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愛国者

108ハンドル付けて下さい:2006/06/18(日) 15:38:54
半島は、山間地が原住民。平野部が中国人と、後の歴史で流入してきた

高句麗(バク弓を持つバク族・別名がクリ族)の分派の「扶余(百済)」とか
百済の分派の「新羅」という事になっている。

ヨクソ(燕亡人衛満王朝鮮)
 ↓ =高句麗(バク・クリ)
 ↓
ワイ(朝鮮侯準・朝鮮王准(じゅん)は淮(わい))
 ↓ =百済(久多良[和]・
 ↓    扶余[漢]→ワイ王の印を持つ、なぜかプヨ王の印ではないプヨ族なのに・
 ↓    しかもワイ侯フジ(不而)は、扶余族ではない別種のワイ族である・
 ↓       ワイの北隣接はヨクソ・南隣接は辰韓なので明らかに別種族
 ↓    日本はコマ(駒)と呼び騎馬を日本に渡来させた事になっている[戦後の学説]
 ↓    高句麗・高麗・狛犬をコマとしたり、海の向こうとしてカラ・韓・唐と呼んだ)
 ↓
辰韓(韓王準)
  =新羅(志良岐)

これは実は、朝貢で見かけた順番
--------------------------------------------------------------------------------
魏は、曹魏(三国志)と後魏(北魏・魏晋南北朝の北朝)がある。間違いやすい。
秦は、「前秦」と前漢武帝の前の
秦の始皇帝の「秦」を混乱してみせて古い方に読み手を勘違いさせる。

鮮卑族(胡族・北方異民族)を滅ぼして 朝鮮とか韓とかが自分を中国だという錯覚は、
宇文部鮮卑族の「後燕」であって「燕亡命人」の衛満王ではない。
拓跋部鮮卑族の北魏は雲崗石窟など仏教美術を開花させたので、胡族とバカには出来ない。
しかも洛陽には南朝の梁武帝の時に千字文という漢字手習いの歌を510年に作詞した周興嗣と
梁武帝と520年に頓智問答をして北に去った南印度から来た達磨大師が
洛陽で禅宗を広めていた。後に崇山少林寺13僧侶の唐太宗李世民の国家創業を助ける話に繋がる。
洛陽の禅宗は蒙古王朝(元代)から曹洞宗系統の寺が主流になっていったという。


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