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愛国者

162ハンドル付けて下さい:2006/07/16(日) 12:52:06
その土地(楽都県)が、東夷(弁辰)の勃興によって、
中国人の楽浪郡から、三韓の弁人(弁辰人、
辰韓(矮身の文身[顔化粧や入れ墨肌])と弁別した民)という
巨身で鬼神を祀る民に国が変わった、乗っ取られた為に、
倭人の王に中国人が、その半島の楽奴国(那国)の統治を、
代わりに任せた(任那)と推測されます。

前漢武帝の時に半島を制圧し
中国人を殖民(7万世帯・推定25万人?)し
屯田し郡県を設置した際に
楽浪郡と玄菟郡を置きますが(西晋の頃には
1万世帯を割り?4万人を切る?人口激減。)
楽浪郡は
新の王莽の時に
楽鮮郡と呼び変えがありました。

楽浪郡朝鮮県(楽浪郡北部の
   狼林山脈から流れてくる
   大同江の平壌〜沙里院(沙悟浄・沙法名・沙相如))と
楽浪郡楽都県(楽浪郡南部の
   羅州(なジュ)周辺と推定・
   のちの百済領内)の県名を併せており
楽鮮郡としたようです。
のち東漢(後漢)で楽浪郡に名を戻します。

楽浪の楽は洛の音であり都を意味し
楽浪の浪は狼の音であり犬を意味します。

楽浪郡は西晋の313年に滅亡しますが、ソレを去ること
後漢の206年ごろに
遼東郡から遼東国にして自立していた地元有力者の
公孫度と公孫康の父子が、父の度が娘を、
鮮卑(のちに北魏)と高麗(高句麗)の
強い2つの北方異民族に挟まれた南満州の夫余王尉仇台に嫁がせ、
婿の尉仇台は、子の公孫康と義兄弟となります。


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