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かづ235の部屋(避難所)
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聖なる世界へ;五井昌久著 p97より
「永遠の生命につながる愛」
真実の愛というのは、そこに自我というものが無い状態の愛行為でありまして、自己の感情の
喜びを意識しての愛ではありません。
ですから、どうしても肉体身としての自己を意識しては、とても行えるものではありません。
肉体身を超越して、宇宙生命と同化した心になっていてこそ、自然と自己犠牲の愛が行えるので
す。
だがしかし、そういう心境になるためには、それ相当の修業が必要になります。
釈尊は愛という言葉を執着と同じようにみておられ、業のほうに入れておられます。
そしてその執着の愛の想いを超えるためにも、空になる修業が必要であると解いておられます。
現代の人々は、釈尊時代のように、空になるための坐禅観法ばかりしていられません。
だからといって、執着であり、喜びが裏返って悲哀となり、親密が時には恨みとなってくるよう
な愛の想念でいたのでは、人間はいつ迄も苦悩の世界から抜けきることは出来ず、永遠の生命を
得ることも出来ません。
(省略)
私はアインシュタインのいうように、”これは非常にむずかしいことで、誰にも成就できない
が”神のみ心の奥の世界、宇宙生命の根源の意図を悟って、地球人類が真の人間の在り方、真の
愛の行為を、是非とも行わなければならぬと思うのです。
これは一朝一夕で出来るものではありません。
たゆみない修練と日常生活の習慣が必要なのです。
(省略)
世界平和の祈りの中に、凡夫であろ自分、間違いだらけの自分を瞬々刻々投げ出して、神の正
しいみ心を頂き直す、そういう自然の祈りの行為の中に、親子の愛も、夫婦や親族知人の愛の行
為も、人類愛の行為と等しい行為として、執着を放たれた光明輝くひびきとなってゆくのであり
ます。
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