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衰退途上国日本を科学的に分析する
1642
:
研究する名無しさん
:2019/04/03(水) 04:37:05
>1
新年号 令和の、万葉集の「令和」の元ネタ・張衡「帰田賦」。
「帰田賦」の作者、張衡は「後漢」の「安帝」に召されて
役人になるが、杜撰・怠惰・愚鈍な安帝が、側近の専横、横暴を許し
政治は杜撰、愚鈍、腐敗、大飢饉が発生、重税が加速、
インフレ加速、スタグフレーション慢性構造不況激化で、後漢帝国は衰退。
さらに、後漢各地で、大山賊団、大海賊団の類の大規模反乱が多発、
また、後漢は、中央アジア周辺国の侵攻も受けて、
収入源である、シルクロード、西域を失い、
内憂外患の後漢は、国家衰退を速め、滅亡の端緒へと転げ落ちる。
愚昧な安帝と側近たちの腐敗政治、自由すぎるわがままな奥方のため、
「乱れきった治世は、もうヤダ!」という漢詩だったというオチ。
シナの古典、深いですねー。
「安帝(あんてい)」は、「東晋」の第10代皇帝。孝武帝の長男。
諱は徳宗、字も徳宗。
一切の意思表示ができないという重度の知能障害児であったが、
太元21年(396年)に父帝が殺された後、
皇帝として擁立された。安帝自身は政治を行なえず、
最初は叔父の司馬道子・元顕父子による専横、399年には孫恩の乱が勃発、
元興元年(402年)に司馬道子父子が桓玄の反乱で殺され、
翌元興2年(403年)には桓玄に禅譲を迫られて帝位を追われるという有様であった。
翌永始2年(404年)に「楚皇帝」桓玄が殺され、
劉裕の助力のもとに復位したが、
今度は劉裕の専横を許すことになった。
そして義熙4年(418年)に劉裕の手によって殺害された。齢37。
子はいなかったという。弟の司馬徳文が劉裕に擁立された。
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