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☆お知らせ☆

1Vlack Belvet@管理人:2004/03/29(月) 06:03 ID:ON8AYjU2
本掲示板に書き込みが出来ないという旨をメールにて戴き、
確認しましたところ、私管理人のミスにより、これまで
書き込みが出来ないと言う不具合が発生していた事が分り
ました。
ご訪問戴きました皆様には大変ご迷惑をおかけしました事
心よりお詫び申し上げます。

31死にかけ:2004/04/18(日) 22:42 ID:5Wus4yk.
 いつも僕の拙い文章を読んだ後、いろいろ調べて感想を細かく書いて下さること
本当に有り難く思います。いつも楽しく読ませてもらっています。
先祖は色々活躍したようですが(ホントか怪しい)僕自身は本当に大した事
ありませんBlack Velvetさんは日奉氏が先祖だそうですね。こっちの方が
親鸞や河野よりすごいですよ、日奉氏言えば、高皇産霊神の末の一族で、
弓削氏とか久米氏とかもこの一族に入ると本で読みました、
凄く古い家なんですね。びっくりしました。
 
 話は変わりますが、こちらのホームページで前から気になっていたのが
「秘伝を守りつづけた集落」って話ですね。実はうちの父と母も同じ田島って
言う島出身で、そんなに遠くない親戚なんですよ。一族の血が濃いと言うことは
たまに優秀な人間を生むことがありますが、体の弱い人間が生まれることも多い
(秘伝の村は知的障害者が多かったってのが例の一つですね)っていうの
なんとなく分かります。たしかにうちの家も僕の弟はかなり出来るのですが、
(国立大行ってるから僕なんかもう全く頭ではかないません)僕自身は身体は
かなり弱い方です、こういうのを見ていると血族結婚の家ってメリットも
デメリットもあるなあと思ってしまいます。こちらの話で追加の話とか書き
きれていない話があったらまた教えてください。ちなみに僕も見合いやった
ことあるのですが、相手は僕の従姉でした。(その時は見合いって知らされて
ませんでしたが)

伊達正宗の話なんか分かり難かったような気がします。すいません、関が原の
戦い以前、正宗の領土は60万石だったのですが、家康が関が原でワシに付いたら
60万石に40万石プラスして100万石にしてやろうって話があったそうです。正宗
もそれを信じて岩出山から仙台に自分の100万石の領土にふさわしい城を作った
のですが家康からはたった二万石しかもらえなかったそうです。だから仙台城
が大きいのは正宗が家康に騙された証なんだそうです。けど近畿とか四国、中国
九州の人がこの城を見ても土塁の城なのでしょうもないと思います(笑)。

赤松広英の最期は悲惨ですね、これなら幽霊になって出ても何の疑問も湧きません
赤松氏は江戸期は生き残れたんでしょうか?もしご存知なら教えていただけたら
助かります。
 昔、中学校の時広英の城但馬竹田城をバスの中から見たことがあります。山の上
に巨大な超古代遺跡みたいなものがあるのでびっくりしたのを覚えています。
Black Velvetさんは行ったことがありますか? あったらまたこれも
教えてください。返事楽しみにお待ちしています。

32Black Velvet★:2004/04/19(月) 20:14 ID:7/.nTmbE
>>死にかけ様

>いつも僕の拙い文章を読んだ後、いろいろ調べて感想を細かく書いて下さること
>本当に有り難く思います。いつも楽しく読ませてもらっています。
こちらこそ、いつも楽しく読ませて戴いているんですよ。
ただ、色々忙しくてレスが遅くなる事があるのが申し訳
なく思ってます。

こんにゃく橋の話、興味深く読ませて戴きました。
こんにゃく橋という名前から、勝手にこんにゃくのように
ぐにゃぐにゃと揺れる不安定な橋なのかなと思ってました(^^;)
石棺の蓋は、確かに見様によってはこんにゃくにも見えま
すよね。
播州地方(兵庫県南部辺り)はこの石棺の蓋が多く、古墳
時代の物ですが、この石棺の蓋に仏像を刻んだり、やはり
橋として使ったりという例を多く見受けます。
また、姫路城の石垣などにも使われたりしています。

>日奉氏が先祖だそうですね。こっちの方が親鸞や河野よりすごいですよ
そんな事ないですよ(^^;)
何せ、ご先祖様は神代の人ですからね、当にならないと
いったらありゃしない。
ご先祖様が神様ですからねぇ・・・どう考えてもフィク
ションでしょう(笑)

>「秘伝を守りつづけた集落」って話ですね。
>こちらの話で追加の話とか書ききれていない話があったら
>また教えてください。
残念なのですが、あの話はあれ以上は私も知らないんです
よ〜。何分にも人から聞いた話なので。
敢えて言うなら、書いていない部分は伏せてある集落の
名前とか、そうまでして守らなければいけなかった秘伝が
何であったかぐらいでしょうか。
ただ、知的障害者云々という事があるので、その辺りにつ
いては触れていないんです。

>赤松氏は江戸期は生き残れたんでしょうか?
>もしご存知なら教えていただけたら助かります。
赤松氏は嘉吉の変(赤松満祐は将軍義教を殺害)で一時滅
亡しますが、応仁の乱を機に、赤松政則が家を再興。
その後赤松家は置塩城にあって、赤松屋形と呼ばれ有名無
実の存在となり、後、秀吉の中国侵攻の際には抵抗する事
なく降服。
則房の代に阿波国板野郡内に二十三カ村(住吉藩一万石)
を与えられました、しかし、則房が無嫡であった為、加島
政慶(蜂須賀家政の甥、細山主水正)を養子として迎えた
のですが、政慶が阿波富岡に移り、元和元年(1615)廃藩と
なりました。

>Black Velvetさんは(但馬竹田城)行ったことがありますか?
もう十年以上前になりますが、行ったことありますよ。
山上に築かれた石塁はそれは壮観です。死にかけさんも機
会がありましたら是非一度訪れてみて下さい。
一見の価値はあると思います。

33死にかけ:2004/04/19(月) 23:03 ID:ABFxqacA
 質問に対して丁寧な答えをしてくださったこと、本当にありがとうございます。
レスは本当にゆっくりやって頂いて結構ですので、けど地元の怪奇名所がホーム
ページに出ると言うのはやっぱり嬉しいですよ。本当は前に住んでいた枚方市
にあると言われているアテルイ(坂上田村麻呂に侵略された時の東北の長)の首塚
の事とか書きたかったのですが、いまだに場所が特定できてません。また特定
出来次第このことも書こうと思います。

 赤松氏に関しての所で思ったのですが、室町時代の守護大名が生き残るのって、
本当に難しかったようですね。守護大名が江戸期に大名として生き残っているという
のは秋田の佐竹、鹿児島の島津、丹後の京極、熊本の細川位じゃないでしょうか?
しかも京極、細川はたしか嫡流ではなかったはずです。殿様とか楽そうに見える
に見えるけど、意外とそうでもなかったのかも、なんて考えてしまいます。

 お殿様ついでに今日は、江戸城のことについて書こうと思います、
大正12年(1923年)の関東大震災で、二重橋の袂にある月見櫓は破損
してしまったことがありました。そこで大正14年に修理が行われることに
なったのだが、櫓の土台を掘り進めると、古銭と土器とともに16体もの人骨
が発見され大騒ぎとなったことがあったんです。単に事故で死んだ者を埋葬
したのか、それとも人柱として生き埋めにされた者か、当時の新聞を賑わせ
たそうです、もし、人柱だとすれば、伝説と考えられていた儀式が実際に行
われていた証明となります。しかし現人神の住まわす宮城での秘事であった
ためか、結局真相は不明のまま現代に至っています。

この話にもいろいろな噂があり、16体の人骨は全て立ったまま一つの方向を
向いていたと言う話や、そんなことは嘘でばらばらに埋まっているだけだった
と言う話もあります。

 この話以外にも江戸城には、以下のような七不思議と言う怪奇談が伝えられている
1、本丸御殿の白たぬき 2、どこからともなく聞こえてくる馬の蹄の音
3、願いをかけるとかなう松 4、夜鳴きする石 5、闇夜に月が映る池
6、女の足音が聞こえる大奥の天井 7、血が沸く池
と言うのがあるそうです、

 その他にも僕が読んだことがある話として、将軍綱吉が暗殺された開かずの間
というところもあったそうです。他にも江戸城には死んだ人が城から出る時に
だけ使う門っていう門も確か残っていたと思います。そして何より皇居の大手門
の近くにはあの将門の首塚があります。僕も行ったことがありますが朝早く行った
せいか、都会のど真ん中でありながらやけに寂しいところだった印象があります。
 
 そういってみれば姫路城の石垣の中に古墳の石棺がありましたね、ほかにもおばあさん
が持ってきた石臼とかも有りました。このような例えば墓石や地蔵を石垣に使うという
のは単なる突貫工事をやったため仕方なく使ったのか?それとも城そのものに呪術的な
力をつける為だったのか?それとも1970年代に中国で起こった文化大革命的意味が
あったのかなんか僕は考えると止まらなくなるところがあります。このような石垣を
使っている城に福知山城、安土城、大和郡山城などがあります。

34死にかけ:2004/04/20(火) 21:11 ID:N0zUASD.
 今日は広島県沼隈郡神村という場所の伝説を書きたいと思います。
ちなみに広島県沼隈郡内海町が僕の田舎です、(今は福山市内海町ですが)、
現在、福山城のある沼隈郡内の神村(かむら)という所に神村八幡宮
があります。境内には「八重明神」が祀られており、これは無残な死を
遂げた情念の女「おやや」の怨霊封じであると伝えられています。

 主人公おややは沼隈郡の郷士石井又兵衛の妾で、もと安芸の国宮島の遊女。
又兵衛は厳島神社参詣の折に見初められ、身請けされて妾になったとのこと。
ところが遊女の性分が災いして浮気の虫が止まらない。ついにおややと
村の修験者法林院長覚との密通が露見した。

 嫉妬深い又兵衛は怒り心頭に発し、この二人をなぶり殺しにしたという、
その方法とは、まず二人を裸にして大きな桶に放り込み、その中にマムシや
ムカデをうじゃうじゃ入れ、ついで酒を注ぎ込む、するとマムシやムカデは
両人の身体にまつわりつき、耳、鼻、口などの穴と言う穴に入り込んで
噛み付き、さすがの見物人も二人の死に様には目をそむけるばかりであった
と言う、二人の落命に際し、命乞いを拒まれて、憎しみが頂点に達した
修験の仲間は、「この惨殺を冥土の土産として、三途の川を渡れ」と呪文
を唱えて、怨霊を地上界に解き放ち、二人を成仏させなかったから大変である

 二人の遺骸が伊勢山に葬られて間もなく、塚から毎夜のように大きな人魂が
毎夜のように出て、大きな人魂がふわりと出て石井家の上を大きく舞い始めた
いつしか人はこれを、「おややの火」と呼ぶようになったが、火の玉は又兵衛
の家の中にも入り込み、部屋を血に染めたり、遊女のように客人と交わったり
巨大な妖怪に変じたりして、又兵衛を苦しめつづけたと言う。江戸初期の話です。

 これは「四尺の火の玉」というから埋葬の地の地理的条件に加えて、潮待ちの地
河口の地、干満潮の地などの気象条件、すなわち湿度、風向き、風力、温度など
の条件が火の玉発生の条件を揃えていたのでしょう。
 いずれにせよ、海上を行き交う船や漁火。夜の海の火を見て育った福山藩沼隈郡
の人たちにとって、空を舞う火の玉はイメージ的にも生みやすい伝説では無かったか
と思ったりもします。

 実はこの話つい最近知った話です。同じ田舎の人がこんな無残な処刑をやった
のかと思うとなんか怖くなりますね。福山の山奥と言えばあの比婆山があったり
(ヒバゴンで有名ですね)また八反坊の呪いで有名な八反法の墓も福山の近くの
東条町にあったり、怪奇な地帯としては結構有名です。

35Black Velvet★:2004/04/23(金) 12:59 ID:tkH1L5EE
>>死にかけ様

>地元の怪奇名所がホームページに出ると言うのはやっぱり嬉しいですよ。
ありがとうございます。そう言って戴けると私としても
とても嬉しく思っております。死にかけさんの情報のご
提供で幣HPの情報もますます豊かになってゆき、嬉し
い限りです。

>本当は前に住んでいた枚方市にあると言われているアテルイの首塚
>の事とか書きたかったのですが、いまだに場所が特定できてません。
確か阿弖流為の処刑された場所には諸説があったのではなかった
でしょうか?
場所については古文書や言い伝えなどから杜山、植山、椙山の三つの
比定地があり、このうち枚方市観光文化課は植山説を採用しています。
植山→上山→宇山と訛伝し現在の宇山地区だとしています。
牧野公民館の横に首塚があると聞いた事があります。
何かのご参考にでもなれば・・・

江戸城の七不思議として、「月見櫓の白骨」は聞いた事がありましたが、
具体的な話は初耳でした。
私の知っている江戸城七不思議は、死にかけさんの仰られた七つの他
に、8.高い土居、9.搦手門を半蔵門とは、10.月見櫓の白骨、11.
行方不明の軍用金(出展:『別冊歴史読本 怪奇・謎 日本と世界の七
不思議』)というものでした。
しかし、気になるのはその16体の白骨の所以ですよね?人柱だったのか?
事故だったのか・・・真相は闇の彼方ですか・・・

>江戸城には死んだ人が城から出る時にだけ使う門っていう門も確か残っ
>ていたと思います。
確か、「不浄門」ではなかったでしょうか?

城の石垣に石仏や石棺を使う例は各地で見られますよね。これは、私が
聞いた話では少しでも石材を調達する為だと聞いた事があります。
ただ、実際にその場に居合わせた訳では無いので何とも言えませんが(笑
一つの逸話として、神戸市中央区に「割塚」という塚跡が残っています。
これは、豊臣秀吉が大阪築城の際、石材の調達のため古墳を発掘して、
使われていた石材の大半を持ち去ったという話です。そのため、この塚
を「割塚」と呼ぶようになったといいます。

36Black Velvet★:2004/04/23(金) 14:53 ID:tkH1L5EE
>「おややの火」
すごい話ですね・・・読んでいるだけで鳥肌が立ってきました(^^;)
魔が差したとはいえ、このような惨たらしい最期を迎えた二人は
さぞや無念だったことでしょうね。
実は、これと同じような話が播州福本藩や但馬出石藩にも残って
いるので、死にかけさんのお話を読んで驚きました。
福本藩の場合は、殿様が参勤交代で留守の間に、奥方が藩の若い
侍と通じてしまい、それを知った殿様が、領内の村々の庄屋に命
じ、領内のマムシを集めさせ、集めたマムシを長持ちの中に入れ
その中に奥方を閉じ込め、そのまま陣屋の裏の御蔵が谷に捨てた
そうです。
その後、奥方のタタリで代々藩主池田氏には世継ぎが生まれなか
ったとか、奥方を殺した殿様の墓石だけは、いくら積んでも崩れ
たということです・・・
昔は残虐な刑罰も多かったと聞きます。おややの話にしても、
福本藩の話にしても、実際にあったかも知れないと思うと、殊更
ゾッっとします・・・

37死にかけ:2004/04/23(金) 22:46 ID:tjc7.IBs
 アテルイの情報ありがとうございます。牧野は処刑された地なんですね。実は
僕はかつて牧野図書館の常連客でした(枚方の図書館の中でも怪奇本の量が最も
多かったので)、それでもその場所が見つからないとは、(僕がよっぽど間抜け
なのかな?)これではないかなという塚みたいなものが確かに有るには有りますが、
案内の看板がついていなかったのを覚えています。そういってみれば、木曽義仲
の首塚もなんか転々としています。ある時は、普通の民家の庭にあったり、
またある時は、法観寺(八坂の塔)の境内に有ったりとあの辺りをうろついていて、
怪奇やお能関係の史跡っていいかげんだなあと思ったことはよくあります。

 話は変わりますが、おややと修験者が処刑されたときの処刑法って、福山藩だけ
ではなく他の藩もやっていたんですね。何かとても嫌な流行ですね。しかし
クレオパトラとか蛇に胸を噛まして自殺したと聞いているので、実は結構有名な
処刑法だったのかもしれません。けど福本藩のやった処刑法の方がまだ人道的
ですね(五十歩百歩?)

 江戸城の月見櫓の白骨の話をBlack Velvetさんが知っておられたのには、思わず
やっぱりBlack Velvetさんってすごいわって思ってしまいました。皇居の中には
二回ぐらい入ったことがありますが、大阪城なんか比べ物にならないくらい広いです
そのかわり広いだけに市ヶ谷の靖国神社前まで来ると単なる土塁だけを使ってあって
石垣とか無いところも有るので、大阪城に比べて、たいした事無いかもなんて
思ってしまいます。

 今日は長岡京市今里大塚にある、今里大塚古墳について語ろうと思います。
「今はお国の非常時、迷信のため、食糧増産ができないようなことがあっては
それこそ一大事だ、あの古墳にくわを入れようではないか」乙訓村今里(長岡京
今里)の青年団員らが今里大塚古墳の開墾を主張した。昭和17年三月のこと、
国が食糧増産を指示している真っ最中でありそういう意見が出てもおかしく
は無かった。しかし村人などの反応は冷たかった。

 「あの古墳は乙訓の主が眠るところじゃ。昔くわを入れた為、その怒りに
触れて死んだ人がある。と聞いておる、やめた方がええぞ」といって村の古老
は逆に若者をいさめた。
 大塚古墳は、かつて乙訓で勢力を誇った豪族の墓と言われ、古墳の怒りに
あったという話も根強く村人の間に残されていた。そのため、誰一人
として立ち入る物も無く、樹木に覆われた丘がぽつんと手付かずのまま
残っていた。そして耕そうとしていた人はもちろん、古墳に入っただけで
手足に大怪我をし不自由な身になった人だって有ると伝えてきた。
 さらに村人は昭和八年頃、やはり当時の青年団が、この丘を野菜の
研究農場にしようと計画し開墾に踏み切ったことも有ったが、結果は青年団長の
死という結末で立ち消えとなり、その時に植えた松ノ木だけが成長した、とも話した
 「それは偶然が重なっただけだ、我々だけで開墾して、村人に迷信だと言うことを
明らかにしよう」と青年団長に説得されとうとう青年団だけで開墾することとなった。

 そのことを助けるかのようなことも起こった、昭和九年の室戸台風の時、古墳
から大蛇が昇天するのを4,5人の村人が見たというのだ、青年団は「これこそ
乙訓の主が天国へ帰っていったと言うこと、古墳には何も住んでいない、」と
張り切って開墾を始めた、4月下旬にはサツマイモの苗が植えられた、しかし
八月には村人の間で、「やっぱり乙訓の主はまだ住んでおられたのじゃ」とささや
かれ始めた。芋の収穫を見ないまま青年団長が急死したからであった。

この話は禁野車塚古墳の話に似ていたのでこちらにカキコしました。しかし禁野車塚
の方は昭和45年頃は前方後円の前方部分は完全に畑になっていたそうです。

38Black Velvet★:2004/04/25(日) 17:08 ID:QhkU0aic
>>死にかけ様

>アテルイの情報ありがとうございます。
私の知る範囲の事でもお役に立ったなら幸いです。
>牧野は処刑された地なんですね。
みたいですね、どうやら京まで移送されそこで見せしめ
を兼ねて処刑されたようです。

>木曽義仲の首塚もなんか転々としています。
そうですね、一種の英雄伝説と言いますか、悲劇の最後
を遂げた武将などの塚は、複数箇所あったりというのは
ままあることみたいですね。
源平合戦で討たれた平忠度なども、腕塚が二箇所、胴塚
が一箇所、首塚が一箇所とバラバラにされてたりしてま
す(^^;)
これは、悲運の武将を慕う気持ちが地元の信仰と合わさ
って、結果このように複数箇所に祀られるようになった
ものと思われます。

>おややと修験者が処刑されたときの処刑法って、福山
>藩だけではなく他の藩もやっていたんですね。
みたいですね...
当時は今のように統一された国家のもとで法が整備され
ていなかったので、各地で様々な村の掟や、領主の裁量
によって残酷な刑罰も行われていたようです。
中でも、“石子詰め”という刑罰は、それは残酷でした。
これは修験者の間で行われた私刑の一つで、地面に罪人
がすっぽり収まるほどの穴を掘り、そこに手足を縛った
罪人を入れます。そして、周囲から大勢で大小の石を
その罪人めがけ投げつけ、投げつけた石でその穴が埋ま
るまで石を投げ続けるという残酷極まりない私刑でした。
確か、春日大社の神鹿を殺した男がこの刑に処せられた
のがこの刑罰の記録上の初見だと思います。
その後、因幡の国の修験者が侍の妻と通じた事が発覚し
修験者の申し出でこの刑が行われたという話が残ってい
ます。

>今里大塚古墳
怖いですねぇ... まさに、日本版ツタンカーメンの呪い
みたいですね。
でも、昔は古墳を開墾して畑にしたりという話は結構
あったみたいですね。ひどい場合には盛土まで取り除か
れて畑にされたりという話はちょくちょく聞いた事が
あります。
しかし、今里大塚古墳みたいに死者が何人も出ている
となると、あながち迷信という言葉とかでは片付けら
れない不思議な何かってやっぱりあるんでしょうかね
ぇ(-_-;)

39死にかけ:2004/04/25(日) 22:33 ID:KXzLNkdc
 謡曲、「忠度」をみても確かに忠度は腕を切られてますもんね、ちょっと話は
変わりますがこの話を読ましてもらってなんか項羽と劉邦の項羽の最後を思い出
しました。項羽が頚動脈を切って自殺した後、敵の武士が大量にわーっと群がっ
て首や腕、足などをもぎ取っていった。そしてその武士達はその足なら足、手なら
手に見合った領地をもらったと言われています。恐ろしい話ですが、中国全土を
史上最年少で自分の物にした人物にふさわしい最後ではないかなんてとんでもな
いことを考えたりしました。日本では若い頃出世するのは凶とすらされています
もんね。

 アテルイはやっぱり炎立つという大河ドラマのに出てきたので好きですね。里見浩
太郎(間違っていたらすいません)がやっていましたね。

 首塚じゃないけど一番笑えるのが鎌倉にある、源頼朝の墓ですね、墓石は江戸
時代に島津氏が作っていて島津氏の家紋すら入っています、島津氏そのものは渡来
人の家ではないかと言われているのですが、島津市はどうしても、頼朝の子孫だと
名乗りたかったんですね。そう考えると奈良時代以前の日本の歴史もかなり怪しい物
なのかもしれません。それまでは歴史を伝えるのは口伝ぐらいしかなかったのだから
なんとでも改ざんできます。そう考えるとやっぱり朱子学的な歴史の考えっておかしい
ですね。(なんといっても一番古くからある血族が一番偉いんだから)島津氏みたいな
ずるがしたくなるのも解からないでもないです。しかししっかり嘘ってばれてますが
内藤湖南っていう学者が戦国以前は勉強する意味がないなんていっていたようなきが
しますがわりかし当たっているかも?

 春日大社の石子詰めの話は悲惨ですね、確かに春日大社にとって鹿は神獣として
重要かもしれませんが、ここまでして守る必要があるのかどうかといえば無いと思
いますね。明治になったら奈良のどんな人か忘れましたが、偉いさんが、何頭か鹿を
集めて車を引かして喜んでいたというんですから。時代が変わったらこうも変わる
のかとなんか呆れてしまいますね。だから本当をいうと興福寺とか春日大社って
何か好きになれません、かつては南都北嶺っていって結構調子に乗ってましたし。
 今日はカルトな歴史の話ばかりしてしまってすいません。けどBlack Velvet
さんとはこういう話も出来るのがとても僕にとって嬉しいです。いつも本当に
助かっています。

今里大塚古墳の話ですが、たった70年前の話なのでなんか怖さが違いますね。しかし
古墳とかって結構、お城に使われたりとかして破壊された物も多いんですけどね。
まず大阪城、仁徳天皇陵に匹敵する大古墳だったのではといわれているそうです。
他にも丸岡城とかも怪しいそうですし、大塚古墳の近くの勝竜寺城も元古墳といわ
れています。この話の中で面白いのが大阪府羽曳野市の高屋城です。古墳を使って
作られているのですが、後円部は城として使わず置いてあったそうです。やはり
古墳の主に遠慮したんでしょうか?

40死にかけ:2004/04/27(火) 19:57 ID:S7gqURAo
 今日は前にカキコするといって出来なかった(本当にいいかげんです)業平火に
ついて書こうと思います。書くといって書かなかったことお詫びいたします。
場所は京都市西京区大原野上羽町だそうです。「夕べも、業平卿の人魂が出たそ
うな」月明かりも無い闇夜、在原業平の墓にそびえるクスノキに、ボウッと青白
い火の玉が現れ、輪を描きながら、北方の集落(南茶屋)の池に向かって飛んでいく
そこで一瞬消えたかと思うと、また現れ、池の面から飛び立ち、輪を描きながら
元の墓に戻り消え去るという、この人魂については悲恋物語がある。

平安朝の歌人、在原業平が大原野の小塩山十輪寺に身を寄せたのは、五十歳を過
ぎたころ。桓武天皇の皇孫で華麗な恋と放浪に身を任せた業平だったが、政治的
には当時勢いを増していた藤原氏に抑えられ不遇のみをかこっていた。
 そんな業平にとって、美しい自然と静かな環境に囲まれた大原野の里は、心の
痛手を癒すのに絶好の場所。近くの上羽村に住む母、伊登内親王を訪ねたり、
風流人のたしなみである塩焼きなどをして、つれづれを慰めていた。

 ちょうどそのころ、南茶屋の農家に、一人の美しい娘がいた。ある時、近くを
散歩中の業平の姿を垣間見た娘は、人目で恋をしてしまった。娘は幾度となく、業平
の散歩の時間を狙って、姿を身に出かけた。しかし恋を打ち明けるには、自分は
あまりにも身分が違いすぎる。悩みに悩んだ末、娘は思いがかなわぬ辛さから、池
に身を投げて死んでしまった。
 そんなことはつゆ知らぬ業平、後で村人からそのことを聞いて悔やんだ、そして
その後業平もこの娘の一途な思いに哀れをおもいながらこの世を去った。
 それから、この人魂が現れるようになった。村人達は「業平様の魂が、自分を恋
い慕ってくれた娘のところへ会いに行くのだ」と噂するようになった。
 この伝説は、主に大原野灰方町で語り継がれており、同上羽町の村人も昭和7年頃
の初夏の夜、田の中で、二メートルほどの高さを青白い火が飛んでいくのを見たと
いいその音は、蜂の群れが羽ばたきするような音だったという。

 この話は京都府山城町のこんにゃく橋の話に似ています。それから興味深いのが
蜂の群れが羽ばたきするような音を立てて火の玉が飛んでいたという話です。この
あたりに昔住んでいた昆虫を特定していくうちに火の玉の正体がわかるのではない
かというなんかある意味(夢の無い)時間が有ったら調べられるのになあということ
を考えてしまいました。

41死にかけ:2004/04/30(金) 20:52 ID:pfg63QJo
 今日は京都の七不思議系の話をしたいと思います。京阪電車に乗って四条で
降り、東に向かって歩くと、八坂神社があります。この神社を突っ切って、さらに
坂を上がると、円山公園に出ます。ここも怪奇スポットとして有名ですね。Black
Velvetさんならもう知っているかもしれないのですが、この場所にはいわゆる京都
でも有名な(お化けが)出る公衆便所と言われている場所があったり、働く少年の
像という夜になると動き出すといわれている銅像が置いてあったりします。

 その円山公園をもう少し山の方にいくと京都でも有数の巨大な寺院があります。
それが知恩院です。浄土宗の本山であり、法然上人が亡くなった地とも言われて
います。ここの七不思議というのは。まずその一御影堂から小方丈に至る「うぐいす
張りの廊下」二つ目は左甚五郎の忘れ傘。御影堂東南のひさしの梁の間に1本の古びた
傘が見える、本堂が完成した時にこれほどの大建築では完璧すぎて帰って不吉なこと
が起こるとして左甚五郎がわざと置き忘れていったとも、霊厳上人の法話を聞きに来
ていていた濡髪童子という白狐が悟るところあって、上人から傘を借りていき、今あ
るところに差し込んで霊力を示したともいわれている。ここは知恩院さんの中でもとて
も面白いところで常に誰かが口をぽかんと開けてこの傘を捜しているところがおもしろ
いですね。

 三つ目としては狩野信政の筆による大方丈の杉戸に描かれた猫の絵の「三方正面真向き
の猫」そして四つ目が大方丈菊の間の襖絵で、万寿菊の上に数羽の雀が描かれていたが、あまりに
よくかけているので飛んで逃げたといわれる「抜け雀」  五つ目としては植えもしない
のにこの石から売りの蔓が生え、花が咲き、一日で瓜の実がなったという「瓜生石」
さらに六つ目として大方丈入り口の梁に置かれている。長さ2.5m重さ三十キロもある「大杓子」
七つ目が日本一巨大といわれている三門楼上に安置されている「白木の棺」
三門建立が予算をはるかに超えてしまった責任をおって死んだ大工の棟梁の木像が納まっている。
僕が知り合いの浄土宗のお坊さんから聞いた話によると棟梁の死体が入っているって聞いたことが
あるそうです。

42Black Velvet★:2004/05/04(火) 14:12 ID:Aipi5VkY
>>死にかけ様

ただいま公私ともに慌しくしております。
返事の方、今暫くお待ち戴ければ幸いです。
ごめんなさい(>_<)

43死にかけ:2004/05/04(火) 17:31 ID:eG/EY7kA
 いつもいつも気遣って頂いてありがとうございます。
返事は本当に忙しくない時で結構ですので、またBlack Velvetさん
が忙しくない時に色々と歴史や怪奇の話を教えていただけたら嬉しく
思います。いつもありがとうございます。

44Black Velvet★:2004/05/06(木) 15:50 ID:Hq3JaQFo
>>死にかけ様

>項羽が頚動脈を切って自殺した後、敵の武士が大量にわーっと群がって
>首や腕、足などをもぎ取っていった。そしてその武士達はその足なら足、
>手なら手に見合った領地をもらったと言われています。
俗な表現になりますがエグイ話ですねぇ(@_@;)
もぎ取る方ももぎ取る方なら、領地を与える方も与える方
ですよねぇ(-_-;)なんだかなぁ・・・

>島津市はどうしても、頼朝の子孫だと名乗りたかったんですね。
戦国期は特にそういう系図の操作っていうのが日常的に行
われていたみたいですね。
征夷大将軍に成るには源氏の血筋じゃないとなれないので
先祖を無理やり源氏の流れに結びつけたり、あと、合戦の
後に、自分の先祖を勝った方と同じ先祖にして、私は貴方
(勝軍)と遠縁だから大目に見てみたいな事に利用された
みたいですね。
だから、そういう観点から見ると、
>内藤湖南っていう学者が戦国以前は勉強する意味がないなんていって
>いたようなきがしますがわりかし当たっているかも?
も、あながち当たってないんでしょうね(^^;)

>明治になったら奈良のどんな人か忘れましたが、偉いさんが、何頭か
>鹿を集めて車を引かして喜んでいたというんですから。
それは初耳でした。そんな事(時代)もあったんですかぁ・・・

古墳を城砦に転用した例は多いですよね。周濠があって、
丘陵になってるんですから、本格的なものでなくても
そのままでも陣城になりますものね。
ちょっと調べただけでも、大阪なら
仁徳天皇陵(大阪府堺市) ⇒ 国見山城(城主不詳)
応神天皇陵(  同 羽曳野市) ⇒ 誉田城(杉原周防守)
安閑天皇陵・安閑皇后陵( 同 羽曳野市) ⇒ 高屋城(畠山氏)
茶臼山古墳( 同 大阪市) ⇒ 大阪の陣で徳川家康の本陣 
津堂山古墳( 同 藤井寺市) ⇒ 安見氏の小山城(安見氏)
今城塚古墳( 同 高槻市) ⇒ 郡家城(三好長慶)
など、結構ありますね。

>この話の中で面白いのが大阪府羽曳野市の高屋城です。
>古墳を使って作られているのですが、後円部は城として使わず置いて
>あったそうです。やはり古墳の主に遠慮したんでしょうか?
ん〜、やっぱりそうなんでしょうかね(^^;)
後円部といえば、玄室(石棺を収めてある石室)がある
部分ですもんね。やっぱり遠慮したんですかね?(笑)

45死にかけ:2004/05/06(木) 21:42 ID:SklJuaqQ
古墳の情報ありがとうございます。仁徳、応神両古墳なら、堅固な城が作れた
でしょうね。僕も城マニアですけどここまで細かい情報は知りませんでした。
 そう考えると古墳のなかでも前方後円墳は、城として作られたんですかね?古墳
の葺石とかも良く考えると投石器みたいな物で敵にぶつける為にあんな物を置いた
のかなといろいろ考えてしまいます。やはり単なる墓とは思いにくいですね。
 周りの堀は長い間灌漑の池として使えたと聞いてますしほんと無駄が無いですね

 系図の話も知らなかったです。そんな裏があったんですね。ってことは島津は
徳川と同じ一族やってことを名乗りたかったんですかね。あんな墓を作った理由
もそれなら納得がいきますね。話は変わりますが、鎌倉で最も凄い話はやっぱり
司馬遼太郎の街道を行くの中であった、この話だと思います。鎌倉では鎌倉時代
しょっちゅう戦が鎌倉市街で行われていたので、市街戦で出た死体を篤志家のよ
うな人が埋めてやっていたそうですが、あまり深く墓穴をほらずに埋めていた、
そのため道路がまだ舗装されていない戦前は道路に骨が良く出てくることがあったという
それとどこか忘れたか有名な女子高の校庭では人の骨と思しきセピア色の断片が
まだ見られるところがあるといわれています。さすがは武士の町、けど怖いですね

46Black Velvet★:2004/05/07(金) 08:49 ID:Wtt4hZBY
>>死にかけ様

業平火のお話、なんとも切ないロマンスですね・・・
>娘は幾度となく、業平の散歩の時間を狙って、姿を身に出かけた。
>しかし恋を打ち明けるには、自分はあまりにも身分が違いすぎる。
>悩みに悩んだ末、娘は思いがかなわぬ辛さから、池に身を投げて死んでしまった。
今のご時勢では考えられない古きよき時代を偲ばせると共に、
当時は今ほど自由に恋愛もままならなかったという悲しさが
伝わってきますね・・・

>その音は、蜂の群れが羽ばたきするような音だったという。
その話を聞いて思い出したのですが、東下(神戸市北区山田町
東下)に現れた怪火は、甲高い「チリチリ」という音を出し
ながら燃えていたといいます。

>円山公園に出ます。ここも怪奇スポットとして有名ですね。
円山公園の公衆便所が心霊スポットとして有名なのは聞いた事
がありましたが、働く少年の像が動くという話は初めて聞き
ました。まるで、学校の七不思議の「二宮金次郎」像みたい
ですね(笑)

>知恩院の七不思議
七不思議のそれぞれの名前だけは聞いた事がありましたが、
詳しい内容は知りませんでした。
とても興味深く読ませて戴きました。
相変わらず、死にかけさんの博識には驚かされるばかりです。

47死にかけ:2004/05/09(日) 14:12 ID:IvBG7E2E
 ゴールデンウィークは色々な歴史上の怪奇名所に行きたかったのですが、京都に
少し用事があって知恩院の七不思議の一つ瓜生石だけ見ることが出来ました。境内
より少し離れた道路の上にあるんですね。

 このごろ思うのですが、僕のカキコちょっと文章多すぎですよね、Black Velvet
さんさえ良かったらもう少し短めにしようかとも思っているのですが。どうでしょうか
よかったら意見を下さい。

 この前平忠度の塚の話し教えてくださいましたが、今、謡曲で忠度やっている
友達にBlack Velvetさんから聞いた忠度の塚の話をすると、とても喜んでい
ました、このようにこちらの方もBlack Velvetさんの話にはとても助かってい
ますし、勉強にもなってますよ。

 今日は奈良県の興福寺の近くにある頭塔について話をしようと思います。頭塔
は奈良公園の中でもとても変わった遺跡で、僕が見たところピラミッドみたいに
見えました。この遺跡にはこんな伝説があります。時は奈良時代、聖武天皇の
母親が病がちになった時、その病を治した坊主の中に玄ボウという僧侶がいたのですが
この僧侶が筑紫の観世音寺の拝殿で読経をしたいると 何者かが空中から現れて玄ボウ
をとらえるとそのまま空高く連れ去ってしまったのであった、かれはその後どうやっても
見つからなかったが、その後、奈良の興福寺の境内に、空から首が落ちてきた、それが
玄ボウの首だったという、この首塚でありこの首が落ちてきたところが今の頭塔の
あるところといわれています。このような怪事が起きた原因として彼の地位に対し
て妬みを持っていた藤原広嗣に呪詛されたからといわれています。

48Black Velvet★:2004/05/12(水) 16:08 ID:jVNNp9pg
>>死にかけ様

「瓜生石」というと、一夜にしてこの石から瓜が生え、青々とした瓜が
実ったという伝説のある石ですよね。たしか・・・
で、そのウリの実には「牛頭天王」と記されてあったので、隣の青蓮院
の鎮守、栗田神社へ奉納されたとかいう話ですよね。

私は、GWはライブハウスのトークショウに、心霊スポット探索仲間と
一緒にゲストとして呼ばれてました。その後、そのメンバーで摩耶観光
ホテル見学してきました(^-^)

>このようにこちらの方もBlack Velvetさんの話にはとても助かってい
>ますし、勉強にもなってますよ。
あのような話でもお役に立てて幸いです。
忠度の最後については、『兵庫史の謎』(春木一夫著、神戸新聞出版
センター刊)の「平忠度の首は何処に」や、『源平と神戸』(神戸史談
会編、神戸新聞出版センター刊)の「忠度の最後」に詳しく書かれてい
ますので、ご興味がありましたら見てみて下さい。

>僕のカキコちょっと文章多すぎですよね、Black Velvetさんさえ良か
>ったらもう少し短めにしようかとも思っているのですが。どうでしょうか
>よかったら意見を下さい。
ん〜、正直、私的にはたくさん書き込んでもらえて嬉しいんですよ。
いつも、とても興味深く読ませて戴いてます。ただ、死にかけさんが大変
じゃないかなと思うばかりです。
ですから、死にかけさんが書きたい時に書きたいだけ書いてもらえれば
私としてもうれしいです(^-^)

>興福寺の近くにある頭塔
不思議というか不気味な話ですね・・・
玄ボウという人がどれほどの力を持っていたのか知らないので何とも言
えませんが、妬みから首を取られるとはなんとも怖い話ですね。
やっぱり、藤原広嗣も陰陽師とかを使って玄ボウにこのような無残な仕
打ちをしたんでしょうかねぇ。

49死にかけ:2004/05/13(木) 21:21 ID:EsfALoKY
 カキコの文章の量についての意見ありがとうございました。図書館で借りてきた
本とかを参考に書いている時もあるので、そういうときはどうしても長くなりが
ちです。けど一つびっくりしたのはBlack VelvetさんがGWにライブハウスのトーク
ショウにゲストとして出られていたということですね。僕は目茶目茶凄い人の
ホームページに僕みたいな単なる怪奇、歴史マニヤが勝手なことをカキコしているのは
まずいのではとちょっと思ってしまいました。

 けどBlack Velvetさんのホームページが滅茶苦茶僕にとっては面白かったので、(ここ
はなんか感じるとか書いてあるだけの、何の調査もやっていない、怪奇系ホームページ
ではなく、綿密に調査して書いてある上、そのさまざまな事例に関するコメントがとても
面白くまた本当に怖かったので僕にとってこれは凄い怪奇系ホームページだって
思ってしまったんですよね。それでどうしてもカキコしたくなってしまったんです。
しかもいつも返信をしてくださるし、こういう面でもとてもありがたいと思っています。

 話は変わりますがこの頃びっくりしたことのひとつにやはりイラク人によるアメリカ人
首切り事件があります。しかも鋸引き方式やったとか、2チャンネルのサイトで見れる
と友達から聞きましたがコンピュータウィルスが怖いのと僕自身見る勇気がないので
まだ見てませんBlack Velvetさんはこの映像見ました?

 しかしこれをみた米軍がまた報復攻撃に出るようでは、秀吉の播磨攻略みたいで
米国のイラク支配も失敗だなあと思ってしまいます。

 平忠度の情報ありがとうございました、大きな図書館に行けばあると思いますので
また見てみたいと思います。

50死にかけ:2004/05/15(土) 22:49 ID:pmRNtVPs
今日は夜ごとすすり泣く人魚のミイラという話をしようとおもいます。
琵琶湖の東岸にある願成寺には、いつのころからか古い厨子が安置されている、中に
安置されているのは、人魚のミイラで、体長は小さい子供ほどだが、全身は老婆の
ようにしなびているという。表情は、たえがたい苦痛に襲われでもしているように、
大きく歪んでいる。口は大きく、歯は無く、下半身は魚の鱗のようなもので、一面が
覆われているという。

 しかも、このミイラは今も人の絶えた深夜になると、「ウウ、ウウウ」とわずかな
嗚咽を漏らすのである。そして、消え入るようなその声を聞いたものはやがて不幸が
襲われるとか。

 この人魚には伝説があり聖徳太子の時代、この人魚は願成寺に小姓に化けて出入り
していたという、そのときとても美しい尼僧が願成寺で仏道修行に励んでいた。
その後、この小姓はこの美しい尼僧の身の回りの世話がしたいといったので、願いをかな
えたところ、尼僧に恋心を抱くようになってしまい、尼僧がそれを拒むと、たちまち
恐ろしい形相を浮かべて、寺を出て行ってしまった、そして蒲生川にはいっていき
人魚に変身してしまったという。しかしこの一部始終は寺侍に見られていたので、人魚は
捕らえられてしまい。堂に閉じ込められ、水が干上がってしまって、ミイラになってしまった
という。

 多分この人魚も江戸時代の猿と鯉の複製品だとは思いますが、自分の家の近くにこのような
伝説が有るのは知りませんでした。人魚のミイラといえば僕は高野山の刈萱堂のミイラ
が有名ですね。

51〜大往生〜:〜大往生〜
〜大往生〜

52Black Velvet★:2004/05/17(月) 18:13 ID:sftOe9/U
>>死にかけ様

>僕みたいな単なる怪奇、歴史マニヤが勝手なことをカキコしているのは
>まずいのではとちょっと思ってしまいました。
何を水くさい事を仰ってるんですか(^-^)
いつも死にかけさんの書き込みを楽しく読ませて戴いているんですよ。
次はどんな話を聞かせて戴けるんだろうって楽しみにしているんです
から。これからも、いっぱい不思議な話を教えて下さいね(^-^)

>僕にとってこれは凄い怪奇系ホームページだって思ってしまったんですよね。
>それでどうしてもカキコしたくなってしまったんです。
ありがとうございます。そう仰って戴くと、ますますこれからの励み
になるというものです。死にかけさんのご期待を裏切らないように
頑張りますね(笑)

>Black Velvetさんはこの映像(イラク人によるアメリカ人首切り事件)見ました?
あは(^^;)見るつもりは無かったんですが、結果的に見てしまいました。
友人連中が「あの画像って見れるの?」みたいなメールが来てたんで
調べたんですよ。そしたら幸か不幸かあって、見てしまいました・・・
現実に今何が起こっているかをこの目で見ることは大切かもしれません、
しかし、決してお勧めできません・・・

願成寺の人魚のミイラは何かの折に写真で見たことがあると思います。
あの苦悶の表情が忘れられません・・・
しかし、あのミイラにそんな逸話があったとは知りませんでした。
いくらなんでも堂に閉じ込めてミイラにしてしまうというというのも
ちょっと残酷な気がするのは私だけでしょうか?(^^;)

>多分この人魚も江戸時代の猿と鯉の複製品だとは思いますが
そうですね、一時期盛んにこういった人魚、河童、龍、ろくろ首など
のミイラが作られた時期がありましたからね。
これらは、(死にかけさんなら既にご存知でしょうが)一つには、
仏教の教えを庶民に分かりやすく説くための説明用に作られた物があり
ますよね。そして、もう一つには、長崎などに来た外国人にこれらを
高価な金額で売りつけるために作られたといわれていますよね。
確か、オランダのライデン博物館にこれらの日本人が作った妖怪たちの
ミイラが数体保管されているとTVか何かで見た記憶があります。

>高野山の刈萱堂のミイラが有名ですね
死にかけさんの事ですからご存知かとは思いますが、あれは確か、石童
丸の母が持っていたものを奉納したという伝説がありますよね?

53死にかけ:2004/05/19(水) 23:20 ID:qip/gDxE
 ろくろっ首とかも江戸時代に作っていたというのは、初耳でした、まだ現存してい
る物ってあるんですかね? このてのミイラの類で一番怖いと僕が思ったものは、やはり
九州にある大きな鬼のミイラですね、九州大学の調査によると女の人の死体と、牛か
何かの合体だとの事ってとある怪奇本で読んだことあります。一度見に行きたいですね。
あと人魚のミイラなら静岡県の某宗教団体が所有している、人魚のミイラを最初にテレビ
で見たとき滅茶苦茶怖かったです。いま見直してみるとなんかひょうきんな感じすら
するんですけどね。
 
 あとミイラといえば一度見に行きたいものとして、やはり真言宗最大の秘密の一つ高野山
奥の院にある、空海のミイラ(?)が見てみたいですね。いまだにこのミイラ生きている
なんて言われていて、高野山ではいまだにそのミイラに対して食事を持っていったり
、服を着替えさせたりしている人がいるって言うんですから。しかもその奥の院の
空海の廟は一度足りとも約千年くらいは、中の様子を伝えた書物が無いときている
んですから。(いいかげんなものは結構あるのですが)

 それから僕の方もBlack Velvetさんがいつも色々な事を教えてくださるのを
楽しみにしていますよ、Black Velvetさんがああいったことを書いてくださった
こと僕自身とても嬉しかったです。また返信楽しみにしていますのでよろしくお願い
します。こうやって趣味のことに関して自分より良く知ってはる方と話が出来るのも
僕にとっては贅沢な時間の一つですね。いつもありがとうございます。

54死にかけ:2004/05/21(金) 21:57 ID:b6HVuM4w
今日は神奈川県鎌倉市大船の夜ごとすすり泣きが聞こえる塔について書きたいと
思います。鎌倉市大船の、今はJR東日本大船工場の中の宝キョウ印塔は、怪異
現象が起こるといわれた、石造りの塔である。歴史的な価値が認められて鎌倉市の
指定文化財になっている。ところが旧国鉄時代から怪異現象の噂が絶えないという。
というのも夜ごと男女のすすり泣きが聞こえ、一部では泣き塔と呼ばれていたから
である。

 この付近に工場が建設されることになったのは、第二次世界大戦前である。国の
事業ということもあって、軍隊が従事し工場建設の邪魔になる為に、塔は取り壊さ
れることになった。塔の取り壊しに当たったのは海軍だったが、作業をする度に
事故が起こり、けが人が絶えず、死者が出ることも珍しくない。度々事故が起きる
ので、工事関係者の中にはおびえる人も出てきた。

 さらにはこんな噂も流れるようになった、作業中に地下から変な声が聞こえて来る
というのだ。それは人の泣き声のように聞こえる。しかも一人ではなく複数の男女の
ようであった。このようなことがあるので関係者が調べてみたところ、塔が作られた
理由が判明した。それはこのようなものだった。

 鎌倉時代末期に鎌倉が新田義貞の手によって陥落した時、この場所は洲崎の合戦が
行われたところだったのである。

 鎌倉についてBlack Velvetさんがもし知っておられたら教えてほしいことが
あります。今の鎌倉宮の土牢にて足利の武士によって討ち取られた護良親王の
ことについてです。確か(伝説上ではあるとは思いますが)ミイラ化した首が残っ
ているという本を読んだ記憶があります。もしご存知なら教えてください
お願いします。1998年頃出版された怪奇本に出ていました。

55Black Velvet★:2004/05/26(水) 21:37 ID:zdILOCsQ
>>死にかけ様

>まだ現存している物ってあるんですかね?
前のレスで少し触れましたが、オランダのライデン博物館には
シーボルトたち外国人が日本より持ち帰った贋作の妖怪のミイラ
が数点保管されています。曖昧な記憶ですが、ろくろ首、人魚、
双頭の龍などのミイラが保管されています。

>このてのミイラの類で一番怖いと僕が思ったものは、やはり
>九州にある大きな鬼のミイラですね
鬼のミイラや骸骨と言われるものはいくつか知っていますが、
その話は始めて聞きました。いやぁ、是非見てみたいですね。

空海のミイラの話も寡聞にして初耳でした(驚)
高野山にそんな物(といえば変ですが)があったのですか!?
湯殿三山辺りの即身仏(真如海上人、鉄門海上人など)は
知っていましたが、空海の即身仏まであるんですかぁ。
これも是非拝見したいものですね。

後になりましたが、嬉しいお言葉を有難うございます。
こちらこそ、いつも死にかけさんの不思議なお話を楽しみに
してるんですよ。おまけに、私の方こそ教えられる事ばかり
で、自分の浅学菲才を恥ずかしく思う昨今です(^^;)

56Black Velvet★:2004/05/26(水) 21:53 ID:zdILOCsQ
>>死にかけ様

「鎌倉の泣き塔」は私も知ってましたぁ(^-^)
知ってる話が出るとなんとなくホッとするような、
妙に嬉しいような不思議な感覚ですね(笑)
たしか、以前、歴史の本だったか、怪奇系の本で
読んだ事があります。
中岡俊哉の本だったような気がします(^^;)
でも、死にかけさんが教えて下さったほど詳しく
は書いていませんでした。
いつもながら、勉強になります。

お問い合わせ戴いた“護良親王の首級”なのです
が、確か、神奈川県相模原市淵野辺の雛鶴神社
(ひなづるじんじゃ)に護良親王の首と伝えられ
るミイラ化した首があるはずです。
これは、親王の世話をしていた雛鶴姫という女性
が、親王の首級を抱えて京に戻ろうとしました。
しかし、この時、姫は親王の子を身ごもっていた
のですが、秋山村の辺りに来た時難産と寒さの為、
姫は皇子綴連王を出産し亡くなってしまいました。
その時、姫が持っていた親王の首級が今の雛鶴神
社に祀られているということです。
何かのご参考になれば幸いです。

57死にかけ:2004/05/26(水) 23:17 ID:SkDyGga6
 護良親王のミイラの情報とろくろっ首の情報ありがとうございました。じつ
はこれは6年くらいどういういわれの物なんだろうとずっと考えていたものだ
ったんですよ。やっぱりBlack Velvetさんはすごいですよ。6年間ずっと抱
えていた疑問が一つなくなりましたよ。僕のほうこそBlack Velvetさんの博識
には本当に驚いています。

 空海のミイラに関してですが、司馬遼太郎の小説、空海の風景(下)がこの
ミイラのことを最も詳しく書いている書物だと思います。司馬遼太郎はこの小説
のなかで、このミイラは死んで70年経っているにもかかわらず、髪の毛が伸び
ていたと「今昔物語」に書いていると、述べています。またさらに凄い話があ
ります。大江匡房の「本朝神仙伝」によると、空海は死んだのではなく、金剛定
に入ったとし、人、皆見るに、髭髪常に生じ、形すら変容していなかったとあり
ます。またこのミイラは地下半里も掘り下げたところにある。とも書いています。
大江匡房の方はちょっと大げさとも思えますが、「今昔物語」の方はとてもリアル
でなかなか興味をそそります。僕も高野山奥の院のこのミイラに最も近い場所に行った
とき「この場所にはなんかある」って感じの不気味さがあったのを覚えています。

 中岡俊哉の本僕も結構好きです。一冊持っていて覚えるくらい読んでいたのですが
友達に上げてしまいました。確か万博会場の半分顔のつぶれた幽霊の話とかが怖かった
覚えがあります。

58死にかけ:2004/05/30(日) 23:44 ID:YJyVeWVw
 今日は京都五条の河原院跡について書こうと思います。「源氏物語」夕顔の巻の
中に出てくる、「なにがしかの院」も河原の院のことではないかといわれています。
この河原院とは光源氏のモデルといわれている源融の旧邸宅ともいわれており、
それは東本願寺の渉成園から五条通より少し北あたりにかけてあったらしいです。
邸内に、奥州塩釜の景色を模した庭園を作り、海水を運んで塩焼きの煙をたなび
かせたという。融はこの邸宅を深く愛した、その執着の心がやがて融の魂をさまよわ
せることになった。彼がなくなったあと、宇多上皇がここに住んでいたのだが、

 その時起きた怪奇現象が「今昔物語」のなかにでてきます。ある夜中融の霊が出て
きて「院が移り住まわれたので住みにくくなって困っている」と苦情を述べたので
宇多院が「この邸宅はお前の子孫から譲り受けたもので、それを知らないで文句を
申すな」と叱りつけたらその後幽霊は出なくなったという。別の説話の中では
この話はもっと気色悪くなっていて、融の幽霊は宇多院と同衾する夫人の肉体
を求め、拒絶されると院の腰にうやうやしく抱きついたという。
 
 融の幽霊の出没の噂のせいであろうか、程なくしてこの邸宅は住むものが無
くなったらしい。
「今昔物語」には東国から来た夫婦が、荒れ果てた河原院を借りて宿にした所
その妻が鬼に殺される話が載っている。馬をつなぎに行ったすきに、妻が何者か
に引き込まれたあと、全ての戸が内から固く閉ざされている。必死にあけよう
とするが開かない。やむなく斧で叩き壊して家の中に入ったところ、夫がそこに
見出したものは、血を吸い尽くされて竿に引っ掛けられていた妻の死体であった。

という話です。河原院は謡曲「融」や「夕顔」の中にも出てくる有名な場所
です。但し今は全く何も残っていない上完全に都会化してしまっていて、当時
のイメージも心霊スポットとしても向かないのが残念です。しかし近くには
有名な心霊スポット金輪の井戸があります。ここは都会の真中とはいえ、夜に
行くとかなり怖い場所です。京都四条あたりに行くことがあれば是非行って見る
価値はあります。

59Black Velvet★:2004/06/11(金) 20:05 ID:EYa4pjzc
>>死にかけ様
返事が遅くなってすみません(>_<)
私の拙い記憶でもお役にたてたみたいで嬉しいです。

空海のミイラすごいですね。
>死んだのではなく、金剛定に入った
ですか。空海ともなると魂は天界の正法に入り、尚
且つ肉体も滅びないとは・・・
さすがと言う気持ちとまさかという気持ちが入り混
じって複雑な気持ちです(^-^;)

>中岡俊哉の本僕も結構好きです。
私も中岡俊哉の本が好きで、何冊か「心霊写真シリ
ーズ」みたいなのとか持ってましたよ。
今でも押入れ探したら出てくるんじゃないかな(笑)

河原院跡の話は始めて聞きました。
古の幽霊の成せる業と思い読んでいると、最後には
鬼が人を喰らう話になるとは・・・
>夫がそこに見出したものは、血を吸い尽くされて
>竿に引っ掛けられていた妻の死体であった。
(((( ;゜Д゜)))ガクガクブルブル でした・・・

60死にかけ:2004/06/12(土) 21:21 ID:uU6E3hdI
 この前、滋賀県大津市園城寺町にある三井寺に行ってきました。
その中の円満院門跡というお寺にも行ってきたのですが、その寺に併設されて
いる大津絵美術館という美術館にも行ってきました。
 そこにあった円山応挙の難福図巻という絵画がとてもインパクトがありました。
幸福な世の姿と不幸な世の姿とが絵巻物に書かれているのですが、
不幸な世の姿のほうは、牛裂き、首吊り、火あぶり、磔、泥棒に襲われる、
等の凄まじい迫力の絵が展示してありました、特に牛裂きの絵は凄まじく、
体が裂けて胸の辺りまで体がばらばらになっている絵がかなり怖かったです。
磔の絵も槍を脇腹から刺した役人が眼をそむけながら槍を刺しているところが
なんかすっごくリアルでした。さすがは足の無い幽霊の絵をいち早く書き
有名になった画家だなあと思いなんか圧倒されてしまいました。
 
 三井寺は日本の中でも日本四大寺(東大寺、興福寺、比叡山延暦寺、三井寺)
の一つであり、歴史は白鳳時代にさかのぼるとも言われているだけあって
三井の晩鐘や弁慶の引き摺り鐘等本当に伝説の多いところです。

 そして寺の近くには等正寺という浄土真宗の寺があり、有名な堅田源兵衛
の首伝説で有名です。この寺にはいまだに堅田源兵衛の首といわれる白骨化
した首が残っていて厨子の中に収められており、拝観も出来ます。

 いつでも結構なのでまたBlack velvetさんが忙しくない時にまた返信くださいね
よろしくお願いいたします。

61Black Velvet★:2004/06/18(金) 20:57 ID:..Ciwf9.
>>死にかけ様

応挙の絵に「難福図巻」というのがあるのは寡聞にして初耳でした。
人間世界の幸と不幸ですか・・・
お話を聞いていると、不幸の方は凄まじいみたいですね。
死にかけさんのご説明を聞いているだけでも、イメージが頭の中に
浮かび上がってきてゾッとしております(^^;)
どちらが先かは分かりませんが、死にかけさんが言われるように、
その辺りに幽霊画の起源があるのかも知れませんね。
人間の幸福観から、ひいては生死観といったものへと展開されてい
ったのでしょうか。

>有名な堅田源兵衛の首伝説で有名です。
恥ずかしながら、「堅田源兵衛の首伝説」というものも、また寡聞
にして初耳でした。
どのような伝説なのでしょうか、とても興味があります。
また、お時間のある時にでもお聞かせ戴ければと思っております。

後になりましたが、いつも不思議な話、勉強になる話をありがとう
ございます。
死にかけさんの書き込みいつも楽しみに拝見させて戴いております。

62死にかけ:2004/06/19(土) 17:51 ID:Qh28chJM
等正寺の堅田源兵衛の首についてですが、これはどのような話かといいますと、
浄土真宗中興の祖、蓮如が1465年(寛正6年)に京都大谷の本願寺が
焼き討ちされた時、宗祖親鸞の木像を三井寺に預けて北陸へ逃げたそうです。
蓮如が旅から帰ってこの木像の返却三井寺にを求めると、三井寺の衆徒が
人間の生首と交換しよう、と難題をふっかけてきたので、それを聞いた
大津の堅田に住む漁師の源兵衛がその首を差し出し、木像を取り返した
という殉教物語です。

 僕も10年前くらいにやっていたテレビ東京系列の怪奇クイズ番組を見て
このような寺の宝物があるのをはじめて知りました。ちなみに実は堅田源兵衛
の首といわれているものは等正寺以外の二つのお寺にもあるそうです。源兵衛
の首を切って持っていたのは確か彼の父親だったと思います。
これだけでもかなり怖いですね。
僕の拙い知識がちょっとでもお役に立てたら嬉しいですね。また感想聞かせてく
ださい。楽しみに待っています。
 それからちょっと6月12日にカキコした内容ですが、日本語おかしかった
ですね、有名を二階繰り返していたのを読んでいて、わあ痛い失敗したなあと
思ってしまいました。次から気をつけます。Black Velvetさんはいつも色々調
べて感想をかいてくださるので、それもかなり楽しみにしています。いつもいつも
ありがとうございます。

63Black Velvet★:2004/06/30(水) 17:20 ID:w5ZQLzVU
>>死にかけ様
またしても返事が遅くなってすみません。
「堅田源兵衛の首」興味深く読ませて戴きました。
しかし、預かった木像を返さないだけだけでなく
人間の生首と交換しようとは、三井寺の宗徒も僧侶
にあるまじき行為ですよね・・・
しかし、自らを犠牲にして木像を取り返した源兵衛
という人もすごい人ですよね。

>僕も10年前くらいにやっていたテレビ東京系列の怪奇クイズ番組を見て
>このような寺の宝物があるのをはじめて知りました。
また夏が近づくと怪奇系番組が増えますよね。あまり
TVとか見ない私ですが、そういうのはかかさずチェ
ックしてたりします(^^;)

>ちなみに実は堅田源兵衛の首といわれているものは
>等正寺以外の二つのお寺にもあるそうです。
平忠度の話じゃありませんが、有名人になると、何故
か首塚とかお墓とかが一箇所だけじゃなく数箇所にあ
ったりしますよね。これって英雄譚につきものなんで
しょうね。自分の地元にも有名人の足跡を残したいっ
て後世に作られるんでしょうね。

死にかけさんの書き込みはいつも楽しく拝見させて戴
いてますよ。ちょっとぐらいのミスなんて気にしてま
せんよ。ほんと、死にかけさんの聞かせてくれる不思
議な話は興味がつきません。
これからも色々とご教示下さいね。楽しみにしており
ます(^-^)

64死にかけ:2004/07/01(木) 19:41 ID:yOGbZohs
 三井寺は、昔から比叡山延暦寺等に、焼かれては再建し焼かれては再建
しの繰り返しを重ねてきたお寺ですから、行って見てまず思うのは、石垣の
立派さが半端ではないことですね。それに争い関係の凄まじい話もかなり
あります。だから蓮如の時代は寺というよりも、発展途上国の軍事組織
みたいなものだったかもしれません。織田信長曰く(比叡山のことを)
あれは城であるなんていってますもんね。
 この頃読んだ本の中で、とても以外だったのが東京の平将門の首塚の話です。
関東大震災のあと取り壊してその上に役所を立てると、その役所の人々に
祟ったという話や、終戦の時にブルドーザーで取り壊そうとするとそのブルドー
ザーが横転して死者が出たなどの話が有名ですが、関東大震災の時、首塚の
石室を調べると何も無かったそうです。日本でも有数のミステリースポットなだけに
かなり以外ですね。
 Black Velvetさんは怪寄系のテレビ番組の中で、この番組は怖かったって
いう番組ありますか?僕は朝日放送系列でやっていた2時のワイドショウが
秀逸だった記憶があります。その中で出てきた、青森県の津軽藩の若君の
ミイラというのが本当に怖かったです。保存の為に漆を塗っているので
全身真っ黒になっていて歯だけが変にに白くてとても怖かったです。
 
また返信楽しみにしています。

65死にかけ:2004/07/05(月) 00:39 ID:h4olf5Ac
 >>64で僕がカキコした津軽藩の若君のミイラについてBlack veivetさんがご存知の
ことがあったらなんでも結構ですから、教えていただけたら嬉しく思います。
お手数ですが、またお願いいたします。

 今日は柴田勝家の首なし行列についてカキコしていきたいと思います。
北の庄城が落城しお市の方と、柴田勝家が火薬を胸に抱いて自害したのは1583
年4月24日といわれています。北の庄の城下では、この日を「蜀魂忌」と
呼んでいるそうです。「蜀魂忌」の由来は二人の辞世の一首に、それぞれ
ほとどぎすという言葉が入っているからという説、もうひとつは「泣いて
血を吐くホトトギス」の言葉になぞらえ、この日前後、城下では必ず、
血を吐いて死ぬ物が現れることを示した物、という説の二つがあるそうです。

 後者が理由として挙げられるように、戦乱に明け暮れた時代にようやく終止符
が打たれ、世の中が平和を取り戻した頃から、4月24日の夜には、決まって
城下では何人かの怪死者がでたそうです。
 何の前触れも泣く突然あっけなく死んでしまうのですが、外傷は全く無く
僅かな特徴としては、いずれも口から少量の血を吐いている。これらの死者の
共通点は、24日の夜、外出したということだったそうです。

 その理由がわかったのは、1732年4月、北の庄の城下が謎の大火に包まれる
という事件があった夜のことでした、城下に住む表具師、佐兵衛はその夜、
真っ暗闇の中を九十九橋の辺りまでやってきました、すると、どこからか甲冑が擦れ合う
ようなカシャカシャという音がします。暗闇で目を凝らすとなんと九十九橋を
甲冑姿の武者行列がわたっていくではありませんか。それを見たとき、佐兵衛の
体か凍りついた。武者達にはそろって首が無かったそうです。
 この佐兵衛以後、首なし行列を見た人があとを立たず。しかもそうした人は例外なく
「蜀魂忌」の近くに原因不明の死を遂げてしまうのであったそうです。
 この伝説の凄いところは、ちゃんと記録にもこのことが残っているところです。
16代福井藩主の残した随筆集「真雪草紙」には、「毎年、勝家の戦没の日には
大橋(九十九橋)の辺、立矢辺を勝家が馬に乗って馳駆するよし。よって、
祥月日にはだれも恐れはばかりて、六時ごろより戸を閉めて夜行をなさずという」
と書き残されているところです。
 
 これと少し似た話が三重県の桑名市から出ている近鉄養老線の辺りで伝わって
います。明治時代ある電車の運転手が養老線の長島一向一揆の古戦場辺りを
電車にて走っていると、千を越える首なしの亡霊にであったとか
という話を読んだことがあります。また感想聞かせてくださいね。

66Black Velvet★:2004/07/05(月) 00:43 ID:Ihb2817A
>>死にかけ様

そうですね、当時の寺院は多くの僧兵を抱え、一朝有事の時には
城塞としての機能もはたしていたものが数多くあったので、三井
寺もあるいはそういった機能を兼ね備えていたのかも知れません
ね。何せ、石山本願寺の蓮如の事ですから、城塞の構えをしてい
ても不思議ではなかったのではないでしょうか。
事実、石山本願寺なんて、お寺でありながら立派な城塞でしたも
んね(笑)

平将門の首塚のタタリはよく耳にしますが、その石室が空だった
とは驚きです。初めて知りました(@_@)
じゃぁ、将門のタタリって何なんでしょうね・・・不思議ですね。

>Black Velvetさんは怪寄系のテレビ番組の中で、この番組は怖
>かったっていう番組ありますか?
ありますよ〜(>_<)未だにトラウマになってる番組が・・・
あれは忘れもしない、夏場になるとやっていた『あなたの知らな
い世界』という番組です。確か新倉イワオが出てたと記憶してい
ます。その番組は、視聴者から寄せられた投稿(怪奇現象)を再
現フィルムでやるんですが、ある女性が夜道を歩いて帰宅してい
ると誰かにつけられているような気配がするんです。で、その女
の人が帰って、トイレに入り、水を流すと、水洗トイレにもかか
わらず女の人の手首が流れてくるんです・・・
もうその怖かったこと(((( ;゜Д゜)))ガクガクブルブル
小学生だった私は、それからしばらく一人でトイレに行けなくな
ってしましました(苦笑)
今思い出してもあまり良い気はしないそんな思い出です(-_-;)

67Black Velvet★:2004/07/05(月) 19:00 ID:Ihb2817A
津軽藩主のミイラの話初耳でした。
そこで私なりに少し調べたのですが、このミイラは津軽
藩の菩提寺である長勝寺という寺院にあったそうです。
なんでも、昭和29年墓地移転の折発見されたそうで、
竹炭の沢山入った棺で保管されていたため遺体のまま発
掘され、まだ肌色が残っていたといいます。
当時の説明では遺体が汗をかくので腐敗を防ぐため弘前
病院へ入院したと話題になったそうです。
その後、防腐処理をしてミイラとして50年間ほど安置
(展示)されていましたが、阪神大震災をきっかけとし
て、今後何が起こるか分からないためきちんと供養した
いという願いから火葬にされたそうです。
尚、このミイラは、十二代藩主になる予定であったが、
病気で急逝された承祐(承祜とも、つぐとみ)公で、
藩主とは別の場所に丁寧に埋葬されていたそうです。

北の庄城下の怪談として伝わる首なし武者の行列の話は
『歴史読本』の別冊か何かで少しだけ読んだ事がありま
したが、そんなに詳しくは知りませんでした・・・
また、勝家の命日に城下で怪死者が出るという話も知り
ませんでした。
とても興味深く読ませて戴きました。

68死にかけ:2004/07/05(月) 21:48 ID:zvLEEZtE
津軽藩の若君のミイラの件、早めに調べていただきありがとうございました。
阪神大震災の時、火葬にしてしまったというのが、かなり惜しいですね。
一度は見に行きたかったですね。京都からはちょっと遠いけど。 
 
 平将門の首塚の話ですが、ひょっとして首塚が立った当時は
平将門の乱のモニュメントみたいな物として立てたのに
噂好きな江戸っ子がユネスコ会館みたいに、いろいろな噂を
立てたり考え出した結果、あのような帝都物語の映画に出てくるような
日本有数の怪奇スポットに、なってしまったのかもしれませんね。
(Biack veivetさんのユネスコ会館の記事、本当に丁寧によく調べてあって
面白かったです。)
 
 「あなたの知らない世界」は僕も見ましたね、Black Velvetさんが返信して
下さった話も怖かったです。トイレ関係の怪奇話は子供の時見るとかなり
トラウマになりますよね。僕が子供の頃は家のトイレは汲み取り式だったので
なんかその手の話が怖かった思い出があります。汲み取り式のトイレから、
手が出てくるなんて古典的かつ単純な怪奇話でも本当に怖かったです。
 
 僕が見た「あなたの知らない世界」の中で一番怖かった話は、太平洋戦争中
の防空壕の中の怪奇話が怖かったですね。ある若者が防空壕の中で綺麗な女性に
出会うが、その正体は、防空壕の中で白骨化した死体だったって話がかなり
怖かったです。それから今になったら笑い話なんですが、小学三年生のとき
「あなたの知らない世界」の中でこっくりさんの話があって、(女の子の
亡霊の目が光るのがかなりこわかったです)これをみたあと僕の従兄弟が、
「こっくりさんやろう」と言い出したんですよ。大反対して逃げ出した思
い出があります。あの頃はこっくりさんとか本当に怖かった思い出がありますね
。実はかなり怖がりです。
  
 Black veivetさんもお忙しい中、僕のわがままを聞いていただき本当に
ありがとうございました。

69Black Velvet★:2004/07/14(水) 21:13 ID:r9QW8OsY
>>死にかけ様
そうですね、津軽藩の若君のミイラ、私も一度は見てみたかった
ですね。でも、50年近くもミイラの状態で保管されていたのだっ
たら、写真ぐらいは探せばあるとおもうんですけどねぇ。生憎、
私の知る範囲では見つけ出せませんでした(^^;)

平将門の首塚の話、面白い推理ですね。でも、意外と的を得てる
ような気がします。将門を記念するモニュメントに、当時の講談
師とかが怖い祟りの話を結びつけたのが始まりだったりして・・

小さい頃ってトイレが怖いのは全国共通なんですかねぇ(笑)
私の家も、私の小さい頃は汲み取り式でしたから、それはそれは
怖かったですよ。下から何か(手でも)出てくるんじゃないかと
か思うともう怖くて怖くて(^^;)

「あなたの知らない世界」の防空壕の話も怖そうですね。
でも、出会った綺麗な女性が実は白骨だったっていうパターンは、
具体的には思い出せないんですけど、古典的な怪談にもあったよ
うな気がします。
死にかけさんならご存知なんじゃないでしょうか(^^;)

“こっくりさん”、私が小学生の頃に爆発的に流行りましたよ。
それで、全国の小中学校で禁止令が出たのを今でも覚えてます。
それでも、“キューピットさん”とか様々に名前を変えてみんな
やってましたねぇ。
私が小学生の頃、同じ学校の生徒で“こっくりさん”をやって、
おかしくなってしまった子がいて、今でいう心理療法士みたいな
人にかかったという事があって、私の通ってる学校では特に
“こっくりさん”には厳しかったし、みんな怖がってましたね…
まぁ、今になって思えば自己催眠かなんかになっちゃったんだと
思うんですけど、当時としては学校中その子の話題でもちきりで
した。

最後になりましたが、私の拙い知識や、私で調べれる事でお役に
立てれば幸いです(^-^)

70死にかけ:2004/07/15(木) 02:36 ID:UvJ6Ke/M
 Biack Velvetさんも本当に詳しいと思いますよ。いつも僕のわがままを聞いて
下さることに対して本当に感謝しています。いつもいつもありがとうございます。

 、こっくりさんをやっていておかしくなってしまった子がいたという話が
ありましたが、うーん、やっぱり統合失調症等の研究で有名なユングが
心霊関係(超心理学)と心理学は関係があると言い張って、フロイトと喧嘩
をしていましたが、何らかの形でこの二つ(心理学と超心理学)は、やはり関係
があるんですかね?ふとこんなことを思い出してしまいました。僕が子供の頃
こっくりさんとかから逃げていたのも実は臆病とかからではなく、結構いろんな
ことに対して敏感だったからかもって勝手に考えてしまいました。
まあその子はBlack Velvetさんがいうように自己催眠にかかっていただけだとは
思いますが、うーん確かに色々と考えてしまいますね。

それからうちの小学校ではこっくりさんのことを「ラブ様」とか言う名前で呼んでやって
いる連中がいましたね。

白骨の亡霊の話ですが、その話というのは牡丹灯篭ですかね?確かある侍が
いつも夜な夜な美人の娘とお堂のような所で酒を飲みに行くが、そのお堂を
覗き見た人物には、その侍が骸骨と酒を飲んでるように見えるという話だった
と思います。調べてみたらその他にも鎌倉時代末期に作られた絵巻「長谷雄草紙」
に出ていた話にも、ちょっと似たような話がありましたね。
文章博士で中納言である紀長谷雄のもとに異形の男(朱雀門の鬼)がやってきて、双六
の相手を所望し、朱雀門の楼上で勝負する。勝った長谷雄は約束によって絶世の
美女を得た、実はこの美女は鬼が死んだ女の骨をつまり沢山の女の骨の美しい
部分を寄せ集めて作ったもので、100日たつと霊が定まって完全な人間に
なるはずであったが、長谷雄が乱暴な扱いをしたので、美女は水となって
流れ去ってしまったという話です。

 トイレの話ですが、それについて子供の頃最高に怖かった話がありましたね。
ある家にトイレがあったのですが、そのトイレにその家の家族が行くと一人づつ
トイレにて消えていってしまう、しまいにはその家はだれもいなくなってしまい、
空家となったので、その家を壊すことにした。そうすると壊した家の便器が人間の髑髏
の形になっていたのであるってはなしですが当時はかなり怖かったです。

津軽藩のミイラを最後に見たのは確か十五年前くらいだったと思います。
テレビ東京系のいい旅、夢気分という番組を、そのときなぜか明かりを真っ暗
にしてみていたのですが、突然そのミイラが怪奇番組でもないのに画面に
そのミイラが突然現れて、かなりガクガクブルブルでした。

71Black Velvet★:2004/07/18(日) 23:50 ID:U5nWKPMM
>>死にかけ様

私の拙い知識や書き込みでも何かのお役に立てれば幸いです。

そうですねぇ・・・私も少しかじった程度なのであまり言及
出来ませんが、やっぱり死にかけさんが仰るように、心理学
と超心理学は何らかの形で時に絡み合い、時に乖離している
んでしょうかねぇ。難しいテーマですね。

あぁ、そうですそうです(>_<) 「牡丹灯篭」です。
夜な夜な逢瀬を重ねていた相手が実は骸骨だったという話。
それですそれです。あぁ、何か溜飲の下がる思いです(笑)
紀長谷雄の話をご存知とは、さすが死にかけさんですね。
無類の女好きの長谷雄は、百日はこの女性に触れてはならな
いと言われていたのに、我慢できずに手を出して彼女は水に
なってしまうんですよね。
ん〜、悲しい男の性(さが)なんでしょうかね(^^;)
でも、この当時から、言うなればフランケンシュタインの様
な死体(の優れた部分を)をつなぎ合わせて一人の人間を創
るという発想があったという事には驚かされますね。

トイレに一人ずつ家族が食べられて(?)居なくなり、最後
には便器が髑髏になっていた・・・
何か外国の恐怖映画にでもありそうな感じの話ですね。でも
子供の時にそんな話を見聞きしたら、それこそトラウマにな
ってしまいそうですね・・・
今だからこそそうなんだぁ、って感じですが、これが子供の
頃に聞いていたなら、私なら確実に一人でトイレに行けなく
なっていたことでしょう(^^;)

>そのときなぜか明かりを真っ暗にしてみていたのですが、
>突然そのミイラが怪奇番組でもないのに画面にそのミイラが
>突然現れて、かなりガクガクブルブルでした。
あ゙〜なんでよりによってそんな時にって感じですよね(^^;)
タイミング悪すぎ(^^;)
その状況が私だったら、確実に泣き入ってと思います(苦笑)

72死にかけ:2004/07/19(月) 22:53 ID:JALn2NvU
牡丹灯篭で合ってました?良かったです。本当にたまたま知っていただけで、
僕も実は、怪奇系の話はそれほど詳しくありませんよ。多分Black Velvetさん
の方が100%僕より詳しいと思います。けど怪奇系の話を本当によく知っている人
と文章のやり取りができるだけでも、僕にとってはうれしいことです。

 >でも、この当時から、言うなればフランケンシュタインの様
>な死体(の優れた部分を)をつなぎ合わせて一人の人間を創
>るという発想があったという事には驚かされますね。
確かにそうですよね、さすが世界最古の小説(源氏物語)を作った日本の貴族
文化というものは本当に凄いと思います。けど長谷雄はかなり間抜けな感じ
がして確かに笑えます。この手の話は、今昔物語に良く出てきますね。
水木しげるが漫画にしていた今昔物語がかなりすさまじかったです。
 
 その他にも良く考えたら、西行法師が修行の時の寂しさを紛らわす為に使った
とされる反魂の術も、人骨を集めて人造人間を作る話でしたね。西行は恐ろしい声を
発するこの人造人間の存在が怖くなって、どこかに隠してしまったって言う話
だったと思いますが。
 西行の話はいろいろな漫画や、小説等になっていますが、僕が一番好きな
西行を扱った漫画は、孔雀王退魔聖伝の中の話にあった西行が作った人造人間は
実は、武蔵坊弁慶だったという話が、出来が良くてよかったですね。

73Black Velvet★:2004/07/24(土) 18:39 ID:i7ElR/Cc
>>死にかけ様

いやいやご謙遜を。さすがは死にかけさん、よくご存知でいらっしゃる。
牡丹灯篭です牡丹灯篭(^-^)
私のほうこそ、毎回死にかけさんのお話して下さる話を興味深く聞かせて
戴いているんですよ。いつも楽しみにしているんですよ。

>けど長谷雄はかなり間抜けな感じがして確かに笑えます。
確かに鬼との約束を守れなかった長谷雄は間抜けな感じがしますが、それ
も男の悲しい性(さが)でしょう(笑)
私が長谷雄だったら、絶世の美女を目の前にしては、やっぱり百日間も
我慢できなかったと思います(^^;)
水木しげるが漫画化していたんですか?それは知りませんでした・・・
水木しげるファンの私とした事が、不覚(-_-;)

>その他にも良く考えたら、西行法師が修行の時の寂しさを紛らわす為に
>使ったとされる反魂の術も、人骨を集めて人造人間を作る話でしたね。
そう言われれば(人造人間の伝承は)他にもあったんですねぇ。
しかし、死にかけさんの仰られるように、これは失敗作で、声を発するけ
れど、心の無い人形のような物だったとか・・・
確か、『撰集抄』では

「人の姿には似侍りしかども、色も悪く、すべて心もなく無く侍りき。声は
有れど絃管声のごとし。げにも人は心がありてこそは、声はとにもかくにも
つかはるれ。ただ声の出るべき計ごとばかりをしたれば、吹き損じたる笛の
ごとし。」

とありますよね(^^;)コワイ・・・
で、西行はこの人造人間を捨てちゃうんですよね(^^;)

「さても是をば何とかすべき。破らんとすれば、殺業にやならん。心の無け
れば、ただ草木と同じかるべし。思へば人の姿なり。しかし破れざらんには
と思ひて、高野の奥に、人も通はぬ所に置きぬ。」

ひどいですよねぇ(笑)
でも、この話には面白いオチが付いているのを死にかけさんはご存知でした
か?
後日、西行がこの事を伏見前中納言師仲卿に話すと、

「我は思はざるに、四條大納言の流を受て、人を作り侍りき。今、卿相にて
侍りと。其れとあかしぬれば、作りたる者も作られたる者も、とけ失せにけ
れば、口より外には出さぬなり。」

つまり、伏見前中納言師仲卿の言うには、「実は私が作った人造人間も公卿
として宮中に居るんだよ。だけど、その秘密を言ってしまうと、造られた人
造人間も私も溶けて無くなってしまうから言えないけどね(^^;)」
と言ってるんですね。何とも意味深なオチだと思いませんか?(笑)

74死にかけ:2004/07/24(土) 23:42 ID:D.kcHVSo
いつも 本当にありがとうございます。

>つまり、伏見前中納言師仲卿の言うには、「実は私が作った人造人間も公卿
>として宮中に居るんだよ。だけど、その秘密を言ってしまうと、造られた人
>造人間も私も溶けて無くなってしまうから言えないけどね(^^;)」
このオチは本当に知りませんでした。やっぱりBlack Velvetさんの方が
僕よりも怪奇系の色々な事について詳しいと思いますよ。本当に
また一つ勉強になりました。 
 
 うーん、この意味に関しては、伏見前中納言師仲卿の方が西行法師より反魂
の術がうまかったと単純にとるべきか、そのほかにも、何か政略がらみの
色々な意味が混じってそうな感じもしますね。なにしろ源平合戦の頃の
京都の話ですからね。そのような要素が絡んでもなんか不思議じゃないような
感じがかなりします。 

 今日はちょっと本当に良く知られている妖怪の話をしたいと思います。
比叡山には知恩院や本願寺のように七不思議伝説があります。それを一つ一つ
言って行くと、一つめ茄子婆(茄子のような紫の顔色をした妖怪で、大事件があ
ると必ず鐘を鳴らして知らせた。織田信長の焼きうちの際にも鐘を鳴らしたという)
 2つめ、玉泉坊の妖怪(無動寺谷の玉泉坊の僧が化けた妖怪)
 3つめ、横川の大蛇(横川を荒らしまわった大蛇に良源は「神通力で小さくなって
私の手のひらに入ってみよ」と挑発して小さくなったところを龍が池に封じ込めたと
いう)
 4つめ、一文字狸(西塔のある彫刻の巧みな僧が作った狸像が化けた物。化け狸
は「一体だけでは意味が無いから千体作ったら」と僧に告げ、僧はその忠告にし
たがって修行として一日一体の狸像を彫ることを発願した。僧は無事に修行を
終えて後に立派な高僧となったが、その作られた狸像は眉は皆一文字であったという)
 5つめ、靄舟(お盆になると比叡山の東坂本から登る表坂を、ぞろぞろと
亡者が上ってくるという。比叡山に特有の靄が立ち込める中を、琵琶湖方面の坂本
から船に乗って坂を登るとも言う。)
 6つめ、六道踊り(淀君が建立し横川にあったという観音堂では、盛大な法要
を行うと、六道を迷って成仏できない亡者達が浮かれて出て踊り始め、あたりは
亡者で大賑わいになったという。)
 7つめ、幽霊の鉦(一眼一足法師の伝説)この僧の名前は慈忍といい天台第16
代の座主になった僧である、とても厳しい人物でその死後も一眼一足法師という
魔怪に化身して、怠けている修行僧をたちどころに見つけ出して、鉦をならして
戒めたという。ある修行僧が山を下って居酒屋で酒を飲んでいたところ、いつのまにか
隣に一眼一足法師が座っていたこともあったそうだ。                    

 東塔の総司坊玄関の真上には一眼一足法師の絵が今も掲げられています。もうお分
かりだとは思いますがこの法師こそあの有名な、一つめ小僧のモデルだそうです。
僕も一度見に行ったこともありました。東塔の根本中堂から少し下がったところ
にあります。

 けど滋賀県で一番怖いのはやはり琵琶湖の中で立ったまま浮かんでいるといわれる
何体もの死ロウ化した遺体でしょうね。琵琶湖で亡くなった人は浮かんでくること無く
このような状態でいるのをダイバーに発見されることがあると聞いたことがあります。                 
けどそんなものは琵琶湖のブラックバスに食べられそうな気もするんですけどね。
いや食べられるからとても怖い姿になっているのかな
考えていたら目茶目茶怖いですね。

75Black Velvet★:2004/08/06(金) 21:26 ID:2fj3ANo2
>>死にかけ様

例によって例のごとく返信が遅くなり本当にすみません(>_<)
死にかけさんの書き込みにお返事差し上げるには、それなりの
知識と意気込みをもって挑まないと、死にかけさんのカキコに
気合負けしちゃいますからね(笑

反魂の術のオチ、ご興味を持って戴けたようで幸いです(^-^)
偉そうに言ってる私も、このオチは最近まで知りませんでした。
確かに伏見前中納言師仲卿の言葉は意味深ですよね・・・
そのまま、西行より術が長けていたのか、それとも何か政略的
な何かがあったのか。時代が時代だけに色んな想像が浮かんで
きますよね。
それとも、西行がまんまとからかわれたのか(^^;)

比叡山の七不思議、興味深く拝見しました。
一通り七不思議の名前だけは聞いた事があったのですが、詳し
い内容までは知りませんでした。とても勉強になりました。
しかし、場所が場所だけにか、靄舟や六道踊りなどというおど
ろおどろしいものもあれば、一眼一足法師のような、少しユー
モラスなものまで、様々な伝説があるものだなぁと感じ入って
おりました。

>東塔の総司坊玄関の真上には一眼一足法師の絵が今も掲げられています。
>もうお分かりだとは思いますがこの法師こそあの有名な、一つめ小僧の
>モデルだそうです。
そうだったんですか(@_@) いやぁ、寡聞にして初耳でした。
一つ目小僧のモデルは、実在の僧侶に由来していたとは、驚き
です。

>けど滋賀県で一番怖いのはやはり琵琶湖の中で立ったまま浮かんでいる
>といわれる何体もの死ロウ化した遺体でしょうね。
聞きますよねぇ・・・琵琶湖の中には、未だに浮かんでこない
(発見されない)遺体がいっぱいあって、水温などの加減で
死蝋化してると言いますよねぇ・・・
私の親戚が滋賀の琵琶湖畔にいるので、琵琶湖は何度か行きま
したが、そう考えると、何だかいきなり死蝋化した遺体が、
“ザバッ”とかいって水音たてて浮かび上がってきそうで、怖
くて近寄れないですよねぇ(^^;)
そう考えると、よくあんな所で泳いだり潜ったりしてるよ(-_-;)
と思うのは私だけでしょうか?(^^;)

76蝋人形さん:2004/08/07(土) 00:57 ID:JRsGfeG.
 いやいや僕などは本当に大した事はないです。100%Black Velvetさんの
方がホームページを拝見させて頂いても、やっぱり凄いなあと思います。
Black Velvetさんのメリーさんの館のホームページ本当に面白かったです。
あの二楽荘跡説とかヘルマンハイツ説とか本当にこれは高い教養と文章を
まとめる力が無いとここまでのホームページは作れないだろうなと思いました。
ヘルマンハイツというシーメンス事件で有名なビクトルヘルマンの屋敷が
昭和44年まで廃墟のような姿で残っていたということは本当に知らなかったです。

 竣工した当初があれだけ立派だっただけに、昭和43年頃の荒れ方というのは本当に
不気味な物だっただろうなと思うと同時に、一度はそのころの荒れた姿をみてみたい
という気になるから不思議ですね。
 
 それから報告書の投降情報の中にあった、壁の母子という話はひょっとして
和歌山大空襲の時に出た、死体を埋めたところに後々になって、駐車場を作ったところ、
壁に母親と子供の姿と思しき影が移りだしたという話ですか?
 間違っていたらすいません
けどあの話しかなり怖かったですね。壁に何かが浮き出る系の話は僕は
すっごく怖いです。
 
 今から4、5年前におもいっきりテレビの中のニュース番組でやっていた
ニュースの中であった話なのですが、ある家を取り壊すと、取り壊された家の
向かいの文化住宅のような二階建ての家の壁にロングスカートをはいて靴を履き
手を広げた姿の女性の姿が浮かびあがっているのが放送されていましたが
その建物、古い木像モルタル二階建てなだけに、今までテレビとか本とかで
色々な、壁等に浮かんでくる怪奇な物を見て来ましたが、あれか一番怖かった
です。普通のニュース番組とかでやるとホントガクブルですね。
 
 あと本当の大昔3時に会いましょうという番組の中でやっていた、家の中に
手でひざを突いたような眼の鋭い感じの、女の顔が浮かび上がっているという
話もかなり怖かったです。ホントに漫画かなんかに出てきそうな顔で、
それだけに怖かったですね。

 加古川の七人殺傷事件怖かったですね、あれは都市伝説でもなんでもなく
本物の皆殺しの館ですもんね。西日本はあんな事件多すぎと2チャンネルの
掲示板にもありましたが、確かに多いような気はしますね。

今回はなんかだらだらと感想ばかり書いてしまってすいません。

77Black Velvet★:2004/08/15(日) 00:52 ID:8pvs2PmU
>>死にかけさん
いつも変わらぬご訪問ならびに、貴重な情報提供やご感想を
ありがとうございます。
メリーさんの館の真相を私なりに考えてみたのですが、気に
入って戴けたようで、私としても創った甲斐がありあました。
勿体無いお褒めの言葉まで戴き、ただただ恐縮しております。

>ヘルマンハイツというシーメンス事件で有名なビクトルヘルマンの屋敷が
>昭和44年まで廃墟のような姿で残っていたということは本当に知らなかったです。
実を言いますと、ビクトルヘルマンの屋敷が比較的近年まで
残っていたことは私もここ3年ほど前に知ったような有様で
した。
確かに、解体直前はさぞや不気味な洋館(お化け屋敷)の様
相を呈していたものと思われます。出来る事なら一度実際に
この目で見てみたかったですね。

>それから報告書の投降情報の中にあった、壁の母子という話はひょっとして
>和歌山大空襲の時に出た、死体を埋めたところに後々になって、駐車場を作ったところ、
>壁に母親と子供の姿と思しき影が移りだしたという話ですか?
そうです、ずばりそれです(^^;)
今現在はどうなっているのか定かではありませんが、ご投稿
情報として戴きました。これもいずれ近々UPを予定してい
ますので、楽しみにしておいて下さい。

>今から4、5年前におもいっきりテレビの中のニュース番組でやっていた
>ニュースの中であった話なのですが、ある家を取り壊すと、取り壊された家の
>向かいの文化住宅のような二階建ての家の壁にロングスカートをはいて靴を履き
>手を広げた姿の女性の姿が浮かびあがっているのが放送されていました
そんな話があったんですか(@_@)
いやぁ、死にかけさんの仰られるように、夏場の定番、心霊
関係の番組でやるのだったら、「何かウソ臭ぇ(-_-;)」とか
思ってしまいますが、普通のニュースで何気でそういうのや
るのって何か真実味があって余計に怖いですよね(-_-;)

>加古川の七人殺傷事件怖かったですね、あれは都市伝説でもなんでもなく
>本物の皆殺しの館ですもんね。
あれはショッキングな事件でしたね・・・しかも2家族が被
害に遭われてるんですよね。一家惨殺どころじゃないじゃな
いですか(((( ;゜Д゜)))ガクガクブルブル
現場はそんなに近いというわけじゃないんですが、車で小一
時間ほどの所なので比較的身近な所で起こった惨劇にとても
驚いています。

78死にかけ:2004/08/20(金) 20:58 ID:KHwTiR.w
 返信遅れてしまってすいません、実は歴史好きの連中と集まって、山陰地方を
旅していました。

 それから但馬竹田城に行ってきました、昼間行ったこともあり、景色の綺麗さ、石垣の
立派さどれを取ってもとても良かったですね。しかし山の麓から夏の暑いときに
上がったので、暑くて暑くて最後の方は上半身裸で歩いていました。
ここも怪奇スポットと聞いたことがあるのですが?城の怪奇スポットなら近畿なら
大阪城、関東なら八王子城とかが有名ですね。
 壁の母子のホームページ拝見させていただきました。時代が新しい話であることと
実際に眼で見れる怪奇現象なだけに、やはり怖さが違いますね。
 和歌山の怪奇なところや伝説といえば、この壁の母子と徐福伝説が本当に
有名ですよね。あと和歌山といえば確か死の国に坊主が船に乗って旅立つ
(死は覚悟の上で)という伝説もあったと思うのですが、正式な名前は
忘れてしまいました。
前にカキコした鎌倉の人骨についてですが、この文章のソースは東大理学部
人類学教室の鈴木尚教授の「骨」という本だそうです。鎌倉が新田義貞によって
陥落したとき北条高時に従って切腹した物は門葉だけで283人、あわせて
870ほどだったといわれています。この死者たちの骨が、今日でも、細片
のように細かくなって、鎌倉市街に眠っているそうです。
 この本を読んでいて思ったのですが、ひょっとしたら、京都なども化野や鳥辺野
の辺りは道路などを舗装する前は同じような状況だったのかもしれませんね。
なにしろ鳥辺野の下の六波羅のあたりは、髑髏町という地名があったところすら
あるのですから。

79Black Velvet★:2004/08/23(月) 18:20 ID:/FhcqHME
>>死にかけ様

但馬竹田城に行かれていたんですかぁ。
私も以前に行ったことがありますが、建物こそ無いですが
あの壮大な石垣だけを見ていても、竹田城がいかにすごい
城塞であったかを推し量るに余りありますよね(^-^)
竹田城が心霊スポットだという話は私も聞いたことがりま
すが、具体的な話は私も知らないんです・・・
そうですねぇ、城の怪奇スポットといえば、大阪城、八王
子城なんかはかなり有名ですよねぇ。

徐福伝説は有名ですよねぇ。真偽のほどは別にして、実際
に和歌山の新宮市には徐福の墓までありますよね。
>あと和歌山といえば確か死の国に坊主が船に乗って旅立つ
>(死は覚悟の上で)という伝説もあったと思うのですが、
>正式な名前は忘れてしまいました。
その話は初耳でした。またご存知の事がありましたら教え
て下さいね。

>ひょっとしたら、京都なども化野や鳥辺野の辺りは道路
>などを舗装する前は同じような状況だったのかもしれま
>せんね。
>なにしろ鳥辺野の下の六波羅のあたりは、髑髏町という
>地名があったところすらあるのですから。
そうですねぇ、考えてみると化野や鳥辺野は、その名の示
すように死体置き場というか風葬の地でしたから、今なお
地中には人知れず埋もれた亡骸が有っても不思議ではない
ですよね・・・
髑髏町話は確か以前に書いて戴いた気がするんですが、確
か髑髏町が後に轆轤町になったとか言うんですよね?
それにしても、髑髏町というネーミングもちょっとストレ
ートすぎる気がするんですが(^^;)

80〜大往生〜:〜大往生〜
〜大往生〜


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