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エスペラントの思想と国家権力
143
:
松戸彩苑
:2007/04/15(日) 21:40:34 ID:???
(2) 『ニッポンの終焉』(1993年に講談社から出た文庫判では)49〜51ページ
いっぽう、一四世紀のルネサンスと鎌倉時代から始まる近代文明の特徴は、「集める、
整理する、迅速に応用する」というものとなった。ことの最初から、掛け算の世界を(無
意識であっても)目指していた。そこでは情報が情報を生んだり、情報が自乗されて、
別の情報として集約されたりすることが起きる。結果的かもしれないが、一つ次元が高
いのである。
このため、近代科学が整備される欲求が生まれた。近代科学が振興するしないは、民
族の頭脳の質の問題ではない。必要性の問題なのである。
この文明のスタイルこそ、われわれが一般的なもの、かつ最高のものと思い込んでき
たものであった。だから、ごくごくお馴染みだともいえる。
たとえば、ここには経済的にもよく知られている大きな特徴があって、最終的には統一
的な市場ネットワークが出来上がってきて、そこでこの世のあらゆるものは「商品」とし
て流通するというようなことだ。その市場には、やはりお馴染みの貨幣というものがあっ
て商品の交換にいつでも出動する。商品となるものは、まったく、なんでもであって、そ
れまでいかなる社会でもけっして商品として売り買いされなかった土地も人間の労働力
も売り買いのネットワークに放り込まれる。男の侠気も女の美しい笑顔も、みんな商品
となって現れるのだ。物は、もちろん、全部そうである。
このことに注目して、マルクスは、主著『資本論』を、この世はすべて商品の世界だとし
て記述を始めた。つまり「商品世界」の分析から入るのである。これは、一応、正しい。
だから、『資本論』冒頭の商品と商品の交換や流通を論じる価値形態論は、マルクスの
記述の中で唯一、可能性がある部分である。
しかし、その後、マルクスはとめどもなく論理的な矛盾を繰り返し、物事の根本を次から
次へと隠蔽していく役割を背負う。たとえば、価値と価格が違うこと、労働と労働力も違う
こと、価値は投入された労働量によって決まること、交換の中から貨幣が生まれること
などの主要な命題は、経済人類学が指摘するようにすべてシステムの誤解である。そ
の誤謬は、論理的に初歩的な(思い込みによる)間違いから出発する。『資本論』の冒頭
で、上着とリンネルが交換されると、この違ったものに共通するのは生産に要する投入
労働量の単位だけだとするが、そこでは一つの交換が恒常的に行われうる条件、つまり
統一的市場ネットワークについて触れてもいないのだ。また、欲望の充足度という共通
の基準がありうることについて検討もされていない。これは、論理的ミスである。
それよりも何よりも、今日のもっとも腐敗した人間社会を作ってしまった中国や旧ソ連、
それにカンボジアのポル・ポト派の大虐殺を生んでしまったことに、マルクスおよびマル
クス主義者は責任を取らねばならない。それはいずれもマルクス主義の名のもとに行わ
れたのである。そして、まだそれは南米において発生しうるという不快な予感がある。
ともあれ、それらはすべて、別のもっと一貫した形で、経済人類学によって説明されるこ
とだ。だから、ポランニーによって、また私によって批判されている(もし必要なら、『人間
の経済』岩波書店、『経済人類学』東洋経済新報社、および『幻想としての経済』青土社
を参照されよ。ただ、もうわれわれはマルクスには関心をなくすべきだ)。
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