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研究 原典に示された「甘露」について
山名系教理の発祥は、静岡県袋井、「行った処が袋井や」の逸話があります。
ここに、きちんとした教理研究スレを立てます。
テーマは、神の本質です。それは、ある意味「甘露」の問題です。
その為に、スレを立てる。
教理研究の為の、議論のスレです。よろしくお願いします。
おふでさき七号には、親神の心配が語られています。
月日にハたん/\みへるみちすぢに こわきあふなきみちがあるので 7
月日よりそのみちはやくしらそふと をもてしんバいしているとこそ 8
人間の将来には、怖い危ない道筋がある。それを知らせたい親神様。
それは、おやさまのそばの者には、理解されないものでした。
そばなるにいかほど月日たのんでも きゝわけがないなんとさんねん 第9号 41
とのよふな事をゆうにもみな月日 そばなるものハまねをしてみよ 第11号 74
小寒様は、おやさまのように月日の言葉を語れる。
しかし側の者は、出来ません。
でも、扇の伺いなどで、真似していた記録は残っていますが、出来ない物はできない。
おやさまの教えの聞き分けが出来ない側の者。それが、女性二人の出直しの原因とは、思いつきもしない側なものでした。
この場合、小寒・まつえは責任者、引責出直しと、見れば分かることです。
月日よりやしろとなるを二人とも べつまへだてゝをいてもろたら 5
なにゆうもそれよりしかとうけよふて たすけするぞやしかとみていよ 6
このさきハどのよなたすけするのもな うけやうのもとであるから 7
どのよふな事をゆうてもけさんよふ たしかきゝすみしよちしてくれ 8
「中山家の女」の、「巫」(かんなぎ)を承知しなかったのは「側の者」。
たすけ請合う元を、「消した」彼らは、今の山名系にその悪因縁を伝承しています。
小寒が消え、まつえが消えて、「甘露台は一列澄ます」では無くなった。
石造りは、取り払われた。このオカルト、重大なひな型です。
「鎮め石」とは、お筆先に「これで証拠の大神宮なり」とある、伊勢神宮や高千穂神社にある、地震治めの鎮め石です。
普請の時には地鎮祭をしますが、仏教においての地鎮祭でも鎮石と呼ばれる平らな石を置きます。
関西などの特定の地方によっては伊勢神宮近隣の浜から砂または塩を取り寄せ、四隅に置く場合もあるとのことで、古神道の常識としての地震対策といえます。
伊勢のご神木の土台に水晶は、以前に紹介しました。災害対策でした。
明治15年までの取次ぎ人らは、多くの講元は以後「道具は破損中」状態となり、真柱が芯だとお手入れなどで知らされた神明、明神の講元が残る程度になりました。
取次ぎ人、増野正兵衛先生は、その以後の登場です。
「模様替え」と呼ばれた、事情は、明治七年の「中山家の女」の事情を経て、なるべきしてなった事態でした。
「女は道の台」なのに、甘露台の「台」の理を粗末にした姿が、女鳴り物蹴っ飛ばした、山本利三郎さんの心であることは、明白なものです。
お屋敷においての、心の成人の鈍さとは、「側」の濁りとして、諭されてあります。
甘露台の石が取り払われた事情については、教祖伝には、こう記されています。
こうして、親神の多年待ち望まれた、かんろだいの石普請は、頓挫に次いで取り払われた。
それをばななにもしらさるこ共にな
とりはらハれたこのさねんわな 一七 38
このざねんなにの事やとをもうかな
かんろふ大が一のざんねん 一七 58
このように、親神の意図を悟り得ぬ者により、かんろだいの石を取り払われたのは、子供である一列人間の心の成人が、余りにも鈍く、その胸に、余りにもほこりが積もって居るからである。とて、
このさきハせかへぢううハとこまでも
高山にてもたにそこまでも 一七 61
これからハせかい一れつたん/\と
むねのそふちをするとをもへよ 一七 62
これから先は、世界中悉く、地位身分の高低に拘らず、次々と、一列人間の胸の掃除をする、と、強く警告して、切に、人々の心の成人を促された。
これと立て合うて、「いちれつすまして」の歌を教え、一列人間の心のふしんを急込まれた。
二段迄出来たかんろだいの石が取り払われた後は、小石が積まれてあった。
人々は、綺麗に洗い浄めた小石を持って来ては、積んである石の一つを頂いて戻り、痛む所、悩む所をさすって、数々の珍らしい守護を頂いた。
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子供である一列人間の心の成人が、余りにも鈍く →それはつまり、取り次ぐ人たちの成人の鈍さです。
「一列人間の心のふしん」を急き込まれる神意は、側の者には、教祖の死のあとの組織維持問題の案じ心の濁りでしかありませんでした。
何も知らざる子供に、教えを取り次がない、取次ぎ人のていたらく。
さんげです。
予言の書としてのおふでさきは、音と文字の二通りにて告げられています。
文字としては、
この神の残念と発生の43年の数理は、以下の15号の和歌に書かれています。
あすからハをやがはたらきするほとに どんなものでもそむきでけまい 10
いまゝでも四十三ねんいせんから をやがあらハれはじめかけたで 11
けふまてハたいてさねんもいくたびも ちいとしていた事であれとも 12
さあけふハ月日のはらがはぢけたで しかゑていたる事であれとも 13
857 :基本。:2011/03/28(月) 18:10:26.52 ID:89PbMkzB
紹介しました、15号のおふでさきには、
10番のお歌で、「明日から働く」とありますね。
13番のお歌で、「さあ今日は」とありますね。
これが、何時の事かと言いますと、これが書かれたのは、第十五号 明治13年1月より 90首 83歳
1880年の1月。
あすからハをやがはたらきするほとに どんなものでもそむきでけまい 10
いまゝでも四十三ねんいせんから をやがあらハれはじめかけたで 11
けふまてハたいてさねんもいくたびも ちいとしていた事であれとも 12
つまり、10番と12番までの間に、43年がある。
そして、13番に、「さあけふハ月日のはらがはぢけたで」とありますから、
神は立腹なのだが「控えていた」「ぢいとしていた」1880年の、翌年1881年から一年、二年と数えて、
その43年後が、
さあけふハ月日のはらがはぢけたで しかゑていたる事であれとも 13
と、腹がはじける事態となるとの予言です。確認します。
>> 刻限
>> 明治二十年八月二十五日(陰暦七月七日)夜十一時
> 時刻「夜十一時」に、「刻限」の理があります。 子 午後11時〜午前 1時 子の刻、です。
> (陰暦七月七日)は、・・教祖七十七歳の時に、を陰暦にて示していると理解します。
> 教祖77才の時のおふでさきには、「しん」の理がきちんと知らされています。お筆先3号です。
お筆先(予言)→刻限(予言)ですから、最初の教祖77才1874年→13年 の刻限1887年ですから、
・・ この刻限は1987年8月25日。
→4年2ヶ月3日後、4年3月目に、大震災でした。
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43の数理は、43年と、4年3カ月とで発現しています。
13年とは、4年×3。+3月×3で、12年9月は、13年目ですから、三段重ねかも知れませんね。
いずれにしても、おやさまは、丁寧です。
立教から三十八年、そこに何がおきたのか、地場定め。
教祖伝本文から、引用しよう。
第九号には、
月日よりとびでた事をきいたなら
かんろふだいをばやくだすよふ 九 18
かんろたいすへるところをしいかりと
ぢばのところを心づもりを 九 19
これさいかたしかさだめてをいたなら
とんな事でもあふなきハない 九 20
とて、世界治めに大切な、かんろだいの据わるべきぢばを、定めて置く事が肝腎である。これさえ定めて置けば、どんな事が起って来ても一寸も心配はない、と教えられた。
かくて、明治八年六月、かんろだいのぢば定めが行われた。
明治六年、教祖は本席さんに、かんろだいのひな型の製作を命じられています。
現在の十三段のかんろだいではなく、直径(さしわたし)約三寸、長さ六尺の六角の棒の上下に、直径約一尺二寸、厚さ三寸の六角の板のついたもので、
しばらく倉に納められますが、ぢば定めの後、こかん様の身上お願いづとめに当たり、「ぢば」に据えられ、
以後それまでの御幣にかわる礼拝の目標(めど)にはじめて定められます。
立教以来、三十八年、地場は定まった。それは、道が、八方に開くはずの旬。
しかし、八方に開くほどの霊験は高弟に高慢心を、八柱大戸辺命さまの、お嫌いな高慢心を埃としてみます。
そのターゲットは、中山家の女たちに向けられて、いたと、悟れます。
>女鳴り物蹴っ飛ばしたのは前川半三郎さんですよ〜
はい。
ご指摘有難うございました。瞬間の間違いでした。
「屋形取り払え」とのご神言により巽の角より瓦をおろしかけた史実の方、おやさまの実家の弟さんですね。
訂正します。
教祖伝より、中山家の内の者の事情は伺えます。
魂のいんねんにより、親神は、こかんを、いつ/\迄も元のやしきに置いて、神一条の任に就かせようと思召されて居た。しかし、人間の目から見れば、一人の女性である。人々が、縁付くようにと勧めたのも、無理はなかった。こかんは、この理と情との間に悩んだ。
第十一号前半から中頃に亙り、この身上の障りを台として、人間思案に流れる事なく、どこ/\迄も親神の言葉に添い切り、親神に凭れ切って通り抜けよ、と懇々と諭されて居る。
更に、第十一号後半には、秀司夫妻に対して、
ことしから七十ねんハふう/\とも
やまずよハらすくらす事なら 一一 59
それよりのたのしみなるハあるまいな
これをまことにたのしゆんでいよ 一一 60
小寒は、周囲が嫁がせようとしています。
月日の代理という、赤衣の小寒とまつえ、その実現を、妨げる周囲の側の者の意図を感じます。
小寒と、梶本の縁談を、おやさまは、許さなかったのではない。
梶本は、お屋敷に来なければならない。
小寒がお屋敷出ることを許さなかったという事は、再婚するなら梶本はお屋敷に入らなくてはならないという事。
「とのよふな事をゆうにもみな月日 そばなるものハまねをしてみよ 74」
これは、おやさまからの、側な者へのきつい、一言。お屋敷内に対するお側の無礼へのお叱り以外の何物でもない。
そのうちになかやまうぢとゆうやしき にんけんはじめどふくみへるで70
このどふぐいざなぎいゝといざなみと くにさづちいと月よみとなり 71
月日よりそれをみすましあまくたり なにかよろづをしこむもよふを 72
このところなにをするにもとのよふな 事をするのもみな月日なり 73
とのよふな事をゆうにもみな月日
そばなるものハまねをしてみよ 74
小寒は、出直すしかなかった。側のものは、小寒・まつえはいらなかった。
>結局地場やしきの神屋敷化は百年間以上も中断していたという事か?
それが、天然でしょう。
人は嫉妬深く、おやさまが親神であるということさえも、側近者も含めた信者自らが、否定する側に回った。
真柱が芯であると言う事も、高弟たちは、認めようとしなかった。
すべて人の嫉妬です。
パワーで、押さえ込むには、人間は未熟すぎて、親神はほんの百日、お待ちになっただけの事でしょう。
「九拾九年たって、皆出直し」、は、人間始まりだしの元の理です。
17号
いまゝでハなんのみちやらしれなんだ けふからさきハみちがわかるで (17-1)
このみちハどふゆう事にをもうかな かんろふたいのいちじよの事 (17-2)
おふでさきでは、17号になって、「かんろふたいのいちじよ」と、この道について説かれました。
17号以前にも、かんろふたいについては、記されてあります。
8号では、おやさまとの関係について書かれています。
しかときけをなじにんけんなるよふに をもているのハこれハちがうで 72
どのよふな事をふしへてかゝるのも もとなるをやてなくばいかんで 73
いまゝてもなにをふしへてきたるのも みなこのどふりはじめかけたで 74
にんけんをはじめたをやがも一にん どこにあるならたつねいてみよ 75
このよふなしらぬ事をばだん/\と ゆうていれどもこれがまことや 76
にち/\にしらぬ事をやない事を これをしへるが月日たのしみ 77
このよふのにんけんはじめをやなるに 天のあたゑハあるときけども 78
このはなしなにの事やら一寸しれん 月日ぢきもつやろとゆうのや 79
このはなしどふゆう事であろをなら かんろふたいにひらばちをのせ 80
ついこの間まで、おやさまは、おんなじ人間で、月日の社役しただけだと言う、
そういう、教理を信じていた。説いていた。
これは、間違いでした。
これ一つ、百年たって、わかったでしょうか。
「かんろふ」・・ 「ふ」。
「よふき」・・ 「ふ」。
「こふき」・・ 「ふ」。
「このよふ」・・ 「ふ」。
「しよこふ」・・ 「ふ」。
文字と音では、
「かんろふだい」
「かんろふたい」
「かんろふ大」
残念に関しては、「だい」。濁点、濁りがあります。
いまゝでハしよこためしとゆへあれど かんろふだいもなんの事やら 第3号 108
「かんろふ大」とは、「台ではない」大です。サイズの問題と分かります。
神社などには御神体という、言葉がありますが、「かんろふたい」の「たい」は、御神体そのものですから、「体」との文字が当てられます。
人間は、神の体、すなわち「御神体」ですから、「かんろう」を受け取る「たい」とは人の事でもあるわけです。
「だい」は、ストレートに「台」と文字が当てられます。
そふぢしたところをあるきたちとまり そのところよりかんろふだいを 第8号 83
これは、台です。「たい」ではありません。
明治八年、これからハと、話を開始されたのは、「台」の話です。
これからハなにのはなしをするならば かんろふだいのはなし一ぢよ 第9号 44
これからハだん/\しかとゆてきかす
かんろふだいのもよふばかりを 第9号 46
このはなしなにをゆうやとをもうなよ かんろふだいのもよふ一ぢよ 第9号 58
明治十五年、お筆先17号の話題は、「たい」と「だい」の話です。
17号
いまゝでハなんのみちやらしれなんだ けふからさきハみちがわかるで (17-1)
このみちハどふゆう事にをもうかな かんろふたいのいちじよの事 (17-2)
このだいをどふゆう事にをもている これハにほんの一のたからや (17-3)
神様は「かんろふたい」と「甘露台」の二つについて語っておられます。
この道は「かんろふたい一条」であり、この台は、日本の一の柱であると知らされています。
にんけんをはじめかけたるしよこふに かんろふたいをすゑてをくぞや (17-9)
ここには、「台」となっていません。「体」となっています。
そして、
このたいがみなそろいさいしたならば
どんな事をがかなハんでなし (17-10)
皆そろうということは、「台」なら、一個ですから、皆も何もない。
「体」だから、「皆そろう」なのです。そして、それは、世界一列に話題はつながります。
それまでにせかいぢううをとこまでも むねのそふぢをせねばならんで (17-11)
このそふぢとこにへだてハないほとに 月日みハけているとをもゑよ (17-12)
月日にハどんなところにいるものも 心しだいにみなうけとるで (17-13)
世界中の子供が、「かんろふ」を受ける、「たい」になる。
その事こそ、「かんろふたい」の一条の道である、この道。
そこが分からないと、「大が、一の残念」のままです。
地場の屋敷に「たい」がいても仕方ないわけで、世界中に「たい」がいなくては、サイズが違いすぎる事、分からなくては、恥です。
みき姉さんは、数理と言う誰でも数えられるもので、天理の厳密さを明示し、
一年は12月、音階は、白黒鍵盤で一オクターブ12音。四三、十二で、
四十三で、震災の数理。
そして、一日は二十四時間。三八二十四、38年は復興の数理。
お筆先は、かな文字。音と、文字で、判別させて、理を知らす。
遊び心のお姉さんだから、人は、ただの百姓女と、無学な女と誤解する。
誰にもわかるかな文字と、指折り数えられる一二三の数理で、「ふ」「普遍」の真理を諭す。
こんな、姉さん。
大好きになりますよね。
神名は、天理王命。中山みきさまと申し上げます。
同じ人間ではありません。
にんけんをはじめかけたるしよこふに
かんろふたいをすゑてをくぞや (17-9)
このたいがみなそろいさいしたならば
どんな事をがかなハんでなし (17-10)
それまでにせかいぢううをとこまでも
むねのそふぢをせねばならんで (17-11)
このそふぢとこにへだてハないほとに
月日みハけているとをもゑよ (17-12)
月日にハどんなところにいるものも
心しだいにみなうけとるで (17-13)
いまゝでハとんな心でいたるとも
いちやのまにも心いれかゑ (17-14)
しんぢつに心すきやかいれかゑば
それも月日がすぐにうけとる (17-15)
月日にハせかいぢううハみなわが子
かハいいゝばいこれが一ちよ (17-16)
肩というのは、大戸辺命様の「戸」と、月読命様の「月」の文字の組み合わせです。
五十肩というのは、年齢の数理で言うと、秋です。つまり大戸辺命様の守護の理の季節。
お分かりのように、埃は「高慢」です。
直接の対話ですので、先ず一言、。。。
> 取り払われた十三段の石のかんろだいが揃いえば
これは、間違っています。教祖伝には、こう書かれています。
かんろだいの石取払い:
五月十二日(陰暦三月二十五日)、突然、大阪府警部奈良警察署長上村行業が、数名の警官を率いて出張して、二段迄出来て居たかんろだいの石を取り払うて、これを没収し、更に、教祖の衣類など十四点の物品をも、併せて没収した。
差押物件目録(註一)
一 石造甘露台 一個
但二層ニシテ其形六角
上石径二尺四寸下石径三尺二寸厚サ八寸
一 唐縮緬綿入 一枚
一 唐金巾綿入 一枚
一 唐縮緬袷 一枚
一 仝単物 弐枚
一 仝襦袢 弐枚
一 唐金巾単物 一枚
一 縮緬帯 一枚
一 寝台 一個
一 夜具 一通
但 金巾ノ更紗大小貮枚
一 敷蒲団 但坐蒲団ヲ云 一枚
この事は、談話室12にも、引用して書いておきました。
あなたは、知らぬことを知ったかぶりして、「取り払われた十三段の石のかんろだいが」と、書いた。
知らぬことを知ったかぶりするのは高慢です。
さて、私は、「普通に拝読していない」、教会長でありながら教祖伝での確認もしない、と言う事は、
ほとんど無知な人に、解説しなければならないわけで、わくわくします。
① 「ざねん」と「ざんねん」の違いもあるのかということと、それが「大 台 体」に対しての違いの内容は?
② 言葉を追いかけ過ぎますと、どっかおかしくなりませんか?
先ず②からお答えします。
言葉は、お筆先にきちんと書かれていて逃げません。逃げないので追っかけません。
お言葉は、一言万巻、「根をほれ」と言われているので、一言づつにこだわって、研究するのは、基本の普通なので、それがおかしいといえばまるでおかしい私の研究です。
甘露台の石を、警察から戻したのは、競艇の創始者・笹川さんです。
カチカチ用心の、CMしていた、爺さんです。
> 、「十三段の石のかんろだいが揃えば…。」と言えば良かったですね。
では、13段の石の甘露台が揃えば、という日本語、変だと思いませんか。
13段は、積み上げるもので、一段二段と、積まれた。
十三段なら、石が積まれたらとなります。
今から仕事で、カラオケ教えますので、「揃える」とは、「台か体か」、
言葉としての自然、不自然、よくよくご思案下さい。
「ざねん」は、ダイレクト、直接月日。
「ざんねん」は、幾つも幾種類もある。一番のとか二番のとか、そういうざんねんのレベルの違いがある。
月日の心からfromの残念もある。
月日の心の in the mind of の残念もある。
the greatest regret.もある。
つまり、「ざんねん」には「ん」がある。「ん」の本字は「无」であり、意味は「無」。
「ん」=「无」=無がつけば消せるもの、そう簡単に消せないものは「ざねん」。
そのように二代真柱は、英訳時に使い分けておられる。
恐るべしは、巫女・真柱である。
> アホは神の望みとか申しますが、こんなアホはあかんみたいやね(笑)
いいえ、良いんじゃないですか。人が好けば神も好くのですから。
だって、ぼちぼちさんは、突っ込んでくれるから、書かないことまで書けるわけで、ありがたい事です。
基本にすれば、こんなこと書いても分からないだろうなと、余分には書かないわけで、
それを、書けば、皆が読むわけで、突っ込んだぼちぼちさんには、分からなくても、中には分かる人も、大勢いるわけで、
「たい」を揃えるには、一列を澄まして行くしかない。「一列澄まして甘露体」という人間になるのは、必要なことは、胸の掃除であり、親神様を信じることと言う、当たり前が、きちんと位置づけられるわけです。
今までは、十三段の石を積んでくれない、真柱に、作業開始は何時なんだと文句たらたら。
これからは、一列を澄ますために、自分が、悪しき払いをする事の、自己責任に目覚める人が、ゼロではなくなる、
良い事です。
> 明治2年に、教祖はお筆先一号を書かれて、知らされた。
> このたびハはやくてをどりはじめかけ これがあいずのふしきなるそや 一号15
> このあいずふしぎとゆうてみへてない そのひきたればたしかハかるぞ 一号16
> そのひきてなにかハかりがついたなら いかなものてもみながかんしん 一号17
> みへてから説いてかかるハせかいなみ みへんさきからといてをくそや 一号18
> このさきハ上たる心たんたんと 心しづめてハぶくなるよふ 一号19
> このハほくむつかしよふにあるけれと だんだん神がしゆこするなり 一号20
>
> このよふハりいでせめたるせかいなり なにかよろづを歌のりでせめ 一号21
昭和3年当時の解釈は、明治政府よりのもので勤皇思想まじりでした。
それでは、「書き文字であるおふでさき」の、一語一語に留意して、澄むと濁るを思案して、
ひながたに明示された、明治政府の「王政復古」とは、「祭政一致」の提唱であり、皇上への人民総奴隷化計画とも言える「大教の詔」こそ、維新の目指したものであった事実を踏まえて、一号の15から20の解釈の基本を述べてみる。
『このたび、慶応3年にお払いさんが降るとの情報戦略の行われた、人為工作による「偽世直し」のあった、この時に、親神は十二下りを教えはじめる。
明治3年には「よろづよ八首」を序として加えて、てをどりをきちんと教えるので、この重大な旬に、よろづよと十二下りの、つとめ、手踊りを急いで開始するようにせよ。』
『慶応3年のお払いさんが降るという事情に対して、てをどりの勤めを開始するのは、これが合図となって、「節が来る」、と言う不思議となる。』
『このてをどりの開始の事は、てをどりにて病人が助かる、おつとめの不思議な事を、「不思議だ、不思議だ」と言って、「節が来ると言う事が」見えていない。』
『大きな節が来て、明治政府の立役者たち、上の者の実態が見えたときに、確かに分かるのである。』
『お筆先に知らされた、「早く手踊り始めかけ」と言う合図の予言が、その日が来て、ああ、この事を予言していたのか、と分かる時には、皆が感心するであろう。』
『この先、将来は、上たる心はだんだんと、心の乱れを鎮めて、悪事の元を省いて、和睦が出来るように、』
『この高山の上のものの和睦は、難しいような状態にあるが、だんだん、神が守護する。』
このよふハりいでせめたるせかいなりなにかよろづを歌のりでせめ 一号21
このように、解釈されます。
明治維新の当時に、教祖は、慶応3年には、高山の情報操作を、「念がいったら肉が下る」と言われていました。
身の内にての、「肉」→「にく」、とは、世界にての、「くに」→「国」という理の事。
情報操作も念が入ったら、肉が下るとは、つまり、国が下る、「敗戦」と言う事を、予言されていました。
///////////////////////////////
(引用の続き)
明治維新の当時に、教祖は、慶応3年には、高山の情報操作を、「念がいったら肉が下る」と言われていました。
身の内にての、「肉」→「にく」、とは、世界にての、「くに」→「国」という理の事。
情報操作も念が入ったら、肉が下るとは、つまり、国が下る、「敗戦」と言う事を、予言されていました。
このおふでさきの執筆された明治2年には、
明治2年に、教祖は38日間の断食をしています。
明治2年の、38年後、明治41年に天理教は一派独立しました。
明治41年の、38年を経て、昭和20年に天理教は、終戦奉告祭をしました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
終戦奉告祭 つまり敗戦です。国が下った。
おやさまの数理は、ここでも予言として、38年、38日の断食と理は一つに、予言が実現していますが、
澄むと濁るで悟らないと、きちんとおふでさきは、読めるものでは無いと思います。
38年以前にて立教した。
しかし、その親神の教えは、内からしても疑うばかりであった。
それが、38年の数理です。
大震災、敗戦。これらは、おやさまによって予言されていながら、天理教の内側の人間の誰一人も、真剣に教えの根を掘ってこなかったと言う事です。
ただ、真柱のみは、その意味、数理を承知していた。
そして、二代真柱は、英訳お筆先ではなく、「英文おふでさき」を公刊されて、世界の人に、正しい教えを伝え残されています。
二代真柱は、海外、世界の人々に正しくお筆先を伝えなければならないと、そう、周辺には常々に語られていた。
第3号 7
これからハ水にたとゑてはなしするすむとにごりでさとりとるなり
は、「語句の清音」「語句の濁音」で、悟るようにという、「英文になる」。
真柱の能力を、理解できない山名系の学者、天理教おやさと研究所の学者では、何も分からないのです。
そこを、きちんと分かって、山名系の学者の洗脳を解かねば、ガラパゴスの化石教理です。
「かんろふ」・・ 「ふ」。 「よふき」・・ 「ふ」。 「こふき」・・ 「ふ」。 「このよふ」・・ 「ふ」。 「しよこふ」・・ 「ふ」。
文字と音では、 「かんろふだい」 「かんろふたい」 「かんろふ大」
「ふ」、この文字と「Fu」の音。
それが、とても深い意味を持っているのではないかと、いつも思案しています。
「ふうふう」「なむなむ」
「よふき」の、ここにも「ふ」があります。
「ようき」とは、どう違うのか。
「ふ」なら、風の神と云う、理に直結しています。
「てふてふ」と書いて「ちょうちょう」と読むのが、文語です。
文語の「ふ」は口語の「う」だと、それは、普通の国語ですが、おふでさきでは、きちんと使い分けられています。
話は、予断しますが、子供向けの物理学のサイトを紹介して、馬鹿にしてると叱られた事が在ります。
あそこに、三原色のはなしがあって、素粒子の三原色の。
そこに、「白」が出てきます。
つまり、「ふ」が出来る瞬間を説明してくれています。
3×3なのに、=9にならないで、8になると云うのです。
それは、「しろ」が出来ると言う事、無色と言う事ですか、・・
覗いて見ておいて下さい。
本題に戻りますと、
> 『このよふのはじまり』と『このよふの元はじまり』とは違うととらえていいのでしょうか?
と、云う事ですが、おふでさきには、複数の表記がありますよね。
「もとはじまり」と「このよふのはぢまりだし」の、「じ」と「ぢ」の相違については、過去に申し上げた事がありますが、
「始まり」と「初まり」、つまり、開始はサ行、初は、タ行。
この意味が相違します。
「このよふのはぢまりだしハとろのうみ そのなかよりもどちよばかりや」 4豪122
このおうたの場合には、どろうみからの初まりですから、「ぢ」、なのですが、・・・
実は、
「このよふを初めた」は、なぜ「はぢめた」ではないのか、思案中です。
それは、一二三、の理ではないかと、思案しています。
もう少し、精査します。
> 『このよふのはじまり』と『このよふの元はじまり』とは違うととらえていいのでしょうか?
基本的には、違うものととらえています。
一つは傍陽気さんが言われているように、自分自身と云う個々の人間においての、元始まりがあるからです。
たぶん、古い順に並べると、三者の関係は、
元はぢまり → 元はじまり→ はじまり。
この様になると思います。
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こういう、お筆先の理解の仕方は、私は、二代真柱様に手本をみて、そのように読ませて頂いています。
能力者の真柱様には、象とアリ以上の差がありますので、到底及びませんが、おふでさきは平かな、私の程度でも、
ある程度までは、掘ることもできますので、少しづつ、深めて行っています。
>英訳したのは真柱ですか?井上昭夫さんでは?
>それはそれで善いんじゃない?
>まあ…その…あれや。
>井上昭夫さんを見込んで仕込まれたのが二代さんなんやから。
>「さねん」「ざねん」「ざんねん」を直訳したのではなく、全体の流れから訳されたとは思うけどね。
>気になったのは good better best みたいになってるのかな?ってことやけど、英訳羅列されても解らんわ…。
>それと、英訳したおふでさきをもう一度和訳したらどうなるんかも気になります。
>おふでさきの内容とは違ってたりして…。
>アホは神の望みとか申しますが、こんなアホはあかんみたいやね(笑)
井上先生では、何も分からないのです。
その前提で、学ばれたら、すべてが参考書になると思います。
さて、昭和50年5月24日 ひながた甘露台据えかえの儀。立教138年です。
その西暦1975年を1と数えて、38年は、2012年。今年です。
おやさまが、お風呂を出てひょろめかれた、「世界のよろめき、世界のひな型」といわれたのは明治20年1月1日。(陰暦12月8日).
明治20年から起算すると、1887年を1として、125年は、2012年今年です。
そして、二代真柱が、英文の筆先の教えを、英語で、世界宗教者会議にて、お話したのは、昭和45年10月16日。
その年、西暦1970年を1として、数えると43年は、2012年、今年。
みなが、真柱を馬鹿にして、「インポ」だとか、「不能」だとか。
教えを、功績を、能力を、役に立てていないのは、全天理教幹部と教会長。
TATENUIの先生は、世に示して下さっているだけでも、すばらしい。
ありがたさに涙が出ます。芯を見失っては、心の闇路です。
おやさまは「判じ物」がお好きだった。
普通に言う、パズル・なぞなぞの類ですね。
その意味は、お筆先が、「わかる人にしかわからないように」という、心しだいの理の書物であるからです。
お筆先には「根を掘る模様、何でして出ん」とありますが、表面に見えていない、表面ではわからない、地下に根がある。
それを掘り出すようにと言うことで、言葉のなぞ、言葉の奥、その奥の奥を掘り起こさないと理解は、薄い山名系の上っ面の教義になります。
「秘伝」「家伝」を教えようと言うのですから、誤解のわなは、しっかりしかけられています。
はや/\としやんしてみてせきこめよ ねへほるもよふなんでしてでん
第5号 64
第5号 85
このよふのもとはじまりのねをほらそ
ちからあるならほりきりてみよ
Kono yo no moto hajimari no ne o horaso
Chikara aru nara horikirite miyo
I shall let you dig up the root of this world's origin. If you have the strength, do your best to dig it up.
この世の元初まりの根本を了解させよう。力の限りやってみるがよい。
おふでさきは、「理」の書物ですから、「論理学・理科・数学」で言うところの、「用語の定義・語句の用法の定義」をきちんと示して、その意味で誤解はきちんと排除しています。
それは、お指図でも、同様です。
人間の歴史では「音」が先にありました。生まれた赤子は、「音」であり文字ではなく、言語を習得します。
つまり、「ローマ字お筆先」は、音です。音としてのお筆先の読み方の記録ですから、
これが、「定義の基準」になるのは、人類史の普通です。
第3号 108 では、甘露台と音は示しています。
いまゝでハしよこためしとゆへあれど かんろふだいもなんの事やら
おやさまの教えでは、おふでさき12号に、「大切なたすけ」について理が知らされています。
またゝすけりうけ一れつどこまでも いつもほふさくをしゑたいから 96
このみちをはやくしこもとをもゑども 一れつ心わかりないので 97
せかいぢうどこにへだてわないほどに 一れつしやんしてくれるよふ 98
「りうけ一れつどこまでもいつもほふさくをしゑたいから」という、「たすけ」とは、お筆先には次のように理を責められてあります。
第12号 101
このたすけ一寸の事やとをもうなよ これわにほんの一のこふきや
おやさまは、一に百姓たすけたいと、道の順序を示されましたが、それを身分階層に勘違いした山名系の誤解もあって、「一に百姓たすけたい」とは、まさに「いつも豊年」という守護の事だと、ちゃんと理解されなかった黎明期でした。
みかぐらうたにも「正月 肥のさづけ」と理は歌われています。
日本の一のこふきである「いつも豊年」という道筋に、今私たちは立とうとしています。
おふでさき12号に知らされた、理の責めを、素直に胸に治める時が来ているわけです。
第12号 101
このたすけ一寸の事やとをもうなよ これわにほんの一のこふきや
「日本の一のこふき」については、このように知らされてあります。
第12号 102 これさいかはやくしいかりみせたなら とのよな高いところなるとも
第12号 103 こればかりにんけんハさでないからに 月日ぢうよふそむきでけまい
つまり、「いつも豊年」になることを、して見せることが、高山を素直にさせる道だと、示されているわけです。
仮に力比べで言うならば、「豊年比べ」こそ、高山とにほんの、日本必勝の道だと言う事です。
それには、お筆先では、このような理の責めです。
しんぢつに心にさだめみなついて 神のゆう事そむきなければ 99
それよりも月日の心しいかりと うけとりしだいたすけせきこむ 100
そこで、真実の心定めが皆付くと言うのは、誤解されがちなので、英文おふでさきで正解を示しますと、
If a true resolve comes to your mind, and you do not turn away from the words of God,
つまり、「全員がと言う様な皆」ではなく、「皆・全てにおいて」という皆であり、
お前の精神に「 a true resolve 」が、「come」したら、です。
「にほんのこふき」「にほんの一のこふき」とは、この場合「子富貴」であり、それは、「一人づつ」です。
自由貿易を求めて、開港を迫る軍事大国アメリカ。
それは、日本に、没落する産業を生みました。
その難儀を、自らが、難儀の中に飛び込んで、ひながたとする。おやさまの思想です。
貧乏の中で、賭博に誘われてはまってしまう、兄。秀司。
それを、浪花の街に、拍子木を叩いて、神名をながし、兄をさがす小寒。
ここに、谷底せり上げの、隔て無きろくぢの思想があります。
南無 天理王命。
これこそが、おやさまの、高山のとふじんへの、闘う姿勢そのものでした。
中山家の母屋の買い手が見つかり、いよいよ母屋取毀ちの時、
「これから、世界の普請にかかる。祝うてくだされ。」と、おやさまは、仰せになり、いそいそと、人夫たちに酒肴をだされている。
白人の世界の中で、奴隷の立場にいたアメリカが、独立戦争を経て、列強の仲間入りをすべく、アジアの門として、日本に開国を迫った。
それは、まさに、谷底せり上げの世開けの到来であった。
嘉永六年。おやさま56才。
ひながたである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
唐人お吉の仕えた、ハリスこそ為替差益で暴利を貪った張本人との事です。
> おふでさき第2号執筆当時のお屋敷や周辺の人の中には、黒船来航を知っていた人がいてもおかしくはないと思うのです。
そうですね。国民の最大の関心事だった、知っていたと思います。
黒船が来航したと言うことは。
でもその意図が、日本の思想と根本的に異なる思想であり、思想的経済的に日本を奴隷化するものだとは、
そこまでは知っていなかった。
明治2年は、お筆先執筆中です。1月23日 薩長土肥の四藩、率先して版籍奉還。明治政府が開始されたわけです。
第2号
これからハをくハんみちをつけかける せかいの心みないさめるで 1
上たるハ心いさんでくるほとに なんどきにくるこくけんがきた2
「心勇んでくる」→ 日本の富国強兵が開始される。 → 困難時が来た。
明治二年の外務大臣は丸山作楽、平田神道の門下生で、純粋な国粋主義。武闘派。
明治維新によって政権奪取に成功した、維新の志士たちは、日本を西洋に追いつけ追い越せで、
勇んで、政権を固めはじめたのが、明治二年。おふでさき二号。
これからハからとにほんのはなしする なにをゆうともハかりあるまい
31
とふぢんがにほんのぢいゝ入こんで まゝにするのが神のりいふく
32
たん/\とにほんたすけるもよふだて とふじん神のまゝにするなり
33
このさきハからとにほんをハけるてな これハかりたらせかいをさまる
34
そこで、話題は問題のこのお筆先になります。
おふでさき執筆以前の出来事は、144から書いて来ました。
旧約聖書思想を、原理主義的にそのまま実行し、日本の金を為替差益で盗み取り、「にほんをままにした」。
それを、神はお怒りであった。が、そこで、「家のこぼち染め」。
「難波の神名流し」。日本の谷底せり上げを、庄屋・中山家そのもので、ひな型として、
道を示されたわけです。
実は、明治二年には、庄屋制度が、政府によって廃止されています。
自営自立の経済から、奴隷谷底経済に仕組みを構築する、明治政府の「唐人化」は、
このおふでさき執筆時です。
そして、おふでさき執筆後のことになります。
米国による、日本支配は、今の課題です。
ちなみに、幕府要人なんかの場合は「オランダ風説書」を通して、黒船来航を事前に察知していたことが分かっています。
自由貿易を求めて、開港を迫る軍事大国アメリカ。
それは、日本に、没落する産業を生みました。
その難儀を、自らが、難儀の中に飛び込んで、ひながたとする。おやさまの思想です。
貧乏の中で、賭博に誘われてはまってしまう、兄。秀司。
それを、浪花の街に、拍子木を叩いて、神名をながし、兄をさがす小寒。
ここに、谷底せり上げの、隔て無きろくぢの思想があります。
南無 天理王命。
これこそが、おやさまの、高山のとふじんへの、闘う姿勢そのものでした。
中山家の母屋の買い手が見つかり、いよいよ母屋取毀ちの時、
「これから、世界の普請にかかる。祝うてくだされ。」と、おやさまは、仰せになり、いそいそと、人夫たちに酒肴をだされている。
白人の世界の中で、奴隷の立場にいたアメリカが、独立戦争を経て、列強の仲間入りをすべく、アジアの門として、日本に開国を迫った。
それは、まさに、谷底せり上げの世開けの到来であった。
嘉永六年。おやさま56才。
ひながたである。
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唐人お吉の仕えた、ハリスこそ為替差益で暴利を貪った張本人との事です。
米国の経済支配の お筆先執筆以前が、そこでも、同じ話が説かれていたとわかります。
{ 「大教宣布の詔」
1月3日 大教宣布の詔(1870年)
明治新政府は、古代の王政に復古する立場から、祭政一致をとなえて神道を国教とし、
1968年に神仏分離令を発して従来の神仏習合の風習を改めた。
さらに新政府は翌年には神祇官を太政官の上位におき、1870年(明治3年)のこの日、大教宣布の詔(みことのり)(大教=神道を国民の間に広めるためという天皇のおおせ)を出した。
翌年には皇室の祖先神を祭る伊勢神宮を頂点とした神社制度を設けた。これにより、神道は国家の精神的支柱となった(国家神道)。}
明治政府のめざしたものは「祭政一致」。
神道は、「国教」。
伊勢神宮を頂点とした神社制度。
慶応から明治にかけて、経済を握る高山は、「浪人・浪士」を資金援助し、凋落していた朝廷を祭り上げて、日本と言う国家を、列強に伍する経済・軍事大国に作り上げようとした。
既に、中国・朝鮮への経済覇権をめざしていた。
そのためには、その高山の意思を代行する能力ある強い政権の存在が急務であり、天皇への王政復古と言うナショナリズムを鼓舞する事で求心力を高めて、天皇1極に全ての権力を集中させた、「祭政一致」を理想としたのでした。
おやさまが、これも裏から教えていたと言う、神仏混融の「民間に伝承」の旧来の宗教思想に対しても、「国教=天皇制」により、支配を計ったのです。
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米国聖書原理主義という外来の唐人に対抗し、天皇現人神にて対抗する国産の唐人と、そう見たらわかります。
このスレッドも、僅か2年余りで大団円を迎えてしまいましたので、もう書き込み出来ません。
基本さん、ご苦労様でした。
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