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■漢文等と仮説や解説等●

19ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:34:42
『後漢書』高句驪 遼東ではない。朝鮮ワイ貊ではない、南で接する。
『三國志』高句麗 遼東ではない。朝鮮ワイ貊ではない、南で接する。

『晉書』夫餘國 肅愼氏(高句麗・高麗・朝鮮という民族も国も無い。)
『宋書』高句驪國 わざわざ中国人で無いと断っている。漢王朝の時は遼東郡で高句麗王だった。

『南齊書』高麗國 わざわざ中国人で無いと断っている。西は魏虜(北魏)と接した。
營平二州諸軍事(遼西の2州の将軍)というが、ようは斉国は北朝北魏の敵だったので
北燕国の鮮卑族の王族の養子に高句麗族の太子(王子)を入れていたので実質でないが名を与えた。
『梁書』高句驪 遼東でなく東にあると書いている。
漢王朝や三国志魏のときは、朝鮮・穢狛・沃沮・夫餘と違い、境を接していたと書いてある。
漢王朝の武帝の元封四年に、朝鮮を滅ぼし。玄菟郡を置き、高句驪を縣となし郡に属させた。

『隋書』高麗 夫餘族から出た。朱蒙が高句麗と自称し、高氏と名乗った。
昭列帝のときに慕容氏の所領となった。丸都を焼いて略奪して遠征から帰国。
昭列帝のあとに百濟の所領とし百済で高句麗王を殺した。
その曾孫の「レン」は、後魏(北魏)に遣いをした。
「レン」の六世の孫の「湯」は、周にあって遣いを使いにさせ朝貢してきた。
遼東公、遼東王の名前で・・・高麗王と改めた。朝貢を絶やさなかった。
平壌城が都、長安城、國内城、漢城を「三京」とした。

『舊唐書』高麗 扶餘とは別種族だという。
平壌城が都。漢王朝のときに樂浪郡の地だった。
長安から東に5100里で、東に海を渡れば新羅国
西北は遼水を渡れば唐の營州、南に海を渡れは百濟国、北は靺鞨族に至った。


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