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日本茶掲示板同窓会
241
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キラーカーン
:2018/03/07(水) 00:41:10
8.3.6. まとめ
大日本帝国憲法の規定は簡潔であったため、幅広い政治体制の包含が可能であった。特に、大日本帝国憲法には「内閣」や「内閣総理大臣」という文言すらなく、「国務大臣及び枢密顧問」として第五十五条第一項に「國務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ズ」、同第二項に「凡テ法律勅令其ノ他國務ニ關ル詔勅ハ國務大臣ノ副署ヲ要ス」とのみ規定されているだけである。したがって、内閣の性格はその時々の政治情勢によって変化し得る体制であった。これが、大日本帝国憲法体制において幅広い政体を採ることができる要因でもあった。
また、「元老」という憲法に規定のない「政治面での天皇の代行者」というべき存在もあり、元老と内閣との関係ひいては天皇大権の行使と内閣の権限行使の態様も両者の力関係により変化した。現実の歴史に見るように、大日本帝国体制下における内閣は(選挙を経ない疑似)大統領制的内閣である超然内閣から議院内閣制まで多様な形態を採り得た(「図3」のレベル2からレベル5)。このように憲法上許容される政体の幅が広いのも大日本帝国憲法体制の特徴である。大日本帝国憲法体制における政権交代、特に「山縣スタイル」の内閣を樹立するためには、タイのように「クーデター⇒民政移管⇒クーデター⇒以下繰り返し」のように憲法改正或いはクーデターを必要とする。
しかし、大日本帝国憲法体制においては、「平穏」な通常の政権交代手続で可能であった。そして、現代においても「平穏且つ公然、そして合法的で体制変革を伴わない」正規の政権交代としてある買われている。このような「柔軟な政権交代構造」により、クーデターや革命或いは憲法改正を経ずに政治状況に応じ最適な政権形態を選択することが可能であった。
この結果、非選出勢力との政権交代構造を維持することで立憲政友会に代表される選出勢力が政権担当能力を身に着ける時間を稼ぐことができ、他国に比べれば、円滑或いは平穏に権威主義体制路言ってもよい超然内閣から「憲政の常道」までの政治体制変革を成し遂げることができた。
もう一つの効果として、その時点における政治体制を憲法の枠に縛られず「自由」に選択できるということが挙げられる。諸般の事情から、政党内閣ではなく「各政党から中立な超然内閣」という選挙管理内閣で「政権選択選挙」を行い、その結果を見定めてから民選内閣制に移行するという手法も「当たり前のように」可能となる。これは、大日本帝国憲法体制下において西園寺が清浦内閣で使った手法でもある。また、類例は、現代のイタリアでも見られる(例モンティ内閣(2011〜2013年)。。
このように、「1900年体制」はサルトーリが提唱した「交代大統領制」という概念を先取りしたものである。この観点からも、「1900年体制」特に「山縣スタイル」に代表される現役軍人首相(内閣)の果たした役割を「非民主主義的で権威主義的体制」であるとの否定的側面だけではなく、円滑に憲政の常道にまで移行させたという観点からの再評価をすべきではないかと思われる。実際に、政党政治家は元老、特に山縣という「巨大な壁」に挑むことで政権能力を身に着け「憲政の常道」時代を自らの力で引き寄せたのであった。
そして、現在、俗に「右傾化」(本稿では「ネトウヨ化」)と言われているものの要因とされてきた、「大統領制化」と「リベラル・左派の暴走・自滅」によってなされた「敵味方」を峻別する「1ビット脳的政治」によってもたらされた修復不能とも見える分断による隘路を潜り抜け、国民或いは国家統合を回復するための手掛かりを「1900年体制」は示しているのかもしれない。
242
:
キラーカーン
:2018/03/07(水) 00:45:37
長くなりましたが、これで終わりです。
実際には、ここに書き込んでから修正した個所は多多あります。
また、ここには掲載できませんでしたが、図表や脚注、参考URL
などもあります。
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