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気づき Part2

1幸せな名無しさん:2022/04/09(土) 21:07:34 ID:Lbx0UR1s0
自分はこの言葉で気づけた、変化できたというのをあげていきましょう

参考になったレス、誰かに言われた言葉 等々...

前スレ
ttps://archive.is/csUs4

2幸せな名無しさん:2022/04/09(土) 22:03:42 ID:WLMOvn6g0
パート2 ありがたいです。
前スレで 達人さん?のような方の解説が とても
面白かったんですけど、もう登場しないのかな?
 もっと読んでみたいです。

3幸せな名無しさん:2022/04/10(日) 03:43:16 ID:7jEErwdw0
4 : 幸せな名無しさん 2016/04/13(水) 12:56:16
私が気づくのではない。
私は気づかれる方だ。

私が気づかれる…誰に?

私が気づかれる側ならば、もう気づきの他に気づく者はいない。

そう、気づきそのものが「わたし」であり、唯一の存在。

それは認識とも言える。
認識こそが「わたし」。


と言うことに気づきますた。
ID:mfA0y8aU0 返信
5 : 幸せな名無しさん 2016/04/13(水) 13:01:46
そんなことに気づいてから、別の領域から見ている私もエゴというか、考えであるとわかったのですが、みなさんどうですか?
ID:mfA0y8aU0 返信
6 : 幸せな名無しさん 2016/04/13(水) 13:37:48
私の視覚
私の聴覚
私の触覚
私の味覚
私の嗅覚
私の思考…。

全部私の感覚であり、認識できる。
しかし肝心の「私」はどこに?
「私の私」とは言えない…。

五感と思考が組合わさって架空の「私」が出来ている。
私とはまるでプラモデルの中の空洞のようだ。

では本当の「わたし」とは?
ID:mfA0y8aU0 返信

4幸せな名無しさん:2022/04/10(日) 03:45:08 ID:7jEErwdw0
9 : 幸せな名無しさん 2016/04/14(木) 01:23:22
視覚と私①

視覚という言葉自体に、私の身体の感覚機能という常識的な考えが無意識に作動する。

しかしこの視覚、この目前に映る風景や色形の中に、「私」という視覚の所有者はいるのだろうか?

まず純粋に、視覚には私が映っていないことを観る。

そしてそこに触覚などの他の情報は含まれていないことを確認する。
視覚が伝えることは、色のみなのだ。

そして、私の目もなければ頭もない。
ただただ単純に、色のみが展開していることに気づくだろうか?

手は?
これもただ色、立体的に見えるただの色のツキハギということがわかる。
そこには「私の所有物」としての「手」いう確固たる情報はなんら含まれていない。

しかしそうは言っても、
「こちら側にある私の身体と思えるものは?」
という考えも浮かぶだろう。
しかしこれは思考であり、また身体感覚である。
私とは言いきれない。

やはりそこには「私」という「視覚の所有者」はいないのだ。

ということは、私と対象物との距離もない。

視覚に思考がプラスすることにる絶妙なコンビネーションによって私が作りあげられ、距離もできる。
そこに触覚や聴覚などが加われば、いつも通りの私ができあがる。

もう一度確認してみよう。
視覚の中に、私と呼べる所有者は反映されているだろうか?
ID:LDLEOYgs0 返信
10 : 幸せな名無しさん 2016/04/14(木) 01:26:17
視覚と私②

視覚がただの色であり、色以外の情報は何ら含んでいないことがわかった。
この私の肉体の映像でさえ、ただの色。

この視覚を私の所有物としてしまいがちだが、

視覚はただの視覚。
そこに私もいなければ所有者もいない。

視覚は所有者なく起こっているだけ。
これは五感すべてに言える。

視覚=私が見ている、私の視覚
という感覚は、観念だ。

観念とは
信じて疑わず、信じていることさえも意識しないほど強烈に刻まれた思考だ。

五感のコンビネーションを解きほぐそう。
特に視覚は思考と連携し、確固たる観念により不動の私を想起させる。

もう一度視覚を検証してみよう。
視覚はただの色であり、こちらもあちらもない。
「私」の視覚というものはなく、
ただ視覚が起こっているのだ。
ID:LDLEOYgs0 返信

5幸せな名無しさん:2022/04/10(日) 03:47:26 ID:7jEErwdw0
12 : 幸せな名無しさん 2016/04/14(木) 02:52:05
頭の中の悪魔

この頭の中で話す声。
流れる音。
閃く映像。
これらは頭の中に住んでいる悪魔、メフィストフェレスが変化(へんげ)しているのだ。

悪魔が手を変え品を変え、まるで私であるかのように振舞っているのだ。

実は言うと、この「私」もメフィストフェレスなのだ。

頭の中で、メフィストフェレスが「私」を作りあげているのだ。

そのモデルは、いつも鏡を見ると必ず映る肉体的な存在だ。

悪魔は瞬時に肉体的な存在に変化し、「いつも鏡の中に映る存在が私であり、私が行動している。」と思い込ませている。

またこれらの頭の中での変化を観察する時、今度は「観察している私」に変化する。
非常に狡猾だ。

「気づいていなさいよ」
お釈迦様の言葉。

よくよくメフィストに気づいていよう。
身体の動きに合わせ、頭の中で瞬間的に鏡の中の肉体的な存在に変化していることがわかる。
この変化は「記憶」とも呼ばれる。
ID:8jdIGzNk0 返信

6幸せな名無しさん:2022/04/10(日) 03:48:45 ID:7jEErwdw0
16 : 幸せな名無しさん 2016/04/14(木) 13:02:40
意図と鏡と私

意図→こうしよう
である。

意図しても世界が動いてくれないとはよく聞く嘆き。
本当にそうなのだろうか?
意図は届いてないのだろうか?

まず、私とは世界の中にぽつりと存在する個人である。
という思考から抜け出そう。

世界は私の内面の鏡と言われるが、私自身、私の顔が鏡のような存在であることを認めなければならない。
私とは無色透明な、なんでも映す鏡のような「気づき」なのだ。
その証拠に、私自身を見ようとすると何が見えるか?

あるがまま、そのままの状態、記憶等を交えずに素直に私の方を見てみる。

そこには、世界が見えないだろうか?
それは私の部屋かもしれない、もしくは見慣れた駅のホームかもしれない。
いつもの職場かもしれない。

もう一度しっかり私の鏡を見る。
映るのは肉体的な、顔や目というものではなく、やはり景色。
つまり私は鏡であり世界だった。

私が世界であるならば、私の意図は世界にダイレクトに反映する。

私が前へ進もうと意図する。
そうすると世界が前に押し迫ってくる。
逆に後ろに下がろうと意図する。
そうすると世界が後ろに下がる。

それもそのはず、私は世界なのだから。
実はいつも世界は私が意図した通りに動いているのだ。

では「大金持ちになる」と意図してみる。
意図した瞬間、「カァ!」とカラスが鳴いた…。

これは一体?

「私は世界だというのに、大金持ちにならずに、ただカラスが鳴いただけ…?」
といつものように落胆する。

しかしだ、
私が世界であるならば、“カラスの鳴き声”、そしてその後の、“落胆の思考”さえも、大金持ちになるための「世界の動き」なのだ。

そう、すべては完璧だった。
思考さえも世界を動かす歯車だったのだ。

完璧に私、世界は動いている。
ID:8jdIGzNk0 返信

7幸せな名無しさん:2022/04/10(日) 03:51:03 ID:7jEErwdw0
18 : 幸せな名無しさん 2016/04/15(金) 10:35:20
大前提への疑問

私は様々な物質がひしめく宇宙の中の地球という星に住んでおり、そこでは重力引力があり、朝に日が上り、夜は星が煌めく。
ここでは様々な動物が暮らしており、その中の私は人間である。
私は身体を持っており、頭は体の上部にあり、そこには目や鼻、口がある。
目は色を感じ、耳は音を感じる。
そして私は毎日この地球であれこれと活動し、そしていずれ死が訪れる。

これら当たり前のことをいつの間にか大前提として受けとめているが、なぜこのような世界なのだろうか?

目は見るもの、足は歩くもの、世界や私はこのようなもの…という当たり前すぎて普段意識もしていなかったが、この当たり前すぎるルール、設定、法則。
これらは本当に真実なのだろうか?

普段意識もしなかったこのルールを適応、縛りを設けてるのは、実は私自身なのではなかろうか。

私は自身で釈迦の掌を創り、創ったことを忘れ、いつの間にかその中の事象が全てになっているのではなかろうか。

空が青いとは私が決めたのではないか?
そもそも空などあるのだろうか?
私と空には距離があるのだろうか?
距離って何だ?
そして私という存在さえもいるのだろうか?
ID:hUaxJ5iw0 返信
19 : 幸せな名無しさん 2016/04/16(土) 13:09:48


行為がすべて自動的に起きているとしたら、
「見る」という行為も勝手に起こっているということになる。

また、行為は大よそ「見る」ことによって確認できている(感じるもある)となれば、通常の行為以上に「見る」ということは根元的だ。

「見る」とは何なんだろうか?

この世界を「見る」という行為は、視覚に絞って突き詰めると、
「色を感じる」ということだ。

形は色と色の境界にすぎない。
その境界に対して名前を付け、個別に分離させている。

しかし実際はどうかというと、この世界は色のツギハギだらけしかないのだ。

しかも奥行などなく、すべて平面であることがわかる。
色の濃淡で、手前、奥など名前を付けているにすぎない。
世界と私には境界はなく、私=色だ。

色は形と違ってどんなに離れていても赤は赤、青は青と捉えることができる。
私と色はぴったりくっついているのだ。
色=世界であり、色=私なのだ。

「見る」が起こるとは、
色が起こると言い換えられる。

色こそ「気づき」。
ID:LQRS5RKc0 返信

8幸せな名無しさん:2022/04/10(日) 03:52:16 ID:7jEErwdw0
20 : 幸せな名無しさん 2016/04/16(土) 17:33:54
すごく単純な話

虚空に
なぜか色が生まれ
なぜか音が生まれ。
なぜか香りが生まれ。
なぜか味が生まれ
なぜか感触が生まれ。

「気づき」とはこれらのベースであり、これらそのもの。

それらが相まって思考が生まれ、私個人という錯覚が出来上がった。


感覚とは、これ即ち気づきであり。
気づきとは、これ即ち感覚である。


なぜ生まれたのか?
それはなぜ宇宙が生まれたのか?と同じ。
ID:ZX8CG6Qw0 返信
21 : 幸せな名無しさん 2016/04/17(日) 13:09:44
丸裸になる

「今ここ」において私は何とも言葉では表現できない存在なのだ(あえて言うなら「気づき」や「これ」)。

しかし記憶という思考、ラベルが何層も貼ってあるためそのような存在であることがわからない。

これを一枚一枚、ゆっくりじっくり剥がしていくとどうなるか。

・私は🌕🌕(自分の姓名)である→バリッ!!
・私は男(女)である→バリッ!!
・私は人間である→バリッ!!
・私は哺乳類である→バリッ!!
・私は動物である→バリッ!!
・私は生物である→バリッ!!
・私は物体である→バリッ!!
・私は思考である→バリッ!!
・私は感覚である→バリッ!!
・私は意識である→バリッ!!
・私は観ている者である→バリッ!!
・私は気づきである→バリッ!!
・私は「存在」である→バリッ!!
・私は「これ」である→バリッ!!
・私は「 」である→バリッ!!
・私は…。

ID:y6gm0SCo0 返信

9幸せな名無しさん:2022/04/10(日) 03:54:37 ID:7jEErwdw0

22 : 幸せな名無しさん 2016/04/18(月) 13:33:03
熟睡

熟睡とは何なんだろうか?
すべては意識(あえて言うと)なら、熟睡中は一体どんな状態なのだろう?

私という自我は、見られるものがあるからこそ存在する。
他者という対象がなければ、私を認識することは不可能だ。

つまり他者があるからこそ私があり、私があるからこそ他者がある。

熟睡中はこの他者、もしくは私、このどちらかが完全に消えてしまっているのだ。
片方が完全に消えれば、ただひとつの存在となり、世界を認識することができなくなる。
主客が完全に統一してしまい、ただひとつの存在になってる。

どちらにせよ、意識が消滅したのではなく、分離が無くなったために分別がつかず、完全な無になってしまうと感じる。

朝起きたと同時に意識内で分離が起こり、私と他者が生まれる。
そうやって意識内で私と他者に分離し、自分で様々な縛りを設けて繰り広げるストーリーを楽しんでるのだ。
分離を楽しんでるのだ。

願いが叶わない云々は、人生を楽しむため、私という自我が存在するためには必要な縛りであるのかもしれない。
ID:P.DeThVU0 返信
23 : 幸せな名無しさん 2016/04/19(火) 21:05:02
朝の目覚め

私は瞑想はしないけれども熟睡はする。
今日は熟睡から目覚めへの過程が観察できた、というか思い出せるので書いてみる。

熟睡中は完全な無。
分別なんかない。
ここはまったく覚えていない。

無の彼方から、何か閃きのような、何とも言えない種のようなものが徐々に芽生え始める。

閃きのようなものがだんだんと大きくはっきりしていくにつれ、これは目覚ましの音だと分別した。

この瞬間、「目覚ましの音」を聞く「私」ができた。




しかしなぜ「目覚ましの音」と分別したのだろうか?

これがもし「小鳥の鳴き声」や「最愛の人の声」と自我が分別した場合、目覚めたそこには何があるのだろうか?

この分別、フィルターとも呼ばれる。

「既にある」の疑問が晴れるヒントになるかもしれない。
ID:rfsQRY3Y0 返信

10幸せな名無しさん:2022/04/10(日) 03:55:21 ID:7jEErwdw0
27 : 幸せな名無しさん 2016/04/22(金) 10:26:45
私はいたのか?


過去の記憶のシーンを思い返してみる。

最愛の人との楽しかった思い出…。
仕事で悔しくて泣いた思い出…。

頭に浮かぶのはそれら思い出のワンシーン。

楽しかった思い出も、辛かった思い出も、今の私に続くための美しい経験として心に残っている。

しかし冷静に思い返すと、思い出のワンシーン…そこには「場面だけがある」ということに気づかないだろうか。

最愛の人の笑顔や、憎たらしい上司の嫌みな声が場面に映っていても、そのシーンに私というものが映っているだろうか。

何度思い返しても、私の姿はどの記憶にも映っていない。
あるのは私のいない「場面」だけだ。

その時の私の手や足、また声なども思い出されるが、肝心の私そのものが映っていない。

ということは、それらひとつひとつの記憶、経験のワンシーンの束が、私という経験者をつくり錯覚させ、「“私の”経験である」としているのではないか。
そうしていつの間にか私個人という幻想が生まれたのではないか。

「私が経験をした」
のではなく、私とは、

「経験そのもの」

なのだ。
シーンそのもの。
経験者はいないのだ。

今、まさに今目の前に起こっているそのシーン、場面そのものが「私」なのだ。

意識はひとつである。
その中ですべてが起きている。
物事が起こることと、それを認識すること。
これらは常にワンセット。
つまり見られるものと見るものは同じもの。

今ここで現れた全ての事象が唯一の存在なのだ。

ではもう確認してみよう。
私はいたのか?
ID:PREIrvU20 返信

11幸せな名無しさん:2022/04/10(日) 04:02:25 ID:7jEErwdw0

33 : 幸せな名無しさん sage 2016/05/31(火) 00:29:45
>>12

すげー面白い。

ブッダはマーラ(悪魔)の囁きに負けずに悟ったけども
マーラは自分から湧いて出た、自分と同化したモノだったんだね。

ってか「私という認識」がマーラなんだね。面白い。
ID:HjO8fd/o0 返信

12幸せな名無しさん:2022/04/10(日) 04:03:12 ID:7jEErwdw0
35 : wild sage 2016/06/20(月) 17:01:46
意識の焦点

私とは、意識の焦点によって様々に変化するものである。

普段は、肉体と思考が私であるという観念に縛られているため、何か物を見る時、見る私と見られる対象という分離が起きている。

しかし実は、見る対象に焦点を当てている時は、私個人はいないのだ。

「え?ここに私いるけど?」と肉体に焦点を当てる。
その時私は肉体になっている。
「やっぱり私はこの肉体だよ」と考えに焦点を当てている時、私は思考になっている。
「でも…」と胸の不安な感情に焦点を当てている時、私は感情となっているのだ。

そうやって瞬間的に焦点を外側、内側と移動させているのだ。

一枚のスクリーンの中で様々な現れが創造される。
創造されたと同時に気づいており、焦点が大なり小なり当てられている。

私とはこの気づきであり、焦点なのである。
ID:yIHJFHKU0 返信
36 : wild sage 2016/06/20(月) 17:04:39
てなことに最近改めて気づきますた!
ご意見、新たな気づきありましたら投稿お願いします!
ID:yIHJFHKU0 返信

13幸せな名無しさん:2022/04/10(日) 04:03:48 ID:7jEErwdw0
37 : 幸せな名無しさん 2016/08/19(金) 23:25:49
願望


願望はすでに実現されている。

迷えば迷うが現れる。
探せば探すが現れる。

迷うも探すも、すべて自分の創った不足の「状態」だ。
無意識でもそのような「状態」を選択すれば、その状態がすぐに達成される。
既に現れている。
今も目の前に現れていないだろうか?

では、叶えば叶うが現れる?

叶えば叶うが現れる…
とは言わない。
「叶えば」「叶う」はあくまで結果、外側の現象のこと。

叶うの私の状態は
充足すれば充足が現れるだ。

自分の創った外側に原因を求めてはいけない。
自分がこの世界の主人であり創った張本人だ。
創ってしまったものを嘆いても遅い。
創ってしまったものを変えようと方法をまた探せば、
探すが延々と外側に現れてしまう。
不足がループする。

私たちにできることは外側をコントロールしようとすることではなく、
自身の在り方だけ。
自身の「状態」の選択だけ。

自分の創った外側の結果を基にあれこれするのではなく、「理由なく」ただ充足すればいい。
そうすれば充足が現れる。
不足がないのだから、既に「叶っている」が現れている。

では充足とはなんだ?
喜び、楽しみ、愛?
それもそうだが、
ただ単に不足がない、不足を考えていない状態も充足ではないか?
静寂も充足とは言えないだろうか。

もし不足が起きた時、
充足にしよう、変えようとすることは不足だ。
それが現れるだけ。
そんな努力はいらない。

不足が起きたら、その言葉、感情をただ眺めていればいい。
どうにかしようとせず、ただ
気づいていればいい。
委ねていればいい。
静寂に在ればいい。

「元々静寂(充足)の私が、不足という雑音を創り出しているんだな」と気づけばいい。

不足に気づく、
不足を分離する=統合=充足だ。
「気づくこと」。

願望とは不足に覆われた意図。
まとわりつく不足が無くなれば、それはただの意図となる。
普段意図してることは難なく現れていないか?
例えば水を飲みたいと意図すれば蛇口を〜云々の話だ。
ここで「どうすれば?」「難しいのでは?」など記憶を参照してしまうと、不足に覆われた「願望」を創り出してしまう。
そしてそれが実現する。

元々私たち源泉は完璧がデフォルトなのだ。
何でも持っていて何でも創り出せる。
今不足を感じているなら、充足というベースがある上で不足という雑音を創り出しているだけ。
「ある」があるからこそ「ない」を創っているってやつだ。
そのことに気づけばいい。
ID:caDhVDoE0 返信

14幸せな名無しさん:2022/04/10(日) 04:04:34 ID:7jEErwdw0
38 : 幸せな名無しさん 2016/12/18(日) 14:56:52
言葉にすると真実は遠のく


真実が無いのが真実。
絶対がないという絶対。

つまり元々、
何も無い。

そこに私が真実に対する考え、認識、気づきを掴んだ(ラベルを貼った)とたん、
それが私にとって真実となる。
それは本当の真実ではなく私が創ったもの。
そのため言葉、認識すると本当の真実から遠のくのだ。
そのため本当の真実は、
「 」と表現される。

例えば自由意思のあるなしも、実のところ私の考えなのだ。

しかし、引き寄せに関して言えば本当の真実から遠のいても構わない。
真実の「 」は何も無いのだし、近づいてもやっぱり何も無い。
「 」に、
考え、認識、気づきで世界を自分で創る。

言葉ありき。
言葉で創造するのだ。

そしてこれも考え。
ID:sZ5/firI0 返信

15幸せな名無しさん:2022/04/10(日) 04:05:04 ID:7jEErwdw0
39 : 幸せな名無しさん 2016/12/23(金) 18:53:22
創造主を目撃する


「水を飲むのは簡単だけど、願望を達成するのは難しい。」

願望を達成するのは難しい…。

この考えを創造主の私は創造している。


🌕🌕を食べようと思えば食べられるし、🌕🌕に行こうと思えば行ける。
今もしようと思うことは大体達成しているはずだ。

しかし過去の経験上難しいと思ったものはなかなか創造できない。
それは今ここで「難しい」を創造してしまっているから。

と、今ここでの自分の創造に気づいてみる。

自分が創造主として「水を飲もう」や「動こう」など考えを創っており、
その直後には考え通りの世界が展開していることを自分で目撃する。

そして心の奥で「この願望は難しいよな」と、壁になる考えを創造していることにも気づいてみる。
また壁のない考えはすぐに実現していることを自分で目撃する。

また例えば
拳をグーからパーにしようと思ってみる。
そして実際にグーからパーにしてみる。
その時の、グーからパーになる創造の微細な瞬間を目撃してみる。
私の内面をよく見つつ、「パーにしよう」という意図が起きてから実際にパーに実現するまでの流れ、感覚をじっくり観察してみる。
(これは様々な気づきがあるかもしれない)

そうしているうちに全部自分の創造物であったことに気づくだろう。


「私こそがこの世界の創造主であり、すべて私から生まれている」
「私こそが絶対的な存在であり、この世界は私の認識次第である」
この気づき。
これを無理矢理思い込むのではなく、目撃してみる。

自分は元々創造主であったことを目撃してみよう。
「自分が創造主である」という考えを、創造主として創ってみよう。
ID:57DhMy/c0 返信

16幸せな名無しさん:2022/04/10(日) 04:06:08 ID:7jEErwdw0
40 : 幸せな名無しさん 2016/12/24(土) 18:27:47
いらない創造物を手放す


普段生活していると、創造主である私は無意識に様々な創造をしている。

「仕事が辛い」
「お金がない」
「🌕🌕さんとうまくいかない」
「🌕🌕がムカつく」
「🌕🌕で悲しい」
「どうしたらいいのだろう」
「どうすれば幸せになるのだろう」等々。

今ここで、そのような想いを自分で創造している。
そしてその想いを燃料に、締め付けられるような、どんより重いような「胸の苦しみ」を創造している。

これらすべての想いは、
『自分で創造している』。
そのことに改めて気づこう。

私は自分の創造物に苦しめられていることに気づくだろうか。
創造主が自分の創造物に苦しめられているという滑稽さに気づくだろうか。

胸の苦しみを感じたら、それは何かしらの想いを自分で無自覚に創っている。
その創造物に気づいてみる。

そして、
「これは私が創ったんだよね」
と、創造主目線でその想いを見下ろしてみよう。
創造主として主導権を取り戻し、想いを自分の創造物として意識して気づいてみよう。

それが無意識に創ったいらない創造物ならば、スッと消えてなくなる。

そのままフラットな状態にいると、「楽になったなー」「スッキリした」などの想いが自動的に創造されるはず。
その後で、自分の希望する考えを創っても良いし、フラットなままでいても良い。


私がこの世界の創造主であり、主導権は私にある。
そのことを思い出そう。
ID:r.SoN8gA0 返信
41 : 幸せな名無しさん sage 2016/12/25(日) 03:05:06
>>40
『自分で創造している』がわからないけど、何かハッとした。
ありがとう。
ID:lvBmRjd.0 返信
42 : 幸せな名無しさん sage 2016/12/25(日) 12:55:22
>>41
どういたしまして。


もし私がいなければ、
物事を想うことも、喜びや悲しみを感じることができません。
同様に私がいなければ、周りの世界を見ることも触ることもできません。

私がここにいるからこそ、
想いや感情、そして周りの世界がある。
私がいなければそれらも無い。

それはつまり、それらを私が創ったのです。


そんな見方で物事捉えると、世界がひっくり返るかもしれませんね。
ID:nz.EH7cg0 返信

17幸せな名無しさん:2022/04/10(日) 04:07:15 ID:7jEErwdw0
44 : 幸せな名無しさん 2016/12/29(木) 17:17:21
ラベル


今、たった今、
思い込みや常識、記憶を脇に置いて今をよく見てみる。

どうだろう?

願望は叶っている?
叶っていない?

もし「叶っていない」と思ったならば、何を見てそう思ったのだろうか?

過去の記憶を見たから叶っていないと判断したのではないか?
もしくは「このような状態では叶ったとは言えない」という思考を見たから?

もう一度、「今」だけを見てみる。

よく「今」だけを見た時、そこは
叶っていないとも言えるし、
叶っているとも言える、
フラットでニュートラルな場所ではなかろうか。
これからどうとでもラベルを貼れる無限の可能性を持った創造の分岐点ではなかろうか。
「いや、🌕🌕がないよ」と思ったならば、それはまた思考を見ている。


さらに掘り下げるならば、
今見たその「叶っていない」という思考も、今ここで何のラベルも貼らなければ、
「今」と同じフラットなものなのではないか?

そのフラットなものに「これは叶っていない記憶である」というラベルを今自分で貼ったのではないか?

今がフラットな場所なら、頭に浮かんだその場面もフラットなのではなかろうか?

わざわざそれに「不足の思考」というラベルを自分で貼り、それを剥がそうと頑張っているのではなかろうか?


そのように気づくと、どんな記憶も思考も恐れることはないのだ。
それは実のところ記憶でも思考でもなく、あえて言うなら「現れ」なのだ。
「現れ」に「これは記憶、これは思考である」と自分でラベルを貼っていた。


「記憶思考」もラベル。
「過去」もラベル。
「時間」もラベル。
「叶う叶わない」もラベル。
「願望」もラベル。
「神も仏も」ラベル。
「私」もラベル。
「今」もラベルなのかもしれない。
「 」しかない。

全部自分で貼った。
貼ってストーリーを創っていたのだ。
ID:5x2TGMaM0 返信

18幸せな名無しさん:2022/04/10(日) 04:08:43 ID:7jEErwdw0
45 : 幸せな名無しさん 2016/12/30(金) 23:09:49
異形の粘土


普段感じている「私」とは何なのだろう?
五感と思考が「私」?

では五感、思考とは何なのだろう?
視覚は目に色が映ること?
聴覚は耳で音を聞くこと?
思考は頭にモヤモヤと感じる声?

では目とは何なのだろう?
色とは何なのだろう?
頭とは何なのだろう?
声は?思考は?

と、このようにどんどんと「私」に関するあらゆる事柄に疑問で追求すると、最後には「私」とは何とも形容しがたい「何か」だけとなる。


実は普段感じている「私」は、
何の境界もないこの「何か」に、五感や思考というラベルを貼りバラバラに分離させている。
それをまた存在の中で個としてひとつに再構築したものを「私」としている。

「私」とはラベル、概念の塊だった。
まるで粘土でヘンテコな物体を作り、それに「この子は私と言いまして〜、この二つの穴は目と言いまして〜、外の風景を見る役割をしてまーす!
そしてここは鼻と言いまして〜、匂いを嗅いだりほじったり〜…」など役割付けを細かくしてるかのように。
常にこれらを瞬時に成し遂げている。

「私」が概念なら、「私」が見て感じている「周りの世界」も概念。
外も概念、風景も概念、他者も概念。
外が概念なら時間や距離も概念。
そして概念も概念。
これも存在をラベリングで分離させ、外と内に切り離した。

全部自分で「そういうものである」と決めてるから、それを基にした世界が成り立っていたのだ。
自分は神だった。

もし第三者の神的な存在がいるとしたら、その神から見たこちらの世界は「異形の土塊」の何物でもないだろう。
「隣の神は粘土で気持ち悪いヘンテコなもの創って、名前とかいうものまでつけて遊んでるよ…」と第三者の神は思うに違いない。

しかしこの自分からしたら立派に意味のある粘土。
「私」を含めたこの世界は、概念に概念を塗り重ねて自分の中で成り立たせている異形の粘土だらけの箱庭みたいなものと言える。

そうなると「叶う」も概念。

願望が叶うって何なのだろう?
「頑張って欲しいものを手に入れること」だろうか。
単純に「欲しいものが手に入る」だろうか。
それとも「メソッドによって私の内面が変わり、棚ボタ式に手に入ること」だろうか。
自分でどのように「叶う」という言葉にラベリングしてるだろうか。

これらの言葉すべてがラベルであり、自分で粘土をこねてそれにストーリー性を持たせた粘土細工だ。
「叶う」の言葉自体がそもそも自分でラベリングした概念であり、「渇望するものが悲願の末にようやく手に入ることが叶うである」とさらに細かくラベリングしている。
またそれは、
「願望を叶えるとは非常に難しく、もしかしたら叶わない。死ぬほどの努力が必要ストーリー」も勝手に成立していることにもなる。

ラベルがなければ叶うも叶わないもなく、そこにはただの粘土しかない。


逆に言えば、ラベリング次第なのだ。
現に今も様々なラベリングを粘土に貼っている。
今、目の前の粘土を「画面」とラベリングし「画面とは🌕🌕である」とさらに細かくラベリングしているのも自分だ。
そうして今この瞬間にも自分の箱庭を成立させているはず。


粘土は目前に「既にある」。
そこからどう粘土を形創るかは自分次第なのだ。
ID:PBCbmMLI0 返信

19幸せな名無しさん:2022/04/10(日) 04:09:44 ID:7jEErwdw0
46 : 幸せな名無しさん 2016/12/31(土) 15:35:52
>>40
わかりやすい書き込みありがとうございます。
自分が創造している事を忘れなければドツボにはまる事もなくなっていくと思います。
自分が創造主だという事、忘れたくない大事な事ですね。
ID:gSOl/dss0 返信
47 : 幸せな名無しさん sage 2016/12/31(土) 17:21:40
>>46

ありがとうございます。

おっしゃる通りで、不足も自分の創造物だと気づくともう不足に駆られて何かをすることが消えてなくなりますね。

「わからない」
「どうすれば」
これも私が創ったもの。

そう気づくだけで、その後の「探し求めるストーリー」が起きなくなりますね。
ID:uD.QzAJg0 返信
48 : 幸せな名無しさん sage 2017/01/01(日) 04:50:01
>>44
ありがとう
何のラベルも貼らずにものを見たら…と言う言葉にハッとしました。

無駄なラベルを貼らずに見たら私の願いは完璧に叶ってる。
人と比べて不足してると思うより
自分が持ってるものを大切に見つめれば不足なんて何もなかった。
ID:6qzlpW6Y0 返信
49 : 幸せな名無しさん 2017/01/01(日) 15:13:44
>>48
気づきが起きたようで何よりです。
その気づきがさらなる気づきを呼びます。
今年は人生180℃変わる年となるかもしれませんね。
ID:UAst1SoQ0 返信
50 : 幸せな名無しさん 2017/01/05(木) 00:54:51
何度も行ったり来たりを繰り返してワケが解らなくなっていた。このスレが目に止まって、あぁそうだったと思い出させてくれる事ばかり書いてあった。とても感謝しています。ありがとう
ID:mF8ewWxE0 返信
51 : 幸せな名無しさん sage 2017/01/05(木) 12:56:04
>>50
お役に立てて良かったです。
行ったりきたりは私もよくありますが、混乱自体を私は創ったのだなと自覚するとちゃぶ台がひっくり返りますね。
レスありがとうございます。
ID:QC4L7W7M0 返信
52 : 幸せな名無しさん 2017/01/05(木) 14:26:37
なんのラベルも貼らなかったら、すでに現象化してると捉えてもいいんですよね?
ID:V3SZRRmw0 返信
53 : 幸せな名無しさん sage 2017/01/05(木) 23:46:43
>>52
申し訳ないのですが、そのような質問にはお答えできません。

なぜなら52さんの主観の世界では、52さんが創造主であり、神であり、すべての考えの主導権を握る唯一の存在だからです。
ご自分の創造物である他者の言動に左右されては今までと変わりません。
私に同意を求めるのではなく、創造主としてどの考えを採用するか、ご自身で決めることが肝要かと思いますね。

「ラベルを貼らない」を実際にやってみた時、その直後にどのような考えが起こるでしょうか。
その考えが52さんにとっての真実となります。

主導権は52さんにあります。
ID:HE1A.x6A0 返信
54 : 幸せな名無しさん 2017/01/06(金) 00:45:06
>>53
52です。
ご丁寧かつ、あたたかいお言葉ありがとうございます。
創造主ってなんかかっこいいですね。
決めていいんだなって思いました。

多分答えがわかってての疑問?なんだろうなと思いました。

ありがとうございます。
ID:PSoqC/w20 返信
55 : 幸せな名無しさん sage 2017/01/06(金) 23:16:26
>>54
いえいえとんでもないです。

そうですね。
自分の世界の全てを司るかっこいい創造主でいてください。
ご自身の過去の創造物に左右されるのではなく、
「主導権はいつでも創造主であるこの私にある!」
この決意と自覚です。
意を決する=「この私が意図を決める」ですね。
フラフラと思考に惑わされることも少なり、意図した通りに事を運ぶ自信に溢れた創造主となりますよ。
ID:kLhicgBg0 返信

20幸せな名無しさん:2022/04/10(日) 04:10:58 ID:7jEErwdw0
56 : 幸せな名無しさん sage 2017/01/09(月) 00:13:44
パラレル遊び


どこかを静かに見つめる。
意識をどこか一点に軽く集中するか、もしくは逆に全体に拡げてみる。
これはどちらでもいい。
しかし視線は動かさないようにする。
そのまま思考が収まるのを待つ。

思考が静かになったら、自分に聞いてみる。

「今、願望は叶ってる?」

ここで思考が起こる。
🌕🌕がないから
🌕🌕だったから
🌕🌕とは思えないから
「叶っていない」と。
この思考をしっかりと捉える。

なぜ私は普段、その声を「真実」としてしまうのだろう?
今ここでは、実際叶っていない証拠など何もないではないか。
あるのは見つめていた壁の一点だけだ。
しかしなぜか私は「叶っていない」という幻想を真実として採用してしまいがち。

そして、それを採用すると今いるこの部屋も「叶っていない私がいる世界」になっていることに気づく。
感覚的なところだが。


もう一度、一点を見つめる。

「今、願望は叶っている?」

また不足の思考が湧き出すが、それはいらない幻想であるから今は流してしまおう。

そして、
叶った後に湧くであろう思考を想像する。
それを今ここで湧き立たせてみる。

湧き立った時点で、本当に今叶っているのだ。
そして周りを見渡すと、今いる部屋も「叶った後の私がいる世界」になんとなくだがなっているはず。

「いやいや、だって…」
が湧きだしたら元の世界に戻っている。
そんな思考は採用せず流したり、自分の好きなように解釈して採用しなければいい。

これらを遊びのつもりで、
しかしじっくり内面を観察しつつやってみる。

もしこれらが面倒なら、
「どんな不足思考が湧こうが何を思おうがしようがしまいが叶っている世界」にいきなりパラレルしてもいい。
そしたらもう何も必要なことなどない。そのままでOK。
しかし遊びとしては少しつまらないかもしれない。


そんなことをして暇を過ごすのも悪くない。
ID:diSCkDT20 返信

21幸せな名無しさん:2022/04/10(日) 04:12:02 ID:7jEErwdw0
58 : 幸せな名無しさん 2017/01/19(木) 12:58:58
私は…


「I am that I am」

神が神自身を表した言葉。

Iam…
私は…


目を瞑り、静かに
「私は…」と思ってみる。

言葉だけだと意味不明である。
それは、言葉を超えた場所を指差している言葉だから。


「…」には何もラベルを貼らない。

「私は…🌕🌕だ!」とラベルを貼らない。

何かを思うわけでもない。

どこかに集中するわけでもない。

どこかに注意を着地させるわけでもない。

どこにも意識を当てない。

思考のさざ波を起こさない。

起きてもさざ波を掴まない。

ただ静かに「…」に在ってみる。

しかし「在ってみよう」とも思わない。

思わないとも思わない。

何かを期待もしない。

探しもしない。

何もしない。

しかし「しない」とも思わない。

「…」の中で死んでみるのだ。



ふと我に返り思い出すと、
「何か」だけが在った。

思考はないが、気づいている「 」だけが確かにそこには在った。

喜びも不安もなく、
何も貼られていない何か…。

私もあなたもなく、
外側も内側もなく、
それを認識するものもなく、
ただひとつになった「 」。


追い求めることに疲れたら、
今苦しく辛いなら、
「 」の中に死んでみよう。

ふと気づくと、
静かな安らぎに包まれているかもしれない。
ID:hESWkSwc0 返信

22幸せな名無しさん:2022/04/10(日) 04:12:54 ID:7jEErwdw0
64 : 幸せな名無しさん 2017/01/21(土) 01:46:54
モヤモヤ


「お金が無くて支払ができない!」

しかしよく観て欲しい。

「お金」
「無くて」
「支払」
「できない」

と、ひとつひとつの言葉に意味を持たせラベリングし、それを繋げてさらに意味を持たせているのは私の「思考」であることがわかるだろうか。

つまり「お金が無くて支払ができないストーリー」を私が創ったのだ。

私は普段、思考でどんどんとラベリングし、ストーリーを決め、現実というものを次から次へと創っている。
そんな私をよく観察してみよう。


そして、
この思考に「思考」とラベリングしているのも思考である。

この「思考」というラベルを外して見た時、残るのは何なのだろう?
この頭の中のモヤモヤしたような、音のような、映像のようなものは一体何なのだろう?

何でもない。
あえて言うなら、
ただのモヤモヤ、エネルギーのようなものである。
これ以上は追求できない。

このモヤモヤに「思考」というラベルを貼っているだけだった。
本当は元々何も起きてない。
恐怖も心配事も同じ、
ただのモヤモヤ。

「なんだ、この世界はただのモヤモヤか…」

「私がモヤモヤに意味付けしてたんだ」

「私が全部創っていたのか!」

そのように気づくことが、現実という思考、ラベルに力を持たせないということ。
執着した想いを手放すということ。

そしてさらに言うなら、
この「私」も思考である。
実は私もモヤモヤだったのだ。

この世界は私や他者、外側内側など境界はなく、ただただモヤモヤしたものが満遍なく漂っているだけのひとつの意識。
「苦しい私」もいない。

だからもう何も、
心配することはないのだ。
「安心」というラベルが貼られれば、
安心ストーリーが始まる。
ID:S5zmtj5M0 返信

23幸せな名無しさん:2022/04/10(日) 04:14:27 ID:7jEErwdw0
65 : 幸せな名無しさん 2017/01/22(日) 19:40:26
既にある


さて目の前にリンゴがある。

これは本当はリンゴではない。
モヤモヤ、粘土のようなものだ。
これに思考で「リンゴ」とラベリングした。
そしてこの思考も、モヤモヤに「思考」とラベリングしたものだ。

そしてリンゴの手前に私がいる。
この私もラベリングされたモヤモヤである。

リンゴと私は別々の存在と思い込んでいたが、実はどちらもモヤモヤ、粘土だった。
認識できるものは全部モヤモヤだ。

あるものは全部モヤモヤ…。
私も私以外も、全部モヤモヤだった。
すべてモヤモヤ同士、繋がっていたのだ。
元々分離などしていなかったのだ。


そしてこのモヤモヤの起こる場所、この空間、主観、この意識…、
これこそが、「本当のわたし」だった。


普段「私には足りないものがある」という認識、不足感があったのは、私という一部のモヤモヤを自分としていたからだった。
本当はどちらも「わたし」なのだ。
「全体から分離している」とはこのことである。

この全体視点で観ると、足りないものなど何もないではないか。
元々全部「ある」ではないか。

全体であり創造主であるこの「わたし」が、創造物と一体化してしまい「分離している」「不足している」と思い込んでいるからそのようなストーリーを創ってしまうのだ。

元々既にあり、すべて揃っていた。
足りないものなどなく、「足りない」を創造していた。
そのことに気づこう。
ID:g0wsrpFU0 返信

24幸せな名無しさん:2022/04/10(日) 04:18:16 ID:7jEErwdw0

72 : 幸せな名無しさん 2017/02/02(木) 13:02:23
障害物レース


結局叶えるために、
何が私に必要なのだろうか?
何が私に足りないのだろうか?
と、つい考えてしまう。

しかしこの「わたし」という主観世界の中で、
必要なことや足りないものなど何もないではないか。
世界は「このわたしそのもの」であり、元々すべて揃っている。

「私」と「あなた」
「こちら」と「あちら」、
そのような垣根を取っ払って見てみれば、目の前の高級住宅も、好きな人も、
すべてこのひとつの意識、
この主観に顕れているではないか。
元々「既にある」のだ。

そうは思えない?
「そうは思えない」という思考を、わたしそのものであるこの世界に今創り出しているではないか。
そして「そうは思えない」を基にした現実を創り出そうとしているではないか。



「世界=わたしそのもの」は、なぜか
わたしの顕れの一部である五感と思考を、世界とは別物として切り離した。
そしてその別物である思考と五感の中心と思える所に「私」の足場を創った。
そのうち
「肉体を纏った私」という個の存在が出来上がり、
「こちらが私で、あちらが世界」という分離の幻が出来上がった。

それは不完全な存在であると私は自分で決めつけている。
私はその不完全を補おうとあれこれと探し回り、何かをせずにはいられない。
本当はすべて揃った完璧なわたしなのに、私はわざわざ「足りないこと」を創っている。
わざわざ高いハードルを自分で設けているのだ。

例えるなら、
自分で障害物レースを主催し、自分一人だけ出場し、自分でわざわざ置いた高いハードルを一生懸命飛び越えようとしているのと似ている。

ゴールはそのまま通り抜ければ良いのだ。
もっと言うなら、
もう既にゴールしているし、そもそもレースやゴールもない。
わざわざ自分で障害物レースを主催しコースまで創らなくても良かったわけだ。

一人レースが無意味であるという話ではない。
レース形式の方がゴールしたという達成感、歓びが生まれるのは確か。
しかしハードルを何度も跳び越え、レースを完走する努力や苦しみが起こるかもしれないということ。
それはそれで人生を感じるし、ドラマとしては完璧で美しい。
何をやってはいけないというわけではない。



このレスもハードルになるかもしれない。
「これを理解すれば叶うのか?どうすれば気づけるのか?」
「どういう意味だろう?体感しないとわからないのかな?」
などレースの準備をし、今ハードルをどんどん置いてはいないだろうか?
それに気づくだろうか?


わからないならわからないままでもいい。
「わたしは今、この世界にわからないを創ったんだな〜」とただ自覚するだけ。
それだけでハードルが撤去されることを感じるかもしれない。
余計なハードルやコースを創らなければ、「ここ」「この今」がゴールだったことに気づくかもしれない。

しつこいようだが、
「いやいや何にも見えないし」と思ったなら、その思考を今創ったのだ。
「見えるまで頑張ろう」と思ったなら、ハードルを置き始めた。
「よし、見えるようにまとめ読もう」と読み始めたなら、ハードルを跳び始めた。
と、いうこと。
そのように創造主のわたしは現実を創っているということ。
それでも別に構わないし、
跳ぶのを止めてそのままコースに座り込んでもいい。
そこがゴールだ。

叶えるために必要なことは特にない。
元々「ここ」「この今」に全部ある。
ID:0qPte18c0 返信

25幸せな名無しさん:2022/04/10(日) 04:30:19 ID:7jEErwdw0
75 : 幸せな名無しさん sage 2017/02/04(土) 18:42:01
>>74
ありがとうございます
最近、頭の中で繋がってきて少しわかるようになってきました
頭では何となく分かるんですよね
「世界は自分がつくってるのかも そう考えてもいいな」
「この行動の背後にはこういう観念があるな」
「あ、その観念通りの世界になってるわ」
「自分の望むように認識すれば良いだけじゃん」
という風に
先日そのバカバカしさに笑いが止まらなかったんですが
いざ現実に直面するとエゴに翻弄されて同じような行動ばかり
変わらぬ現実を見続けてます

解決策として自己観察とか自愛でエゴに飲まれないようにする
でも、これも
「自己観察、自愛を上手くやらないと」
「エゴにのまれないようにしないと」
という新たなハードル、物語を
創造してるような気がするんですよね

おっしゃるように壁を崩したいんですよね
それで楽になりたい・・・・

どうしたらいいのか?
あ、「どうしたらいいのか」という物語を創造してますね・・・
ID:6SRjiwDY0 返信

80 : wild sage 2017/02/05(日) 17:40:01
>>75
観察と自覚ができているじゃないですか。
それでいいんですよ。

そもそも実社会で揉まれて生きていれば、ハードルを創ってしまうのは当然であり仕方のないことです。
それが人生みたいなもんですからね。
ただそこに気づけてるかどうかですね。

苦しいのは多分、自分の思考や感情に気づいたそばから「これでいいのだろうか?」と思考に飲まれているのかもしれません。
そこも気づいてやるという強い意思を持ってやるしかないですね。
やり続けてある日ガツンと来る。
そこでようやく「体感」として腑に落ち、身体で達人さん方が言っていることがわかります。

ですから私は、理解そこそこにまずはやり続けることをおすすめしてます。
やることに矛盾を感じますけどそうなんです。
苦しいでしょうが、試行錯誤しながらもそのまま続けてみて下さい。
ID:v5YbWTl20 返信

26幸せな名無しさん:2022/04/10(日) 04:55:52 ID:7jEErwdw0
以上、前スレwildさんのまとめでした!

27幸せな名無しさん:2022/04/10(日) 08:07:34 ID:bRKjWbfE0
>>26

ありがとうございます!
この道で 理解しよう 実践しようと頑張ると
必ず突き当たる疑問とか トラップが
スラスラと説明されているので スッキリするし何度も読みたくなりますね。

28幸せな名無しさん:2022/04/10(日) 12:28:32 ID:IMFcMVWE0
>>2
最近wildさんがどのスレか忘れたけど登場してたよ

29幸せな名無しさん:2022/04/10(日) 13:41:40 ID:bBVD3a3s0
>>28
ありがとうございます。
 僕は潜ちゃん覗いて長いつもりなんですけど、wildさんって方は初めて知りました。

30幸せな名無しさん:2022/04/10(日) 14:27:38 ID:UxPNSJb.0
>>29
自己観察スレに来てたね。
名無しでたまに自己観察スレに来てるみたいだから、自己観察スレも見てみれば?
過去の見ると、wildさんらしきレスが多々ある。あとwildスレもまだ残ってるはず。

31幸せな名無しさん:2022/04/10(日) 14:36:50 ID:UCuFVM6s0
>>30
名無しで登場されてるんですね!
ありがとうございます♪

33幸せな名無しさん:2022/04/22(金) 16:35:39 ID:cpXxHDzc0
wildスレ
ttps://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/9650/1462771781/


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