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曼荼羅原理主義を検証するスレッド
79
:
沖浦克治
:2010/03/04(木) 07:27:56 ID:AJ3hr85o0
仏法は人のため。
人が本です。
法は迹です。
極めて明確な事実です。
若し法が本なら、貴方方の人生はそこまで情けないのですか?
自分が本で主体で無い人生。
そう言う人生に、どう言う意味がありますか?
自分以外に仏の命を求める事は、外道です。
大聖人様が仰せです、
『但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず・法なり、』
(一生成仏抄)
但し、お題目を唱え、保つと言っても、若し、自分自身の命の外に、この南無妙法蓮華経があると思うなら、それは妙法ではなく、粗末な教えである。
明確に仰せです。
眺め人方は読めない。
更に、後段には、
『故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。』
故に、お題目を唱える時には、自分自身の命を指して、南無妙法蓮華経がそこに存在するのだ。と、深く信じて唱えなさい。
明確ですよ。
眺め人方は読めない。
『若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し、然れば天台の釈の中には若し心を観ぜざれば重罪滅せずとて若し心を観ぜざれば無量の苦行となると判ぜり、故にかくの如きの人をば仏法を学して外道となると恥しめられたり、爰を以て止観には雖学仏教還同外見と釈せり、』
自身の命の外の(お曼荼羅に)道を求めてどのように祈っても、お金に困る人が隣のお金持ちの財産を数えるように、自分には全く功徳は顕れない。
だから、天台大師は、自分の己心の仏界を観じる(信じる)事が無い人は、あらゆる修業をしても罪は滅せず、ただの苦行で終わるだけだと言い、こう言う人を、仏教を学ぶように見えるけれども、実際には外道でしかない。と言われているのである。
眺め人の事ですよ。
眺めないでお読みなさい。
そして、ご本仏様のご指南を信受なさい。
そこが創価の始まりです。
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