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久々の更新

1【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2010/02/06(土) 05:02:27 ID:???0
ニーチェ=グノーシス論をアップします。

2【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2010/02/07(日) 15:05:00 ID:???0
ああ、最後の「神の甦新」のところですが、説明不十分だとか突っ込まれる前に述べて
おくと、前にも扱いましたが、『権力への意志』の639番と1037番を参照していただけ
ればと思います。「「神」という概念に対する感覚を〈堅持することが可能であるとす
れば〉、のくだりですね。

3【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2011/01/18(火) 01:33:22 ID:???0
いまさらですが、博士宛には浅田彰の『構造と力』についての私の見解を明確に書いて
なかったので、再読したのを機に丸山圭三郎の著作の数々と比較検討しました。ページ
作る分では短いのでここに載せておきます。何かあればお願いいたします。

浅田彰の『構造と力』には、誰某が誰某を批判したという所を取り上げ、批判した側
にその思想的優位を与え、正当性を認めるというやり方をほぼ無検討に決定している
ところがある。ジョイスやバタイユの立場に立ってブルトンを、フロイトの立場にた
ってユングを叩くというテル・ケル界隈の作戦に正当性を与え、それに基づいてラカ
ンのユングに対する優位を認めたり、次にはドゥルーズ=ガタリを持ち出してバタイ
ユに対する優位を唱えるのはその典型例である。これは「社会動向的に叩いて当たり
前」という「ノリ」に乗っているだけである。注をつけてはいても、その注が注の意
味をなしていない。
丸山理論は、特に本書で説明されている「第三の狂気」に関してであるが、直接的に
も間接的にもこうした「ノリ」の批判を含意している。ことにフランス思想界隈で非
難されているユングに関して言えば、丸山自身が晩年とりあげようとしたように、ソ
シュールの言語体系をつきすすめていくと、博士が指摘したとおり、ユングが明確化
した「シンボル」と「記号」の問題に行き当たりもする。ウロボロスにしても、その
象徴的意味について取り上げれば、浅田がいうような「宗教的に美化された生のゲシ
ュタルトの織りなすマンダラに過ぎない」というだけではないだろう。
丸山圭三郎は『欲望のウロボロス』を刊行した時、言いたいことは何度でも言い続け
よう、ウロボロスがヘン・カイ・バン(一にして全)や永劫回帰のシンボルであるこ
とは、今後の私の方向を暗示してくれているのかもしれぬ、と後書きで述べていた。
もし彼の本の数々に「単調さ」や「重複」が見られたとすれば、それは読んだ方が彼
の主張の核にある部分を読み取っているといえる。彼は自分の思想の核について明確
に「あるのは絶えざる差異化という生の円環運動だけだ」と述べている。
この核にあるものは、ソシュールの一般言語学講義の原資料とメルロ=ポンティやレ
ヴィ=ストロースらの構造主義へと発展する「差異の体系」、そしてニーチェの〈力
への意志〉(創造への意志)である。突き詰めればその主張は「不断の生成」である。
この核にあるものの主張を「反復」しながら、彼の議論は様々な思想家を次々と「流
転」していく。このような彼の執筆のスタイルが、その著作それ自体を「始まりと終
わりのない一個の円環構造」に仕上げる。
このスタイルそれ自体、シンボルとしてのウロボロスが持っている意味そのものに当
てはまっており、丸山はそれを自覚しているように思える。この彼のウロボロスに関
する理解は、ニーチェ(及びそのニーチェについて論じたハイデガー)だけでなく、
ユングにおいても通底しているものがある、ということを付け加えておきたい。この
ユングについての丸山の着目は、それがそのまま「社会動向に惑わされるのは真の学
者の本分ではない」と考えていた節が伺えるところでもあると考えられるからだ。
テル・ケル界隈のソレルスの悪罵を援用し、無前提に社会動向的に叩いて当たり前的
な態度を取る浅田彰との比較によっても、この点は明確だろうと思うがいかがだろう
か。

4【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2011/01/18(火) 01:36:03 ID:???0
>丸山理論は、特に本書で説明されている「第三の狂気」に関してであるが、
この「本書」って『言葉・狂気・エロス』のことです、すみません。


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