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■漢文等と仮説や解説等●

95ハンドル付けて下さい:2006/09/10(日) 08:58:53
>永徽二年、・・・六年、新羅王金春秋又表稱
> 百濟與高麗、靺鞨侵其北界、已没三十餘城。 
永徽二年(651年)、・
・・六年、新羅王の金春秋また表を称し(唐王朝に上表し、唐に助けを求めた文に)
百済と高麗(高句麗)と靺鞨(渤海)が、その北界(新羅の北部)を侵かし(侵略し)
すでに三十余城が没した(陥落した・渤海や高麗の手に落ちた)。

> 時百濟本地荒毀、漸爲新羅所據、隆竟不敢還舊國而率。
漸らく(しばらく)新羅の所據(所処)と爲(為)り、
時に百濟(百済)の本地は荒毀(破壊)す、
隆(夫余隆)は竟じて敢えて還ら不して、舊國(渤海マッカツ)にて而して率す。

> 其孫敬、則天朝襲封帯方郡王、授衛尉卿。
その孫の敬(隆の孫の夫余敬)に、
すなわち天朝(唐王朝)が襲封せし帯方郡の王なり、衛尉卿を授く。

一時的に百済は、新羅の土地となって破壊されたが、
唐王朝は百済を、渤海人(渤海靺鞨の部族・帯方郡王の夫余敬)の所領とさせていた。

> 其地自此爲新羅及渤海靺鞨所分、百濟之種遂絶。
その地(百済の地)は これより新羅
および渤海靺鞨(渤海国)の所分となし、百濟の種(民族)は、ついに絶す。


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