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【生誕100年】太宰治【1909.06.19〜1948.06.13】

24太宰治@走れメロス:2009/02/28(土) 11:21:59 ID:bHQnF.8g0
more楽:1909年生まれの作家たち 多彩な「昭和の顔」
http://mainichi.jp/enta/art/news/20090228ddm013070161000c.html

 昭和を代表する文豪たちが今年、生誕100年を迎えている。中島敦(1942年没)、太宰治(48年没)、大岡昇平(88年没)、松本清張(92年没)、埴谷雄高(97年没)……。一見、意外な顔ぶれなのは、活躍の時期や小説のスタイルが違っているからかもしれない。この5人の足跡をたどる特別企画展「一九〇九年生まれの作家たち」が北九州市立松本清張記念館で開催中(8月31日まで)。同展の内容などをもとに、彼らの作家活動や時代とのかかわりを振り返ってみた。

 彼らが生まれた1909(明治42)年はどんな年だったのか。最も衝撃的な事件は中国・ハルビン駅での伊藤博文の暗殺だった。幸徳秋水らが創刊した文芸誌「自由思想」はすぐに発禁処分となり、秋水は翌10年の「大逆事件」で逮捕された。世間では「ハイカラ」「バンカラ」という言葉が流行した。

 5人の作家は少・青年期に、活発化する社会主義活動や大正デモクラシーの自由思想、民主主義を経験した。特に芥川龍之介の自殺(27年)には皆、強い衝撃を受けたはず。ちなみに、5人の中で芥川賞を受賞したのは清張(「或る『小倉日記』伝」)のみである。そして、戦争を国内外で体験した。

 出生地は大岡、中島が東京都新宿区、太宰が青森県五所川原市金木町、埴谷が台湾・新竹、清張が北九州市小倉北区(生誕順。地名は現在のもの)だ。

 太宰が県内屈指の大地主の家の出身なのは有名。この生い立ちへの反発が、太宰の“破滅的な生き方”へつながったといわれる。漢学者の家系に生まれた中島は、その文体に独特の漢文のリズムが色濃く出ている。父が株の仲買外交員だった大岡は、経済的に浮き沈みの激しい時期を経験した。

 左翼運動との関係が最も深いのは埴谷だ。日本共産党に入党して非公然活動を行い、32年に不敬罪や治安維持法違反で起訴された。獄中での読書と思索は観念小説の大作「死霊」(未完)に結びつく。清張はプロレタリア文芸誌などを購読していたため、左翼運動との関係を疑われ、29年に警察の取り調べを受けた。太宰はアナーキズムに強い親近感を抱いていた。

 戦争の影響は、誰もが深刻に受け止めざるを得なかった。大岡は44年、暗号手としてフィリピンに出征し、捕虜になった。その体験は作家活動の新たな核となり、「俘虜記」「野火」などで戦時体験を描いた。清張も44年、衛生兵として召集され、終戦までの1年間、朝鮮半島で過ごした。太宰は胸部疾患のため徴兵を免除され、戦時中に旺盛な執筆活動を展開している。

 作家として活動を始めた時期は異なる。太宰の「逆行」は35年、第1回の芥川賞候補作になった。中島は42年に「山月記」を書き、埴谷は46年から「死霊」の連載を開始した。清張は50年にデビュー作「西郷札」を書いている。太宰の女性との入水自殺から2年後だった。

 5人の他にも、1909年生まれの文化人は多い。作家の花田清輝(74年没)と長谷川四郎(87年没)、俳優の上原謙(91年没)と田中絹代(77年没)、写真家の土門拳(90年没)、映画評論家の淀川長治(98年没)と小森和子(05年没)、漫画家の横山隆一(01年没)らがそうだ。

 企画展についての問い合わせは松本清張記念館(093・582・2761)へ。


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