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消えた山形 情報掲示板
懐かCM
>作者さま
最終的に住んだ天童市や山形だけに限らず、一極化が進んでるようですね。
ら・らポートとか、一つの場所に複数の店舗が集中してる、っていう。
個人的には、昔WINKのコンサートチケットをプレゼントしてくれたヤマザワに
頑張っていただきたいものです(笑)
>ゆきさん
X・Oも無くなりましたか(^^;
ここ何年かで、関東とか関西の大手チェーンが進出してきましたからねえ。。。
駅前通りの蔵王会館や、駅前地下の千代田会館、通称「地下千代」も逝きましたし。
あと懐かしのCMのお話しても良いでしょうか?
米沢の漢方は殿堂入りとして、上山の黒田漢方、サンヨー薔薇チェーン、
サンコーでケンコー、阿部衣料へレッツゴー等々も思い出されるところです。
焼肉レストランかかしも忘れずに。。。(笑)
温泉
温泉情報ありがとうございます。
小さな温泉の多い山形ですが、栄枯盛衰がありますね。
山形と上山の間には、あと竜王温泉があります。
ちょっと変わった面白い温泉でした。
西蔵王は、現在の展望台のあたりに西蔵王ガーデンと
西蔵王山荘?の2軒の宿泊施設がありました。
初期の有料道路の通行料は700円だったように思います。
料金を見て引き返す車が続出し、値下げになったようでした。
西蔵王の谷間の村と有料道路
西蔵王有料道路は野草園と三本木沼の辺りから蔵王温泉まではほぼ一本道なので、料金所で通行料を払えば近道を通してくれるものでした。
もともとは、
県庁近くのイーグルゴルフの辺りから八森、土坂、神尾のある西蔵王の谷間の村の区間も有料道路だったようです。
700円が通行料だった時代は、神尾、土坂、八森も有料区間だった時代の料金でしようか。
奥の高い山が龍山で頂上の高度が海抜1300mちょっと、手前の名前が不明の低い山を越えると電波塔、三本木沼も西蔵王高原の谷間の村も龍山と手前の低い山の間にあります。
有料道路にしては出入り自由なので、野草園と蔵王温泉の間を通る人だけが料金を払っていたのでしようか。
三本木沼から、休暇センター、ウェルサンピアなど中桜田、ついでに西蔵王公園は低い手前の山の市街側の斜面にあります。
この道路が、三本木沼と中桜田を結ぶ道路が、1981年の三本木沼と蔵王温泉を結ぶ道路の着工前からあると、西蔵王公園の有料道路は蔵王温泉への近道だけの意味になります。
十字屋閉店
今日、十字屋山形店の閉店が発表されましたね。
出店した70年代前半には、駅前にはニチイや十字屋、ダイエーがあり、七日町には、大沼と丸久松坂屋、ジャスコと規模が小さい長崎屋や緑屋があったのに、残すところは大沼だけになってしまうのか。
当時は七日町もだけど、特に地下道から直接入れる十字屋とか出来て駅前がすごく発展してきたなと子供ながらに思ったものでした。
こまどりのお話など
こんにちは。1980年入学の工学部OBです。こまどりは、「常連」と自称してもいいくらいかなと思っています。
最初に話題に出ていたこわもてのご主人のいた「駒鳥」は、七日町5-10-55(タバコ屋さんの隣)にあった、小さな飲み屋さんでしたが、煮込みの味は知る人も多かったはずです。今は空き家になっています。
そこから1980年の12月に、のれん分けの格好で、七日町4-7-14に開店したのが「こまどり」もしくは「柳町のこまどり」で、山大関係者の二次会などにもよく使われたので、ご記憶の方も多いでしょう。少し前の書き込みで店の写真が載っているのも、この「柳町のこまどり」です。が、
惜しまれつつ2016年の3月に無期限休業しています。
「駒鳥」のほうは、その後、1990年代に、七日町2-2-11(三鴻深瀬菓子店のあるほう)に移転しましたが、さらに2014年か15年ころ、何と花小路(七日町4-16-23)に再移転して、現在もなお営業中です。こわもてのご主人ももう80代くらいになるのではないでしょうか。すっかり白髪頭なのはお見受けしてます。変わらずに煮込みと焼き鳥のお店ですが、今は焼きそばとかもやってるみたいです。
そのほか気のついたところでは、福家食堂の並びの自転車屋さんは「富輪商会」さんで、向かいの「東湯」さんは、1981年か82年に廃業されたと思います。
十字屋
山形店が最後の十字屋とは知りませんでした。
発表後すぐにセールに入っているみたいですね。
長い歴史が終わろうとしていますが
十字屋が去った後はどうなるんでしょうね。
ずっと昔、トミカやマッチボックスのミニカーを買うために
十字屋とシバタモデルを行ったり来たりしたのを思い出します。
To 熊パンチさん
熊パンチさん、「こまどり」について、貴重なコメントありがとうございます。
七日町5-10-55をGoogleでみたら、「旅館・今野屋」となっていましたが、そのあたりでしょうか。
私は、山大1970年理学部入学で、熊パンチさんより10年早いですね。「こまどり」は、常連とまではいきませんでしたが、相当の回数を通いました。
東原町のゴキブリ長屋からJazz喫茶の「フランセ」によく行きましたが、その途中に「こまどり」があったように記憶しています。パチンコの「山形ホール」で大勝利した時は、豪華に「辰寿司」に、負けたときは貧相に「こまどり」に寄りました(笑)。コーヒーが100円の時代でした。
こまどりの店内は狭く汚く、煙モウモウ。コワモテの親爺がステンレスの器具で燗付した日本酒をコップに注いでくれました。
50年近く昔の話ですが、「こまどり」の、狭く汚い店内、コワモテの親爺の顔、モウモウとした煙、強烈な日本酒の臭いだけは覚えています。
駒鳥のお話・追補
>善太郎さん
私のメモが間違っていたようで、往時の「駒鳥」は、七日町4丁目1-28あたりだと思います。2015年現在のストリートビューで見ると、話題になっていた「辰すし」さんと、私の記憶にある「うのたばこ店」が確認でき、その間に異常に古びた建物がありますが、これが「駒鳥」かと思います。もう少し新しい版のストリートビューでは、タバコ屋さんやほかの古い建物もろともとりこわされたようで、駐車場になっているように見えます。ここも「消えた山形」入りでしょうか。
「ふらんせ」は、山交ビルのそばの「OCTET」、米沢市の「マイルス」と並んで、山形市のジャズ(喫茶)文化のリーダーみたいなところだったと記憶しています。こちらが七日町5丁目になるんですかね。井上コルク商会さんとか、古めかしい銃砲店さんとかの並びだったのではないかと思います。
私の下宿も東原でしたので、きっこーへい醤油さんの向かいの郵便局のわきの道を「下って」いって、「ふらんせ」や「駒鳥」、「栄屋本店」を通って、八文字屋やら七日町界隈へ行くのがコースでした。今はなんというか、コインパーキングだらけというか。。。。
1980年地図
1980年当時の地図では、話題の一角は西より
・山上時計店
・とんかつタイガー
・スナックウィスパー
・駐車場
・会田クリーニング
・こまどり
・辰寿司
・バー美京
・スナック和幸
・宇野タバコ店
となっているようです。
こまどり再び
ほぼ50年前の記憶を辿るのは、相当に厳しいものです。
もうすぐ70歳の私の頭の中で、「辰寿司、こまどりの通り」と「フランセの通り」が混在していました。別々なのですね。
もう一つ北側の通りに、大きな喫茶店「王城」がありました。
「こまどり」が、「辰寿司の隣」とは、意外でした。それも、向かって左側が「こまどり」だったのですね。
2015年撮影のGoogleでは、辰寿司の隣はコンクリの建物となっていますから、当然、「こまどり」の建物もまた「消えた山形」なのですね。感慨無量。
この通りを七日町方面に行くと、大沼デパートやジャスコの交差点ですよね。
「ふらんせ」には、週一以上に通っていました。たしか「好楽」や「13号線」などのパチンコ屋さんのあった通りです。車も少なく、好きな通りでした。このJAZZ喫茶は「松屋」とかいう質屋さんの隣で、現在は駐車場になっているようです。この通りを行くと、「レモン(現在はモスバーガー)」という喫茶店と「パチンコ・山形ホール」、「ハチヤ本店」に着きました。
別の「三河橋」というブログで、「ふらんせ」の記事があり、ママの娘さんがコメントしており、ママは、現在、山形駅近くで店を開いているそうです(「山形 フランセ 喫茶」で検索)。
「OCTET」には、数回行きました。巨大なスピーカからコルトレーンが大音量で流れていました。
工学部の悪友が米沢にいて、「マイルス」にも何度か行きました。
熊ぱんちさんの「山形のジャズ(喫茶)文化のリーダー」との表現には、なるほどと思います。
作者さん、熊ぱんちさん、ありがとうございました。
ふらんせ
確かに「ふらんせ」は地図上でも質店松屋の西隣で、おばこ寿司との間に
書かれていました。野木さんというお名前も見受けられます。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0001925.jpg
octet
octet
https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0001926.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0001926_2.jpg
山形的居心地の良さについて
OCTETが健在だというのは、今回初めて知りました。最近は、駅からなまじ近いがゆえにスルーしていたところもありました。ちょっと反省。しかしそう考えると、山形のジャズ喫茶って本当にグレード高かったんですね。
さて往時は、テレビは民放二局、ゲーセン文化はようやっと始まったところ(ブロック崩しからインベーダーくらい?)、電話は公衆電話でスマホは当然なし、仙台や福島ははるかに遠く、東京へ行くなんて大事業。。。となると、
呑みに行く
喫茶店でだべる(けどジャズ喫茶だと怒られる)
パチンコ
本屋(特に古本屋)
ウインドーショッピングという名のひやかし
映画(割高だったのでなかなか行けなかったけど、行けば根性で2周くらい見る)
「ういずy」片手にそんなところをへめぐるなんてのが、休みの(休みでなくても、ですが)過ごし方だったような。なんか皆様の書き込みを拝見してますと、昨今はそういう「居心地のいいタコツボ」的な場所が、狙い撃ちで消えていってるような気がします。
そういや、「とんかつタイガー」も、タイガービルになってましたし、この辺で現存する古いとこっつーと、「松源」さんくらいですかね。「ごりら」ってまだやってる?
純喫茶「ポール」、「白馬」、冬になると出現する渋谷食品店さんの「大福まんじゅう」(あじまんとはちょっと違う)なんてのも浮かんできました。
諸般の事情で、「閉じた」空間になっていた山形の、閉じていたがゆえの居心地の良さというか、そんなものがちょっと気になっています。
表示
URLが2通りあるのですが、fc2の方は何故か更新できなくなっています。
http://ht9901.zouri.jp/ の方でご覧ください。
http://ht9901.zouri.jp/
97年は無かった登って行く道路
消えた山形の桜田のジャストとリカー桧と芸工大近くを見ました。
芸工大は92年から開校してたのに、99年になっても芸工大の前にすすきの生える場所が残っていたのが意外です。
97年の地図を見つけました。
今もコンビニで最近の地図が売ってると思います。
つまり96年か97年の地図を97年末に買ったものです。
西蔵王公園と植物園と料金所とガーデンというホテルがあります。
そして何と、
中桜田から三本木沼へ登って行く道路が書いてない。
今の地図には当然書いてあるはずです。
西蔵王のガーデンのホテルはNHK電波塔から展望台に入った辺りで、
今のセブリバの辺りです。
2005年の10月たぶんネットでは8日か9か5日にセブリバの前は花壇と芝生になってますが2017年6月17日に私が到達したセブリバと展望台の辺りでは道路と同じアスファルトで舗装でした。
三本木沼の別荘かペンションは21世紀に分譲されたとか登って来る道路も今世紀に出来たとネットでも見かけました。
97年の地図では県庁近くのイーグルゴルフ近くから三本木沼と植物園の料金所まで有料なのに料金所は植物園の近くだけでした。
今年に私は自転車で植物園から童の里まで行って、
トンネル昭和58年6月、蔵王堀田へ一つ目の橋が1984年2月、
二つ目の橋が1984年12月とプレートの標識は目安ですが82年から84年に土坂や神尾方面と蔵王堀田蔵王上野方面を谷には橋を、少しの区間だけトンネルを、向こうが見える短いトンネルで2つの地域を繋いだことが分かります。
今年の5月と6月に西蔵王から龍山の方に立派なコンクリートの建物が見えたのは、
2004年の秋で廃業の国民宿舎の跡と思います。
昭和58年度末の1984年春に滝山小の土坂分校がなくなった跡地に国民宿舎ができたかは不明点です。
はらっぱ保育園の分園はネットの写真が立派なコンクリートとちがうようです。
??????????
https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0001929.jpg
西蔵王
西蔵王山頂?には西蔵王ガーデン含め2軒の
宿泊施設があったように思います。
(国民宿舎はさらに別に西蔵王スキー場脇にあった)
結構人気の観光地だったんですね。
今は宿泊施設は麓のヒルズサンピアさえ風呂を1/3程度に
縮小してしまい、500円も取っている状態で
かつての人気も何処かへ・・・
http://ht9901.zouri.jp/
十字屋行ったら
十字屋に行って見たら、10月の最後の27日(金)に北海道フェアやるとか。
地下からの入り口はまだ有って、
南の地上への出口だけふさいでありました。
その先の電話ボックスはまだあります。
道路を挟んで北のシバタモデルがまだあります。
シバタモデルと同じブロックで、十字屋とシバタモデルの近くの交差点を少し北に行った書店もまだあります。
地下道と地上の横断歩道の両方行けるようになって便利になってます。
震災前の2010年は時期外れ、時期遅れのものを買いに行くことも無くなって十字屋にあまり行ってなかったですが、
無くなる前の十字屋に行けるうちに行っておくのも良いでしょう。
????????????
十字屋と言えば
最上階に、往時のデパートを思い出させるような食堂がありますね。
先日行ってきたのですが、あまりにも正しい「ナポリタン」を出してもらって感激しました。
あと何回行けるか分かりませんが、閉店まで通いたいと思っています。
十字屋、ヤマザワ小白川店など。
気がつくと、十字屋にはこのところぜんぜん行っていませんでした。何年か前に地下のお魚屋さんお肉屋さんに行ったぐらいです。
46年のご愛顧ということですが、1971年からということでしょうか?
一方早くも3、4年前に閉店したヤマザワ小白川店は1969年、昭和44年開店のこと。
山大裏にひばりヶ丘アパートっていう民営アパートとそれに付属する形でひばりヶ丘スーパーというキャンディーズのみきちゃん似のレジのお姉さんがいたこうです(かつては山大のお兄さん、今は整形外科通いのおじさんの話)
昭和23年頃の航空写真
4MB以内という事で・・東西に分けました。
これより南はありません。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0001934.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0001934_2.jpg
十字屋
まだ十字屋の食堂はやっていましたね。
テナントの一部は駅ビルに移行しているようですが。
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空撮
航空写真でわかるのは霞城公園と市街地が
空襲を受けなかったらしいことですね。
この当時の地上に降りてみたいですね。
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Re:空撮
私もこの写真パネル見て色々と知りました。
空襲の効果が極めて低いのかB29は素通りしてたらしいですね。
廃棄処分しようとしてたパネルを一時預かりとして
デジタル一眼でコピー撮影したのですが
その後、保存が決定して我が手を離れました。
13号バイパスも無い昭和の山形市の原風景とも言える貴重な航空写真だと思います。
戦火を逃れても
東京大空襲の日に山形に向かおうとした?
B29が不忘山に3機連続墜落したという記録もあるようですが
いずれにせよ空襲を免れて良かったです。http://blechmusik.xii.jp/d/hirayama/fubousan-b29/
けれど、そうして戦火を逃れた建物も次々取り壊されていくのは残念です。
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Re:戦火を逃れても
話題には上がりませんが、市内の小中学校も確実に姿を変えていますよね
学校と言うと六小や七小の改築が有名でしたが
ここ数年程で旧四中だった東小学校や五中が改築されましたし
(東小は四中のお下がりという珍しい事例でした)
一部に昭和37製の校舎を持つ千歳小学校も来年度には取り壊される予定です
校舎
耐震化がこのところのキーワードで
これをクリアできずに姿を消す例が多いようですね。
朝日町に数箇所残っていた木造校舎もほぼ撤去されました。
上山市立東小学校古屋敷分校など、民間に引き取られたところが
残っていますね。
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連貼りスミマセン
作者様
色々と情報ありがとうございます。
掲示板に連貼りとなりますが・・
昭和30年代からある五日町踏み切りのトヨダ手芸店も遂に取り壊されましたね。
北側の古い民家も壊されるのかな?
五日町
踏切が有人の頃からあるところですね。
あの辺はいい雰囲気が残っていましたよね。
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七日町の長崎屋はどこにあったのでしょうか?
今晩は。
寒いですね。
かつて山形市七日町に長崎屋があったそうですが、どのあたりにあったのでしょうか?
長崎屋
山形の長崎屋は大沼の南隣、現在の横田ビルに入っていたと思います。
長崎屋や緑屋は子供の遊び場がなかったので子供は丸久か大沼に連れられていくのを
喜んでいました。
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江戸時代と滝山地区
土坂公民館が滝山小の冬季分校土坂分校の跡地のようです。
西蔵王のメインの道路から見て、低い山とテレビの電波を出す電波塔と展望台もある、低い山側、街中の方向の道路のすぐ近くです。
千葉の佐倉藩の飛び地の大きな堀田村、蔵王村に名称変更して山形市に合併した、山形市の蔵王飯田や山形市の蔵王桜田など、
江戸時代の佐倉藩の飛び地について、
堀田村、上野村など蔵王2小、蔵王一中の学区の小さい堀田村とその回りの村、
成沢村と山田村など蔵王一小の学区の成沢村の回りの村、
大きな堀田村は飯田と桜田の下桜田は大きな堀田村の側に行った。
江戸時代の話をします。
実は飯田と桜田の下桜田の他に、桜田の中桜田村と下桜田村は江戸時代の千葉佐倉藩の飛び地。
飯田と青田村も、小立と平清水も江戸時代の千葉佐倉藩の飛び地。
大きな滝山村こそが神尾村、土坂村、上桜田村は山形藩から、
青田、中桜田村、小立や平清水など千葉佐倉藩の飛び地だった村と霞城公園の山形藩だった村がまじって滝山村になってます。
南村山郡
その滝山村と山形市は明治22年にやっとできたようです。
南村山郡と村山郡と佐倉藩の飛び地と堀田村とをしらべたら突き当たりました。
三本木沼と西蔵王地区が南沼原になった南館、ここまで山形藩、
平清水や小立まで食い込んでいた千葉の佐倉藩の飛び地が滝山村と、千葉の佐倉藩の飛び地の吉原村も南沼原の新しい明治22年にできた大きな村。
南村山郡の山形市と大きな堀田村と南沼原や滝山のような明治に多数の小さい村を明治22年に統合して新しい大きな村になったとか。
江戸時代の最後と明治22年の南村山郡を見ると江戸時代の領主と明治の村がどう変わったかわかります。
飯田と成沢。
飯田と成沢は分断されてます。
昭和の前半から今の道路と村と街中ができたと思いますが、
飯田と三本木沼と滝山地区から千歳山まで、自転車で車がバンバン来る太い道路を通らないでいけます。
成沢と飯田の間は山の上の共同墓地を通らない限り分断されてます。
車がバンバン来る太い道路か共同墓地を通らないで成沢と飯田の行き帰りはできないです。
花夢花夢の跡地のゴルフ場や果樹園の裏は崖のように見えて、歩いて登り降りは可能です。
住宅回りの道を通っては成沢と山田と上野、堀田は大きな堀田村で、
飯田と青田と桜田は大きな滝山地区と思っていたです。
実は中桜田村と青田村も江戸時代は大きな堀田村と同じ領主だったようです。
????????????
「ごりら」のあたり
そういや七日町の古い店に「ごりら」って、あったよな。と思ってwebを散歩してたら、
webマガジンの「gatta!」を発見しました。もしかして大風印刷さんが出してるのかな?
http://www.okaze-gatta.jp/feature/2873
この中で、2点ほど気になることがあったので書き込みします。
くだんのweb上には、1961年ころの、「ごりら」周辺の住宅地図が載っています。見た限り、
高竜(龍?)寺さんと、大場印刷さんは場所が変わっていないようですが、「ごりら」さんの
位置が微妙に変わっています。そのほか、タイガービル(旧とんかつタイガー)、松源、角のタバコ屋さんの存在が確認できます。これで行くと、松源さんって、50年以上同じところで営業されているんですね。「ごりら」さんもなかなかのものです。
もう一つ気になるのが、記事本文中にある、
「道路の拡幅によって来年を目処に店を閉めてしまうという。」
というところで、旧セブンプラザから、専称寺方面に上っていく道路が拡幅されて、
「ごりら」さんもろとも「消えた山形」化するということなんでしょうか。言われて
みれば、この通り、やけにロードサイドの駐車場が目に付くと思ってみていました。
2017年から2018年にかけて、この通り、記録に残しておいたほうがいいかもしれません。
(無題)
作者さん、ありがとうございました。
長崎屋七日町店はあまりにも存在感が希薄だったようですね。
滝山地区
古くから信仰の道として続いた滝山地区が
どんないきさつか、千葉の藩の飛び地になった時期があったとは
知りませんでした。
貴重なお知らせありがとうございます。
http://ht9901.zouri.jp/
ごりら
道路拡張情報ありがとうございます。
ごりら周辺については今回の八文字屋発行「やまがた街角」にも
その辺の詳しいいきさつが特集されているようですね。
マーケットと呼ばれるいくつかの今は消えた商業地の記事でした。
http://ht9901.zouri.jp/
長崎屋
緑屋も当時七日町にありましたが、子どもの居場所がない店は
家族連れが行かなくなるんですね。存在感が薄かったです。
大沼もその道に行って欲しくないんですが、子どもの居場所を
削ってからはイオンに押されっぱなしですね。
http://ht9901.zouri.jp/
七日町マーケット
作者様
コメントありがとうございます。「やまがた街角」を読む術がないのが残念ですが。
さて、件の「七日町マーケット」ですが、「gotta!」誌面によれば、「大沼山形店の東側」に
あった、ということは、まさに今の「ごりら」さんがあり、どうやら拡幅工事が行われるであろう、丸久→セブンプラザ横の通りに存在したということでいいんですかね。同誌掲載の、1961年ころの同じ地点の住宅地図や写真は、現在の状況からは想像もつかないバラックの林立ぶりで、
それが50年余りたって現在の状況になり、今また変貌しようとしているわけで、そう考えると、七日町界隈の変貌も、歴史の必然と受け止めなければならないのかもです。
やまがた街角
県内にお住まいでない方には八文字屋発行のものは
書店では入手しにくいかもしれませんが、送料追加になるとは思いますが
出版元から送ってもらえるのではないかと思います。
ここではどうでしょう?⇒ http://syoshi-sai.com/toiawase/
今回の冬号は ご一読いただきたい記事でした。
http://ht9901.zouri.jp/
ごりらの位置
「やまがた街角」掲載の古地図によれば、今角地になっているごりらは、もとは南北の通りのみに面していたのが
東西の通りが拡幅になったため、東西の通りに面していた店が一掃された結果角になったようでした。
そのほか市内各地にあった古い店舗の並びも非常に興味深いものがあります。
http://ht9901.zouri.jp/
西部警察写真集
先日YBC「ピヨ卵ワイド」で紹介されていた
「西部警察 SUPER LOCATION6
日本全国縦断ロケ山形編」
さっそく入手しまして
これが「消えた山形」だらけでものすごい感涙に浸りました。
印象的なシーンを撮影した十字屋も
まもなく消えてしまうんだなあと寂しさも、感じつつ。
一応DVDがバラ買いも可になっていたので
昨年末に購入していました。
そして、私がこの写真集で何より感激したのが
表表紙も裏表紙も
上山競馬場だった事でした…^^;
今は無き馬用歩道橋が懐かしい。
実際に厩舎で働いた方にお聞きした事がありまして
よその競馬場からゲストで来る馬の中には
あの歩道橋が怖くてなかなか渡らない馬もいたのだとか。
馬が走ってるすぐ目の前で爆破だのカーチェイスだの
馬主さんの了解がなかなか取れるものではなく
実際に撮影に使ったのは競走馬を引退した馬だった、との
裏話も伺いました。ある意味当然なのですが。
当時
西部警察当時の撮影は、今から考えれば破天荒なものが多かったようですね。
車を海に沈めたり、街なかで爆破したり・・・・
競馬場の跨線橋もそのうちアップしたいのですが、このところ
仕事多忙と、サイト不調でログインできないことがあったりするので
更新できずすみません。
http://ht9901.zouri.jp/
西武警察など、昔の東原小白川
西武警察、盛り上がっていましたね。
日曜日の夜でしたね。ピンク・レディーのころですね。
昔は山大前の北半分(山大正門前の道の北側から笹谷街道までの町)を地蔵町といっていたとのこと。病院、醸造屋があり。古くからの門前町だったそうです。かつては、山大の周辺は桑畑などしかなく、山大の南側に養蚕試験場?(農事試験場?)があったそうです。
また最近宗教団体の施設になったホテル大沼のあったところにはルーフィングの工場があり、火事で焼けたとこのと。
頭加持地蔵がある上小白川は、まったくの辺境で山大ができる前は地蔵町からみると小白川は全く異世界だったとのことです(明治時代?)
小白川
小白川地区の昔の写真集が市立図書館にあって
お話しの 諸々の写真が載っていました。
今の姿は過去より良くなってると言えるかどうか…
96年か97年
コンビニでかったのが97年末で、
地図は96年の当時の地図と思う。
青田東より東で山の上の方なのに青田、無印の青田。
消えた山形の芸工大近くの99年が工事の前の青田の無印だと思う。
次に
西蔵王ガーデンは展望台の辺りのようだ。
駅の近くが1ページ、2ページ。
山形市内が3から7ページの5ページ分。
で、
今、買うと、山形市内は6ページ分。
下の蔵王が1つだったのが、南の1つを南東と南西の2つに分けたようです。
96年の大沼デパートの近くはこうだったようです。
??????????????
https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0001958.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0001958_2.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0001958_3.jpg
かみのやま競馬と聞いて.....
あけましておめでとうございます
今年もよろしくお願いします。
西部警察…確かPart2だった記憶がありますが、私の地元でのロケだったのでとても盛り上がった記憶がありますね。
ところで、以前ここの掲示板で紹介したYouTubeの山形市公式チャンネルの動画
(https://youtu.be/c8odQO5IJFI) の冒頭に当時の大沼?の入口付近に上山競馬の看板が、そして七日町大通り?には横断幕が確認できます。
確か、かみのやま競馬は上山市営以前に山形県営の時期があったと以前聞いたことがありまして…
この動画の時期はその時期だったんでしょうかね?
詳しい方、ご教授お願いします
そういえば日本一長いバイク
日本一長いバイクが無くなったかもしれないです。
店はまだありますが、縮小してます。
桜田生協は極端な縮小で残っているようです。
蔵王校は元の校舎も残って坂巻川の生協の反対側に増設してます。
青春通り、
青春通りは大学病院と休暇センターがあった時代から青春通りだったかもしれないです。
山大医学の研究、大学院などのWikiを見たのですが、
休暇センターは大学病院の予定が無くなった場所らしいです。
逆算すると、休暇センター近くの村が旧中桜田村のようです。
中桜田の予定が飯田に大学病院を建設されたようです。
下桜田は大学病院の建設予定の土地にならなかった可能性があります。
昔、平成初め、平成1ケタが終わらないうちに、桜田ビリッジのヒストリーを語ってくれた人がいたらしいですが、
下桜田は上や中桜田とちがう村のはずです。
飯田のハワイドリームランドが潰れて、大学病院と休暇センターが作られた時代。
飯田と桜田は大学病院が今の桜田と飯田を作ったようなものです。
芸工大は空いた土地が他にないから開発されたようですが、
上桜田と中桜田と飯田の山近くは休暇センターと蔵王校と失敗に終わったドリームランドぐらいで、
広い田んぼだった飯田の西で下の部分と下桜田が大学病院で栄えたと思います。
??????????
芸工大付近
芸工大近辺は大規模な開発によって純農村から
一気に現代住宅街に変貌しました。
主はなんの仕事なんだろうと思えるような豪邸が並び
昔の面影もなくなりました。
その割に買い物するところもなく、学生街なのに書店もない
いびつな街になった気がします。
http://ht9901.zouri.jp/
マンボさん
お教えいただいたサイトは開けませんでしたが
情報ありがとうございます。
県営かみのやま競馬、興味ありますね。
http://ht9901.zouri.jp/
長バイク
30年くらい前にライダーズショップナカノが作った超ロングバイクが
ズームイン朝で紹介された覚えがあります。
曲がれないバイクでしたね。
店舗縮小はなぜだったのでしょうか。
http://ht9901.zouri.jp/
辻スポーツさん
彩画堂隣の辻スポーツさんって、廃業したんでしょうか?
辻スポーツ
おっしゃるように廃業しました。
昨年3月頃のようです。
二瓶輪業店 報告
お店が替わってました。
残念…
二瓶輪店
いい雰囲気の角店でしたが、
やめたんですか!?
二瓶輪業店
昨年おやめになられたみたいです。
こちらの絵が思い出として残ってますね。
http://fuku990.n-da.jp/e537658.html
画像ありましたら、アップお願いします。
大沼デパート向かいの
セブンイレブンがなくなっていました。セブンプラザが閉鎖されて集客が落ちたのでしょうか。オフィス街で利用しやすい店舗だっただけに残念です。
七日町
それ、大事件ですね。
七日町が崩壊しそうです。
http://ht9901.zouri.jp/
事業撤退?
最新号やまコミに十字屋閉店のニュースが大きく掲載されるかと思いきや、千足屋の事業撤退が二面にデカデカと掲載されていました。web記事もありました。
http://www.yamacomi.com/7035.html
七日町のセブン
七日町のセブンがなくなったんですか!
そう言えば七日町って、八百屋の「なないち」ぐらいしか行かないって言う人、結構いますね。なないちと、あとはアズのキャンドゥと…
とりこわし
セブンイレブンも花の種もセブンプラザのビル取り壊しに伴うものかもしれませんね。
60年も経つビルなので。
跡地がまたマンションだと七日町は住宅街になってしまうでしょう。
http://ht9901.zouri.jp/
かつてあった山大前のセーブオン、情報求む Please tearch me!
山大南隣にマックスバリュがありますが、あそこはかつて「みつます」でした。
このみつますは、いつ頃出来てそしてみつますが出来る前は何があったのでしょうか?
またみつますが出来る前に、みつます斜め向かいにセーブオンがあったそうですが、情報ありませんか(^-^;)
リンク許可願いです
作者様、はじめまして。
山形松坂屋の写真をブログでアップしている、RIVEN_1990と申します。
このたび、閉店した十字屋山形店の記事を、自分のブログに記載したいと考えております。
つきましては、作者様の十字屋店舗の記事を山形松坂屋ブログ、
及び同時運営している別ブログにてリンクさせていただきたいと存じます。
これだけ素敵な十字屋の写真は、まず他からは出てこないと
思っておりますので、どうかよろしくお願いします。<(_ _)>
.
https://riven1990.exblog.jp/
みつますの前?
お問い合わせありがとうございます。
みつますは覚えていますが、その前は…???
う〜ん、調べてみます。
リンクについて
ご訪問ありがとうございます。
リンクしてくださってけっこうです。
よろしくお願いいたします。
桜田付近
大学病院北側の桜田も大分変わりましたね。
新山形いすづモーター跡地は空き地のまま。
桜田生協はツルハドラッグに。
米信も建て替え。
生協向かいのラブホテルもなくなった。
パチンコ屋(大昔スケート場だった?)が更地に。
ここは飯田かな?
サンライフはローソンに(20年くらい前かな)。
カローラ向かいのカラオケ屋はデイサービス私設秘書に。
マルホンカーウボーイはアミューズメント施設から、酒のヤマヤに。
青春通りのトンカツ三州屋もなかった。
マックハウス、東京靴流通センター、
こまつ書店、モスバーガーはまだ頑張ってますね。
喫茶店どらせな がまだ営業していて安心しました。
http://www.yamacomi.com/7035.html
桜田生協
生協は当初縮小して建て替えの予定だったようですが、
再建断念したのが残念です。
宗教施設が獲得したいすゞ跡地が何年も更地のままですね。
http://ht9901.zouri.jp/
桜田付近、みつます
1年ぶりにお便りさせていただきます。
昭和58年発行の「山大医学部創設10周年記念誌」が整理中にでてきました。
47年医学部建設前(水のない田の部分が建設用地)と、57年の写真をお借りしました。
前者の右下隅に半分写っている大きな屋根の建物が、スケート場です。
平日は貸し切り状態で思い切り滑れましたが、50年頃閉鎖されました。
飯田に移ったS49年、基礎校舎以外はは建設中の泥だらけ、周囲は国道筋以外は田んぼばかり、
門前に山形銀行支店とうどん屋力松があるだけでした。
40年ぶりの再訪時、なんと駅から直通で行け、周囲が住宅街に変貌したのをみて言葉を失いました。
小白川山大南の「みつます」ができたのは、S52〜3年ごろだったでしょうか。
テイクアウトの小銭寿司もあり、寿司おけを持った等身大の太田博之の看板につられ、
買ってしまって、寿司ネタのあまりの薄さに泣いたのをを今でも思い出します(笑)。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0001980.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0001980_2.jpg
みつます等
たっきゃん様、お久しぶりです。
山大南の「みつます」の情報、ありがとうございます。
私が山形を離れている間に山大の南に「みつます」ができていて、しかも当時すでにオリーブオイルやカマンベールチーズを扱っていて、他の在来県内スーパーとはことなり
「東京のブランドースーパー(成城石井とか三浦屋とか)っぽい」
「山形も変わった」
と感じたものでした。
東京から帰って来ると「南高前十字路」「山大前」「ドレスメーカー前」などでバスを降りていました。しかし気分によっては徒歩で実家まで帰る事もありすると蔵王スポーツが閉店セールをして、ジャージとか短パンとかスニーカーとかをすごく安く売っていて、しばらく普段用にしたものでした(笑) その頃なんですが、みつます向かいというか山大前にセーブオン(たぶん)があって、ワープロ(レトロ)の感熱紙(レトロ)を買いに行ったらどこかで見た顔の店員さんが・・・。山大南に「山形の秋葉原」といわれる笹原電気がオープンしたのはもう少し前?
90年代にはもう
96年にはコンビニもみつますも残ってないようです。
コンビニも21世紀の2000一桁からつぶれる店が増えるけど、
21世紀の始めまでは、どんどんできて、しばらくつぶれなかったです。
市役所の近く、道路拡張の計画、土地を確保までは進んでいたようです。
ココの消えた山形。でもマルホンから、ファンキータイムの間の100均雑貨屋、
滝山方面の99年の11月末の芸工大の農村の最後の姿。
私の持ってる地図が97年末のコンビニで買った、96年の地図と96年の計画を見て考えました。??????????
https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0001983.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0001983_2.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0001983_3.jpg
(無題)
山は見ていたさん。ありがとうございます。
山大南にみつますが出来て少ししてみつますの向かいにあったコンビニ、セーブオンが閉店したということだけ記憶しています。かつてみつますは開校間もない芸工大そばにもあったと思います。こちらのみつますはかなりあか抜けしていました!
東京に進学そののち都内に就職海外また都内と、色々あったので…帰郷してみると服部天皇がいなくなっていたり…駅前の道沿いにあった蔵王スポーツが閉店セールしていたり…
初めまして。
初めて書き込みさせていただきます。
かつてあった懐かしい風景を求めてここにたどり着きました。
数々の貴重で興味深い写真を拝見し、このような写真を地道に撮りためておられた作者様の先見性にただただ脱帽です。
本当にあの懐かしい風景はいつの間に消えてしまったのだろうと寂しい気持ちになりますね。
山大前のコンビニの話題ですが、場所は山大正門から少し南にそれた場所に「ニコマート」というコンビニが??〜92〜3年頃まで存在していたと記憶しております。
南高脇にも同様のコンビニがありましたよね。当時はセーブオンがメインで、たまにサンクスがあると行った具合の状況でしたので、聞き慣れないニコマートはちょっと新鮮でした。
夜12時を過ぎるとお弁当や惣菜が半額になったのを覚えています。
ちなみに山大前のニコマートはここにありましたよね。
https://www.google.co.jp/maps/@38.2466631,140.3475676,3a,75y,6.6h,88.13t/data=!3m6!1e1!3m4!1svnn3pU2bPRk-b7K0CG-52Q!2e0!7i13312!8i6656">http://www.google.co.jp/maps/@38.2466631,140.3475676,3a,75y,6.6h,88.13t/data=!3m6!1e1!3m4!1svnn3pU2bPRk-b7K0CG-52Q!2e0!7i13312!8i6656
あと、山大前のセーブオンですが、正確にはカレッジスクエアの駐車場正面にありました。92年頃にオープンされたとおもうのですが、2年位ですぐ閉店されたと記憶しています。
https://www.google.co.jp/maps/@38.2445681,140.3466983,3a,75y,282.5h,79.62t/data=!3m6!1e1!3m4!1sdb3VdkER1lpssr-2AF7ODQ!2e0!7i13312!8i6656">http://www.google.co.jp/maps/@38.2445681,140.3466983,3a,75y,282.5h,79.62t/data=!3m6!1e1!3m4!1sdb3VdkER1lpssr-2AF7ODQ!2e0!7i13312!8i6656
画像を見ると建物にまだ当時の面影がありますね。
山大南のみつますですが、たっきゃん様が仰れているS52〜3年頃に、近所に住んでいたイトコと一度買い物に行ったことが有り、
スーパーといえばヤマザワしか知らなかった幼少時代にはとてもこれもまた新鮮に見えました。当時は出来たばっかりだったんですね。
みつますといえば、みつますの駐車場隣りにかつて勤めていた会社の本社が有り、作者様の撮りためた写真(吉村医院の看板がある所)に見切れて写っていたのを発見し懐かしく思います。
社会人になってから山大前通りにかつて存在していた「板井アパート(のちに、サンコート東原と改名)」という所に2000年代初頭まで入居しておりました。
そこの管理人さんが言うには山形市内初の鉄筋コンクリート製アパートらしく、色々と歴史と当時の人々の営みを感じる物件でしたね。(部屋の柱に背比べのマークがあったり)
たっきゃん様の書き込みの「オーヌマホテル変遷60年」に添付されておられました画像で、1965年にはもう存在していた事実を確認でき嬉しくなったりも。
それから退去後、数年経って取り壊され駐車場になってしまいましたが・・・。経年による劣化もそれなりでしたので、2011.3.11の地震に耐えられたかどうかという側面もあるので致し方がないのかなと。
https://www.google.co.jp/maps/@38.2481043,140.3483188,3a,75y,341.91h,89.79t/data=!3m6!1e1!3m4!1szzfs_cKUK55oF0u7yDeiUw!2e0!7i13312!8i6656">http://www.google.co.jp/maps/@38.2481043,140.3483188,3a,75y,341.91h,89.79t/data=!3m6!1e1!3m4!1szzfs_cKUK55oF0u7yDeiUw!2e0!7i13312!8i6656
自分が入居していた20号室にその後誰かが入った風ではなかったので、自分が20号室最後の住人だったようです。
ちなみにこのアパートには風呂が無く、駐車場奥にある共同風呂(19〜21時までしか開いてない)を利用しておりましたが、作りはミニミニ銭湯といった風合いで狭くもなく広くもない作りでした。
もしかして、ここがかつてあった山大前の銭湯「東湯?」だったんでしょうかね?
大学前通りかいわい
Marble Madnessさん こんにちは。熊ぱんち@1980年限定東原住民 です。
ご紹介のストリートビューで見る限り、この界隈もめっきり古い建物が減りました。ざっと
見た感じだと、北京飯店、福家食堂(ここはかなり奇跡的だと思う)、エネオスのGS、松福亭
(かつてはうなぎメインだったような。。。)あたりが現存する古いところかと。松福亭向かいの大風輪業さんのとこもさら地になっていますね。
#丸五ソバ屋ができたての頃です。
1980年代だと、山形にコンビニはまだ上陸するまえでして、「みつます」がライフラインだったわけですが、コンビニというのも、当時は意識もしていなかったわけで、なければないで何とかなるものなのかもしれないなあと。
あと、意外と話題にもぼらないところでは、会社組織になる前の「シベール」は、北京飯店さんというか、当時のみつますさんのそばが本拠だったような気がします。シベールも、いろいろあって大変なようですが、私の中では今でも、マチのケーキ屋さんなんですがねえ。
#若干離れますが、ドイツ風洋菓子の「コウシロウ」さんも、かつては「アンデルセン」で、個人的にはそっちのほうが人気があったように思えます。シベール関係者の方、見てたらゴメン。
「東湯」の廃業は、たぶん1982〜83年だと思います。私は営業最終日にわざわざ東湯へ行きましたから、たぶん間違いないと思います。なので、Marble Madnessさんご利用のプチ銭湯は、時代が合わないはずで、それこそアパートが持っていた共同浴場みたいなものだったんでしょうか。
東湯なきあとは天満湯がもよりで、結構遠かったけども、その天満湯も「消えた山形」入りですかね。
銭湯
なつかしいお話をいろいろ有難うございます。
あずま湯廃業前の地図では、その位置は福家食堂の向かい
となっていました。
天満湯はちょっと遠いという人は、小姓町の鶴の湯や
緑町?の日の出湯あたりに行ったようですね。
板井アパートと山大前通り
>>熊ぱんち 様
レスありがとうございます。
1980年の東原は自分にとっては未知のエリアで、82-83年頃にカレッジスクエア駐車場の奥に一軒家の賃貸住宅が有りまして、そこに入居していたイトコの所へ遊びに行った一度だけだったりします。
しかもロクに表に出ないで家の中でゴロゴロしていたという有様で(苦笑)その家はその後、90年代なかばにはカレッジスクエアの従業員の寮になってて、更にその後は取り壊されて駐車場になってしまいました。
カレッジスクエアの前身「ペンギン村」というゲームセンターがあったはずなのですが、家の裏手(というか隣)だったのに全く気づかず非常に惜しいことをしました。
知ってたら、当時、ゲーム・キッズだった自分は一日中背後霊のように学生たちのゲームプレイを眺めていた事でしょう。
その頃の自分の記憶では、現在2階建てになってるカレッジスクエアの建物が無く、そこは砂利の更地になってたのは覚えてるんですが・・・。おそらく、あの直後に建築したんでしょうね。
大風輪業さんが更地になっててびっくりしました。ここにあったかなり古めかしい空気の自動販売機的な料金制の赤い空気入れが何気にお気に入りでした・・・。
七日町の熊谷商店にも同じ物があったはず!と急ぎ確認してみましたら、再塗装されてなんか小奇麗になってて残念。あるだけマシなのかどうなのか・・・。でも2011年にスライドさせると当時の塗装具合が見れて一安心。
ttps://www.google.co.jp/maps/@38.2522394,140.341491,3a,75y,279.32h,87.18t/data=!3m6!1e1!3m4!1sQ6axozqlHhOZNUXIDMMhKg!2e0!7i13312!8i6656
コンビニは自分も当時情報的に知らない事が多かったので、最初に入ったコンビニがかなりうろ覚えです(汗)おそらく、ここが人生初のコンビニ体験した店舗だったのかも。86-87年頃ですね。
ttps://www.google.co.jp/maps/@38.2616351,140.3406137,3a,75y,289.28h,93.01t/data=!3m6!1e1!3m4!1sif8smw-hcSyvw50U-OwPaQ!2e0!7i13312!8i6656
シベールといえば、山大前通りの現在クラフトがある立地(斜め向かいに「おあしす」という喫茶店がありました。今は「シシリア」というイタ飯屋に)にお菓子やさんかパン屋さんがあった気がしてならないのです。
もしかしてここでしょうか?
板井アパートのプチ銭湯ですが、引っ越す前に写ルンですを使用して記念に撮影した写真に見切れて写っているのを発見しました。
アパート屋上から駐車場を見下ろした写真でして、右上の出張った部分がプチ銭湯で、扉を開けると内部に小窓の付いた番台があり左が男湯で右が女湯となっておりました。
場所的は乗用車が停まっているこのエリアになります。
ttps://www.google.co.jp/maps/@38.2482439,140.3478845,3a,75y,17.1h,75.38t/data=!3m6!1e1!3m4!1srYsHJdak0Tt_EyWrSnpGrA!2e0!7i13312!8i6656
利用するに当たり、小窓のある番台のとこで「〇〇号室の〇〇です」と言って料金払って入るような感じでした。料金は350円くらいだったような。
入るとすぐ脱衣所があって、そこを抜けると壁側にシャワーが2箇所と奥に大人が3人も入るとキツキツな湯船がある作りでしたね。女湯は清掃中で開放されてる折にチラリと見た感じではシャワーが4箇所あったような。
それを見て、男湯にもシャワー増やしてほしいなとか思ってました。常にぞろぞろと人が来る感じではありませんでしたので、一人でゆるゆると入っておりましたね。
そんな感じでアパート住人専用の共同浴場だったんでしょうね。もしかすると、東湯の施設をそのまま利用してたのかと思ったものでして。丁度、作者様のレスで場所が全然違っていたのが判明しました(_ _;)
>>作者 様
東湯はその場所にあったんですか。自分が気づいたときにはそこは既にサンクス(現在はファミマ)がある建物になっておりました。
91年頃だとは思いますが、出来て間もないような感じでしてよくお気に入りのお弁当を購入しておりました。東湯はどんな建物か見てみたかったです。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0001988.jpg
板井アパート屋上から
現代のように携帯でパシャーならもう飽きるほど撮影したんですが、仕上がってみたらピンぼけや光量が足りずトホホな写真ばかりになっておりました。現像が2003年8月でしたので、おそらくは同年の春頃に撮影したのではないかと思われます。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0001989.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0001989_2.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0001989_3.jpg
板井アパート屋上から?
更に追加で。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0001990.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0001990_2.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0001990_3.jpg
板井アパート解体
これは携帯で撮影したもので、タイムスタンプを見ると2007年11月9日となっておりました。
青い重機が写ってる画面中央の2階部分が自分が住んでいた20号室でした。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0001991.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0001991_2.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0001991_3.jpg
甦る記憶 板井アパート20号、そこには都会の風が…
地蔵町(現東原)ネイティブです。
板井アパートはおそらく昭和三十四年に完成したWRC工法で建てられた当時としては近代的な賃貸集合住宅で、入居するにもハードルが高かったそうです。
当時の入居者世帯主の職業としては近くにある山大の教員、近くにある至誠堂病院の医師、東京芝浦電気社員、日本放送協会職員などで、多くは県外出身者、時には海外(ブラジル、ハワイ)出身者もいたためにアパート内では、ネイティブ東原では公用語である山形弁東原バージョンは話されないし通じない領域として知られていました。
当時テレビ受信機やオーディオ再生装置が普及していない中、板井アパート内ではこれら最新家電の普及率が高く、このアパートからはエルヴィスプレリーや初期のビートルズ、ラ パロマなどのラテン、シルヴィヴァルタンや、モーツァルトのピアノ協奏曲が聴こえてきた・・・そうです。
Marble Madness様が入居されていた板井アパート20号ですが、東から二番目の二階でしょうか・・・?であれば某大手電機メーカー(光る光るT、廻る廻るTで有名な・・・)とその家族の方が住んでいらしゃったところと思われます。その家の奥さんは女優さんのように大変美しく、至誠堂病院のナースの皆様の憧憬の的であり山大守衛さんたちのマドンナとして知られた方と思われます。その柱の傷はその家のふたりの美しいお嬢さんの成長を記録したものでしょうか?お人形さんのような顔立ちの子で、きれいなワンピースを着ていられたお嬢さんですね。
??やがて板井アパートの向かいにある山大で学内紛争が勃発し、板井アパートからは山大の北側に張り付く機動隊のバスがいつでも見えた・・・とのこと。ちなみに当時山大の学生さんに人気があったのがはしだのりひこ&シューベルツの「風」だったそうです。
??その板井アパートも居住者層も70年代半ば以降は急速に山大の学生さんが多くなったようです。当時の学生さんはマージャン好きだったので板井アパートはもう雀荘だよなんていわれたのを聴いたような記憶もあります。
??銭湯東湯ですが、板井アパートが出来る前からあったようですが、八十年代初めに店主が厳冬期に山大前の道で脳卒中で倒れて逝去され廃止したという話は聞きました。そのために風呂のなかった板井アパート敷地内に急遽共同浴場を作ったという話はきました。
?? 山大前のコンビニ「セーブオン」ですが、高校卒業後、東京に出ていた私が帰省したおり、実家にあったシャープのワープロ「書院」を使用するために感熱紙をこの山大前セーブオンで購入したことがありました。がその次に帰省したときに感熱紙を買おうとそのコンビニに行ったところ、すでにコンビニはなくっなっていました。
そこで近くの人に
「あらら、山大の前さあったセーブオン、なくなったんだかした?」
(あれ、山大前のセーブオン、無くなったのかな・・・?)
と尋ねると、
「んだ、『みつます』できて無くなったんだはー。かわいそーに、あそこ、おらいなと城北で一緒だったひなっこ、やてたんだべーかわいそーによーはー」
(そうだよ、あのセーブオンはみつますが出来てなくなったんだよ、かわいそうに、あのセーブオンはウチの子と城北高校と一緒だった子がやっていたんだよ、かわいそうに)
という答えでした。たしかに上京した私が山形に帰省してみると山大の南にみつますができていまたね・・・・みつますだけではなく『山形の秋葉原』といわれる笹原電気も出来ていました。
シベールですが、最初は緑町の北高近くにあったちいさな店だったということです。その後いつかはわかりませんが、山大前にチロル風の建物で営業していました。ここではスィーツだけではなくフレンチバゲットなども売られていて、帰省した折、東京から持参したレバーペーストやサワークリームなどをシベールのバゲットにつけていただいたものでした。
一方現コウシロウ当時アンデルセンは笹谷街道沿いになり、アンデルセン時代には実に多くの種類の凝ったスィーツがありました。笹谷街道を挟んでその向かいにはイエロー地にグリーン文字の手製看板で知られる立花歯科があり、その立花歯科の前に大判焼き屋があって、女学生のお姉さんたちでいつでも賑わっていました。
??ちなみに山大と南高の間、昭和無線(ミュージック昭和)ちかくに「リブ青山」というオシャレなブティックがあり、そこには南沙織を思わすロンストセンター分けのレディがひろがった裾に刺繍のされたデニム生地のワンピースを着ておられました。当時山形ではおそらくほとんどなかったであろうオリーブの木がリブ青山のシンボルツリーとして植えられていたと記憶しています。
ちなみに板井アパートの例の美しいマダム&マドモワゼル with meのピクチャーがあるのですが、本人の承諾がないのでアップは、控えます。
板井アパート今昔物語
東湯はネイティブ東原と板井アパート居住のエトランゼとが交流する場もありました。言葉もオーラも最初は噛み合わないものの、次第にうちとけてきたものです。それで私も板井アパートというサンクチュアルに出入りするようになり、アパート居住者に友達も出来ました!
板井アパートはエレベーターのない階段式のアパートで地下室があり、モーターがうなっていたような記憶があります。
板井アパートの裏の人気がないところにいつでも大便が垂れてあったのですが、このチリ紙つきの大便は、板井アパート在住の山大の先生の☆というおじさんが垂れた大便であると、子供たちの中でウワサされたものでした。そのおじさんは神経質で子供の歓声に
「うるさい!」
と怒るので、子供たちからは嫌われていました。
しかし実際は通りすがりの方が急に催してアパート裏の人目に付かないところで垂れるらしく、この事案は板井アパート管理組合でも衛生上問題になっていたとのことです。
山大前通りをわたると山大の石垣があるのすが、バスに乗るときにうっかり石垣の上に手を伸ばしたらぶよっとした触感がして思わず見ると、スズメガ科の終礼幼虫が、居ました!
(おそらく山大敷地内に生えるヤブガラシにたかったコスズメかビロウドスズメなどの終礼幼虫褐色個体が蛹になる場所を探していたのでしょう。)、
それを見た当時の私は心臓が潰れそうになるほどの衝撃を受けました。以後しばらく山大前の道を渡る事をためらったものでした。
山大前バス停は千歳公園発ヤマコービル経由駅前行きのバス亭ですが・・・。とにかくその路線のバスで駅前方面に行くのでが、かつて「パチンコ大学」というパチンコ店が山形駅前にあり、そのオープンのとき、三名の女性ダンサーがピキニ姿でずっと踊り続けてました。大人の男性はいい目の保養になったと思いますがその当時の私はこのダンサーの三名の女性に人生の悲哀を感じました。
ところで70年代半ば、山大周辺の下宿からは定番のイルカの「名残雪」それから同じくイルカの「サラダの国から来た娘」チューリップの「心の旅」ウイークエンドの「岬めぐり」なとがながれていましたが、しかし風の「ささやかなこの人生」がある下宿から聞こえてきたときは立ち止まって聞き入ったものでした。しかし山大生の下宿からはユーミンは聞こえなかったと思います。
そのユーミンが流れるのは八文字屋で、「ルージュの伝言」「陰り行く部屋」「少しだけ片想い」などを八文字屋で聞いたものでした。
そして私が生まれ育った町を後に、東京に向かう「やまばと」に乗る前、山形駅前で流れていたのがハウンドドックの「嵐の金曜日」でした。
大友康平の
「もう戻れない〜♪」
のド迫力ヴォーカルが私の胸を震わせたことは言うまでもありません!
その後東京で失恋して傷心のまま帰郷したときに池袋駅で聞いたのが中村あゆみの「翼の折れたエンジェル」でした!
まさしく
「私も翼の折れたエンジェル〜♪」
でした!
写真解説
1 山大すぐ裏小白川地区 Maybe later,'60
2 山大構内 Maybe later'60
https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0001993.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0001993_2.jpg
山大前セーブオン&いにしえの山大前界隈の人間模様
熊ぱんち@神奈川在住様、marble madness様、情報提供ありがとうございます。蛇足ですが私も神奈川県下にいた事があり、「そうてつローゼン」の歌は良く聞きました。
カレッジスクエア向かいにセーブオンが1991〜1993ぐらいの二年間のみ存在していたようですね。当時はwin3,1がでるかでないかでPCというとフォトショップとアクロバットを積んだMACが100万前後?という感じでワープロ専用機がメインでした。それで感熱紙である訳なんですが…。
服部天皇が崩御されたとき、私は日本に居なくて帰国し帰郷したら
「服部天皇?今更何いってんの、もー死んだは」
と笑われた記憶があります(笑)
板井アパートのお写真、拝見しました。おそらくmarble madness様が入居されていたところが、例の美しいご婦人が居られた「光る光るT 廻る廻るT」の社員宅だったと思います。オーディオ装置もあったためにシルヴィ ヴァルタンの「あなたに夢中」などが流れていました。
白い鏡台があり、ラリックボトルのレールドゥタン(フランス製香水)があって、子供ながらに胸がときめていたものでした。
??かつて山大の守衛の方々は、東原から遥か東に行った彼方K地区の方々が多くて、ネイティブ東原の人びとにとっては準異邦人でした。(言葉のイントネーションもかなり違うのです!)
私が板井アパート20号の某大手電機メーカー社員令嬢と山大構内でリカちゃん人形もってままごとをしていたら、守衛の方に
「おめら何やってんだず、こさ入ってきてわれ、わかったがっ おらっ!」
(お前たち何やっているんだ!ここに入ってはいけない。わかったか!)
と東原語よりも荒っぽいK語でディスられるように頭ごなしに叱られたました。で
「リカちゃんしったんだ、いべしたず」
(リカちゃん遊びしていただけだよ。いいじゃないの。」
と口答えしたら
「なんだずおれささからて憎たらすひなこだごど、おめなのこしてける。ひなこならひなごらしぐすろずほれ。黙って俺の言うこと聞けばいいだべず、ホレばさからてにくたらすごど」
(なんだ、口答えして生意気な女の子だこと。おまえなんかこうしてやる。女の子なら女の子らしくすればいいんだ。黙って俺の言うことさえ聞いていればいいんだ。それを反論して憎らしいこと。)
と平手で頭部を殴打されました。
それで私と令嬢は泣きながら20号室に退散しました。そして
「あの山大の門さいだザイゴのオンツァン、スカネーごど、わたしたちのことばあだなひどくごしゃいではたぐことねべした!
リカちゃんしっだけだじぇ
あだなオンチャンなの車さひかってしねはー。」
(あの山大の門にいたかなり農村部出身のおじさんキライだ。私たちのことをあんなにひどく叱り付けること殴打することないじゃないの。はないじゃないの。ひどいよ。リカちゃん遊びしていただけだよ。あんなおじさんなんて車に牽かれて死んじゃえ。)
と呪ったものです。そしてその守衛の方の顔ははっきりと覚えていました。がその令嬢の母親と山大の前を通ったら、その憎たらしい守衛の方が妙にニコニコとした笑顔でその令嬢の母親に
「あっどーもどーも」
ってうやうやしく挨拶するんですね!わたしがそのオンチャンを
「おめなのしねはー」(アンタなんか、死んでおしまい)
と睨み付けてもオンチャンは、にこらにこらとニヤけたままでした。
「どだなごどだず?」
(これはいったいどういうことなんだ?」
と思いながらも私たち三人は当時存在していま山大南高角の市場に行きました。
そこはちいさな一角ですが、フランク永井と松尾和子の「東京ナイトクラブ」が
♪なーぜ泣くの〜♪睫毛が濡れてるよ〜♪
と流れしました。山形市東原なのに東京ナイトクラブ…?ですが、鮮魚、精肉、青果などあったとおもいます。
また板井アパートの一角にお茶屋さんがあり、その向かいに鮮魚店や八百屋もありました。例の令嬢がハワイアンなワンピースを着ている中、若大将加山雄三の
「お嫁においで〜♪」
が流れて居ました!
〜♪珊瑚でこさえた〜♪
ウクレレのコードストロークと流れるようなペダルスティール、例の美しいマダムが歌詞を口ずさみ、東原が湘南になった瞬間でした!
写真の解説
1??板井アパート屋上 Maybe middle and later '60
2??東原ネイティブ&板井アパート在住エトランゼ 合同のママ友withチュルレン パーティ in 山大構内通称教養坂
Maybe later '60 winter
3??馬見が崎川原 Maybe middle '60
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板井アパート
こねこ 様
知らない時代の情報をありがとうございます。興味深く拝読させていただきました。
自分が住んでいた部屋の場所ですが、東側から3列目の2階部分になります。
掲載した解体中の画像では山大前通り側の列が見切れておりました。部屋の番号の割り振りは西側1階が?で階段通路を挟んで隣が?となり、その並びが最上階まで続きます。
07-08 15-16 23-24 31-32
05-06 13-14 21-22 29-30
03-04 11-12 19-20 27-28
01-02 09-10 17-18 25-26
「-」は階段通路になります。
部屋にあった背比べの柱のは記憶が朧気なんですけど、S34.XかS36.Xと書かれてあったような・・・。昭和34〜36なら確かに年代的にも合致します。
発見した当時にそんな古くからあったのかと驚いたので、少なくともS4X〜ではないのは間違いないです。それと、柱には二人分の傷があったと記憶しておりました。
昭和30年代で水洗トイレ・都市ガス完備だと当時はかなり高級な住宅だったのではと推測しておりましたが、やはり入居のハードルが高かったのですね。
それでいて風呂なしというのも銭湯が一般的だった時代が感じられる物件でもありました。
配電盤のヒューズユニットが陶器製で、内部のヒューズはガラス管ではなく板状だったり、電灯のジョイント部分が陶器製だったり、
窓ガラスのサッシがゴツいスチール製で開けるとゴゴゴゴと音がしたり、押し入れは内部に書棚が増設して当時の学生さん?が押入れの中段を机代わりに使用していた跡があったり
クローゼットの引き出しを抜いたら、かなり古い時代の折り紙セットの表紙部分が出てきたりと、色々と時代を感じさせてくれて面白かったですね。
部屋の間取りは、入り口を抜けてすぐ北側にトイレと奥に台所、西側に0.5畳分の物置兼下駄箱、東側正面に6畳の部屋があり、南側に15cmほどの落差のあるコンクリート剥き出しの縦2畳ほどの洗面所兼物干しスペース、西側に0.5畳分の押入れ
6畳部屋と繋がった北側の4.5畳の部屋+縦2畳分の天袋付き押入れ&クローゼットといった具合でした。風呂なし2DKという風情でしょうか。
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板井アパート?
部屋の内部画像です。2002-3年頃の退居寸前に撮影したものなので、部屋に物が何もありませんね。
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板井アパート?
更に画像追加で。
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板井アパート?
板井アパートの正面駐車場に大きくてそれなりの樹齢のシンボリックなモミの木(杉の木?)と外灯があったのですが、経営者が変わって駐車場的にも邪魔だったんでしょう。98年頃に伐採され、その大きな木は細かく輪切りにされて処分されてしまいました。
そうなる前に写真を撮っておくべきだったと後悔しましたね・・・。
1965年の航空写真にもその木があるのを確認できました。
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黄金期の板井アパート
Mablemadness様、貴重な写真、ありがとうございます。
板井アパートビジターとして板井アパートに顔パスで出入りしていた幼い日々のことをリアルに思い出しました!水洗トイレと鉄製サッシは当時としては画期的でした!
ちなみに私は当時ドレスメーカー女学院の生徒になってそこの先生になるのが夢でしたね(笑)
おそらくmablemadness様が居住されていたところに1960年中盤〜後半に東芝社員ご一家が住んでおられた部屋の向かいの山大の先生宅と思います。
未就学の私がぬいぐるみをかかえて東芝社員宅に押し掛けて行くと、向かいの部屋からほとんど女子力を感じられないセーラー服の人が出てきたのを思い出しました。彼女がS34〜36に小学生とすると、ちょうど辻褄が合います。それに山大の先生は押入れの書斎は常にだったようなので…。
とにかく山大の先生宅はとにかく本がたくさんあり、本の置き場にも困っては押入れを本棚兼書斎に改造することは常だったようです。
キッチンは北側でそのキッチンに管理人室直通のインターフォンのようなものがあって・・・。例の東京芝浦電気社員宅でお嬢さんと遊んでいると、突然台所のブザーのようなものがけたたましく鳴り、マダムがサンダルをはいて一階の管理人室へとダッシュしていったことを思い出しました。
とにかくかつての板井アパートのレジデントは山大の先生と大企業の社員、それにブラジルだかハワイからの帰国子女?などばかりで、いわゆるネイティブ山形人は後述する管理人ご一家ぐらいでした。それでまさしく
「山形にあって山形にあらず」
「山形弁が通じないエリア」
「フレンチポップスやビートルズなどの洋楽が聞こえてきて、演歌は聞こえてこない領域」
だったのです。山大の先生も山大に来る前には奈良にいたとかいう人もいて、国際色?豊かでした。また当時敷地内にはかなり広い庭園があり、バラやカンナ、パンパスグラスなどが植えられていました。季節なるとクロッカスやヒヤシンスの球根をレジデントの婦人たちは植えていました。街灯やシンボルツリーのもみの木もあったとおもいますが、プラタナスの若木何本かと、あとは周囲を玉椿の生垣で囲まれていました。
そういえばあの当時、白いスポーツカーを所有している学生てはない若い男女が最上階に住んでいたようです。二人乗りのオープンカーはその街灯やモミの木のあたりにいつでも止められていて、その若い男女は当時としては斬新はジーンズ姿で、その最上階の部屋からはビートルズのプリーズプリーズミーやロネッツのビーマイベイビー、それからカスケーズの「悲しき雨音」が聞こえて来ました。雷鳴のイントロで始まるこの曲を幼い頃から好きでした。ちなみにこのお姉さんは当時すでにホットパンツをはいていたように記憶しています。
にしてあの当時は『銭湯社会』で、やはりみんな東湯に来るので、地元の人と板井アパートレジデントは次第に交流するようになり、板井アパートビジターとして出入りしては顔パスで出入りできるようになっったわけです。
東湯に北高のお姉さんがいたりして、
「板井センセって板井アパートの大家さんだべ 北高で数学教えったじぇ。」
とか言っていたのを聞いた事があります。板井アパートオーナーは県立北高の数学科教諭だったのです。その他にも女子力の高いお姉さんも来ていて銭湯東湯は大きな存在でした。
??しかし一番西端に住んでいた山大の先生の奥さんは東湯に来ても無表情で一言も言葉を交わさずに湯船に浸かるときも壁のほうを見て他の人と目を合わせないようにしているのです。そして脱衣所に戻るとさっさと服を着て番台に軽く会釈だけして帰ってしまう・・・のです。彼女。なぜか子供たちの間で
「ツベルクリン」
というあだ名でしたが、このツベルクリンのご主人が板井アパートの裏の人気のないところで野糞を垂れたと子供たちの間でウワサされた感じの悪い山大の先生で周囲との交流はありませんでした。しかし実際にこの山大の先生がアパート裏で野糞を垂れたとは到底考えられないですが、しかし常にアパート裏で放尿や排便される方が常に居て、特に一階はキッチンは北側なので一階の方々はその野糞放尿による悪臭もひどくて困っていて衛生上大きな問題だったようです。
にしても山大の先生は平日昼間でもアパートに居て本を読んでいたりするんです。ハイドンのおじちゃんという山大の先生がいたのですが、私たちが縫いぐるみを抱っこして押しかけて行っては
「ねぇおじちゃん、ハイドンのひばりして。」
とお願いすると、レコード盤を出してハイドンの弦楽四重奏曲「ひばり」を再生してくれたりしました。このハイドンのおじちゃんはコーヒーが好きで、手動ミルでコーヒー豆を挽いてコーヒーを入れていました。そのハイドンのおじちゃんも東京かどこかの大学に転勤になってしまったように記憶しています。
当時一階に管理人一家が住んでいらして、私と東京芝浦電気令嬢とこの管理人のお嬢さんと歳も同じぐらいだったので三人でよくままごとをしていました。基本的にアパート敷地内はレジテントとビジター以外オフリミットです。山大の学生さんなどが散歩がてらぶらっと侵入してきたりすると、管理人のばあさんに追い返されていました。山大の学生じゃなくて五小の児童や一中の生徒も同様にレジデントとビジター以外オフリミットでした。
アパート北側のGSのところにはかつて旧地蔵町でも有名なお屋敷があったのですが、それが取り壊され、地下に大きなタンクを埋めてエッソのGSになりました。
山大での学園闘争とその余波による板井アパートのステイタスの変容
当時の板井アパートレジデントの方、ここをごらんになって居られるでしょうか?
今からは想像できないと思いますが、当時は山大の校舎や至誠堂病院ですらも木造二階建てだったから鉄筋四階建て板井アパートはまさしく摩天楼でした!敷地内にはオシャレな街灯とモミの木やプラタナスなどが植栽され、さらに庭にはバラやカンナなどが咲き誇っていました。
にしても銭湯社会だったので、東湯では板井アパートレジデントの奥さんや管理人のばあちゃんやアパートの奥さんとあうわけで、地元地蔵町ネイティブと板井アパートレジデントのエトランゼは有機的に交流していたのです。
脱衣場では城北や北高のお姉さんたちが雑誌を見ては流行りの歌の話をしていて、私の憧れでした。いうわけで私も東湯で
「うちにも遊びに来てね。」
といってくれたアパートの東京芝浦電機社員宅や山大先生宅に押しかけては未就学児なのに鏡台の前に座って口紅や香水をつけていた・・・そうです。
また当時の山大構内も近くのママさんたちがちいさな子供たちを連れて散歩するような公園的なものでした。白いアーチ上のパーテイーションで囲まれた芝生にトリトマなどが植えられ、若いママさんたちがベビーカーを押して語り合う、また芝生の中では私たちがリカちゃん遊びをするという光景が広がっていました。
しかし学園紛争が勃発すると山大構内はヘルメットを被った学生たちの怒涛が飛びあう戦場となり殺伐とした雰囲気となりました。山大正門にはいつでも機動隊員が立っていてママ友の散歩やリカちゃん人形遊びどころではなくなったわけです。それどころか板井アパートの平穏で幸福な市民生活でさえも一方的な主義主張を武力で押し通そうとする「軍隊」に占拠されたことがありました。
それはある日、ぞろぞろとヘルメットを被った物々しい連中が一方的なスローガンを書いたプラカードなどを持って「居住者以外の立ち入りを禁ずる」という看板もまったく無視して侵攻してきました。あれは立ち入りではなく軍事侵攻です。
板井アパート防衛隊の隊長として活躍してきた管理人の長男が非力だったことはいうまでもありません。それどころかアパートの秩序と正義の象徴として君臨していた女帝でもある管理人のばあちゃんもまったく非力でした。
この物々しい連中ですが、仙台や東京の大学の学生たちが山大の学生に加勢しに来たというもので、合流中継地点として勝手に利用されてしまったというものです。ママさんが小さな子をつれて庭に出てくるどころではありません。そして板井アパート敷地はジュラルミンをもった機動隊に囲まれ、ママが子供を遊ばせマーガレットが咲き乱れる平穏で幸福な庭園はこうして占領されてしまいました。
そのころの山大の先生たちの疲労困憊ぶりはそれは大きく、おじさんがネクタイを緩めてへなへなと板井アパート敷地内のベンチに座り込んでしまいました。「おじちゃん、大丈夫?」と縫いぐるみを抱いたわたしたちも心配になるどでした。ちなみに学園紛争終結後に山大構内には白いアーチ状のパーティションで縁取られたトリトマが植栽された芝生などはなくなっていました。おそらく殺気立った学生たちに踏み荒らされてしまったのでしょう。
そののち山大裏の小白川に「ひがりが丘アパート」という風呂付鉄筋四階建てのアパートが何棟も出来るなどして、板井アパートのステイタスは大きく変化していきました。
写真解説
一枚目 今現在の板井アパート跡地。とくに管理人のばあちゃんが困っていたアパート裏の部分
二枚目 ZARD流れる90年代、山大生が恋を育んだのではないか?という感じのリントランテ、シチリア
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(無題)
自分の日記に書いてくれよ
あまりに個人的過ぎて見てられん
時代。当初は高級。
1955年を昭和に直すと昭和30年。
昭和35年が1960年。
1970年を平成に直さないで昭和に直すと昭和45年。
昭和40年であったら、
1965年に相当すると思います。
1960年の山大の小白川の木造2階だて、
近くの病院も木造2階だて。
1960年の直前に鉄筋4階だて、内湯なしは、
近くの山大と病院が2階だて木造に対してバブル期の億ション以上の高級アパートでしょう。
1970年に、たった10年で、所得制限以下しか入居できない市営アパート。
鉄筋5階だて内湯つき市営アパート。
1970年は所得制限以下しか入居できない鉄筋5階だて内湯つきがある時代です。
高級アパートの億ションを越えた1960年のアパートより。
1970年にたった10年で所得制限より上は入居できない市営アパートが鉄筋5階だて内湯つきです。
県外。
上の層のエリートは引っ越し族かもしれないです。
エリートがよそ者で地元民でないのも、
エリートは引っ越し族で、
外から入ってきて、また別の勤務場所へ行く。
次々に外から入ってきて、また別の勤務場所へ行く。
エリートは、その時代の高級なアパートに降りたつ。
次に来るヤツも、その時代の高級なアパートに降りたつ。
新品の時代のアパートは高級だったけど、
まだ10年で新しいアパートでも、
もっと良いアパートができた後は、
鉄筋5階だて内湯つきの市営アパート所得制限以下しか入居できない市営アパートが、
物質とぶったいと物品。
物質と物品として、高級アパートに上の層のエリートが来るのは当然と思います。
????????????
時代の変遷なのでしょう。
山を見ていた様、仰る通りでしょう。
板井アパートは当然ながら憧れや羨望や嫉妬の対象だったようです。
個人的な感想では神奈川県下の米軍住宅のような感覚だったのかもしれません。
確かにアパート構内は空気が違っていました。
しかし板井アパートより後に山大裏に出来た内風呂付きのひばりヶ丘アパートの方が先に取り壊されました。上から生コンクリートを流し込む工法の為、取り壊すにも大変だったと思います。
※ お詫び
私の過去の投稿はこの場に相応しくないものでした。不快感などを与えましたら申し訳ございません。反省しております。何卒ご容赦下さい。該当記事に関しましてはクッキーを削除してますのでこちらからは削除編集出来ません。削除に関しては作者様のご判断に異存にありません。作者様、ご迷惑をおかけしまして申し訳ございません。
「教養坂」
4月25日のこねこ様ご投稿の添付写真、60年代後半の「山大の通称教養坂」についてお教え下さい。
この坂は現在の正門から続く人文・理学部前の銀杏並木の道から、教養部へ上がる坂道のあたりなのでしょうか?
背景に写っている見慣れない建物は、かつての教養部の建物なのでしょうか?
もし、この頃の構内の様子がわかる写真をまだお持ちでしたら、是非見せて頂きたく存じます。
上述の坂道の45年前と、ストリートビューから拾った現在の写真を添付しました。
筆者の姿が邪魔になってわかりにくいのですが、当時、人の背丈の2倍にも満たぬ小骨のような苗木が坂の中央に植えられていました。
現在はもう大木になっており、1号館前の針葉樹もずいぶん伸長しています。
飯田の基礎棟横の「医学の森」も、私らが記念植樹したぐらいで、貧相な植え込みでした。
現在はまさに「森」となって鬱蒼と繁り、「失われた」でなく、「大きく育った」山形」を感じます。
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教養坂?
たっきゃんさん、間違いなく、教養部の建物前の「坂道」です。
正門から入ってイチョウ並木を歩いていくと、右側が人文の建物(当時は木造)、左側が理学部。そのあとに5メートルくらいの坂道があり、そこに教養部の建物がありました。これは、私が物理科の学生だった昭和45年も同じ風景です。
坂道を登り、まっすぐ行くと、教育学部、右折すると生協や大学会館でした。大学会館前がなんとなく「キャンパス」っぽい雰囲気の広場。大学会館前を左に行くと、グラウンド。
坂を登らないで右折すると、図書館や保健管理センターでした。
ブザー
こねこ 様
板井アパートのブザーですが、管理人室からの呼び出しで鳴るんですよね。大体は家賃の催促なんですけど。以前に貼った画像にそのブザーが見切れて写ってますね。
管理人室も他の部屋同様の同じ造りなんですが、玄関扉脇の下駄箱兼物置の部分が改造されててそこに喫茶店等でよく見かけた公衆電話が据え付けてありましたね。まさにこの掲示板の背景のような色の。
時代背景的に固定電話がない住人向けに置いてたんでしょうけど、そういう電話の応対もあり、管理人室には各部屋の呼び出しができるブザー用の制御盤があったのが印象的でした。
ニコマート
ニコマートのラベルが見つかったので画像を貼っておきます。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8407.fuku990/0002007.jpg
こねこさん
当時のお話は貴重な財産なので、削除対象ではないと判断致します。
いろいろな思い出話を提供していただく場にしたいと思います。
ほかの方々も、貴重な画像はじめ 失われた過去の山形の情報、ありがとうございます。
寮生坂
善太郎さん たっきゃんさん こんにちは。
山大の小白川キャンパス自体が、たぶん傾斜地を段切りして造成されたもののようで、かつてのバス停「山大前」側道路を背に、理学部、教養部を左にみながら直進した時に、最初に差し掛かる坂を「教養坂」と呼んでいたと思います。
で、さらに直進すると、もうひとつ坂があり、そこから門(「裏門」と呼んでいいのだろうか?)を経て、小白川町4丁目方面に出られましたが、こちらは「寮生坂」と呼びならわしていたような気がします。
往時、平清水に存在した山形大学学寮(通称「学寮」)に行くにはこちらのほうがわずかに近いからだと認識していますが、これって一般的だったのでしょうか。
そういえば学寮も、いろいろと事件があって、なんとなく記憶から消された(消した)ような気がしますが、こちらもれっきとした「消えた山形」でありますかね。
#もしかしたら、学寮→清明寮、北辰寮と紫苑寮(通称「おんりょう」)→リフォームしたけどそのまま ということなのでしょうか。
半世紀前の山大
坂道に教養坂や寮生坂などという名前があったとは全く知りませんでした・・
こねこ様の教養坂でスキーをしている写真を拡大してみてみると、建物の右上に盃山らしき山影がみえます。
ということは方角から考えると、この建物はやはり教養部1号館が建つ前の学舎ですね!!
古い航空写真は国交省のHPから見られるものの、どんな建物だったのかは想像するしかなかったので、ちょっと感動しました。
2階建て、屋根があって、各教室からストーブ用の煙突(というのかしら?)がでているのを興味深くながめました。
和歌山の学校では教室にストーブなどなく、職員室にだけ設置され、窓の外にブリキの煙突がでていたように思います。
この写真の左に坂道の石垣がみえますので、皆さんがスキーをしているのは、学生用掲示板が並んでいるあたりでしょうか・・
現在は建物が建っているようですが、私の頃(S48-50)は、掲示板の後には、勾配のきつい土手と石垣がありました。
航空写真をみると、昭和40年は旧学舎で、48年は新学舎です。45年は1号館の正門より東側の部分だけが建っているように見えます。
45年は山大正門右手に、人文学部でしょうか、まだ旧学舎がみられます。善太郎様はこのような過渡期の光景を見られたわけですね・・
なお、人文?の旧学舎跡は私らの頃は更地となって、駐車場として使われ、その向こうに白い瀟洒な洋風建築の文理講堂が見えました。
この風景をもう一度みたいと思っていましたら、下記のブログに写真が掲載されておりました。更地になった直後のようで、昭和46〜47年ごろの写真かと思われます。
隣の煉瓦造りの建物も覚えておりますが、廃屋となって放置されておりました。
以前にも書きましたが、文理講堂は少林寺拳法部の練習場=部室となっていました。
白で統一された太い円柱や、階段手すり、窓枠、彫刻を彫った額縁状のステージ周囲の飾りが、光沢のある茶色いリノリウムの床に映え、
内装もまたレトロな異国情緒あふれるものでした。
私らはよくぞうきんがけ(!)をしていましたので、中は綺麗なものでしたよ。
いつ頃こわされてしまったのか知りませんが、保存できなかったものかと勿体なく思います。
洋館といえば、花小路の東のモルモン教会も2階建ての洋館でした。
通りすがりに、ここが「モンモル教会」かなどと話していたら、突然2階の窓があいて、外人さんに「いいえ、モルモンです!」と怒鳴られたことを思い出します。
また東原だったか、広い庭とかつては瀟洒だったはずの2階建ての洋館があり、
ご高齢の老女お二人が家主でしたので、「お化け屋敷」と呼ばれていました。
ここに友人が間借りをしており、普通の和室でしたが、2階のなんと8+6=14畳を一人で使っていました。
家の廊下は広く、天井は高く、手入れもせず乾燥しきっていたものの、飾りつきの手すりや踊り場がついた広い階段がありました。
トイレも白いタイル貼りで、戦前(明治、大正?)の香りがぷんぷんとするようなお家だったのを思い出しました。
作者様のお許しもあったようですので、個人的なこともながなが書いてしまい、失礼致しました。
http://blog.goo.ne.jp/rekishi-huukei/e/9baa7ff6aa34fc86a06ba7b5477adb82
いにしえの山大小白川
>たっきゃんさん
旧山形高校、山形大学文理学部の同窓会である「ふすま会」が、かつての小白川キャンパスの
写真を集めておられるようで、一部は公開されています。
http://www.yamagata-u.ac.jp/ykouyu/gallery01/gallery2017_old%20photos
これによると、もしかしたら、平清水移転前の学寮は小白川4丁目付近にあり、いわゆる「裏門」
からが寮への近道だったということで、往時から「寮生門」とか「寮生坂」とか呼ばれていて、
学寮が平清水へ移転してからも「寮生坂」の名前だけが残ったのかもしれません。
#実は、1980年代の山大生である私には、どうしてこの坂が「寮生坂」だったのか、不思議でならなかったのです。
このあたり、「ふすま同窓会」関係者の方が何かご存知かもしれません。ちなみに現在、同窓会館は東原1丁目にあり、かつてのわが下宿のすぐそばなんですが、東原在住当時は全くその存在を知りませんでした。「玉ノ井商店」のすぐそばで、玉ノ井商店自体はまあまあ利用していたはずなんですが。。。
もしかしたらつながる話?
連投すいません。
Wikipedia「山形青年師範学校」の項に、以下の記載があります。
−−引用はじめ−−
校地の変遷と継承[編集]
前身の山形県立青年学校教員養成所から引き継いだ南村山郡滝山村 (現・山形市平清水) の校地を使用した。滝山校地は後身の新制山形大学に継承され、教育学部滝山分教場となった。1966年、滝山分教場を廃止して跡地に職員宿舎・学生寮を建設することになり、同年10月、同窓生によって滝山校舎お別れ会が挙行された。旧滝山校地は現在、山形大学職員宿舎、地域教育文化学部附属農場および学生寮 (清明寮) の敷地となっている。
−−引用終わり−−
1966年か67年に、山大の職員住宅と旧学寮が平清水の師範学校滝山分教場跡地に移転したわけですが、それ以前の学生寮(「学寮」)は小白川4丁目付近にあり、また、大学付近の職員の住宅として、板井アパートは重要な建物だったのでしょうが、これらが平清水へ移転した結果として、板井アパートも様変わりし、旧学寮→平清水学寮→清明寮(2001年ころ旧学寮取り壊しの上新築)になった。。。ということで、なんか話がつながるようです。
1980年代東原住人からしますと、板井アパートって、正直なところそんなに印象に残っていないのです。むしろエネオス(日石)の山大前GSのほうが印象深かったりして。
しかし、みんなでいろいろ掘ってみると、思わぬ事実が出てくるものでありますね。
ふすま会
東原界隈はよく自転車で移動してたのですが、住宅地の間に通っている細い路地を抜けるのが好きで、そこで「ふすま会」なる集会所的な物件を見かけておりました。
洒落のきいたネーミングから、地域住民の方々のミニ集会所なのかなと思っておりましたがそうではなかったのですね。
古い写真
熊パンチ様、懐かしの画像ページ情報有り難うございました。
白黒を下記HPで疑似カラー処理してみると、思い出がじゅわっと蘇りました。
文理講堂の正面写真が特に懐かしく、この後、我々の先輩がここに大きな卍マークと「少林寺拳法」の貼り紙を掲げていました。
その南には弓道部の射場があり、いつも「射〜」の声が響いていました。
夏休みのプール開放時は、学館の受付でロッカーキーを借り、向かって左の木造建築の1階で着替えました。
この並びには保健室があって、医師になってから健康相談に出向いたことがあります。
写真に写っている車が、ホンダN360やブルーバード510など、ちょうど私らの青春時代のもので、また懐かしい(涙)。
厚生会館の工事中の写真もありますね。ここの食堂のカツ丼はうまかったが、関西生まれには、うどんの出汁が黒く、みそ汁も辛すぎました。
ただ、シンボル的建築の写真が多く、「坂の上」の古い写真がないのが残念です。
当時はフィルムや現像・プリント料が高かった事もあり、人物は撮っても建物を撮る学生は限られていたでしょう。
古い写真の情報がありましたら、またお教え下さると幸いです。
http://hi.cs.waseda.ac.jp:8082/
話を切ってしまい申し訳ありません...
昔(2005年辺りまでかな?)蔵王一中の近くのエネオスの傍で,13号線沿いにマンボウの絵が大きく書かれている特大の看板があったと思うのですが,
あれは今思うと何のお店の看板だったのか・・
今となっては真っ白で何も書かれていない看板になってます
なにか知っている方はいらっしゃいませんか?
名前が変わった
先日山形に帰省した際に気づいたのですが、ホームセンタージョイの名前が変わっていました。
慣れ親しんだ名前が消えていくのは、何とも寂しい限りです。
山形に住んでいた頃は、マック、吉野家等ネームバリューが全国的な店に憧れ、
そして今は昔山形に存在していた、みつます、蔵王書店等の店名を懐かしむ。
年を取ったんだなと考えてしまいました。
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