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質問です
1
:
blue
:2007/01/01(月) 17:07:41
教会には通わず、インターネットで礼拝を守っている者です。
祈りに関して質問させていただきます。
身近な人が病気になり、直るように祈ったとしても、病状が悪化して、天に召されるということがありうると思いますが、そのような場合、クリスチャンは神の意思をどのように解釈すればよいと思いますか?
また、それとは別に、いくら祈っても、神が沈黙するということもいままであったのですが、そのような場合、神はどのような意思をもって沈黙しているのかと解釈すればよいでしょうか?
どなたかご回答宜しくお願いします。
2
:
ソフィー
:2007/01/01(月) 17:08:23
こんにちは^^blueさん。書き込みありがとうございます。
私は神さまは、祈りを聞くと一緒に、私たちの心に共感してくださるとおもうんです。
あしあと、という詩に次のような話があります。
「神さま、私がもっとも辛かったときに、あなたはどこにいたんですか?」と質問して、
神さまは次のように答えました。
「あなたが最もつらいとき私はあなたを背負って歩いていた」。
祈りは、心のありのままの自分の願いを神さまに届けると同時に、
それが、届かない(神が沈黙している)時があります。
私は神さまは、沈黙しているのではなくて、神さまは共に気持ちを理解してくれているんだと想います。
さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っ
ておられた(マルコ1:35)。
イエス様自身も、どんなときも、神さまとの関係を大事にしていました。
1分でも、10秒でも大丈夫です。どんなに忙しいときも、神様の時間の中に、
私たちはいます。
答えになっていなくて、ごめんなさいTT
3
:
ソフィー
:2007/01/01(月) 17:09:03
あしあと
ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」
マーガレット・F・パワーズ
translation copyright(C)1996 by Pacific Broadcasting Association
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