したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

【転載】投稿記事の掲載。

11有尋有伺:2020/12/06(日) 13:15:09 ID:6erUuVP60
|10 さて世界の主・梵天は、一方の肩に上着をかけて、尊師に向かって合掌し、
|  尊師に向かって次のように言った。

|11 「尊いお方さま!そのとおりでございます。
|  過去にさとりを開き、敬われるべき人々であった尊師らも、
|  真理を尊び、重んじて、たよっておられました。
|  未来にさとりを開き、敬われるべき人々である尊師らも、
|  真理を尊び、重んじ、たよられることでしょう。
|  また現在さとりを開き、敬われるべき人(単数)である尊師も、
|  真理を尊び、重んじたよるようにしてくださいませ。」

|12 世界の主・梵天は、このように言った。
|  このように説いたあとで、次いで次のように説いた。
|    「過去にさとりを開いた仏たち、また未来にさとりを開く仏たち、
|     また多くの人々の憂いを除く現在の仏、――正しい教えを重んずる
|     これらすべての人々は、過去に住したし、現在住し、
また未来に住するであろう。
|     これが諸仏にとっての決まりである。
|     それ故に、この世においてためになることを達成しようと欲し、
|     偉大な境地を望む人は、仏の教えを憶念して、
|     正しい教えを尊重しなければならない。」

| ( 「ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ」 中村元・訳 )

12有尋有伺:2020/12/06(日) 13:16:17 ID:6erUuVP60
ここでは、釈尊ご自身が、まだ完全に実践していない、

  1.【戒めの体系】を完全に実践するために

  2.【禅定の体系】を完全に実践するために

  3.【智慧の体系】を完全に実践するために

  4.【解脱の体系】を完全に実践するために

 そして、まだ完全に体得していない

  5.【われは解脱したと確かめる自覚(智慧と直観)>の体系】を完全に体得するために

 わたしは他のバラモンまたは(道の人)を尊び、重んじ、
たよって生活したいものである。

と、告白(独白)されています。

つまり、悟りを得た直後の釈尊は、
自分自身が「戒・定・慧・解脱・解脱智見」の成就はしていても、
それがまだ完全なものではないことを「自覚」しておられたのだと私は理解しています。

そして釈尊は、その後で「頼れる師」ではなく、また「教え導く弟子」などでもなく、
「同じ教法」を依処として保ちつつ、
共に「道を」歩むことのできる「善き友」を探しに出かけたのだと考えるのです。

釈尊は、アーナンダ比丘に「善き友を得ることが八正道のすべてである」と
(大パリニッバーナ経の中で)説かれています。
そしてまた、「向上につとめた人は、『わたしは修行者のなかまを導くであろう』とか、
あるいは『修行者のなかまはわたくしに頼っている』とか思うことがない」と
断言されています。
そしてその後で、修行者は「自らをたよりとして、人をたよりとぜす、
法をよりどころとしなさい」と諭されているのです。



※2月からは、上記の内容も含めた
「解脱・悟りに至るための体系的な説明@和井恵流」をしたいと考えています。

13有尋有伺:2020/12/06(日) 13:20:04 ID:6erUuVP60
2 コメント
コメント日が 古い順 | 新しい順
こんばんは。 (エム@石飛)
2010-01-16 01:12:40
和井 恵さま

いつも書き込んでいただいてありがとうございます。石飛です。

わたしも、マニカナの「マジカナ道場」に書いた分を、部分ですが、
コメント欄に書かせていただきますね。

和井恵さまのこの書き込み二つは、とても共感するところ大でした。
それで、思いついたままを書いてしまい、
あっていないところもあるかもしれませんが、お許しください。

===============

No.7184
投稿日 : 2010/01/15(Fri) 23:05:32
投稿者 : 管理人エム

> 経典からは、明らかに逸脱した内容ですので、確認のしようがありませんし、
理論とも言い難いところがありますから…

そう言われますと、そうなのかもしれませんが、わたしも、一つ、
前から思っていたことがありました。

いくら悟っても、それを実践して、うまくやるかどうかは、まったく別の話だなぁ、と。
といいますのは、
相手のいることですから、相手がどう出るかは、
いくらブッダでもわからないこともあると思うのです。

それについて、ちょっと思っていることを、ついでに述べてしまいます。

悟った直後に、ブッダは、ウパカに、自分は一切勝者であり、一切智者だ、
と語るのですが、そのとき「一切智者」は、サッバヴィドゥーということばなのです。
ヴィドゥーは、ヴィディヤー(明知)などとも関連することばで、
「知る」「見出す」「わかる」というような意味があります。

悟ったときには、一切智者といっても、
原理原則的なことがらが自分に明らかになった、
という意味合いが出るのではないかと思います。

ところが、次第に時がたちますと、サッバンニュ(パーリ語)ということばも
使われはじめます。大乗になりますと、こちらの語を用いますね。
サルヴァジュニャ(サンスクリット)と同じです。

このジュニャですが、ジュニャーナと同じ語根から作られていまして、
前にもお話したかもしれませんが、
どちらかといいますと、認識によってわかる具体的な知識を指します。

つまり、たくさんの人を相手に説法をしたり、経験を積んできた結果、
原則的な理解を超えて、実践応用の分野にまで、ブッダの全智者性は、
広がっていったのだ、理解できるのです。


こんばんは、エム先生。 (和井 恵)
2010-01-17 19:59:43
わざわざお越し頂き、ありがとうございます。

時と共に、一切智者を表現する「言葉」の使い方が変化していくんですね…


> つまり、たくさんの人を相手に説法をしたり、経験を積んできた結果、
> 原則的な理解を超えて、実践応用の分野にまで、ブッダの全智者性は、
広がっていったのだ、理解できるのです。

私も同じ考えですね。

ブッダには、すでに歩む道程に迷いなどは無かったでしょうが、
経験することでそれを確実なものとして、
さらに自らをバージョンアップさせることで、
一切勝者・一切智者という存在になっていったのだと理解しています。

そして、そこに至る道筋を明確に示したものが「教法(釈尊の教え)」なのだと
考えているのです。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板