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史学・考古学・文化人類学
1525
:
研究する名無しさん
:2017/07/03(月) 15:09:11
「外南部」の俗称か? 斗南藩、藩名の由来に新説
ttps://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170703-00010000-dtohoku-l02
戊辰(ぼしん)戦争で敗れた会津藩が明治初期、北奥羽地方に国替えとなって成立した斗南藩に関する研究が近年、
新たな展開を見せている。これまで定説がなかった藩名「斗南」の由来について、「地名ではなく、北斗の南に位置する」
「外南部という地元の俗称」と記された史料が見つかり、旧藩士たちによって当時の帝国議会に
提出されたものであることが判明。それらの史料から、廃藩置県後の秩禄(ちつろく)処分を巡り、
旧藩士が政府を相手に長期にわたって、藩政期の禄高(ろくだか)承認(復禄)を訴えていた事実も浮かび上がってきた。
■史料次々と
一連の史料を見つけたのは、さいたま市在住の幕末史家伊藤哲也さん(48)。
2014年、国立国会図書館が所蔵する明治期の大蔵省が作成した公文書に、青森県の聞き取り調査で
「北斗ノ南ニ在ルノ意」「外南部ノ俗稱(称)」から名付けられた―との内容の記述を発見。
当時の政府が、明治3(1870)年4月24日付でこの藩名を承認したとしている。
同じ14年、国立公文書館で旧藩士が政府を相手取って復禄を求めた訴訟の判決原本を確認。
その2年後には、訴訟前の明治35(1902)年、斗南など各地の旧藩士が帝国議会の臨時秩禄処分調査委員会に
提出した復禄請願の書類に、藩名について大蔵省の文書と同様の記述を見つけ、大蔵省文書が
この部分の写しであると断定。藩名の特定が復禄請願における重要な証拠の一つだったと結論付けた。
■真相に近づく
請願の代表者には「山口力三郎」と、八戸町(当時)在住の旧藩士の名が記されている。
伊藤さんは旧藩士の団体が提出している点を重視し、「藩名由来の真相に一歩近づいたのでは」と期待を寄せる。(ry
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