このスレ、まだ結論を出してなかった?
ザメンホフ生誕150年も終わったし、ちょっと検討しましょうか。
本人の文から探すと Michaux への手紙(1905. 2.21)に
Longan tempon en mia juneco mi estis varmega "sionisto" ---
Post 3-4 jaroj de energia laborado por la sionismo mi venis al la konvinko,
ke tiu ideo kondukos al nenia celo kaj tial mi forj^etis tiun c^i ideon,
kvankam en la koro g^i restis por mi c^iam kara, kiel agrabla sed
neplenumebla revo;
とあるのが この間の事情を語っています。「3〜4年熱中したが、実現不可能を
さとって その思想を棄てた」ということですね。さて、その時期は?
彼のシオニズムとの関わりで一番古いのはモスクワ大学時代に
Russkij Jevrej(Rusa Hebreo) に寄稿した "Al altar' de libereco"
(cionista poemo)でしょう。Vivo de Z.(E.Privat)に出ていますが、日付不明です。
彼のモスクワ時代は 1879 年6 月から1881年8 月、これから3〜4年後なら
1882年から1885年の間になる。1881年8月ワルシャワ大学に転入学後も
彼はシオニスト組織 Razsvet, H^ibat Cion にかかわり、内部分裂をまとめる
のに苦労したり(1882)。ワルシャワ大学を卒業して医者になるのは1885年ですが
その前に知り合ったクララは父ジルベルニクにザメンホフの国際語計画を説明、
持参金をもらって1887年の国際語(第一書)刊行、になりました。
この間に彼はシオニズムから離れ、心は民族主義から脱皮して世界の人々の
ための国際語の発表に至ったわけです。 Raku さんの最初の設問に帰ると
1,エスペラント発表前
に なりますね。むしろシオニズムから離れたから国際語の発表が
できたのかもしれません。