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Masuzoe 舛添要一 (元) 東京大学 政治学 助教授
32
:
研究する名無しさん
:2016/05/22(日) 16:27:44
ttp://www.asyura2.com/07/senkyo39/msg/292.html
しかし、彼の経歴だけをながめるとその言動とのギャップにいささか驚かされる。
昭和二十三年生まれ、四一歳というから、団塊の世代のちょうど真ん中。小さい時から成績が良く、
北九州市・八幡高校の成績は常にトップで、東大法学部にストレートで合格している。
昭和四十六年に卒業した後に、パリ大学に留学、現代国際関係史研究所、
ジュネーブ高等国際政治研究所で国際政治を研究。二十八歳で西独のマーブルク大学と
ルール大学で二年間講師をつとめて帰国する。三十歳で母校・東大の教壇に立ち、
三十二歳の時には米国防総省付属の国立戦争大学で講義をしている。
経歴的にはかなりのエリートだ。舛添の同窓生によればとにかく頭のいい学生だったらしい。
「全国から集まった秀才の中でも成績は抜きんでていましたね。卒業後、本人は大学院に進みたかったらしいが、
もう一人、政治学専攻のライバルがいて、担当教授がそちらをエコヒイキしていたため、
海外留学の道を選んだようだ。結局、彼にとってはその方が良かったんじゃないかな」
英、仏、独、伊など六カ国語の習得と海外留学は“東大凱旋”の切り札になったようだ。
東大助教授時代は、もっぱら学外活動に精を出し、日仏賢人会議の特別補佐役、
平和安全保障研究所の研究プロジェクト、さらには日本青年会議所のアドバイザーなどで走り回っている。
●舛添の経歴と東大辞職の周辺事情
その舛添が突然、東大を辞職したのは89年の六月。そのいきさつについては雑誌やインタビューでこう書いたり、喋ったりしている。
<いったん教授になってしまうと刑事犯罪を起こさない限り、六十歳の定年までぬるま湯につかっていられる>
<東大教授は権威があると思っているが、毎年入ってくる学生の偏差値が高いから
面目を保っているのであって本人の実力ではな><彼らは僕のことが気にくわないから雑用ばかり押しつけてくる>
<東大には権力亡者と化した鄧小平や李鵬がいて、このままいたら殺される>
そして「嫉妬、怠惰、弾圧はこりごりだ」。「さらば東大のアホどもよ」となったわけである。
東大(教授)の現状はたぶんそんなもだろうが、舛添は昨年、西部邁、村上泰亮、公文俊平が東大を辞した時、
「俺は学内に残って闘う」と宣言したものだ。それが一年後になぜ心境の変化を起こしたのかーー。
ある東大教授がこう言う。「結局、東大では助教授より上になれる展望がなくなったからなのです。
彼が所属する教養学部の政治学教室には教授二人、助教授二人、助手一人がいましたが、
二人の教授がポストをあげ渡す気配は当分なかったし、東大アカデミズムの中では彼が
教授に推挙されるだけの人望はなかった。となると、あとは私学へ転出するしかないのですが、
いまのところマスコミ商売が順調だから、とりあえず“浪人”のスタイルで営業し、一段落したら
どこかの私学にもぐり込むつもりでしょう。東大批判は、いってみれば辞めるための口実。
“雑務に追われて研究ができない”というなら下ネタばかりの奥様番組やクイズ番組など出なければいい。
彼が言う雑務は、学生と交渉する委員会で、これは教授持ち回りのもの。
“気にくわないから押しつけた”なんてのは詭弁ですよ。
それより、舛添クンの最大のカン違いは、自分を西部、村上らと並べて“東大辞職四人組“などと言っていることです。
村上らは評価は別にしてもそれなりの学問的業績がある。舛添クンに何があるのか。
我々にとっては本人が思っているほど意識する存在じゃなかったのです」
いささかの“やっかみ”も含まれているかもしれないが、辞職は“教授になれないから”が理由で、
マスコミ向けに派手なケツのまくり方をしてみせた、というのが真相のようだ。(ry
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