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ポモ,カルスタPostModern(Postポストモダン)Zizek,Ziz
1
:
・・・
:2021/05/28(金) 00:52:38
ポストモダン(英: Postmodern)または ポストモダニズム(英: Postmodernism)は、近代から脱却することを目標に、20世紀中葉から後半 ...
ポストモダニズムの批評アプローチは、1980年代から1990年代にかけて人気を博し、カルチュラル・スタディーズや科学哲学、経済学、言語学、建築学、フェミニズム理論(英語 ...
2
:
研究する名無しさん
:2021/05/28(金) 00:56:03
ひろぴ掲示板に 「ポモ,カルスタ」 って言うスレが有ったよね。 夏カシス
少し前まで、カルチュラルスタディーズ(カルスタ)がポストコロニアル(ポスコロ)やフェミニズム(フェミ)などと結託し、ポリティカルコレクトネス(ポリコレ,いわゆる政治的正しさ)の色彩を濃くした文学研究論文が学界を跋扈(ばっこ)していたという。
そんな情況を、「〈政治的正しさ〉は文学をつまらなくする」と考えていた石原千秋氏(いしはら・ちあき,男性,近代日本文学研究,早稲田大学教授ほか)は、「カルスタ仕立てのポスコロ風味」と揶揄(やゆ)していた(『大学生の論文執筆法』)。
大学生の論文執筆法 (ちくま新書) 石原 千秋 筑摩書房 2006-06-01
それならば、カルスタ系スポーツ社会学者・山本敦久氏(やまもと・あつひさ,成城大学教授)の著作『ポスト・スポーツの時代』は、どんな風に揶揄できるのか? さしずめ「カルスタ大盛り,ポモ辛め,フェミ増し増し,ポスコロ全部乗せ」<1>のといったところか。 『ポスト・スポーツの時代』(敦久, 山本) 岩波書店 2020-03-28
3
:
研究する名無しさん
:2021/05/28(金) 00:59:09
#(東京五輪) オリンピック (感動ポルノ)
巷間、スポーツは「筋書きのないドラマ」だと言われ、私たちはそのゲームを「純粋」に「自由」に観戦して楽しんでいると信じ込んでいる。しかし、それは違う……と山本敦久氏は『ポスト・スポーツの時代』の「第4章 視覚のハビトゥス〜〈黒人の身体能力神話〉と〈身体論ナショナリズム〉」で力説する。
……どうして黒人選手のプレーはいつも「高い身体能力」の現れとして語られるのか。サッカー日本代表のプレースタイルは、なぜいつも「組織力」として語られるのか。
そのときスポーツを見る行為は……どれほど「自由」な解釈の余地を与えられた意味解釈の実践なのだろうか。もし、スポーツが筋書きのないドラマならば、既視感をともないながら「やっぱり黒人は〜だ」「やっぱり女性は〜だ」と言ってみることは「やっぱり日本代表は〜だ」と言って観〔み〕ることほど、スポーツをつまらないものにしてしまうことはないではないだろうか。
……こうした問いによって私〔山本敦久〕が問題にしていることは、スポーツを観るという経験があらかじめどれほど既存の枠組み〔制約〕に囚われているのかという点にある。 山本敦久『ポスト・スポーツの時代』(第4章)143〜144頁
つまり、素朴で「純粋」と思われるスポーツ観戦の経験は、実は特定の既視感を確認するための行為でしかなく、そこには見えざる政治性、何より人種主義をはらんでいる。
4
:
研究する名無しさん
:2021/05/28(金) 01:06:27
↓ 「フランクフルト学派」と言っても、「研究」してる 内容は 「Zizek風味の カルスタ」 なのかな???? 軽いね!!!wwwwwwwwwww
大阪大学人間科学研究科/人間科学部 比較文明学研究室COMPARATIVE STUDY OF CIVILIZATIONS, Osaka University Graduate School of Human Sciences/School of Human Sciences
二〇世紀ドイツ現代思想を代表するフランクフルト学派は、ドイツ観念論の哲学、フロイトの精神分析、マルクスの社会理論、現代文化についての理論を融合し、西洋に発生し地球を覆う普遍的なシステムとなった近代文明の性質を分析する学際的な理論を展開しました。比較文明学研究室は、その学際的手法のスピリットを継承しつつ、構成要素の理論の一つ一つを最新のものに置換し、リニューアルします。今日、新しい文明論の哲学の軸として、ヘーゲル、マルクス、ラカン、デリダらの思想を用いることができると考えています。
現代におけるフランクフルト学派の後継者としては、SF文学に現れるユートピア表象から社会における根源的矛盾に遡行する分析手法を提唱するフレドリック・ジェイムソンに注目することができます。またさらにジェイムソンの思想を継承発展させ、ヘーゲルとラカンの現代的融合をはかるスラヴォイ・ジジェクも注目すべき存在です。研究室ではこうした現代の思想潮流にも目を配りながら、高度資本主義社会の一つの典型である日本という場でこそ可能な、文明社会と人類の未来についての思考を展開することを目指します。
フレドリック・ジェイムソン 『未来の考古学――ユートピアという名の欲望』秦邦生訳、作品社、2011年
フレドリック・ジェイムソンは、文化表象を「現実における解決不可能な矛盾に対する想像的な解決」として解析することができると述べています。つまり私たちがどのような物語を生み出すかを見ることによって、私たちが社会構造の深層レベルでどのような矛盾を経験しているかを捉えることができるというわけです。
たとえば映画『シン・ゴジラ』(庵野秀明・樋口真嗣監督、2016年)では、日本社会が危機に面したときに、突如使命感に「目覚め」て日本を救うために立ち上がる若き官僚・政治家たちの活躍が描かれます。こうした物語構造は、戦後日本の文学においてはSF作家の小松左京が得意とした手法です(「地には平和を」『日本沈没』『首都消失』など)。日本喪失の危機を想定することで「日本」というものを捉え直そうとする欲望がそこには見られます。敗北する太平洋戦争という歴史的事件の構造を、そのさなかにあってむしろ把握できず、陸海軍も政治家も官僚も企業も国民もついに「目覚める」ことなく終わってしまったことへの後悔。もしそれを先取りできていたら、あるいは今度こそ先取りできないか、と夢想する空想力が、こうした日本列島の危機と、目覚めてそれに立ち向かう日本人たち、というフィクションを生みだします。つまりそれは〈目覚めることへの夢想〉だと言えます。『シン・ゴジラ』の作り手と受け手とが生産し消費する白昼夢は、私たちのどのような無意識的な経験を反映しているのでしょうか。
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