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【コピペ】政治経済スレ【専用】

242時事専修:2011/01/21(金) 23:28:19
【歴史】 清国の全権大使李鴻章の治療記録が見つかる。明治政府高官の涙ぐましい努力、側面史として貴重な資料に [01/21]

★李鴻章治療記録 旧鹿島藩士宅に

鹿島市の旧鹿島藩士の家に、日清講和交渉で山口県下関市滞在中の
清国の全権大使李鴻章(1823〜1901)が暴漢に短銃で狙撃され
顔面に重傷を負った際の治療にかかわる詳細な記録文書があることが分かった。
国際的な干渉を恐れ、日本が思惑通りに講和を進めようと、
必死な様子がうかがえ、側面史として貴重な史料と専門家は見ている。(長沢豊)

 李は1895年春、日清戦争の講和交渉のため、全権大使として日本に送り込まれた。
交渉場所は下関市の春帆楼。3月24日午後3時、李と内閣総理大臣の伊藤博文、
外務大臣の陸奥宗光が3回目の会談を終え、李が宿舎の引接寺(いん・じょう・じ)に戻る途中、
小山豊太郎に狙撃され、「国際事変」一歩手前の重大な事件となった。

 記録は「李鴻章遭難慰問」と題され、襲撃の翌日25日から4月1日までの李の容体が
詳しく書かれていた。半紙11枚分に瓦版印刷されていた。
注目されるのは3月28日から31日までの病床日誌。
それによると、狙撃されたのは左目近くの顔面。
襲撃直後の傷口や治療後、腫れがひき、傷口が小さくなっている様子。
さらに弾の発射前の形と顔に撃ち込んだ弾がつぶれた様子が実寸大で描かれていた。

 治療の記述には、弾丸を顔に残したままにするかどうかの判断を下す記述もある。
先例から弾丸を残したままにしておいても「後害」はないと、したことなどが記録されていた。
 また、治療にあたったのは陸軍軍医監の佐藤進とされていたが、
これ以外にも日本人軍医やドイツ人医師「スクリパ」も手当てしていたことが書かれていた。
ほかにも体温や脈拍記録、滋養のため、牛乳や中国のスープを飲んでいることなども記述されていた。

 旧鹿島藩最後の藩主鍋島直彬(なお・よし)(1843〜1915)が、
貴族院議員だったことから文書が残されていたと見られる。
直彬は文書収集に熱心な人物として知られ、
家老職原忠順(1834〜1894)の縁戚筋だった西岡家に残されていた。

 鹿島市民図書館の江島美央学芸員は「東京は戦災などに見舞われ、
それまで残されていた文書が燃えたり、散逸したりした。
東京から離れた鹿島だから文書が残ったといえるのではないか」と話す。

 ●関西大学文学部松浦章教授(中国史)の話  
 交渉分裂を避けるため、当時の明治政府高官が、必死に李の「ご機嫌」を取り、
李を帰国させないようにするために涙ぐましい努力をしていたことをうかがわせる。
狙撃事件後の詳しい李の病床経過もよく分かり、側面史として貴重な文書ではないか。

 ●佐賀大学文化教育学部佐々木揚教授(日清戦争史)の話 
 文書は講和条約に至る経過が根底から覆ってしまうという史料ではないが、
李の治療経過は当時の医療史を研究する際に興味を抱かせる。

ソース 朝日新聞 2011年01月21日
http://mytown.asahi.com/saga/news.php?k_id=42000001101210003


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