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少し多くの方々が複雑にしているので整理しておきます
9
:
虹橋
:2009/02/01(日) 10:42:34 ID:AYnlMecQ0
沖浦さん、整理をしていただいたのでやっと私にも解かってきました。
ブロック長暦5年目でいつも白百合長から叱咤激励されながらの信心・活動者ではありますが、その者
の理解としての一言です。
3#
>人の救済が目的なら、人が目的で本、仏は手段で迹。
>なお、この表現は法華経の本迹相対とはあまり関係はございません。
↑
上記のことについて。
皆さん、良く知るところの御書で”日如御前御返事”(p1244)に
「かかる御本尊を供養し奉り給ふ女人・現在には幸いをまねぎ後生には此の御本尊左右前後に立ちそひて
闇に燈の如く険難の処に強力を得たるが如く・彼こへまはり此へより・日如御前をかこみ・まほり給うべきなり、」
とありますが、御本尊を信ずる厚薄によって守られるべきものは自身であり、御本尊は盾であると読めるのではないでしょうか。
また別のところでは、今月の大白蓮華の拝読御書”経王殿御返事”に「鬼に・かなぼうたるべし」とありますように、自身を
守る道具(表現が不適切ですが)また、前へ打って出るときの武器(同じく)のようにも思えるのです。
御本尊を自身の命と同じく大事に守っていかなくては成りません、基本は受持即観心ですので、御本尊を受持しこころ(生命)をもって帰命申し上げる
というのは、教義上は全くもって疑うものではありません。
ただ、この娑婆世界・現実世界でもって職種、またその立場においてそれぞれのとらえ方の違いや、その考えの重きの置き方の表現の仕方の差異であって、私どもでは
充分に納得できるものであります。昨今の沖浦氏の本・迹の用いかたについて、小汚い言葉で罵倒されるべきものではないと思います。
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