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沖浦克治と語るスレッド
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前のスレが終了致しました。
今回自分で立てます。
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昨日のロム数が、40となって、50を割りました。
そろそろこの板もたたみ時かと思えますが、いかがでございましょうか?
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来年で おわりとしますか
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暮れでみなさんお忙しいのでしょう。
しばしの猶予をお願い致します。
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皆様方、新年あけましておめでとうございます。
この年が益々繁栄の年となりますよう、祈ってまいります。
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沖浦さんはじめ皆さん
新年明けましておめでとうございます
今年も宜しくお願い致します
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新年明けましておめでとうございます
皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます
共々に躍進して参りましょう!
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阪神大震災から20年経ちました。
私は当時神戸市役所職員でした。
謹んで犠牲になられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
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私事なのですが
約20年くらい前でしょうか、私が学会活動で悩んでいた頃、(ノルマ的な成果主義の活動)、母親に「これからの時代は個々に自分の中に創価学会を確立させていかないといけないよ」と言われました。
いまだにこの言葉が心に残っているのですが、なんとなくですが、これは本質を見極めなければダメだよ、という事なのかなぁと思うようになってきました。
何のための学会活動なのか?
よく地元の幹部の方々は先生のために、といいながら期限を切って成果、数字を求めます。
目標の数字をクリアしたら勝ち、クリア出来なかったら負け。
直近の幹部にハッパをかけられ、やらされてる感、数字をクリアするために大切な友人知人を利用してるだけ?上の幹部に報告する中間幹部のためにやってるような学会活動が嫌になったりしました。
しかし、今は、先生がお喜びになるのは、私が学会活動で接したその一人の人が、人生に希望をもち、今日も明日も、頑張って生きていこう!と幸福に向かって進んでいけるようになる(表現がヘタですみません)という事と自分勝手に決めております。
稚拙な文章、失礼しました。
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ハキムさん、今晩は。
先生がお喜びになる??
それは他力本願です。
自分が歓喜する人生を送ることです。
『又云く「此の経は持ち難し若し暫くも持つ者は我即ち歓喜す諸仏も亦然なり」云云、』
(四条金吾殿御返事)
自分自身が歓喜の人生を目指す。
すると周りも歓喜する。
先生は関係ございません。
そういう事で師匠を利用するとダメです。
ダメ幹部がよく言いますよ。
この戦いに勝利するなら〜〜!!
池田先生が〜〜〜〜!!
お喜びになられる〜〜〜〜〜!!!
アホですね。
こういうアホを見習ってはいけませんよ。
>「これからの時代は個々に自分の中に創価学会を確立させていかないといけないよ」
自分が創価学会員であることに誇りを持てる人生。
それが大歓喜です。
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沖浦さん、こんばんは。
レスありがとうごさいました。
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「習いそこない」の沖浦克治さんへ、「無知」な蝸牛より
「巌虎独白」のブログでは迷惑ばかりかけますので、こちらに書き込みます。
「巌虎独白」の沖浦克治さんのコメントより。
> 『此の文は始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり。』
> (御義口伝巻下)
>
> 本来の仏なら下種の意味がない??
> 仕方ないですよ、大聖人が仰せなんです。
>
日蓮は貴方のいうような意味のことを言っておりません。
「観心本尊抄」に
「 一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う、」
とあります。この仏の慈悲と衆生の信とがかかわるところに下種が存在します。これが大前提。
「習いそこない」の我見をさも真実のように書かないでください。
> 嫌なら、大聖人門下を辞めることですね。
> 簡単な理屈です。
私はすでに日蓮門下でも何でもありませんが、それが何か。ただ、私が日蓮門下でないからと言って、日蓮の解釈に対して貴方より劣っているとは思っておりませんが。
> 貴方の好き嫌いはこの際関係ありません。
私の書いたことで、好き嫌いに関わることがありましたでしょうか。もしそう貴方が思えるのなら、それこそ貴方の「習いそこない」の目からみた偏見としか言いようがありません。
> 商売に有利??
> 無意味な言葉ですね。
商売の話をいつも他人のブログに書き込んでられるではありませんか。
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自分自身のことを グダグダ たらたらは 何の問題もありません
よくありがちな 「あれだめ コレだめ」で おわりは
ここの他では 「あほう」と いうことになってます
批判するときは 「わたしは こうだ このようにしている」を あらわすように
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飛躍しすぎで 何のことだか わからんぞ
はじめは 教がうのはなしかなぁとおもったら
最後は 商売が どうとか
かっこいい\\い!
じゃあ また あそんでやってや
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蝸牛さん、おはようございます。
巌虎さんにご迷惑ですから、こちらに来られた。
優れたご判断です。
真面目にお答えいたします。
大聖人仏法の極意は、
一切衆生がそのままの姿で、本来久遠からの南無妙法蓮華経如来である。
これに尽きます。
御書を深く読むと自然にそういう結論になります。
『過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり、』
(船守弥三郎許御書)
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どうも、「全く無知の蝸牛」です。
「習いそこない」の沖浦克治さん。
> 一切衆生がそのままの姿で、本来久遠からの南無妙法蓮華経如来である。
>
> これに尽きます。
> 『過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり、』
> (船守弥三郎許御書)
> 御書を深く読むと自然にそういう結論になります。
なりません。貴方の解釈が間違っているだけの話です。「深く」誤解しているだけの話です。
「観心本尊抄」を始めから終いまで、お勉強してください。「下種」とは何かということを全くわかってられないようですので。
もうひとつ、「習いそこない」の沖浦克治さんが巌虎独白ブログで、書かれていた内容ですが、またお聞きします。
http://white.ap.teacup.com/ganko/2064.html#commentより
2015/1/30 19:06のコメント
> 虚空不動定は本門の本尊ですが、衆生己心の妙法である南無妙法蓮華経。
> 曼荼羅ではないのです。
2015/1/30 7:09のコメント
> この中で、本門の本尊とは大聖人御図顕の全ての本尊と(十界曼荼羅と言う表現です)、それを書写した本尊で、戒壇本尊もそれに含まれ> るが、戒壇本尊のみが本門の本尊ではない。
いったい「曼荼羅」は「本門の本尊」なのですか。違うのですか。
あと、「習いそこない」の沖浦克治さんは、現在、日蓮の「出世の本懐」とは何だと考えてられますか。
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「習いそこない」の沖浦克治さんは、本当に自分の都合のいいように日蓮の言葉を切り取るのがお好きなようですので、私もそれに習いましょう。
草木成仏口決
「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり、当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり」
まあ、まさに「習いそこない」の沖浦克治さんにささげたいですね。
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蝸牛さん、今日は
折角の論議ですが、貴方が私を、習い損ないとお呼びになられるなら、今後のお話はお断りいたします。
習い損ないでない人を選んで、その方とどうぞ。
先ず、そういう侮蔑の非礼をキチンと詫び、その上で礼節を弁えるならお相手致します。
謝罪をどうぞ。
それ以外を書かれると、即時アクセスをお断りいたします。
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きみ 「わかたk」に いったら?
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「習いそこない」の沖浦克治さん
> 折角の論議ですが、貴方が私を、習い損ないとお呼びになられるなら、今後のお話はお断りいたします。
>
> 習い損ないでない人を選んで、その方とどうぞ。
>
> 先ず、そういう侮蔑の非礼をキチンと詫び、その上で礼節を弁えるならお相手致します。
>
> 謝罪をどうぞ。
>
> それ以外を書かれると、即時アクセスをお断りいたします。
ありゃ、貴方は巌虎さんのブログで、私を「全く無知」という、称号を授けてくれたわけです。ですので、貴方のブログ(掲示板)に書き込むときに採用させていただき、かつ私は貴方に「習いそこない」の沖浦克治さんと呼ばせていただきました。
> 先ず、そういう侮蔑の非礼をキチンと詫び、その上で礼節を弁えるならお相手致します。
自分のブログでなく他人のブログでもって、そこに書き込んだ第三者を「全く無知」呼ばわりすることが「非礼」ではないのですか。たいした倫理ですね。さすがに自分勝手な論理をいたるところに垂れ流す「沖浦克治」さんです。あなたが私に謝罪がない上にアクセス禁止ですが、ど
うぞご勝手になさってください。ここは貴方の掲示板ですから、貴方の自由です。
> X-PRO-Zさん
> きみ 「わかたk」に いったら?
どうも、すでに行っております。
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どおりで 下品なわけだ
裏切り者になる前に 帰ったふが よいぞ
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蝸牛さん、残念ですが、貴方が謝罪を去れないなら、これで打ち切りに致します。
ここは私の板ですので、かきこみなさる貴方が先ず謝罪をするのが筋です。
これが最後の警告です。
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> ここは私の板ですので、かきこみなさる貴方が先ず謝罪をするのが筋です。
では、巌虎独白のブログでまず貴方が謝罪をしてください。
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巌虎さんのブログは、巌虎さんの管轄です。
貴方と私のどちらが優先順位があると言うものではありません。
ですが、私が謝罪することで貴方がここで礼節をお守りいただけるなら、謝罪致しましょう。
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沖浦克治さん
巌虎さんのブログを拝見しました。どうも御苦労さまでした。
もうここに書き込むことも、しばらくないと思いますが、また書き込むことがありましたら、礼儀を守って書き込みます。
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蝸牛さん、今晩は
ではまた機会がございましたら。
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>巌虎独白のブログより
蝸牛です。巌虎さんのブログに直接書き込むのは失礼だと思いましたが、あまりにも何なので書き込ませていただきます。沖浦克治さんの掲示板にも書かせてもらうつもりですが。
>沖浦克治さん
> 私たちの命がそのまま大御本尊で、宝塔そのもので、南無妙法蓮華経の当体なんです。
> それだけ知っていれば良いのです。
>
> 寛師はここに迷った。
> 習い損ない故ですね。
日寛の「観心本尊抄文段」に「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」とあります。
全く同じことを言ってますね。
日寛は「習い損ない」ではありません。それを「習い損ない」と評価した沖浦克治さんが習い損ないですね。
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蝸牛さん、今晩は
私は池田先生が四国でこの指導をされたころ、指導の録音係でした。
兵庫の本部で電話回線から流れてくる指導を、10台ほどのカセットデッキで一斉にコピーし、それを次の日に、地方の中心会館で会員が集まって聞くシステムでした。
その時、自分の分もダビングし、移動の車で暗記するまで聞いたものでした。
この指導もリアルで聞きました。
寛師は良い所まで行ったのです。
然し、最後の最後で、戒壇本尊が三大秘法の当体だと言ってしまった。
一凶ですね。
この一凶が習い損ないを決定づけた。
お気の毒ですね。
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>沖浦克治さん
>> 私たちの命がそのまま大御本尊で、宝塔そのもので、南無妙法蓮華経の当体なんです。
>> それだけ知っていれば良いのです。
>>
>> 寛師はここに迷った。
>> 習い損ない故ですね。
>
> 日寛の「観心本尊抄文段」に「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」とあります。
もういちど申しあげます。日寛は「迷っ」ておりません。同じことを言っております。ですから、ここの部分を以て日寛が「習い損ない」と決定することはできませんね。ここは再確認させていただきます。
> 私は池田先生が四国でこの指導をされたころ、指導の録音係でした。
「この指導」とおっしゃるのは、2月14日の新・人間革命の以下の部分でしょうか。
> 「ここでは、阿仏房を対告衆として、わが身そのままが妙法蓮華経の当体であり、宝塔とは、南無妙法蓮華経と唱える私たちにほかならないことを示されています。
>
> これこそが、仏法の教えの結論であるといえます。したがって『此れより外の才覚無益なり』――“これだけ知っていればいいのですよ”と言われているんです。
>
> 本来、私たち自身が宝塔であり、大御本尊なんです。この己心の宝塔を顕現させるための生命の明鏡として御本尊がある。ですから、いつ、どこにいようと、自分のいるところが宝塔の住処となり、常寂光土にすることができるんです。なんの心配もありません」
ですから、これと同じことを日寛が池田さんよりはるか前に同じ内容を残しているのですよ。
> 寛師は良い所まで行ったのです。
> 然し、最後の最後で、戒壇本尊が三大秘法の当体だと言ってしまった。
戒壇本尊が「三大秘法の当体」と言ったからってそれがどうだっていうんですか。
日蓮正宗の歴史の中ですでに存在していた「戒壇本尊」を大前提としてとしかものを言えなかった事は、いわば歴史的な限界であり、今の私たちの知りえたことから裁断してどうなるというのですか。いくらでも好きなことが言えますよ。
日蓮だって、釈迦の没年を当時の時代の常識に合わせて、末法がいつ頃になるのかを判断しております。そしてそれは現代の知識からは間違っている。沖浦克治さんの言い方をすれば、日蓮だって習い損ないとなります。その辺はきっちり言明していただきたいものです。
私は、日蓮は間違っていたと思う、それだけです。間違っていたから全部ダメか。そんなことはないでしょうと思っております。
そうすると、沖浦克治さんのいう「習い損ない」という言い方は、それ自体が全く意味をなさない、沖浦克治さんが自分の好きなときに口にされるどうでもいい言葉になります。
> お気の毒ですね。
誰に、何のことについて、「お気の毒」っておっしゃってるんですか?
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大商人様は 考古学者でも 歴史学者でもない
ネット検索して わかったつもりなる われわれとは ちがうのである
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蝸牛さん、今晩は。
>> 日寛の「観心本尊抄文段」に「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」とあります。
もういちど申しあげます。日寛は「迷っ」ておりません。同じことを言っております。ですから、ここの部分を以て日寛が「習い損ない」と決定することはできませんね。ここは再確認させていただきます。
この部分が習い損ない損ないだとは一度も言っておりません。
ここは正しいのです。
ですので、良い所まで行ったんですよ寛師はね。
所が、
就中、弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐中の本懐なり。
既に是れ、三大秘法の随一なり。
況んや、一閻浮提惣体の本尊なる故なり
こういう愚かな事を言ってしまった。
だから習い損ないです。
曼荼羅は出世の本懐でも、三大秘法でもありません。
私共が信心をするための道具です。
寛師が日蓮正宗の教義に縛られて、こういう事を言ったとしても、習い損ないには変わりありません。
貴方は反対のための反対を書かれています。
これ以上そういう事をなさるなら、アクセスをお断りいたします。
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蝸牛さん
『本来、私たち自身が宝塔であり、大御本尊なんです。
この己心の宝塔を顕現させるための生命の明鏡として御本尊がある。』
私共の己心の南無妙法蓮華経を顕現させるために、御本尊がある。
鏡なんです。
鏡って道具です。
その道具が、三大秘法である道理がない。
三大秘法は、顕現される私ども衆生己心の妙法である、南無妙法蓮華経なんです。
寛師はここに迷った。
習い損ないの所以です。
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沖浦克治さん
蝸牛です。
もう一度お聞きします。
> この部分が習い損ない損ないだとは一度も言っておりません。
> ここは正しいのです。
とおっしゃってますが、以前から、
>> 私たちの命がそのまま大御本尊で、宝塔そのもので、南無妙法蓮華経の当体なんです。
>> それだけ知っていれば良いのです。
>>
>> 寛師はここに迷った。
>> 習い損ない故ですね。
じゃあ、貴方のおっしゃった「ここ」って何を意味していたのですか。
> 貴方は反対のための反対を書かれています。
>
> これ以上そういう事をなさるなら、アクセスをお断りいたします。
反対のための反対を書いてなんかいません。沖浦克治さんが勘違いされているのではないかということを文献的な根拠をもとに書いているだけです。で、結局アクセス禁止ということでしたら、以前と同じことをされるわけですねえ。
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沖浦克治さん
>>365
> 私共の己心の南無妙法蓮華経を顕現させるために、御本尊がある。
> 鏡なんです。
> 鏡って道具です。
> その道具が、三大秘法である道理がない。
> 三大秘法は、顕現される私ども衆生己心の妙法である、南無妙法蓮華経なんです。
>
> 寛師はここに迷った。
「鏡」ですか。
日寛は、同じく「観心本尊抄文段」に
「末法下種の正体、行人所修の明鏡なり、故に宗祖云く『此の書は日蓮が身に当る一期の大事なり』等云々」って、同じことをすでに書いているんですよ。少しも迷っていないじゃぁないですか。
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蝸牛さん
御本尊は手段なんです。
それが分からなかった。
若しくは可能性としてはこちらが大きいのですが、わからないふりをして、無理やり曼荼羅を三大秘法の当体にしてしまった。
御本尊の前に端座し、唱題するなら、私共は久遠の南無妙法蓮華経如来としての本来の姿を湧現できる。
御本尊が鏡となって、映し出すのです。
ですから、手段で道具ですね。
所がその道具を出世の本懐で三大秘法の随一だと書いてしまった。
ここが習い損ないですね。
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沖浦克治さん
> 御本尊は手段なんです。
> それが分からなかった。
> 若しくは可能性としてはこちらが大きいのですが、わからないふりをして、無理やり曼荼羅を三大秘法の当体にしてしまった。
手段や道具だと三大秘法にならないということですか。
漫荼羅が手段や道具だという見解はさておいて、
日蓮云く
「観心本尊抄」
「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」
本尊を首飾りのような譬えをしておりますねえ。
「法華取要抄」
「問うて云く如来滅後二千余年竜樹天親天台伝教の残したまえる所の秘法は何物ぞや、答えて云く本門の本尊と戒壇と題目の五字となり(中略)所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり」
「本尊問答抄」
「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし(略)此の御本尊は世尊説きおかせ給いて後二千二百三十余年が間一閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず(略)此の御本尊の御前にして一向に後世をもいのらせ給い候へ」
で、漫荼羅そのものに書かれている言葉ですが
代表的な日蓮の漫荼羅の讃文より
「佛滅後二千二百三十余年之間一閻浮提之内未曾有之大漫荼羅也」
いわゆる万年救護本尊の讃文より
「大覚世尊御入滅後 経歴二千二百二十余年 雖尓月漢日三ヶ国之 間未有此 大本尊 或知不弘之 或不知之 我慈父 以仏智 隠留之 為末代残之 後五百歳之時 上行菩薩出現於世 始弘宣之」
道具であろうとなかろうと、手段であろうとなかろうと、日蓮は本尊として法華経の題目を三大秘法としたわけですね。沖浦克治さんに言わせれば、日蓮も習い損ないというわけですね。
で、沖浦克治さんが始めに言っていた、日寛が迷っていた「ここ」っていうのは、貴方の勘違いだったわけですね。
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このかた 日蓮正宗の教義が ただしいといっているのだなぁ
創価学会が 大石テラに戻ることは ないでしょうねぇ
「歴史には ちがいないが たいして需要ではないが
ダマされてはいけない」のである
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蝸牛さん、おはようございます。
>漫荼羅が手段や道具だという見解はさておいて、
ここが全くダメですね。
さておいて良い事ではありません。
ここをあやふやにしてしまうと、寛師と同じ習い損ないになります。
道具で手段だと言う事を先ず把握することから、曼荼羅を見なければダメなんです。
貴方が引用された御文を読めば、曼荼羅が三大秘法でないことが直ぐ分ります。
>日蓮は本尊として法華経の題目を三大秘法としたわけですね。
その通りですが、法華経の題目は曼荼羅ではありません。
少し冷静に文をお読みなさい。
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今日は大聖人のお誕生日です。
何時の日にか、この日が世界中の祝日となりますよう・・・・・
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沖浦克治さん。
> >漫荼羅が手段や道具だという見解はさておいて、
>
> ここが全くダメですね。
> さておいて良い事ではありません。
> ここをあやふやにしてしまうと、寛師と同じ習い損ないになります。
> 道具で手段だと言う事を先ず把握することから、曼荼羅を見なければダメなんです。
えーと、たぶん沖浦克治さんは、私のいいたいことを勘違いされてますねえ。
私は漫荼羅が手段や道具であろうとなかろうと、本尊であることになんら問題はないと考えております。
きっと沖浦さんは、道具や手段は、本尊たりえないと考えているんでしょう。それが間違い。
だから私にとって道具だとか手段だとかという議論はまずどうでもいいわけです。私自身、漫荼羅に対しての考えはもちろん持っておりますが、それが本尊かどうかであることとは関係ありません。
ただのものだからとか、手段だからとか、で本尊足りえないなんて私は考えていないわけです。日蓮もそうだったと思っております。
あと、巌虎さんのブログでは、失礼にあたりますので、あまり書き込みたくないのですが、あんまりなので、書かせていただこうと思ったりしてます。
沖浦克治さんと違って、サラリーマンなもので、なかなか書き込みの時間がとれません。すみませんです。
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沖浦克治さんはこう言ってました。たくさん書き込まれるので、以前疑問だったところが御回答のないままほったらかされたりしますので、またお聞きします。
2015/1/30 19:06の「巌虎独白での」コメント
> 虚空不動定は本門の本尊ですが、衆生己心の妙法である南無妙法蓮華経。
> 曼荼羅ではないのです。
2015/1/30 7:09の「巌虎独白での」コメント
> この中で、本門の本尊とは大聖人御図顕の全ての本尊と(十界曼荼羅と言う表現です)、それを書写した本尊で、戒壇本尊もそれに含まれ
> るが、戒壇本尊のみが本門の本尊ではない。
いったい「曼荼羅」は「本門の本尊」なのですか。違うのですか。
>沖浦克治さん
>> 私たちの命がそのまま大御本尊で、宝塔そのもので、南無妙法蓮華経の当体なんです。
>> それだけ知っていれば良いのです。
>>
>> 寛師はここに迷った。
>> 習い損ない故ですね。
>
> 日寛の「観心本尊抄文段」に「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」とあります。
もういちど申しあげます。日寛は「迷っ」ておりません。同じことを言っております。ですから、ここの部分を以て日寛が「習い損ない」と決定することはできませんね。ここは再確認させていただきます。
何度も聞きますが、「ここ」とはなんですか。沖浦克治さんがこの時点では勝手に間違った解釈をしたのではありませんか。
それをしらっと論点(日寛の間違っているとおっしゃったところ)を勝手にどんどん変えていかないでください。
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道具や手段が本尊にはならないなどと、一度も書いていません。
蝸牛さん、誤った決めつけはいけませんね。
御本尊は本尊ですよ。
拝む対象ですからね。
御本尊は、拝む対象としての道具。
こういうことです。
道具だから本尊たりえないなどと、全く思っていませんし、書いたこともありません。
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沖浦克治さん
道具や手段が本尊にはならないなどと、一度も書いていません。
> 蝸牛さん、誤った決めつけはいけませんね。
>
> 御本尊は本尊ですよ。
> 拝む対象ですからね。
>
> 御本尊は、拝む対象としての道具。
御回答ありがとうございます。
で、質問です。何回も同じことをお聞きしますが、お答えくださいませんので。
> この中で、本門の本尊とは大聖人御図顕の全ての本尊と(十界曼荼羅と言う表現です)、それを書写した本尊で、戒壇本尊もそれに含まれ
> るが、戒壇本尊のみが本門の本尊ではない。
いったい「曼荼羅」は「本門の本尊」なのですか。違うのですか。
あと、日寛の間違った「ここ」というのはどこのことなのですか。
あなたがおっしゃった
>> 私たちの命がそのまま大御本尊で、宝塔そのもので、南無妙法蓮華経の当体なんです。
>> それだけ知っていれば良いのです。
>>
>> 寛師はここに迷った。
>> 習い損ない故ですね。
「ここ」のことではないのですか。
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蝸牛さん、
曼荼羅は本門の本尊ではなく、それを象ったものですね。
そのものではないのです。
寛師はここで迷ったのです。
曼荼羅は本門の本尊だと言った。
所が本当は本門の本尊を象ったものです。
鏡に映った人は、本物の人間そのものではありませんね。
所が寛師は、鏡の中の人を本当の人間だと書いた。
ここに迷いがあるのですね。
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沖浦克治さん
あなたは、
> この中で、本門の本尊とは大聖人御図顕の全ての本尊と(十界曼荼羅と言う表現です)、それを書写した本尊で、戒壇本尊もそれに含まれ
> るが、戒壇本尊のみが本門の本尊ではない。
とおっしゃってます。「戒壇本尊のみが本門の本尊ではない」。これは「戒壇本尊」が「本門の本尊」の一部であることを前提とした発言です。
「戒壇本尊」は漫荼羅です(「(十界曼荼羅と言う表現です)」という言い方をされています)。あなたも日寛と同じことを言っております。
あなたは、自分自身が習いそこないであるとおっしゃってられます。
もうひとつ、
>> 私たちの命がそのまま大御本尊で、宝塔そのもので、南無妙法蓮華経の当体なんです。
>> それだけ知っていれば良いのです。
>>
>> 寛師はここに迷った。
あなたがいった日寛の迷った「ここ」というのは、あなたの勘違いということでよろしいのですね。
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蝸牛さん
貴方は押し問答をやられたいのですか?
寛師が迷ったの、手段で道具である曼荼羅のひとつである、戒壇本尊を本懐とし、三大秘法の当体としたことです。
曼荼羅は本尊を象ったもので、本尊そのものではありません。
御書にありますので間違いないのです。
ですが、貴方はここが理解出来ないのかしたくない。
ですので、これ以上の論議は無駄ですね。
これが理解出来ないなら、今後の会話は無駄でしょう。
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本尊は観心にしかございません
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沖浦克治さん
> 貴方は押し問答をやられたいのですか?
私は押し問答などやっておりません。貴方こそ、他人のブログで、何度も注意を受けているにも関わらず、押し問答をしてられるではありませんか。
> 寛師が迷ったの、手段で道具である曼荼羅のひとつである、戒壇本尊を本懐とし、三大秘法の当体としたことです。
あなた自身が曼荼羅のひとつである戒壇本尊を本門の本尊と言っているではありませんか。
楽執さん
> 本尊は観心にしかございません
「観心本尊抄」の結論をお読みください。日蓮がなぜ漫荼羅を残したとお考えですか。
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>>380
蝸牛さん、こんばんは。
「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」
となっておりますね。
残したというよりも、新尼御前御返事(身延山久遠寺曽存)で書かれていますように、
曼荼羅が如何に重大なものであり、退転歴の有る大尼御前がどれだけ「欲しい」と言っても授けられるようなものではなく、
大尼御前の御息女のように信心強盛な人にしか授けられませんでした。
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曼荼羅をコピー用紙にコピーしたものをつまんでヒラヒラとさせたり、意図的に焼いたり、
密かにいたずら(沖浦さん親子大阪質問会)したりする者を日蓮大聖人は激怒しておられる事でしょう。
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日蓮大聖人は信徒一人一人の信心を厳しく見ておられた事が分かります。
その点から鑑みますと“一閻浮提総与”の考え方は辻褄が合わなくなります。
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連投すみません。
曼荼羅の重大性の所以を更に踏み込んで言いますと、観心本尊の明鏡だからであります。
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蝸牛さん、おはようございます。
押し問答を何方ともしておりません。
貴方を含め、相手の方々の理解力の不足があるだけです。
何度も何度も粘り強く、仏法の道理を説いているだけです。
曼荼羅本尊は、本門の本尊ですが、それが鏡に写った姿です。
その実態は、私共己心の妙坊である南無妙法蓮華経です。
それを弁えた上で、曼荼羅本尊を本門の本尊と申します。
これは、他の宗派の本尊とのたてわけです。
他の宗派の本尊は一つとして、衆生己心の妙法を写し撮ったものではありません。
ですので、本尊としては不完全なのです。
歪んだ鏡に写る姿は、身づくろいに使えません。
鏡として光は反射致しますが、用をなしません。
衆生己心の妙法を写し取った、大聖人の御本尊のみが完全な本尊です。
その意味では、大聖人の曼荼羅本尊こそが、本門の本尊です。
実態は私どもの己心の南無妙法蓮華経です。
ご理解出来ますか?
-
少しわかりやすくしておきましょう。
本尊に優劣があります。
最も優れたものが、大聖人ご図顕の曼荼羅本尊。
完全体です。
これ以上のものはございません。
何故なのか?
この御本尊を拝むと、何時の日にか、自分が久遠からの本来の仏だと悟れます。
他の宗派の本尊では、こういう事は起こりません。
ぜいぜい、
自分の汚れた命の中にも、仏の命もあるんだ。
ここまでです。
大聖人の御本尊は、
なんだ、自分は久遠元初からの仏だったんだ。
こういう悟りに最後には行きつきます。
ですので、大聖人は、
『五百品
日本国一切衆生 題目御本尊 心法色法 煩悩即菩提生死即涅槃
貧人 見此珠 其心大歓喜
信心ノカタチ
『此の文は始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり。』
(御義口伝巻下)
と言われておられるのです。
大聖人の御本尊を拝むと、何時の日にかその大歓喜が訪れます。
体験しないとわかりません。
私はそれを体験致しました。
-
沖浦さん、こんばんは。
>『此の文は始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり。』
(御義口伝巻下)
と言われておられるのです。
大聖人の御本尊を拝むと、何時の日にかその大歓喜が訪れます。
体験しないとわかりません。
私はそれを体験致しました。
わたくしも体験したいと思います。
新たな祈りの目標ができました。
-
楽執さん
> 曼荼羅をコピー用紙にコピーしたものをつまんでヒラヒラとさせたり、意図的に焼いたり、
> 密かにいたずら(沖浦さん親子大阪質問会)したりする者を日蓮大聖人は激怒しておられる事でしょう。
ちょっと何がおっしゃりたいのかわかりません、というか、確かにそんなことしたら日蓮は怒るかなあとは思いますが、それが何か。
> 日蓮大聖人は信徒一人一人の信心を厳しく見ておられた事が分かります。
たぶんそうでしょうね。
> その点から鑑みますと“一閻浮提総与”の考え方は辻褄が合わなくなります。
いや、辻褄が合わないとは私は考えません。大切なものを誰彼問わず与えるというのはないだろうなと私も思いますが、いづれ世界中の誰もが日蓮の考えるような信心厚き衆生になったときは、御本尊を授与するんじゃないですか。日蓮は。
そのための御本尊が、日蓮正宗では、本門戒壇の大御本尊ってもんだったんでしょう。ですから、まだ、一天四海皆帰妙法が実現されていない間は、戒壇本尊は一般公開することなく内拝の形式を取っているわけですよね。日蓮正宗のいうことにはですが。
でも、いづれはやってくる広宣流布のとき(日蓮は「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし」って言ってますからそれを信じていたと思いますが)のための本尊を残しておくという考え方、「一閻浮提総与」っていう考え方そのものは、御本尊授与に対する日蓮の考えの厳しさと矛盾するものではないと私は考えます。
-
「ちがっている」じゃ ダメなんだよなぁ
どういいたいわけ? 「信者のもの」とか
「創価学会は 邪道だ」とか
「日本のみならず 一切衆生のものだ」とか
-
楽執さん、蝸牛さんおはようございます。
先ず最初に書いておきますが、大聖人には御本尊流布と言う思想は積極的にありません。
前面に出ているのは題目広布です。
本尊流布ではないのです。
最初にこれを把握しておかないと、真実は見えません。
『あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ、子にあらずんばゆづる事なかれ信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ、』
(阿仏房御書)
大聖人は先ず題目を広められ、本尊の流布は後世の戸田先生に委ねられました。
結果としてそうなったのですが、仏法は結果を必然としますのでこうなります。
『日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、』
(諸法実相抄)
この
『未来も又しかるべし、』
を身で読まれたお方が戸田先生。
そして戸田先生は本尊流布を前面に掲げられ、折伏大行進をなされた。
本尊流布は戸田先生からなんです。
その時、方便として寛師と言う低い論旨の教えを用いられ、流布の武器になさいました。
それが、戸田先生が常に言われた、戒壇本尊本懐論で、唯一論です。
戒壇本尊唯一論は、寛師にありません。
彼は随一論者でした。
戸田先生はそれを一歩進められ、唯一論に焼き直しそれを持って社会の底辺から始まった折伏の武器になさいました。
今は、創価学会は社会に定着致しました。
池田先生の戦いの故です。
ですので、もう、戒壇本尊唯一論はなくて良い。
ですので、結果として、破門と言う結末で日蓮正宗を捨て去りました。
世界広布新時代の夜明けです。
-
>>388 蝸牛さん、おはようございます。
>いや、辻褄が合わないとは私は考えません。大切なものを誰彼問わず与えるというのはないだろうなと私も思いますが、いづれ世界中の誰もが日蓮の考えるような信心厚き衆生になったときは、御本尊を授与するんじゃないですか。日蓮は。
新尼御前御返事の内容からして“一閻浮提総与”は導出されません。
そもそも“一閻浮提総与”なる語は御書に有りません。
ちなみに“一機一縁”なる語も有りません。
佐渡流罪という師匠の法難が起きた時に退転した人々(新尼御前御返事『千が九百九十九人は堕ちて候人人』)には曼荼羅を授与せず、
僅かに残った不退転の人々に授与したという史実が有るのみです。
-
聖教新聞読み終えました。
体験のページに、福島のいわき市にお住まいになる、大熊美智子さんの体験が載っています。
輝く笑顔!!!
こういうお方こそが南無妙法蓮華経如来のご当体。
オリンピックで金メダル幾つとっても、このお方に勝てません。
こういう仏様がおられる創価学会員と私はなった。
無上の福運です。
いま凄く嬉しいです。
俺も、頑張るぞ〜〜!!
-
楽執さん、今晩は。
『をのづから四十二年の経の内には一機一縁の為にしつらう処の方便なれば設い有縁無縁の沙汰はありとも法華経は爾前の経経の座にして得益しつる機どもを押ふさねて一純に調えて説き給いし間有縁無縁の沙汰あるべからざるなり、』
(法華初心成仏抄)
一機一縁は御書にありますが、それは曼荼羅ではなく、釈迦が衆生の機根に併せて説いた爾前の教えの事です。
御本尊に一機一縁はありません。
しいて言うなら、全ての御本尊は、一閻浮提総与(御書にはありませんが)ですね。
-
移動です。
楽執さん
> 新尼御前御返事の内容からして“一閻浮提総与”は導出されません。
> そもそも“一閻浮提総与”なる語は御書に有りません。
> ちなみに“一機一縁”なる語も有りません。
> 佐渡流罪という師匠の法難が起きた時に退転した人々(新尼御前御返事『千が九百九十九人は堕ちて候人人』)には曼荼羅を授与せず、
> 僅かに残った不退転の人々に授与したという史実が有るのみです。
あのー。ぶっちゃけた話、楽執さんが私に何をおっしゃりたいのかよくわかりません。
私は別に“一閻浮提総与”をどうしても導出したいわけではないのです。もしかして、私を日蓮正宗側の人間だと思ってらっしゃるのでしょうか。
まあ、“一機一縁”って言葉は御書にいくつか散見できるみたいですけども別にそんなことを強調する気もありません。
私の言いたいのは、“一閻浮提総与の御本尊”的なものは日蓮にとって有りうるかもしれないなあ、ということです。
日蓮は本尊授与に関して厳しい姿勢で臨んだ、これはわかります。でも、もし日蓮が自分の思っているような世の中になったのなら、みんなに授与する代表的な本尊を作ったかもしれないねえということです。実際それを実行したかどうかはわかりません、というか、そんなもんしてないよってのが、一般的なんでしょうし、私もそう思います。でも日蓮正宗系ではそれが、いわゆる本門戒壇の大御本尊だよってことでしょう。
その考え方自体はわからんことではないし、有りうるかなってのが、私の考えです。
というのも、日蓮自身が、
「問うて云く、天台伝教の弘通し給わざる正法ありや。
答えて云く、有り。
求めて云く、何物ぞや。
答えて云く、三あり。末法のために仏留め置き給う、迦葉・阿難等、馬鳴・竜樹等、天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり。
求めて云く、其の形貌如何。
答えて云く、
一には日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝外の諸仏、並に上行等の四菩薩、脇士となるべし、
二には本門の戒壇、
三には日本乃至漢土月氏、一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず、一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし。此の事いまだひろまらず一閻浮提の内に仏滅後二千二百二十五年が間一人も唱えず、日蓮一人、南無妙法蓮華経南、無妙法蓮華経等と声もをしまず唱うるなり、
」(「報恩抄」)
「問うて云く、如来滅後二千余年、竜樹・天親、天台・伝教の残したまえる所の秘法は何物ぞや、
答えて云く、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり」(「法華取要抄」)
「仏の滅後に於て、四味三教等の邪執を捨て、実大乗の法華経に帰せば、諸天善神並びに地涌千界等の菩薩、法華の行者を守護せん。此の人は守護の力を得て本門の本尊、妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか」(「顕仏未来記」)
といわゆる「三大秘法」が将来、広宣流布してゆくことを書いておりますし。
わたしは、“一閻浮提総与”の本尊を強調したいわけではありません。ただ、「そんなことを日蓮は少しも考えなかった、絶対ないよっていうことはむつかしいね、あってもいいんじゃないの」っていう考え方です。それだけの話です。
私自身は、日蓮が考えていようといまいと、日蓮とその弟子たちの間で作り上げられたであろう「一閻浮提総与の本尊」って考え方は、わりと好きなんですよね、信仰心がなくなってしまった今も。
-
>>393 沖浦さん、こんにちは。
何処の誰なのか不明な人々が集うネットでのこういう場ですので、
なるべく普遍的な議論になるよう真蹟、曽存御書を参照するようにしました。
-
楽執さん、今晩は。
了解です。
私は創価学会版の御書は全て引用いたします。
-
少し話題を変えます。
世間で勝てない人間が、世間の信頼を得ることは出来ません。
地涌の菩薩を名乗るなら、どういう苦労をしても世間で先ず勝つ。
その事実がその人の広宣流布のスタート地点なのです。
現世利益はそのために不可欠。
自分自身の信心が、どういうふうに現実の自分の人生に功徳として顕現しているか?
それを具体的に書けないなら、所詮は理論の弄び。
仏法は行が肝心です。
人生における功徳の事実を書く。
そういう事が出来ないで、ただ単に他人の書き込みのあら捜しをして満足するなら、修羅の境涯です。
良くないですね。
-
>>393 沖浦さん
たとえば当掲示板をミトラ教徒の方が閲覧しているとして、
或る議論の中で僕が真偽未決(御書)から一節を引用したところ、
ミトラ教徒の方が「その言葉は本当に日蓮が書いたのですか?」
と僕に質問してきたら一巻の終わりですので、
そういう事態を避ける為になるべく真蹟・曽存御書を参照しようと考えております。
-
何の問題もない 「聖書は イエス様が かいたわけじゃなし
法華経は お釈迦様が 書いたわけじゃない 当たり前
「論語」だって 孔子様が かいたわけじゃない
-
>>399 の文中に於ける“ミトラ教徒”を“無宗教者”に置換してもいいでしょう。
-
ともあれ、日蓮大聖人直筆御書が現存してしまっている状況が鍵となります。
そのような状況が有りますと、数多存在する日蓮大聖人筆とされる文献は本当に直筆なのかとの疑義が生じるのも必然でありましょう。
-
日蓮大聖人直筆御書が現存している状況と、
キリスト教に於ける新約聖書のような後世が文字起こしをした状況とは位相が違っておりまして、
相対化できないわけであります。
-
すべての 仏教経典は 「口伝」です なにせ 「文字」が
存在しませんでいたから おしゃかさんの実在が 考古学的に 証明されたのは
20世紀になってからです
多少の つけたしが あったにせよ その尊さには 何のえいきょうもない
-
沖浦克治さんは、巌虎さんのブログ
> http://white.ap.teacup.com/ganko/2064.html
「2015/1/30 7:09」のコメントで、
> この中で、本門の本尊とは大聖人御図顕の全ての本尊と(十界曼荼羅と言う表現です)、それを書写した本尊で、戒壇本尊もそれに含まれ
> るが、戒壇本尊のみが本門の本尊ではない。
とおっしゃってます。
ところが、自分の掲示板「創価学会非公認非公式掲示板 Ⅱ」
> http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/9645/1395829838/376
で、
> 曼荼羅は本門の本尊ではなく、それを象ったものですね。
とおっしゃってます。いったいどっちなんだと言いたいですね。
「習いそこない」どころではありません。「頭破七分」という言葉が思い浮かばれます。
-
両方共に正しい表現ですね、蝸牛さん。
本門の本尊は、衆生己心の妙法の南無妙法蓮華経です。
更に、これを正しく写し取った大聖人の曼荼羅本尊も、本門の本尊です。
釈迦の法華経迹門を、同じく釈迦の法華経本門から見ると、迹門です。
所がこの本門も、大聖人仏法から見ると迹門です。
同じ理屈で、大聖人のみ事曼荼羅から、他宗の本尊を見ると他宗の本尊が迹門の本尊、大聖人の御本尊は本門の本尊となります。
然しながら、本体である衆生己心の妙法から見ると、大聖人の御本尊は迹門の本尊となります。
比較総体の上での表現ですよ。
ご理解出来ますか?
所で、貴方もそろそろ他人の書き込みのあら捜しのような無意味なことはお辞めになりませんか?
無意味で、無価値ですね。
-
蝸牛です。
沖浦克治さん。私の言ったことなどどうでもいいですから、巌虎さんの問いにきちんと答え
てくださいね。
あと、今まで誰が日蓮系以外の本尊の話などしてましたか。そんな誤魔化しは醜い限りです
ねえ。
-
蝸牛さん、
貴方や巌虎さんが理解できるかどうか?
それは貴方方の問題で、私の問題ではございません。
御書にあるのですから、どうしようもございません。
私は大聖人の仰せの通りに書いております。
ですので、私のこの書き込みが破たんしていると言われるなら、貴方は大聖人仏法が破たんしていると指摘していることになります。
それはご自由ですが、私は貴方の己義より、大聖人の御金言を信じます。
『此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付属し給わず何に況や其の已外をや但地涌千界を召して八品を説いて之を付属し給う、其の本尊の為体本師の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏多宝仏釈尊の脇士上行等の四菩薩文殊弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し迹化他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如く十方の諸仏は大地の上に処し給う迹仏迹土を表する故なり、是くの如き本尊は在世五十余年に之れ無し八年の間にも但八品に限る、正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉阿難を脇士と為し権大乗並に涅槃法華経の迹門等の釈尊は文殊普賢等を以て脇士と為す此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず、』
(如来滅後五五百歳始観心本尊抄)
ここまでが大聖人ご図顕の御本尊が、それまでの不完全な本尊等と比較し、それらを凌駕する本門の本尊である説明です。
その直後に、
『末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか。』
その御本尊は、仏像であって、仏そのものではなく、仏を象ったものだ。
と仰せです。
ですので、この本門の本尊である文字曼荼羅も、本体である南無妙法蓮華経を象ったものなので、衆生己心の妙法から見ると迹門です。
御図顕されたご本人の記述ですので、信じるしかございません。
貴方方の理解力の可否に私は関心がございません。
-
沖浦克治さん。
貴方、自爆しております。
「観心本尊抄」の引用ありがとうございます。
> その御本尊は、仏像であって、仏そのものではなく、仏を象ったものだ。
このように書いてくださったおかげで、貴方が、本尊、本仏、仏、仏像に対する理解が実にあやふやでいい加減であることがわかりました。
きっと、貴方は日本銀行券が、実はお金(おかね)であるということが本質的にわかっていないんでしょうねえ。お金を使ったり、儲けることはできるんでしょうけども。
-
蝸牛さん、
貴方は対話に向かない性格のようですね。
私は大聖人門下です。
御書に基づいて書いております。
理解があやふやなのは貴方ですね。
貴方ご自身の本尊、本仏、仏、仏像に関する具体的見解が皆無です。
他人の論に難癖をつけるだけなら、対話を打ち切らせていただきます。
先ず、貴方ご自身の、本尊、本仏、仏、仏像に関する具体的見解をお書き下さい。
これが最後のチャンスですよ。
-
蝸牛です。
沖浦克治さん。
> 私は大聖人門下です。
>
> 御書に基づいて書いております。
あなたが主観的に大聖人門下かどうかなど、どうでもいいことです。むしろ、あなたが大聖人門下であると思っていない人のほうが、ネットでは多いんじゃないですか。
私は日蓮門下でもなんでもないので、どうでもいいです。ただ、あなたが勝手に日蓮門下だとか、創価学会だとか勝手に言いたいほうだいしていることに対して、おいおい、そりゃ違うんじゃないのって言っているだけです。
私も日蓮の御書に基づいて書いてきたつもりです。主観的にはね。
> 貴方ご自身の本尊、本仏、仏、仏像に関する具体的見解が皆無です。
> 他人の論に難癖をつけるだけなら、対話を打ち切らせていただきます。
他人の論に難癖をつけてきたのは貴方ではないですか。それも自分自身の言ってきたことに矛盾することを平気で述べておきながら。
だから、私は貴方のそのいいかげんな論の展開の仕方のなかに、仏教の基本的な概念に対して、きちんとした理解がないのではないかと思っているわけです。
あなたがそれを理解しているというのなら、まずそれをのべてください。
私は、日本銀行券がお金である、という比喩をのべました。この比喩、沖浦克治さん、わかってないでしょう。
-
蝸牛です。
沖浦克治さんが、巌虎独白のブログでの巌虎さんの問いを、きちんと答えてくれるよう、お願いします。
「貴辺はなぜに教門の難信難解だけを肯定し、観門の難信難解を否定するのか、である。大聖人御自らが難信難解には二つあると仰せられているにもかかわらず、なぜにその片方しか用いないのか、である」
この問いにお答えください。
-
いえいえ 沖浦さんは 仏教徒 創価学会員として
何の問題もないです
-
なんで 日本銀行券が 財貨やサ-ビスと 交換できるか?
簡単です 「法律によって 強制されている」からです」
国家権力そのもので 俗世間のことです
-
>>414
X-PRO-Zさん。
> なんで 日本銀行券が 財貨やサ-ビスと 交換できるか?
> 簡単です 「法律によって 強制されている」からです」
> 国家権力そのもので 俗世間のことです
宗教的な話題から少し変わりますが、
では国家権力が、法律による強制を中止すれば、お金はなくなるのでしょうか。そんなことはたぶん国家権力でも簡単にはできないでしょう。だとしたら、強制というのはどういう意味でしょう。また、お金の持つその力はどこから来ているのでしょう。
国家権力もそう簡単に変更することのできない力をお金は持っていると私は考えているわけですが(だから、国は経済政策に苦労するのだろうな)。
-
おはようございます。
先ず巌虎さんのご質問は無意味でです。
現実の中でしか仏法は存在致しません。
私は現実面からしか仏法を考えません。
観門の難信難義などは、所詮理論ですね。
非情界にも十界があることは事実ですが、それは依正不二と言うことです。
正報である私共の存在が仏であるなら、依報である環境と言う存在も寂光度になります。
御本尊はそのままではただの物ですが、私共が端座して唱題するとき、仏として存在いたします。
貨幣と同じですね。
お金はそのままではただの物。
私共が使う時、食糧になり、衣服になり、住居にもなります。
同じなんですよ。
-
蝸牛さん、おはようございます。
貴方は私の質問に回答していません。
自分はドンドン質問し、回答はしない。
更に、他人の私への質問まで回答を強制する。
きわめて非礼です。
最後の警告です。
私の質問にお答えください。
回答以外を書かれると、その時からアクセスをお断りいたします。
-
沖浦克治さん。
> 自分はドンドン質問し、回答はしない。
ドンドン質問などしていません。もともと貴方が「日寛の「ここ」が「習いそこない」」だと言っているところを、それは貴方の勘違いじゃないの、と言っただけであり、また、貴方の漫荼羅に対する見解が、本門の本尊だったりなかったりするので、それを確認しているだけの話です。
わたしは、貴方が仏教の概念に対する理解がないのではと書きました。そうでないというのなら、それを証明するのは貴方です。わたしが質問を投げかけているというのなら、質問に質問がえしというのは、よくありませんねえ。話を拡散させようという意図があるような気がします。
お金の比喩で申し上げます。直接にはお金は日本銀行券や造幣局鋳造の金属貨幣としか存在しえません。どこか別のところにお金の本体とか本質とかがあって、日本銀行券はその写しや像であるという考えは間違いです。
-
蝸牛さん、以下の書き込みを、2月20日に貴方あてにしております。
未だご回答がございません。
本来ならば、ここでアクセスをお断りいたしますが、今回今一度回答をお待ちいたします。
必ず以下の書き込みに具体的な回答をどうぞ。
貴方は対話に向かない性格のようですね。
私は大聖人門下です。
御書に基づいて書いております。
理解があやふやなのは貴方ですね。
貴方ご自身の本尊、本仏、仏、仏像に関する具体的見解が皆無です。
他人の論に難癖をつけるだけなら、対話を打ち切らせていただきます。
先ず、貴方ご自身の、本尊、本仏、仏、仏像に関する具体的見解をお書き下さい。
これが最後のチャンスですよ。
-
沖浦克治さん。
私の見解を書け書けと喧しいもんですねえ。書くのはかまわないのですが、話を拡散されるのがかないません。現に巌虎さんのブログのコメントは、人の話を聞くことも質問に答えることもせず、御義口伝を中心にいつものセリフを垂れ流すだけになってます。
本尊:信仰において帰依・礼拝の対象となるもの。仏だけでなく、菩薩や、諸天、明王なども本尊となりうる
本仏:個々の仏は、さまざまに存在すると考えられている(三世十方諸仏)。それらの仏を出現させる根本の仏とされるもの、衆生に応じて出現する迹仏に対していうこともある
仏 :もともとは悟(覚)った人、存在のことで、一般的な概念
仏像:仏(広義には、菩薩や明王などを含めてもいい)をあらわした、彫刻・画像・文字のこと
で、本尊の直接的実存形態が仏像であるということが沖浦克治さんは全くわかっておられないわけですね。ですから「観心本尊抄」を正しく読むことができず、草木成仏や実は一念三千を理解できず、結局巌虎さんの問いにきちんと答えることができずに誤魔化しに走ってしまうわけです。また本門の本尊に関して矛盾した見解を出さざるを得なくなってしまうわけです。
> これが最後のチャンスですよ。
何をえらそうに、と言いたいところですが、ここは貴方の掲示板ですので、何をおっしゃろうと自由ですね。
「貴辺はなぜに教門の難信難解だけを肯定し、観門の難信難解を否定するのか、である。大聖人御自らが難信難解には二つあると仰せられているにもかかわらず、なぜにその片方しか用いないのか、である。」
では、この巌虎さんの問いにちゃんと答えてくださいよ。巌虎独白のコメント欄を楽しみにしてますから。それと貴方が仏や本尊に関する諸概念についてきちんと理解していることも示してください。
-
蝸牛さん、今晩は
貴方は無駄な書き込むが多すぎます。
要点をキチンと書くようにして下さいね。
更に、書き込みに悪意が如実です。
そういう無礼は若鷹富士ボーなどでどうぞ。
この板ではそういう事はダメです。
>私の見解を書け書けと喧しいもんですねえ。書くのはかまわないのですが、話を拡散されるのがかないません。現に巌虎さんのブログのコメントは、人の話を聞くことも質問に答えることもせず、御義口伝を中心にいつものセリフを垂れ流すだけになってます。
これがダメの見本です。
書くのが嫌なら即時退出して下さい。
巌虎さんの板の事は、貴方は関係ございません。
巌虎さんと私だけの問題です。
今後はそう言う野次馬はお断りいたします。
更にですが、貴方の書き込みは回答になっていません。
今一度質問を繰り返しますよ。
貴方自身にとってが肝心です。
貴方自身のの本尊、
貴方ご自身の本仏、
貴方ご自身の仏、
貴方ご自身の仏像、
に関する具体的見解をどうぞ。
端的に言うなら、貴方が本仏とする仏はなんですか?
ではどうぞ。
それと、揶揄や悪意の書き込みがあると、即時アクセス禁止になります。
慎重に言葉を選んで書いて下さいね。
-
きっと できないでしょうね
「わかたk」へ いきなされ
-
>>415
最近では アルゼンチンが 一時 「米ドル」を
つかったことがる で どうなったか?
「国内産業が おかしくなってしまった」
-
沖浦克治さん。
> 貴方自身にとってが肝心です。
>
> 貴方自身のの本尊、
>
> 貴方ご自身の本仏、
>
> 貴方ご自身の仏、
>
> 貴方ご自身の仏像、
に関する具体的見解をどうぞ。
いろいろなところにすでに書いていたと思うのですが、信仰を持っていない人間に上記の問いは意味がないんじゃないですか。
それはともかく、>>420 に書いたのは、私自身が今、考えている内容なのですが。それが気にくわないといわれてもねえ。
具体的な見解でないと沖浦克治さんには思えたわけですか。ああそうですか。
-
沖浦克治さん
巌虎独白のコメントより
> 仏像ですから、仏を象ったものです。
> 仏そのものではありません。
本当に沖浦克治さんは、何をおっしゃってられるんでしょうか。
よく、人のことを「レベルが低い」だとか、「無知」だとか言えるものだと思います。他人のことを怨嫉謗法などと言っている場合じゃありません。貴方自身がそれを行っているではありませんか。
あなたのいう「仏そのもの」っていったい何なのですか。生物ですか。植物ですか。鉱物ですか。非情ですか。植物ですか。細菌ですか。ウイルスですか。有情ですか。人ですか。犬ですか。猫ですか。馬ですか。鹿ですか。歴史的な存在としてのお釈迦様ですか。経典上の釈尊ですか。日蓮ですか。地球ですか。太陽ですか。月ですか。いくらでもお聞きしたくなってきます。ああきっと森羅万象なんでしょうね。
抽象的な概念と具体的な概念を比較して、「そのものではありません」といったところで、そんなことあったりまえじゃないですか。
で、仏像が仏と違うから、その存在は貴方のいう「本」ではなく「迹」というわけですか。そんなこと日蓮がどこで言っているんですか。日蓮や創価学会や日蓮正宗の言っていることが正しいかどうかというのは別問題です。でも日蓮が言ってもいないこと、創価学会が言ってもいないことをあたかも日蓮なり創価学会の言ったように我見を垂れ流すのは止めてください。賛成するにせよ反対するにせよ迷惑以外の何物でもありません。表現の自由ということがありますので言うなとはいいませんが、そんなことは自分の掲示板だけにしてください。資源の無駄遣いであり、他の人の時間を奪う迷惑行為です。
-
蝸牛さん、
残念ですが、貴方は私の質問にお答えがございません。
これにて、アクセスをお断り申し上げます。
-
3月です。
新しい月が始まりました。
功徳あふれる春を・・・・・
-
こんばんは。
長野県一帯の停電騒ぎ、影響はいかがでしたか?
週明けから迷惑な話でした。
-
グラスルーツさん、今晩は
御心配を頂きました事、感謝申し上げます。
ストーブが止まったので、電気の要らないタイプを出してつけました。
1時間ほどで通電しましたので、大したことはありませんでしたが、通勤の足に影響が出たようですね。
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沖浦さん、おはようございます。
大事に至らなくてよかったですね。
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東日本大震災から4年。
謹んで、お亡くなりになられた方々の、ご冥福を祈らせていただきました。
被災され現在も避難されておられる皆様方の、最後のお一人が帰宅なさるまで、原発は動かしてはなりません。
それを待つことなく、再稼働が経済優先の名の元で行われるなら、この国は世界中の笑い者となるでしょう。
もう、エコノミックアニマルと呼ばれる貧しい豊かさの追求は、バブルの消滅で否定されております。
今こそ、賢い国へと再出発をすべきです。
為政者がそういう舵取りをすることが、被災された皆様の復興への最大の後押しとなると信じております。
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>>404 X-PRO-Zさん今晩は
ユネスコ編「語録・人間の権利」に日蓮大聖人の現存直筆御書「撰時抄」からの引用がございますが、
日蓮大聖人を教祖とする教団にとってその直筆文献の現存は非常に有り難い事であり有利であります。
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仏教というのは なにが なんだか わからないほど
「進歩的」だったわけです
「福祉国家」をめざす なんてのは 想像もつかないほどだったでしょう
大聖人様は そのまま 「仏教「仏法」なので
800年前としては 信じがたいほど 進歩的だったわけです
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