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アイオーン・ソフィア《ユダヤ編》

11【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/04/18(土) 15:47:11 ID:???0
以前も述べたことですが、ソフィアとアブラクサスを結びつけて見よ
うという試論があります。アリストテレスの『霊魂論』を流用してい
るヒッポリュトスの報告を用いることになりますが、ユングのアブラ
クサスと兼ねて、『デミアン』の解釈のしなおしといったところです
けど。ご存知の通り、『デミアン』はユングの敷衍小説的な要素があ
り、「ハイタカシンボル」が最初から何かキーを持つものとして語ら
れていたはずです。以前、ここで『デミアン』を何度か論ったことが
ありましたが、ハイタカシンボルを組み込めてなかったのが失態でし
た。とりあえず、ソフィアと『雅歌』、『ヨハネ福音書』のロゴスと
ハギオン・プネウマのネタをきちんと片してからそっちの論考を整理
したいと思います。それとウロボロスを用いているノイマン、論考書
こうと思うとネタ大杉w元型論だけでもそうだというにw。
S.I.ハヤカワの謂いをもじりますが、まさしく「ロゴス(論理思考)
のナイアガラの滝」という感じですw

12【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/04/19(日) 19:41:52 ID:???0
あと少しでできますが、ツメが甘いなw。
ユングは直接書いておりませんけれども『ヨハネ福音書』に隠れている
アナグラムのヒント(といってもプトレマイオスの教説を読んでいる方
にはバレバレですが)を書き綴っておきます。ちなみに、私は大貫氏の
『ロゴスとソフィア』は読んだことがないので、それとどんな関連が在
るかは知らない、ということをお知らせしておきます。読んでいる方が
いらっしゃいましたら関連性を教えてください。

「はじめに、ロゴスがいた。ロゴスは、神のもとにいた。ロゴスは、神
であった。この方は、はじめに神のもとにいた。すべてのことは彼を介
して生じた。彼をさしおいては、何一つ生じなかった。彼において生じ
たものはゾーエーであった。そのゾーエーは人々(アントローポスたち)
の光であった。」
(論理の演繹展開のために小林稔訳を若干変更してます。本当は「はじ
めに」とかも「アルケー(=ヌース)のうちに」とか訳すと面白いこと
が発覚しますがw)

ゾーエーに当たる箇所は日本語訳では「生命」とか「命」と訳されると
ころです。「彼(ロゴス)において生じたものはゾーエーであった」と
いうこれは「生じたものは彼のうちにあってゾーエーであった」とも訳
しうるらしいですが、なんにせよ、これを「ロゴス=ゾーエー」のシュ
ジュギアとみなすことが可能です。これが『ヨブへの答え』をみても分
かるように『シラクの息子イエスの智慧(シラ書)』の24章の《智慧》
の語りとほぼ一致を見る。
「私はいと高き方の口から出て、霧のように大地を覆った」
『ヨブへの答え』の林氏の訳し方で言うと「智慧は自らをロゴス・神の
言葉・と呼んでいる」とあるだけですが、この《智慧》は、私が引用し
た『ヨハネ福音書』の冒頭でいうところの《ゾーエー》と同義であると
もみなせる。そもそも《ゾーエー》自体が女性名詞でもあるわけですが、
こうみると「ロゴス=ゾーエー」のシュジュギアが「ロゴス=ソフィア」
ともいえるということになります。グノーシス用語辞典を見ていただけ
れば分かりますが、グノーシスの神話ではソフィアは時折「ソフィア・
ゾーエー」と呼ばれることもしばしばあります。ともなれば「ゾーエー
は人々の光であった」というのは、「ソフィアは人々の光であった」と
読めるわけです。「ロゴス=ソフィア」からアントローポスたちが生ま
れる、アントローポスたちに形相を与えて在るものとするものが『創世
記』における「光あれ」に該当する、ソフィアは万物の母胎である、こ
れが、ロゴスがソフィアに「種子」(用語辞典参照)を置くことでソフ
ィアから人々が生まれたという解釈と何ら相違ないことは明らかである、
というわけです。きりがないなw

13【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/04/22(水) 21:58:37 ID:???0
あれ、よく考えてみたら、このヨハネ福音書の解釈、もしかして、丸山
圭三郎の欲望のウロボロス的円環運動の中で踊ってた?w生命体を貫徹
するレーベン(生)のエネルギーの昂揚=言分けられる欲動の称揚=ロ
ゴスの演繹展開能力による有機空間創造の称揚=ゾーエーの称揚=ソフ
ィア(知ること)の称揚、って丸山式解釈まんまじゃないかwヨハネの
引用にはゾーエーのことまでは書いてなかったけど。なんてこったい、
『言葉と無意識』の域を超えられてなかったと後で気づいて自分で自分
に突っ込みを入れる結果となってしまいましたw。改めて思いますが、
あの本、ほんとにウロボロス的円環をなしてますねw。読んでいてよか
った、後になってその内容がそれこそゾーエーの宿ったものになってく
るというw。まあ結局ネガティヴに言えば後追いでしかないということ
になってしまいますけど…。

14【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/04/26(日) 13:40:22 ID:???0
ああ、ちなみに「封神演義」の話をしていますので、その中でももっと
も圧巻な話を出しておきましょうか。誅仙陣の戦いとか万仙陣の戦いで
すね。正直漫画ではめちゃくちゃになってます(とはいってもそれはそ
れで悪くはありませんが)。結局のところバタイユで言うところの「蕩
尽」です。同じ道教でも崑崙山の人間出身の仙人集団(闡教)と、妖怪
出身の仙人集団(截教)があります。構図だけ見ても面白いと思うので
紹介しておきますが、とりあえず中国の古い神話の世界観は天界・仙界
・人間界が存在しているわけですが、仙人の中でも人間出身の仙人は、
妖怪出身の仙人が気に入らない、しかも人間出身の中でも仙人としての
修行を積まずに途中で下山して、人間界でエリート生活を送っている人
間がいることも気に食わない。あるいは人間界にいるには秀ですぎてい
て混乱を招きかねないが仙人になるわけでもなしというのも中途半端。
封神演義というのはこの中途半端のなりそこないとか妖怪仙人集団を、
女媧娘々(にゃんにゃんw)の殷を滅ぼす気まぐれに乗じて、生贄とし
て抽出して、「神」の名を与えて封神台に葬り去ってしまおうという儀
式ですね。新しく「神界」というのをつくってそこに置くわけですが。

闡教の仙人は1500年置きに「殺戒」を破らなければ「やってられないわ
ん」な人が多いそうですw。バタイユのエロティシズムの「禁止の解除」
やんけ(笑)。その中でもそうではない人もいますけど。

太上老君(老子)は基本的に争いには反対で、その上に存在する仙人界
の最高人物である鴻均道人は、同じ仙人同士の争いを止めるべく一回し
か登場しませんが、この一回きりの登場の仕方が迫力満点です。
その中にはあとで西方仏教の菩薩になる仙人までいます。たとえば観世
音菩薩とか、普賢菩薩とか文殊菩薩とかですけどねw。封神演義では、
仏教もまたところどころで関与してくるから面白いw。しかも道教の仙
人だと手も足もでないようなものが仏教にまつわるものの類だというの
が面白いですよw
またこういうのをけしかける存在として、以前取り出した許由→申公豹
がいるわけで、これはサタンに似てますねw。トリックスターといって
いいのかどうかまだ明確じゃないですけどw。彼は、仙人界では異端児
で、全てではありませんが、仙人界では嫌われているところがあるんで
すけど、老子には最初から最後まで庇護の対象になってますw。西遊記
の孫悟空が戦ったナタクも出てきますが、彼の出自が孫悟空の立ち回り
と実はそっくりだったりするw。

15【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/05/05(火) 15:30:41 ID:???0
しかし改めて思うが、封神演義には面白いことが書かれているものだ。
地球の軸の真上としての「北極」が存在するが、これは最後にいわゆ
るはぐれ者である申公豹が、太上老君の命令を受けた玄都大法師の庇
護の下に向かう先である(書き手によって事情が違うが)。この北極
の極点にある「窪み」には「時間」も「空間」もないという。だから
進歩も退行も引き起こさないというのである。外部からその内部をう
かがい知ることはできないし、攻撃手段などは一切無効化されるとい
う。「つまり勝手気ままに安心して暮らせる、かねがねそんなところ
に住んでみたいと思っていた」などというあたり、さすが帝位を譲る
と称した帝堯に「耳が腐った」と突っぱねた男。閑人ぶりもここに極
まれりといったところであろうかw。

16【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/05/05(火) 17:09:09 ID:???0
最近バタイユの論理が封神演義の物語とリンクしてしょうがない。ある
いはグノーシスもなのだろうが、興味深いと思うので以前書いた法術の
最終奥義「営鎮抱一」の詳細を書いておこう。

「営鎮」は、「動じて身を『営』むをそれ『魂』といい、静にして形を
『鎮』めるをこれ『魄』という」と云われる場合の「営鎮」に他ならず、
それゆえに「営鎮抱一」の第一義は「魂魄抱一」である。抱一の『一』
は「道法帰一」の『一』で、道法の根源に他ならない。そして「道法帰
一」は「万象帰無」の対極にあって、両者は「対」をなしているという。
これはつまり、一に帰するとは無に帰するということである。形ある存
在(象)を乗り越えることである。仙人が修行するのはまず不老不死を
希うからである。それを望むのは、生死を繰り返す「輪廻」の苦しみを
免れんためである。それゆえ無に還るに際して、魂魄を残してはならな
い。それを残せば、せっかく超克した輪廻の苦界に再び引きずり込まれ
て、元の木阿弥となる。したがって「営鎮抱一」の術とは、魂魄を一に
抱いて身形もろとも消え失せることに他ならない。道法との全き合一を
遂げて無に帰することなのである。仙人は死なず、ただ無に帰するとい
うわけである。(『封神演義』より)

説明だけ聞いていると重々しいが、そのやり方が実は、訳者が「至芸」
だといっているところからしても格好が面白い。左手を右足に絡めて
左足を軸に、駒のように廻る、さらにそのまま両手をまっすぐ頭上に
上げて両手首を組み縦一文字になったまま悠然と廻り続けるという動
作によって二時間ほどで完結するという。…バレエ?w

19プラダ バッグ:2013/03/25(月) 14:38:58 ID:XOkq1uPM0
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