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鬼和尚に聞いてみるスレ part10

7鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/16(木) 22:03:05 ID:1d4drIFg0
>>1 ご苦労さんなのじゃ。

>>2 よい気付きなのじゃ。
 どんどん使うとよいのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>3 わしはもはや念じないのじゃ。
 念じる者も、念じるということもないのじゃ。
 それらは修行者のための名号なのじゃ。

>>4 そうじゃ、出来るじゃろう。
 頭の鈍いシュリハンドクや、何人も害したアングリマーラのアヒンサーも死を超えたのであるからのう。
 実践する者だけが死を超えるのじゃ。

>>5 知らんのじゃ。
 おぬしの心の中にそれは働いているじゃろう。
 他人の手本は見なくてよいのじゃ。

>>6 完全に観察できればなくなるじゃろう。
 心を偽って許したとしていてもいつか機会があれば復讐したりするじゃろう。
 そして己の身も破滅するのじゃ。
 本心を観るとができれば原因はつまらないことであったと気付いたりして本当に許せるのじゃ。
 本心を観なければいつまでも心の中に悪は残るのじゃ。

8避難民のマジレスさん:2017/11/17(金) 05:34:32 ID:7IgeatCU0
>>1001ご教授ありがとうございました。
観察力を上げるには、集中力を高める必要があるとお聞きしております。
集中力が高まれば、観察力も上がるのですか?
観察力を上げるには、集中力を高めるだけでよいのでしょうか?

9避難民のマジレスさん:2017/11/17(金) 06:07:05 ID:czRftzgI0
ここに書いてあるように生はエネルギーの滞り、老死は煩悩の分解という理解でいいですか?
このサイトは全般的に正しいことと述べていますか?

https://sites.google.com/site/butsudonyumon/home/3

10蓮恵:2017/11/17(金) 16:57:50 ID:NzzPrVro0
>>5
私のおすすめするサイトはここです

仏教-縁起・十二因縁・諸行無常

http://enjoy.pial.jp/~esmusssein//butu_mujyou.html

11鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/17(金) 21:39:21 ID:1d4drIFg0
>>8 集中力だけでは観察力は高くならないのじゃ。
 集中力はただ雑念をなくして心をコントロールできるようになるのじゃ。
 集中して観察を実践すれば観察力も高くなるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>9 全部間違いなのじゃ。
 死んで煩悩がなくなるのではないのじゃ。
 丸くならないのじゃ。
 出鱈目ばかりなのじゃ。

12避難民のマジレスさん:2017/11/18(土) 03:08:26 ID:czRftzgI0
>10
ご協力ありがとうございます。

>11
真実を知るのは難しいですね。

13避難民のマジレスさん:2017/11/18(土) 05:46:10 ID:czRftzgI0
それでは十二縁起における無明、行、生、老死、愛、取、有を解説していただけないでしょうか。
触→六処→受→識→名色は感覚と認識作用と考えました。

14避難民のマジレスさん:2017/11/18(土) 11:26:51 ID:DAY232aw0
>>7ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自分だけ救われても良いのでしょうか?

15避難民のマジレスさん:2017/11/18(土) 11:33:22 ID:6ZZgOq8Y0
鬼和尚に質問です。
瞑想中(数息観、随息観)に眠くなるという人がいたのですが、どうしてでしょうか?
私はまったく眠くなったことはなく、他の人からも聞いたことがありません。
背筋が伸びていないとか首が前傾しているなど、姿勢がよくないのかと思いましたが、ぜひ鬼和尚のご意見をお聞かせください。
よろしくお願いいたします。

16避難民のマジレスさん:2017/11/18(土) 14:04:52 ID:ydE4b1w.0
無我に至った後でも無認識にまで至らない限り消えない「苦」というのは
ありますか?

あるとしたらどんな類の「苦」が無我の段階で生じるのでしょうか?

また、そのような無我の段階で生じる苦は無認識に至れば消滅しますか?

17541:2017/11/18(土) 19:37:42 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚。思索を極めることで悟りに至ることは出来ますか?
インド哲学には、知恵のヨーガなるものがあると聞きましたが。

18541:2017/11/18(土) 19:51:12 ID:o7TfOr0I0
カントの『純粋理性批判』で展開される認識論は、悟りの寸前まで行っている気もしますが、鬼和尚はどう評価されていますか?
カントによると、我々が経験している世界は感性や知性が生み出した現象世界に過ぎず、生まれるとか生きるとか病む老いるなども、錯覚のようなもので、現象を越えた物自体の世界には人間も神も仏も居ない。
しかし、それら観念存在は、恐らくは物自体から生まれでてる事になります。
物自体の世界は「無」と言っても良いと思います。我々の本性とは、カントが言う物自体、つまり無そのものではありませんか?
我々の本体が無であることを自覚することが、悟りではないでしょうか

19鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/18(土) 22:04:40 ID:1d4drIFg0
>>12 そうじゃ、学ばなければ真実は明らかにならないのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。
 
>>13 無明とは自分があるという観念なのじゃ。
 行とは分別なのじゃ。
 生とはいきるものという観念なのじゃ。
 愛とは愛着なのじゃ。
 取とは外部の刺激を取得することなのじゃ。
 有とはあるものという観念なのじゃ。

>>14 よいのじゃ。
 自らを救った者だけが他人をも救うことができるのじゃ。
 自らを救っていない者が他人を救おうとしてもますます苦に落とすだけなのじゃ。
 
>>15 それは本当は深い瞑想の境地なのじゃ。
 睡眠の感覚と似ているからそう思うのじゃ。
 深い瞑想に入った禅僧の脳波を見ると寝ているときと全く同じと言うのじゃ。
 それでも自らの意志で目覚めたり出来るのが睡眠と違うのじゃ。
 
>>16 完全に無我ならば苦は無いじゃろう。
 苦を受ける自分が無いときは苦もないのじゃ。
 自ら観念的な苦悩を作り出せば苦しむことも出来るのじゃ。

20鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/18(土) 22:07:57 ID:1d4drIFg0
>>17 思索が無い思索まで到達できれば可能かもしれん。
 それでもそれは集中であり、観察は独自に行われるじゃろう。
 思索が集中のかわりになるのじゃ。

>>18 謬見なのじゃ。
 ものには何も生み出すことはできないのじゃ。
 自分自身の認識にまで批判を及ぼさなければ悟りも遠いのじゃ。
 そこまでは行っていないのじゃ。

21541:2017/11/18(土) 22:18:24 ID:o7TfOr0I0
いや、カントの哲学は主に認識論なので、勿論、己自身の認識を批判しています。
そして、カントの認識論は釈迦に匹敵するほどのものだと私は思います。

22541:2017/11/18(土) 22:22:55 ID:o7TfOr0I0
カントの哲学はその後も批判されていますが、大まかには間違っていないでしょう。我々が見ている世界は、我々の心の世界であると、心を越えた世界は、あると推測されるが、推論を越えるものではない。この結論は仏陀でもひっくり返せないと思います。

23避難民のマジレスさん:2017/11/18(土) 22:36:50 ID:Nw8VwStU0
>>21 >>22
あなたは知らないのですか?
此岸(迷いの世界)と彼岸(悟りの世界)との間には高い壁があり、
「カントの哲学はその壁を此岸の側から見たものであり、
龍樹の哲学はその壁を彼岸の側から見たものである。」
と言われていることを。

24避難民のマジレスさん:2017/11/18(土) 23:39:19 ID:DAY232aw0
>>19ご回答ありがとうございます。
普通の人でも、具体的にと言う発言本当に申し訳ありませんでした。
本心を観て、本当に死を超えることが出来るのあれば、死を超えたいと思いました。
これからも何卒よろしくお願いします。
観察の方法ですが、自分の本心を観て、心身の全てを観察すれば良いのでしょうか?

25避難民のマジレスさん:2017/11/18(土) 23:47:45 ID:bP6oxyAs0
ここ鬼和尚に聞いてみるスレだからな
議論しようとするなよ

26避難民のマジレスさん:2017/11/19(日) 01:45:38 ID:ydE4b1w.0
>>19

例えば無我に至ったある人が無我に至る以前に何らかの対象(例えば家族とか)に尋常でないほどの固執、執着を抱いていた場合、
しかもそれが無我に至る過程において全く観察されることがなかったとしたら、その対象が失われた際に多少なりとも
苦を感じる、ということはありますか?

27541:2017/11/19(日) 06:45:22 ID:o7TfOr0I0
>>23
悪くはない喩えだ。
壁が見えなければ超えることも出来ない。
つまり、カント哲学は盲信しなければ、悟りを目指すものにとって非常に有益だと思うのだ。

28541:2017/11/19(日) 06:56:37 ID:o7TfOr0I0
恐らく、悟りの世界とは、「物自体」の世界だろう。この「物自体」と言う言葉にとらわれてはならない、それは「物」とは何の関係もない。
我々の認識力を越えた世界みたいな意味である。
物理学者が言う「5次元世界」や仏者が言う「ニルバーナ」などに近いと思う。
カント哲学によると、感性、知性、理性では、ニルバーナに到達できない。何故なら感性、知性、理性は、この世の構成原理だからである。
むしろ、感性、知性、理性が停止した世界にニルバーナが顔を出す可能性はあると思う。
このようにカント哲学を批判的に検証した方がかえって悟りの世界が分かりやすく説明できると思うのだ。
現代の日本人は、やはり、西洋人的な考え方をするからね。

29避難民のマジレスさん:2017/11/19(日) 06:59:32 ID:Nw8VwStU0
>>27 >>28
>カント哲学は盲信しなければ、悟りを目指すものにとって非常に有益だと思うのだ。

そうではありません。
カントではなく龍樹から学ばなければならないのです。
そうしなければ、死ぬまで此岸から壁を見続けるだけで終わってしまいます。

まあ、後は鬼和尚におまかせして、私はここを去るとしよう。 では、さらば。

30541:2017/11/19(日) 07:31:42 ID:o7TfOr0I0
>>29
うんまぁ
龍樹から学ぶのもいいんだが、現代人ではないのでね。カントの方が、現代人とっては分かりやすいと思うのよ。見掛けは難解だがね。
しかし「妄信」すれば、龍樹も悟りの障害になると思うよ。

31541:2017/11/19(日) 07:36:19 ID:o7TfOr0I0
壁のところまで連れて行ってもらうのはカントで、壁を超える方法は龍樹や鬼和尚に聞いたらよい。
もっとも、実際に壁を超えるのは自分自身なので龍樹を妄信している段階では、何の発展もない。

32541:2017/11/19(日) 07:46:32 ID:o7TfOr0I0
逆に、カント→悟りの方向性を明示できれば、世界規模で多くの人が悟りの方向に迎えると思うんだよ。
いくら優れているとは言え無著だの世親の哲学を学んでいる人など世界規模で見れば殆ど居ないからね。
何と言ってもカントは未だに、学術論文で参照される哲学者ナンバー1の学者だからね。

33541:2017/11/19(日) 08:14:18 ID:o7TfOr0I0
私の書き方が悪かった面もありますが、鬼和尚は「物自体」を物だと思ってらっしゃいますが、物ではなく「物を越えた世界」或いは「物と言う表象の向こう側」と言うニュアンスです。

34避難民のマジレスさん:2017/11/19(日) 08:45:23 ID:czRftzgI0
>13
すいません、残りの触、六処、受、識、名色についても念のため解説をお願いします。

35避難民のマジレスさん:2017/11/19(日) 08:48:27 ID:czRftzgI0
>13
無明→→触→取→六処→受→行→識→名色→愛(→苦)
と構成できると考えました。 無明が始まりです。これらと生と有との関係がわからないので、教えて下さい。

36鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/19(日) 20:19:13 ID:1d4drIFg0
>>21 それがおかしいのじゃ。
 それら認識を批判するならば全ての思索や結論もおかしいことになるのじゃ。
 全ては認識に依って成り立つのであるからのう。
 認識の優越性がわかっていないのじゃ。

>>24 そうじゃ、ただひたすらに実践すればできるじゃろう。
 わしのブログなども参考にするとよいのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>26 無我が完全ならばないじゃろう。
 不完全ならば感じるかもしれんのじゃ。
 感じようとすれば感じられるじゃろう。

37鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/19(日) 20:28:26 ID:1d4drIFg0
>>34 触は感覚器官が接触することなのじゃ。
 六処は目耳鼻舌身体心などの感覚器官なのじゃ。
 受はそれらの器官が刺激を受けることなのじゃ。
 識は認識なのじゃ。
 名色は名前とイメージなのじゃ。
 
>>35 それらによって有るものという観念が生まれ、生有るものという観念もあるのじゃ。
 有愛であり、生有るものへの愛着なのじゃ。
 それは観察の一例であり、自分の心が観えたならば囚われなくてよいのじゃ。

38541:2017/11/19(日) 22:12:22 ID:o7TfOr0I0
>>21 それがおかしいのじゃ。
 それら認識を批判するならば全ての思索や結論もおかしいことになるのじゃ。
 全ては認識に依って成り立つのであるからのう。
 認識の優越性がわかっていないのじゃ。


鬼和尚。哲学における「批判」とは非難とか否定の意味ではありません。
そしてまさにカントの哲学は「全ては認識によって成り立つ」と言うことを主張するものです。

39541:2017/11/19(日) 22:24:15 ID:o7TfOr0I0
簡単に説明します。

カント以前の哲学は、蛇なら蛇が実在して、その実在者を我々が実在する通りに認識するというものでした。
しかし、カントはこれをひっくり返し、「認識の優越性」を主張します。
むしろ我々の感性や知性が「蛇なるもの」を創り出していると言うのです。
ここで、「しかし、縄は蛇そっくりだが噛み付かないだろう。やはり蛇は認識と関係なく実在するのではないか」と言う批判があると思います。
それゆえ「物自体」と言う領域が想定されなくてはなりません。
しかし、物自体は、経験の範囲を超えているので認識は出来ません。
「人間の知性や感性を超えた領域で何かが起きた」のは確かだが、それは人間と関わった途端「蛇」が「人」を「噛んだ」と翻訳されます。
「蛇」も「人」も「噛む」も「噛まれた人が死んだ」なども、人間的な解釈であります。それらは「人間的に解釈された人間的な出来事」ですが「出来事それ自体」ではない。
「出来事それ自身」は人間には捕らえられないが、少なくとも「蛇が人を噛んだ」はそれを見てる人が創り出した「人工世界」の出来事だということです。

40541:2017/11/19(日) 22:29:51 ID:o7TfOr0I0
もっと、日常の感覚的な例を出すと、例えば、「世界」と言うものが目の前に広がっているように見えますが、
ちょっと病気になり、「眩暈」などすると、その「世界」なるものがグルグル回ったりする経験がある。
これはまさに、「目の前の世界」が、単なる「映像に過ぎない!!」と言うことを示す証左でもあります。
また、目玉をグイッと押すと、世界がグニャと捻じ曲がり、分裂し回転したりします。まさに、自分と関係無しに「在る」と思われていた世界が、単なる「像」に過ぎなかったという
事が分かる。しかし、この「映像」の世界以外の世界は、我々には認識できないのです。

41541:2017/11/19(日) 22:33:57 ID:o7TfOr0I0
要するに、我々は、感性や知性が生み出した「虚像」の世界を実像だと思って生きている訳です。
だから「人が死んだ」のような出来事も「そのように見える」「そのように解釈した」というだけのことで、本当に起きている事は認識しようがないのです。
己自身の死すらも、死の恐れすらも、知性が生み出した虚像から生じる恐れです。
本当に起きている出来事は認識を越えたところにある。
これはカント哲学に対して、私が仏教風味に味付けしている面もありますが、それが可能なくらい、カント哲学は本来、仏教と親和性が高いと思います。

42541:2017/11/19(日) 22:52:27 ID:o7TfOr0I0
繰り返しですが「物自体」は「物質」のことではありません。そんなものである訳が無い。
物質とは観念に過ぎません。我々は対象それ自体を見ているのではなく、「物質と言う概念」を投影してその何かを見ているのです。
むしろ物自体=ニルバーナとでも言ったほうが誤解が少ないかもしれません。

43541:2017/11/19(日) 23:05:52 ID:o7TfOr0I0
認識論の話とは別の話なのですが

懺悔したいことがあります。

と言うのは私の高校時代の話です。私は、ある仲のいい友人が居たのですが
それは私が、ある方向に踏み出そうとした瞬間、「残念な奴」に見えてしまい、仲たがいしてしまったのです。
それ以来、私は「こんな事はもう二度としてはならない」と思っていたのですが
それから20年後、職場の同僚で仲の良い奴がいたのですが、私が新しく人生を踏み出そうとした瞬間にやはり「嫌なやつ」になってしまい、仲たがいしてしまったのです。
「二度と友を裏切る事はしまい」と思っていたのですが、同じ事をしてしまいました。
そして、それは、私が、新しい自分に脱皮するためには避けられないことでした。
高校時代、私は友と仲たがいして非常に後悔したのです。長い間無間地獄をさまよっていました。
しかし、仲たがいせず、そのまま付き合っていたとしたら・・?やはり無間地獄だったかもしれません。

44避難民のマジレスさん:2017/11/20(月) 02:19:41 ID:ydE4b1w.0
>>36

無我が完全というのは無認識になった後の無我って意味ですか?

45避難民のマジレスさん:2017/11/20(月) 06:06:58 ID:czRftzgI0
>35
無明→→取→六処→触→受→行→識→名色→有または生→愛

まとめるとこういう感じになりました。よく見ると前のものがあって後のものがあるという関係になっているようです。それと愛着は生きていないただの物にも湧くので「有愛であり、有るものと生有るものへの愛着なのじゃ。」が正しいと思いました(偉そうですいません)。
どうでしょうか?

46鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/20(月) 21:35:36 ID:1d4drIFg0
>>38>>42 それが未だ認識の優越性がわかっていないということなのじゃ。
 自分の考え、自分の語ることだけは例外と思っているのじゃ。
 本当に認識が本質的な物自体と言われるものとちがうものごとを認識しているならば、
 そのように考えたり、語ったりすること自体も全て過ちと言うことになるのじゃ。

 子供がお菓子を配るときなどに自分を数えるのを忘れるようなものじゃ。
 思考や示唆のわなに陥る者は、この程度の論理さえ超えられていないのじゃ。
 それ故に自らの論さえも否定する論にまでたどり着かなければならないのじゃ。
 カントも今までの自分の論は全部間違いじゃと認識すれば、多少はよい論になったのじゃ。

>>43 それは別に罪ではないのじゃ。
 悪い友とは付き合わなくて善いとお釈迦様も言っているのじゃ。
 新しい門出を祝えないものは善いともではなかったのじゃ。
 
>>44 違うのじゃ。
 自我が観念であると完全に気付き、もはや二度と自我を作り出さない状態なのじゃ。
 少し忘我になった程度ならば元に戻ることも有るのじゃ。
 
>>45 おぬしがそのように観察したのならばそれでよいのじゃ。
 自ら観察して気付いたことが自分にとって正しいのじゃ。
 十二因縁も観察の例に過ぎないのじゃ。
 囚われずに進むのじゃ。

47541:2017/11/20(月) 22:36:00 ID:o7TfOr0I0
>>46
鬼和尚。しかし、釈迦も12因縁を堂々と主張し、その誤りを認めたりなどはしていないですよ。
また全ての認識が間違いならば「カントは間違いだ」と言う鬼和尚の認識も間違いと言うことになります。

48541:2017/11/20(月) 22:48:09 ID:o7TfOr0I0
釈迦は、「向こう岸に着いたならば、乗ってきた船は捨ててよい」と言いました。
カントや釈迦や唯識論などは、向こう岸に着くための船であり、それ自体が真理では在りません。
しかし、船無しに向こう岸にたどり着くのも至難のわざであると思います。
違いますか?

49541:2017/11/20(月) 22:55:21 ID:o7TfOr0I0
出来れば、全否定ではなく、空海や天台などがしたように、仏教と関係の無い思想であっても関連つけて説明して欲しいのです。
観察によって認識の構造を炙りだしたカントの哲学には非常に鋭い洞察が在るはずです。

50避難民のマジレスさん:2017/11/21(火) 00:42:26 ID:ydE4b1w.0
>>46

ということは、無我が不完全ならば苦を感じるかもしれない、というのは例えば一時的なサマーディによる忘我などの
一過性の無我体験ならば、というような意味ですか?

51避難民のマジレスさん:2017/11/21(火) 02:18:33 ID:Nw8VwStU0
>>49
「カント哲学では悟りに至れない」ということは多くの仏教哲学者・修行者の間で常識です。
カント哲学によって「門」まで行き着いても、「門」の中の世界を見ることはできないのです。

>>41
>要するに、我々は、感性や知性が生み出した「虚像」の世界を実像だと思って生きている訳です。

あなたの言う「虚像」だけではなく、「実像」も「あなた」が考えていることなのです。
そのことに気付く必要があります。
そして、そこから先は「宗教体験」によって開かれる世界です。
「師匠による指導・瞑想・修行」が必要になります。

52避難民のマジレスさん:2017/11/21(火) 05:48:15 ID:czRftzgI0
>45
一連の質疑応答で観察の質が向上したと思います。ありがとうございました

53541:2017/11/21(火) 06:51:14 ID:o7TfOr0I0
やはり「カントが間違っているというわしの意見も間違っているのじゃ」と言わないと、鬼和尚も、自分の頭を数え忘れていることになってしまうw

54541:2017/11/21(火) 06:56:05 ID:o7TfOr0I0
>>51
ですから、前も言っている様に、門の前につれてこられるだけでも、十分、素晴らしいと思いますよ。

>あなたの言う「虚像」だけではなく、「実像」も「あなた」が考えていることなのです。
そのことに気付く必要があります。

そんな事は百も承知で、カントは実像としての物自体は経験できず、理性の推論でしかないとね。
つまり、天国や地獄、あの世などは「理性的推論でしかない」ので、それについて議論したり、戦争をしたりしても、決着はつきませんよと言うことなのです。

55541:2017/11/21(火) 07:02:11 ID:o7TfOr0I0
>>51
ちなみに貴方の宗教体験なるものも虚像であることに注意した方が良いと思います。
例えば、LSDで幻覚を見せられてそれを真理だ、実体だなどと考えている場合が在ると思います。
「宗教体験」なるものを過剰に重視する人間は、特にカント哲学からはじめた方が良いと思います。

56541:2017/11/21(火) 07:08:28 ID:o7TfOr0I0
「理性の暴走」を戒めるカント哲学と禅仏教は親和性が高いと思うし、本来、観察を重視する鬼和尚の仏教とも相性は抜群に良いと思う。

57541:2017/11/21(火) 07:12:24 ID:o7TfOr0I0
悟りと言う頂を上るのには沢山の門があると言われる。
現代においては「西洋哲学門」なるものを認めないと、仏教の裾野が広がらないと思うのだ。
仏教は、そのつど、時代時代の思想を体系の中に吸収してきた。それだけの「器」が仏教には在るのである。

58541:2017/11/21(火) 07:15:14 ID:o7TfOr0I0
私こと541菩薩は、悟った後、必ずや未開拓の「西洋哲学門」を整備し、世界中に居る沢山の迷える後輩たちを悟りの世界に導くことを誓います。

59避難民のマジレスさん:2017/11/21(火) 13:43:04 ID:Nw8VwStU0
>>54 >>55 >>56 >>57
>前も言っている様に、門の前につれてこられるだけでも、十分、素晴らしいと思いますよ。

野球場(サッカー場)に野球(サッカー)を観に行って、チケットを買うお金が足りなくて場内に入ることが
できなかった人が「球場に来られただけでも十分に素晴らしい」と思いますか?
音楽のコンサートの会場に行った人が会場に入れなかった時、「コンサート会場に来られただけでも十分に素晴らしい」
と思いますか?
「カント哲学」では<決定的なもの>が足りないので悟りの世界には入れないのです。西洋的知性の限界なのです。
そのことは昔から多くの仏教者によっても言われて来たことなのです。

>>58
>私こと541菩薩は、悟った後、必ずや未開拓の「西洋哲学門」を整備し、世界中に居る沢山の迷える後輩たちを悟りの世界に導くことを誓います。

無理です。例えて言えば、野口英世が黄熱病の病源菌を「光学顕微鏡」で見つけようとして、一生見つけることができなかった
ようなものです。仏教哲学という「電子顕微鏡」が必要なのです。

60避難民のマジレスさん:2017/11/21(火) 16:03:25 ID:DAY232aw0
>>36ご回答ありがとうございます。
鬼和尚さん質問ですが、
何をどう観察すれば、自我を観る事が出来るのでしょうか?

61避難民のマジレスさん:2017/11/21(火) 17:10:43 ID:ydE4b1w.0
鬼和尚の「観照とは自我を観ることなのじゃ」というのがよくわかりません、
観照が起こった後でも観られる対象の自我がある、ということですか?

62541:2017/11/21(火) 18:34:14 ID:o7TfOr0I0
ところで鬼和尚はシャンカラの不二一元論や竜樹の中観哲学などはどう評価されていますか?

鬼和尚は形而上学的実在を主張する者にたいしては絶対無を説き、絶対無を説くものに対しては究極的観察者の実在を説くような面があるように思いますが。

63541:2017/11/21(火) 18:42:15 ID:o7TfOr0I0
>>59
でもいわば君は悟りの入り口にも立っていない、凡俗じゃないですか?
凡俗の視点で仏教の優位性を説いたところで、それは仏教思想に自我を投影しているだけの凡俗な主張でしかないと思います。

64避難民のマジレスさん:2017/11/21(火) 19:32:26 ID:Nw8VwStU0
>>63
私は鬼和尚に何も質問していないでしょう。
君と違って質問する必要がないのです。
それに気が付かないようでは話にならないね。
尚、鬼和尚は龍樹をよくご存知ない人なので、龍樹を悟っていないと言っていますが、
それは大変な間違いだということを付け加えておきます。

65541:2017/11/21(火) 20:02:58 ID:o7TfOr0I0
>>541
なんであれ貴方が凡俗だと言う事は直観的に分かります。
と言うのも、貴方に何も聞いていないのに、答えようとするからです。
それは煩悩がコントロールできないことを意味しています。

66541:2017/11/21(火) 20:11:56 ID:o7TfOr0I0
竜樹やシャンカラが「カス」だという意味でカントが「カス」だというのなら、納得できます。
と言うのも、カント哲学を発展させていくと、どうも、シャンカラの説くような不二一元論に至るような気がするからです。
これは、新カント派を引き継ぎ、発展させたハイデガーが「存在」を哲学の出発点であり、到達点としたことからも推測できます。

67541:2017/11/21(火) 20:19:55 ID:o7TfOr0I0
竜樹は、シャンカラやハイデガーのような形而上的な実体を否定する立場ですが、鬼和尚は、そうでもないですね。
どちらかと言うと、シャンカラ寄りと言うか、全てを見ている「一者」を肯定するようなところもあり、
とはいえ「真我」のようなものを説く者に対しては、それも観念だと否定する。逆に、空の論理で全てを否定するものに対しては「それも空じゃろう」となるので
観念を超えた実存の立場から物を語ると言うことはあるでしょうね

68鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/21(火) 21:28:57 ID:1d4drIFg0
>>47 十二因縁は論ではないのじゃ。
 教えの例なのじゃ。
 わしはカントは間違いとは語っていないのじゃ。
 カント自身が自らの間違いを認めればイカス者になれたというのじゃ。
 傲慢の故に自分が何を書いているのかもわかっていないのじゃ。

>>48 カントは船ではないのじゃ。
 その程度の論は既にウパニシャッドでも語られているのじゃ。
 インド哲学を知らんから自分の論が始めて語られるものと思っているのじゃ。
 傲慢と無知をさらけ出している者なのじゃ。

>>49 ウパニシャッドを読むと善いのじゃ。
 それが既に2000年も前に語られていることがわかるのじゃ。 
 
>>50 そうじゃ、それならばまた苦を感じることもあるのじゃ。
 それも習慣によるものであるがのう。
 自ら実践して確めてみるのじゃ。

>>52 どういたしまして、またおいでなさい。

69鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/21(火) 21:34:36 ID:1d4drIFg0
>>60 観察しているものを観察すれば自我が観られるじゃろう。
 観察しているならばそのように観察しているのは何であるか観察してみるのじゃ。
 何万回でも繰り返し観れば一回は観られるじゃろう。
 それで十分なのじゃ。
 
>>61 無いのじゃ。
 もはや自我が観念であり、本来無いものと気付くのが観照なのじゃ。
 無いものと気付いたのであるからもはや無いのじゃ。
 主体の無い認識があるだけなのじゃ。

>>62 そのような者達の語ることは悟りへの道なのじゃ。
 どこにも行き着かない思索だけのものとは違うのじゃ。

70避難民のマジレスさん:2017/11/21(火) 21:37:09 ID:Nw8VwStU0
>>65
>貴方に何も聞いていないのに、答えようとするからです。

カント哲学をいくら追求しても宗教的にはどこにも行き着かないことは常識なのですよ。
君のような若者が人生の貴重な時間を無駄に費やさないようにと思って、老婆心から
教えてあげただけなのです。
(素直さのない若者は人生を無駄にしがちだから、気を付けようね。)

71541:2017/11/21(火) 21:56:01 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚。
意外にも意見が合致しましたね。

カントやハイデガーの思想は、突き詰めると、まさに古代インド哲学と同じ結論に到達すると思うのです。
すなわち、梵我一如です。

ちなみに、カントが「思索だけの哲学者」と言うのは間違いです。
彼の方法は「観察」です。
『純粋理性批判』と言う著作は「思考を突き詰めれば真理に到達できるんだ」と言うような書では無く、その逆なのです。
言い換えれば「理性の限界設定」(思考では真理に到達できない)と言うような内容なのです。

72541:2017/11/21(火) 22:04:35 ID:o7TfOr0I0
逆に、ウシャニパッドを知らないのに、「自力」で苦闘して、西洋形而上学を破壊して、インド哲学に匹敵する体系を作り上げたと言うのは誉れだと思いますよ。
鬼和尚は、インド哲学をカンニングできたのに、彼らは一から作り上げたのだとすれば、多少敬意を払っても良いと思います。

73541:2017/11/21(火) 22:06:51 ID:o7TfOr0I0
ごめん、ウパニシャッドね。(笑)

74541:2017/11/21(火) 22:13:33 ID:o7TfOr0I0
思うに、鬼和尚は「イメージのカント」を批判しているような気もする。
例えば、『純粋理性批判』の「純粋理性」と言うのは、「経験の伴わない思考」の意で、それの「批判」な訳で、鬼和尚の主張と別に矛盾している訳では無いんだよね。
いや、むしろ「同意見」ではないですか。

75541:2017/11/21(火) 22:21:25 ID:o7TfOr0I0
私は覚者としての鬼和尚を尊敬してはいるが、「理論」「知識」の方面は余り得意ではないと思う。
その分、行が凄いとは言えるのだろうが。
恐らく、知識の面でも抜群に秀でていた釈迦であれば、六師外道を「全否定」はしなかったように、
無碍にカントのような学者を否定はしなかったと思う。
天台が、クソみたいな経典も、ランク付けして、一応仏典認定したように。
空海が、禽獣のような人間に法華経や華厳経を教えても理解できないのだからと、取りあえずは儒教で仁義礼などを教えるのも一つの修行だと捉えたように。

76541:2017/11/21(火) 22:35:38 ID:o7TfOr0I0
ところで、私はカント哲学をクソほどありがたいなどとは思っていない。
だから、安心して読めるのである。
一方で、「東洋思想」に対する「西洋思想」などと言うように二項対立を設けて、一方を否定することにエネルギーを使うものは
結局、東洋だろうが西洋だろうが、何一つわかってはいないのではないかと思う。

77避難民のマジレスさん:2017/11/21(火) 22:35:55 ID:DAY232aw0
>>69ご回答ありがとうございます。
鬼和尚さん質問ですが、
自分の本心を観て、観察しているものを観察すれば良いと言う事なのでしょうか?

78避難民のマジレスさん:2017/11/22(水) 01:14:17 ID:bP6oxyAs0
なんか変なのが湧いててワロタw

79蓮恵:2017/11/22(水) 08:44:29 ID:F4cyaZX20
鬼和尚さま
禅定にはなかなかはいれませんが、
昨日瞑想中に思考や物を認識する意識が、点滅といいますか、意識が瞬間ごとに消えて、次の瞬間に意識が新しく生まれるのを繰り返すのが見えて、
怖くなって瞑想をやめてしまいました。
どういうことなのでしょうか、御解説と御指導お願いします。

80避難民のマジレスさん:2017/11/22(水) 19:02:43 ID:czRftzgI0
Q1.私は自分だと思っているものを見れば自我を乖離でき、いずれは無我に至ると思っていました。けれど、それでは不十分で、「観察しているものを観察すれば自我が観られるじゃろう」つまり、自分だと思っているものを見ている者を観察しないと無我に至らないということですか?

Q2.私はなかなか忘我に至らないので、無我を目指そうと思っています。すると、普段の座禅で忘我に入るほどの集中は必要でなく、観察できるほどの集中があればいいということですよね?忘我に至るほどの集中をする自信がないので。

81鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/22(水) 21:23:49 ID:1d4drIFg0
>>71 同じところには行き着かないのじゃ。
 哲学の行き着くところは絶望と依存しかないのじゃ。
 悟りの道と法を知らないからのう。
 同じようなことを考えてもそこが根本的な違いなのじゃ。
 哲学とは実際には単なる修辞学なのじゃ。

>>74 哲学の批判は批判しているのではないとおぬしは先日書いていたようであるがのう。
 すると経験の伴わない思考も批判していないことになるのじゃ。
 愚かなことじゃ。

>>75 お釈迦様は六師外道を全否定しているのじゃ。
 沙門果経などを読むのじゃ。
 
>>77 そのように考えているものを観察するのじゃ。
 その主体を追求するのじゃ。
 わしに訊く者を観察するのじゃ。

>>79 それで善いのじゃ。
 意識が刹那にものごとを生み出し、解釈することが観えたのじゃ。
 世界はそのように刹那毎に創られているものなのじゃ。
 阿頼耶識がそれを作り上げているのじゃ。

 恐れるのは未だ悟りを心底から得たいという願望がないからじゃろう。
 全てを捨てて進む覚悟が必要なのじゃ。

>>80 1 違うのじゃ。
  観察しようとすれば観察する者が自分と言う投射が起こるのじゃ。
 それ故に観察している者を観察しなければいかんのじゃ。
 今はわしに聞こうとしている者を観察するのじゃ。
 わしの答えを読んでいる者を観察するのじゃ。
 わしの答えを解釈している者を観察するのじゃ。

 2 そうじゃ、観察できれば善いのじゃ。

82541:2017/11/22(水) 21:50:00 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚の言うことにもレトリックがある。
哲学には仏教哲学も含まれるからです。
実際は過去七仏と言うように、過去にも未来にも、仏教に匹敵する思想が生まれても不思議ではないし、「西洋哲学」みたいなくくりで、全てを否定するのは単なる不見識だと思う。
それらの中には、その内部の主流の哲学を批判する流れもあるのだからね。特に現代思想は、プラトンやアリストテレス以来の哲学を否定する流れにある訳だしね。

83避難民のマジレスさん:2017/11/22(水) 21:58:54 ID:czRftzgI0
>80
なるほどそれでやってみます。

84避難民のマジレスさん:2017/11/22(水) 22:11:23 ID:DAY232aw0
>>81ご回答ありがとうございます。
鬼和尚さん質問ですが、
全てを観察して、その主体を追求したら良いのでしょうか?

85蓮恵:2017/11/23(木) 00:06:11 ID:cxZA.SSo0
>>81
お返事ありがとうございます
 思うにそのように刹那滅、先住異滅を観察するのは、悟りへの最短ルートではないでしょうか。アラヤ識の働きそのものを観察できるからという理由です。

 また刹那滅を観察するのは、ヴィパッサナ瞑想ではないでしょうか。
 今までサマーディに入りたくて、サマタ瞑想をやっていたはずなのですが、ヴィパッサナのほうに向かっていってしまいます。
 心が止まらずに観察のほうにいってしまいます。 不思議です。

86避難民のマジレスさん:2017/11/23(木) 03:59:57 ID:ydE4b1w.0
>>69

ありがとうございました。

あと、>>81の中の「観察しようとすれば観察する者が自分と言う投射が起こるのじゃ。
 それ故に観察している者を観察しなければいかんのじゃ。」

というのは観察は今後も続けてもいいから単に観察しているのが自分という同一化の感覚を見て厭離させればよいという意味ですか?

それとも、観察するという動機そのものまで消滅させなければいけない、最終的には観察しようとする必要さえも滅しなければ無我にはなれない、という意味ですか?

87避難民のマジレスさん:2017/11/23(木) 06:15:43 ID:czRftzgI0
>80
するとHPに鐘の音を観察とあるのは、鐘の音を観察するのではなく、観察者が鐘の音をどのように感じているか、いつ観察者が現れるかを観察するということなんですか?

88避難民のマジレスさん:2017/11/23(木) 08:57:46 ID:czRftzgI0
>87は取り消します

89避難民のマジレスさん:2017/11/23(木) 09:01:30 ID:czRftzgI0
何かの観察と観察している者を観察を同時にできるのですか?意識や視点は一つしかないので同時に観察できないように思えますが。
何かの観察後すかさず観察している者を観察するということですか?

90避難民のマジレスさん:2017/11/23(木) 12:03:39 ID:DAY232aw0
>>84スルーしてください。すいません。
ありがとうございました。

91避難民のマジレスさん:2017/11/23(木) 13:24:11 ID:czRftzgI0
観察している者を観察の意味がどうしてもわかりません。例えば、白い物を観察している時、白いという感覚は意志で感じているのではなく白いと言う感覚が自然に起きているからだという状態を観察するという意味ですか?

92避難民のマジレスさん:2017/11/23(木) 17:07:13 ID:8qFvIk/s0
私も、観察するものを観察するで悩んでます。確かに頭の中を観察している、「何者か」がいます。しかし、これを
観察しようとすることは、”自分で自分を見る”という論理的に矛盾してるような事をしないといけないような気がします。
たとえるなら、メドゥーサは自分で自分を見て、自分を石にすることが出来ないように、原理的に不可能なことをしよう
としているのではないかと思いますが、いかがなものでしょうか?

93避難民のマジレスさん:2017/11/23(木) 18:37:42 ID:DAY232aw0
鬼和尚さんすいません。
改めて質問ですが、何を観察すれば良いのでしょうか?

94鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/23(木) 21:19:44 ID:1d4drIFg0
>>82 含まれないのじゃ。
 西洋人が勝手に仏教哲学などと名づけているだけなのじゃ。
 仏教は哲学ではなく法なのじゃ。
 ウパニシャッドでさえアートマンは実践すべき法であると宣言しているのじゃ。
 
 お釈迦様は自らが愚か者と知る者こそ賢者であると言ったのじゃ。
 愚かでありながら自らを賢いと思っている者が愚者なのじゃ、とも言ったのじゃ。
 語るべき所で語るべき言葉を語ることを知らない者は実に愚かなのじゃ。

>>84>>93 先ずは自分の手を観察して見るのじゃ。
 ただひたすらに手を観察するのじゃ。
 ここにしわが有るとか、毛が生えているとか詳しく観察してみるのじゃ。
 それで何か反応があればそれを確めて進むのじゃ。
 なければあるまで続けるのじゃ。

>>85 自我かあればそれは困難なのじゃ。
 自分の観察と思って主体を投射してしまうからのう。
 先ずは無我を目指すのじゃ。

 それは恐れが有るからじゃろう。
 全てを捨てる覚悟で進むのじゃ。
 そうすれば全てになるのじゃ。

>>86 そうじゃ、観察している者が自分という感覚を観察してみるのじゃ。
 観察しているものは自分ではないのじゃ。
 それは主体無く起こるものじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

95鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/23(木) 21:31:05 ID:1d4drIFg0
>>89>>91>>92 観察している者を観察できるのじゃ。
 集中していれば複数のものごとを同時に意識できるのじゃ。
 それは主体ではないからいくつも視点が有るのじゃ。
 それが同時にできないと言う観念こそただ一つの主体があり、それが自分と思っているからなのじゃ。
 
 それは集中している時にも実感できるのじゃ。
 呼吸に集中し、それを制御している働きが心には有るものじゃ。
 それが無ければ呼吸しながら集中するようなことも制御できないのじゃ。
 
 ただ一つの自分があるという観念を捨てて全てありのままに受け容れればそれは観えるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

96避難民のマジレスさん:2017/11/23(木) 21:46:03 ID:DAY232aw0
>>94ご回答ありがとうございます。勉強になります。鬼和尚さん質問ですが、
反応を確かめて観察して行けば良いと言う事なのでしょうか?

97避難民のマジレスさん:2017/11/23(木) 22:39:47 ID:DAY232aw0
>>96訂正です。
反応を確かめて追求したり観察して行けば良いのでしょうか?

98蓮恵:2017/11/24(金) 00:32:52 ID:AlNqYyjs0
>>94
ありがとうございます。
恐れを超えるために教えてください。

1.一般論でいうと我々が死んだ時に心が滅ぶと考えられますが、
実のところ、刹那の内に心が滅する体験を、我々は気づくことなく何度も繰り返しているのではないでしょうか。

2.1が正しいなら我々が無意識に常に繰り返している心の滅を、我々は最も恐れているという滑稽な構図になるのではないでしょうか。

3.また、心が刹那に生じて滅する体験は肉体に依存せず、心は肉体がなくとも生滅するのでしょうか。

4.また、自我がなくとも、心は生滅しますでしょうか。

99避難民のマジレスさん:2017/11/24(金) 08:58:44 ID:ydE4b1w.0
>>86です。
ありがとうございました。ということは観察する動機まで消すということじゃなく、
観察しているのが自分、という観念を単に厭離させればよい、という話ですね?

100避難民のマジレスさん:2017/11/24(金) 13:47:01 ID:8qFvIk/s0
>>95
ありがとうございます。注意してやって見ます。

101避難民のマジレスさん:2017/11/24(金) 18:48:25 ID:czRftzgI0
観察している者を観察は、具体的に観察者の何を観察するのですか?観察者の頭に浮かんだ思考や胸の反応などですか?

102鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/11/24(金) 21:52:21 ID:1d4drIFg0
>>96 反応があれば確めてみるのじゃ。
 なければあるまで続けるのじゃ。

>>97 追求しなくてよいのじゃ。
 ただ観察して反応が有るか無いか確かめてみるのじゃ。
 
>>98 1 そうじゃ、む刹那に滅しているじゃろう。
  漱石も胃潰瘍で死にかけたとき心が滅して驚いたのじゃ。

 2 そのようになるじゃろう。

 3 生滅するじゃろう。

 4 生滅するじゃろう。

>>99 そうじゃ、観察しているのが自分と言う観念を滅するのじゃ。
 主体を厭離するのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。
 
>>100 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>101 観察している自分がいるという観念を観察するのじゃ。
 続ければだんだん深く見えてくるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

103避難民のマジレスさん:2017/11/24(金) 23:29:55 ID:DAY232aw0
>>102ご回答ありがとうございます。
観察して、反応を確かめて進むと言う事なのでしょうか?

104避難民のマジレスさん:2017/11/25(土) 00:00:11 ID:DAY232aw0
>>103スルーしてください。
質問ですが反応とはどのような反応なのでしょうか?

105蓮恵:2017/11/25(土) 10:12:35 ID:ETmMy/0M0
和尚様

>>102

ありがとうございます。
座るとき姿勢を楽に保つ工夫ができたのですが、体が結構揺れます。
集中する際は揺れを消した方がよろしいでしょうか。

106避難民のマジレスさん:2017/11/25(土) 10:16:22 ID:RdvWY5c.0
鬼和尚
瞑想していると、さまざまな思いが生滅している中で、滅した後、あるいは滅する前にその思いを無意識に振り返っている事があったのですが、最近はあまり振り返る事がなく、そのまま滅していくようになってきています。思いが次々に滅していく感じです。
この感じを継続していって良いのでしょうか?


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