したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |
レス数が1スレッドの最大レス数(1000件)を超えています。残念ながら投稿することができません。

研究  原典に示された「甘露」について

1基本。:2017/05/21(日) 06:39:13
山名系教理の発祥は、静岡県袋井、「行った処が袋井や」の逸話があります。
ここに、きちんとした教理研究スレを立てます。

テーマは、神の本質です。それは、ある意味「甘露」の問題です。

その為に、スレを立てる。

教理研究の為の、議論のスレです。よろしくお願いします。

400WebMaster:2019/04/11(木) 22:09:54
教会とかに?がる信仰生活が、今のライフスタイルでは厳しくなってきたから。
経済状況の余裕の無さとか、それによる仕事の忙しさとか。

信仰そのものは一度神様の御守護を体験すれば心に残り続けるからね。
あとは生活形態の問題が大きいと思う。

401オレンジの親子線:2019/04/11(木) 22:11:05
うちの元所属教会の会長、医療機関で付き添いで行って、身内でも無いのに診察室に入れろと言ってごねてつまみ出されたらしい。
貰って来た薬は薬学部出身でも無いのに、取り上げて制限する始末。
医者薬は必要性が無いとか、飲み過ぎだとか
ムチャクチャです。ただの熱心なだけの迷惑行為です。引き取ると言うと脚下だと。
政治家の偉い先生掲載するなら、窃盗だとか、迷惑行為だとか因縁詐欺だとか指導して下さい。
明治大学付属中野高校名誉校長先生。
最近もお墓に名前を彫るのにお礼として
20万円

402雪ん子:2019/04/13(土) 20:42:19
お布施返せ

返してもらえますか
収支明細見せてもらえますか

403いたずら同好会:2019/04/26(金) 06:33:21

天理教社会学研究所 ‏@tenrisyakaigaku

天理教教会の貧困

労働が奨励されず可処分所得がほぼない
    ↓
子供の高校大学の学費がない
    ↓
天理教奨学金かりる
    ↓
奨学金は卒後月2万で教団奉仕をする縛りが数年
    ↓
新卒採用無理→年だけとり就職できず教団奉仕
    ↓
    貧乏

教団幹部の家には複数の若者が掃除や調理、運転を担当。
天理教は日本社会の闇

404陰性フェチ:2019/04/26(金) 06:34:35
>奨学金は卒後月2万で教団奉仕をする縛りが数年
ブラック過ぎる
労働基準法違反ですぞ

405第1のコース!名無しくん:2019/04/26(金) 06:36:14
幹部のための教団になってるからな

406潜水艦モーグル号:2019/04/26(金) 06:37:33
情報があるレル社会で天理教がおかしいと気づけるようになったのが良いね

407匿名希望さん:2019/04/26(金) 06:40:18
いやいや。宮崎神宮という馬鹿神宮に行けば分かりますが
神武天皇からして朝鮮人だったのですし、皇太子殿下や紀宮の顔を見ても朝鮮人であることが明らかなぐらいですから
朝鮮人が全部死ぬということは天皇家をはじめとする多くの日本人も死ななければならないことになってしまいますので
自己矛盾もいいところとなってしまいます。


     ((⌒⌒))
 ファビョ━ l|l l|l ━ン!
      ∧,,_∧  
  ((  <`田´#∩
    ⊂    ノ     
     (,,フ .ノ  ←宮崎神宮宮司
      .レ

408匿名希望さん:2019/04/26(金) 06:41:06
神を引き合いに出して教祖が災害の予言はしない
世の中や世界を動かす特別な使命を持った信者の祈りと献金次第でその未曾有の大災害は回避されるのだ
という口実で毎月多額のカネ集めもしない

信者が何十時間も何日も何日も必死に祈ってなおかつ多額の献金をしないと
日本に原爆が投下されるだの
北朝鮮が攻めてくるだの
未曾有の地震や災害が日本が襲うだの
洗脳された信者を脅して献金させるような事はしない
だから、反社会性を帯びたインチキ力儿卜宗教と言われて司法のご厄介になったり世間に断罪されるような事はない
裁判沙汰も分派騒動も教祖や幹部職員の性的スキャンダルも設立当初から現在に至るまで皆無

災害が起きなければ教祖と信者の祈りのおかげ
災害が起きても
「必死の祈りと神(教団や教祖)に捧げられた献金で本来起きるはずの災害よりはだいぶ縮小された」
などと言ってやっぱり教祖と信者のおかげ
あるいは
「信者の祈り(と献金額)が全く足りていないせい」
と教祖が信者を叱りつけ次のイベントで更にカネを吐き出させる口実にすることは一切やっていない

そんな模範的で清々しい宗教団体があるならば是非紹介してください!

409匿名希望さん:2019/04/26(金) 06:41:50
誰か松緑神道大和山について知っている人いる?

410神も仏も名無しさん:2019/04/26(金) 06:42:47
「いかに我々は中途半端な抹香臭い宗教観念と、女々しい宗教感に毒されておったかということですね。・・・宗教程嫌らしいものはないよ。
人間を軟弱にして、女々しくして、根性のない人間ばかり出てくるからね。そんなことで世の中はやっていけるか、というんだな。…中途半端な宗教や、抹香臭い奴はみんな負けているよ。

いかに宗教というのは人間をこずるくして、ちっこくして、魅力のない人間にするかと言うことです。絶対にセミナーで言っちゃあいかんよ(笑い)・・・
宗教的な神社なんてなければ、宗教法人でもなんでもなければ、ほんとうのことはいつでも話ができる。もっと好きなことが出来るよね。宗教的な像に僕を当てはめ様としやがってね。本当に腹が立つのは会員だ。

・・当然の事ながら、神様は分ってくれるだろうとか、神様は知っていてくれる、みんな嘘です・・仏様や、守護霊さんや、神社の神様、天界の神様というのは分ってなんかくれないです・・
ス神は知っていますよ。知ってくれても何も動きません。・・宗教というのは、人間を本当に馬鹿にする。神さんなんかほっとけ。・・」

411匿名希望さん:2019/04/26(金) 06:45:14
桃の実5個したんだぜ?

412〒□□□-□□□□:2019/04/27(土) 18:33:49
災害ひのきしん隊の金は信者がない金を捻出している
天理教の体面のために復旧活動をするが
当の信者は貧乏ぐらしにあえいでいて救われない
勘違いしてるよね

413匿名希望さん:2019/04/27(土) 18:34:28
この事実は NHKとして どう伝えるのだろう。 もう、解体する?

414基本。:2019/04/27(土) 18:37:26
最近知りました

415匿名希望さん:2019/04/29(月) 04:08:13
沖縄には大教会が無い?

416匿名希望さん:2019/04/29(月) 23:39:24
        - ―- 、
    /...::::::::::::::.::ヽ
   / ..:::: ::::/ \::::.ヽ 
.  /..:::/:::::/    ヽ l:.. i
  l:::::::!:::/●)  (●)|:::.l
  !:::::l:::::l ~"  ,,  ~l::i:l
.  丶::_!::_!   、_,  ノノノ  アベノミクス、統計から見ても失敗確定と出てますね
      j\_ _ /   ___
    /_\_m/ヽ /´    /
    |  l |___ヽ///  ρ  /
    |  | o  o| /  ( ) ⊂)

417WebMaster:2019/04/30(火) 22:45:00
>>416
3年前にはな。

418名無さん@3周年:2019/05/13(月) 22:33:26
>>416
それを野党の所為にしたがるのが安倍サポ。

419いたずら同好会:2019/05/22(水) 22:29:57
天理教は奈良県のローカル宗教かと思ってた。

420Ψ:2019/05/26(日) 16:21:37
        - ―- 、
    /...::::::::::::::.::ヽ
   / ..:::: ::::/ \::::.ヽ 
.  /..:::/:::::/    ヽ l:.. i
  l:::::::!:::/●)  (●)|:::.l
  !:::::l:::::l ~"  ,,  ~l::i:l
.  丶::_!::_!   、_,  ノノノ  アベノミクス、統計から見ても失敗確定と出てますね
      j\_ _ /   ___
    /_\_m/ヽ /´    / 野党の所為にしてはダメですよ? 総理
    |  l |___ヽ///  ρ  /
    |  | o  o| /  ( ) ⊂)

421大人になった名無しさん:2019/06/02(日) 16:06:30
失敗目的のアベノミクスだったとすれば大成功なんじゃね?

422匿名希望さん:2019/06/05(水) 05:46:05
不幸の連鎖
tps://ameblo.jp/kyohsu-ponkichi/entry-12468297018.html

カルト宗教に惹かれるタイプは皆、優柔不断で、依存心が強いのです。
その自己信頼の無さ、自信の無さは、家庭教育が貧弱だったからです。
両親の愛情が希薄で、褒められたことがなく、いつも叱られてばかりだったからです。
私がそうでした。
皮肉ですよね。
不幸な家庭で依存心の塊になり、カルトに喰われて更に不幸になってゆく。
この不幸の連鎖。
何処かで止めなくてはなりません。

423匿名希望さん:2019/06/05(水) 05:47:02

幸福の科学の信者さんたち。退会を迷っておられる皆さん。
「悪魔に憑依される」
「大阿鼻叫喚地獄に堕ちる」
と脅され、洗脳されてる為、恐くて辞めれませんか?
大丈夫です!この私、ピンピンしてます!
そもそも、偉大な神様、仏様がそのように、恐怖を焚き付け、
人間を脅して布施を巻き上げたりするでしょうか?
有り得ないことです。

424匿名希望さん:2019/06/05(水) 05:48:05
【幸福の科学】清水富美加、出家騒動は泥沼化/父は事業失敗し自己破産、借金5000万円報道
ttps://twitter.com/Kyousu_Ponkichi/status/1135547648721612800?s=20

清水が同教団に入信したきっかけは信者だった両親の影響だが、
彼女の父親の会社が最近、倒産していたことが
「週刊文春」の取材により明らかとなった。
官報によれば昨年11月に破産手続きを開始している。

425匿名希望さん:2019/06/05(水) 05:51:45
映画「さらば青春、されど青春。」に出演した筈の、「幸福の科学」の看板女優の一人、
「雲母」がスクリーンから全面削除されている。
所属事務所の一覧からも抹消されてしまった。
アリプロからも、教団からも一切、詳細は語られていない。
教祖三男・裕太氏の妻であり、看板女優の一人でもある彼女に、一体、何が起きたのか!?

426匿名希望さん:2019/06/05(水) 11:37:10

ナルキッソスはギリシア神話の中でも著名だが、その話についてはいくつかの説がある。
盲目の予言者テイレシアースは占って「己を知らないままでいれば、長生きできるであろう」と予言した。


所謂、ナルシズム。自己愛のことだ。なんで神話の中に自己愛と、長生きがあるかというと、
関連があるから。自己愛 とは 我の一部でもある。 我なくせよ の我だ。
つまり、自己愛捨てれば、長生きできるぞ。となる。
神話なんだから、モロに悟りに話は結び付く。
悟りたければ、自己愛捨てよ。初歩中の初歩だ。
ナルシストじゃ100%悟ることは無いよ。

427匿名希望さん:2019/06/05(水) 11:40:21
ルシファーも美しい美貌もつ。もちろん関連がある。
鏡が三種の神器に入ってる。もちろん関連がある。
男であるならば だ、ちゃらちゃら鏡なんか見てんじゃねーよ。が真。
悟りとは強さの証でもある。
鏡みるほどに人は弱体化する。視野も狭くなる。普通に病む など弊害はさまざま。
この辺はズバリ勘 のとこだがね。
勘のいい者は、できるだけ鏡を見ないようにするもんだ。
悟る者は必ず、どこかの時点で鏡に映った自分の美貌に嫌悪感を持つようになる。
ナルキッソスと逆の立場をとるのが悟る者。約束事に違いない。
尚、長生きどころか永遠の命だ。

428匿名希望さん:2019/06/05(水) 11:42:16
俺がスマホが嫌いなのは、入り込む感じが、鏡とスマホ同じなんだよね。
悟ったからの直感がスマホを嫌悪させる。
悟って無かったら、どうだったかは分からんが、
悟ってないのにスマホに嫌な予感憶える人はいいセンスと勘していると言い切れる。
現にスマホは学習能力を著しく低下させる医学的データがある。

429匿名希望さん:2019/06/05(水) 11:42:56
まぁ我 とはなんぞや の説明だが、
我 とは妄想と錯覚が詰め込まれたような場所のことだ。
だから、過ぎればパーソナリティ障害なんかになるのは、もの凄く当たり前のこと。
だから、悟る人が妄想捨てるようになるのは、もの凄く当たり前で自然なこと。
だいたい、自殺するような人は、ほとんどが妄想癖に決まっとる。
やはり、悟る運命の人は、自分が押し潰されるのと逆方向に向かうもんだ、当たり前に。
素行の正しさが、ことごとく不運を跳ね除ける ともいえる。
生き代わり、死に代わり修行させられてきて、悟りを運命づけられた者だから
素行の正しさが自然と出てしまうのであろう。この辺は神の御蔭以外のなにもんでもない。

430匿名希望さん:2019/06/05(水) 11:44:03
戦争の神々か ダンジョン共闘かってとこね。

431匿名希望さん:2019/06/05(水) 11:46:15
もちろん、こうやって説く使命与えられたのは、証、印を与えられたから。
ここが妄想オンリーのパーソナリティ障害と決定的に違う所であり、
論理的に説明できる所でもある。
もし、証、印得てないなら、今でも延々求道者と謎解きやっとるよ。普通に。
求道者、謎解きが悟る前段階 ともいえる。
少なくとも、修行好きじゃない人は、そりゃただのパーソナリティ障害で
病んどるだけ と言い切れる。

432基本。:2019/06/05(水) 11:49:22
聞く所に依りますと扇の伺いを貰われた或方が、天気の好い日に足駄(※2)をはいて、雨傘を持ってお地場へ来られる。すると近村の人々が大変笑ったが、帰られる時には丁度雨が降って来て、雨傘と足駄が間に合うようになる。それを見て近村の人は不思議がったと云う話が、今でも残って居るのであります。
 此の点から考えますると、信仰とは病気を助けて貰うとか、安心を得るとか云うのが最終の目的ではなく、神意の悟得(※3)が其の目的でなければならん様になって来ます。即ち安心や病気の助かるのは、此の神意の悟得が出来たら、なんでもなく出来る筈であります。此の点に於て、本教の信仰の目的は明らかなものだと云えるのであります。
 御本席も始め此の扇の伺いを教祖から頂かれたのであります。そしてその扇の伺いを使われた事で今日まで語り伝えられて居るのは、勤場所を建築される時、教祖が御本席に蔵へ這入(はい)って伺えと仰せになった。其の時御本席が蔵の中で扇で伺われると、我知らず蔵の中をかけ廻られた。そして其の事を御教祖に申し上げられたら、教祖は、それは蔵を取り払えと云う事やと仰せになった。それで蔵を取り払うて勤場所を建てられたと云うのであって、これが御本席の扇の伺いを立てられた始めであるようであります。
・・・・・・・・・・・・・
御神楽歌六下り目を、解説されてのものですが、信仰の目的は「病をせぬことと、死なない事と弱らないこと、美人で居ることと若くあること」だと、基本は、そうだと思います。
それには、「神意」を分かる事ではなく、「元の理」をわかることが大切です。

神意が分かる事を、信仰の目的にして、美味な店をわかる事に教理を用いるとしたら、本末転倒ですが、それすらも分からないようでは、世界の普請は出来ないという意味で、「扇」を持たせてくださって、理の活用を経験、悪用をせずに成人していくことで、「効能」が見えるというのは、原典に知らされた所です。

433基本。:2019/06/05(水) 11:50:06
 御本席も始め此の扇の伺いを教祖から頂かれたのであります。
そしてその扇の伺いを使われた事で今日まで語り伝えられて居るのは、
勤場所を建築される時、教祖が御本席に蔵へ這入(はい)って伺えと仰せになった。
其の時御本席が蔵の中で扇で伺われると、我知らず蔵の中をかけ廻られた。
そして其の事を御教祖に申し上げられたら、教祖は、それは蔵を取り払えと云う事やと仰せになった。
それで蔵を取り払うて勤場所を建てられたと云うのであって、これが御本席の扇の伺いを立てられた始めであるようであります。
・・・・・・・・・・・・・・・・

普通の天理教徒さん。
話の核心は、鼓雪先生が伝えている所の、この引用部分にあります。

本席様は、扇の伺いを「教祖の御命で」伺っています。
本席様は、扇の伺いの結果について、「教祖に」伺っています。

扇のさづけを頂かれていても、それを自分で解釈したり、自分勝手に用いているのではない。
その、「元の理」。「をやという理」に効能という理が有るということです。

434基本。:2019/06/05(水) 11:51:00
「扇」を持つと言うことは、普通の天理教徒さんの立場で言えば、おさづけの理を頂くということだと、あなたが言われていますよね。
そしたら、おさづけというものは何に使うかといえば、病助けですから、「たすけ一条」の道具ですから、おたすけに用いるもの。

おやさまのお言葉ですが、二つの内容を含んでいますよね。
ひとつは、これです。
「世界の事は何も心にかけず、世界の事は何知らいでもよい。」
もうひとつは、これです。
「道は、辛抱と苦労やで。」

「世界の事は何も心にかけない」「世界の事は何も知らない」なんて、とても簡単なことですよね。
政治のことも経済のことも、何も心にかけなくていいのですから、まさに、ノー天気そのもの。

それに対して、「道は苦労と辛抱やで」これはどういう意味かといえば、重荷だという感じです。
さて、この、二つは、どのように二つ一つなのかという問題です。

じつに、この二つは、一つなのです。

435基本。:2019/06/05(水) 11:51:52
> おやさまのお言葉には、
> 「あんたは、これからおたすけを一条に勤めるのやで。世界の事は何も心にかけず、世界の事は何知らいでもよい。道は、辛抱と苦労やで。」
> と、お聞かせ下された。
つまり、「たすけ一条」をつとめる道としては、「苦労と辛抱」で、難儀不自由したり、人から悪く言われたりして、「成人」していくということですよ。
そして、「世界の事は何も知らなくても、心にかけなくても、皆世界の胸の内が映るようになっていく、そういうことが、その成人の過程が、
道を通るものの、当然の苦労です。

そうじゃないんですか。
そうでしょ、基本さん。

と、言いたいのを、じっと辛抱している。
そうですね。普通の天理教徒さん。

お察しのとおりです。

「道は辛抱と苦労やで」と言うのは、これから「成人していく」と言う苦労ではない。
おたすけの効能の理を頂いてしまった者の、「成人してからの」道の、苦労ということ、辛抱ということではないかと、
うすうす感づかれているのでしょう。

「あんたは、これからおたすけを一条に勤めるのやで。」
おやさまから、お助け人として、成人免許を与えられたという、そういうお言葉です。

そして、
「世界の事は何も心にかけず、世界の事は何知らいでもよい」
だって、この人には、それだけの「理」が許されている。

そしたら、「道は、辛抱と苦労やで。」
とは、成人を目指すものではないと、冷静に思案したら、わかる事です。

436基本。:2019/06/05(水) 11:53:46
依頼人がいれば、「頼まれて扇を使う」のは、神様の道具として、当然の事です。

そこで、「世界のことに無知で、何にも心にかけない」とは、「あほう」という言葉が、自然に付きまとうでしょう。
人間が成人すると言うことは、あほうになるという事だと、そんな表現がされたりしました。

でも<< 
まじめで正直であるとか、世間に無知であるとか言う、それが「天理に精通した」姿として、語られる場合には、「皆世界の胸のうち」を、映る、大前提としている。
そんな風に、思案するのが、基本です。

437基本。:2019/06/05(水) 11:54:44
「夜昼の理」。
こんな風に、おさしづでは示されていますが、おやさまは、「夜に」道を始められました。
そして、「昼に」扉を開かれました。
これが、基本としての、「夜・昼」の理です。

九つ、九、この世とは「苦の世」。
夜の理と言われるのは、立教前の世界のことです。
「裏守護」の時代とも言われるものです。
それに対して、「立教」とは、「神が表に現れた」、つまり、「昼に」なったと言うことです。

そこで、今が夜と考えるのか、昼と考えるのか、
夜というのは、「おやさま」不在、昼と言うのは、「おやさま存命」。
この違いを、基本として、思案します。

438基本。:2019/06/05(水) 11:55:46
天理教教典第三章、「元の理」には、「この間、九億九万年は水中の住居、六千年は知恵の仕込み、三千九百九十九年は文字の仕込みと仰せられる 。」と、あります。
「六千年は知恵の仕込み、三千九百九十九年は文字の仕込み」と、ありますから、立教直前は、「文字を」、その前は「知恵」を仕込んでおられたわけです。
すると、これは、「仕込み」の最中ですから、「心の成人」が至らないと言うも何も、
まだ、「知恵」から「文字」を、教えていた最中ですから、
「何も知らぬが無理でないぞや」
なのです。

439基本。:2019/06/05(水) 11:56:54
> このスレで自分の発言したことに、現状の民主の状況を踏まえた発言をしてみろや。
<現状の民主の状況。?
選挙前も、今も、それほど民主党の状況は、変化していないと思います。
この話題、ご意見ありの本スレにて語ってくれませんか。
そちらにて、議論しましょう。

「夜の理」が、日本を敗戦にまで、続いていたと言うこと。
そういう話題でなら、当スレの話題と言うことになります。

「夜」なのか「昼」なのか。
で、判断する。そういう基本を語っています。

440基本。:2019/06/05(水) 11:57:54
認識の差と申しましょうか、何党が政権政党になっても、「権力」であると言うことは、治まらない。
それが天理に知らされているところです。
「権力」というものは「高山」であり、高山の中にも真実真心の者がいると言うことはありますが、権力の周りには「利権」というものが付きまとう。
政治とは、本来は、「祭りごと」であり、豊年を祝って祭る、祭りごとでなければならない。

ところが、「飢饉の為に備えましょう」と、そうして、「宮」は民の為に貸し付けて、それが、高山になっていった。
この意味をきちんと理解しなければならない。

豊年であると言うことは、「昼」である。
だが、夜に備えて、権力と言うものは発生し、発展してきた。

おやさまが、突然に「甘露」を降らそうというのは、そういう高山の利権構築に対する、天理を示したものと言うことです。

441基本。:2019/06/05(水) 11:58:59
> 人のもの借りたるならばりがいるで はやくへんさいれいをいうなり 三号二八
このおやさまのお筆先は、「人がものを借りたなら、利息もいるし、はやく返済して例を言うがよい。」(芹沢茂・おふでさき通訳)と、解釈されています。
さらに「(二八)に賃借のたとえをもって、お話下された真意は、・・貸物借物の教理を暗示している。」(芹沢茂・おふでさき通訳)と、このような解釈まで生んで、借りたら、利がいるから、お供えをしなさいという横暴教理として信者に強要している宗教もあるようです。
これは、大きな間違いで、宗教の因縁と言うものの自覚の無い姿です。

442基本。:2019/06/05(水) 12:00:07
「債務奴隷」と言うのは、どのようにして生まれたのか、日本の場合を、学者さんの研究に教えて頂きますと、「貨幣の散歩道」には、このように書かれています。

『12世紀になると、各地からの律令税の徴収や年貢米の都への輸送に不可欠な商業・輸送ルートを掌握していた神人(じにん)・供御人(くごにん)が請け負うようになった。彼らは、公家や社寺に奉仕者として仕えることが認められた特権的武士であり、天皇や神仏の権威により日本中を自由かつ安全に行き来することができた。』
・・・・・・・・・・・・・・・

443基本。:2019/06/05(水) 12:01:11
政治と言うものは、どのように権力となっていったのか。
大宝律令の時代においての、原型から学んでおくべきです。

『中世において社寺は有力な封建的土地所有者であっただけでなく、蓄財の利殖のため、金融業をも営んでいたのである。借銭・利銭、祠堂銭とも利息は年利5〜6割と高利であったことから返済は容易ではなかった。そのため、担保に差し入れられた土地・地頭職などが土倉や社寺の手許に流れるというかたちで御家人階級や農民の生活を圧迫した。
 出挙、借上、土倉、祠堂銭など、古代から中世にかけてみられた金融取引の多くが神社・仏閣により営まれていたという事実は、非常に興味深い。第1に、当時の社会における富の分布や金融取引が神仏と密接に繋がっていることを示しているからだ。第2に、彼らの金融業者としての拠り所は、「債務不履行は神仏の供物を奪う行為であり、そうした輩は死後地獄に堕ちる」という宗教的な返済強制力にあり、借り手も神仏の冥罰をおそれて約定どおり返済に努めたのであった。 』

つまり、文久の時代の飯田善六さんが五代前には、おやさまのおじさんで、宗教からみの金貸し「土倉」をしていたと、その因縁が、私にもあるよ、と、それがおやさまの、思想です。

444基本。:2019/06/05(水) 12:02:17
それが、元々のいんねんが出て、宗教というもので『金を搾り取る』という、水屋敷の反乱につながったという事なのです。

紹介しました、「貨幣の散歩道」というサイトでは、日本の債務奴隷について、歴史がこのように語られています。

①、日本においても古くから、出挙(すいこ)と呼ばれる金融取引が行われていた。
 これは、稲の貸借取引であり、もともとは豊作を祈念して神社に捧げられた初穂を翌春、神社が種籾として農民に貸し付け、秋の収穫時に利息に相当する利稲を付加して返済させるというものだった。
 ・・・第1に、農民からみた場合、種籾を貸与してもらえるため、種籾の確保を一切考慮することなく、収穫米を消費することができた。
 第2に、天災や飢饉に備えた米の集団備蓄が制度的に進められることになった。
 第3に、これが最も重要な論点であるが、神社からみた場合、ストックとしての富の品質維持が挙げられる。
 富としての米の価値を維持していくためには、少なくとも年1回程度は米の入れ替え取引を行う必要があり、これを農民の利益向上に繋がるような仕組みに仕立てたのが出挙と考えられる。
②、出挙は、大宝元年(701)に制定された大宝律令により制度化され、
 国衙(こくが)が班田農民に春先に貸与した種籾を、収穫時に利子を付加して徴収する制度のことを指すようになった。
 これを公出挙(くすいこ)という。公出挙は、種籾まで食してしまった農民の救済措置として始まった。
・・・・・・・・・・・・・・・・

445基本。:2019/06/05(水) 12:03:32
宗教も政治も、何をもって権力を構造として完成してきたか。
例えば「学問」と言うものは、権力は独占してきた。
例えば「情報」というものを、権力は独占してきた。
「教養、知性、博識」とは、権力を独占し続けるためのアイテムであり、それらが谷底に幸福をもたらすのは、極めて例外だったと言うこと。

その権力がどうにもならぬもの。
それが、おやさまの支配くださる「火水風」の守護。

「火水風の守護」。
こんなもので、世界を普請すると言う中山みき。
おやさまは、甘露を下さる、人間の親神様天理王命様です。

446基本。:2019/06/05(水) 12:04:29
農民の豊年を祈願しての、神事において、また、万一の時の福祉において有効な制度であったはずの、「大宝律令」が、実は、「債務奴隷」を大量に生み、大社高山による差別社会の統治に悪用されたと言う事です。

③、しかし、その利息が年5割にものぼる高利であったため、次第に税のように強制的なものとなった。
 各地の国司はこの利息を当初は公共事業や国分寺の造営費用に充当していたが、やがて自らの懐に入れるようになった。
④、平安時代になると、土豪化した在地領主も出挙を行うようになった。
 これを私出挙(しすいこ)という。私出挙は半ば強制的に行われたが、その利息は、当然のこととして公出挙よりもさらに高利であったため、実質的な税として農民を苦しめた。
⑤、私出挙においては、貸し手の債権保全のため、農民の宅地・奴碑・雑蓄のほか口分田までが質物となった。
 利息未払いのため土地や家屋を没収された農民や、追い立てから免れるため逃亡する農民が後を絶たなかった。
 平安中期には、債務不履行となった場合、質物の所有権が債権者に移転する流れ質が一般的になったからだ。
 そうしたなかで、農民は債務奴隷へと墜していった。
農民の豊年を祈願しての、神事において、また、万一の時の福祉において有効な制度であったはずの、「大宝律令」が、実は、「債務奴隷」を大量に生み、大社高山による差別社会の統治に悪用されたと言う事です。

③、しかし、その利息が年5割にものぼる高利であったため、次第に税のように強制的なものとなった。
 各地の国司はこの利息を当初は公共事業や国分寺の造営費用に充当していたが、やがて自らの懐に入れるようになった。
④、平安時代になると、土豪化した在地領主も出挙を行うようになった。
 これを私出挙(しすいこ)という。私出挙は半ば強制的に行われたが、その利息は、当然のこととして公出挙よりもさらに高利であったため、実質的な税として農民を苦しめた。
⑤、私出挙においては、貸し手の債権保全のため、農民の宅地・奴碑・雑蓄のほか口分田までが質物となった。
 利息未払いのため土地や家屋を没収された農民や、追い立てから免れるため逃亡する農民が後を絶たなかった。
 平安中期には、債務不履行となった場合、質物の所有権が債権者に移転する流れ質が一般的になったからだ。
 そうしたなかで、農民は債務奴隷へと墜していった。
・・・・・・・・・・・・・・・・
毎月○○円を支払い続けないと、情報も得られない。
そういう社会の現代は、目が通っていると言う意味において、古代の日本よりも、支配は厳しいものと認識されます。

447基本。:2019/06/05(水) 12:05:22
仮に、とか、もしというと、少し奇異に感じられるかもしれませんが、甘露台が素直に信じられる心になるとすると、それは、世界がろくぢになると言う事に直結している。
そういう論理を、普通の天理教徒さん、お分かり頂けますか。

神様は「高山に火と水が見えてある」。
そして、谷底には「甘露」「甘露台」なのだ。
こういう天理の基本がきちんとわからないと、甘露台は「成人した魂の人のための台」なのだという、
「利権構造」が、宗教高山が、切り無く生まれてきてしまう。

それでは、甘露を降らすわけには行かないと、そういう、事情について、考察してみてください。

448基本。:2019/06/05(水) 12:06:14
争いの原因というのは、貧困です。
「高山」というものは、人の生命財産を保護し保障する権力が、政治制度として「高山保護・育成」につとめている。
それは、貧民から救済するという、
たとえば、生活保護とか、江戸時代の「飢饉米」とか、
それは、「貧困」が前提で居て、その貧困を逃れようという不安が、権力者に統治をゆだねるという結果を生んでいる。

だが、甘露が降れば、それを受け取る「甘露台」があれば、貧困の恐怖も、「労病死」そのものが無くなる。
ここがあって、そして「高山には火水」。
甘露台というのは、そういう意味の台であり、高山の火と水が見えていないと、甘露台の意味も見えなくなると、そう思います。

449基本。:2019/06/05(水) 12:07:35
天理教の年表には、立教5年、6年頃の事として、次のような記述があります。
「・・ついに村人、役友達、親族不付き合いとなる。」

これは、「夜」と言う状態であり、「昼」とは言えないシーンです。

「夜昼の理」の事です。

「夜昼の理」。
こんな風に、おさしづでは示されていますが、おやさまは、「夜に」道を始められました。
そして、「昼に」扉を開かれました。
これが、基本としての、「夜・昼」の理です。

九つ、九、この世とは「苦の世」。
夜の理と言われるのは、立教前の世界のことです。
「裏守護」の時代とも言われるものです。
それに対して、「立教」とは、「神が表に現れた」、つまり、「昼に」なったと言うことです。

450基本。:2019/06/05(水) 12:08:37
「昼」になったはず、「立教」なのに、五日の理では暗転した「闇夜」。
その原因のことです。
それは「甘露」を受ける上では、とても大切な意味を持つと基本は思案します。

「22の2の五つ」という教理があります。
ろくぢでないと「理い吹く」ではなく「立腹」となる。
「理い吹く」は「昼」。
「立腹」は神の立腹ですから、「夜」と、舞台は変ります。
そこが、分岐点です

451基本。:2019/06/05(水) 12:10:04
「22の2」とは、男女二人、が三組で、222です。
おつとめのてをどりの、お立ちの方の数理です。
おさしづに、「ほんの三日や千日や」とありますが、三年千日の苦労をすれば結構になると言う天理の基本があります。
すると、1838年12月12日に立教したのですから、1841年には、結構になっていなければならない。
1841年とは、天理教年表では、「おびやためし」の年です。
ところが、夫善兵衛は、自分の眼病は助けられた。妻の病気も治った。
特に長男秀司の足痛も助けられたというのに、おまけに、おびやためしで、流産の産後も助けていただいたのに、
「貧に落ちる」を拒んだ。

もし仮に、すっと、仰せのようにしていたら、簡単に、道は「昼」だったと、そういう事かも知れない。
> 「・・ついに村人、役友達、親族不付き合いとなる。」
の原因は、「貧乏を命じた親神」にあるのではなく、病を助けられても、神に約束しても、実行しない「夫善兵衛」にあったと、
そういうことになります。
それは、「高山因縁」が切れていなかったと言うこと。
「高山因縁」を切りたくなかったという、執着にあった。

452基本。:2019/06/05(水) 12:11:39
夜ではない、昼なのだ。
とは、「貧乏神ではない、豊年神なのだ」と、存命のおやさまを信頼することです。

『不自由なきようにしてやろう 神の心にもたれつけ』
と言うのが、「昼」である基本になります。

453基本。:2019/06/05(水) 12:12:44
神様は、勤め場所の普請の開始の前に、扇を授けています。
「正月こえのさづけ」と、ありまして、肥えのさづけは、一番最初に授けておられる。
つまり、最初に「路銀」を渡すと言う、天理の順序。
それは、おやさまの場合にもそうでした。
しかし、それで昼で通れるのに、「夜」にしてしまった、私たちの先輩がいます。
初代といわれる、方々です。

善兵衛さまは、最初に三年の苦労すら通らないで、おやさまの霊力で信仰体を作ろうとした。
それで、昼を夜としてしまったのは、2ちゃん「天理」スレに、黒の基本さんが投稿した話題に、そうした事実が書かれていますが、
初代のほとんどは、苦労三年で、「三年千日」で、大教会初代になっています。
それならば、その五十年後には、戦争協力という「暗転」。
大切なおつとめも、原典も、神の理に背いてしまう情けなさです。

そこに、甘露を頂くという信仰は、素朴で素直であるべきだという、基本が見えます。
神の心に、もたれ付けないという事、それでは、「夜」。残念なことです。

454基本。:2019/06/05(水) 12:13:42
さて、今思案中の問題に、「こじまつ」と言う問題がありまして、それは、「松恵さまの」態度と、秀司先生の言葉とに、示されていたものです。
この頃の秀司の言葉として「皆が寄って来てくれるは誠に忝(かたじけな)いけれども、このように色々心配しても、どうしても警察の権利で苦しめられるから、もうこれからは小始末(こじまつ)するほどに、皆もなるだけ来んようにしてくれるよう」(「改定正文遺韻」)とある。これに対し、おやさまは、「こじまつするとこじまつになるぞ」(諸井政一手記「改定正文遺韻」)と仰せられた、と伝えられている。これに対し、教祖は、「小始末すると小始末になるぞ」(諸井政一手記「改定正文遺韻」)と仰せられたとも伝えられている。

455基本。:2019/06/05(水) 12:14:37
しまつ 【始末】(名)スル
(1)(物事の)しめくくりを付けること。片付けること。処理。
「—を付ける」「このごたごたをどう—するつもりだ」
(2)無駄遣いしないこと。倹約すること。
「なんでも—して使う人」「藤屋の市兵衛が申事を尤と思はば、—をすべし/浮世草子・一代男 7」
(3)結果。主として悪い状態についていう。
「さんざん迷惑をかけたあげく、あの—だ」
(4)物事の事情。事の次第。
「私が此書(ほん)を読む様になりました—は/不如帰(蘆花)」——が悪(わる)・い 扱うのに困る。手に余る。 ——に負えない (事態が悪化して)処理できない。手に負えない。
・・・・・・・・・・・・・・
こじまつにするという事は、「夜の理」を呼び込む行為である。
「倹約」「整理」「片付け」それを小さなことまでいちいちにするのが、こじまつ。

今の日本のマスコミの報道、こじまつという姿に見えますが、こじまつというものと「夜・昼」の理と、深く関係あると感じているのが、基本です。

456基本。:2019/06/05(水) 12:15:36
こじまつな態度というものは、言うならばいちいちにうるさいという事です。
当局は、いちいちにうるさかったとか、官憲のような態度が、こじまつという態度で、反対側で言うと、「鷹揚」と言いますか、のんびりという態度。
「夜」と「昼」と言うものは、理において、「夜」は節約型。
人間の体の場合ですが、「夜」はこじまつに、してあるわけで、「昼」は消費型。
「昼」「日る」「費る」。
つまり、燃えるということはなくなるわけですから、こじまつの反対側には「浪費」がある。

浪費は、エコではないので、「倹約・節約」の方が理にかなっているとして、こじまつそのものは、「夜」の理に人を導くという、そういう事になりますむ。

つまり、天理教会は「こじまつ型」に固執していて、「浪費型・ゆさん型」ではない。
それが、高山に癒着したことと、因果関係上にあるのではないかというこだわりです。

457基本。:2019/06/05(水) 12:16:32
「甘露」という言葉には、こじまつは、ふさわしくない。
皆が、甘い露を頂くというときに、「こじまつ」にされたら、そりゃ、ぶち壊しというようなものです。
気分が悪くなる。

あんたは成人段階が、もう一段足らんから、「甘露」は跡ですというような、状態が「夜」。
それでは、「甘露」の「甘さ」が無さ過ぎる。

甘い採点、甘い判定、甘い生活。
それと、まるで相容れないものが「こじまつ」。
そしてそれは、私たちの中に体質としてあるもの・・。
天理教会が、信仰に対して、厳しい生活をよしとしているのは、「夜」の道しか頭に無いからだと、そんな気さえします。

458基本。:2019/06/05(水) 12:17:41
5月21日(陰暦4月9日)、奈良警察署から秀司宛てに召喚状がきた。秀司は、40日間留め置かれた上、罰金に処せられ、帰ってきたのは、6月29日(陰暦5月19日)であった。
その理由は、杉本村の宮地某が、ひそかに七草の薬を作り、これを、秀司からもらったものであると、警察署へ誣告した為である。
この頃から、秀司は、「人さえこなければ、こんなことはない」と云って、道人のやってくるのを拒み始めていた形跡が有る。
 この時の教祖のお言葉が次のように伝えられている。
「監獄へ曳かれるというのも、誰がしたと思うなよ。神の事聞かんから、神が連れていぬのやで。神が止めているから、出られんのや。神の云う通り、早くつとめに掛かるなら、直ぐに連れて帰るほどに、つとめをせよ」(諸井政一手記「改定正文遺韻」)。

 この頃の秀司の言葉として「皆が寄って来てくれるは誠に忝(かたじけな)いけれども、このように色々心配しても、どうしても警察の権利で苦しめられるから、
もうこれからは小始末(こじまつ)するほどに、皆もなるだけ来んようにしてくれるよう」(「改定正文遺韻」)とある。

これに対し、おやさまは、「こじまつするとこじまつになるぞ」(諸井政一手記「改定正文遺韻」)と仰せられた、と伝えられている。
これに対し、教祖は、「小始末すると小始末になるぞ」(諸井政一手記「改定正文遺韻」)と仰せられたとも伝えられている。
--------------------------------------------------------------------------------

つまり、おやさまの論理と秀司の論理には、「夜」と「昼」の認識の違いがあったと、見て取れます。

459基本。:2019/06/05(水) 12:18:44
おやさまの言う事によれば、こうなります。↓
[神の言う事を聞かない]→[神が秀司を監獄に入れさせた]

秀司の言う事によれば、こうなります。
[皆が来るから]→[警察が権利を行使する]

いったい本当は、どちらがどうなのでしょう。
もしおやさまの言うとおりだとすると、官憲はおやさまの手先という見方すら出来てしまうわけです。

「神の言う事聞かぬから、犯罪者として始末させた」親神さま。
それは、神様の小始末なのか否か、

みな他人事だから、秀司先生の発言を、神を信じられない愚か者と、軽蔑できたりするのですが、
本音、官憲は、お上は、「お上の意思」で取り締まっていると、秀司さんは考えた。
そして、おやさまは、「神の意思」で取り締まらせたと言う。

これ、神様を信じると言うのは、口で言うはたやすいけれど、目の前が真っ暗なのに、「昼」だと言われたようなもの。
その時、「小始末」(こじまつ)に入ってしまう、
つまり、「神への不信」が、小始末を生む。
それを、見て取れてしまうと言うことです。

460基本。:2019/06/05(水) 12:19:44
さて、監獄から帰った秀司の態度は、
> 秀司の言葉として「皆が寄って来てくれるは誠に忝(かたじけな)いけれども、このように色々心配しても、どうしても警察の権利で苦しめられるから、
> もうこれからは小始末(こじまつ)するほどに、皆もなるだけ来んようにしてくれるよう」
という態度の一方で、信仰組織づくりに奔走していた事実を見ておくべきでしょう。
講を、各信者組織として、まとめさせていったと言うことです。

461基本。:2019/06/05(水) 12:20:55
【講の結成】(1878年)(明治11年)(教祖81才)
 1878年(明治11年)4月頃、秀司を講元として「真明講」が結ばれる。
世話人は、仲田儀三郎、辻忠作、松尾市兵衛、中尾休治郎ら。この頃から金米糖を御供えとして渡す。

 この頃、教祖の行為は村にとって迷惑だから、「天理さんを止めてもらいたい」と中山家に申し入れが為されている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
こんな風に、れんだいこさんは、まとめています。
上↑「この頃から金米糖を御供えとして渡す。」は、「御供え」では無く、「御供・ごく」です。

秀司は、「明日・あすにち」を、一日は一年と判断し、一年後には、信者組織を「講」としてかたちづけ、自分は「本部」の役割をうけもって、「御供」を渡す役割に位置づけたと言うことです。

「あすにちからわ をふくハんのみち」という、「予言」を形にしてみせた。
それは、「信じていない人間のナス行為」とみなした方が、的を射ているでしょう。

「夜」だとしか認識できないから、「真明講」と言う、明かりを、付けて見せた。

宗教家のやりがちな、予言の実現加工ですが、
そういう、作為的な「信仰行為の美化」をする時に、

>「信仰」「教育」「訓練」「伏せ込み」「忍耐」「執着心を取り去る」「仕込み」等々の<美名>が付けば
> それは、まさしく、こころを暗くしてしまう。「こじまつ」そのものと、言えましょう。
という、暗い精神文化を、育ててしまう。

おやさまのお言葉を信じるのなら、素直に信じる事。
信じないけれど、信じられないけれど、何とか信じた形を作ろうとする。
それは、「美名と嘘」のブレンド。

「一日を一年」と読んだのは、「理」を利用した態度。
しかし、おやさまを疑ってしまいつつ、お言葉を行おうとする。
その不自然さが、「小始末」。
大きな始末が出来ない、人間心のあざなさというものでしょう。

462基本。:2019/06/05(水) 12:22:02
親神の言う事がうそなら、それは親神ではない。
インチキ神。

それにしても、国家権力相手に、「神」と「上」の力比べだと、大口叩いては、拘引され留置される実母さんのおかげで、誣告され自分までも、拘留された。
そういう境遇。
権力の支配の対象に自分までも含まれていると知った秀司には、組織の合法化以外頭に無くなった。
秀司の「応法」の道とは、その悪しきは、講社を組織化するまではともかく、本部に「真明講」をおいて、上下関係として組織化した事にあります。

理の親信仰の原型は、秀司が作ってしまっていた。
「こじまつにする」という宣言を発したことそのものが、「一列」ではない、高慢因縁の発露そのものであった。

そういう秀司が組織した講は、同じ因縁の支配欲によって、一度は隆盛となっても、元の形もあとかたなく、霧散してしまったと、言うべき運命をたどるのでした。

秀司が信じられなかったもの。
それは「神」のお働き。
お筆先の予言は、嘘なのでしょうか。
確かめておかねばなりません。

463基本。:2019/06/05(水) 12:23:13
実は、今まで気が付かないでいたのですが、それは、
お筆先三号の1、の文字表記の事でした。

お筆先十三号も第一首の一のおうたは、

「4月28日九どきより 
 一けふまでわなにかしんぱいしたなれど
 あすにちからわ をふくハんのみち    」 十三号1

と、こうあります。

今まで気が付きもしなかった「一けふ」という表記に、「アッ」と、「けふ」では無く「一けふ」だと、
と、言う事は、・・・

お筆先十三号も第一首の一のおうたは、
明治10年の陰暦4月28日、それは、陽暦では1877年6月9日執筆です。「けふまで」と、執筆されていません。「一けふまで」と、執筆されています。
「けふまでとは立教からの38年と数月」。
それを一単位としますと、「一けふ」と一かたまりにて単位と出来ます。
それなら、「一けふ」「二けふ」と数えられます。

「一けふ」「二けふ」と数えますと、このお筆先の執筆されました明治10年陰暦4月28日までの「一けふ」から、次の「二けふ」までは、38年と数月後のこと、
もともとは日数ですから、日数で言いますと、39日。
それが「一けふ」済むと「二けふ」。に相当しますから、
お筆先第十三号執筆の立教40年(1877年6月9日)から、39日後は、立教79年になりますから、「あすにちから」とは、立教79年目からと悟れます。
その年、悟りとして「二けふ」に該当する年。立教79年。
官憲によって、ゆがめられていた「朝夕のおつとめ」は、復元されました。
「みかぐら歌」本が、公刊されました。

一けふまでわなにかしんぱいしたなれど
 あすにちからわ をふくハんのみち    十三号1

これは、お筆先の予言の通りに、実現しています。

464基本。:2019/06/05(水) 12:24:25
基本的な数理を、整理してみます。
4月28日九どき
この数字ですが、
3625 は、(3×6)+(2×5) で、28年の基本数理で実数で数えました。

その実例にならいますと、
(4×2)+(8×9) 80年の基本数理が、一つ考えられます。
1877年6月〜 1年目
1956年6月〜 80年目  稿本天理教教祖伝 公刊。

おやさまのお歳で申しますと、明治10年は八十才です。
お誕生日は、4月18日です。このお筆先は 4月28日です。
正月26日はおやさま、2月26日は御本席様にゆかりがあります。
そこで、18→28という理は、一段二段ですから、
ご誕生から80日が明治10年で、このお筆先。
その80日に、稿本天理教教祖伝 公刊。
二代真柱様が、お筆先の数理をご承知のことと、拝察します。

二段目に入っていると言う、お知らせと感じます。

465基本。:2019/06/05(水) 12:25:23
元を本部から数えると言う基本もあります。

本部からの4年は、「教祖存命についてのおさしづ」
この時、それがちゃんと理解され、実行されていたら、「昼」であった。
だが、高慢因縁に、「教祖存命」、それを教団幹部自ら否定してゆく「夜」。

本部からの32年は、
本部1年目は1888年4月〜
本部4・28の32年目は1919年4月〜  財団法人天理教会本部となる

本部からの41年は、本部1年目は1888年4月〜
そして、4・28・9の41年目は1928年4月〜 昭和3年おふでさき公刊・おふでさき講習会。

222の五は、2月22日で、立教五つの理。
又、(2×22)+5の理 で、49年の実数が基本の数理でした。 

その実例にならいますと、4+28=32
1877年6月〜 1年目
1908年6月〜 32年目   天理教一派独立認可  

・・・・・・・・・・・・・・・・

466基本。:2019/06/05(水) 12:26:35
おやさまは、人間の親だから、絶対に「上」よりも、偉いと、
なぜ、そう思えなかったのか。

ここに、初代たちの信仰の限界が見えてきます。
それは「甘露」ににっこりと、笑顔にて、楽しめない、わが身思案の限界と言うものです。

467基本。:2019/06/05(水) 12:28:03
説き流しの時代には、そばの人々は、神様の言葉を聞き取りもしなかった。聞いても忘れてしまった。
当然ながら、大きな意味での「昼」には、ならなかった。
そして、実の箱時代の中の、2である、「おふでさき執筆時代」になって、
「九が無くなる刻限」を迎えた、それがお筆先13号執筆の「刻限」だったということで、
「四月二十八日」という、月日で、四の数理は「四つよんなか」「ようき棟梁」・・
八の数理は「八方に開く」「山の中」「屋敷は神の・・」・・。

そこで、おやさまの年齢八十歳の誕生日は「四月十八日」でこれが、一段。
二段目にあたる「四月二十八日」という、月日にて、「よんなか」・40年の一区切りの刻限を、お知らせ下された。

この、四・28の数理は、4+28は、32年で、お筆先執筆開始の数理でした。

468基本。:2019/06/05(水) 12:29:10
改訂版天理教辞典の「夜昼の理」には、次のお言葉が引用されて、解説があります。
「二十六日は夜に出て昼に治まりた理。」29/2/9。
・・・・・・・・・
解説では、夜に出てとは「立教」の事で、昼におさまりたとは「扉を開いた」事だと言います。

おやさまのご誕生は、6月2日五つ時、つまり、222 2の五つ。
昼の理にて思案すれば、おやさまのご誕生そのものが、すでに「昼」であったと、明白です。

おやさまは、ここまでも数理に厳然として、お生まれになられた。
そして、数理に厳然として、お筆先を知らされた。

子供可愛い一条のおやさまの「陽気」に、「昼の理」は満ち溢れていると言うことです。

469基本。:2019/06/05(水) 12:30:25
夜昼の理については、「昼」の理がわかることが大切と、認識するのが基本です。
おさしづには、

明治二十三年八月十二日 午後八時
本席御身上願
さあ/\尋ね返やす。又さしづせにゃなろうまい、幾重さしづせにゃなろうまい。分からんか/\。さあ/\身の障り/\、歌のように聞くようではしょうも無い。
どのくらい刻限聞かしてある/\。その場だけ/\理は無いと思う。なか/\いつにこうであって、思て居る者もある。
歌のように思て居ては、ばったりより仕方が無いで。
さあ/\尋ね出る。どんな事聞かしても分からん。
前々一寸さしづ、さあ夜と昼と、夜昼、夜は判っきり分からん。
夜という柔らかい事、さしづ何をすれど、昼その理さえ分かれば、思うようになる。どんな事でも自由自在。
千に一つ悟りくれにゃならん、万に一つ悟りくれにゃならん。小人三才、一寸些かな事である。尋ね尚分からん、よう聞き分けにゃ分からん。
同時
さあ/\身の障り/\、尋ねる話、その場に書き取りその場だけ、生涯のもの。
聞く時後の心どうもならん。
その場の結構は分かるけれども、後の結構は分からん。
身の障り/\、幾日でも、どんなに休んでも、そのまゝ三才子供、放って置く事も放って置けよまい。

470基本。:2019/06/05(水) 12:31:33
さしづ何をすれど、昼その理さえ分かれば、思うようになる。どんな事でも自由自在。
千に一つ悟りくれにゃならん、万に一つ悟りくれにゃならん。

おやさまが、この世にお生まれになって、それは昼の理。
この原点を、しっかりと思案したいと思うは基本です。

471基本。:2019/06/05(水) 12:32:37
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、及び国家神道の信徒諸君、一神教は都合の悪い事実を隠し、歴史を捏造する悪い癖がある。

(注.薩長開宗の「国家神道」はその開宗目的からしてもキリスト教らと全く同質の「和製一神教」です)

472基本。:2019/06/05(水) 12:33:49
宗教を支配・統治に利用するという為には、一神教は利用しやすい。
因縁的に言うなら、モーゼのマジック、エジプトの神官のテクニックそのものが人心を惑わすものでありました。
過ぎ越し祭りの、起源そのものの手法、そこには「つくり策」という、おやさまのお嫌いなものが、混じりこんでいます。

おやさまが、日清戦争・日露戦争の予言を書かれたのは、お筆先第四号でした。
777 74の数理にて、何年後の数理を示されていますが、そのことは、情報操作という「五月五日」の出来事に深くかかわっているわけです。

「夜」「昼」の理が、わからなくなってしまう。
そこには、高山の情報操作があり、軍国主義の背景があるということです。

 このひがらいつの事やとをもている
 五月五日にたしかでてくる      第四号3

 それよりもをかけはぢまるこれをみよ
 よるひるしれんよふになるぞや    第四号4

473基本。:2019/06/05(水) 12:35:16
>「明治二十七年七月二十六日 朝」
> 日清間事件に付朝鮮国へ人夫五百人本部より出す願
> ここにも、『事情はふでさきに写してある。今の間にも見えると伝えて、どうでも是非々々残念を現われにゃならん。』と、日清戦争の事情は、おふでさきの予言の実現である事が知らされています。
> 『幾日日柄月柄楽しう理了い次第と言うてある。』
> 『五月五日より始まると言うて、今見えるというも何年以来に伝えてある。』
> ここに示されているのは、おふでさきに五月五日と知らされたものは、今の事情なのだよという、明確な内容です。
>

先ず、おふでさき六号に知らされた「五分五分として成人した」、これが、明治27年の事情を、あらかじめ知らしていたことは、お分かり頂けたと思います。
> 『幾日日柄月柄楽しう理了い次第と言うてある。』
これは、おふでさき十号のおうたを直接的に示しています。
 このひがらいつころなるとゆうならば
 たあのしゆりをしまいしだいに   十号16
そして、「ひがら」とは、おふでさき四号にしらされてありました。
 このひがらいつの事やとをもている
 五月五日にたしかでてくる     四号3

> 『五月五日より始まると言うて、今見えるというも何年以来に伝えてある。』
この、五月五日よりというものが、おふでさき四号3、に知らされたものであり、それが、日清間の事情であると言う事をしめしたものです。

474基本。:2019/06/05(水) 12:36:44
第四号、七十七歳老女 明治7年4月。(←扉に記載)

1年目 1874年4月〜  
お筆先四号 77歳 7号 7年  4月 予言

4年目 
1877 西南戦争 
[(2月から)9月24日 西郷軍敗戦]

4+7=11年目 
1884 秩父事件 
[(10月31日)から11月9日にかけて、農民武装放棄鎮圧]

7+7+7=21年目 
1894 日清戦争
[(7月)から1895年(4月)、日本勝利]

7+7+7+4+7=32年目
1904 日露戦争[(2月6日)から (明治38年9月5日)日本勝利]

4×7=28年目 
1901年 日本初の社会主義政党。治安警察法によって禁止された。


7+7+4=18年目
1891年 足尾公害事件 第2回議会(1891年11月26日開会)田中正造議会闘争。

475基本。:2019/06/05(水) 12:38:03
おやさまは、「この夜」を「昼」に、陽気なものに立て替えるために、「昼の理」の数理、刻限に誕生され、立教された。
それは、お釈迦様の悟り、イエス様の愛として、それまでにも教えてきたものであったが、
宗教組織は、政治権力そのものとなり人を支配する「高山・谷底」の統治術を駆使する側にまわり、
お釈迦様やイエス様の教えすら、統治のマジックに利用されている。

日本の「天皇」を一神教にみたてた、政治制度も、その例に他なく、日清、日露へと国民は誘導され、それが「夜」なのだということは、第二次大戦の敗戦まで、国民は自覚できなかった。
現在も、「おかけ゜」信仰は、続いていて、お払いさんが降ると言う、「夜」の理は、はびこっている。

忘れてはならないのは、おやさまは、この世に「昼」の理をお知らせに来たということです。

476基本。:2019/06/05(水) 12:39:12
> 明治二十三年八月十二日 午後八時
> 本席御身上願

『さあ/\身の障り/\、歌のように聞くようではしょうも無い。』
『どのくらい刻限聞かしてある/\。』

この世界は理責めの世界。
お筆先に刻限を知らされていても、「すばらしいお歌だ」と、歌のように聴いていて、理として聞かない。
それでは、「理・神」がわからない。

『その場だけ/\理は無いと思う。』
お筆先のお歌なんか、その時のその場だけのものだと思って、「理責めの世界の理」なんか、無いと思っている。

まさに、教団信仰者の実態をずばりと、突いています。
山名系天理教学、天理神学は、一神教の悪因縁である「詐術」「装飾術」に長けていて、最悪であり、まるで、お筆先の理を、重い刻限という理の思案が無かった。
現在までも続いている「理の親信仰」は、その宗教家の悪因縁そのものということです。

477基本。:2019/06/05(水) 12:40:19
> 明治二十三年八月十二日 午後八時 > 本席御身上願
『なか/\いつにこうであって、思て居る者もある。』

なかなかと言うのは、ひながた時代では「秀司先生・小寒様」を示します。

中には、と訳しますと、ひながたでは「何時にこうであって」と思っているものがいる。
そういう意味になります。

『なか/\いつにこうであって、思て居る者もある。』
でも、中にはという中にも、「なかなか」の者という深い意味があります。
そういう刻限・数理の思案をしてきた者が、いたということ、示されているわけです。
それは、二代真柱様のように、「なかなか」いない限られた人たちであったと受け取るのが、基本です。

『歌のように思て居ては、ばったりより仕方が無いで。』
理を理としてわからない、悟らないでは、ばったりより仕方ない。
道は途絶えてしまう。

『さあ/\尋ね出る。どんな事聞かしても分からん。』

『前々一寸さしづ、さあ夜と昼と、夜昼、夜は判っきり分からん。』

478基本。:2019/06/05(水) 12:41:39
> 『さあ/\尋ね出る。どんな事聞かしても分からん。』
> 『前々一寸さしづ、さあ夜と昼と、夜昼、夜は判っきり分からん。』

お言葉に「赤衣は赤衣につれられ、黒衣は黒衣につれられ」とあります。
おやさまの教えというのは、赤衣。
しかし、それに黒い衣装を着せろと命じたのは「高山」です。
法律に応じる道として応法の道は、実は本席の時代。
つまり、「黒衣に連れられ」と言うのは、天理教会の細道の時代。
これも、別の予言があることは、2ちゃん天理スレに投稿してあります。

この時代は「神が世上の道理を通す、通させる」と、通させた時代。

その認識で、受け止めなくてはなりません。
「なかなか」の者、「なかなか」の人にしか、お筆先の理は、「理」として、認識されていなかった。
信仰者として、心の闇路にさ迷っていた。
それは、「昼のくらがり」、最悪でした。

479基本。:2019/06/05(水) 12:43:46
『夜という柔らかい事、さしづ何をすれど、昼その理さえ分かれば、思うようになる。どんな事でも自由自在。』

『千に一つ悟りくれにゃならん、万に一つ悟りくれにゃならん。』

まさに、千にひとつも万に一つも、お筆先の刻限の数理は、悟られること無く、天理教団の暗黒の時代へと、戦争協力へと、突き進みました。
「世上の道理を、通りたがる」それは、「昼の理」がわからないからです。

万に一つでよい、千にひとつでよいから、お歌の理を、重く受け止めて、「昼」に生きること。

大切な基本です。

480基本。:2019/06/05(水) 12:44:58
明治二十二年一月十五日(陰暦十二月十四日)午後六時三十分
[本席御障りに付願]
さあ/\/\身の障り、さあ/\どういう事を知らす/\。
さあ/\身上々々善悪を分ける。身の知らせ、身上の処、善悪の知らせ。
さあ/\長くやない、僅かの間。
先ず/\十日半月の間。
席はすっきり外へ出せんで。
さあ/\あちらへ歩き、こちらへ歩きするのを、一寸の処知らさん事には。
皆んなの中へ知らし置く。今日から十日半月しっかりと用心。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このように明確な数字が示されたおさしづがあります。
このおさしづは、明治22年で、一日とは一年ですから、
「先ず」という意味で、
明治22年とは、1889年です。
この時から、「先の」、十日と半月席は表に出すな、ですから、合計三十五日、
つまり35年間は、「席は出すな」ですから、
1889年の翌年から35年の隠蔽、つまり、1990年から1925年までの間は「席」については公にしなかった。
1926年 昭和元年 おさしづ公刊
このように、きちんとおさしづは歴史に実現していて、それはつまり、神のさしづは、歴史に実現していたという事です。

この例は、おさしづを予言として「時刻を示す」という意味で教団の歴史は生きているという事を、意味しています。

481基本。:2019/06/05(水) 12:47:00
> 基本の過去の投稿までは、たぶんご存じないと思いますので、この事について基本を申し上げます。
> 親神様は、予言をされています。 > 明治二十二年陰暦十月十日の事です。

それは、次のおさしづです。

明治二十二年十一月二日(陰暦十月十日)午後九時 [本席身上障り願]
さあ/\/\、一寸知らし置くで/\。さあ/\どういう事を知らし置く/\。
すっきり道理上を知らし置く。さあ/\道理上々々々、これから道理上、暫く道理上通らんならん。
難しい。よう聞き分け置かんならん。
これまでというものは、細い道を通して来てあるで。細い道を連れて通りた。
どうもならんから、世界一つの理によって、一寸世界往還道を付け掛けたで。
そこで皆々心許す。往還道通すと、どんと油断してどうもならん。
長い間、道理上の道を通れとは言わん。何年々々の切りを切りて置こう。
さあ/\一二三々々々の切りを切りて置こう。一二三の印を打って置く。
一二三の印の間、世界の道理上で通る。道理上ばかりで通す。
ようこれを聞いて置かねばならんで。
さあ/\多くの人が出て来る。
一時どうもならんと言うて出て来る。
諭す処、暫く世界の道理上の理で通らにゃならん。
一二三の印を打ったら、神一条の道、人間の道理上を以て世界という。
人間から世界の道理上を通らんならんようにするから、どうでもこうでも、道理上の道を通らんならんように成る。
皆心で拵えてあるのや。
さあ今の道、世界の往還道やで。
そこで何でも彼でも、どうもならんと言うたら、道理上の道からどんな理が発しるやら分からん。
油断しては踏み被ぶるで/\。
そこで世界の道理上から、道理上の道を拵えるから、道理上を通らんならん。
どうでも心で拵えてあるのやと思えば、どうも仕様が無い。
そこでどうもならんから、一二三と印打つ。だん/\難しいなる。
早く知らそうと思えども、昼はさわ/\して騒がして諭する事が出けん。
どうもならん。そこで刻限で知らす。
どうでもこうでも、言わにゃならん、聞かにゃならん、聞かさにゃならん。三つ理を。
そこでちいとこれだけの事を、知らし置くという。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

482基本。:2019/06/05(水) 12:48:11
つまり、明治22年11月2日の午後九時と言うのは、
五つ時とは午後七時から午後九時までですから、つまり、
22 2(1+1) 2 の五つ時。
2222の五つに、
それは、陰暦の十月十日に、知らされた「重大な」お知らせでした。

史実としては、復元。三十年、三十年の予言で、教えの復元の予言は実現しています。
でも、それは、人類の「宗教」の因縁として自覚されるべきだと思います。

483基本。:2019/06/05(水) 12:49:38
「聖書には、先ず始めに言葉ありき」と教えられています。
デジタル大辞泉の解説によれば、
始(はじ)めに言葉ありき
《新約聖書「ヨハネによる福音書」第1章から》創世は神の言葉(ロゴス)からはじまった。
言葉はすなわち神であり、この世界の根源として神が存在するという意。
・・・・・・・・・・・・・

この事の意味ですが、「言葉≡ロゴス」なのですが、ロゴスはミュトスと対比される言葉、対句というようなもののようです。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

484基本。:2019/06/05(水) 12:50:48
『ミュトスに対して、ロゴスはある。
「空想」に対して「理性」があり、「物語る言葉」に対して「論証する言葉」があるのである。』
・・・・・・・・・・・
つまり、聖書冒頭の「先ず始めに神ありき」と言う言葉は、「先ず始めにロゴスありき」という言葉であり、
「理」があるという、意味になる。

ヨハネ伝の聖書の文言そのものが「先ず理ありき」と約されても、意味として正しく、そして、イエス様は、天にては、父なる神の右手に、いぬいの方向に位置していると言うことも、イエス様そのものから、語られている。
まさに、先ず始めに「ロゴス」あり。となる。

「神は理である、理は神である。」
「あると信じて願う誠に、見えてくる利益が神の姿である。」

それは「理」を信じると言うことであり、「理」が見えない世界とは、まさに、心の闇の世界。
おやさまが存命でおられるということは、「理」が理として、常にそこにあると言う意味をなす。

485基本。:2019/06/05(水) 12:52:27
> 《新約聖書「ヨハネによる福音書」第1章から》
> 創世は神の言葉(ロゴス)からはじまった。
> 言葉はすなわち神であり、この世界の根源として神が存在する

> 聖書冒頭の「先ず始めに神ありき」と言う言葉は、「先ず始めにロゴスありき」という言葉であり、
「理」があるという、意味になる。
これは、「先ず始めに言葉ありき」の、間違いでした。

先ず始めに言葉がある。
その言葉とは「ロゴス」であり、それは、物語ではなく「理」であること、
お筆先が、まさに、「この世は理で責めたる世界」だと、示している通り。

即ち、原典とは、「理」であって、物語ではない。

聖書と言う「こふき」を有しながら、大工のイエス様の教えを、宗教高山と政治高山の横暴で、泥海にしてしまった、
しかし、「土壌」は、あるのです。
「どぢょ」は、土台となるべき「序」は語られていて、「こふき」として、あるのです。
謙虚に、大工のイエス様の教えに耳を傾けないとすれば、それは、こちらが宗教高慢だということです。

三十一歳で「宮清め」したイエス様の、実行力こそ、天理青年の手本だと、そういう見方も、正しいと思います。

486基本。:2019/06/05(水) 12:54:12
「歌のように思っている」
「賛美する、賛美歌」

同じなのです。
山名系天理教学は、「いままでも神学こふき」と、お筆先にありますように、イエスの言葉を口記した書物を、「聖書」と美化するのも宗教高慢であるように、
「天国へのの道」とか「人間完成の道」と言うのは、みな、「ミュトス」であって、「ロゴス」でない。

何かを犠牲としてその代償に幸福を得ようという思案こそ、大工のイエス様が、お掃除したかったもの。
人は、陽気ゆさんをする為に、この世に生まれてきたのです。
陽気に暮らすには、「歌」よりも、先ずはじめに「理」「言葉」。

私たちには、お筆先があります。
原典があります。
真に、申し訳の無いことです。

487基本。:2019/06/05(水) 12:55:30
そこで、原典に知らされた戦争の予言について、別スレで語り始めましたが、お筆先を歌のように思っていてはならないという、
そういう意味を込めまして、整理しておきたいと思います。

第四号、七十七歳老女 明治7年4月。(←扉に記載)

1年目 1874年4月〜  
お筆先四号 77歳 7号 7年  4月 予言

4年目 
1877 西南戦争 
[(2月から)9月24日 西郷軍敗戦]

4+7=11年目 
1884 秩父事件 
[(10月31日)から11月9日にかけて、農民武装放棄鎮圧]

7+7+7=21年目 
1894 日清戦争
[(7月)から1895年(4月)、日本勝利]

7+7+7+4+7=32年目
1904 日露戦争[(2月6日)から (明治38年9月5日)日本勝利]

4×7=28年目 
1901年 日本初の社会主義政党。治安警察法によって禁止された。


7+7+4=18年目
1891年 足尾公害事件 第2回議会(1891年11月26日開会)田中正造議会闘争。
・・・・・・・・・・・・・

↑ このように、お筆先の扉の数理と「おうた」本文の予言は、日本の戦争、紛争をぴたりと予言しています。

「歌」のように思っていてはならない。
先ずはじめに「言葉≡理≡ロゴス」ありき、なのでした。

488基本。:2019/06/05(水) 12:57:46
日清戦争 お筆先四号の予言 7+7+7 で結果  見えた姿・戦勝
日露戦争 お筆先四号の予言 4+4×7 で結果  見えた姿・戦勝
太平洋戦争 お筆先四号の予言 (4+7+7)×4  見えた姿・敗戦

このように、勝って「昼みたいに」負けて「夜みたいに」と、
 
『夜昼知れぬ用になるぞや』

日本の敗戦は、お筆先四号の数理の世界でした。

「7」の神様の嫌いな埃は「欲」。
「4」の神様の嫌いな埃は「腹立ち」

七の組み合わせとは「欲」の原因。
四の組み合わせとは「はらだち」の原因。

日清戦争は、侵略という「欲」のトリプル。
日露戦争は、ロシアへの腹立ちのダブルに、「利権の欲」かけあわせ。

太平洋戦争は、(4+7+7)×4
腹立ちと欲と欲を合わせておいて、そこに腹立ちが、掛け合わされた。


ちなみに「西南戦争」は、腹立ち、士族の怒りが原因と、数理は、きちんとしています。

「歌のように思っていてはならない」のです。

489基本。:2019/06/05(水) 12:59:30
四号の、「五月五日」の予言の、「お筆先以前の説き流し時代のひながた」
それは、教祖伝の中に、記載されています。

「念が入ったら肉が下る」という予言です。
結果を予言していますから、開戦の予言ではなく、結果の予言を数理で知らせるという、陣地を超越した、おやさまの理の知らせとなっています。

7が三つと4が二つですから、「欲」と「腹立ち」が、原因となって、遠い将来までも、「肉が下る」。
そういう、数理の知らせとなっています。

490基本。:2019/06/05(水) 13:00:57
おやさまは、権力の情報操作に対して、このように思想を示しています。

「人間の身体にたとえて云えば、あげ下しと同じようなもの。あげ下しも、念がいったら、肉が下るようになるほどに、神が心配」

・・・・・・・・・・・・・・・・・
国民の不満を煽り立てて「4」の理の「埃」。「腹立ち」。
国民の欲をかき立てて「7」の理の「埃」。「欲」。

それが、「お払いさんがふる」と言う、宗教的マジックで薩長は明治維新を成功させた。
「欲にきり無い泥水」という、「高山」の理の間違いは、「富国強兵」に国民を、
そして、「帝国主義の天皇制」を構築します。

同様の欲があるから、天理教内高山は、戦争協力に走った。
これをとことんさんげしないと、心の闇は、晴れないということです。

491基本。:2019/06/05(水) 13:03:05
 はらだちとは、「理をたてないで、われを立てて、腹を立てる」のです。
 よくとは、「散財のない」姿。

甘露を、頂いて、それを神の理とも思わず、自分の権勢に、支配に用い、人に腹を立てて、
欲に切り無くなれば、戦争を起こしてしまう。
天理教団こそ、肉がくだらないように、いんちきな教理は説かないような、理のある姿に、立ち返るべきなのです。
つまり、情報操作も念を入れると、国民の生命にかかわるという思想です。

492基本。:2019/06/05(水) 13:04:39
予言と言いますと、何時に何が起きるという予言だと、そう認識されています。
しかし、何がおきるかは、実は人間が決める。
その、心の理の結果として、結末が待っているわけです。

「五月五日に」と言う理は、「五つ理を吹く」です。
そして「五分五分」です。

まいた種が生え来る。それが「五つ理を吹く」の五日の理です。
その、理の吹く旬に、神の残念を見ると言うのは、それは「埃」を積み上げたと言うことに相違ないわけです。
そんなことしてると、いつか、神の残念を見るよと、言うのは、「いつか」・・「五日」。
そして、それは、五分五分。
天理教信者であれ、なかれ、みな五分五分。
理には隔ては無い。

そして、五の理の神様は、くもよみさま。
情報とは「五の理」。
それを、捜査して、人の心を惑わすと言う悪は、「高山」の悪そのものです。

おやさまの、おふでさき四号の予言は、人間が、「四の理」と「七の理」を、誠として通らせて頂いたのか、
それとも、埃として通ってしまったのかと言う、結末になるのであり、
それは「夜」か「昼」かは、心次第の道と言うことです。
それには、隔て心の無い世界、情報操作に惑わされない世界が、実現されなければならない。

一列兄弟とは、実に、重い教えです。

493基本。:2019/06/05(水) 13:06:13
「高山」の「真の柱」はとふじんである。
このお言葉の意味するところは、人間社会の「幸福けにとって、銃ぬ゛異な意味を持っています。
根本的には「支配者層は、何もわかっていない」という事を意味しています。

「とふじん」=「からの人」=何もわかってない人。

何もわかっていない「高山」は、思想として「宗教」を心の支えにしている。
と、言いますか、行動原理を「宗教」においていて、自分がモーゼであろうとし、マホメットであろうとし、キリストであろうとする。

そこで、例えば「天国と地獄の紋の鍵を持つ人」。キリスト社会で言えば「法王」のような、「神のおそばに仕える人」・聖人ペテロの後継者が、いて、「神の剣を行使する人」聖人パウロの後継者が、存在することになる。
「支配層」は、神の代理人として、権威を有しているという、それが、「とふじん」社会の実態ということです。

この時、神の子イエスも「偶像」であり、「救済」という幻想を大衆に与え続けるという意味で、幻覚剤・アヘンのような役割を果たしています。
それば、「宗教」はアヘンだという意味となります。

宗教儀式は、「五輪」のように、それを見ていれば「一列」の平和と幸福のシンボルなのですが、
「マスゲーム」のようなものだと、さめて見詰めれば、この世に幸福を与えるという、とふじん的おもいあがりの、「支配層」の、地上楽園演出の道具だということは、見えてしまいます。
それゆえに、マスコミは賛美し、スポーツは実は管理されているという、現象を生んでいます。

494基本。:2019/06/05(水) 13:07:42
陰暦の正月二十六日。二月二十六日。三月二十六日。
この、一、二、三について、確かめておきます。

陰暦の正月二十六日、扉が開かれました。
さあ/\ろっくの地にする。皆々揃うたか/\。
よう聞き分け。これまでに言うた事、実の箱へ入れて置いたが、神が扉開いて出たから、子供可愛い故、をやの命を二十五年先の命を縮めて、今からたすけするのやで。
しっかり見て居よ。今までとこれから先としっかり見て居よ。扉開いてろっくの地にしようか、扉閉めてろっくの地に。扉開いて、ろっくの地にしてくれ、と、言うたやないか。思うようにしてやった。
さあ、これまで子供にやりたいものもあった。
なれども、ようやらなんだ。又々これから先だん/\に理が渡そう。よう聞いて置け。

495基本。:2019/06/05(水) 13:09:12
明治二十年三月二十日(陰暦二月二十六日)午後一時三十分
刻限御話
一寸正月二十六日、これまで話てある。
さあ/\事を始め。
二月二十六日というは、今初めやで。多く始まり、追々。
さあ/\今一時世界も分からず、世界も不思議や。
それ/\の道一寸付け掛けた。

496基本。:2019/06/05(水) 13:11:35
正月二十六日は、「今からたすけするのやで」という刻限でした。
二月二十六日は、真柱様と本席さまの神一条の開始でもありました。

明治二十年三月二十日(陰暦二月二十六日)午前四時
真之亮代理伺
幾重の話聞く。大工というて知ったは神一条、仕事場は神一条、北は鍛冶屋南は大工で、神一条。
さあ/\尋ねる処事情知らす。
又々心で知らし置く。
どうでも皆その日来るなら、働きも十貫目渡るもあり、二十貫目渡す者も皆心次第。
これ心尽せし程、目札を付けて渡す。さあ/\付けるとも。刻限事情を知らす。
大勢ではざわ付く。誰が筆執れは言わん。
さあ/\一人ではよいのやで。大層せいとは言わん。神のさしづ言わん。
・・・・・・・・・・・
この、一、二、三のうちの、二の段階については、どのようなものであったかというと、全く、神意に沿えていないものでした。

497基本。:2019/06/05(水) 13:13:48
おやさまは、世界一列をたすける為に道を開始された。(一月二十六日)
そして、大工と鍛冶屋の・本席と真柱の、おさしづに基づいての、世界たすけの道は、おやさまの神名すら説けないと言う、まさに、理に反したものでした。

謀反同様の、教団幹部の間違いについて、二月二十六日に、
親神様は、次のように、おさしづされています。

 手遅れ/\。だめの諭と言うたる道は、先になりても立つ。

明治四十年四月八日(陰暦二月二十六日)午前六時 のお言葉です。

498基本。:2019/06/05(水) 13:16:09
明治四十年四月八日(陰暦二月二十六日)午前六時
未だ御身上すっきり致しませんが、何か運ぶべき事ありますか、と申し上げ

手遅れ/\。だめの諭と言うたる道は、先になりても立つ。
内々や。
何時どういう事出来るとも分からん。
人間というは死すると言う。生まれ更わり。
何年居たとて同じ事/\。
もうこれ暫くの処、どういう事も幾年間なる。何年したらどうなる。皆力を付けてある/\。
皆々よく差し入ってくれ/\。
そうして内々の処、こうして三軒棟を並べてある。
一軒の方/\立ってない/\。立たんとすれば楽しみも無い。これも第一長らえての道、余程大望な事である。
治まり無いと言えば、有るも無きも同じ事。

499基本。:2019/06/05(水) 13:18:34
押して、三軒棟あって一軒立ってないという処、此辺如何の事でありますかと願

西に余分々々、余分は一人あるわい。一人こちらへ/\。
それが気に合わんとすれば、今限りやで/\。
ウヽヽヽヽ。
もう立て合いの日の立て合い/\、日の立て合いは正月二十六日、二月二十六日、これ日の立て合いや。
さあ/\何かの事も自由と言うてある。自由。
・・・・・・・・・・・・・・・・

理の親信仰というものがはびこって、おやさまの元の理をないがしろにした天理教の幹部たち。
おやさまは、厳しく、理を責めておられます。




掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板