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バサラ日記(その16)

858名無しさん:2014/01/13(月) 06:26:51
巫女と言うと、「神聖」な職業と思われるでしょうが、
実は、巫女は「売春」の元祖と言われています。

遊び場のない当時は、神社は恰好な遊覧地で多くの人が神社詣でをし、
巫女が男の相手をしました。これは、長く続き、江戸時代まで続きました。

江戸時代には、神社は寺社奉行の管轄でしたが、寺社奉行には「風俗取締り」の権限はなく、
言ってみれば「野放し状態」だったのです。

また、平安時代〜室町時代〜江戸時代で有名だったのは、
「出雲の阿国」(いずものおくに)が出てきます。

(1)元亀3年(1572)(推定)頃に出雲に生まれた、
阿国(おくに=出雲の阿国)が、出雲大社の「巫女(みこ)」となり、
出雲大社の勧進(修繕費などの資金集め)に、諸国を回るようになり、
記録としては、

(2)奈良興福寺・多聞院の院主、多聞院英俊(たもんいんひでとし)の
日記「多聞院日記」の天正10年(1582)の項に、
「加賀国八歳十一歳の童が『ややこ踊り』を披露した」
と、書かれていますが、この解釈として、

(3)加賀という八歳の娘とクニ(阿国)という十一歳の子どもが踊った、
という解釈と、

(4)ただ単に、加賀国の八歳と十一歳の子どもが踊った、という
二つの解釈がなされています。

(5)その後、慶長5年(1600)に、京都近衛殿の屋敷や御所で、
雲州(うんしゅう=出雲)の「クニ」と「菊」という2人の女性が、やはり、「ややこ踊り」を披露した、と言うものが近衛時慶(このえときよし)の日記「時慶卿記」に出て来ています。
しかし、これらの史料では、いずれも「ややこ踊り」をした。と、記載されており、
「ややこ踊り」とは、幼い子どもが、ただ単に笛と太鼓に合わせて
「舞」を披露するだけのものだったようです。

(6)その3年後の慶長8年(1603)5月初旬に、京都の四条河原に
小屋掛け(数本の杭(くい)を地面に打ちつけて、筵(むしろ)を被せただけの粗末な小屋)をして、
茶屋へ通う伊達男を阿国が男装をし、夫の(夫ではない、という「説」もある)名古屋山三郎(なごや さんざぶろう)が
茶屋の女将に女装をして、踊りを交えた寸劇を演じ、この男女の入れ替わっての「性倒錯」が評判となり、
連日「大入り満員」だったといわれ、

これを当時の京の人たちは「傾く(かぶく=常識外れ、突拍子もない)」と呼び、
これが「かぶく」「かぶき」と訛り、後に「歌舞伎」という漢字が当てられ、
歌舞伎の「起源」と言われています。

(7)阿国は、慶長12年(1607)に千代田城で勧進歌舞伎を披露した後、
消息が途絶えて、慶長17年(1612)に京都の御所でも歌舞伎を踊ったとも言われていますが、
没年は全くの不明です。なお、「江戸城」のことは、江戸時代「江戸城」とは呼ばず、
正式には「千代田城」またの名を「舞鶴城(ぶかくじょう)」と呼び、庶民は、
ただ単に「お城」と呼んでいました。

(8)阿国がこの時結った髪型を「若衆髷(わかしゅまげ)」と呼び、
京都や大阪、そして、江戸にまで伝わり、女性の間で大流行しました。




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