したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

宇宙開闢と建築供犠−セカンドインパクト−

1【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/01/27(火) 01:53:10 ID:???0
別スレッド「コスモスとカオス」と合わせてお読みいただきたい。
ミルチャ・エリアーデ的解釈の続投である。私はこれによって、セ
カンドインパクトの宗教儀式的意味を解釈するつもりである。まず
建築供犠とは何か、ということから説明したい。建築供犠とは「我
らの世界」として明瞭に意味づけられているコスモスの開闢的行為
である。ゲルマン神話のイミル、インド神話のプルシャ、中国の盤
古などは、その神話における世界成立を、「巨人の解体」によって
説明する。

リグ・ヴェーダの場合、これは蛇に置き換えられているが意味合い
的には同じである。蛇、あるいは龍はカオス、無定形なるもの、未
だ顕れざるものの象徴である。この頭を切り落とすことは創造の行
為、すなわち潜勢的なるもの・無形なるものから形態あるものへの
移行に等しいとされる。エヴァにもその名前が流用されているマル
ドゥックが海の怪物ティアマトの身体から世界を形成したことは知
られている。

建築供犠とは、この神話における世界成立の起源を成す太初の供犠
の模倣に他ならない。巨人解体に始まる場合、巨人の諸器官から様
々な宇宙の領域が成立するという。また、別種の神話に依れば、こ
の犠牲の結果、その身体物質から成り出でたのは、単に宇宙そのも
のだけではなく、食物としての植物、諸人種、様々な社会的階級も
そうであったという。要するにこれらは宗教的人間にとって均質的
な俗なる空間であるカオスから、聖なる空間であるコスモスが形成
される儀式なのだ。

さて、このコスモスは聖なる空間として建築されるのであるから、
その宗教的人間にとって生き生きとしていなければならない。すな
わち生命と魂とを受けねばならない。この生命と魂の譲渡は血を流
す犠牲によってのみ実現される。すなわちこの宇宙開闢としての儀
式の模倣に要するのは、動物犠牲であったり、他にあっては人身御
供、即ち人間犠牲であったりするのだ。

エヴァの世界観、すなわち裏死海文書の内容を知る一部の者たちに
とって、アダムやリリス、そのほか計画に必要な道具は全て、彼ら
にとって聖体示現である。ではセカンドインパクトとはなんだった
のか。それは世界自体が、宗教的人間の集まりであるゼーレのコス
モス、すなわち彼らにとっての聖なる空間を形成する、宇宙開闢の
ための建築供犠だったのであり、それはその中心点だったのである。

これに補足を加えておけば、一部の人間を除いて南極に居残った何
も知らない人々、すなわち葛城調査隊は、ていのよい人身御供とし
て、その建築供犠において捧げられたのだということができよう。
そしてこのセカンドインパクトによって開闢されたコスモスの中で
ネルフという機械的歯車の監獄的組織が形作られ、人類補完計画の
技術的な仕掛けに命が宿り、推進されていくことになると説明する
ことができるだろう。

2【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/02/06(金) 00:36:12 ID:???0
ところでいい忘れていたが、ここで用いているコスモスの意味は、彼ら
の教説の根本にある「裏死海文書」に基づいた宗教的教義にとって明瞭
であり、なおかつ彼らにとって「聖なる空間」であることを意味する。

しかし私は別のゼーレの項目で、彼らにとってこの宇宙はカオスだとい
うようなことをいっている。ゼーレは(はりぼてではあるが)グノーシ
ス主義の考え方に基づいている。すなわちそれはその宇宙に関して「閉
塞した世界」であり、否定的な意味での「子宮」としての宇宙であり、
カオスであると捉えているといえる。ここで用いているこれらの用語に
食い違いが生じているというわけではない。これは「用語の意味」を、
どう定義するか、あるいはどう解釈するかによって、同じ言葉でも違う
意味が出てくるということだ。

たとえば、大貫隆の『グノーシス考』の冒頭にあるように、グノーシス
主義は宇宙を「子宮」に見立てて説明することがある。しかしこの「子
宮」の意味は、積極的な意味から否定的な意味にかけて別の意味が生じ
ており、それを同時に使って同じ意味に捉えてしまえば一つの逆説的な
表現ができてしまう。それはすなわち、生と死の逆説めいた哲学と相関
しているので、まずはそれについて述べておくべきだった。よってここ
に記しておきたい。

「子宮」は積極的な意味としては「万物の母胎としての至高神」あるい
はそれに準ずる「両性具有の神的存在」をさしている。あるいは人間の
胎児が宿るところを意味する。否定的な意味では、男女の性行為によっ
て、増殖・存続する現実世界の全体を指す。

これを踏まえていえば、ゼーレの最終目的である補完においては、「両
性具有の神的存在」に当たるのがアダムのリリスの融合によって生じた
巨大綾波レイであり、男女の性行為によって増殖・存続する現実世界の
全体が「閉塞した世界」に該当するだろう。

3【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/02/06(金) 01:18:50 ID:???0
彼らの目的を要約すれば、「滅びの宿命を新生の喜び」として、それを
「閉塞した人類の再生」として、「神も人も、すべての生命が死を持っ
てやがてひとつとなる」ということになるが、どうもこのあたりの解釈
がピンボケしている傾向が否めない。というのは生と死の意味を、そし
て復活や新生の意味を、肉体的な意味でしか捉えることができないから
だ。

ここにフロイトをはじめ、丸山やバタイユが説明している生と死の哲学
を踏まえてこのグノーシス主義の「子宮」の意味を捉えれば、よどみな
く解釈できるということを提示してみよう。逆説的ではあるがいたって
単純な語り回しである。

【人間は二度死を体験する】(丸山)
フロイトも『精神分析学入門』で似たようなことを述べているが、深層
心理学者のなかには、人間はすでに一度死を経験しているという人がい
る。それは赤子が母の胎内から出るときのことであり、あの呱々の産声
は誕生した喜びの声ではなく、胎内の羊水から空中に放り出される窒息
感と死の恐怖の声であるというのである。

赤子は母の胎内から出たとき連続性から非連続性のコスモスへと投げ出
される(グノーシスのいうところでそれは否定的な「子宮」にあたり、
男女の性行為によって、増殖・存続する現実世界の全体(=カオス)で
ある)。そしてもうひとつの死を迎えるまで連続性への回帰(羊水回帰)
の願望を抱き続ける。この第二の「死」は、連続性への回帰となり、そ
れはもうひとつの「生」であるという逆説の仮説が生じるわけだ。バタ
イユの場合はこれを『内的体験』のなかで「砂漠」と呼び、この存在の
連続性=死をして、「人類共通の不定形なる共同体」だという。グノー
シス主義においては、これはいうまでもなく至高神の超越的世界プレー
ローマに該当するといえよう。

4【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/02/08(日) 18:01:12 ID:???0
「異邦人は死ぬことがない。なぜなら、彼はかつて生きたことがないの
だから、いつか死ぬということもないのである。真理を信じた者は生き
た。だから彼こそは死の危険に瀕している。彼は生きているからである。」

「主は初めに死んだ、それから甦った、という者たちは誤っている。な
ぜなら、彼(主)は初めに甦り、それから死んだのであるから。誰であ
れ、初めに復活に達しなければ、死ぬことはないであろう。神は生きて
いる。その者は死んでいたことであろう。」

「私としては、それ(肉)は「甦らないだろう」と言う者たちをも非難
する。(…)君はこう言っている、「肉は甦らないだろう」と。しかし、
それならば私に言ってみてくれ。いったい何が甦るのかを。そうすれば
われわれは君を尊敬するだろう。君は言う、「霊が肉の中にあるそして、
肉の内なるこの別なる光がそれである」と。だがこの別なるものは肉の
内なることば(ロゴス)のことなのである。なぜなら、君は何を語るの
であれ、肉を離れては何一つ語れないからである。この肉にあって甦る
ことが必要である。なぜなら、あらゆるものがその肉内にあるのだから」

5【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/02/08(日) 20:25:52 ID:???0
「彼はこの世に在るか、復活に在るか、あるいは中間の場所に在るかの
いずれかである。私がそこ(中間の場所)に見出されることにならない
ように。この世の中には善きものと悪しきものとが在る。その世の善き
ものは、(真に)善きものではなく、その世の悪しきものも(真に)悪
しきものではない。だがこの世の後には、真に悪しきものが在る。すな
わち、「中間のもの」と呼ばれているものである。「死」がそれである。
われわれがこの世の中にいる限り、われわれにとって益となるのは、わ
れわれ自らに復活を生み出すことである。それはわれわれが肉を脱ぎ去
るときに、安息の中に見出されることとなり、「中間」の中をさまよう
ことにならないためである。」

「人はまず死に、それから甦るであろうと言う者たちは間違っている。
もし、人が初めに、生きている間に復活を受けなければ、死んだときに
何も受けないであろう。」

以上はグノーシスの系譜学において「ヴァレンティノス派」と分類され
るグノーシス主義の福音書である『フィリポによる福音書』から復活に
まつわる啓示を拾い集めてきたものである。中間の場所といった言い回
しがあるが、これはヴァレンティノス派が三分したミクロコスモスのう
ち「心魂」に対応するマクロコスモスである。これには正統主義のキリ
スト教徒たちが行き着く先という割り振りがあるそうだが、ここではそ
れが死の場所であるとある。断っておかねばならないが、バタイユの述
べた「砂漠」は全人類共通と述べている点で、選民的なものはない。グ
ノーシス主義の場合は啓示が必要になるし、バタイユはそこに救いを求
めようはしていない。ただ、生と死の逆説という点で組み合わせると共
通点があり、面白いと思ったがためにやっているだけである。

6【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/02/08(日) 23:56:33 ID:???0
無知蒙昧な造物主デミウルゴスは、ソフィアの過失の結果によって産み
落とされたものであり、それは流産というような位置づけである。つま
り、積極的な意味での「子宮」から産み落とされたそれは、死の象徴な
のだ。グノーシス主義のデミウルゴスには別名が多く存在するが、その
中のひとつであるサマエールとは、別のところでは「死を司る天使」で
ある。要するにその存在そのものが死の象徴なのだ。

この出来損ないの征服者はカオスたる否定的な意味での「子宮=この世
の宇宙」を、ソフィアから抜き取った「範型」をもとに、似像として作
り上げることになる。これはちょうど、プラトン哲学におけるデミウル
ゴスが、原型イデアを元に宇宙万物を作り上げた要領と同じである。た
だしこの場合はそれそのものが忌むべきものであり、流産の結果であっ
て、このことによってプレーローマから神的本質が流出し、欠乏が生じ
ることになる。

グノーシス主義において人間の本来的自己は、この流出してしまった神
的本質に等しいとされ、それは、人間がこの世に生まれ出でる前にはそ
こにあったことを意味する。しかしこの「流産」によって一度死を経験
し、デミウルゴス(=サマエール)下で、肉付けられて誕生した人間は
本来の姿について忘却状態にあり、それは「本来の姿」からすれば倒錯
状況にあるから、神的本質が死んでいる状況にあるといっていい。

正統派キリスト教徒はこの場合、もともと死んでいる状況にあるから、
死ぬことはない。なぜなら、死者はかつて生きたことがないのだから、
いつか死ぬということもない、というわけである。ユングが『死者への
七つの語らい』でキリスト教徒を指して「死者」と呼んでアブラクサス
を初めとした啓示を行っていたのは知られているであろうが、ここでも
このような解釈がされているといえよう。しかしキリスト教徒は心魂的
人間であり、啓示によって復活の機会を与えられているのである。

7【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/02/15(日) 01:12:46 ID:???0
さて、早速であるが用語辞典の『復活』の項目を読んでいただけただろ
うか。このグノーシスにおける『復活』の考え方には二つの意味がある。
ひとつ目の意味は「啓示によって生きているうちに復活する」というこ
とだ。生きているうちに復活?生きているのになぜ復活するのだ?とい
う問いは>>6で記したことと合わせて読むならば解けるであろう。すでに
端的にはニーチェとの関連で語ったことでもあるが。

この世に生まれ出でた人間の生は、グノーシス主義においては本来的自
己の死である。この意味で丸山が言っていた連続性から非連続性へと切
り離されることで、既に一度経験しているという「死」と同様である。
混乱するかもしれないが、私はこれを無理やり逆説的な表現で語ってみ
たい。つまり、グノーシスにおいてこの世に生を受けるということは、
死んだ状態を生きるということであるから、いうなれば「生きていない
生を生きている=死んでいる」ということになるであろう。

「生きていない生を生きている=死んでいる」ので、グノーシスにおい
ては、「生きていない生を生きている」間に復活をもたらす認識の啓示
が待望されることになるのだ。それがまた肉のあるうちに復活を促され
なければならないという『フィリポによる福音書』の説明に表れている。

矛盾しているではないかと思われるかもしれないが、逆説的な表現とい
うものは、真理にそむくように見えて実際には真理をついている。私が
既に示しているこの世に生を受けるということが「生きていない生を生
きている=死んでいる」ということをよく踏まえたうえで、>>4に示され
ている「肉体」にまつわる文をもう一度読んでみると理解できると思う。

8【管理人】アイオーン・アブラクサス★:2009/02/15(日) 02:53:07 ID:???0
これはそこに示されているようにロゴス(言葉)について考察しなけれ
ばならない。実は私は、博士が私にハヤカワの本(現在読書中)を薦め
てくださったのと、「ぶっとび具合ならヒトのコミュニケーション段階
をブラヴァツキーからコージブスキーまでアカシック的に概観する私論
がある」というお話を聞いて以来、ずっと今展開しようと思っている論
と何がしか関連があるのか、という点で気になっている。それらについ
ては図書館にもなく、知りえない状況にあるのでいずれその話はお聞か
せいただけるとそれを切に願って待つほかない・・・。(:_;)

ハヤカワの本を読み終えればまた見解は変わってくるのかもしれないが、
今のところ私がこのロゴスに関する部分を読んだ第一印象としては「言
霊」がそれに近いのではないか、ということである。>>4にある通り、
『フィリポによる福音書』のロゴスは、肉の領域に内在する神的存在・
諸至高霊のひとつであることを表されているわけだが、そこではそれが
どのような神話論的な枠組みが前提となっているのか定かでない。

わかるのは言葉を発することができるのが肉のあるうちに限る、という
ことであろうか。たとえ「生きてない生を生きている=死んでいる」と
はいえ、肉体的には生きており、啓示を受ければ肉のうちにある別なる
光(本来的自己)は復活する。これは「本来的自己の死」とは言い回し
の問題であって、本来的自己について、忘却状態にあることを比喩的に
言っているのだと捉えればいいだろう。実際には肉のうちにア・プリオ
リに秘められているということなのだ。それだから何を語るのであれ、
肉を離れては何一つ語れないということは、啓示を受ける前に死んでし
まえば、言葉も失われ、即ち肉のうちにある別なる光は復活を受ける前
にそのまま消えてなくなってしまうので、復活できなくなってしまうの
である。言われてみれば簡単だ、肉体がなければ言葉を覚知できる主体
が存在しないのだから。

9極東博士:2009/02/22(日) 22:15:21 ID:G6iz/z3k0
私はロゴスに関しては「言葉」よりも「論理」が一番近い意味だと捉えています。
映画『マトリックス』に出てくるメロビンジャンなるフランス人キャラ
(プログラム)が事あるごとに口にする「原因と結果」を内実している概念だと。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板