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聖イエス会待望教会、主の十字架クリスチャンセンター
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作詞:聖イエス会教祖様
1
時の流れははやく 終末は迫り
しののめが近いと みな告げしめす
神の期待に われらは こたえん。
メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。
2
十字架の旗のもと 決意も新たに
いのちにはいのちを 愛には愛を
心燃えたち われらは こたえん。
メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。
3
新しいエルサレム ゴールをめざして
ハシッドの召命 神化の道を
ただひとすじに われらは こたえん。
メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。
4
神のビジョンを見つめ 聖霊に燃えて
新しい歴史と 輝く未来
メシヤの世紀 われらは 開かん。
メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。
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聖イエス会待望教会【聖職者・信徒】参考資料・教材
日本ホーリネス教団 岬教会礼拝 2018/06/17
「地上の星・岬教会」
https://www.youtube.com/watch?v=5XrWh1SvI3M
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聖イエス会待望教会【聖職者・信徒】参考資料・教材
聖イエス会名古屋教会ブログ
「ひびけ鐘の音」
http://blog.nagoyachurch.com/?eid=4486
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聖イエス会待望教会【聖職者・信徒】参考資料・教材
聖イエス会名古屋教会ブログ
「父となるため」
http://blog.nagoyachurch.com/?eid=4483
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聖イエス会待望教会【聖職者・信徒】参考資料・教材
聖イエス会名古屋教会ブログ
「できるかぎりのことをした」
http://blog.nagoyachurch.com/?eid=4485
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聖イエス会待望教会【聖職者・信徒】参考資料・教材
聖イエス会名古屋教会ブログ
「アッバ、父よ」
http://blog.nagoyachurch.com/?eid=4484
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聖イエス会待望教会【聖職者・信徒】参考資料・教材
聖イエス会名古屋教会ブログ
「アッバ、父よ」
http://blog.nagoyachurch.com/?eid=4484
YCC Sunday Service 3 (2018.4.8)
聖書:ルカによる福音書6章35〜38節
特別賛美:
メッセージ:「『アバ・父よ!』の秘密」
https://www.youtube.com/watch?v=TE7Nc5bT6GA
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聖イエス会待望教会【聖職者・信徒】参考資料・教材
聖イエス会名古屋教会ブログ
「父となる旅路」2018年06月17日 (日)
http://blog.nagoyachurch.com/?eid=4482
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聖イエス会待望教会【聖職者・信徒】参考資料・教材
聖イエス会名古屋教会ブログ
「ワレラノムネ アナタノムネト オナジ」2018年06月15日 (金)
http://blog.nagoyachurch.com/?eid=4479
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HCFF2017 2-13 京都キリシタン史 一条戻り橋 日本26聖人殉教のスタート地点
https://www.youtube.com/watch?v=0oj-chsnFao
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HCFF2017 2-17 浦上キリシタン津和野物語
https://www.youtube.com/watch?v=o9_WXkm_XdQ
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聖イエス会待望教会【聖職者・信徒】参考資料・教材
2015HCFF2-5 北陸浦上キリシタン史
https://www.youtube.com/watch?v=wxvxmBtU4nA
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聖イエス会待望教会【聖職者・信徒】参考資料・教材
2014HCFF2-17 江戸キリシタン史
https://www.youtube.com/watch?v=RaBw0XoIMtA
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聖イエス会待望教会【聖職者・信徒】参考資料・教材
京都キリシタン史 元和の大殉教 English
https://www.youtube.com/watch?v=YQ8dBAJt1ok
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聖イエス会待望教会【聖職者・信徒】参考資料・教材
HCFF2016-1-11輝く未来〜Be Ambitius
https://www.youtube.com/watch?v=-Erb3xi0ZJU
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聖イエス会待望教会【聖職者・信徒】参考資料・教材
聖イエス会名古屋教会ブログ
「竪琴よ、琴よ、さめよ」
http://blog.nagoyachurch.com/?eid=4481
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聖イエス会待望教会【聖職者・信徒】参考資料・教材
聖イエス会名古屋教会ブログ
「永遠なるもの」
http://blog.nagoyachurch.com/?eid=4480
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聖イエス会待望教会【聖職者・信徒】参考資料・教材
聖イエス会名古屋教会ブログ
「信徒発見」
http://blog.nagoyachurch.com/?eid=4478
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※聖イエス会信徒さんからの資料提供
〔・・・・・・霊母様〕…聖イエス会聖職者??? 1981/05/
イスラエルのために
〈イザヤ45:4―5〉〈申命6:4―7〉〈詩篇71:17―18〉
1981年5月の年会は、宣教年会と名付けられ、宣教の炎は燃え上がり、
使徒たちはその炎を携えて、各地に遣わされて行きました。100の教会の
実現を目指して。
私にとりまして、特に印象に残りましたメッセージは、「終末時代の使徒に
は特別な使命がある。神様は終末をすべくくる圧倒的、凱旋的リバイバルに我
らを伴い行きたく望んでおられる。それは14万4千のイスラエルに、聖霊を
与えるリバイバル、即ち、いまだかつていかなる教会にも与えられなかった、
栄光に満ちた最後のリバイバルなのである。この重大な使命は御名を与えら
れている者によってのみ全うされる。・・・」と。
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さて皆さん、この終末時代に、御名を与えられている教団がどこにあるで
しょうか。イスラエル民族に御名を印するために選ばれた教団がどこにある
でしょうか。異邦人は神の御名を知りません。しかし、イスラエルは、神の本質、
神のペルソナなる御名を知っております。イスラエルは御名の福音によって
救われます。そうです。イスラエルの救いはそれ以外にありません。
今日私は改めて、「聖イエス会とはいかなる教団なのか」をもっと
深く認識していただきたく願うのです。聖イエス会は大勢の人がより
集まって相談して造った教団ではありません。
「その名をイエスと名付けなさい。彼は、おのれの民をそのもろ
もろの罪から救うものとなるからである。」〈マタイ1:21〉
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聖イエス会は神の言葉によって生まれた教団であります。そして、
聖イエス会は神の言葉を食べながら、また神の言葉の実現を見つつ
成長し、今日に至りました。
私は、この教団の生い立ちを、35年間、せっせと記録して参りま
した。幾たびも病に倒れましたので、十分とは申せませんが、大切な
ことは病床の中にあっても記しておきました。
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神様が聖イエス会にお与えになった重大メッセージは、特にノート
に書きとめて、まず自分自身が幾度もこれを読み、聖霊によって霊魂
の深いところにおいて正しく把握し、自分自身のものにしていただきた
いと切に願いました。テープというものがない時代も、今も代わりなく、
集会の後忘れないうちに、特に大切なことは書き留めておきました。
伝道者は神様から与えられたメッセージを正しく人々に伝えなければ
ならないからです。
立派な日記や、ノートを買うことの出来ない時代もありましたが、
ともかくも小さいメモ帳に記したものや、ルーズリーフに書き込んだ
ものが、沢山たまりました。
一昨年11月7日、古希を迎えましたとき、いよいよ私の生涯も、
あといくばくもないと感じられ、これまで書き留めておいた記録を整理
しておきたいと、その準備をいたしておりましたとき、昨年は嵯峨野
教会30周年を迎え、記念誌を編集することになりました。そして、
年表も加えたいと言うことになり、私がお引受けすることになり
ました。
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さて、日を定められますと、毎日が何か追われている心地がして、
まことにしんどい一年間でございました。昨年は格別いろいろと行
事があり、忙しい年でございましたので、記念誌の編集もなかなか
すすまず、延び延びになっているのを幸に、ときどき息を抜き、
この5月21日、嵯峨野教会30年の歴史の年表がようやく完成し、
編集部に提出することが出来まして、ほっといたしているわけでご
ざいます。記念誌にのせていただく部分はごく僅かなもののようで
すが、一応、大切な記録は書き留めておきました。
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聖イエス会は小さい群ですが、重大な使命を帯びて生まれた教団
です。神の民を救うために、御名を負う教団として立てられている
のです。たとい時代が代わり、指導者が代わるようなことあがあり
ましても、聖イエス会の生い立ち、存在の意義を忘れないように、
つねに原点を見失わないよう大切に願いつつ記しました。
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人間は弱いものです。私は大丈夫、と言える人は誰もおりません。
思いがけないとき、足もとをさらわれ、福音からそれる危険性を
もっております。
この度この記録を調べながら、幾たび、主の愛に涙を流したことで
しょう。キリスト教とは縁もゆかりもない環境に育った私を、この
重大使命のために召し出してくださった神の愛、神の選びの奇すしさに、
ただ驚くばかりでございます。
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それは、異邦の女ルツが、はからずもボアズの畑に足を踏み入れ、
ついにボアズの花嫁とせられ、キリストの系図の中に、名を留められ
る光栄に浴したのと同じようなものなのです。まことに神の契約に
あずかりなき異邦人が、キリストの花嫁とせられ、神の家族、天国の
世継ぎとせられ、神の国建設のため、メシヤの到来のため、大きな
役割を果たすものとせられたとは―――。
またルツがボアズと結婚し、老いたる姑ナオミに男の子を抱かせた
ように、キリストと異邦人が結ばれることにより、老いたるイスラエ
ルにキリストを抱かしめる。
-
そうして、ユダヤ人と異邦人が聖霊によって、両者一体とせられ、
エクレ―シヤが完成せられる。〈エペソ2:18―22〉
なんと尊い選びに預かったことでしょう。まことに神の知恵と知識
との富みは深く、その道は計り難く、主の御心はきわめ
知ることは出来ません。
この重大な奥義を啓示された私どもは、決してこの使命、この福音
からそれてはなりません。それるようなことがあっては、聖イエス会
の存在の意義がなくなるのです。聖イエス会の聖イエス会たるゆえん
を忘れては、味をなくした塩と同様、その存在は無意味であります。
-
神はイスラエル民族を、御自身の栄光のために創造し、経綸の担い
手としてお選びになりました。そして、この民族の末よりメシヤが
出現すると約束されました。神様はそのために、長い世紀にわたって、
彼らを訓練されましたが、誤ったメシヤ思想によって彼らはついに
約束のメシヤを拒否してしまいました。ここに彼らの悲劇があり、
神の痛みがあります。
しかし、今から33年前、地上から全く抹殺され、影も形もなく
なったかのように見えたイスラエルが、その姿を歴史の上にあらわし
ました。アブラハム、またモーセに約束された約束は不変であります。
申命記6:1―9節間でを拝読致しますとき、イスラエルがあらゆる
苦難の中にあっても、選民たる自覚を今もなお持ち続けている秘訣を
ここに見る心地がいたします。
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長い世紀にわたる流浪の民として打ちひしがれ、時にはユダヤ魂を
失ったように見えた人でも、ここに来られて、ひとたび神の言葉が
語られるとき、はっと我に帰り、「今、私はユダヤ人であることを呼び
さまされた」と涙を流され、「私はユダヤ人であることにいつも引け目
を感じていたが、今、わたしはユダヤ人であることを誇りに重う
(思う???)」と告白されるのです。そのような人々に接するとき、
まことにその感を深くします。
それは、彼らの魂の奥底には、生まれた時からの神の言葉が植え付
けられ、蓄えられているからです。アブラハムの信仰は、子から孫へ
と絶えることなく、一筋の清き流れのごとく、受け継がれて来ました。
目には見えなくても、地下水のように幾世紀も流れ続けているのです。
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「わたしの言葉を心と魂におさめ、またその手に着けて、しるしとし、
目の間において覚えとし、これを子供たちに教え、家に座している
時も、道を歩く時も、寝るときも、起きるときも、それについて
語り、・・・」 〈申命11:18―19〉
昨年10月聖会において、ラビー・ルー師のメッセージをお伺いして、
いたく感動いたしました。
「ヨム・キップルの日、ユダヤ人のグループがあるところならどこ
でも、悔い改めと帰還の祈りが聞かれます。この宗教的経験には、
社会的障害物は存在しません。それはすべての地理的境界を超越
します。それは時の限界を越えています。その対話と祈りは、古代からの
ものです。何千年も前、神殿で祭司長と共にあったように、今も私たち
と共にあります。それはあらゆる時代の、あらゆる風土と状況のもとで、
ユダヤ人の宗教的経験を改めて高揚するのです。・・・それは死の展望を
遥かに越えて、人間の究極的な霊的運命をはるかに望み見るのです。
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・・・贖罪の日は、心の点検の日です。・・・真の信仰によって、
ユダヤ人の魂は、1年のうちで、最も聖なるこの日に、霊の高みに
あげられます。・・・贖罪とは神との一致のことです。メシヤの苦しみ
の中に生きている私たちは、一層の悔い改めと、神への帰還の備えを
しなければならない」と強調されました。
現在のイスラエルがいかなる状態であろうとも、神の約束を固く信じ、
その成就をはるか彼方に望み見ている、まことのユダヤ人の姿を
見ました。そして、今なお、旧約に生きるこの民に、すでに成就
された新約の恩寵、贖いの子羊なるキリストを顕示するため、選
びを受けた私どもの責任の重大さを、痛感いたします。
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メシヤの到来を待望しつつ、旧約の律法を厳格に守りながら、
信仰に生きる、選民の姿を通して、多くのことを教えられました
が、幼児に乳房を含ませながら、詩篇(詩編)を歌い、神の言葉
を子や孫に伝えて行った、ユダヤの母親にならい、私どもも、
神の選びをこおむり、神の言葉によって生かされてきたものに
ふさわしく、神の言葉を子や孫に語り伝えましょう。今ある子供
の姿がどうであっても、必ず目覚める時が参ります。その時霊魂
の奥深く、蓄えられた神の言葉は、が然たち上がってくださるの
です。子供たちがこの尊い栄えある使命に生きるために、十分備
えてやらねばなりません。私はこのことを切実に願いつつ、聖イ
エス会の歴史を書き続けました。
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さて最後に次のことを学びましょう。
「ここに、ヨセフのことを知らない王が、エジプトに起こった。
・・・そこでエジプト人は彼らの上に監督をおき、重い労役を
もって彼らを苦しめた。(出エジプト1:8.11)
創世記を学びますと、エジプトに奴隷として売り渡されたヨセフ
が多くの苦難をへてついに、エジプトの宰相となり、主がヨセフ
と共におられ、彼のなすことをすべて栄えさせられ、エジプトの
王を始め、全国民から 絶大な信任を得たことが記されています。
そしてヨセフの父ヤコブの家のものたちも、エジプトに移住し、
地の最もよいところを与えられ、彼らは栄え、両者は仲よく共存
することが出来ました。
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ヨセフの父ヤコブが亡くなりますとき、彼はカナンの地、父祖の
葬られている墓地に葬って欲しいと遺言いたしました。そのことを
パロに告げますと、パロは快く承諾し、「あなたの父がわたしに誓
わせたように、上っていって、彼を葬りなさい。」と申しました。
「そこでヨセフは父を葬るために、上っていった。彼と共に上っ
たものは、パロのもろもろの家来たち、パロの家の長老たち、ヨアセフ
の全家とその兄弟たち、・・・また戦車と騎兵も彼と共にのぼった
ので、その行列はたいそう盛んであった。」(創世50:6―9)
時代が代わり、ヨセフを知らない王が現れたとき、エジプトで繁栄
しているイスラエルの存在が目障りになったのであります。そして、
彼らに圧力を加え、苦しめ始めたのです。この物語によって、私は
多くのことをこの物語によって、私は多くのことを教えられます。
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この終末時代に立てられている、聖イエス会、群をあげてイスラエル
のため祈っている私共ではありますが、もし時代が代わり、この使命
に対する自覚が薄らぎ、イスラエルのための祈りをおろそかにする
ようなことあがあったらどうなるでしょうか。
たちまち、サタンの働くところとなり、けいりんの歯車は狂い、
停止してしまいます。この大切な時点において、いよいよ固くたって
動かされず、全力を注いで、主の業に励まなればなりません。
この栄えある重大使命を、サタンに奪われないよう、目をさまし、
祈りすすみましょう。
「神よ、わたしが年老いて、白髪となるとも、あなたの力を来たらん
とするすべての代に、宣べ伝えるまで、私を見捨てないでください。」
〈詩編71:81〉
どうか聖イエス会をお守りください。主のご期待に答えるものとなし
たまえ。イスラエル民族が速やかに御名によって、聖霊を受け、主に
あがなわれた民、祭司の国となり、世界宣教にのり出す日が速やかに、
到来いたしますよう、お祈りいたしましょう。
「我が愛するものよ、急いでください。」 (雅歌22:12)
「見よ、私は すぐに来る」 (黙示22:12)
「アーメン、主イエスよ、来たりませ」 (同22:20)
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聖イエス会信徒さんからの情報提供
論文というよりレポートかな??
【聖イエス会 牧師論文】 牧師論文の一部
主の名を呼ぶ 執筆者・・・・・・ 〈第一回〉
目次
緒 論
本 論
第一章 神の名
(1) 神殿
(2) 神の使者 預言者
(3) 神と民との関係
(4) 愛
(5) 聖
(6) 啓示としての名
(7) 聖書以外の資料から…
第二章 主の名を呼ぶ
第三章 主の名を呼んだ人々
(1) 人々(創世4・26)
(2) アブラハム(創世12・8、13・4、21・33)
(3) イサク(創世26・25)
(4) モーセ(出エジプト33・18、34・5)
(5) エリヤ(列王上18・24)
(6) 他
まとめ
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緒論
「すべて主の名を呼ぶ者は救われる」(ヨエル2・32)と、
預言者ヨエルは、迫りくるユダ王国の危機を前にして終末に
おける神の救いを預言した。
イエス・キリストの十字架の贖罪の完成により約束の聖霊が、
ペンテコステの日にエルサレムに注がれたその時、ペテロは
ユダヤ人を前にして、この聖霊の傾注はヨエルの預言の成就
であると訴えた(使徒2・1〜21)。
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「神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべ
ての人に注ごう。……主の大いなる輝かしい日が来る前に、
日はやみに、月は血に変るであろう。そのとき、◦主◦の◦名◦を
◦呼◦び◦求◦め◦る◦者◦は、◦み◦な◦救◦わ◦れ◦るであろう。」
(使徒2・17〜21)
-
また、御名を伝える器(使徒9・5)として主より選ばれた
パウロは、キリスト教神学を確立した書といわれるローマ人
への手紙の中で、「自分の口で、イエスは主(アドナイ)で
あると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみが
えらせたと信じるなら、あなたは救われる。……なぜなら、
『主の御名を呼び求める者は、すべて救われる』とあるからで
ある」(ローマ10・9〜13)と福音を要約した。
-
わたしたちが伝える福音はこれである。聖イエス会に啓示
されたのは、御名の宣教である。イエスの神性とメシヤ性を
信ぜしめ、御名を呼ばしめ、御名によって永遠の命を与えて
救われるべき異邦人の数を満たし、イスラエル十四万四千人を
して、御名を呼ばしめ、彼らに御名を印することである
(黙示7・1〜4)。
-
「人々からでもなく、人によってでもなく」(ガラテヤ1・1)
聖霊によって啓示された御名の福音、「御名は神のペルソナ
そのものであり、御名は実体である。まことに御名は救いの
神秘であるがゆえに、人々はそれを理解し得ないのである」
(注1)との霊父のお言葉のごとく、実際多くの人々はこれを
理解することができずにいるのである。はたして、「主の名を
呼ぶ」ことは、聖イエス会独自の独特の福音なのだろうが。
-
本論文ではこの「主の名を呼ぶ」ということが重要な要素を
占めていたこと、そしてたしかに、この信仰の行為が脈々と
受け継がれていったことを明らかにし、わたしたちに啓示され
た福音が真に聖書的であることを深く知りたい。そしてこの
御名の福音の上に固く立ち、大胆に宣べ伝え、すべての人に、
格別イスラエル人の口をして再び主の名を呼ばしめ、与えられ
た使命を全うするものとなりたい。
-
「その時わたしはもろもろの民に清きくちびるを与え、すべ
て主の名を呼ばせ、心を一つにして主に仕えさせる。」
(ゼパニヤ3・9)
「主は全地の王となられる。その日には、主ひとり、その名
一つのみとなる。」(ゼカリヤ14・9)
お言葉どおりになりますように。
注1 聖イエス会創立者『……集』第12巻「…」47頁 ロゴス社
1988年
ロゴス社…聖イエス会出版局のこと
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本論
第一章 神の名
古来より日本に「名は体をあらわす」という言葉があるが、
新聖書辞典にも「聖書の時代においても名は単に人と人、物と
物を区別するだけではなく帯名者の本質や性格と密接に関連
していた。ことに神格というような強力な人格の場合には、
名はその名で呼ばれる神格そのものの一部、あるいはその神格
の性格・諸能力とみなされた。したがって、名は単なる同定の
ための符丁がもつのとは比較にならないほど次元の高い、実体
性、実質性を持つと考えられたのである(注1)と記されてい
る。
注1 『……』・・・・頁 ・・・・・ ・・・・年
神の「名」(ハッシェーム)はユダヤ人にとり神御自身を意味
するものであり、神の「名」は実体、本質そのものを表し名と
その実体とが一体であることを示している。神は御自身を啓示し
現存を実存的にあらわされるために必ずその「名」を啓示される。
その代表的な具体例を旧約聖書の中に見ることにしよう。
-
(1) 神 殿
「あなたはわたしのために土の祭壇を築き、その上にあなた
の燔祭、酬恩祭、羊、牛をささげなければならない。わたしの
名を覚えさせるすべての所で、わたしはあなたに臨んで、あなた
を祝福するであろう。」(出エジプト20・24)
-
この御言葉は、祭犠が行われる場所に関する最初の主の定めで
あるが、祭壇の役割を表しているといえる。すなわち、祭壇とは、
犠牲がささげられる所であり、わたしの名、主の名を覚えさせる
所である。新共同訳聖書では「わたしの名の唱えられるすべての
場所」(同20・24、新共同訳)と訳されている。このシナイでの
定め以前に、洪水の後、ノアは主のために祭壇を築き犠牲をささ
げた(創世8・20)。またアブラハム(創世12・7〜8)、
イサク(創世26・25)、ヤコブ(創世35・1)も祭壇を築き犠牲
をささげ主の名を呼んだ。
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この定めに従ってモーセの後継者ヨシュアが祭壇を築いた
(ヨシュア8・30〜31)。ダビデは、後に神殿が建設されるモリヤ
の山に「祭壇を築き、燔祭と酬恩祭をささげて、主を呼んだ。」
(歴代上21・26)エリヤはカルメル山に祭壇を築き主の名を呼ん
だ(列王上18章)。
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聖書はまことの神殿であるべき必要条件として神の名、主の名
すなわち聖名(みな)の有無を明らかに述べている。それによる
と次のようである。
① 主の名が置かれ、住まわれ、あるところ(申命12・5、11、
26・2 列王上8・16、29、9・3 歴代下7・16、20・9、33・4、
7 エズラ6・12 イザヤ18・7 エレミヤ3・17)
② 主の名のための宮(列王上3・2、5・3、5、8・17、20
歴代下7・20)
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ソロモンは、エルサレムに聖なる「主の名を置くべき所」である
神殿を建てた(列王上8・29〜30)、御名を崇め(歴代下6・24、
26)、御名を知り、御名と出会うことを祈り、神殿が御名をもって
呼ばれなければならないことを強調した(列王上8・41〜43、
新改訳)。
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以上のことから、真正の神殿とは、石や木の建物ではなく、
主の名のための、主の置かれている所でなければならない。その
意味で新約においては、イエス御自身こそが神殿であった(ヨハネ
1・14、2・19〜21)。それゆえ、人々に神を啓示し、神と出会わす
ことができた。すなわち、御名を現されたのである。「私はあなた
のみ名を現わしました〈あなたの本質そのもの、あなたの真の
本質を啓示しました〉。」(ヨハネ17・6、詳訳)「私はあなたの
み名を彼らに知らせました〈あなたのご性格《あなたご自身》を
啓示しました〉。また私は引き続き〔あなたを〕知らせます。
それはあなたが私に賜わった愛が彼らのうちにあり〈彼らの心に
感ぜられ〉、また私〔自身〕が彼らのうちにいるためであります。」
(同17・26、詳訳)
-
また、御名によって聖霊を受け神の現存を持ったキリスト者
こそは神殿である。「神との全人格的出会いを体験したものは、
神の霊によって新たに生まれ、神の現存を内にもち、すなわち、
生ける神の御名を人格の最も深い所に印され、神ご自身が住み
現存される、まことの神殿とされるのである。これこそは新契
約の奥義である。」(注2)
注2 聖イエス会創立者『…集』第3巻「説教集」…頁 ロゴス社
1978年
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「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの
内に住んでいることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3・16、
新共同訳)「あなたがたは、自分のからだが聖霊の宮〈聖所それ
自体〉であることを知らないのですか。その〔聖霊〕はあなたが
たが神から〔の賜物として〕受けたかたであり、あなたがたの中
に住んでおられるかたなのです。あなたがたは自分自身のもので
はありません。」(Ⅰコリント6・19、詳訳)
そして、天の教会(神殿)は、神の名を印された者によって
構成されるのである(黙示3・10〜13、21・24)。
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(2) 神の使者 預言者
① 神からつかわされた者は主の名を内に持つ者。
出エジプト23・20〜23―――「見よ。わたしは、使いをあなた
の前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを
導いて行かせよう。あなたは、その者にそむいてはならない。わた
しの名がその者のうちにあるので、その者はあなたがたのそむきの
罪を赦さないからである。」(新改訳)
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この御言葉によると主の名をうちに持つ神の使者とは、単なる
使者以上の者、神の代理者であることを教えている。イスラエルは
この使者に目を留め、聞き従わなければならない。
モーセ自身も、御名によって神と出会い、主の名を内に与えられ、
神のごとき者とされ(出エジプト4・16、7・1)、主御自身よりイス
ラエルの民をエジプトから約束の地に導くために遣わされた(出
エジプト3・1〜17)。
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② 神からつかわされた預言者は主の名によって語る。
申命18・15、18、19――「彼はわたしの名によって、わたしの
言葉を語る。」
その他、エズラ5・1、歴代上21・19、歴代下33・18、エレミヤ
26・9、16、20などにも見ることができる。
預言者たちは、主の名によって遣わされ、神より言葉を受けて、
主の名によって神の言葉を語った。
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キリストこそは、人類を罪のエジプトから約束の国、神の国に
導くために、「父の名によって」(ヨハネ5・43)、神から遣わされ
た者(ヨハネ5・38、6・29他)、神の言葉を語られた(ヨハネ5・34)、
モーセが預言した御方であった(ヨハネ5・46、申命18・15)。
そのキリストは「『安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、
わたしもまたあなたがたをつかわす。』そう言って、彼らに息を
吹きかけて仰せになった、『聖霊を受けよ』」(ヨハネ20・21〜22)
と使徒たちに、聖霊の印(Ⅱコリント1・22、エペソ1・13〜14)
-
すなわち、主の名を人格の核心に刻み、キリストの救いの御業
の継承者として、全人類を罪より解放し、約束の国、神の国に
導くためにつかわされたのである。それゆえ、彼らはイエスの
名によって語り、行動し、御名を伝えた(使徒3・16、4・10、
12、18、30、9・15、16、27、16・18、19・5他多数)。
そして終末においてイスラエル14万4千人に神の御名を印
して永遠の生命を与える使徒たちは「生ける神の印を持つ御使」
である(ヨハネ7・1〜8)。
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(3) 神と民との関係
主とイスラエルの民との関係が御名によって表されている。
申命28・10―――「主の名をもって唱えられる。」「主の
御名が付けられる。」(新共同訳)
歴代下7・14―――「主の名をもってとなえられるわたしの
民。」「わたしの名を呼び求めているわたしの民。」(新改訳)
ネヘミヤ1・11―――「あなたの名を恐れることを喜ぶあな
たのしもべ。」
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イザヤ43・7―――「わが名をもってとなえられる者。」
「わたしの名で呼ばれるすべての者。」(新改訳)
エレミヤ14・9―――「われわれは、み名によって呼ばれて
いる者。」
ダニエル9・19―――「あなたの町と、あなたの民は、み名
をもってとなえられているからです。」
-
以上の御言葉から、選民イスラエルとは、主の名をもって呼
ばれる民、主の名を呼ぶ民(詩篇75・1、80・18)である。こ
こに主と選民イスラエルとの親密な特別な関係が表されている。
それは、名工が自分の傑作には名を付けることを恥としないの
に似ている。「あなたの神主は地のおもてのすべての民のうちか
らあなたを選んで、自分の宝の民とされた。主があなたがたを
選ばれた。」(申命7・6〜7)「わたしの名で呼ばれるすべての
者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを
形造り、これを造った。」(イザヤ43・7、新改訳)
-
しかし、異邦人とは、「あなたを知らない国民と、あなたの名
を呼ばない国々」(詩篇79・6)「あなたを知らない国民と、あ
なたの名をとなえない人々」(エレミヤ10・25)と表現されて
いる通り、神の名でもってとなえられない民であるが、経綸の
時が満ちて、その異邦人も、御名を知り、御名を呼ぶことによ
って神との親しい関係に入れられることも約束されている。
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イザヤ56・6〜7―――「また主に連なり、主に仕え、主の
名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを
汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は……わたしはこれをわが
聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる。」
イザヤ65・1―――「わたしはわが名を呼ばなかった国民に
言った、『わたしはここにいる、わたしはここにいる』と。」
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アモス9・11〜12―――「『その日には、わたしはダビデの
倒れた幕屋を興し、その破損を繕い、そのくずれた所を興し、
これを昔の時のように建てる。これは彼らがエドムの残った者、
およびわが名をもって呼ばれるすべての国民を所有するため
である』とこの事をなされる主は言われる。」
-
実際にキリストの十字架の贖いによって、異邦人が聖霊を
受けていった時、使徒行伝第15章16節から18節において、
ヤコブは上記のアモスの言葉を引用して異邦人も聖霊を受ける
ことによって「御名を負う民」(使徒15・14)すなわち、主
の名をもってとなえられる民となることを言及した。
-
「御名を負う民」とは、神との特別な関係とされたことを
意味する。「本来御名を負うとは、神の御名を印され、神と
一体とされた者のことである。」(注3)ヨハネが見せられた
新しいエルサレムで神の御顔を仰ぎみるという、神との全く
親しい関係にある人々の額には御名が印されている(黙示21・4)。
注3 聖イエス会創立者『……集』第11巻「イザヤ終末論」…頁
ロゴス社 ……年
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(4) 愛
御名は愛されるべきもの。
詩篇5・11―――「み名を愛する者があなたによって喜び
を得るように。」
詩篇69・35〜36―――「神はシオンを救い、ユダの町々を
建て直されるからである。そのしもべらはそこに住んでこれを
所有し、そのしもべらの子孫はこれを継ぎ、み名を愛する者は
そこに住むであろう。」
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詩篇119・132―――「み名を愛する者に常にされるように、
わたしをかえりみ、わたしをあわれんでください。」
イザヤ56・6―――「また主に連なり、主に仕え、主の名を
愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さ
ず、わが契約を堅く守る異邦人は……」
「イスラエル人にとっては、主(アドナイ)と御名(ハッシェ
ーム)とは同一であり、ハッシェームすなわち主に他ならない。」
(注3)御名を愛することは主を愛することである。「いと甘美
なるイエスス(イエス???)を、心の中に堅持せよ。そして、
至愛なるみ名を絶えず呼ぶことによって、彼への言うべからざる
愛で燃やされよ。」(注4)
注4 ・・・・・・…頁 … 1978年
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(5) 聖
「聖なる名」という表現は以下の聖書の箇所にある。
詩篇30・4、33・21、103・1、105・3、106・47、111・9
イザヤ29・23―――「わたしの名を聖とし、ヤコブの聖なる
方を聖とし。」(新改訳)
その他エゼキエル20・39、36・21〜23、39・7、25、アモス2・7
にもある。
また、“聖”こそは名であるとも記されている(イザヤ57・15)。
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(6) 啓示としての名
天地を創造された神の名は、人間が作ったのではない。他の神々は、
人間に名をつけられたのであり、ここに大きな違いがある。神は名を
啓示することによって御自身を啓示されるのである(出エジプト6・2〜3)。
その場合の神の名は、単なる神の呼称としての名以上のもの、神性の
啓示が見られる。
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旧約聖書においては、
「我は全能の神なり」(創世17・1、35・11)
「我は有りて在る者なり」(出エジプト3・14)
「我はシャロンの野花、谷のゆりなり」(雅歌2・1)
「我は主なり」(申命32・39)(イザヤ43・13他)
新約聖書においては、
「言(ことば)は神なり」(ヨハネ1・1)
「我は命のパンなり」(ヨハネ6・35)
「我は世の光なり」(ヨハネ8・12)
「我は復活(よみがえり)なり命なり」(ヨハネ11・25)
「我は道なり真理なり命なり」(ヨハネ14・6)
「神は愛なり」(Ⅰヨハネ4・16)
「我は初めなり終わりなり」(黙示22・13、イザヤ44・6)
「我は輝ける明けの明星なり」(黙示22・16)
の12の御名がある。
-
(7) 聖書以外の資料から“………”
……(YHWH あるいは、一般にキリスト教徒の中に受けいれられて
いるヤーウェ)は、旧約聖書における神の名として一番多く用いられて
いる名である。この名はイエスラエルの神の固有の名である。「ヤーウェ、
これこそ永遠に神の名であり、神にふさわしき名である。この名こそまこ
とに神の御本性、御本質を最も深く、完全に表していると思われる。」
(注5)
(注5) 『…』第…号 …「我は有りて在る者なり」…頁 ロゴス社
この名に関して、 The Jewish Encyclopedia(以下、「ジュダイカ」)
(注6)にタルムードが引用され次のようなことが記されている。
(注6) The Jewish Encyclopedia.pp.162ff.Ktav Publishing House,
Inc.
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「この名は、少なくとも紀元前3世紀には、出エジプト第20章
7節 また、レビ記第24章11節の極端な解釈にしたがって、ユダ
ヤ人にはだれも言い表すことのできない名として考えられていた。
『YHWH』は固有の『名』として考えられ、初期のラビ達の文献
では『HASHEM(御名)』のみで、またShem ha-Meyuhad
『独特な名』(Sifre, Num.143)、Shem ha-Meforash
『神のあきらかな名前』(Yoma vi 2)、Shem ben ArbaOtiyyot
『四文字の名』(Kiddushin 71a)で知られている。
-
この名は、神殿における祭司だけが人々を祝福する時に用い(民数
6・22〜27)、神殿以外では彼らは、
アドナイを用いた(Sotah vii. 6;p,38a)。大祭司は、ヨムキップルに
10回、この名を唱えた(Tosefta, Yoma, ii.; 39b)。
偉大な大祭司シメオンの死後、神殿崩壊の40年より前に、祭司たち
は名の発音を止めた(Yoma 39b)。また、その時から、名の発音は禁ぜ
られた『だれでも神名を発音するものは、未来の祝福を失う』
(Sanhedrin. 6・1)。テラジオンの子ハナニアは名の発音を教えたこと
により罰せられた(‘Abodat Zarah 17b’)」(注7)
(注7)ジュダイカには以下より引用されている。
Hebrew-EnglishEdition of Babylonian Talmud. London:
The Soncino Press. 1984年
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(3) イサク
「それで彼はその所に祭壇を築いて、主の名を呼び、そこに
天幕を張った。またイサクのしもべたちはそこに一つの井戸を
掘った。」(創世26・25)
-
長い苦しい戦い(争わないための)試練ともいえる出来事
(創世26・12〜22)に勝利を得て後、ベエルシバで神はイサクに
顕現される(同26・23)。そして、父アブラハムとその子孫との
契約の更新のための言葉を聞いた(同26・24)。彼は神の恵みと
契約に感謝して祭壇を築き主の名を呼んだ(同26・25)。それは
全く父と同じであった(同12・8、13・4、18、21・33)。まこと
にイサクの偉大さはその父アブラハムに全く従ったことである。
-
そして、彼もまた、「我は全能の神なり」(同17・1)との御名
によって神との出会いを体験し(出エジプト6・2)、御名を宣べ
伝えていったのである。このゆえに、父アブラハムが人々から
受けた同じ賛辞(創世21・22)を、彼も受けるのである「われ
われは(確かに)主があなたと共におられるのを、はっきり
見ました」(同26・28)と。彼こそは実に「アブラハムの子」
(ヨハネ8・39)である。
-
ヤコブが主の名を呼んだということは、聖書に記されてい
ない。しかし、彼もアブラハム、イサクのように「我は全能
の神なり」(創世17・1)との御名によって神との出会いを
体験し(同35・11、48・3、出エジプト6・2)、アブラハム
のようにヤコブからイスラエルに名を変え、全人格的な変革
を体験した(創世32・18、35・10)。これらのことを考える
と彼も主の名を呼んだに違いない。
-
このように「主の名を呼ぶ」ことは、アブラハム、イサク、
ヤコブと、信仰の父祖たちに確実に受け継がれていったので
ある。
-
ヤコブに関してラビの次のような解釈がある。
「ヤコブに関して聖書はアブラハムやイサクのように主の
名を呼んだことが記されていない。というのは、彼は、カナン
の土地の人々の前に主の名を呼んだのである。彼はたくさんの
子供をもうけた――彼らは皆、神を礼拝する者であった――
彼らは、イスラエル民族と呼ばれる偉大な社会となった。
-
彼らをとおして信仰は宣べ伝えられ、そして全ての人に知られ
るようになった。」(注1)
注1 Ramban.Commentary on the Torah. Genesis,
P.172. Shilo Publishing House, Inc. 1974年
-
によって神との出会いを体験し(出エジプト6・2)、御名を宣べ
伝えていったのである。このゆえに、父アブラハムが人々から
受けた同じ賛辞(創世21・22)を、彼も受けるのである「われ
われは(確かに)主があなたと共におられるのを、はっきり見ま
した」(同26・28)と。彼こそは実に「アブラハムの子」(ヨハネ
8・39)である。
-
ヤコブが主の名を呼んだということは、聖書に記されていない。
しかし、彼もアブラハム、イサクのように「我は全能の神なり」
(創世17・1)との御名によって神との出会いを体験し(同35・11、
48・3、出エジプト6・2)、アブラハムのように
-
まとめ
イスラエル人にとって、「主の名を呼ぶ」ということは、非常に
重要な信仰の行為であった。それは、アダムに始まり父祖伝承の
ものであった。主の名を呼ぶ時に、主は御自身の現存を現され、
救い、清め、癒される。すなわち、「すべて主の名を呼ぶ者は救わ
れる」のである(ヨエル2・32)。
-
これこそは使徒伝承の福音であった。ペテロがペンテコステを
体験して、すなわち聖霊を受け、神の現存をいただいた時、彼は
ヨエルの預言を引用して(ヨエル2・28〜32)、御名の福音を
宣べ伝えた。「神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの男女
の僕(しもべ)たちにもわたしの霊を注ごう。……主の大いなる
輝かしい日が来る前に、日はやみに月は血に変るであろう。その
とき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう」
(使徒2・17〜21)と。
-
また、主は言われた、「さあ行きなさい。あの人は、異邦人たち、
王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として
わたしが選んだ者である。」(同9・15)
-
「このように初代の使徒たちは、キリスト教や、神学などを
伝えたのではない。彼らはキリスト御自身を御名を伝えたのである。
これが福音の源流であり、奥義である。
-
キリスト教はやがて、ヨーロッパに伝えられ、膨大な組織を持つ
教団となった。そして、次第に世俗と妥協し、ついに形式化されて
しまい、もはや福音ではなく、キリスト教を伝えるにとどまってし
まった。
-
しかし使徒伝承の福音は、あたかも地下水のごとく、いく
たびも、宗教改革となり、時には地上に噴水のごとく吹きあがり、
また地下にもぐりついに終末に至ってしまったのである。かくして、
神の経綸が実現すべき時がきた。1938年1月9日夜7時、復活の
キリストが忽然とわたしの面前に顕現された。
-
キリストは息を吹きかけて仰せになった。『聖霊を受けよ!』吹き
かけられた息のなかより突然サファイアのごときものが現れた。その
発行体は言(ことば)という文字であった。
-
その言(ことば)は、
わたしに近づき、わたしの腹のなかに止まった。その瞬間、キリスト
は御自身の神性の栄光を鮮やかに啓示された。言(ことば)、ロゴス、
キリスト、神、聖霊、三位一体、実体、
言(ことば)は神なり(ヨハネ1・1)。
-
おお、わたしは神に出会った。御名は実体であった。御名は神の
自己啓示であった。御名は神のペルソナ、御名は神であった。これが
内に命があった。おお、命、永遠の命。
-
主は言われた。『この聖霊は、イスラエルのためである』と。」
(注1) 聖イエス会創立者 説教「御名を追う民」 1985年
神は「倒れたダビデの幕屋」を建て直すために(使徒15・16)、
「御名を負う」(同15・14)神の人を選ばれたのである。この瞬間
より、御名の福音は、ゴールであるイスラエルを目指して、流れ始
めたのである。
-
「昭和27年、高浜での聖霊傾注は画期的な新しい聖霊時代をもた
らした。使徒の内より流出する聖霊が、会衆一同に注がれ、会衆も
共に御名を呼び、その御名を受けた霊魂の内より御名が川となって
流出するということは聖書に明言されているがその秘義が明らかに
されました(ヨハネ4・14)。『祭の終りの大事な日に、イエスは立
って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところに
きて飲むがよい。わたしを信じる者は聖書に書いてあるとおり、
その腹から生ける水(聖霊)が川となって流れ出る。」』
(ヨハネ7・37〜38)」(注2)
注2 聖イエス会発行の情報情報誌 … ロゴス社 …年
-
それゆえ、わたしたちは神との出会いを求め、永遠の命である聖霊
を求めて、主の名を呼ぼう。「ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。
同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに
恵んで下さるからである。なぜなら、『主の名を呼び求める者は、すべて
救われる』とあるからである。」(ローマ10・12、13)
-
しかし、わたしたちは、ただ救いを求めて主の名を呼ぶということに
終わってはならない。なぜなら、「呼ぶ」(…)は、その後に直接名詞を
とることによって、「宣言する」という意味もあるからである。
-
御名によって神との出会いを体験したモーセが「わたしは主の名を
のべよう、われわれの神に栄光を帰せよ」(申命32・3〜4)とイスラ
エルの民の祝福を、御名によって祈ったごとく(民数6・22〜27)、
わたしたちにも同じ使命がある。
-
それゆえ、わたしたちは十字架のキリストとの神秘的な一致により、
無(ケノーシス)とされ、神の完全な道具とならねばならない。イエ
スは人性においては全くわたしたち人間と異なるところのない方であ
られた。
-
しかし、「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しく
あることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして
僕(しもべ)のかたちをとり、人間の姿になられた。
-
その有様な人と異な
らず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで
従順であられた。
-
それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる
名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上の
もの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる
舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に
帰するためである」(ピリピ2・6〜11)とのみ言葉のごとく、完全に
御自分を無(ケノーシス)とされ、その人性が完全な神性の道具となり
きっていたので、新約の大祭司であられるイエスが御名を宣言されると、
そこに主の現存と力が外に現れ、驚くべき御業が展開していったので
ある。
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使徒はもう一人のキリストである。またキリストは、「わたしたちを
愛し、その血によってわたしたちを罪から開放し、わたしたちを、その
父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さった」(黙示1・5〜6)
のであるから、主の名を宣言することにより、人々に、格別イスラエル
14万4千人に、神を示し、神を与える真の祭司とならねばならない(同
7・1〜4)。
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