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鬼和尚に聞いてみるスレ part5

43避難民のマジレスさん:2015/03/03(火) 01:27:03 ID:3BjOlVlY0
こんばんは
先日知り合い程度の人に「僕は霊感がある、君の背中に霊がいるおぶさっている感じになっている
子供の霊で悪いことはないが肩がこるよ」と言われて
全くそういうことは気にしていなかったですが、それ以来なんだか気になって気になって
日本酒風呂につかって見たり部屋に塩置いたりしましたが
一体なにがどうなってそうなっているのかも分からずイライラしてしまいました。
身内の誰かの関係でとりつかれやすいのかもとも言われました。
先祖にゆかりのあるお寺さんにも行きましたがもうどうして良いか分かりません
自分の気持ちのあり方もグダグダです。
若干ひきこもり気味です。
御払いにいったりした方がいいのでしょうか?
人に聞くと何もしなくて良いと言っていました。

44鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/03/03(火) 20:57:46 ID:TFftgfn.0
>>42 牛とか馬とかから生まれ変わるものも居るじゃろう。
 いずれも慈悲の行いをすることでさらに能力や智恵が大きくなるものじゃ。
 無慈悲な行いわすれば動物以下に生まれ変わることも有るのじゃ。

 神も心に在るものじゃ。
 全てが一つならば神も人と離れていないのじゃ。

>>43 気にしなくてよいのじゃ。
 幸運を呼ぶ子も居るのじゃ。
 おぬしがよい行いをしていればなにものも恐れる必要は無いのじゃ。
 どのような怪力乱神といえども善い事をする善い人の福楽を妨げることは出来ないのじゃ。
 適当な者に騙されてつぼを買わされない様に気をつけるのじゃ。

45避難民のマジレスさん:2015/03/03(火) 23:07:40 ID:LMKFNH1U0
>>44
全ては一つのものなのですね。
慈悲ある行動を心がけようと思います。ありがとうございました。

46避難民のマジレスさん:2015/03/04(水) 00:35:10 ID:3BjOlVlY0
>>44
鬼和尚さんありがとうございます。
気が楽になりました、今日はゆっくりねれそうです・・・
良い行いを心がけます。
なるべく明るい事を考えるようにしているのですが、何故か急にいらいら
怒りっぽくなってしまって父に凄くあたり散らしてしまいます。
止めよう止めようと思って難しくものすごく悪いことを考えてしまいます。
何か良い方法?とか考え方とかあるでしょうか?

47鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/03/04(水) 21:13:53 ID:TFftgfn.0
>>45 そうじゃ、慈悲の行いが衆生には大事なのじゃ。
 またおいでなさい。

>>46 人間は誰でも近づきすぎると傷つけあうのじゃ。
 なるべく離れたらよいのじゃ。
 数日間顔を見ないと又親しくなるじゃろう。
 出来れば旅行とかにいくと善いのじゃ。
 いろいろ試してみるのじゃ。

48避難民のマジレスさん:2015/03/04(水) 21:19:30 ID:if4PawNE0
鬼和尚様、はじめて質問させて頂きます。
この世が幻であるならば、私たちは何のために生きるのでしょうか。
特に生きる意味なんてないことを悟るのが覚醒なのでしょうか。
つまり……この世で何らかの夢や目標を抱いて、それに向かって努力したりする過程は全て幻で無意味なものなのでしょうか。
教えて下さい、お願いします。

49避難民のマジレスさん:2015/03/05(木) 01:42:18 ID:3BjOlVlY0
>>47
>>46です・・・
は!!!っとする言葉ですね
確かに家にいてずっと顔会わすのでなるほどと思いました。
ずっと悩んでいましたが、この際家をでるようにがんばります。
本当にありがとうございました。

50避難民のマジレスさん:2015/03/05(木) 07:59:20 ID:lxt5QjV20
悟りを開いて得られた智慧を説明されていますが(執着があるとまた生まれる等)
それらは神秘体験として何故か分かるのでしょうか
それとも、意識の性質に対する理解や解釈が向上あるいは正されることで結論として得られるのですか?
後者の場合、例えばその理解と解釈だけを私が得られたとしたら通常の思考状態(非変性意識)でそうと自然に分かるものでしょうか
質問したいことがあいまいでごめんなさい

51避難民のマジレスさん:2015/03/05(木) 08:02:48 ID:lxt5QjV20
匿名で投稿するたびに信頼がリセットされるので一応言いますがまず懐疑派とかではありません
悟りとは何かを、悟らずして言語的に理解したいという欲望から質問しているわけでもありません
唯識説に対する興味です
連投失礼しました

52避難民のマジレスさん:2015/03/05(木) 12:46:54 ID:qYQvs9ck0
鬼和尚、
自我の観照についてもう少し詳しくお教え下さい。
ブログの「城の譬」http://onioshyou.blog122.fc2.com/blog-entry-36.html
で、「長い間修行してきた者は、恐らく一度や二度は、観照が起こっている筈じゃ。しかし、その度に恐怖を感じ、誤った自己保存の本能によって自我を破壊する観照から逃避し、隠蔽してしまうのじゃ。」
と書かれています。

これまで観照は一瞬で起こるものと思っていたのですが、観照は途中で戻ることもあるのでしょうか?
その場合は、気づき→自我の消失開始→恐怖→逃避 という縁起でしょうか。

また、サマーディに達する直前にも自我が失われていく感覚があるのですが、観照の場合に生じる感覚も同様のものですか?

日常生活の中で何回か、特に集中している意志がない時に自我が消えゆく感覚があったのですが、集中が習慣になって、忘我のサマーディに入りかけたのだと思っていました。
それは、忘我ではなく無我への過程から逃避したものだったのでしょうか?

53鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/03/05(木) 21:44:59 ID:TFftgfn.0
>>48 生きる意味は人が自ら見出していくものじゃ。
 自分で人に尽くすために生きると決めたならば、人に尽くすため生きるのであると言えるじゃろう。
 人に善い事をするならば自分にもよいことになるからむなしくは無いのじゃ。

 それらの目標がむなしいと判ったならば、永遠の境地を求めることもできるのじゃ。
 日々学び、精進していくならばいつかはむなしい目標からも離れ、不死の境地にも至ることが出来るのじゃ。
 それこそが幻ではない真に実在するものであり、そのために全ての目標はあったとさえ言えるのじゃ。

>>49 そうじゃ、独りになるのもよいことじゃ。
 またおいでなさい。

>>50 それらは今までの生まれ変わった経験の知識や、そこから理解した原則などによってわかるのじゃ。
 その知識があれば通常の思考でもわかるじゃろう。
 思考は元々真実を知る智恵であり、道具であるからのう。
 迷妄が無くなれば真実がわかるのじゃ。

54鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/03/05(木) 21:53:45 ID:TFftgfn.0
>>52 それは一瞬で起こるが意志によってとめることも出来るのじゃ。
 例えば人が自分の体を鏡で見て太っているとわかっても目をそらして、
 そんなに太っていないと心に嘘をついてしまうようなものじゃ。
 一瞬、自我が我ではないと気付きかけても、恐れから目をそむけてしまうのじゃ。
 
 そのような縁起でよいのじゃ。
 それを観察すれば恐れも消えるじゃろう。

 観照の場合はもはや自我が実は己ではないと気付くのであるから瞬時なのじゃ。
 後からそれが無我になる瞬間であったと気付く位なのじゃ。
 少しずつ起こるならば未だ忘我によるものといえるじゃろう。

55避難民のマジレスさん:2015/03/06(金) 06:31:45 ID:lxt5QjV20
左目だけ開けるウインクが出来ないのですがどうしたらできるようになりますか?

56避難民のマジレスさん:2015/03/06(金) 07:50:06 ID:oPkJVoYw0
>>55
何回も練習をするのじゃ。

57避難民のマジレスさん:2015/03/06(金) 12:55:08 ID:0Sk4wvvs0
>>54
どうやら、忘我によるものだったようです。
むしろ自我の観照の過程は、苦滅の過程に似ているのですね。
引き続き縁起により主体を観察します。
ありがとうございました。

58避難民のマジレスさん:2015/03/06(金) 16:58:24 ID:if4PawNE0
>>53

ああ有り難き教えです。
生きる意味は自分で見出していく、座右の銘にしたいと思います。

止の上達法で呼吸法を知ったのですが、これは変性意識と関係あるのでしょうか。
サマーディ(ニルヴァーナ?)は変性意識である神秘体験や恍惚感を伴うようですが、観照にとって何の役立つものなのでしょうか。
鬼和尚一押しの止の練習法をアドバイス下さい。

あと、先日鬼和尚様の電子書籍を読んだのですが、冒頭に「私がネットでの活動を始めたのは、偽物が多いからだ」と仰っていました。
悟ってもないのに現実世界やネット上で悟った人のフリをしたり、鬼和尚を真似て他人を指導するような輩なんかがいたのでしょうか?
このようなことをするとどんな罰があたるんだろう・・・。


教えてください、鬼和尚殿。

59鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/03/06(金) 21:32:48 ID:TFftgfn.0
>>55 練習するのじゃ。
 練習すれば出来るようになるのじゃ。

>>57 そうじゃ、精進在るのみじゃ。
 またおいでなさい。

>>58 そのような体験は自分の心を観やすくするのじゃ。
 心の働きは微妙で素早いものじゃ。
 サマーディなどの強力な集中力があれば、そのような心の働きも観察できるようになるものじゃ。

 そのようなものは今も多く居るものじゃ。
 オウムのものもそうであったのじゃ。
 そのような者達はこの世では苦しみ、死んで後も酷いところに生まれて苦しむのじゃ。
 哀れなことじゃ。

60避難民のマジレスさん:2015/03/07(土) 02:11:10 ID:aNxujPnI0
グルジェフやoshoのいう客観芸術というものは本当にあるのでしょうか?
もし存在しないならば、悟った人が作った芸術作品は何かありますか?(建築や僧の作品を除いて)
また、これらの作品は客観芸術でしょうか?

タゴールの詩
シェイクスピアの諸作品
松尾芭蕉の俳句
ヨブ記
ラーマーヤナ、マハバーラタ
スーフィの寓話、歌、ダンス
レオナルド・ダ・ヴィンチ、セザンヌ、ゴッホ、葛飾北斎の絵
弥勒菩薩半跏思惟像
ニジンスキーの踊り
グレゴリオ聖歌
バッハ、ベートーヴェン、モーツァルト、ワーグナーの曲
世阿弥、金春禅竹の著作


それと、瞑想の助けになる絵や音楽があれば教えてもらえませんか?
多いですが、応えられる範囲で結構ですので、よろしくお願いします。

61鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/03/07(土) 21:24:43 ID:TFftgfn.0
>>60 それはおぬしが悟りを得る助けになるものがあれば、それが客観芸術といえるのじゃ。
 客観芸術とは悟りを得る助けになるような芸術なのじゃ。
 おぬしがそのようなものを認められないならばこの世には存在しないのじゃ。

 僧ではなくなっていた一休の歌とか書が在るじゃろう。
  
 それらの中でおぬしが悟りを得る助けになるものがあれば、客観芸術といえるのじゃ。
 万人に対する客観芸術などは無いのじゃ。

 自然の音などが瞑想の助けになるじゃろう。
 youtubeにもいろいろあるのじゃ。
 おぬしが聞いて瞑想の助けになるならばそれが客観芸術なのじゃ。

62避難民のマジレスさん:2015/03/07(土) 22:38:00 ID:0KvjUVp60
この世が無常であることは何の意味があるのですか?
無常ならざるものを知るためでしょうか?

63避難民のマジレスさん:2015/03/08(日) 10:16:09 ID:lxt5QjV20
この世界はあなたのものだ遊び場だ制限は自分で課している系の文章に大分影響されたのですが、自分がしたいことが分かりません。教えてください。

64避難民のマジレスさん:2015/03/08(日) 19:18:37 ID:if4PawNE0
>>59
サマーディが心を観やすくするのですね。
私はもう十年以上も止を練習しているのですが、一度もサマーディに至ったことがないために
観照も浅いレベルでしかできません。
鬼和尚はどのように深いレベルの観照に至ったのですか。止のヒントや秘伝があるならば、
慈悲の心で伝授して下さいお願いします。

あと、昔肉体労働系の仕事でヤクザのような上司に虐めを受けて、未だにトラウマがあります。
そのせいか、威圧的で怖い人が苦手なのですが、こういう人を忌み嫌う心は観察ができれば消失していくものでしょうか。
それとも観察だけでは足りず、自分がそういう人になってみないと分からない事があるのでしょうか。

お助けください、鬼和尚殿。

65鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/03/08(日) 21:39:40 ID:kda.xhW60
>>62 おぬしが悟りを得るために有るのじゃ。
 人の命が無常でなく永遠であれば誰も悟りを得ようとしないのじゃ。
 全ては心が作り出すものであるからのう。

>>63 そのような情報を頭に入れるのをやめて一人で旅に出るとよかろう。
 そうすれば自分の本当の欲求がわかるのじゃ。
 他人からの情報ではなく、自分からの情報を見られるからのう。

>>64 それは姿勢に有るのじゃ。
 骨盤と背中を真っ直ぐにした姿勢で、倒れる寸前まで極限に力を抜くと誰でもサマーディにはいれるのじゃ。
 まだ体に力が入っていると我が起こるのじゃ。
 頭のバランスをとって力を放棄するのじゃ。
 それがこつなのじゃ。

 原因が観察出来れば消えるじゃろう。
 それを恐れるのはおぬしの心に何か囚われが在るからなのじゃ。
 自分の罪悪感とか、そのような原因が観察できれば消えるのじゃ。

66避難民のマジレスさん:2015/03/09(月) 16:47:19 ID:1DaYyZo60
>>65
>>62 おぬしが悟りを得るために有るのじゃ。
 人の命が無常でなく永遠であれば誰も悟りを得ようとしないのじゃ。
 全ては心が作り出すものであるからのう。

ありがとうございます。
色々検索していたら和尚のまとめサイト結構あるのですね。
お聞きしたいことが結構乗っていたりするのでまずはよく目を通しているところです。
一応ここがわかりやすかったので貼っておきます。
ttp://ameblo.jp/oniosho/

67避難民のマジレスさん:2015/03/09(月) 19:44:27 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんばんは。
いつも、長文お許しください。

『禅と悟り』というサイトで、禅宗における悟りの分析について読でみました。

まず、修行により禅定=サマディを体得し、その上で自らの内側に悟り(=仏性)を探し続ける、悟りとは何かを自らに問いつづける。
おそらく、その問い以外何もない状態で、
己に問い続けても、実感をえられない。
そこで師匠に悟りとは何かと尋ねると、蹴られたり殴られたりして我に返り、その瞬間に悟る。
(これがいわゆる自我が生じる瞬間をとらえたということであり、我に返る以前に悟っていたということに気付いただけと言う意味でしょうか?)
とか、論理的答えのない質問(公案)を延々と考え続けたすえに、自然の音を聞いたり、突発事故に遭遇して我に返り、悟る。
みたいなケースが多いようですが、これらは、「無我」の実感を得ることを「悟り」=(小悟?)と捉えているようで、その先に、鬼和尚のいわれる認識をも滅するという関門があるわけですね。
(@@公案による自らへの問いかけは、止観の観の一部みたいなものなのでしょうか?)

まずは、サマディを体得できなければ何も始まらないので、何とかしてその無心の実感の継続をまず体得したいと思うのでありますが、
無思考の状態を維持できても、あっ!これがサマディの境地!的な実感まで達するのは、本当に難しいと感じます。
て、言うか、@@あっサマディ!って気付く時点でサマディじゃないのではないかと思考してしまいます。

無我につきましては、私は思考や感情を自分だと感じますが、それらは記憶に基づく観念とその反応に過ぎない、観念に過ぎないものに実体はない。従って自我には実体はないというように理屈を理解してます。
その上で止観により、感情からの解放はある程度実感できましたし、例えば足の痺れ等も、それがあっても以前ほど苦にならないという程度にはなりました。
その程度ではありますが、止観を知る前と今とでは天地の差であります。

けど、その先が困難であります。

公案につきましては、非論理、無意味な問いを問いつづけることにより、思い込み、先入観、観念を破壊し、記憶に基づく思考回路をショートさせ、実態のないものをないものと気づかせるための法なのかなと思います。
@@今の現状で、公案に取り組んでも一層迷路にはまるだけかなと思いやってません。
サマディにも達せず、また、上記のような「公案」についての先入観をもって臨むとしても、公案の問いは瞑想法として有効でしょうか?
もし、有効であるとすれば、おすすめの「公案」がありましたら、いただけないでしょうか?
いずれにしても、信心銘を意味を噛み締めながら暗誦しがんばるであります。
o(`(Δ)´)o

68避難民のマジレスさん:2015/03/09(月) 20:26:53 ID:if4PawNE0
>>65
コツが姿勢にあるというのはびっくりです。
脱力するために筋肉をストレッチしたり、思いを手放し続けることも役立ちそうですが、姿勢をまっすぐにするために、壁に背をもたれてもいいですか?
極限に力を抜くというのは、寝っ転がったり立っていてもいいのでしょうか?
極限に力を抜くコツを教えて下さい。

69鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/03/09(月) 20:46:09 ID:A8LUlyA20
>>66 良かったのじゃ。
 またおいでなさい。

>>67 そのような解釈でよいのじゃ。

 人によっては公案も役立つじゃろう。
 マハリシの言うように「私とは何か」というのが最良の公案と言えるじゃろう。
 思考が自分と思うならば、思考の主体が自分と思うのか、思考する行為が自分なのか、思考の対象が自分なのか、
 追求してみるのじゃ。
 思考は対象が無ければ止まるが、その時自分も泊まっているのかとか観察してみるのじゃ。
 自分が許可しただけ進んでいくじゃろう。

>>68 それも助けになるならばよいじゃろう。
 
 寝てやると本当に寝てしまうのじゃ。
 立っていると倒れたときに危ないのじゃ。

 肩や目から力を抜き、全てを放棄して身を任せるのじゃ。
 そうすれば我の無い境地にいけるじゃろう。

70避難民のマジレスさん:2015/03/09(月) 21:57:34 ID:LC3de7YgO
>>69
鬼和尚、ありがとうございます。
「私とは何か」
瞑想で、思考の少ない状態になり、その状態を維持しようとする意思、その状態を監視している意識が自分だと思います。

ですから、思考の主体、思考する行為、思考の対象の全てが自分と感じています。

ここに、思考や感情は記憶に基づく観念とその反応に過ぎない、観念に過ぎないものに実体はない。従って自我には実体はないという無我についての理解を挟み込んでもよいのでしょうか?
思考の理解を挟むとありのままの観察にならず、いつまでたっても実感は得られないのではないかと思いつつも、であるからこそ、観念の破壊になるのかなと思ったりもします。
 
>思考は対象が無ければ止まるが、その時自分も泊まっているのかとか観察してみる

→この点については、やっぱり、サマディの実感がないとダメでありますね。

早速、今夜からやってみます。
(´・(ェ)・`)/

71避難民のマジレスさん:2015/03/10(火) 04:48:14 ID:if4PawNE0
>>69
鬼和尚様、とても上達した気がします。
ありがとうございました。

72避難民のマジレスさん:2015/03/10(火) 16:58:21 ID:RCao6HPk0
鬼和尚

ラジニーシが言う「実存」(existence)とはどういう事でしょうか。
実存が増すとはどのようなことで、それをするにはどうすれば良いですか。
ご存知でしたらお教え願います。

73避難民のマジレスさん:2015/03/10(火) 20:38:16 ID:zymYeoR20
鬼和尚、
自我を構成する、自分のイメージについてお教えください。
今日観察していて気づいたのですが、例えば「思考をしている自分」というイメージは、毎回全く同じイメージという訳ではなく、思考の内容や状況によって異なるものなのでしょうか?

74鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/03/10(火) 21:15:24 ID:A8LUlyA20
>>70 まだはっきりわかっていないのじゃ。
 さらによく観察してみるのじゃ。
 観察によって自己も明らかになるじゃろう。
 精進在るのみなのじゃ。

>>71 どういたしまして、またおいでなさい。

>>72 オショーのexistenceは存在とも訳されておるのじゃ。
 本当に在るもの、幻想ではなく真に存在するものを表しているのじゃ。
 それは増すことも無ければ減ることも無いのじゃ。
 ただ原初からそうであったように、それであり続けることが出来るだけなのじゃ。
 
 偽りの自我に囚われず、何が本当に在るものなのか心の奥底まで探してみるのじゃ。
 そうすれば確かに在るといえるものが実感できるのじゃ。
 万物がそれによって平等である存在そのものが、おぬしの全てにあると感じられるのじゃ。

75鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/03/10(火) 21:18:44 ID:A8LUlyA20
>>73 そうじゃ、違うじゃろう。
 人は通常、いくつもの自分のイメージを持っているものじゃ。
 社会の役割としての自分とか、最近の自分のイメージと、昔の自分のイメージも違うじゃろう。
 勇ましいことを考えれば勇ましい自分がイメージされ、怖いことを考えれば恐れる自分がイメージされるじゃろう。
 それらが起こる瞬間を観察してみるのじゃ。

76避難民のマジレスさん:2015/03/10(火) 21:27:42 ID:LC3de7YgO
>>74
鬼和尚、ありがとうございます。
がんばります。

(´・(ェ)・`)/

77避難民のマジレスさん:2015/03/11(水) 02:39:37 ID:yxv7O9rE0
鬼和尚、質問です。
思考などが起こる瞬間を観察しようと試みていますが、
速すぎて全く観る事ができません。どんなに頑張っても事後です。

集中の状態とは
例えば、ホームランバッターが調子のいい時は、ボールの縫い目が見えて止まって見えたり、
スローモーションに見えたりするようですが、
鬼和尚のおっしゃる集中状態もこのような状態(頭の回転が速い状態)でしょうか?
それとも別の状態なのでしょうか?

78鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/03/11(水) 21:24:29 ID:L604d5so0
>>76 そうじゃ、精進在るのみじゃ。
 またおいでなさい。

>>77 そうじゃ、集中とはそのような全能力が最高に高まっている状態なのじゃ。
 その時に時速140キロの玉もとまって見え、0.01ミリ単位の精度で道具を操作できたりもするのじゃ。
 達人の超人的な技も日々の修行で培った技術と集中力で可能になるのじゃ。

 その集中力によって0.1秒で起こるという認識も観察できるようになるのじゃ。
 そのためには集中力と観察力を日々高めなければならんのじゃ。

79避難民のマジレスさん:2015/03/12(木) 10:21:42 ID:FqjD2ybs0
和尚、こんにちは。

記憶力について教えてください。
本を読んでも次の日になると、内容のほとんどを忘れています。
開くと「ここまでは読んだなー」ということは覚えているのですが、
内容に関してはうろ覚えもいいところです。
こんなものでしょうか?

アーナンダさんに限らず、文字として残す習慣がない時代は
みなさん記憶力が良かったと聞くのですが、やはり集中力の違いでしょうか。


あと悟った人は夢を見るのでしょうか?

よろしければ教えてください。

80避難民のマジレスさん:2015/03/12(木) 15:08:15 ID:yxv7O9rE0
>>78
鬼和尚
集中の状態がどういう状態なのか理解出来ました。
お答えいただきありがとうございました。

81鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/03/12(木) 21:24:52 ID:CrN/Jzuk0
>>79 それは集中というより記憶力が問題のようじゃ。
 記憶が残らないのじゃな。
 人は自分が本当に必要としない情報や関心の無いことは覚えようとはしないものじゃ。
 自分の本当に関心の在ることが書いてある本を読んでみるとよいのじゃ。
 メモとかも書いてみるとよいのじゃ。

 悟った者はもう夢を見ないのじゃ。
 常に意識が目覚めているからのう。

>>80 どういたしまして、またおいでなさい。

82避難民のマジレスさん:2015/03/12(木) 22:27:32 ID:6/.a4TM20
悟った人は夢を見ない、常に意識が目覚めているとのことですが、
実際に眠っているときはどのような感覚なのでしょうか
意識を保ったまま寝る練習も修行になりますか

83避難民のマジレスさん:2015/03/13(金) 10:05:27 ID:FqjD2ybs0
>>81
お返事ありがとうございます。

>人は自分が本当に必要としない情報や関心の無いことは覚えようとはしない。

たぶんこれが原因なのかもしれません。
一時は知識欲に駆られていろいろな本を読み漁っていたのですが、
そのような知識のほとんどが妄想の産物だと思いはじめたあたりから本を読むことも減りました。
娯楽小説にしろ仕事の専門書にしろ、
読んでいても昔みたいにのめり込めない状態です。

>自分の本当に関心の在ることが書いてある本を読んでみるとよい

仏教や瞑想系の本もよく読んでいたのですが、
これらも実践して体験しないことには絵空事であってどうにもならないことに気づいたあたりから
あまり読まなくなりました。
前までは8:2の割合で読書8だったのですが、今では実践8になっている状況です。
ですがそれに比例するように、本の内容が頭に残らなくなっているような感じです。
理解できないということではなく、たんに覚えていないという具合です。

たぶんですが、知識=瞑想の邪魔、というプログラムが脳内で組まれてしまい、
本などを読んでいるときに瞋りが生じているのだと思います。
これらは割り切っていくしかないのでしょうか?
なにかよい心持ちの方法があれば教えていただけないでしょうか。

>悟った者はもう夢を見ない

やはりそうなのですか。
夢はダイレクトに思考と同一化しているので、悟っている人はどうなるんだろうと疑問に思っていました。
謎がとけてすっきりしました。

84避難民のマジレスさん:2015/03/13(金) 18:21:02 ID:LC3de7YgO
>>74
鬼和尚、こんばん。
「私とは何か」
もう一度観察してみました。
1)
前回>瞑想で、思考の少ない状態になり、その状態を維持しようとする意思、その状態を監視している意識が自分だと思います。

今回)意思は背景にあるだけで、観察時に自分だと感じられるものには、ふくまれないのかもしれない。
監視している意識が自分だと感じる。

2)
前回>思考の主体、思考する行為、思考の対象の全てが自分と感じています。

今回)まず、思考が少ない状態という、思考の対象(=脳内の状態?)が自分だと感じ、次に、その状態を監視している行為(=思考行為)が自分だと感じ、そのような対象を監視している、行為者=思考の主体が自分だと感じる。
(´・(ェ)・`)ゞ

85避難民のマジレスさん:2015/03/13(金) 19:39:49 ID:LC3de7YgO
>>74
先ほどの書き込みのあと30分ほど座ってみたところ、チョピッと違う観察結果であります。
まず、
A),思考の対象はそれが自分の脳内の状態であっても、瞑想中にそれが自分と強く感じられるものではない。
次に、
B),その状態の監視行為(=思考行)為は、必ずしも自分の行為と強く意識されていないときもある。
ただ、
C),思考の対象(A)思考行為(B)を行っている主体は自分だとという意識がのぼった時には、強く自我を感じる。
で、主体を意識しないときに自分はないかと尋ねると、確かに自我は薄らぐが、今度は思考行(=監視行為)自体が、「行為をしてるのは自分」と主張してくるように感じますが、これは切り離せそうな気もしました。
(´・(ェ)・`)ゞ

86鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/03/13(金) 21:12:40 ID:CrN/Jzuk0
>>82 寝ている体に気付いているのじゃ。
 起こされれば直ぐに起きるのじゃ。
 
 深い瞑想の境地は睡眠の意識と同じなのじゃ。
 深い瞑想に入れるようになれば、意識を保ったまま寝ているのと同じなのじゃ。
 
>>83 本当に覚えておきたい本の内容ならば、覚書を作っておくとよかろう。
 読みながら大事なところはメモして置くのじゃ。
 そんなに大事でなければ書かなくてもよいのじゃ。
 書いておけば自然に頭の中で整理することもできるのじゃ。

>>84>>85 よい観察なのじゃ。
 そのように観察によって自分と自分でないものに気付くことが、修行の本道なのじゃ。
 さらに精進在るのみなのじゃ。

87避難民のマジレスさん:2015/03/13(金) 21:28:21 ID:LC3de7YgO
>>86
鬼和尚、ありがとうございます。がんばります。
(´(∀)`)/

88避難民のマジレスさん:2015/03/13(金) 22:22:42 ID:FqjD2ybs0
>>86
和尚、ありがとうございました。

今の自分にとって大事なことを吟味しつつ、
読書や実践を進めていきたいと思います。

89sage:2015/03/14(土) 05:07:21 ID:AVW/vtMM0
鬼和尚

随息観をやっています。
呼吸に自分の作為を加えず、腹の膨らみなどに意識を向けてやっています。

調子が良いときは、自分が呼吸をしているのではなくて、呼吸がそこにただ在るように感じられます。

和尚が言っていた「今ここに自分が在る」という感覚はこれとは違うものでしょうか。

90鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/03/14(土) 21:03:31 ID:u3vaJijs0
>>87 どういたしまして、またおいでなさい。

>>88 そうじゃ、精進在るのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>89 そうじゃ、そのように観念が無く、今起きていることだけに集中している状態なのじゃ。
 人は観念によって過去を思い、未来のことを予測して不安に陥ったりしているのじゃ。
 それも過去の記憶を反復しているだけであるのにのう。
 そのような思いが止まれば今ここにあり、不安も無いのじゃ。

91避難民のマジレスさん:2015/03/15(日) 15:33:15 ID:s49Oa/N.0
鬼和尚

鬼和尚が1番良いと思う覚者は誰ですか?オショー?

92鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/03/15(日) 21:24:22 ID:CrN/Jzuk0
>>21 お釈迦様が一番じゃな。
 誤りもあったが鬼のような智恵なのじゃ。

 オショーは知識が多かったが政治に口出し過ぎたのじゃ。
 修行とは関係はないのにのう。
 それは智恵ではないのじゃ。

93避難民のマジレスさん:2015/03/16(月) 18:26:58 ID:SlB5RJYc0
鬼和尚
親が飼い猫を車でひき殺してしまいました、その時猫が死んでいく光景をもろ見てしまい
そのショックで以前あったパニック障害的な症状がでてきてしまいました、それで強固に自我に執着してしまいます
観察の瞑想でその時の光景に対する執着を消そうとしましたが、ショックが大きくて観ることすらできません
どうすればいいでしょうか?忘れていくのを待つしかないでしょうか?

94鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/03/16(月) 20:52:53 ID:CrN/Jzuk0
>>93 それを嫌がったり、恐れたりしている自分の心を観るのじゃ。
 その時の光景に対する執着を消そうとか、しなくてよいのじゃ。
 先ずはそれが自分の心にどのような苦をもたらしているのかを、ありのままに観るのじゃ。
 それから苦を滅するために原因を探すのじゃ。

 最初にどのような苦があるのかわからなければ、原因を探すことも出来ないのじゃ。
 観察は自分の心をありのままに観ることから始まるのじゃ。

95避難民のマジレスさん:2015/03/16(月) 21:36:50 ID:SlB5RJYc0
>>94
分かりました、ありがとうございます

96鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/03/17(火) 20:39:49 ID:CrN/Jzuk0
>>95 どういたしまして、またおいでなさい。

97避難民のマジレスさん:2015/03/17(火) 20:59:18 ID:5wE33YmY0
鬼和尚様
奇跡講座(コース・イン・ミラクル)という書籍があるのですがご存知でしょうか?
もしそうであるならば、所見をお聞かせくださいませ。

98避難民のマジレスさん:2015/03/18(水) 01:56:34 ID:QbMSDc4s0
イメージと妄想の違いはどこにあるのでしょうか?

99避難民のマジレスさん:2015/03/18(水) 07:01:55 ID:0G6upaVg0
>未だはっきりわからないから漠然と主体の対象が自分と思うのじゃ。

正直ですねw
わからないでしょう、座禅をやってでもね。
座禅で仏陀と同じ境地になれなかったのでしょ?
難しいですね。
つか釈迦が座ったのはその前の何教でしたっけ?

自分で悟り、平坦な境地になる努力はやりもせず
とやかく言いませんが悟った詐欺だけはね。
なんか抗ってませんか?

>>93
私は猫を轢いたことがあります。
今でも思い出します。
でももっところしてた事に気づかないんですよね。
猫をひき殺して自分はわかった。
あなたは蟻を踏んでころしたことがないですか?
雨が上がって出てきた虫たちをころさぬようにと雨上がりは
外出もしないとか出来ますかね?
つか何を食べて自分らは生かされてますかね?
命を頂いてますよね。
人間だっていろんな細菌やらに感染してしんだり。
病気はもちろん災害でも死ぬ時は死ぬ。
自分の思うようにはいかないのは他の生けるものと同じではかない命です。
悟ったというなら救ってほしいですよ。
なので南無阿弥陀仏です。

100避難民のマジレスさん:2015/03/18(水) 11:08:20 ID:if4PawNE0
鬼和尚、佐々井秀麗というインド仏教の最高峰をご存知でしょうか。
彼曰く、貧しい民衆を救い、権力と戦う仏教を標榜しておられるんですが、そもそも仏教自体戦いや対立を否定していると思います。
弱者を救うヒーローみたいで格好良さもありそうですが、どんな戦いでもそういう対立の中に好んで参加するのはこの世の幻想に執著しているからではないでしょうか?
このような思想は現実主義的で唯物論が大半を占める大衆にはそぐわないのでしょうが、弱者を救う名目であっても戦いは悟りとは無関係だと思うのですが。

彼に限らず悟りを端から放棄し、無為を説く現代の曹洞宗のような原始回帰主義の修行、また武道など一芸に秀でることは悟りにとって大切なことなのでしょうか。
悟りは心で為されるものだという立場からすると、武道とか無心を極めることはエゴのいいなりになっていることじゃね?という疑問を解消して下さい。

101避難民のマジレスさん:2015/03/18(水) 11:55:41 ID:QMm34KcU0
>>99

>未だはっきりわからないから漠然と主体の対象が自分と思うのじゃ。

正直ですねw
  ・・・・・・

それは >>99 さんの読み間違いだよ。

「未だはっきりわからないから」というのは鬼和尚のことではなく、質問者のことだよ。

102鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/03/18(水) 21:34:44 ID:.kEwpk1U0
>>97 キリスト教と不二一元論と心理学の合成じゃな。
 心理学の技で思い込みを排除するからキリスト教徒には本当に奇跡に思えるのじゃろう。
 つぼを買わされない様にするのじゃ。

>>98 現実と離れたイメージは妄想といえるのじゃ。
 しかしイメージになった時点でもはや現実とは離れている故に、全てのイメージは妄想とも言えるのじゃ。
 人とのコミュニケーションの上では言葉とイメージを使用しなければいかんから、現実としてイメージも扱うのじゃ。

>>99 先ず日本語をちゃんと勉強するのじゃ。

>>100 そうじゃ、社会を良くするために活動するものは大抵自分の欲求から活動する故に、かえって混乱をもたらすものじゃ。
 
 そのようなエゴも自らの道を究めるために使うならば、悟りへ導かれることも在るものじゃ。

103避難民のマジレスさん:2015/03/18(水) 22:35:33 ID:xQpuWLEM0
鬼和尚さん

鬼和尚さんはダンマパダにあるように、善悪二元論を説きますが、
悪を憎む、悪を裁くことも、自我を強化して慢心を強めますよね?

ですから、オームなどのカルトみたいな行為は絶対に駄目であるが、
裁いたり、憎んだりすると、心に悪い影響があるのじゃと伝えて欲しいです。

自我の習慣として、分別して裁くこと、非難することで、慢心を強め、
悟り、いまここから外れる、という性質がありますよね。

空観で善悪はなく、全てはあるがままである、ということと、
仮観で、物事には善悪があるの両方の視点が必要だと思うのです。

善悪はダンマパダやお釈迦様の言葉で分かりますね。妙観察智です。
でも悪を裁くのも悪ですよね。これが難しいところです。

悪を裁く、正義という言葉は人を悪魔にする時があります。戦争を
やめさせる為に戦争して人を殺す、これは善ではありませんね。

善悪を明確に区別する、因果を説くことと、同時に赦し、観察することも
必要ですね。これは内面の作業です。行動としては、カルトは駄目だ、戦争も駄目だ
と言えなければいけません。

しかし、内面的には、心を観察して、憎しみ、裁き、怒りを修行者は
常に気をつけなければいけませんよね。どちらかに偏ると、裁くことで
悟りを失う、裁かないことで、適切な行為が出来ないとなります。

カルトの間違いは、正義という大義名分に悪を正当化することです。
オウムもそうでした。しかし、オウムを裁くもオウムに近づく行為です。
勿論、カルトを赦して、放置して何もしないも駄目ですね。

悪は絶対に駄目だ。だが、悪を憎むことも悪と同じだ。我々は
悪を赦し、真の平和を説かなければいけない。そう思います。

修業者は、とにかく慢心を起こしやすいのです。私もそうです。
善行する場合も、私は善いことをしているという思いが自我を強化
しますね。

ですから、これからの修行者には、余すことなく、伝統的な教えに
更なる、注意事項を付け加えなければ、完成までいくのは大変です。

善行にも、落とし穴がある。ダンマパダの解説だけでは不十分なんです。

104避難民のマジレスさん:2015/03/18(水) 23:05:54 ID:5wE33YmY0
>>102
奇跡講座は、真に受けるべきほどの価値は持たない書物ということですね。
ありがとうございました。

105避難民のマジレスさん:2015/03/18(水) 23:57:45 ID:/.NwsyGc0
>>102

>>98 現実と離れたイメージは妄想といえるのじゃ。
 しかしイメージになった時点でもはや現実とは離れている故に、全てのイメージは妄想とも言えるのじゃ。
 人とのコミュニケーションの上では言葉とイメージを使用しなければいかんから、現実としてイメージも扱うのじゃ。

お答えいただきありがとうございました。
イメージも妄想も大して差はないのですね。
イメージトレーニングのつもりが妄想しているだけなのかって時々思うことが
あったのですが特に気にしないようにします。

106避難民のマジレスさん:2015/03/19(木) 19:32:52 ID:if4PawNE0
>>102
はは、ありがとうございます。
エゴを活かして悟った覚者を教えて下さい。

あと、修行は人生に制約や規律を設けますか?
心の観察が進むと人生も変わってくるんだと解釈してますが、それまでは俗世で自由に振舞っていいですよね。
よく覚者は、悟りは今しかないといいますが、これって悟った人のものの見方であって、僕のような凡人にはまだ分からんことじゃねーかと思うんです。
この世は幻、悟りは今今!と言われても、俺は今働いて食べにゃ悟る前に死んじまうんです。
ただ徒然なるままに自分の勘に従って人生楽しみたいのですが、悟りに支障きたしますか?
自由に生きてく中で心の変性と共に自然な形で悟りへ向かいたいなぁ。

107鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/03/19(木) 20:03:32 ID:nSH.QL9Q0
>>103 おぬしがそのように気付いているならばそれで大丈夫じゃろう。
 後は自分自身の心を観察することに専念するのじゃ。
 いかなる見解にも囚われずに進むのじゃ。

>>104 どういたしまして、またおいでなさい。

>>105 そうじゃ、イメージもまた修行に役立てるために使うべきものなのじゃ。
 効果があれば使い続ければよいのじゃ。
 精進在るのみなのじゃ。

108避難民のマジレスさん:2015/03/19(木) 22:49:44 ID:FqjD2ybs0
和尚、こんにちは。

思考と同一化してしまっている時に、
思考していることに気づけば今に生きていることになる、
ということを本で読んだのですが、

瞑想中、思考に気づいている時に、
気づいているのもまた思考ではなかろうか、
という思考に気づいてループしてしまうことが多いです。

気にせずに気づきつづけておればよいのでしょうか?

109避難民のマジレスさん:2015/03/20(金) 01:44:39 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんばんは。

以前、鬼和尚に2ちゃんで前世を見ていただいた際に、教師だか宗教家だか、聞きなれない漢字の仕事だったと教えていただきました。

今も、同じように見えますでしょうか?

私は、現在ピンチであります。

瞑想実践のお陰で、精神的には落ち着いているのでありますが、本来であれば、不安に苛まれていてしかるべき、状況であります。

鬼和尚は、前世だけでなく、未来も見えるのでしょうか?

もし、見えるのなら、私はこのピンチを脱することができるでしょうか?

(´・(へ)・`)ゞ

110鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/03/20(金) 20:32:22 ID:nSH.QL9Q0
>>108 そうじゃ、気付いた瞬間は思考は働いていないのじゃ。
 それを言葉やイメージにして観念を抱けば思考になるのじゃ。
 気付きの瞬間が多くなればそれも判ってくるじゃろう。
 気にせずそのまま進めばよいのじゃ。

>>109 できるのじゃ。
 全ての問題は心から起こるものじゃ。
 心が動揺しなければ必ず道は見つかるのじゃ。
 そしてどのような結果になっても心が不動ならばそれで良いのじゃ。
 全ての仕事は心を満足させるためともいえるのじゃ。
 諦めたり、自分は失敗したと心によって思わなければ、既に成功しているのじゃ。

111避難民のマジレスさん:2015/03/20(金) 21:13:34 ID:356Ygcco0
鬼和尚さま >>106へのお返事もよろしくお願いします。

112避難民のマジレスさん:2015/03/20(金) 21:52:38 ID:LC3de7YgO
>>110
鬼和尚、ありがとうごさいます。

>心が動揺しなければ必ず道は見つかる
>どのような結果になっても心が不動ならばそれで良い
>諦めたり、自分は失敗したと心によって思わなければ、既に成功しているのじゃ。

全ての言葉が心にしみます。

現実を受け入れることを、諦めではなく、新たな展開への好機ととらえ、不動心でがんばるであります。
o(`(^)´*)

ありがとうございます。

113避難民のマジレスさん:2015/03/20(金) 22:33:25 ID:if4PawNE0
>>110
鬼和尚さま、>>106への教えをよろしくお願いします。

114避難民のマジレスさん:2015/03/21(土) 10:54:37 ID:FqjD2ybs0
>>110
和尚、ありがとうございました。
引き続き実践に励みます。

115鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/03/21(土) 21:21:22 ID:nSH.QL9Q0
>>111>>113 すまんのう見落としていたのじゃ。
 >>106 お釈迦様もそうじゃろう。
 老病死をなくそうとするエゴを活かしたといえるのじゃ。
 
 無いのじゃ。
 自由なのじゃ。
 賢い者ならば何をしてもやがては老病死によって人の生活は終わると知れるからのう。
 無常への気づきが人を悟りへと導くじゃろう。

>>112 どういたしまして、またおいでなさい。

>>114 そうじゃ、実践あるのみじゃ。
 またおいでなさい。

116避難民のマジレスさん:2015/03/22(日) 14:30:47 ID:if4PawNE0
>>115
ありがとうございます。
人生は自由…鳥になってみたい気分です。

ラマナ・マハリシは「自分とは誰か?」と問いかける、真我探求を勧めています。
鬼和尚さまの心の観察とは別の道で悟りに向かっているように思えるのですが、悟りの道は人それぞれなのでしょうか?
それとも真我探求と心の観察は同じものなのですか?

117鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/03/22(日) 21:38:15 ID:nSH.QL9Q0
>>116 観察とは自分を観るためのものなのじゃ。
 そのためには自分とは本当は何なのか求めなければならんのじゃ。
 自分を追及し、自分を観るのであるから結局は同じなのじゃ。

118避難民のマジレスさん:2015/03/22(日) 21:45:42 ID:if4PawNE0
ああなるほど。自分の内側を掘り下げていくことは自分を観ることなのですね。
鬼和尚さまの止観法と真我探求のギャップが無くなりました。
貴重な教えをありがとうございました。

119避難民のマジレスさん:2015/03/23(月) 19:18:56 ID:N8nCcGsw0
鬼和尚様

行において、数息観ではいくらか進歩らしき手ごたえはあるものの、
観察となるとさっぱりという段階の者です。
最近、鬼和尚様の説く空観を試したところ、己の手のひらが見慣れぬ
異様なものとして現れ、自分には空観が向いているのかも知れないと
考えるのですが、この時は見ることに異常に集中してしまい、後で目
が痛くなるほどでした。
空観とはこんなに疲れるものなのでしょうか。何かアドバイスがあれば
よろしくお願いします。

また、天台小止観を最近再読しているのですが、鬼和尚様の天台小止
観評をお聞かせいただければ幸いです。

120鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/03/23(月) 20:52:45 ID:nSH.QL9Q0
>>118 そうじゃ、自分を観察することこそ真の修行なのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>119 それでよいのじゃ。
 一度できればそんなに疲れずにできるようになるじゃろう。
 スポーツなどで難しい技をするのと同じなのじゃ。
 一旦できるようになれば、後はこつがわかって楽にできるのじゃ。

 小止観は集中はよいが、観察がすでに失われているのじゃ。
 観察は微妙でわかりにくく、自我の抵抗があるから真に困難になるのじゃ。

121避難民のマジレスさん:2015/03/23(月) 23:29:40 ID:SU1Qc6nM0
>>120
ご指導、ありがとうございます。道を示していただくことは
大変励みになります。
このまま実践を続けていきたいと思います。

小止観評もありがとうございました。

122119:2015/03/23(月) 23:39:15 ID:SU1Qc6nM0
>>121に119と名前を入れるのを忘れてました。
すいません。

123鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/03/24(火) 21:22:13 ID:nSH.QL9Q0
>>121 そうじゃ、実践あるのみじゃ。
 またおいでなさい。

124避難民のマジレスさん:2015/03/25(水) 18:54:26 ID:if4PawNE0
鬼和尚が好きな、又は今興味のある映画や小説などあったら教えてください。

125鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/03/25(水) 20:42:26 ID:nSH.QL9Q0
>>124 もはや創作されたものにはあまり興味はないのじゃ。
 お経とか電気とか歴史などが興味があるのじゃ。
 真実がわかるからのう。

126避難民のマジレスさん:2015/03/25(水) 21:16:50 ID:if4PawNE0
>>125
>お経とか電気とか歴史などが興味があるのじゃ
お経はまだ分かるのですが、電気や歴史というのは意外です。
電気じゃなくて伝記ですかね?一つ何か興味深い歴史のエピソードやストーリーをお聞かせ下さいませ。

127避難民のマジレスさん:2015/03/25(水) 23:22:44 ID:6/.a4TM20
>>125
ということは、音楽やその他芸術にも興味はなくなるのですか
ただ起きていることを体験しているだけで納得してしまう状態ですか

128鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/03/26(木) 21:13:19 ID:VNZDIcc.0
>>126 そうじゃ、伝記なのじゃ。
 お釈迦様はアナンダといういとこの付き人とともに布教のたびをしていたのじゃ。
 アナンダはイケメンであったのじゃ。
 元王子とイケメンの付き人のコンビはどこにいっても人気であったのじゃ。
 そのために布教も成功したというのじゃ。
 イケメンが語ることは信用されやすいというのじゃ。
 それもお釈迦様の知恵であったのかもしれん。

>>127 そのようなものじゃ。
 修行の役に立つ癒しの音楽などはよく聞いてみるのじゃ。
 人にも薦められるものを探すのじゃ。

129避難民のマジレスさん:2015/03/27(金) 18:27:26 ID:if4PawNE0
>>128
イケメンはいつの時代も正義なんですね。
イケメンになるにはどうしたらいいですか?

130鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/03/27(金) 21:26:18 ID:VNZDIcc.0
>>129 美容整形とかをしてもよいのじゃ。
 映画のイケメンの仕草とかをまねしてもよいのじゃ。
 実際にまねしていると本当に似てくるものじゃ。
 心の持ちようで顔かたちさえ変わっていくのじゃ。
 リンカーンは男も40過ぎたら自分の顔に責任を持たなければいかんといってのはこのことじゃ。

131避難民のマジレスさん:2015/03/28(土) 03:24:02 ID:if4PawNE0
>>130
イケメンになって女性にモテたいです!
修行してまた戻ってきます。ありがとうございました。

132避難民のマジレスさん:2015/03/28(土) 21:00:25 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんばんは。

無門関第27則:不是心仏 

南泉和尚、因みに僧問うて云く、「還(かえ)って人の与(た)めに説かざる底の法有りや?」。
泉云く、「有り」。
僧云く、「如何なるか是れ人の与(た)めに説かざる底の法?」。
泉云く、「不是心(ふぜしん)、不是仏(ふぜぶつ)、不是物(ふぜもつ)、」。

や、

碧巌録28則;南泉不説

百丈涅槃和尚が南泉に、「還(かえ)って人の与(た)めに説かざる底の法有りや?」と問い、
南泉は「不是心、不是仏、不是物、某(それ)甲(がし)はただ恁麼(いんも)」と答えた。
これらは、ともに、
我々の本性としての「本来の面目」は心でもない、仏でもない、ものでもない、
何とも説きようのないものだと言っていると考えられる。と説明されるようです。

禅 においては、一方で「無我」「不二」としつつ、他方で、 「真の自己(=自己本来の面目)」をあらためて問い直した上で、「真の自己」は言葉で表現できないものであるという結論を導くのは。

結局、「真の自己(=自己本来の面目)」などというものなど言葉で表現できないだけではなく、そもそも、無いのである。「無我」「不二」であると言うことを言ってるのでしょうか?

(´・(ェ)・`)ゞ

133鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/03/28(土) 21:28:37 ID:CWpZ2vpI0
>>131 どういたしまして、またおいでなさい。

>>132 そのようなものじゃ。
 心とか仏とかものとかも言葉で説けば全て観念になり、嘘になるのじゃ。
 自ら到達して言葉が本当であったと証明することが出来るだけなのじゃ。
 
 真の自己とか無我とかも自ら体現しなくては無意味なのじゃ。
 例えば四万十川に行ったことの無いものが、かわらの石は白いとか南にあるというようなものじゃ。
 無我になることも、真の自己を追求することも虚しい事ではないが、悟りに到達していないものには観念にしか過ぎないのじゃ。
 そのようなことを語っているのじゃ。

134避難民のマジレスさん:2015/03/28(土) 22:17:37 ID:LC3de7YgO
>>133
鬼和尚、ありがとうございます。

最近、瞑想が徐々に深まり、集中する意識も薄まり、無思考の「質(?」の純度が高まってきて、途切れ、ふっと「雑念」がわく。
その「雑念」の見えかたが、睡眠中の「夢」のように一瞬見えたのです。

何等大袈裟なことではなく、とるに足りないことではありますが、そんなことがありました。

(´(∀)`)/

135鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/03/29(日) 20:34:33 ID:CWpZ2vpI0
>>134 そのようなことが大事なのじゃ。
 それが気づきなのじゃ。
 雑念が起こる.瞬間を観ることでそれとの自己同一化が滅するのじゃ。
 観察の対象として観えるということは、それが自分ではないからであるからのう。
 
 深い瞑想の中ではそのような微妙な心の働きが観える故に、瞑想が必要なのじゃ。

136避難民のマジレスさん:2015/03/29(日) 23:33:22 ID:LC3de7YgO
>>135
鬼和尚、ありがとうございます。

>雑念が起こる瞬間を観ることでそれとの自己同一化が滅する
  
>深い瞑想の中ではそのような微妙な心の働きが観える

確かに、観察力がついて来ていると思います。
瞑想中だけでなく、睡眠中でも、潜在意識が見ている映像により示唆される「チエ」の片鱗みたいなもの(?)を感じ取れるような気がする時もあります。

(´・(ェ)・`)/

137避難民のマジレスさん:2015/03/30(月) 09:36:44 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、おはようございます。

>>135
>そのようなことが大事 とご指摘いただきはじめて思ったことではあるのですが、
雑念が睡眠中に展開される「夢」のように見えたと言うことは、あともう一歩で「観照」に至るところまで近づいているのではないか?と期待が高まります。
勘違いでありましょうか?

仮に観照が起こり、自我を滅し、無我の実感に至ったとして、その時点で残る自我のものならざる「意識」は、遍在する意識、全体の意識 (普遍性の中に溶け込むような意識みたいなものかなとイメージしてるのですが)のように感じられるものなのでしょうか?
それとも、「意識」を滅するまでは、「無我」の実感あってもなお「個」に残る意識みたいな感覚なのでしょうか?

てな、ことを思考しだすとまた道は遠のくような気もするでありますが、チョピッと気になりました。

(´・(ェ)・`)ゞ

138避難民のマジレスさん:2015/03/30(月) 09:51:19 ID:k1LksTJ.0
意識の正体は自己参照ループだという説がありますが本当は何ですか?

139鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/03/30(月) 20:36:13 ID:VNZDIcc.0
>>136>>137 そのように瞑想が深くなれば気づきも増えるものじゃ。
 恐れが無ければ観照が起こる時も近いじゃろう。
 観照とは自我に気づくことであるからのう。

 無我になっても認識があればまだ世界はあるじゃろう。
 行いもあるじゃろう。
 認識も滅すれば世界は無く、行いも無いのじゃ。
 分別がなくなる故に、一切は夢幻と気づくのじゃ。

>>138 その意識というのが自我のことならば、そう思うじゃろう。
 今の自分を見ている自分があり、その自分を見ている自分と無限遡及が起こるものじゃ。
 しかし本当は次々に記憶を見ているだけなのじゃ。
 そのような循環が自我の認識を固定化させるのじゃ。
 意識そのものは言葉で表す何ものも無いのじゃ。

140避難民のマジレスさん:2015/03/30(月) 21:04:58 ID:LC3de7YgO
>>139
鬼和尚、ありがとうございます。

>無我になっても認識があればまだ世界はある
→無我かつ認識があって見る世界は、自我がない世界でありますから、世界は一つと認識されるのでしょうか?

>認識も滅すれば世界は無く、行いも無い
分別がなくなる故に、一切は夢幻


その時、菩薩の誓願がなければ、ただ一つの意識に帰するのみであり、誓願があれば、その誓願の限りにおいて、今の鬼和尚のように存在するのでしょうか?

私は、今まで以上に恐れはありません。
どうか、鬼和尚、お力をお与え下さい。

o(`(へ)´*)o

141避難民のマジレスさん:2015/03/31(火) 21:01:31 ID:WjNAd/8g0
鬼和尚、
自我を観察しようとするときに生じる恐れを、苦滅により厭離したいと思います。
恐れの原因には、例えばどのようなものがあり得るでしょうか?
また、他になにかヒントや注意点がありましたら、お教えください。

142鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/03/31(火) 21:17:50 ID:VNZDIcc.0
>>140 そうじゃ、自我があれば自分のものと、自分のものではないものがある世界があるのじゃ。
 自分のものといっても人や物体だけではなく、社会とか国家とか、ものの見方とか思想信条主義主張も自分のものと自分のものではないものとしてみるのじゃ。
 そこに他のものへの恐れとか敵対心とかが生じるのじゃ。
 無我になれば自他のものへの区別が無くなり、世界は一つと見えるのじゃ。

 請願によるものも居るが、お釈迦様のように請願が無くとも法を説くものもおるのじゃ。
 お釈迦様は王子であったから民を導く慈悲があったのかもしれん。
 ありがたいことじゃ。

 がんばるのじゃ。
 わしがついてるのじゃ。

>>141 一番あるのはそのまま自分が消えるという恐れなのじゃ。
 自我が自分と思っていれば、自分が消えるという恐れも湧くじゃろう。
 それは死の恐れと同じ自己消失の恐れなのじゃ。

 自分を知識としてみるならば知識を失う恐れもあるじゃろう。
 今まで蓄えた知識に執着し、それを失う恐れが沸くのじゃ。

 感情や感覚を失う恐れもあるじゃろう。
 自我を感覚や感情の主体として認識していれば、それらを失う恐れも湧くじゃろう。
 このように自分が主として自分と感じるものにより、恐れも違うものとなるのじゃ。
 その恐れを知ることそのものが自我を知る助けになるじゃろう。


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