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■漢文等と仮説や解説等●

11ハンドル付けて下さい:2006/06/19(月) 03:22:54
資治通鑑巻第二百一 唐紀十七 高宗天皇大聖大弘孝皇帝中之上

[百済西部の人、黒歯]常之と別部将
沙□相如は、各々険に據り福信に応じたが、百済が敗北すると部下を率いて降伏した。
劉仁軌は常之、相如とその部下達へ任存城を取らせようと、兵糧を与えてこれを助けた。
すると孫仁師が言った。「こいつらは獣心だ。何で信じられるか!」
だが、仁軌は言った。「我の観るところ、この二人は忠勇で謀略もあり、
信に厚く義を重んじる人間だ。ただ、前回は託した者が悪人だっただけ。
今、まさに感激して功績を建てる時だ。嫌疑は不用だ。」
遂に糧杖を配給し、兵を分けてこれに従う。
唐軍は任存城を抜き、遅受信は妻子を棄てて高麗へ逃げた。
劉仁軌は兵を率いて百済を鎮守し、孫仁師、劉仁願は還るよう詔が降りた。
百済は戦乱の後で、家などは焼け落ち、屍は野に満ちていた。
仁軌は屍を埋葬させ、戸籍を作り、村へ人を集め、官長を一時代行し、
道路を開通させ、橋梁を立て、堤防を補強し、
陂塘を復旧し、耕桑を勧め、貧乏へ賑給し、孤老を養い、
唐の社稷を立てて正朔と廟諱を頒布した。
百済は大いに悦び、皆、生業に安んじた。
仁軌は、その後に屯田を修めて、兵糧を蓄え、士卒を訓練し、高麗を図った。
劉仁願が京師へ至ると、上はこれへ尋ねた。


『南齊書』列傳第三十九蠻東南夷 梁蕭子顕撰
是歳魏虜又發騎數十萬攻百濟入其界
牟大遣將沙法名賛首流解禮昆木干那率衆襲撃虜軍大破之。
 この歳(年)、魏虜(北魏)また數十萬騎を發し百濟を攻めるに、その界に入る。
 [百済王の余]牟大は、沙法名、賛首流、解禮昆、木干那の[四武]將を遣わし、衆を率い
 虜軍(北魏軍・北虜の軍・北方異民族の軍)を襲撃し、これを大いに破る。


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