したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

■漢文等と仮説や解説等●

110ハンドル付けて下さい:2006/09/10(日) 09:24:37
BC108年、前漢の武帝が、楽浪郡を置く
 AD206年、後漢の曹操の頃、楽浪郡の南半分を、帯方郡として分置
 AD244−246年、魏の明帝の頃、高句麗・ワイ・韓など東夷を漢人が征伐
            高麗(高句麗)人がヨクソ・ワイ・辰韓に亡命した移民が
            討伐後に帰国せず(辰韓人ではない)残留者が
            新羅城(蓋州城・蓋牟羅城=健牟羅城=金邑城=金城)を
            建てる

■吏譯轉 有異同 臣智激 韓忿 攻帶方郡崎離營。時
〔帶方〕太守弓遵 樂浪太守劉茂 興兵 伐之 遵戰シ 二郡遂 滅韓。
□吏譯が轉じ 異同有り 臣智が激し 韓が忿り 帶方郡崎離營を攻む。時に
〔帶方〕太守の弓遵 樂浪太守の劉茂 兵を興し 之を伐し
 遵 戰シするも 二郡は遂に 韓を滅ぼす。
●翻訳役人が転属し 異議があった 臣智(韓族の酋長達)が激怒し
 韓族の一般人民が忿(いき)どおり 帶方郡の崎離營を攻撃した。
 攻撃のあった時代の 帶方郡の太守の弓遵と 樂浪郡の太守の劉茂が
 二つの郡民に武器を与えて挙兵して この韓族の反乱を征伐し
 弓遵太守が戦シはしたものの
 帯方と楽浪の二郡の漢人の兵隊がついに 韓族を滅ぼした。

 AD280年、統一王朝の西晋(武帝、司馬炎「仏教の盂蘭盆会」を始めた皇帝)
 AD313年、楽浪太守の張統が、前燕国(遼西)に亡命し、楽浪郡が滅亡
 AD317年、南朝の東晋が始まる

■晉武帝 咸寧中 馬韓王來朝 自是無聞。三韓蓋 爲百濟新羅 所呑并
□晉の武帝が咸寧中に 馬韓王が來朝せし 是れ自り聞く無し。
 三韓は蓋し 百濟新羅と爲って 呑并の所なり
●晉の武帝(司馬炎)の咸寧年間にあったことで
 馬韓王が西晉王朝へ慶賀などに來たが
 これより後に三韓の名を聞くことが無くなった。
 三韓は おそらくは 百濟と新羅とによって 併合されたのだろうと。

北朝の前秦「符堅」の時から初めて異民族の間でも「道教の位牌」を押し立てて
弔い合戦をする。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板