藤清孝)
見つかったのは、三鷹市が都立武蔵野の森公園の一角で進めている大沢総合グラウンド整備工事(約5ヘクタール)の野球場予定地。11月中旬、深さ約2メートルから3枚羽根のプロペラ三つが出土した。その後、プロペラが埋まっていた約50センチ下から機体の頭部の一部も発見された。
プロペラはかなりさびついていた。どれもかなり腐食が進み、長さは1.2メートル〜0.5メートルほどしか残っていない。
市教委が航空ジャーナリスト協会理事の小室克介さん(73)=調布市若葉町=に調査を依頼したところ、プロペラ部品の特徴から二つが「飛燕」で、もう一つが改良型の「五式戦闘機」とわかった。
また、機体の頭部はスピンナー(回転帽)と呼ばれ、プロペラにつながる。直径50センチ、長さ50センチで、一部腐食しているが、原形をとどめていた。一緒に出土した、「五式」の特徴を示す部品を組み合わせたところぴったりと合い、「五式」と確認された。
小室さんによると、五式は大戦末期に造られ、その数は400機に満たないという。海外では唯一、英国内で展示されている現存機を見ているが、「国内では初めて部品を見た。よくここに残っていたと思う」と感激している。
一方、「飛燕」は陸軍の主力戦闘機として採用され、3千機以上が造られた。調布飛行場には1943年7月に配備されたが、敗戦後は連合軍の命令でプロペラを外し、本体は米軍がガソリンをかけて燃やしたとされる。
現地を視察した郷土史家の古橋研一さん(62)=調布市国領町=は今回の出土について「占領されても戦闘機は渡したくない、と米軍が入ってくる前に象徴だったプロペラなどを意図的に埋めた人がいるのでは」と推測する。
市民グループ「調布飛行場の掩体壕(えんたいごう)を保存する会」の上野勝也さん(82)=同市深大寺東町=は感慨深げだ。掩体壕は軍用機の格納庫で、同飛行場周辺では戦時中飛燕が納められた。上野さんは昨年府中市の市史跡に指定された白糸台掩体壕と、武蔵野の森公園(三鷹市)で保存されている2基に「歴史遺産としてぜひプロペラを展示・公開してほしい」と話している。
【飛燕と五式戦闘機】 飛燕は三式戦闘機の愛称。ドイツのダイムラーベンツの技術を基に、国産化した水冷エンジンを搭載した。高空能力に優れていたが、エンジンの故障に悩まされた。飛燕のエンジンを直径の大きな空冷に変えたのが五式で、機体はスマートな飛燕をそのまま使ったため、頭でっかちのずんぐりした格好になった。陸軍が採用した最後の戦闘機で、敗戦が近い1945年4月から配備された。
2
:
太宰治@走れメロス
:2010/03/16(火) 11:00:11 ID:ds/HeLM20
【2010.02.17】 陣地跡で慰霊祭 三鷹
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyo23/news/20100218-OYT8T00155.htm
国旗掲揚台に使われている高射砲の台座の一つ
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20100218-609511-1-N.jpg
高射砲台に散った命
昭和戦争末期、三鷹市内で唯一、米軍と交戦した場所がある。同市大沢にある旧陸軍の高射砲陣地跡。首都防衛の使命を帯び、米軍機を迎え撃つために建設されたこの地で、17日、65年前に散った日本兵4人を悼む慰霊祭が行われた。
高射砲陣地が建設されたのは1943年9月。日増しに戦況が悪化する中、調布飛行場と周辺の軍需工場を米軍機の攻撃から守るために編成された東部第1903部隊調布隊が、高台に高射砲6門を設置した。
B29爆撃機などと度々、交戦して撃墜したこともあったが、上空1万メートルを飛ぶ敵機に砲弾が届かないことも多かったという。当時、伍長だった栗山武さん(88)は「アメリカとの技術力の差を感じた。砲弾も徐々に少なくなってきて、戦況に不安を感じていた」と振り返る。
45年2月17日午前、陣地は、グラマン戦闘機の機銃掃射を浴び、中尉と兵長、上等兵の計4人が戦死。その2か月半後、部隊は、富山県の食糧補給港を援護するため、陣地を離れた。
悲惨な戦争の傷跡が、平和の象徴と変わったのは、終戦後の57年。三鷹市長を5期務めた故・鈴木平三郎さん(84年没)が、周辺一帯を買い取り、自身が設立した社会福祉法人「楽山会」に寄付し、陣地跡を保存することに決めた。73年には、保育園「椎(しい)の実子供の家」を開園。鈴木さんの妻で、同会理事長のスミさん(81)は「戦争の悲惨さと命を懸けて日本を守った人たちがいたことを、子供たちに語り継ぎたかった」と語る。
その後、記念碑が建立され、元同隊員で作る「調布戦友会」のメンバーやその遺族が中心となって、2月17日と終戦記念日の8月15日の年2回、慰霊祭を行ってきた。
現在、高射砲の台座周辺では、園児たちが元気に走り回る。眼下に広がる調布飛行場からは、戦闘機の代わりに、レジャー客らを島しょ部へ運ぶ小型機が飛び立つ。ここが戦争遺跡であることを知る人も、年々少なくなっているという。
この日の慰霊祭には、戦友会メンバーの遺族や園児ら約25人が参加。記念碑の前で黙とうをささげた。
数年前から、戦友会のメンバーの出席者は減り、この日はゼロだったが、「若い人たちが、慰霊祭を引き継いでくれることは大変ありがたい。冬場の参加は体力的に難しくなったが、8月には私も参加したい」。栗山さんは、そう話した。
3
:
太宰治@走れメロス
:2010/03/16(火) 11:01:04 ID:ds/HeLM20
三鷹の戦跡たどる
http://mytown.asahi.com/tama/news.php?k_id=14000001003160001
太平洋戦争末期の三鷹市で、空襲で多数の犠牲者が出た4月2日を前に、市内の戦争遺跡をめぐる講座が21と23の両日に開かれる。調布飛行場などを守るため米軍機と交戦した高射砲陣地跡や軍用機を空襲から守る格納庫・掩体壕(えんたいごう)のほか、旧中島飛行機の研究所跡地に建つ大学など「飛行機工場の町」の痕跡を訪ねるフィールドワークがある。
戦前の三鷹は、航空機産業を担う軍需工場の町として発展した。航空機用無線機のトップメーカー・日本無線や中央航空研究所などが次々に建設され、1940年に約2万1千人だった人口は終戦時の45年には約4万人に倍増した。
軍需工場の中でも、調布飛行場と関係の深い中島飛行機三鷹研究所は大沢地区の200ヘクタール近い土地を買収して建てられた。米本土爆撃を目的にした超大型爆撃機「富嶽(ふ・がく)」のエンジンを設計し、特攻機として使われる予定だった「剣(つるぎ)」の開発を進めた。
一方、45年に入ると三鷹市でも空襲が激化。2月17日に米軍の艦載機が同研究所に襲来し、防空壕がつぶれ、工員4人が犠牲になった。4月2日には下連雀2丁目で29人が死亡した。
講座は、教育研究機関や市などによるNPO法人が運営する「三鷹ネットワーク大学」の三鷹「通」養成講座の一環だ。
講師を務める高柳昌久さん(43)は同研究所跡地の一部に建つ国際基督教大学(ICU)高校の教諭で、「武蔵野の空襲と戦争遺跡を記録する会」の幹事。研究所について関係者の聞き取り調査を進め、その成果を05年に共著で戦争遺跡のガイドブック「戦争の記憶を武蔵野にたずねて」(ぶんしん出版)として出した。
フィールドワークではまず、保育園「椎(しい)の実子供の家」に残る高射砲陣地の台座跡4台を見学する。戦況が悪化する43年、首都防衛を目的に調布飛行場を一望できる高台に6門が設置された。45年2月17日、米軍艦載機の攻撃で兵士4人が戦死した場所だ。
この後、同飛行場の門柱や旧特攻隊宿舎跡、府中と調布市にもまたがる都立武蔵野の森公園で保存・公開されている2基の掩体壕を見学。最後に、中島飛行機の創立者・中島知久平が住んだICU敷地内の別荘「泰山荘」や、同研究所の設計本館を改装したICU本館も訪ねる。
23日には、午後7時から高柳さんが「飛行機工場の町 三鷹」と題して講演する。高柳さんは「戦争という国家総動員体制の中で三鷹がどんな影響を受けたのか、それを知ることで今の三鷹を見直す手がかりになれば」と話している。
21日は午後0時半、三鷹駅近くのネットワーク大学集合。先着30人(2回の通し受講のみ、市外も可)。500円(別途バス代必要)。問い合わせは同大学(0422・40・0313)へ。
4
:
太宰治@走れメロス
:2010/04/13(火) 20:32:01 ID:t32UxUXQ0
公開講座:多摩の戦争遺跡で平和考える 調布南高、参加者募集 /東京
http://mainichi.jp/area/tokyo/news/20100413ddlk13040339000c.html
都立調布南高校(宇田川俊昭校長)は5月から計5回の公開講座「スライドでみる多摩の戦争遺跡」を開催する。戦時下の多摩地区にどんな軍事施設や軍需工場があったのかを知り、残された戦争の傷跡を通じて平和の尊さを確認する。
講座は5月8日、15日、6月5日、12日、7月10日のいずれも土曜。午後1時から3時間。原則的に同校社会科教室が会場。スライドやビデオによる解説があり、多摩火薬製造所(稲城、多摩市)、日立航空機(東大和市)、調布飛行場周辺(調布、三鷹、府中市)、立川飛行場(立川、昭島市、奥多摩町)などにスポットをあてる。6月12日は京王高尾線「高尾駅」に集合して航空機のエンジン部品を製造していた浅川地下工場跡(八王子市)を見学する。
定員30人。参加費用は1600円(受講料1500円と傷害保険料100円)。往復はがきに氏名、年齢、郵便番号、住所、電話番号を記入し、〒182−0025 調布市多摩川6の2の1、調布南高校公開講座に申し込む。19日必着。定員を超えた場合は抽選。問い合わせは同高(042・483・0765)の公開講座担当・中田均教諭へ。
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:
太宰治@走れメロス
:2010/06/03(木) 21:06:13 ID:Dqizzvao0
武蔵野の空襲振り返る
http://mytown.asahi.com/tama/news.php?k_id=14000001006020001
太平洋戦争末期の武蔵野への空襲をめぐって6日、武蔵野市でトーク集会、三鷹市で戦争遺跡めぐりが開かれる。二つの行事はいずれも、東京大空襲などの資料を展示し、戦争体験を継承するための「都平和祈念館(仮称)」の「建設をすすめる会」の主催。建設計画は10年以上凍結状態となっており、同会は「二つの催しを通じて世論を盛り上げていきたい」と話している。
三鷹市の遺跡めぐりは「調布飛行場の掩体壕(えんたいごう)を保存する会」のメンバーらが案内し、都立武蔵野の森公園で保存・公開されている軍用機の格納庫「掩体壕」2基や野川公園サービスセンター(大沢6丁目)に展示されている戦闘機「飛燕(ひえん)」のプロペラを見学する。この後、飛行場などを守るため米軍機と交戦した高射砲陣地跡の台座や、飛行場の門柱も訪ねる。午前9時15分JR三鷹駅改札口集合。
武蔵野市のトーク集会は、前進座劇場けいこ場(吉祥寺南町3丁目)で午後1時半から。「武蔵野の空襲と戦争遺跡を記録する会」幹事で私立高校教諭の牛田守彦さん(48)が「武蔵野地域の空襲について」と題して講演する。
牛田さんは戦時中、武蔵野市にあった軍用機のトップメーカー・中島飛行機武蔵製作所への空襲被害を通して日本の空襲を研究している。
牛田さんによると、同製作所を標的にした空襲は1944年11月24日〜45年8月8日まで9回で、うち8回はB29爆撃機によるものだという。
集会には、同製作所が最初に空襲を受けた11月24日を「武蔵野市平和の日」に制定することを目指している邑上守正市長も参加し、あいさつする予定だ。
すすめる会の世話人で、原水爆禁止東京協議会(東京原水協)の柴田桂馬(けいま)代表理事(80)は「都民の戦争体験を継承していくには拠点になる公的施設がぜひ必要だ」と訴えている。
祈念館は都が計画を進めてきたが、展示内容について98、99年に都議会が「議会の合意を得た上で実施する」との付帯決議を可決。その後、都議会で協議が進まず、計画は棚上げされている。会は早期着工を求め、女優の吉永小百合さんや脚本家の小山内美江子さんらも名を連ねた約2万人の署名を昨年、都議会に提出している。
問い合わせは建設をすすめる会(03・5940・6088)。
6
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太宰治@走れメロス
:2010/06/11(金) 12:00:38 ID:eQfpo5K.0
85歳遅咲き「エジソン」…卵のカラザ取り、大ヒット
http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=26519
空中ハエたたき、仲良しテレホン……。町工場を営みながら長年、ユニークな発明を続けてきた大田区東蒲田の電機部品製造「永裕製作所」の永田栄吉さん(85)が、ついにヒット作を手にした。
それは、生卵の黄身の横に付いているどろっとした白いひも状の「カラザ」を取り除く商品「クローバースプーン」。昨年5月に発売以来、約1万本を売り上げた。「やっと当たった。これからも生涯現役で行きます」と、永田さんはなお意気軒高だ。
永田さんがこのスプーンを作ったのは実は10年前。毎朝、卵かけご飯を食べていた永田さんだが、カラザが苦手で、はしで取ろうとすると、滑り落ちることもあってもどかしい。「これ、何とかならないかな」。それがきっかけだった。
クローバースプーンは四つ葉形に切れ込みが入っているのがミソ。先端をカラザの根元に当て、簡単にすくい上げることができる。
発明当初は全く注目されず、家族から「またやってる」という冷たい視線を浴びるだけ。だが、転機は2年前、自宅のある京浜急行梅屋敷駅周辺の街を取り上げるテレビの情報番組で「梅屋敷のエジソン」と紹介されると、散歩番組などテレビ取材が殺到。その勢いに乗って、昨年、クローバースプーンの商品化を食器メーカーに売り込んだ。
「カラザの食感が嫌」という人に好評で、今では東急ハンズやネット通販のアマゾンでも取り扱われる人気商品となった。
永田さんは、両国生まれ。実家はサイダーを瓶に詰める機械を作る町工場だった。小さい頃から手先が器用で、都立工業専門学校(旧制)に進学した永田さんは戦時中、三鷹市の中島飛行機に動員され、戦闘機を製造。戦後は進駐軍のジープ型車の修理、整備の仕事を手がけ、1975年、音響・映像機器メーカーの下請け部品工場として独立した。
自宅1階の作業場には、「梅屋敷のエジソン」が手がけた発明の数々が並んでいる。発明第1号は独立前に発明した「新聞整理箱」。箱の中にひもを通し、新聞が簡単に束ねられる仕組みが受けて商品化された。
だが、その後は鳴かず飛ばず。引き金を引くと手を合わせるような動きでハエを捕まえる仕組みの「空中ハエたたき」(2007年)は、捕らえたハエを下に落とさないため、デパ地下の食品売り場がターゲットだったが、引き合いはゼロ。
電車の中で会話ができるように、聴診器のように2人の耳と口にパイプをあてる「仲良しテレホン」(04年)にも反響はなかった。
それでも、めげずに発明を続けてきた永田さん。「スプーンが売れて家族も喜んでるし、本当に良かった」と笑いつつ、「アイデアはまだまだある」と、次なる発明の構想を練る。最近は、家族の視線も心なしか温かくなった。
クローバースプーンは680円。問い合わせは永裕製作所(03・3734・9672)へ。
7
:
太宰治@走れメロス
:2010/07/27(火) 11:07:11 ID:QDfwCB6A0
戦争語るプロペラ 旧陸軍調布飛行場
http://mytown.asahi.com/tama/news.php?k_id=14000001007260002
旧陸軍調布飛行場(三鷹、調布、府中市)の三鷹市側の敷地から昨年11月に発見された戦闘機3機分のプロペラの発掘報告と戦闘機の格納庫「掩体壕(えんたいごう)」を見学するつどいが25日にあった。同飛行場の掩体壕を保存する会の8周年記念行事で、多摩地区の年配の人を中心に約30人が参加した。
プロペラは陸軍の主力戦闘機だった「飛燕(ひえん)」2機と、飛燕を改良した「五式戦闘機」1機のもの。このうち、「飛燕」のプロペラがこの春から、都公園協会野川公園サービスセンター(三鷹市大沢6丁目)のイベントホールで展示されている。
報告会は同ホールであり、一緒に出土した五式戦闘機の機首のスピンナー(回転帽)も、ふだん倉庫で保管している都西部公園緑地事務所の計らいで特別公開された。
三鷹市遺跡調査会メンバーが、グラウンド整備工事中にプロペラを発掘した経過を説明。機体を確認した航空ジャーナリスト協会理事の小室克介さん(73)=調布市若葉町=が「プロペラはどれも半分ぐらいしか残っていなかったので確認に戸惑った。スピンナーが出てきたお陰で五式戦闘機だとわかった」などと解説した。
この後、都立武蔵野の森公園に保存・公開されている掩体壕2基を見学した。保存する会の上野勝也さん(82)は「イベントホールの展示は臨時的措置なので、内部も見学できる掩体壕の1基に、飛燕のプロペラと五式戦闘機のスピンナーを夜間照明付きでぜひ展示してほしい」と願っている。
8
:
太宰治@走れメロス
:2010/08/03(火) 12:09:44 ID:rSbqNtWU0
東京で空襲があった第4部 上 学徒の記憶
http://mytown.asahi.com/tokyo/news.php?k_id=13000001008030001
1944年11月7日、米軍の写真偵察機に撮影された中島飛行機武蔵製作所の全景=米国立公文書館原資料所蔵、国立国会図書館提供
地響き震え止まらず
中島飛行機(1944・11・24)
1945年8月8日。この日、武蔵野の台地に広がっていた中島飛行機武蔵製作所に、米軍大型爆撃機B29による9回目の空襲があった。工場は、ほぼ機能を失った。その跡地は今、武蔵野市役所のほか、都立武蔵野中央公園などに姿を変えている。巨大な軍需工場の面影はない。が、確かに武蔵野は戦場だった。空襲体験者3人が戦争の記憶をたどる。
《内藤昭雄さん(79)=三鷹市井の頭4丁目=は44年10月から製作所に勤労動員されていた》
当時私は旧淀橋区(現・新宿区)の国民学校高等科の2年生。西武新宿線の東伏見駅(現・西東京市)で降りると、最寄りの北門には銃を持った兵士が立っていた。すでに軍の管理下にあった。
配属されたのは東工場(陸軍)3階の発動機(エンジン)の組み立て現場だった。分解したボルトやナット、座金などを使える物と使えない物に分け、使える部品は石油で洗浄し、さび止めに油漬けして再利用する仕事だった。
《同年11月初め、米軍機による偵察飛行の後、24日に初空襲があった。マリアナ諸島サイパン島からのB29部隊が日本本土を襲った最初で、第一目標が同製作所だった》
級友と地下の大食堂で昼食をとっていると、空襲警報が鳴らないのに突然「ドーン」という爆発音と地響きがした。「爆弾だ!」。みんなが総立ちになり出口に殺到、パニック状態になった。
近くの階段を上っていくと、上から担架をかついで駆け下りてきた人たちと危うくぶつかりそうになった。担架に乗せられた人は全身まっ黒で、髪の毛は焦げてチリチリになっていた。
地上に出ると、別の地下道に避難する指示があり、逆戻りした地下道は学徒たちでいっぱいだった。爆音におびえた女の子たちが騒いでいると、監督官の将校がいきなり軍刀を抜き、「貴様ら、静かにしないとたたき切るぞ」と怒鳴り、一瞬にして静まりかえった。
怖くなって級友と奥に行き、コンクリートの床に腰を下ろしていると爆弾の「ズシーン、ズシーン」という地響きが伝わり、コンクリートの破片がパラパラ落ちてくる。「死ぬんじゃないか」。初めて恐怖を感じ、ひざの震えが止まらなかった。
《この空襲では鉄筋3階建てのビルの地下にまで突き抜けた爆弾もあり、57人が死亡し、75人が負傷した。内藤さんは2回目の12月3日の空襲でも、命拾いする》
空襲警報が鳴り、級友数人と東伏見方面に逃げた。勤労学徒が入る防空壕(・・ごう)があると聞かされていたからだ。今回から学徒は工場外に退避するよう指示が出ていた。
途中で、防空壕がいっぱいのようだと聞き、早大グラウンドそばの松林に腰を下ろした。やがて、B29の編隊が頭上に迫り、胴体から黒い粒がパラパラと落ちると、「ゴーッ」という音が「シュルシュル」と変わった。「近いぞ!」。地面に伏せると、爆音とともに大地が振動して胃が痛くなるほどで、そのまましばらくへたり込んでいた。
工場に戻ると、東伏見のあの防空壕が直撃され、動員されていた府立第五商業学校(国立市)の10人が亡くなったことを聞いた。9回に及ぶ空襲で従業員や勤労動員学徒らを含めて200人以上が亡くなったことは、ずいぶんあとで知った。
戦後、西武新宿線のガードを電車が渡る「ゴーッ」という音を聞くと、夜中でも跳び起きてしまう日々がしばらく続いた。
※中島飛行機武蔵製作所
軍用機メーカー・中島飛行機が海軍の「零戦」や陸軍の「隼(はやぶさ)」など航空機の発動機(エンジン)を製造した軍需工場。1943年に陸軍専用の武蔵野製作所(東工場)と海軍専用の多摩製作所(西工場)が合併して誕生。女子挺身(てい・しん)隊員や勤労動員学徒らを含めて約2万5千人ずつが昼夜交代で働き、最盛期は発動機の3割のシェアを誇った。戦後、西工場が米軍立川基地の将校家族用宿舎として使われた後に返還され、都立武蔵野中央公園として開園。東工場は都営住宅やNTT研究開発センター、武蔵野市役所などになっている。
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太宰治@走れメロス
:2010/10/09(土) 11:52:11 ID:EltL3S5s0
戦争遺跡 教科書に
http://mytown.asahi.com/tama/news.php?k_id=14000001010040002
来年度の小学校6年生の教科書に、府中市史跡の戦闘機の格納庫「掩体壕(えんたいごう)」や、東京初の空襲で葛飾区の国民学校の児童が犠牲になった資料などが紹介される。都内に残る戦争遺跡を教科書で取り上げるのは珍しい。掩体壕を保存する市民グループは府中市に「もっと見学しやすいようにしてほしい」と、本格的な整備工事を求めている。
教育出版(千代田区)が発行する「小学社会6(上)」。上巻最終章にあたる4章「戦争から平和へ」の「戦争と人々の暮らし」の中で、空襲による学童疎開などを説明したうえで、「地域に残る戦争遺跡―東京都で調べた例」として3件を写真入りで載せた。
丑山修・小学校社会科編集長は「子どもたちが住んでいる足元の歴史を身近に感じてもらおうと考えた」と狙いを話す。「6年生が聞き取りの学習をしている戦争体験者が年々減っている中で、戦争遺跡から学ぶことが従来以上に大切になっている」
教科書には、葛飾区の水元(みずもと)国民学校高等科の少年が、B25爆撃機による機銃掃射を受けて死亡した「東京初の空襲による被害」(1942年4月18日)や、45年の空襲で100人を超す死者を出し、無数の弾痕を生々しくとどめる東大和市の旧日立航空機立川工場変電所について掲載。
特に珍しいのは府中市の掩体壕の紹介だ。旧陸軍調布飛行場(三鷹、調布、府中市)の白糸台掩体壕で、戦闘機「飛燕(ひえん)」が納められていたらしい。市が約530平方メートルの私有地を買収し、2008年11月、市史跡に指定した。
教科書では「軍の飛行場があった府中市には、空襲で破壊されないように戦闘機をかくした壕(掩体壕)が残されて」いることを説明。保存を求めて運動してきた「調布飛行場の掩体壕を保存する会」の上野勝也さん(82)=調布市=は「教科書に載るのは画期的だ」と喜ぶ。
一方、府中市教委が来年度の教科書に採択したことをきっかけに、保存する会は9月末、野口忠直市長と糸満純一郎教育長に(1)本格的保存整備工事費の11年度予算への計上(2)教師を対象にした見学会や学習会の開催(3)副読本の作成などを要望した。
市によると、掩体壕はコンクリートの劣化が進み、昨年度は約400万円かけて防止工事をしたが、今年度は予算がつかず、草を刈って周囲を柵(さく)で覆っているという。壕内部はこぶし大の石が落下する危険もあるが、11年度の整備費の予算化は難しい情勢だ。
担当職員は「整備が遅れているのは確かだが、財源が厳しい。どう見せていくのか、今後専門家や市民団体とも相談していきたい」。上野さんは「教科書にも載る歴史遺産なのだから、市民らがいつでも見られるように早く整備してほしい」と話している。
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太宰治@走れメロス
:2010/11/11(木) 20:06:44 ID:N4lQTwp20
4月2日空襲 戦争遺跡巡る
http://mytown.asahi.com/tama/news.php?k_id=14000001011110001
太平洋戦争末期、北多摩東部などで多くの犠牲者が出た4月2日の空襲に焦点を当て、武蔵野市に残る戦争遺跡を巡る講座を12月3、5両日、三鷹市のNPO法人が開く。武蔵野市にあった軍需工場・中島飛行機武蔵製作所を狙った唯一の夜間空襲で、三鷹に住んでいた太宰治も体験した。工場の「生き証人」の旧変電室などを訪れるフィールドワークもある。(佐藤清孝)
講座はNPO法人みたか都市観光協会の企画で、三鷹ネットワーク大学が協力する三鷹「通」養成講座の一環。「武蔵野の空襲と戦争遺跡を記録する会」幹事の牛田守彦さん(49)が講師を務める。
牛田さんによると、4月2日空襲は、3月10日の東京大空襲で「夜間低空」による作戦が「成功」したことから、米軍が軍需工場へも「夜間精密爆撃」を適用した実験的作戦の一つだったという。
115機のB29爆撃機が1機につき36発の250キロ爆弾と4個の照明弾を搭載して夜間に低空飛行し、計4千発、1千トン以上の爆弾を投下した。中島飛行機武蔵製作所へは命中しなかったが、被害は埼玉県にまで広がり、工場周辺の武蔵野、三鷹、西東京市など北多摩東部だけで160人の一般市民が犠牲になった。
この空襲で、太宰は三鷹市下連雀2丁目の自宅で2人の弟子とともに防空壕(ごう)で土砂をかぶった。「三人の大男が、小さな壕で死と紙一重の恐怖を味わったわけである」と妻美知子さんは回想している。
フィールドワークは、中島飛行機の工場跡地を中心に約3キロを歩く。工場の地下道が残っていたNTT武蔵野研究開発センタや、都営武蔵野アパートに残る工場の旧変電室を見学する。記録する会などが都に保全と活用を要望している貴重な戦争遺跡だ。
現在はグリーンパーク緑地(遊歩道)として整備された「戦跡」も通る。戦後、工場跡にできた「グリーンパーク野球場」の開設に伴って、工場への引き込み線の一部に旧国鉄の線路が敷かれていた所だ。空襲で裏面が大きくえぐられた墓石がある源正寺なども訪れる。
牛田さんは「照明弾とともに時限爆弾が使われた特異な空襲として記憶に残っている体験者は多い。身近な地域にある戦争の傷跡を知ることで、戦争のむごさや命の尊さをわかってほしい」と話す。
3日は午後7時から、JR三鷹駅前のネットワーク大学で牛田さんが講義。5日は午後1時、武蔵野市役所正面玄関前に集合。定員30人。500円(2回通し受講のみ)。問い合わせは同大学(0422・40・0313)へ。
11
:
太宰治@走れメロス
:2010/11/19(金) 13:50:29 ID:254Jei1.0
空襲開始の11月24日を『平和の日』に 武蔵野の市民有志 関連催し、きょう開幕
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/20101119/CK2010111902000034.html
第二次世界大戦中に地元の軍需工場・中島飛行機武蔵製作所が標的にされ、一九四四年十一月二十四日から計九回の空襲を受けた武蔵野市で、同日を「武蔵野市平和の日」に制定するよう望む市民らが中心となり、平和について考える催しが十九日から多数開かれる。
市内の戦争遺跡について調査している「武蔵野の空襲と戦争遺跡を記録する会」は十九日から二十五日まで、武蔵野市役所一階ロビーでパネル展を開催。学徒動員で中島製作所で働いていた同会の内藤昭雄さん(79)は「武蔵野市に軍需工場があり、空襲を受けたことを知らない市民も多い。多くの人に知ってほしい」と話す。
同会は二十三日午後一時半から、本町コミュニティセンター(吉祥寺本町一)で、山梨学院大の十菱駿武教授を招き「戦争遺跡保存−その意義と課題を考える」と題した講演会も行う。
二十四日午後六時からは「むさしの憲法市民フォーラム」が、武蔵野中央公園北ホール(八幡町二)で朗読劇を開催。同公園でロウソクに灯をともし合唱するピースキャンドルの集いも開く。「来年は十一月二十四日が平和の日として条例化されることを願って行う」と同フォーラム事務局長の西村まりさん(71)。
十二月三日午後七時からは、NPO法人三鷹ネットワーク大学(下連雀三)で「記録する会」前事務局長の牛田守彦さんを講師に「我が町の戦争遺跡をめぐる二」と題した勉強会が開かれ、五日午後一時から武蔵野市内の戦争遺跡を歩いてめぐる。
問い合わせは「武蔵野の空襲と戦争遺跡を記録する会」=電0422(52)0288、「むさしの憲法市民フォーラム」=電0422(46)7614、三鷹ネットワーク大学=電0422(40)0313=へ。
12
:
太宰治@走れメロス
:2011/01/12(水) 20:30:09 ID:RnWkUWEU0
多摩の戦争遺跡写真集 稲城の増田さん 自費出版へ 30か所自ら取材
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyotama/news/20110111-OYT8T01296.htm
増田さんが撮った墓石。米軍機の機銃掃射で削られたらしい(武蔵野市の源正寺で)
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20110111-699964-1-N.jpg
稲城市長峰に住む増田康雄さん(71)が今月下旬、多摩地域に残る戦争遺跡を被写体にした写真集を自費出版する。一部を同市教委に寄贈する予定で、「子どもたちに見てもらい、戦争の悲惨さを知ってもらいたい」と増田さん。熱い思いを抱きながら、最後の作業にあたっている。
写真集を作ろうと思ったのは、昨年5月に都立調布南高校で開かれた公開講座「多摩地域の戦争遺跡」を受講したのがきっかけ。
増田さん自身、米軍機B29の大編隊を間近に見たり、防空壕(ごう)に避難したりしており、「後世の人たちに悲惨な体験と平和の大切さを訴えたい」との思いが募った。自分の目で戦争遺跡を確かめようと、同8月頃からカメラ片手に多摩地区の各地を歩き始めた。
訪れた場所は、東大和市が市史跡として保存している「旧日立航空機変電所」、戦闘機を隠す施設「掩体壕(えんたいごう)」(府中市白糸台ほか)、米軍機の機銃掃射で削られたとされる墓石(武蔵野市)、終戦直前に列車が銃撃され、犠牲になった人の供養塔(八王子市)など約30か所。「調布飛行場の掩体壕を保存する会」や、撃墜された米軍機から見つかった「瀬戸内海の地図」の所有者(青梅市)も取材した。
増田さんはNHKで音響を担当し、定年退職する2年前から映像にも興味を持ち、写真学校に通い、個展を開いたこともある。
写真集はB5判変型。40ページ。頒価4000円。増田さんは「戦争遺跡は意外と身近なところに残されているので、ぜひ訪ねてほしい」と話している。
13
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おっぱい動画大全集
:2011/02/14(月) 20:51:02 ID:lYXa73lo0
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14
:
太宰治@走れメロス
:2011/03/04(金) 20:09:55 ID:54a8mmYo0
空襲の恐怖写した28点 三鷹市役所でパネル展
http://mytown.asahi.com/areanews/tokyo/TKY201103030468.html
空襲パネル展の会場=三鷹市
http://www.asahi.com/areanews/images/TKY201103030466.jpg
三鷹市市役所本庁舎2階の市民サロンで10日まで、「東京空襲パネル展」が開かれている。都が所有する写真28枚と、都内各地が空襲された日付をまとめたパネルが展示されている。
土砂崩れが起きたような空襲後の銀座。広い空の下、潰れた屋根のようなものが歩道をふさぐ渋谷の道玄坂。1945年3月10日の墨田区本所では、黒こげになった遺体が折り重なっている――。写真からは、激しかった空襲の様子が伝わってくる。
「空襲日誌」と名づけたパネルには、日ごとに空襲のあった地名が並ぶ。42年4月18日の荒川区に始まり、44年11月ごろからは大島や八丈島など島しょ部も含めて連日各地が空襲にあっている。
展示を見ていた市内在住の大森陽三さん(82)は、終戦前は学徒動員で北海道の農家を手伝い、47年に東京へ来たという。「バラックや闇市があった状況を知っているので、写真を見ると昔を思い出す。戦争は二度と起こしてはいけない」と話していた。
展示は午前9時〜午後4時半(5日と6日は休み)。
15
:
太宰治@走れメロス
:2012/03/09(金) 20:50:48 ID:8ZsOfzoE0
三鷹で平和考えるパネル展
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120306/tky12030623210023-n1.htm
平和と復興を考えるパネル展始まる(三鷹市提供写真)
http://sankei.jp.msn.com/images/news/120306/tky12030623210023-n1.jpg
東京都三鷹市野崎の同市役所で6日、東京空襲と東日本大震災を記録した写真展「平和と復興を考えるパネル展」が始まった。東京空襲関連33点、東日本大震災関連87点を展示している。
昭和20年3月10日の東京大空襲から67年たち、当時を知る人が少なくなっている中、平成23年に、その前年まで行われていた「平和映画祭」をパネル展に変更した。今年は震災1年として被災地の写真を合わせて展示しており、市では平和と命の尊さを考えるきっかけにしたいとしている。13日まで、10、11日は閉館。無料。
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:
太宰治@走れメロス
:2012/03/24(土) 23:42:13 ID:SkT2JuF.0
戦時中の遺物展を開催 東京・三鷹市教育センター
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120324/tky12032422400010-n1.htm
太平洋戦争中、中島飛行機三鷹研究所や調布飛行場などがあった三鷹市域では、現在でも当時の遺構や物資が発掘されることがある。こうした出土品を集めた「地中に埋もれていた『戦争』展」が、三鷹市下連雀の市教育センターで開かれている。
軍用食器、高射砲弾頭、米軍250キロ爆弾の破片、米軍弾薬箱などを展示、旧陸軍の戦闘機「飛燕」のプロペラや高射砲陣地、地下壕、爆弾跡などをパネルで紹介している。
無料。9月28日まで。土日祝日休館。
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:
三調めの@エントツくん
:2013/03/11(月) 00:05:37 ID:XCD.7XaY0
三鷹市 |「東京空襲資料展」 を開催しています
http://www.city.mitaka.tokyo.jp/c_press/038/038022.html
19
:
三調めの@エントツくん
:2013/08/11(日) 05:54:18 ID:oIHd65Lg0
三鷹市 |平和を願う映像作品をホームページで閲覧できます
http://www.city.mitaka.tokyo.jp/c_news/040/040736.html
20
:
三調めの@エントツくん
:2014/07/29(火) 21:30:34 ID:xcalJyr60
戦争遺跡「掩体壕」ガイドツアー参加者を募集 /東京
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140729-00000017-wordleaf-l13
THE PAGE 7月29日(火)16時33分配信
東京都の武蔵野の森公園(府中市、調布市、三鷹市)で8月24日、戦争遺跡「掩体壕(えんたいごう)」ガイドツアーが開かれる。
同公園は、旧帝国陸軍基地の跡地に作られた。現在、防災公園としての機能を備える。 園内には「掩体壕」(大沢1号、2号)がある。
「掩体壕」とは戦時中に作られた軍用機(飛行機)を敵の攻撃から守るための格納庫。通常は立ち入り禁止だが、今回は中に入り、「掩体壕を保存する会」の公園ボランティアから解説を受けられる。また、この日は午前8時半〜午後5時半、掩体壕パネル企画展も行われる。
日時は8月24日(日)午前11時〜12時。雨天中止。武蔵野の森公園サービスセンターに10時50分集合。参加費は無料。定員50人。小学生以下は保護者同伴。
申し込み、問い合わせは、武蔵野の森公園サービスセンター(電話:042-365-8435)へ。
21
:
三調めの@エントツくん
:2014/08/03(日) 05:54:47 ID:qXEEZ3Bc0
三鷹市 |市ホームページで新たに戦争体験の記録映像2作品を公開
http://www.city.mitaka.tokyo.jp/c_press/047/047035.html
埋もれさせてはいけない戦争の記憶
今年で戦後69年を迎え、戦争の記憶の風化が進む中、戦争を体験された方のお話や戦争の記憶を次世代へ継承していくことが課題となっています。
三鷹市では、市内在住の戦争体験者の方から戦争の記憶をお聞きし、記録映像として残すアーカイブ化事業に取り組んでおり、8月1日(金曜日)から新たに記録映像2作品を三鷹市ホームページで公開します。
「広島での被爆体験―父と私の最後の会話」と題した1作目は、広島の原爆爆心地から600メートルの距離で18歳の時に被爆した女性のお話です。2作目は「平和と命を考える―原爆・被爆体験を通して」と題し、広島で爆心地から2キロ離れた自宅で中学生の時に被爆した男性のお話です。戦時中の暮らし、原爆投下時とその後の状況、戦後の健康不安など、大変貴重な内容となっています。
映像をご覧になる方法
市ホームページ[テレビ広報みる・みる・三鷹動画配信中]
http://www.city.mitaka.tokyo.jp/mirumiru/mirumirutop.html
から直接リンクする[その他の映像ライブラリーのページ]
http://www.city.mitaka.tokyo.jp/mirumiru/mirumirutokuban.html
でご覧になれます。
公開開始日
8月1日(金曜日)
DVD・VHSの貸し出しも行っています
ご希望のかたは、下記の企画経営課(平和・女性・国際化推進係)までお問い合わせください。貸出に際しては、事前にご予約の上、市役所に直接お越しください。
すでに公開中の2本の映像作品もあわせてご覧ください
上記のウェブサイトでは、昨年から公開している2本の関連作品もご覧いただけます。
•「そして60年 三鷹のまちは戦場だった」(平成17年度制作)
•原爆被害証言 あの時 私が見たこと「長崎の被爆証言」(平成25年度制作)
問い合わせ先企画部 企画経営課 電話:0422-45-1151(内線:2115)
22
:
三調めの@エントツくん
:2015/02/15(日) 22:12:05 ID:obycmXIg0
三鷹市 |東京空襲資料展
http://www.city.mitaka.tokyo.jp/c_event/050/050080.html
次の世代へと語り継ぐために…
東京都では毎年、東京で大規模な空襲があった3月10日を「東京都平和の日」と定め、平和について改めて考える機会としています。
市では3月4日〜11日にかけて、「東京空襲資料展」を開催します。今年は戦後70年の節目の年にあたることから、この資料展を機に、当時の悲惨な史実を心に刻み、二度とこのような悲劇を繰り返さないように未来へと語り継いでいただければと思います。
皆さまのご来場をお待ちしております。
東京空襲資料展
三鷹市の戦跡のパネルと発掘された戦争遺物、戦中・戦後の東京の様子をおさめた写真パネル、空襲遺品、空襲被災品の展示
会場
三鷹市役所本庁舎 1階市民ホール
資料提供
東京都
主催
三鷹市
日時
3月4日(水曜日)〜3月11日(水曜日)(7・8日は休みです)
午前8時30分〜午後5時15分まで。
東京都平和の日関連事業について
http://www.seikatubunka.metro.tokyo.jp/bunka/heiwa/heiwa.html
東京都は東京空襲犠牲者名簿を作成しています
http://www.seikatubunka.metro.tokyo.jp/bunka/heiwa/kusyumeibo.htm
23
:
三調めの@エントツくん
:2015/07/05(日) 07:05:57 ID:CMHjZ53s0
空襲犠牲者の名簿公開
http://www.yomiuri.co.jp/local/tokyotama/news/20150701-OYTNT50347.html
太平洋戦争中に空襲で亡くなった多摩地区の犠牲者名簿の一覧が4、5日、立川市で開催されるイベント「三多摩平和交流会」で公開される。実行委員らが「戦後70年の節目に被害の全容を示し、戦争の記憶に役立てたい」と企画した。
都では、1999年に東京への空襲の犠牲者名簿の作成を開始。これを受け、多摩地区の市民有志で結成した「多摩地区の空襲犠牲者を確認・調査する会」も地元での被害を調べることにした。
同会メンバーは翌年、寺の過去帳を調べたり、住民への聞き込みを行ったりして、行政が把握していた犠牲者と合わせた計約1540人の名簿を都に提出。その後、少なくとも1597人が亡くなったことが判明した。
今回のイベントの実行委員を務める永元実さん(69)によると、多摩地区における空襲は、立川飛行機(立川市)や中島飛行機(現武蔵野市)など軍需工場を狙ったものが多く、犠牲者の多くを工員が占める。近隣住民などの犠牲者はまだいる可能性があり、今回のイベントでも情報を募る。
柴崎学習館(立川市柴崎町)で午前10時から。犠牲者の名前や亡くなった場所などをパネルで展示するほか、空襲犠牲者の遺族による講演なども行われる。問い合わせは、永元さん(042・536・2038)。
空襲犠牲者 多摩全域の名簿公開へ 平和交流会
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/20150627/CK2015062702000112.html
多摩地区でどれだけの民間人が空襲の犠牲となったのか、全体像が分かる名簿が七月の「三多摩平和交流会」で公開される。有志による長年の調査で、これまで千五百九十七人の犠牲者の存在が突き止められた。同会事務局長の永元実さん(69)=立川市=によると、各地域で名簿が公開されることはあったが、多摩全体の犠牲者を一覧できるようにするのは初めて。
永元さんらは二十六日、立川市政記者クラブで会見し、戦後七十年の節目に、犠牲となった一人一人の名前を明らかにすることで「追悼の思いと、戦争を二度と繰り返さないという決意を新たにしたい」と話した。
多摩全体での名簿作りは一九九九年に始まった。都の東京空襲犠牲者名簿作成開始を受け、「多摩地区の空襲犠牲者を確認・調査する会」が発足。千五百八人の名簿を完成させ、二〇〇〇年に都に提出後も、昭島市職員の三村章さん(65)ら有志五人ほどが、各地の慰霊碑や寺の資料を確認して回り、新たに分かった犠牲者名を追加してきた。
多摩の空襲は、現在の武蔵野市などにあった中島飛行機や立川市にあった立川飛行機などの軍需工場や軍事施設を狙ったものが中心で、工員や工場周辺の住民が多く犠牲となった。永元さんは「工場内で亡くなった人はほぼ正確に把握されているので、千五百九十七人という今回の数字はかなり実態に近いのではないか」と推測する。
三多摩平和交流会は七月四、五の両日に立川市柴崎町の柴崎学習館で開かれる。名簿は会場でパネル展示され、閲覧用の冊子も置かれる。公開する情報は、氏名、年齢、空襲に遭った場所の三点だが、三十人分は氏名不詳のままだという。交流会の実行委員会では、さらなる情報を求め、会場に情報提供のコーナーも設ける。永元さんは「まだ不正確な部分はあるし、漏れもあるはず。より正確な戦争被害の記録とするため、たくさんの人に見てもらい、情報を寄せてほしい」と訴えた。交流会後に名簿の公開をどう続けるかは未定という。
交流会では、犠牲者名簿や空襲に使われた一トン爆弾の模型などが展示される。四日は戦場ジャーナリスト志葉玲(しばれい)さんの講演やシンポジウムがあり、五日には犠牲者の調査をした三村さんが講演する。資料代八百円(二日間共通)で、大学生以下無料。問い合わせは永元さん=電042(536)2038=へ。
24
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三調めの@エントツくん
:2015/08/17(月) 11:37:04 ID:pY8ZeQXU0
「終戦の日」の空襲で甚大な被害を受けた場所がありました。
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20150815-00000189-fnn-soci
フジテレビ系(FNN) 8月15日(土)1時47分配信
8月15日、「終戦の日」。
東京・府中市、調布飛行場のすぐ近くに、太平洋戦争の末期、空襲が激しくなって、日本の戦闘機を守るために急きょ作られた、「掩体壕(えんたいごう)」という格納施設がある。
住宅地のすぐ近くにあるが、歴史を風化させないために残されている。
特別に、中に入れてもらった。
天井の辺りも、当時のままということで、コンクリートは、よく見ると、非常に質がよくない。
ある部分は、石が埋まったようにもなっていて、手で触ると、崩れてきそうなあんばい。
空襲に来る米軍機を迎撃するため、ここから出撃ということもあるわけだが、当時は、男手がないため、近所に住んでいる女性や子ども、お年寄りの手によって、戦闘機にロープをつけて、ここから引っ張っていくというようなこともあったという。
掩体ごうは、終戦とともに、その役割を終えたが、今からちょうど70年前、午後11時半ごろ、空襲によって甚大な被害を受けた所があった。
1945年8月15日正午。
終戦を知った多くの国民。
しかし、時間をさかのぼること、わずか半日前、がれきの中で立ち尽くす少年。
アメリカ軍の空襲を受け、埼玉・熊谷市は、焼け野原となっていた。
その空襲の体験者、熊谷市に住む藤間豊子さん(91)。
手元のノートに書かれているのは、空襲の記録。
5年前、熊谷市の呼びかけで、語り部を引き受けたときに書いたという。
空襲を受けた時、藤間さんは21歳。
おなかには、5カ月になる赤ん坊がいた。
藤間さんは「その時(空襲)は忘れてました。だって、怖い方が先だよ。早く逃げなくちゃ」と話した。
書かれていたのは、妊婦であることを忘れるほどの恐怖の体験だった。
藤間さんは、「8月14日の夜11時半ごろ、熊谷駅のほうの上空に、照明弾」、「その直後、あの忌まわしいB29の独特のゴーゴーと、音が聞こえたので、急いで着替えました」と読み上げた。
B29爆撃機のパイロットが持っていた、当日の飛行ルートの地図。
房総半島北部から侵入したおよそ80機が、8月15日に日付が変わろうとする、およそ30分前に、熊谷市に襲いかかった。
アメリカ軍の記録によると、B29が落とした焼夷(しょうい)弾の数は、およそ8,000発。
藤間さんは、
「市街地は、赤々と炎だけが、夜空に向かって火の粉が高々吹き上げている。生きている人は全く見当たらない。灼熱(しゃくねつ)の地獄だった」と読み上げた。
空襲直後の熊谷市の写真。
炎に焼かれ、街はなくなり、白く平地のようになっていた。
266人が犠牲となり、およそ3,000人が負傷。
藤間さんの父・源一郎さんも、この空襲で亡くなった。
形見として残ったのは、「神風」と書かれた手拭い。
藤間さんは、「(これは何ですか?)これ、手拭いなの。それから、血染めなんですよ、これ、血なの。この染みが。(血なんですか?)血なんですよ」と話した。
焼夷弾の直撃を受け、血に染まった手拭い。
アメリカでは当時、この日の空襲のことを紙面の隅で、「夜間空襲は、東京の北西に位置する熊谷、伊勢崎に対して行われた。日本への最後の偉大なる攻撃」と伝えている。
藤間さんは、「(日本はなぜ戦争をしたんでしょうか?)この時も思ったけどね、われわれ平民には、どうにもなんないなと思ってね。上からの命令ですよ、みんな。自分たちの考えにいかないの。そのくらい、軍部が威張ってたってことね」と話した。
取材を通して、戦争を体験した方々の、貴重なお話というのをうかがうことができた。
その一方で、10年後というのを考えると、その機会、少なくなっているのかなという心配もある。
だからこそ、ことしというのは、戦争を知ってみんなで考えることができる、最後の大きな節目の年といえるのかもしれない。.
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三調めの@エントツくん
:2016/02/10(水) 21:52:09 ID:45s1eVZ20
三鷹の保育園に高射砲陣地跡 歴史まとめ記録集刊行
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201602/CK2016020902000237.html
東京都三鷹市の高台にある保育園の、旗用ポールの根元には秘められた物語がある。このコンクリート製台座は、太平洋戦争中、米軍の空襲に備え陸軍が置いた高射砲のものだった。その歴史を子どもたちに引き継ごうと、園は記録集「高射砲陣地跡が語る戦争の記憶〜永久平和を希求して〜」をつくった。同園常務理事の柴田直樹さん(66)は「身近な場所にも戦争の跡はある。悲劇を学んでほしい」と訴えている。 (鈴木貴彦)
この園は社会福祉法人「楽山会」が運営する「椎(しい)の実子供の家」。園庭や裏庭には、直径約三メートル、高さ約一・七メートルの台座が四基ある。各台座には高射砲が設置されていたが、戦争末期、富山県の港に移設され、台座だけが残った。
高台からは調布飛行場(東京都調布市など)を一望できる。近くの国際基督教大学は戦時中、中島飛行機三鷹研究所があった場所で、高射砲はこれら軍事関連施設を守っていた。一九四五年二月には、米軍機の機銃掃射を浴び、この地で四人が戦死している。
記録集は首都防衛を担っていた高射砲隊「調布隊」の戦友会の会報などを基に、陣地の構築から米軍機による攻撃、終戦までを詳細につづっている。高射砲の写真、配置図なども収録した。
柴田さんが昨年七月に聞き取りをした元調布隊中隊長の北作健二さん(92)=金沢市在住=の証言も載せた。激しさを増した米軍の爆撃について、部隊を指揮した北作さんは「B29は高度を上げて飛来するようになり、高射砲の砲弾は届かなかった。米軍は航空写真でどこに何があるのか、みなわかっていた」などと回想している。
五七年、当時の鈴木平三郎・三鷹市長(故人)が土地を私費で買い取り椎の実子供の家を開設。台座の近くに平和祈念碑も立つ。
記録集の発行が決まったのは昨年夏。編集、執筆を担当した柴田さんは「戦後七十年を節目に鈴木スミ理事長(鈴木氏の妻)が『若い世代に伝えたい』と、詳細な記録集の発行を望んだ」と振り返る。
記録集はB4判百十ページで二千部を印刷。今年に入り、関係者に配ったほか、市内すべての公立中学、高校に配布した。一般の人も読めるように、市内の図書館にも贈呈した。柴田さんは「記録集をまとめて、この戦争がいかに無謀なものだったか、あらためて痛感した。二度と戦争を起こさないよう、この事実を次の世代に伝えたい」と強調している。
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:
三鷹中央防災公園@元気創造プラザ
:2016/08/16(火) 13:34:40 ID:4hXkxX4Y0
語り継ぐ戦争の記憶 三鷹市の特設サイト、新たに3人の動画追加
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201608/CK2016081602000160.html
三鷹市がホームページ上に開設している特設サイト「みたかデジタル平和資料館」で終戦記念日の十五日から、市民が語る戦争体験を収録した動画三人分が初公開された。家族を失った悲しい戦争体験や戦後の苦しい生活ぶりなど、生々しい証言が胸を打つ。
デジタル平和資料館は、平和への願いを次世代に伝えようと、市が今年二月に開設。防空頭巾や軍服などの戦争資料や市内の戦争遺跡を写真で紹介しているほか、これまでに市民が戦争体験を語る動画九本が公開されている。
今回、新たに加わった動画は、学童疎開の経験を父親の手紙とともに語る新井純子さん(83)、戦艦武蔵の最後の様子を語る元海軍特別年少兵の塚田義明さん(89)、残留日本人として南樺太での戦後の苦しい体験を語る近藤孝子さん(84)の三人=いずれも市内在住。
このうち、学童疎開の思い出を語った新井さんの動画は約三十五分。一九四四(昭和十九)年八月、十一歳で浅草から宮城県に学童疎開した新井さんの元には、父親から毎週のように封書やはがきが届いた。「家のことは心配せずに勉強と運動をしてください」「お医者さんにかかったようですがどんな具合ですか」「面会には父が行くつもりです…楽しみにしております」などと、一人娘を案じる言葉がつづられている。
翌四五年三月三日、桃の節句に合わせて書かれたはがきを最後に、父からの便りが途絶えた。同月十日の東京大空襲で犠牲になったのだ。「私が孤児にならぬよう、父と母は空襲の時は別々に逃げると相談していたようです」と新井さん。今も手元に残る約四十通の手紙は父の形見だ。毎年、三月十日に読み返すという。「もう戦争はいやです」。新井さんは最後にそう語っている。
市では今後、平和展などの会場で動画を流したり、ビデオの貸し出しを行って行く予定。サイトは「みたかデジタル平和資料館」で検索。
巨大な渦に巻き込まれ頭に浮かんだ母親の顔 戦艦武蔵沈没の体験語る 東京
http://www.sankei.com/region/news/160816/rgn1608160003-n1.html
みたかデジタル平和資料館が新たに4動画公開
三鷹市は15日、インターネットサイト「みたかデジタル平和資料館」に新たな戦争体験の動画4本を公開した。戦艦武蔵の最期や国内外での体験について同市民3人が語っている。
昭和19年10月24日の武蔵の最期を語るのは少年兵として乗艦した塚田義明さん(89)。
米軍機の攻撃で「バタバタと戦死者が出た」ことや沈没の際に巨大な渦に巻き込まれたときに「(頭に)浮かんだのは母親の顔と多摩川の風景だった」ことなどを振り返る。
東京大空襲で亡くなった父親からの約40通の手紙、はがきを紹介するのは新井純子さん(83)。疎開先に毎週のように届いた便りは大空襲直前の20年3月3日付を最後に途絶えた。「手紙が父の形見だと思って、3月10日になると必ず読み直す」という。
みたかデジタル平和資料館
http://www.city.mitaka.tokyo.jp/heiwa/
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:
三鷹中央防災公園@元気創造プラザ
:2016/12/07(水) 23:23:44 ID:ndqEq9Q60
<ICU本館>「戦争遺跡に」建て替え案に学生ら反対
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161207-00000047-mai-soci
<ICU本館>「戦争遺跡に」建て替え案に学生ら反対
1949年ごろ撮影されたICU本館=ICU提供
国際基督教大学(ICU、東京都三鷹市)がキャンパス整備の一環として提示した本館の建て替え案に対して、一部の学生や教職員が反発している。本館は、旧日本軍の真珠湾攻撃があった1941(昭和16)年12月8日に地鎮祭が営まれて建設され、戦闘機を開発した旧中島飛行機三鷹研究所として使われた。戦争遺跡として保存を求める声もあり、ICUは建て替え案を凍結して教職員や学生、卒業生を交えて意見交換する方針。
ICUは老朽化した本館の建て替えのため、新国立競技場を設計した隈研吾氏らに新たなキャンパスのデザインを依頼。今年2月に発表されたデザインに新しい本館が描かれていた。
ICUはそれまで本館の建て替えを公の場で表明したことはなく、デザインがICUのホームページに掲載されると、教職員らが「本館を建て替えるのか」と反応。ICUは「決定ではない」と釈明する一方、老朽化などの問題から将来的な建て替えの可能性を否定はしていない。
大学側が正式に建て替えの方針を示していないため、保存運動などは起きていないが、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)などで話題になっている。3年の鹿沼千種さん(22)は、ICUが戦争の反省から建学理念として「恒久平和の確立に資する」とうたったことを引き合いに「かつての軍事施設が校舎として残されている意味をもっと考えるべきだと思う」と保存を訴える。
高沢紀恵教授(歴史学)も「建物を残す意義は大きい。建て替えありきではなく、歴史的価値をきちんと評価したうえで議論してほしい」と建て替えに異議を唱えている。本館を巡っては、日本建築学会が今年4月に現地を見学し、日比谷潤子学長に「登録有形文化財の要件を十分に満たしている」と報告したという。
ICU法人事務局は毎日新聞の取材に「デザインは一つの案に過ぎず、本館をどうするかは決まっていない。文化財的価値の高い建物はなるべく維持しようという考えは持っている」とした上で「学生が安全に学べる環境をつくることが最も重要だ。保存する場合、教室はどうするのかなどの課題も多い。学生や教職員、さらに卒業生からも意見を聞きたい」としている。
「富嶽」開発の拠点
中島飛行機三鷹研究所は1944年に完成した。鉄筋コンクリート3階建ての施設では、戦況を打開するための戦闘機の設計が進められたという。
研究所の歴史を調査した国際基督教大学高校の高柳昌久教諭らによると、米国本土への爆撃を目標とした幻の重爆撃機「富嶽(ふがく)」のエンジンも開発が進んだが、戦況の悪化に伴って中止。完成したのに、資材不足で量産化できない機種もあった。実際に量産されたのは、群馬県内の工場などで造られた特殊攻撃機とされる「剣(つるぎ)」のみ。その剣も実戦使用許可が下りなかった。
高柳教諭は「唯一量産にこぎつけたのが実質上の特攻機だけという事実が、当時の状況を如実に表している。そうした歴史を物語る建物は貴重だ」と話す。
施設は空襲に遭うことなく、終戦を迎えた。戦後にICUが買い取り、キャンパスを設計した米国出身の建築家、ウィリアム・ボーリズ(1880〜1964年)が4階部分を増築するなどして本館に改装。53年の開学時から教室として使用しており、2012、13年には耐震工事もした。
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三鷹中央防災公園@元気創造プラザ
:2017/11/12(日) 15:22:00 ID:DHUk1e/k0
旧陸軍ジェット戦闘機 幻のエンジン部品発見 ICU構内
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171111-00000052-mai-soci
太平洋戦争末期に軍用機を開発した旧中島飛行機三鷹研究所の建物が残る国際基督教大学(ICU、東京都三鷹市)で、旧陸軍初のジェット戦闘機「火龍(かりゅう)」に搭載される予定だったジェットエンジンのものとみられる部品が見つかった。戦時中に国内で生産されたジェットエンジンはほとんど現存せず、専門家は「当時の航空技術を知るうえで非常に重要な資料だ」と話している。
見つかった部品は、排気ノズル(直径74センチ、長さ73センチ、重さ71キロ)2点と、それを覆うカバー1点でいずれもステンレス製。三鷹研究所に関するリポートを作成するため学内を調べていたICU4年の古川英明さん(21)が2015年6月に資材置き場で見つけた。
戦後にICUが買い取った三鷹研究所の敷地内で出土し、1950年代前半までにICUの保全業務に携わる建設会社社長宅の軒先に置かれた後、約20年前に資材置き場に移されたという。70年近く雨ざらしにされて全体的にさびているものの、カバーの一部を除いて目立った破損はない。
古川さんの恩師で、三鷹研究所の歴史を調べたICU高校の高柳昌久教諭が、日本航空協会と東京文化財研究所に部品の調査を依頼。形状や当時貴重だったステンレスが使われていることなどから、三鷹研究所が日立製作所とともに開発を進めたジェットエンジン「ネ230」の部品の可能性が高いことが判明した。
太平洋戦争末期、旧海軍がジェット特殊攻撃機「橘花(きっか)」の開発を進めたのに対し、旧陸軍は米軍の爆撃機B29を迎撃するために「火龍」を計画した。ネ230が1機に二つずつ搭載される予定だったが、試験運転をしただけで実機は完成しないまま終戦を迎えたという。見つかった排気ノズルには他の部品と接合した痕跡がないため、試作品とみられる。溶接が粗く強度が不足しており、ドリルで開けた穴にできる「バリ」と呼ばれる突起も多く残っている。
日本航空協会の長島宏行・専任部長は「当時、世界最先端だったジェットエンジンを作る基礎的な技術はあったが、熟練工が不足した時期で、粗雑な点も見える。悪化する戦局を打開するために開発を急いだことがうかがえる」と話す。
ICUは部品を貴重な近代化遺産として学内で展示することを検討している。
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三鷹中央防災公園@元気創造プラザ
:2018/03/07(水) 21:43:05 ID:g8sM.tdk0
三鷹で東京空襲資料展 16日まで
https://www.asahi.com/articles/CMTW1803071300002.html
出征風景の写真・衣料切符…戦争の悲惨さ伝える
三鷹市役所市民ホールで「東京空襲資料展」が始まった。戦時中の市内の様子や出征風景を写した写真、戦争関連の絵本などを展示。主催の市は「戦争の悲惨さを受け止め、平和への願いを次の世代に受け継いでほしい」と来場を呼びかけている。
当時の生活を物語るもんぺや衣料切符なども並び、戦争の体験談や関連資料、市の平和事業などを紹介する特設サイト「みたかデジタル平和資料館」を見られるコーナーもある。
戦争末期の1945年3月10日未明、米軍のB29爆撃機約300機が東京上空から無数の焼夷(しょうい)弾を投下。市街地は焼け野原になり、10万人とされる犠牲者が出た。中島飛行機(スバルの前身)などの軍事関連施設があった武蔵野地域も、繰り返し空襲に見舞われた。
資料展は午前8時半〜午後5時15分。土日閉庁。16日までの期間中、市立三鷹図書館(上連雀8丁目)でも同様の資料展が行われる。午前9時半〜午後8時(土日は午後5時)。月曜休館。ともに無料。問い合わせは市代表(0422・45・1151)から企画経営課平和・女性・国際化推進係へ。
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電話でお金の話@それは詐欺です
:2019/08/16(金) 13:17:15 ID:GpkySPLQ0
つなぐ 戦後74年 友よ 原爆前日 いつもの別れ
https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201908/CK2019081502000152.html
旧制中学一年の十三歳のときに広島市内で被爆した東京都三鷹市の大岩孝平さん(87)は、ホタルが飛び交う光景に「あの夏」を重ねずにはいられない。
夏になるとホタルが飛び交う広島の実家の池。一九四五年八月五日も、近所の道路でいつものように親友のしげちゃんや村田君と遊んでいた。けんかをして「おまえとはもう二度と遊ばないからな」と別れたのも普段通り。次の日もケロッとした顔で「遊ぼう」と声を掛け合うはずだった。
翌六日朝、おなかが痛くなり、大岩さんは学校を休んだ。家の縁側沿いの八畳間で夏掛け布団をかぶり、横になっていた。
突然、ピカッと強烈な閃光(せんこう)が目に飛び込んだ。「痛いっ」。爆風で身体が浮き、とっさに身を覆った夏掛け布団にはガラスの破片が無数に刺さっていた。
外に出ると、自宅だけでなく、周りの家も全て壊れていた。近くの比治山(標高約七〇メートル)の向こうから、手を前に伸ばした異様な人間の群れが列をつくって押し寄せていた。衣服が焼けてボロボロで身体からは焼けただれた皮膚がだらーっとぶら下がっている。中には飛び出た眼球を手で押さえている人もいた。地獄絵図を見ているようだった。兵隊に頼まれ、道端の遺体を動かそうと脚をつかむとやけどで皮膚が剥がれ落ち、気付くと骨をつかんでいた。
自宅は爆心地から約二キロだったが、比治山が火の手を防いでくれた。同じ中学では爆心地から数百メートルで建物疎開の作業をしていた生徒など一年生だけで約三百人が死亡。別の中学に通っていた親友のしげちゃんと村田君も亡くなった。数カ月後、お悔やみに行くと、村田君の母親は大岩さんをみるなり脚に抱き付き、二人でわんわんと泣いた。
「何もできず、なぜ、自分だけが生き延びたのか」今も自責の念に襲われる。
被爆者団体の活動に携わり、東京都原爆被害者協議会会長も今年六月まで六年ほど務めた。あの日から七十四年。唯一の被爆国・日本は核兵器禁止条約に署名していない。天国の親友たちに「世界は平和に向かっているよ」といつになれば報告できるのか。
もう二度と会えない二人。「せめてホタルになってでもいいから出てきてくれないか」。そんな願いを俳句に込めた。
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電話でお金の話@それは詐欺です
:2019/08/25(日) 06:18:17 ID:CIIoJEb.0
つなぐ 戦後74年 高射砲跡、鎮魂の祈り 三鷹で遺族ら式典
https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201908/CK2019081602000120.html
戦時中、調布飛行場などの防衛のため、三鷹市大沢の高台に設置された高射砲陣地跡が残る私立認可保育園「椎(しい)の実子供の家」で十五日、恒例の平和祈念式典が開かれた。
米軍機による攻撃で四人が亡くなった陸軍東部第一九〇三部隊調布隊の遺族や園児ら約四十人が参列。正午に「今日の平和は戦争の犠牲となられた多くの人々を礎として成り立っています」と、市の防災行政無線が呼び掛けたのに合わせ、慰霊碑の前で黙とうをささげた。
戦死者の一人、佐藤繁司さんの孫の高橋佳代子さん(49)と高島晴美さん(47)は新潟市から初めて参列。「今までは戦争をどこかひとごとのように感じていたが、ここへ来て、七十四年前に何があったのか。もっと知りたいと思った」と話していた。
園の敷地内には直径約三メートルのコンクリート製の台座四基が今も残る。戦時中は各台座に高射砲が設置されていたが、戦争末期に富山県に移設され、台座のみが残された。
一九五七年、当時の三鷹市長鈴木平三郎さんが「永久平和を希求するためにこの陣地跡を残そう」と土地を私費で購入。椎の実子供の家を開設した。
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電話でお金の話@それは詐欺です
:2019/10/11(金) 01:35:53 ID:6RQtuhP60
調布飛行場の戦争遺品「戦闘機プロペラ」を常時公開 記念イベントも
https://chofu.keizai.biz/headline/3045/
都立武蔵野の森公園にある掩体壕と「飛燕」のブロンズ模型
https://chofu.keizai.biz/photoflash/2550/
調布飛行場に隣接する都立武蔵野の森公園(東京都三鷹市・調布市・府中市、TEL 042-365-8435)のサービスセンターで、旧陸軍の戦闘機「飛燕(ひえん)」と推定されるプロペラの常設展示が始まったことを記念し、10月13日、「飛燕プロペラ一般公開記念エキシビション〜調布飛行場が遺した戦争の記憶展示〜」を開催する。
「飛燕」は第二次世界大戦で使用された三式戦闘機(さんしきせんとうき)の愛称。陸軍の主力戦闘機として3000機以上が造られ、旧陸軍調布飛行場には1943(昭和18)年7月に配備された。敗戦後は連合軍の命令によりプロペラを外し、本体は米軍により燃やされたとされる。
2009(平成21)年に同園の三鷹市側敷地で大沢総合グランドの整備工事中、深さ2メートルの地中から3枚羽根のプロペラ3つが発見され、その50センチ下から機体の頭部の一部も出土した。専門家の調査によりプロペラの2つは「飛燕」だと推定され、1つは改良型の「五式戦闘機」だと分かり、機体頭部は「五式」のスピンナー(回転帽)だった。
市民グループ「調布飛行場の掩体壕(えんたいごう)を保存する会」や東京都などが歴史遺産として保存・展示する活動を進めた。同園内には、戦時中に戦闘機を空襲から守ったドーム状格納庫「掩体壕大沢1号・大沢2号」がある。周辺地域には飛行場門柱・玉石張り水路・高射砲台座跡・弾薬庫などもあり戦争の記憶を伝えている。
当日は、9時30分に「プロペラ展示と調布飛行場が遺した戦争の記憶のパネル展示」が始まり(解説員15時まで)、10時から関係者による式典と、事前申込者対象の講演会「調布飛行場と戦闘機『飛燕』」を行う。「調布飛行場の掩体壕を保存する会」が解説する掩体壕見学会(13時・14時15分、当日受け付け先着30人)も開催する。
保存会の長尾さんは「貴重な実物史料を見学することで、この地で起こった戦争の歴史について考え、平和への思いを新たにする機会になれば」と話す。
公園は常時公開。サービスセンターは8時30分〜17時30分、年末年始(12月29日〜1月3日)のみ休館。入園・入館無料。
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電話でお金の話@それは詐欺です
:2019/11/07(木) 22:32:26 ID:bGjz0dRQ0
戦争への怒り赤色に込め 東京大空襲描いた元日本軍兵士「正義なんてない」
https://www.excite.co.jp/news/article/Mainichi_20191105k0000m040207000c/
約10万人が犠牲となった1945年3月10日の東京大空襲を目撃後、日本軍兵士として満州に渡り、シベリア抑留も経験した三鷹市の長谷緑也さん(94)が、74年の時を経て東京大空襲の絵を描き上げた。「壮絶な空襲の惨状を記録にとどめなくては」と昨年末に描き始め、約3カ月かけて計13点を完成させた。
運送会社で働きながら、東京・立川で画家を目指していた19歳の時、赤紙(召集令状)が届いた。45年3月5日、千葉県柏市にあった陸軍部隊に入隊。3月10日未明、高台にある兵舎から真っ赤に燃える東京・下町が目に飛び込んできた。低空で飛来し、次々と焼夷(しょうい)弾を落とすB29。燃え上がる炎で銀色の腹を赤く染めた巨体は柏市付近で急上昇していった。「阿鼻叫喚(あびきょうかん)というか、ただあきれて見ているだけだった」
空襲後、軍用列車に乗るため、煙が立ち上り死臭の漂う東京の街を品川駅まで隊列を組んで歩いた。木造の民家は一軒も残っていなかった。「敗戦したようだった」と長谷さん。着いたのは満州の東寧(現在の中国黒竜江省牡丹江市)だった。
満州では主に兵器弾薬の荷受けなどの業務に従事。銃は演習で5発撃っただけだった。8月9日にソ連が参戦。迫ってくるソ連軍を迎え撃つため、兵舎の周りに掘った穴に爆弾を抱えて身を潜めている時、敗戦を知った。ソ連軍に武装解除され、シベリアへ。約4年間の抑留生活を経て、帰国できたのは49年8月だった。
東京大空襲が忘れられつつあるという危機感が募り、昨年末、「人生の総括」と考えて絵画に着手。下町を焼きつくし、B29の胴体を染める赤色にさまざまな「怒り」を込めたという。無差別殺戮(さつりく)への怒り、首都が焼け落ち「敗戦」を感じながら戦地へ送られたことへの怒り――。
戦争について「正義なんてどこにもない」と語る長谷さん。作品は三鷹市に寄贈した。「戦争に反対し、平和のために東京大空襲を語る一助にしてほしい」
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電話でお金の話@それは詐欺です
:2019/11/24(日) 21:51:51 ID:lr8.4IxU0
日系人が強制収容の歴史を語る 東京 三鷹
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191120/k10012184611000.html
ことしは、日本からアメリカ本土への集団移住が始まって150年となりますが、日系移民が歩んだ歴史を知ってもらおうと、日本政府が主催した講演会が20日、都内で開かれました。
講演を行ったのは、アメリカ イリノイ州に住み、日系移民の歴史を伝えるため、語り部として活動している日系3世のアン・シモジマさん(68)です。
東京 三鷹市にある中高一貫校で20日に開かれた講演会には、生徒らおよそ80人が集まり、シモジマさんは、明治になってから本格化した日本からアメリカ本土への移民の歴史やシモジマさん自身の祖父について話をしました。
シモジマさんの祖父は、今から113年前の1906年に、長野県からアメリカ西部オレゴン州に渡り、料理人として働いたあと、食料品店を営んでいました。
しかし、第2次世界大戦が始まると、シモジマさんの祖父母は、カリフォルニア州の砂漠地帯の強制収容所に送られ、水が出ない部屋に入れられたことや、建物には、容赦なく砂嵐が吹き込んできたことなど、当時の厳しい生活の様子について話をしました。
講演会に参加した中学3年の女子生徒は「アメリカは、勝利のイメージがあったけれど、裏でこういうことがあったことを初めて知り、驚きました」と話していました。
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電話でお金の話@それは詐欺です
:2020/08/23(日) 23:23:41 ID:7jN8dfwI0
<つなぐ 戦後75年>戦跡に誓う 永久平和 三鷹の高射砲陣地跡で黙とう
https://www.tokyo-np.co.jp/article/49268
首都防衛高射砲陣地跡の慰霊碑を前に黙とうする参列者ら=いずれも三鷹市大沢の椎の実子供の家で
https://www.tokyo-np.co.jp/article_photo/list?article_id=49268&pid=109035
いまも四つ残る高射砲台座跡の一つ
https://www.tokyo-np.co.jp/article_photo/list?article_id=49268&pid=109036
終戦から七十五年を迎えた十五日、三鷹市大沢の高台に設けられた高射砲陣地跡が残る私立認可保育園「椎(しい)の実子供の家」で恒例の平和祈念式典が開かれた。
今年はコロナ対策で出席者を絞り、例年の三分の一の約十五人の関係者が参列。正午の時報に合わせて慰霊碑前で黙とうをささげた。
陣地は調布飛行場などを防衛するため、一九四三年に設置。陸軍東部第一九〇三部隊調布隊が駐屯し、計六門の高射砲を据えた。四五年二月十七日の正午すぎ、低空で陣地を襲撃してきたグラマン戦闘機の編隊と銃撃戦になり、調布隊の四人が死亡。本土で初めての米艦載機と地上部隊との戦闘だった。
園の敷地内には今なお直径約三メートルのコンクリート製の台座四基が残る。五七年、当時の三鷹市長鈴木平三郎さんが「永久平和を希求するためにこの陣地跡を残そう」と土地を私費で購入し、保育園を開設した。陣地跡は戦争の歴史を知る戦跡巡りなど平和教育の場として活用されている。
2年前、突然「遺族」に 父から祖父の戦死知らされる
「私たち四人の兄弟姉妹は二年前に突然、戦没者の遺族になったんです」。今年はコロナ禍で、椎の実子供の家の平和祈念式典への出席を見合わせた主婦高橋佳代子さん(50)=新潟市=は、こう話す。
高橋さんは二年前、父親の佐藤繁男さん(76)から、衝撃的な事実を打ち明けられた時の驚きを忘れられない。
繁男さんの実の父親が、高射砲陣地で米軍機との交戦で亡くなった四人の戦死者の一人、佐藤繁司さんと知ったのだ。「父の母親(高橋さんの祖母)が家を守るため、後に繁司の弟と再婚した事情があったため、私たち子どもたちには実の祖父の戦死を伏せていたようです」。
繁男さんは繁司さんが亡くなった当時、生後九カ月。「自分は乳飲み子だったので戦争のつらさも、終戦後の苦しさも知らないが、二度と戦争はしてはならない」と語る。
高橋さんは妹の高島晴美さん(48)と二人で昨年夏、高射砲陣地跡地での式典に初めて参列。戦争を遠い昔の話で自分には関係がないと感じてきたが、祖父の戦死を知り、百八十度変わった。「七十五年前、日本で何が起きていたのか。祖父はどのように死んだのか」。兄弟姉妹と戦争について話す機会が増え、戦争に関する報道が近年、目に見えて減ってきたことに不満を感じる。「コロナ禍が落ち着いたら自分の子どもや孫を連れて、三鷹や調布などの戦跡を巡りたい」。
高射砲陣地跡地にある保育園では毎年の夏、園を経営する社会福祉法人の柴田直樹さん(70)が陣地であった米軍との交戦や東京大空襲の話を園児らに聞かせる平和教育を続けている。「二度と戦争をしてはいけない。それが、この地に戦跡を残した理由だ」と話している。
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電話でお金の話@それは詐欺です
:2020/08/23(日) 23:26:19 ID:7jN8dfwI0
<つなぐ 戦後75年>仙川平和公園 不戦のシンボルに 三鷹の市立公園、願い込め改称
https://www.tokyo-np.co.jp/article/49101
長崎平和祈念像の縮小サイズ「平和の像」=いずれも三鷹市で
https://www.tokyo-np.co.jp/article_photo/list?article_id=49101&pid=108282
広島被爆樹木2世のアオギリ
https://www.tokyo-np.co.jp/article_photo/list?article_id=49101&pid=108283
空襲で生き残ったプラタナス
https://www.tokyo-np.co.jp/article_photo/list?article_id=49101&pid=108284
戦後75年を機に、三鷹市は7月末、新川6丁目にある市立公園の仙川(せんかわ)公園を「仙川平和公園」に改称した。園内には、彫刻家北村西望(せいぼう)(1884〜1987年)の代表作として有名な長崎平和祈念像の小サイズの像など、被爆地にゆかりの深いものや、市内を襲った空襲で焼け残った樹木などが集められている。河村孝市長は「戦争や平和について考える場所のシンボルになってほしい」と改称に込めた願いを説明する。
旧仙川公園は一九八九年の開園。面積は約一万一千平方メートル。園内には樹木が多く、園内の仙川沿いは市内指折りのサクラの名所になっている。
一番の見どころは、長崎平和祈念像を原型にした小型の「平和の像」。ブロンズ製で高さは約二・四メートル、長崎の約四分の一のサイズだ。北村の遺族の了解を得て、開園に合わせ、市民の募金と市費を合わせ約二千万円で建立した。
北村は晩年、都立井の頭公園内のアトリエで創作活動をし、平和祈念像をはじめ多くの作品を残した。市内の小学生との交流もあったという。一時期までは、毎年の終戦記念日に千羽鶴を像に供え、平和を祈る市民の姿が見られた。
広島で被爆しながらも焼け焦げた幹から芽吹いたアオギリの親木の種子から発芽した「広島被爆樹木二世」、一九四五年五月に三鷹市内であった空襲で木の内部が焼け、ほぼ外側の樹皮だけで生き残ったプラタナスの木も移植されている。
市企画部平和・女性・国際化推進係の国友彩加さん(34)と伊東修平さん(23)は「私たちの身内には戦争の体験者はいないが、平和を当たり前ととらえるのではなく、その尊さをしっかり後世につないでいきたい」と強調している。
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:
電話でお金の話@それは詐欺です
:2021/02/16(火) 22:15:11 ID:rcm0XYbM0
保育園に残る高射砲台座 三鷹・米軍機迎撃へ設置 戦死者遺族「もう二度と」 あす慰霊祭 /東京
https://mainichi.jp/articles/20210216/ddl/k13/040/014000c
三鷹市大沢の認可保育園「椎(しい)の実子供の家」の敷地内に、第二次大戦中、米軍機を迎え撃つために設置された高射砲陣地跡が保存されている。陣地は1945年2月に米軍機の銃撃を受けた日本兵4人が戦死しており、76年を迎える17日に保育園と関係者による恒例の慰霊祭が開かれる。
陣地は調布飛行場を見下ろす小高い丘に43年に造られ、高射砲6門が設置された。戦後、三鷹市長を務めた鈴木平三郎氏(故人)が跡地を買い取り保育園とした。現在は直径約3メートルのコンクリート製台座4基と、戦友会が建立した石碑が残る。園と戦友会関係者が2月に慰霊祭、8月15日に平和祈念祭を開き、園児も参加する。箕輪由紀園長は「子供たちに平和の大切さを伝えていく」と話す。
戦死した4人の一人、佐藤繁司隊員の長男繁男さん(76)=新潟市秋葉区=は終戦時満1歳で父の顔を知らない。戦後、残された母と結婚した父の弟に育てられた。ある日、家にある木箱のことを母に尋ねると、箱の中の遺品の寄せ書きの旗、小遣い帳、血のついた服などを見せられた。
「ショックだった。でも(事情を知った後も)育ての父にすごくかわいがられて育った」と振り返る。父が亡くなった場所が保存されていることに感謝し、一家で何度か訪れているという。「平和がいつまでも続くように願っている。自分のような思いを子や孫にさせたくない。戦争は二度とあってはならない」と語った。
慰霊祭などの問い合わせは子供の家0422・33・2255。
39
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利用停止予告 ドコモ未払い料金お支払いのお願い などの内容に注意
:2022/09/23(金) 10:34:39 ID:2rUYNpDY0
調布飛行場を見ながら歴史や戦争遺跡を知る 府中・武蔵野の森公園でイベント
https://news.yahoo.co.jp/articles/12e1803d9e0e8ea8254cb68363d89999495a6779
アジア太平洋戦争中に軍用機を空襲から守るために作られた掩体壕(えんたいごう)が残る「武蔵野の森公園」(府中市朝日町3)で9月25日、「ブラむさ森Vol.3『ふるさとの丘から望む調布飛行場の昔ばなし』」が開催される。
「ブラむさ森」は「武蔵野の森公園の見どころや自然、歴史などを探索しながら再発見してもらう」ガイドイベント。第3回は調布飛行場が一望できる「ふるさとの丘」で、かつて日本陸軍の飛行場として使われ、今も戦争遺跡が保存されていることについて、「調布飛行場の掩体壕を保存する会」の金井安子さんが紹介する。
同飛行場は1939(昭和14)年に東京府が公共用の「東京調布飛行場」として着工し、1941(昭和16)年4月に完成すると8月から陸軍が全面使用した。同年12月の開戦後は陸軍が敷地を拡張し、現在の同園や味の素スタジアム、東京外国語大学などを含む一帯が防衛基地として整備された。戦後は米軍に接収され、やがて「関東村住宅地区及び補助飛行場」となり、1973(昭和48)年に飛行場地区が全面返還された。
現在は公園敷地に掩体壕「大沢1号」「大沢2号」が保存され、「戦闘機飛燕(ひえん)と掩体壕」のブロンズ模型が置かれ、飛行場の排水施設「玉石張(たまいしば)り水路」が残されている。サービスセンターでは公園事業用地内で出土した「旧陸軍100式輸送機のプロペラ」を展示。周辺地域にも「東京調布飛行場門柱」「高射砲陣地跡」「白糸台掩体壕」など戦争の記憶を伝える遺跡がある。
金井さんは「現在の調布飛行場を眺めながら、かつてここにどんな歴史があったのかを紹介する。子どもにも興味を持っていただけるようにクイズ形式など取り入れて話すので、家族連れや若者など幅広い世代の方たちに参加していただければ」と呼びかけている。
同園では「出土したプロペラの展示」「掩体壕」のタイトルで、公園と調布飛行場の歴史を交えながら戦争遺跡を紹介する動画をユーチューブで公開している。「調布飛行場の掩体壕を保存する会」代表の長尾敏博さんは「自分の暮らす町に今でも戦争の爪痕が残っていて、貴重な戦争遺跡があることを知ってほしい」と話す。
開催時間は11時〜、14時〜(約45分間)。小雨決行。無料。各回定員20人(小学3年生以下は保護者同伴)。事前予約制(11時は満員、14時に空きがあれば当日参加可)。申し込みは公園サービスセンター窓口と電話(TEL 042-365-8435)で受け付ける。
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2023年4月から自転車に乗る際にヘルメット着用が努力義務化
:2024/07/07(日) 05:47:29 ID:GT8jGIVo0
映像作品「そして60年 三鷹のまちは戦場だった」
https://www.youtube.com/watch?v=bud_fwPZ5Ss
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2023年4月から自転車に乗る際にヘルメット着用が努力義務化
:2024/07/07(日) 07:39:05 ID:.rAreCpI0
終戦直後の調布飛行場〜藤原洋さんによる記録写真とインタビュー〜
https://www.youtube.com/watch?v=rLa1-JDVreE
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2023年4月から自転車に乗る際にヘルメット着用が努力義務化
:2024/07/07(日) 07:44:47 ID:.rAreCpI0
【武蔵野の森公園】武蔵野の森公園の戦争遺跡①出土したプロペラの展示
https://www.youtube.com/watch?v=3y_6zQixoWo
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2023年4月から自転車に乗る際にヘルメット着用が努力義務化
:2024/07/07(日) 07:45:25 ID:.rAreCpI0
【武蔵野の森公園】武蔵野の森公園の戦争遺跡②掩体壕
https://www.youtube.com/watch?v=Abeh7xlcS74
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2023年4月から自転車に乗る際にヘルメット着用が努力義務化
:2024/08/04(日) 04:44:35 ID:LMSmEf8g0
日本無線での学徒勤労動員
https://www.youtube.com/watch?v=27SNjcSIIGw
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2023年4月から自転車に乗る際にヘルメット着用が努力義務化
:2024/08/04(日) 04:45:26 ID:LMSmEf8g0
東京大空襲の記憶
https://www.youtube.com/watch?v=86oD0Q83O1M
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2023年4月から自転車に乗る際にヘルメット着用が努力義務化
:2024/08/04(日) 04:46:24 ID:LMSmEf8g0
大正10年生まれ 103歳の回想
https://www.youtube.com/watch?v=hGocFQnFXFE
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